<<Clava>>


  何のために祝されているのか判らない、と目の前の細い背中が言った。
  同じ疑問を抱いて、気付けば三十数回それを繰り返していると言った。
 「目出度い」
  何が、何のために。
  愚痴られたダインにも判らない。
  顔を合わせると誰もが口々に言うのだから、今日は確かに、何かが目出度いのだろう。一つ覚えで何度も何度も聞かされ続ければ、聞かされているだけの身でも僅かにそんな心持がしてくるのだから不思議だ。刷り込みとでも言うものなのかもしれない。
  何が目出度いのかダインにもやっぱり理解出来かねるけれども。
 「目出度い」
  皇都である。
  エスタッド皇の護衛の任についている。
  都随一の護りを誇るディクスは、所用があるとかで、代わりにダインが抜擢された。
  抜擢、と言うよりはエスタッド皇の鶴の一声である。ダイン自身は白羽の矢が立ったと思っている。
  正直目の前の皇帝は苦手だ。
  何を考えているのかまるで理解できないし、こちらが理解しようとする譲歩を許さないようなところがある。突拍子もないとでも言おうか、奇抜とでも言おうか、次の立ち居振る舞い発言に至るまで、度肝を抜かれることの連続である。
  育ちは確かに良い。
  けれど、育ちの良さによる、「世間ずれしていない」と言う物ともまた微妙に異なって、皇帝は己の発言によるこちら側の気苦労や手間暇を、判っていて行っている節がある。
  と言うより、はっきりと理解しているだろう。要するに意地が悪いのだ。
  加えてダインは、皇帝の所謂「異父兄弟」に当たる、妹将軍と友情以上の親交がある。友情以上と言うよりは、戦場はともかく皇都に至ってはほとんど彼女の屋敷に入り浸っているようなものだったから、同棲していると明言しても差し障りは無い。
  つまり、皇帝が突く話題には事欠かないのだ。
  ダインは傭兵出身だ。守銭奴、だとか言う割とありがたくもない二つ名まで貰っていたこともある。金と命を天秤にかけて金を選んだ。
  金を手にして何がしたかった訳でもない。敢えて理由を付けるなら、無性に何かに飢えていた。退屈な日常が嫌いだった。憂さを晴らすためなら、死ぬか生きるかの瀬戸際を繰り返す戦場に身を置いていた方が、気が楽だったのだ。
  風のむくまま気の向くままの傭兵稼業から現在の騎士職へ乗り換えたのは、エスタッド皇国への愛国心でも義侠心でも何でもない、そこにミルキィユがいたからだ。
  おかげで慣れもしないような爵位とやらを授けられて、皇帝への忠義を誓わされた。その修養期間――見習い騎士全般の知識とやらを覚える期間――に、終始張り付いて、忙しいはずの皇帝がダインを弄り遊んでいたことは、未だに彼のトラウマである。
  夢にまでうなされた。涙ぐましい努力だと褒めてもらいたい。
  おかげで苦手意識がはっきりと確立されて、皇帝に出来ることなら関わりたくない。しかしその苦手な男は、大切な女性のたった一人の肉親でもあって、大っぴらに敬遠するのも気が引ける。建前と言うものもある。微妙なところなのだ。
  皇帝はそれを知っている。
  知っていて、彼を何かと呼び寄せてはこき使うのである。
  今回の任も、声がかかったときにダインは回れ右で戦場へ逃げ出そうと思ったぐらいだ。
  残念ながら、現在交戦している地域がなかった。
  渋々皇宮に顔を出してみると、待ち構えていたセヴィニアに、ディクスの代理で護衛に当たれと有無を言わさず告げられ、本気で逃げ出したくなった。
  この際、苦手な皇帝に近付くことは我慢する。ある程度以上のからかいの言葉を投げかけられるであろうことにも、耐えようと思う。比較的気ままな傭兵稼業から、皇国勤めの騎士に替わった時、今までのような自由勝手が利かなくなると言うことも承知していた。
  けれど、ディクスの身代わりと言うのだけはいただけない。
  護衛と言うのは文字通り、主へ付き従い、見張り、守るものだ。護り切ってこその「護衛」である訳で、最終の駒の皇帝へ王手をかけさせてしまってはその意味を失う。
  その面で、ディクスは鉄壁だった。
  この二十年近く、皇宮への襲撃者はいくらでもいたし、中には皇帝の目前まで迫った強者もいたものの、ディクスはそれをことごとく退けている。皇帝の体に傷を負わせるまでに至ったのは、彼の不在のその日だけ。
  つまり、
 「ディクスがいない=絶好の機会」
  と言う訳で、代理を任せられたダインは泣きたくなったのも推して知るべし。
  数日前からほぼ不眠不休で、護衛兵の一隊を取り仕切り、皇宮の不審物を除去し、見張りを増やし意識を高め、いっそ誰かに褒めてもらってもよいほどに実に真面目に働いた。
  任から解かれたらすぐにでも思い切り寝てやろうと思う。
  今日が本番の生誕祭だ。
  生誕。
  目の前の皇帝の、生まれた日ということになる。
 「……目出度い」
  駄目押しで三度目を呟いて、とうとう皇帝が溜息を吐き、脇に設えた椅子に腰を下ろした。控え室のバルコニーから階下を眺めている。
  先ほど三度目の一般参賀を終わらせてきたところだ。ちなみに本日は後二回、国民への顔見せの義務が残っている。通常立ち入り禁止区域の皇宮大広場まで民衆を入場許可して、高台から皇帝が顔を見せ、歓呼に応える。毎年の風景だ。定住しており、城下町の所謂
 「壁の中」
  に住むことを許されている皇国民ですら、ほとんど唯一と言って良い己らの領主をまじと観られる機会であり、また、「性が逆であったら確実に傾国」と名高いその相貌を一目収めて酒の肴にしようと、老若男女が押し寄せていた。
  その民衆へ一定時間、穏やかな微笑でもって皇帝は手を上げる。常日頃の他人への無愛想さを知っているダインにしてみれば、いっそ薄ら寒いほどの擬態だ。本音と建前と言う言葉をこれほどうまく体現している者もないのではないか。そんな風にも思う。
  けぶるような視線の上瞼へうっすらと化粧を施され、もとより肌は透けるように白い。なだれ落ちる栗毛は、いつにもまして女官が丁寧に梳り、陽光に煌めいている。薄紫の礼服の上に濃い青の外套をゆったりと羽織り、それが控え目な笑いの一つでも浮かべて手を振れば、十中八九、相手は落ちるのではないかと――割と皇帝の本音の部分を知っているダインですらそう思うのだから、建前しか知らされない民衆にとっては何をかいわんや。
  それで良い、ともダインは思う。
  普段の暮らしに、主は必要ないのだ。
  こうして時折姿を見せ、その存在を知らしめるだけで、日常エスタッド皇がどのようにして生活に関わっているのか判らない。
  逆に皇帝は民衆の個の生活ぶりまでは知らないし、必要がないとまでは言わずとも、知らなくても良いことだと思っている。個を一つの群れと見た時の動かし方を皇帝は常に考えており、そうでなくては政治は動かないからだ。

  ここまでが、説明。

  エスタッド皇、本日ひどく不機嫌である。
  最近割に機嫌の良い顔を見ることが多かったので、ここまで不快な顔を目にするのはダインにとっても久しぶりだ。
  嬉しくもなんともなかったけれど。
 「旦那」
  ちなみに今この控えの間には、他人の目は無い。形ばかり人前では畏まった礼を取っているダインも、皇帝と二人きりの時は別だ。
 「――うん、」
  皇帝が、建前の礼儀に拘る性格ではないのをダインは知っていたし、何より皇帝自身がそう望んでいる節がある。ぶっきら棒な応対が好きなのかどうかは判らない。格式ばった言葉使いで互いに話すよりは、幾分か皇帝の機嫌がマシ、と言う程度のものだ。
 「ちっちゃい嬢ちゃんを見かけねェが、どこへやったんだ?」
 「さぁ」
  バルコニーに立った愛想の欠片すらそこにはない。
 「用事を言いつけた訳じゃねェのか」
 「朝からどこかへ出かけて行ったが」
 「どこか?」
 「行先までは知らぬよ。ただ、半日ばかり留守をする、と」
 「へぇ」
 「息抜きに街へでも足を延ばしているのではないかな」
 「……アンタの誕生日に?」
 「この年で誕生など」
  大して面白くもなさそうな顔で、皇帝が一つ笑う。
 「何を祝う」
 「……何なんだろうな?」
  聞かれたダインにも答えがある訳ではない。次の一般参賀まではまだ少し時間があり、黙りこくって間を潰すよりは、仮令からかわれたとしても、会話があった方が退屈しないと思って選んだ話題だった。
 「よく判らねェが、人間が一人生まれたのだから目出度い日なんじゃねェか」
 「目出度い、ね」
  四度目。繰り返した皇帝の唇には冷笑が浮かんでいる。
 「ダイン卿」
 「ん?」
 「君は枕元で、自分の葬儀を打ち合わせている会話を――耳にしたことはあるかな」
 「……いや、まだない」
  幸運なことに、とおどけて付け加えようかダインは一瞬悩んで、止めておくことにした。きっとエスタッド皇は、それこそ「己の葬儀」を「覚えてしまえるほど」何度も繰り返し無意識の内に、聞かされ続けてきたに違いないと思ったからだ。
 「年に一度のお仕着せの生誕祭など。――常の葬儀の手配の方が、綿密に思う」
  皮肉に歪められた皇帝に疲労の色が滲んでいる。これで今から二度の一般参賀と、その後の夜会をこなさなければ私室にすら向かえないのだから、機嫌が悪くなる程度、可愛げがあると言えるのかもしれない。ふとダインは思った。
 「旦那の枕元でそんな莫迦ブチ撒けてるのはどこのどいつだよ」
 「――三補佐が筆頭かな」
 「……」
  皇帝が苦手かどうかはともかく、ダインの感覚として許せない部類の話は聞き捨てがならない。いっそその「莫迦」をブン殴ってやろうと口にしたが、流石に三補佐を殴ると色々と支障が出るように思う。
  アウグスタ補佐官はがっしりとした体つきで、縦にも横にもダインに似ている。負けるかどうかまでは考えなかったけれど、反撃がありそうでできれば避けたい。
  セヴィニア補佐官は個人的に怖い。無機質な仕事人間、で済めばよいのだが、個人的に恨みを買うと、陰湿にしっかり報復してくる予感がある。
  ノイエ補佐官はダインより若い。殴りやすさで考えれば、反撃も、陰湿な報復もあまり思いつかない、一番「易い」相手ではあるが、文官体型を殴る図は、客観的にあまり見目の良いものではない。
  どうにも三者三様、殴り難い。
 「そういや、嬢ちゃん、街に出たとか言ってたな?」
  がりりと頭を掻いて、ダインはあからさまな話題転換を試みる。
 「『ではなかろうか』、その程度の推測だよ」
 「どうやって?」
 「――うん、……?」
 「今日はどこもかしこもびっちり警備で固めてて、出るのはともかく、入ってくるにゃそれなりな許可が必要だぜ?」
 「下働きの彼らが使用する出入り口があるだろう」
  さすがに、表門からチャトラが出て行ったとは考えにくい。
 「そうなんだけどよ。そこの警備が一番ユルくなりそうで厄介だったからな、どうしても必要な出入り以外は、あのヒトらにここ数日は泊まり込みでお願いしてんだよ」
 「ふむ」
  裏口の警備にダインはかなりの気を使った。
  ただでさえ、祭で浮き足立つ皇宮である。まして、荷物を含め複数の人間が行き交い、どさくさに紛れて良からぬ人物が紛れていようと、一番に判りにくい用途門である。常でさえ、警備のものと特別な役職のもの以外は皇宮内での帯剣を禁じられているけれど、今日は輪にかけて身体検査まで行った。ほとんどペーパーナイフに近い護身用の短剣まで没収したのだ。
  そこまで神経質になったとしても、裏用途門からの――例えば果物が入っている木箱の底や根菜類の麻袋の中――に一本獲物を忍ばせられる危険もある。
  皇宮勤めが長く、下働きのほとんどの顔を覚えている兵士を数人配備し、必要最低限以外、何人たりとも聖誕祭が終わる刻限までの出入りを禁じた。原則的に言えば、出ていくことは容易である。入ってこられないだけだ。
  そう説明したダインに、聞いてる途中で皇帝が薄く口の端を上げて見せた。
 「おかしいか」
 「ダイン卿は神経質なことだね」
 「……神経質って、アンタの警護を任せられてるんだから当然だろう」
 「水も漏らさぬ構えなど、君の胃に穴が開くだけで不可能に思えるのだが」
 「まぁ、そうだろうな」
  あっさりとその言い分も認める。なにしろ、どんなに禁じたところで皇宮は広い。そうして起居する人数が多すぎる。全てを把握することは結局一人の人間には無理な話だし、どちらかと言えば護衛する対象の皇帝をどこかへ隠してしまった方が、安全かつ完璧な話である。
 「いいんだよ俺が半分自己満足のためにそこまで徹底的にやってるんだから」
 「なるほど」
  肩を竦めて応えると納得したのか、皇帝が頷いた。
  そうして考えてみると、ディスクの護衛の仕方は割と理に適っているとダインは思う。彼は端から皇宮の警備を信用していない。ディクスは武官であって文官ではない。人員配置に心を砕く代わりに、彼の手の届く範囲、正確に言えば彼の愛用の剣の届く範囲「だけ」は、着実に守ってみせるのだ。
  であるから、決して皇帝から離れない。
  着ている鎧の色も相まって、影法師のように見える時がある。
 「好奇心から聞くけどよ、アンタは死ぬのが怖いか?」
 「質問の意図が判らないね」
 「いくらディクスの旦那が守ってるって言ったってよ、あの人が守りきれなくなったらアンタは殺される訳だろ」
 「死ぬのは――どうかな」
  一瞬皇帝が考える節があって、ダインは意外に感じた。
 「何だ」
 「――何だ、とは」
 「アンタのことだから、『どうせ死んだも同然の体だから』、だとかあっさり言うかと思ったんだけどな」
 「――それも間違っている訳ではないのだけれどね」
  こちらに背を向け、外を見下ろした姿から微かに笑った気配がする。
 「だけど?」
 「最近死ぬのが惜しい」
 「へぇ」
  感心したような、呆れたような、判別のつかない声が出た。
 「アンタがそう言うのは」
 「――柄ではない――?」
 「だなぁ」
  そうかもしれないね。
  不意の突風に、彼の中身のない左肩口が、頼りなくひらひらと揺れた。
 「惜しい、と言うものとは少し違うのだけれど――『猫』が」
 「……嬢ちゃん?」
  その名が出たことが意外に思って、ダインは繰り返す。
 「そう。――あれが面白くて見飽きない。思いもよらぬ反応をする。死ぬのは別段怖くもないが、もう少しあれを眺めていられたら、とも思う」
  予てよりダインが尋ねてみたかったことだった。チャトラの名が口に上ったのをいいことに、ダインはためしに聞いてみる。
 「……アンタは、お嬢ちゃんのことどう思ってんだ?」
 「どう、とは」
  聞かれた内容が本当に判らなかったのだろう、問いかける視線で皇帝が振り向いた。
 「アンタの気紛れはいつものことだけどな、今回は、その気紛れが結構長続きしてると俺ァ思う」
 「そうかな」
 「そうかな、じゃねェェェ」
  自覚のない行為のおかげで、一体どれほど周りが、毎回苦労させられているか。そういうところだけ育ちの良い無自覚を装うのだから、本当に意地が悪い。
 「アンタが気まぐれに遊んで飽きた動物だの人間だのの、厄介払いの後始末の話、ツツけばボロボロでてくるぜェ?」
  西方の由緒正しい家柄の令嬢が、一晩皇帝の寝室に招かれて以来声がかからなくて泣き伏した、だの。
  東方の翼の色の美しい鳥を献上され、半日興味深く眺めていて不意に、放してしまった、だの。
  あることないこと含めると、本当に皇宮内にその手の話題は事欠かない。
 「夜道をそのうち一人じゃ歩けなくなるぜ」
 「――疾うに歩けない」
 「……そうなんですけれども」
  そもそも、皇帝が一人で夜道を歩く状況に陥るはずもないのだが。
 「ところで、嬢ちゃんがこないだ蜘蛛の巣が張ってる後宮のあたりをブラついてたが、アレか?あのあたりに部屋をくれてやったのか?」
  皇宮に上がっていたダインとミルキィユが、ノイエ補佐官を探していた時の話だ。何故か理解できないことにチャトラが壁際に追い詰められ、探していた当のノイエは反りを打っていた。割と緊迫した状況に遭遇したのを思い出す。
 「――部屋?」
  あの一角は、現エスタッド皇の御代になってからは閑古鳥が鳴いている。歴代の皇帝の面々なれば、数多の美姫たちが皇帝の夜の訪れを心待ちにしていたのであろうけれど、
 「面倒臭い」
  の一言であっさりと後宮と言うシステムを否定したのが現皇帝だ。
  無論、通常はそんな無理が通るはずもなく、皇帝が好もうと好むまいと後宮へ女性は配置されたろう。なのに道理が引っ込んだのは、偏に夜の営みに耐え得る状態ではないと、皇帝が言い張ったからだ。
  この件に関して医師団は沈黙を貫いている。そうだと言い切られてしまうと、プライバシーに関わる問題でもあるだけに、あまり突っ込んで聞ける人間もいない。
 「部屋――」
 「与えてないのか?」
 「何をかな」
  思い当たる節がない風情の皇帝に、ダインは眉を顰める。
  そう。ダインと共有の「常識」が通じる人間だったら、ここで腹芸の一つでもしておいておざなりに済ますこともできたのだろうけれど、
 「……あー。ちょい聞くが。チャトラは一体どこで寝起きしてんだよ?」
  相手は「あの」皇帝だ。一筋どころか二筋縄でも行くはずがないことを、ダインは失念していた。
 「居室だが」
 「旦那の?」
 「そう」
 「一緒に寝てんのか?」
 「いいや?」
 「じゃあ、嬢ちゃんはどこに寝てるんだよ」
  嫌な予感しかしないが、一応ダインは聞いてみる。
 「床の上――椅子でも寝ていたかな」
 「はぁ?」
  あとは、部屋の隅か。
  悪びれのない皇帝の言葉に、今度こそダインは目を丸くする。床の上。こともあろうに、床の上。
 「床の上って……アンタ……!夏ならともかく……いや、夏だからって許されるワケじゃねェか、……アンタ、何考えてんだ!」
 「何、とは」
 「あのな。そりゃ、アンタんトコの床に敷かれてるのは最高級品の絨毯だの毛織物だってのはわかるけどよ。そんなところで昼寝ならともかく、毎晩転がってたら体壊すだろうが」
 「この間熱を出していたね」
 「……あのな」
  呆れたダインの口調に、本気で不思議な顔をして、皇帝が首を傾げた。
 「床の上では寝心地が悪いだろうと思うのだが」
 「思ってるならなんとかしろよ」
 「ふむ」
  駄目だ。やっぱり話が通じない。
  心の中で白旗を上げかけたダインの言葉に、若干思案気な顔になり、それから皇帝は顔を上げる。
 「では、今晩から共寝することにしよう」
 「……」
  渋面になってダインは黙り込んだ。根本的な解決策になっていないような気もする。そもそもチャトラの性格を思う。皇帝の隣で大人しく眠れる可愛い気があるなら、体調を崩すまで床の上に意固地になって寝ないような気もしたし、それを考えるとどう見積もっても今晩、
 「寝ろ」
 「寝ない」
 「寝ろ」
 「寝ない」
  の、果てのない押し問答の火蓋が切って落とされるのを、今からかなりな確率で予想がついたが、
  まぁいいか。もういいか。
  半ば諦めの境地。暖簾に腕押しな皇帝に、これ以上釘を刺しても何だか無駄なような気がした。
 「……嬢ちゃんどこに行ったんだろうな」
 「さぁ」
  皇帝、にべもない。ダインとの雑談に応じてはいるが、基本不機嫌なことに変わりはないのだ。
 「気にならねェの?」
 「何を気にする、と逆にこちらが訊きたいが」
 「旦那への贈り物でも、買いに行っているかもしれねぇだろ」
 「――贈り物、ね」
  鼻先で笑って皇帝がちらと控室の奥へ目をやる。つられてダインも目をやった。奥へと続くもう一間には、それこそひと月前から順繰りに、大陸のあちらこちらからこの日へ合わせて送られた、山と積まれた祝い品。決して狭くはないはずのその部屋がほぼ埋まっているように見えるのは、それだけ献上物が多いからだ。卓上へ無造作に積み上げられて、中には乗り切らずに床へと転がっているものもある。
  ほとんどが、ダインの数年分の稼ぎですら賄えない、宝石やら貴金属である。
  近づいてみればうっすらと埃をかぶっているのが判る。つまり、梱包すら解いていないと言うことだ。
 「勿体ねェ~……」
  ダインに己を飾り立てる趣味はまるでなかったが、きっとこの目の前の人形のような男には、献上品のどれもが恐ろしく似合うだろうと思った。それ程に整った容姿をしている。
 「欲しいかな」
 「え?」
 「何なら、いくつか身繕って持ち帰っても構わぬよ。あれを飾ってやると良い」
  言外に妹を指す言葉を囁いて、
 「――おや、」
  再び頬杖を突いて空を眺めていた皇帝が、小さく声を上げた。顔を上げたダインの目にも、やわらかな白い破片が飛び込んでくる。
 「うわ、雪かよ」
  道理で寒いはずだ。
  今年初めての雪片に、思わず呟く。天からゆるゆると舞い落ちる軽いそれは、氷の塊と言うよりは鳥の羽のようで、目を奪われそうになる。
  そろそろ四度目の参賀の時間だ。
  厚着をしないと芯から冷えそうだ、だとか現実味で夢のないことをダインは思い、まだ随分と長い護衛の半日に溜息を吐いたのだった。


  その後、着せ替え人形よろしくその日数回目の衣装替えを行い、
  立食とは名ばかりの、立ったまま焼き菓子の数枚を摘まんだだけの食事で済ませ、


  参賀を終え、夜会のとりあえず冒頭の部分――いわゆる大陸各地からの大使による祝辞とは名ばかりの世辞とおべっかの嵐の数々――をこなし、心底ぐったりした感のあるダインは、無愛想な皇帝と共に壁の花と化している。
  いや。壁の花と言うには少し語弊がある。
  化しているのはダイン一人だ。
  むしろ、自分からもうしばらく誰とも関わらずに、むっつり黙りこくって護衛の役目それだけに集中しようと言う構えであり、護衛している主の方はと言うと、同じように壁際に退いてはいるものの、広間のあちらこちらから好奇心を含んだ熱い視線を一身に集めている。壁の花と名付けるには少々目立ちすぎる。
  しかし徹底的な無関心にダインは内心舌を巻く。きっと、もうずいぶんと長い間、人の視線を受けることに慣れているので、今更この広間程度の人数の興味に晒されていたとしても気にはならないのだろうなと、勝手にそう解釈した。
  その皇帝、今は広間の中心で踊る若い男女数組を、見るとはなしに眺めてぼんやりとしていた。
  ぼんやりしている、とダインが気付いたのは、それなりに皇帝の普段の行動を知っているからであり、傍から見たら踊る数組の中の誰かを目で追っているように思えるだろう。
  男に手を取られた女性が、頬を上気させ緊張に肩を強張らせながらステップを踏んでいる。勘違いだとダインが女性に教えてやることは容易いが、
  夢を見ているだけ幸せか。
  放っておくことにした。そもそも教える義理もない。
  こうして壁際に立っていると、それなりに遠慮して誰も近付いては来ない。護衛途中で不謹慎かもしれないが、つい欠伸がでた。噛み殺して、鼻から逃がす。急に眠気の訪れた目をしばたたいてふと、広間の向こう手より最近見なれた小さな体がきょろきょろと何かを探しながらやってくるのが見えた。ぱち、と目が冴える。
  と言うよりはっきりと、チャトラは皇帝を探しに来たのだろうと思った。それ以外に彼女がここを訪れる理由が思いつかない。
  チャトラは皇帝付きの雑用係だ。
  場を取り繕うための成り行きとは言え、セヴィニアが遠縁であることを公言してしまっているのだし、皇宮内のどこへでも出入りを禁止されている訳ではないし、言い張れば無理が通る肩書だとは思うのだが、元来人気の多い場所はあまり好きではないらしい。人に酔うのだと言っていた。因みに、彼女の稼業である掏摸行為は、人の多い場所でないとなかなか本来の業を発揮できず、それは結局困ることになるのではないかとダインは不思議に思ったので尋ねたことがある。仕事は別なのだと割切った答えが戻ってきた。
  そういうものなのだろうと思う。
  一応、広間に来ることを念頭に置いては来たのだろう。上着の釦もすべて止めて、それなりにきちんとした格好をしていたけれど、それが妙に窮屈そうだった。サイズの話ではなく雰囲気である。
  視線を転じた皇帝と、こちらを見つけたチャトラがほぼ同時だった。
  あ、と小さく口を開けて、今度は真っ直ぐにこちらへ向かってやってくる。近付いてきたチャトラの右頬に赤く引っ掻き傷があり、
 「ああもうすっげェ人だな」
  立ち話に盛り上がる面々を掻き分けやってきたチャトラの顔が、早くもうんざりとしている。
 「どうした」
 「あ?」
 「何で引っ掻いたんだこれは」
 「ああ」
  腕を伸ばしてダインがチャトラの頬をなぞる。思い当たったのか彼女が苦笑った。改めて見直せば、恰好「だけ」はきちんとしていたものの、髪はあちらこちらに跳ね、藁屑がいくつもまじりあっており、お世辞にも正装とは言えない。
 「馬小屋のボロ掃除でもしてきたような顔だな」
 「あー、うん。当たってないこともないな」
 「掃除してきたのか?」
 「いや」
  藁山に潜ってきた。
 「はぁ?」
  あっさりと答えたチャトラに、ダインの想像力が付いて行かなくて思わず怪訝な声が出た。
 「お前、朝から藁に潜ってたのか?」
 「いや、そうだけど、ちょっと違うかな」
  少しだけ照れたように笑って、それからチャトラはちらと皇帝を見やる。
 「ごめん、アンタの着替えとか手伝えなかった。……もっと早く戻ってくる予定だったんだけど」
 「いや、構わぬよ」
  答えた皇帝の声を聞いておやとダインは思う。先に比べて急に険が取れていた。
 「――おいで」
  ここは人目が多いね。
  そう言って皇帝は身を翻し、外の庭園へとチャトラをいざなった。立ち話の合間にこちらを見てはひそひそと囁き合っている、夜会の招待客の視線を気にしたものらしい。会話自体は、広間の左手奥に設置された楽隊による音楽によって打ち消されているものと思うが、それでもこうしてわずか動いただけでも人目を惹く。チャトラが、というよりは皇帝が。後を追ってダインも、華やかな広間から夜気の漂う庭園へと移動する。
  雪が舞っている。
 「ダイン卿が心配していたよ」
 「え?」
 「お前が、皇宮から出たはいいけれど、戻っては来られぬのではないかと」
 「アンタは?」
 「うん……?」
 「アンタも心配してた?」
 「――どうかな」
  切り替えされて皇帝が苦笑した。誰かを心配できるような性格には到底見えないけれど、
 「チャトラ、お前どこ行ってたんだ?」
  護衛と雖も、ダインはディクスとは違う。黙って見ている性分ではないので、会話に割って入った。
 「あー。ええと。街……て言うのか?街でもないか。街はずれ」
 「一応皇宮は許可のない者の入場を締め出したはずなんだが、どうやって戻ってきた」
 「オレ?」
 「お前」
 「うーん。どうだろ。言うとアンタは怒るかな」
  言ってチャトラが笑う。怒るかな、と言いながら悪びれていない。勘のいい娘だから、ダインに怒られないと恐らく踏んでいるのだろう。
 「オレ、アンタが何日か前から出入り用の門チェックしてたの知ってたんだよね。誰かに通行手形でももらえりゃ良かったんだろうけど、アンタ忙しそうだったし、だいたい面倒くさいだろ。だったら往きも帰りも、オレの知ってるルートで行っちゃったほうが早いかなって思って」
 「お前ルート?」
 「うん。馬小屋の脇に干し草積んでる小屋があんのね。そこの板壁が腐ってて、ばっくりと板三枚分、外れるようになっててさ。その小屋が丁度裏通りに面してるワケ。普段は隠れてて見えないんだけど、こないだ昼寝場所探しててたまたま見つけてさ。他にもいくつかあったけど、そこが一番手っ取り早そうだったんで」
  聞いていた皇帝がくく、と喉奥で笑っている。説明されてダインは苦い顔になった。出入りを禁止したところであちらこちらにそうした「穴」があるのだとしたら、建前と判っていたとは言え、自分の被った苦労が全く莫迦莫迦しいほど、
 「無駄――か」
 「言うなって……」
  呟いた皇帝にがっくりとダインは肩を落として見せた。千丈の堤も、だとか続けて皇帝が呟いている。聞くほど萎えそうだったので、耳に入れないことにする。
 「その板塀くぐる時に引っ掻いちまったのが、これ」
  ダインの脱力を、一人理解できないチャトラが自分の頬を指して見せる。成程な、と口の中で呟いて、頭の藁屑もその通行のおまけなのだと納得した。
 「部屋で待ってようと思ったんだけどさ、アンタ等戻ってくるの夜中過ぎだって言われて、オレ起きてる自信ないし」
  自身のない割に、胸を張って言い切った。
  てらいのないところが、可愛げがあると思うダインだ。
 「皇帝」
 「――うん、」
 「これ、はい」
  そうしてダインが一人納得している内に、チャトラはごそごそと服の隠しをまさぐり、二つに折りたたんだ懐紙を取り出すとそれを皇帝に差し出して見せた。
 「何かな」
 「今日、アンタの誕生日だろ」
  冷えてきたのか、鼻をすすったチャトラから不思議そうに二つ折りのそれを受け取り、開く。思わずダインも覗き込んだそれは、皇帝の指で摘ままれていた。
  小さくすすけた緑の葉。
 「――これは?」
 「四葉のクローバーだよ」
 「四葉の」
 「姉ちゃん……あーええと、オレを育ててくれた人が、毎年オレの誕生日になるとそうしてクローバーくれたんだよ。普通は三つ葉なんだけどさ。たまに四つのヤツがあって、幸せを呼ぶお守りなんだって。一年間大事に持っていると良いことがあるんだって」
 「ほう」
 「ほんとはもっときれいなヤツ見つけたかったんだけど。ここの庭全部手入れされすぎてて、四葉のないし、街の外にならあるかって出たんだけど、もうほとんど枯れてて」
 「お嬢ちゃん、これ、暗くなるまで探してたのか?」
  このところ朝晩がぐんと冷えて、皇宮から眺める遠くの景色もすっかり冬支度だ。すすけているとは言え、こうしてまだ緑を残す低地草が残っていること自体が驚きで、随分苦労して探し回ったのだろうなと、ダインは尋ねながら思った。
 「うん。……アンタ。皇帝さ。多分、欲しいものも欲しくない物も、もういっぱい持ってるだろ。何が良いかなって思って、姉ちゃんのおまじない思い出した」
 「――おまじない――」
 「うん」
  繰り返した皇帝の右手をひょいとチャトラは取って、その甲を己の額に当てる。
  目を閉じて――、祈りを。
 「アンタにとって次の一年が、素敵なものでありますように。アンタが幸せでありますように。アンタの上にたくさんの幸せが降り注ぎますように」
  唱えた彼女が、そうして皇帝を下から覗き込んでにっと笑った。まるで邪気のない笑顔だった。不意を突かれた形の皇帝はしばらく絶句し、次いで、言葉を探すようにしばらくチャトラを見返して、
 (う、わ)
 「幸せ――ね」
  酷く静かに笑い返した。
  それは、あまりにも微かな笑い。蜘蛛の糸に綴る露のようなひそやかなものだったので、ダインは慌てて背を向ける。見てはいけないものだと思った。それは、他人の目が触れてはならないものだ。
 (……アンタ、そんな顔で笑えるんだな)
  滅多に表情を変えない皇帝が時折見せる笑いと言えば、冷笑か自嘲か、そうでなければ皮肉の混じった哄笑くらいしか記憶になかったダインにとって、それは意外と言うより何故かとても胸の抉られるような笑いだった。

  ――皇帝は人を信じることができない。

  以前、身内で飲みまわしていた酒の席で、一通り盛り上がりも収まり、しみじみと飲んでいる時に誰かが呟いた言葉だ。アウグスタだったか、ミルキィユやディクスだったか、それとも傭兵仲間の誰かだったか。ダインは思い出せない。
  幼い頃から実の親子で命を狙い狙われ、それが普通と思える生活を皇帝は送ってきている。常に強く、冷たく、それは不回避だったこととダインは思うし、施政者としての判断に何ら問題はないが、人間であることの何かが欠けているように思う。人形のような、という表現は、文字通り人形のような、のだ。美しいばかりの硝子細工。あたたかさが感じられない。血の通った同じ人間だとは思えない。
  しかし、今更どう努力したところでこればかりは身に付くものでもなく、きっと皇帝は一生どこか足りないままに終えてゆくのだろうと、他人事だからこそ言える無責任なことを延々と語ったことがある。今思えば失礼な話だ。
  だが、正論でもあるだろう。
  利用はする、信用はしない。実の妹にすらそれを貫く。誰も傍には近づけない。常に他人との距離を一定以上空けて皇帝は生きている。
  チャトラを見飽きないと、皇帝はそう言った。
  その興味は一体、
 「――ダイン卿」
 「うわはははは、はい」
  急に声をかけられ、慌ててダインは振り返った。柄にもなく思いに耽って我を忘れていたことに気付いて赤面する。声をかけてきたのは、テラスの手摺りに腰かけた皇帝ではなく、大広間から此方を見つけて歩いてきたであろうセヴィニア補佐官だった。
 「邪魔をして」
  良いですかな。一応は尋ねながら、その実まるでダインに意を払わない構えでずいと割り込んだ。
  声に気付いて、同じようにセヴィニアを見た皇帝とチャトラの元へ、彼は歩を進め、
 「探しました」
  一言そう言った。皇帝が億劫そうに髪を掻き上げる。
 「――あの喧騒に気鬱になってね」
 「大事な御体を冷やして如何なさいます。中へお戻りください」
  有無を言わせない構えだ。
 「中、か」
  聞いた皇帝が、うっすらと笑いを浮かべる。見なれた冷ややかな笑いだった。
 「君にしては遠回しな表現だね」
 「どういう意味ですかな」
 「君が気にかけているのは私の体ではなくて――、広間で手ぐすね引いて待ち構える淑女の面々だろう」
  ああ、と聞いてダインも苦笑した。
  あそこは確かに狩場に近い。
  何しろ、公の場に姿を現すことの少ないエスタッド皇である。
  皇帝に話しかける唯一絶対の機会とも言えるこの場で、一言でも言葉を交わそうと画策するものが数多く……というよりは、はっきり言って参列したほぼすべてが、その目的を持っているのだろうと思った。
  後継ぎが作れるか作れないかは棚に上げておくとして、それでも「皇帝の気を惹いた」となれば、それだけで実家の株は大きく上がるに違いなく、
 「御見通しであるなれば話は早うございますな。お戻りくださいませ」
  セヴィニアも別段隠そうとはしなかった。
 「陛下のお言葉を頂きたいと願う、うら若き乙女が幾らでもございます」
 「それだけで済ませる気はないのだろう」
 「そこまで判っていただけているのならば、是非候補の幾人かの手を取って踊って頂きたいものですが」
 「――君は、どうあっても私に伴侶を宛がいたくてならないようだ」
 「おっしゃる通り、反論はございません」
 「やれやれ」
  言ったところでセヴィニアが退く性格ではないと、皇帝も判っているようで、観念して手摺りより立ち上る。
 「――女か」
  ふと、思いついたように傍らで寒さに足踏みをするチャトラを引き寄せ、
 「うわ何す、」
 「これも女であった」
  そう言った。
 「……娘でありましょうな」
  驚く風もなくセヴィニアが頷く。
 「ふ」
  口の端をますます歪めて、皇帝がチャトラの顎を掴みとり、目を白黒させている彼女の顔をセヴィニアへと強引に向けた。
 「――君がどうしても女性をと言うならば、これをその座に据えようか。確かこれは、『君の遠縁の娘』であったはずだね?」
 「成程」
  皇帝なりの仕返しなのかもしれない。
  チャトラが皇宮に来て初日、出入り口の警護のものと入れろ、入れない、の問答になったことがある。たまたま通りかかったセヴィニアが、チャトラをまるで知らなかったものの、皇帝の気紛れについては耳に入れていたようで、兵士を呼び止め、彼女の身を偽って保障した。セヴィニアにとってはおそらくその場しのぎの言葉でしかなく、後からチャトラの出自を綺麗に偽装しようと思っていた節がある。が、面白がったアウグスタ補佐官によって彼が訂正を施すより前に皇宮へと、
 「チャトラはセヴィニア補佐官の遠戚」
  の噂を広められてしまったために、苦い顔つきで可とした、だとかダインも裏話として聞いたことがある。
 「結構でございますよ」
  しかし、鷹揚にセヴィニアは頷いた。表情は変わらなかった。
 「ただし、その娘に『女性の』正装をさせ、立ち居振る舞いを躾け、紅の一つでも挿し、陛下がきちんと公の場で妾にすると仰ることが肝要でございますが」
 「成程」
  セヴィニアと同じ言葉を今度は皇帝が呟き、不意に興味を失ったようにぱっと、チャトラの体を放す。おかげで彼女が斜め前につんのめっていた。
 「それは面白くないね」
 「ございませんか」
 「これは、これのままであるから良い。――殊更に飾り立てて衆目に晒すつもりは――ないよ」
  そんなことを平然と言い放つと、呆気にとられているチャトラをちらと見やり、それから皇帝はセヴィニアに並んで歩きだす。
 「仕方ないね。観念して狩られてこようか」
  それはきっと捨て台詞だ。
 「……お前はどうするんだ?」
  首をすくめてセヴィニアと皇帝のやり取りを眺めていたチャトラに、ダインが小さく尋ねるとああ、と彼女は庭園を顎で指示した。
 「帰るよ」
 「庭突っ切ってか?」
 「うん。あの人混みをもう一度掻くよかよっぽどいい」
  寒いから走って帰る。言って手を振り、チャトラはさっさと薄暗い庭へと踵を返した。
 「気を付けろよ」
 「何が」
  駆け出しかけた背中へ声をかけると、怪訝そうな顔つきでチャトラが振り返る。
 「出るらしいからな」
 「え?」
  何が、とぎょっとした顔にニヤニヤ笑いを返して、けれど割と口調は真剣になった。
 「夜会の熱にあてられて、庭を散策している物好き連中も中にはいるからな。逢引き目的でサカってる男女連れは覗けるだけで正味何の害もねェが、獲物を狙ってるようなヤツらも多いんだぜ。お前、小さいし物陰に引きずり込みやすそうだしな」
 「……取り締まんないの」
  アンタ警護担当なんだろ、となじる視線にダインは肩を竦める。
 「昨日今日の話じゃねェよ。貴族ってなァ、見かけはお綺麗だがどいつもこいつも脳味噌腐ってやがる。それに一警護の俺の権限じゃあ、何ともならねェ」
 「ヤることしか考えてないと」
 「まぁ、ぶっちゃけて言えばそういうことだ」
 「……ヒマなんだな」
 「ヒマ通りこしてタチ悪ィからなぁ」
  ごきりと首を回してダインは溜息を吐いた。
 「お貴族様等は、カネと権力だけは持ってるだろ。大概のことはワガママが通る。カネで解決できることを知ってるからな。始末に負えねェよ」
 「はー」
  呆れた顔で頷いたチャトラは、でも、と眉を寄せる。
 「あすこの広間にいた、ほそーくてきれーいな、女のヒトたちなら話は判るけどよ、侍従のオッサンにすら男だと思われてるのに、オレ、そういう注意必要?」
 「安心しろ。だいたい少年少女どちらでもイケるクチがほとんどだ」
 「……マジで」
  一瞬唖然とした後にチャトラが頭を抱える。それもそうだろうな、とダインは思った。治安のよろしくない下町裏路地ならいざ知らず、天下の皇帝お膝元で売春まがいの「大人の恋」とやらが展開されているのだから、通常の神経ならば頭を抱えて当然だと思う。
 「まぁ……気を付けて、帰る。夜中過ぎには戻ってくるんだろ?」
  溜息を吐きながらアンタも、と言外に問われた。そうだなとダインは頷いた。
 「じゃあ、部屋あっためて待ってるよ。ディクスさんももうすぐ戻ってくるって侍従のオッサンが言ってたし」
 「ところでディクスのどうしても外せない用事って何だ?」
 「……あれ、アンタ聞いてないの」
  きょとんとした顔でチャトラがダインを見やる。聞いてないぞと答えると、
 「そうかぁ。じゃあ、オレから言わない方が良いだろうな」
  余計に気になる呟きを残して、今度こそさっさと庭園に彼女は駆け出して行った。
  いい加減寒さも限界だったのだろうと思う。
 「あ、おい」
  呼び止めても振り向く気はないらしい。
  ――本当にまるで猫だな。
  闇をぴんぴんと弾く後ろ姿を眺めて笑いを噛み殺しながら、ダインは急いで大広間の皇帝の元へと向かった。


  で、あったから。
 「子が産まれた」
  唐突に告げられて反応しかねた。
  日付が変わった時刻をとうに過ぎてから、居室に戻った皇帝とそれに追随したダイン、そうして皇帝の居室に控えていたディクスとチャトラだ。
  祝い酒と称して先に空けていたのか、酒瓶が二本、小卓の上に横倒れている。
  酔いが回ったチャトラが上機嫌にダインに酒瓶を、ディクスに杯を差し出す。嬉しいような困ったような、珍しく感情を顔に表したディクスが生真面目に杯を受け取った。きっと照れているのだ。
  軽く挨拶を交わした程度にダインが見知っているディクス夫人は、優しそうではかなげな風情が印象的だった。聞けば夫人は胎に子が入ってからあまり芳しくなく、一時期は起き上がれないほど弱っていたのだと今初めて聞いた。
 「なんで言わねェんだよ」
 「言ってどうとなるものでもないと」
  思って、と答えるディクスは急いで皇宮に戻ってきたのだろう。こんな時くらい朝まで家にいればいいのに、と思う一方で、割り当てられた仕事を淡々とこなしてしまう、そんなディクスの性格にダインは共感もしている。
  顔に安堵の色が滲んでいた。気がかりではあるけれど、男である自分にどうと出来る問題でもなく、気を揉むしかなかったのだろう。痞えがとれたと小さく笑った男は、ダインから酒瓶を取り上げ、注いだ皇帝に目を見開く。
 「陛下」
  おもむろになみなみと注ぎ、無言でそれを注視していた皇帝がぽつ、と呟いた。
 「なるほど、理解した」
 「……は、」
 「――目出度い」
  今日何度目かのその言葉を皇帝は口に乗せる。
 「君の奥方と待望の後継ぎの為に、この場合は確かに使うべきように思う」
  目出度い、ともう一度呟く姿を見て、昼過ぎにバルコニーからクダを巻いていた皇帝の姿をダインは思い出していた。
  何が目出度いのか判らないと男はボヤいていたはずだ。
 「……アンタまたなんかややこしい論理に陥ってんの?」
  呆れたように片眉を上げ、今度は皇帝からチャトラが瓶を取り上げ、ほら、とグラスを押し付ける。
 「ややこしい――、」
 「ディクスさんの赤んぼも、アンタも、同じように今日生まれて目出度いんだぜ」
  同系列に並べる辺りが、痛快だとダインは思った。
  神妙な顔で皇帝はグラスを取り上げて、首を傾げる。
 「目出度いだろうか」
  ちら、とそんな皇帝をチャトラは見やって、
 「アンタの思考はこう、なんていうか、真っ直ぐそのままでいいところを、変に結んで捩って引っ張って固めて、わざわざこんがらかしてるようなトコあるよなぁ」
 「そうかね」
 「自覚ないんだな」
  可笑しそうに笑った。そうして直ぐに、
 「そういや」
  続ける。
 「オレのあげたクローバー、捨てんなよ。一年大事に持っとけよ?」
 「――ああ、」
 「もう捨てた?」
 「いや」
 「なくした?」
 「いや」
 「……どこやったんだよ」
 「食べた」
 「はぁ?」
  相変わらず読めない答えを返した皇帝と、それに目を剝いたチャトラを、一歩退いてダインとディクスは眺めながら互いに視線を交わした。
 「手にしていても懐にしまっても失せてしまいそうに思ったので――食べてしまったが」
 「……」
 「腹に収めてしまえば失せる心配もなければ、取られる心配もあるまい」
  夜も更けている。退室したところで支障は無いだろう。
  しばらくぽかんと皇帝を眺めているチャトラの小さな姿を眺めながら、きっと我に返って彼女は怒り始めるだろうなとダインは思った。口には出していなかったけれど、彼女がどんなに苦労してあの一葉を探し当てたのか、その程度はダインにも十分想像がついたから、その苦労を一瞬で水の泡にする皇帝に、怒りを掻きたてるだろうと思った。好意を無下に払ったと、だからアンタは好かないんだと、
  言うだろうな。
  予測しつつ皇帝の居室の扉を開け、ディクスと並んで退室する。
 「……アンタ、」
  扉越しにくぐもった声が聞こえる。語尾が震えているように思えて、
  ――ああ、怒っている。
 「アンタって本当に」

  次の瞬間、チャトラの爆笑がダインの耳に飛び込んだ。


(20101224)
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最終更新:2010年12月24日 19:37