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<<名前のない病>>


  妙に皇宮内の空気がざわついていて、気持ちが悪い。はっきりいって不快だ。外回り、通路を掃く箒の手を止めてチャトラは周りを見回した。
  透徹した空気は澄んで冷たく、かじかんだ指を温めようと吐く息は白い。本格的な寒さが到来していて皇都はどこも冬景色だ。
  その、皇宮。
  まるで平穏と言う態。
  あちらこちらを哨戒する見張りの兵士の動きにいつもと変わりはなく、今日なにがしかの大きな行事があると言うことも聞いていない。となると他に思いつくのは、皇宮の中心に坐するエスタッド皇に何かが起きたということなのだが、その当の本人がほんの少し前、渡り廊下を移動してゆくのをチャトラは見ている。
 「なんだ……?」
  思わず言葉が口を衝いて出た。
  ざわめいていると言うよりは、耳障りなけたたましさに近い。だのに物理的な音は聞こえない。急に動きを止めて通路に立ち尽くしたチャトラの横を、邪魔くさそうに避けて歩いて行った侍従の後姿を眺めて、彼には聞こえていないのだと知った。
  どうして聞こえないんだろう。
  胸を騒がせる音のない音だ。強いて表現するなら、疳泣きの赤子。無調律の笛の音。追い詰められた遠吠え。
  朝から何かしら嫌な雰囲気だと思ってはいたものの、ここまではっきりと感じられるようになったのは今が初めてだ。気持ちが悪くて掃除を続ける気にもなれない。
  ……部屋に戻ろうかな。
  頼まれた仕事を中途で止めて残していくのも嫌いだったけれど、それより薄気味の悪さが先に立った。
  掃除道具を束ねて用具置き場へと向かう彼女の目に、回廊の向こう端から同じようにちらとチャトラを目に止め、あ、と口を小さく開いて足早に向かってくる男が映る。
  一見すると優男風情。皇宮内の同職の年齢層から考えるに明らかに若い。世襲を許されない官職を、実力で手にしたとは考えにくい三補佐のノイエだ。
 「チャトラ、ここにいたのか。良かった」
  探していたんだ。
  外見とは不釣り合いな擦れ声は、聞きなれると割と親しみやすいものだ。人懐こい笑みを浮かべて彼女に近付いてきた。
 「探してた?オレを?」
  補佐官に探されるほどの重要な仕事を請け負った記憶もないし、そもそも今の時間皇帝直下の三補佐は、やれ議会だの謁見だの会食だのそれぞれに忙しいのだ。
  こうして裏庭を掃いているチャトラを探す暇はないはずだった。
 「うん。直ぐに部屋へ戻るといい。陛下も戻られておいでだろうから」
 「皇帝が?」
  話がさっぱり読めなくてチャトラは首を捻った。
 「どういうこと?」
 「時間が余りないんだ。歩きながら話そう」
  抱えた重そうな書類を揺すり持ち直し、ノイエが応える。どうやら何かの仕事の中途にチャトラを探しに来たらしい。緊急事態のようだなと踏んで、箒を用具置き場へ戻すことは諦める。まだ掃除も途中だったことだし、邪魔にならない場所に立てかけて後で少し言付けしておけば、問題もないだろう。
 「重そうだな」
 「ああ、これ」
  並んで小走りに歩きながらチャトラが眺めると、重いんだよとノイエが笑う。
 「半分持とうか?」
 「ありがとう。平気だよ」
  書類を抱えて併走に近い状態で優雅に会釈してみせるのは、育ちが良いと言うよりは小器用だと褒めたい。初めて会った時に見せた、撥ねつけるようなきつい雰囲気は男からは感じられず、人懐こさを前面に出してくるノイエを不思議だとチャトラは思う。どちらが彼の面なのかと問うとしても、きっとどちらも彼自身なのだろう。
 「なぁ、ノイエさん」
 「ノイエで良いよ」
 「あ、そう」
  もともとチャトラに呼び捨てにする躊躇いはない。アウグスタやセヴィニア両補佐官を「オッサン」呼ばわりしているし、訂正するつもりもない。ノイエがただ「オッサン」と称するには少し若いと思っただけ、それだけのことだ。
  ノイエ、と言われた通りに呼び捨てた。
 「うん、何かな」
  何が楽しいのか彼はまた微笑む。よく笑う男だなと思った。無愛想と言うよりは無機質な皇帝の陶器の面に、慣れ始めている彼女の感覚が、ズレているだけなのかもしれないが。
 「何があったんだよ?」
  先から気になっていた疑問をチャトラが口にすると、急に笑いを退き収めてノイエは真面目な顔をして見せた。
 「チャトラは……ああ、町暮らしが長いから君は知っているかな」
 「何を?」
 「病が流行りそうなんだ」
 「病……」
 「昨晩遅く……と言うよりは明け方になるのかな。東方に配置した皇帝軍の一隊から、流行り病があちらの国に出始めているようだと言う情報が入ってね」
 「うん」
 「続いた早馬で、どうもその病気が黒死病の疑いが強いと」
 「うぇ」
  黒死病、の言葉が耳に入るや否や、チャトラの喉からおどけた訳では決してない、潰れた音が漏れた。
 「それ、マジで?」
 「まだ情報も不確定な状態ではあるし、そもそも皇都と東方諸国は、かなり離れた距離にあるからね。こちらにまで病が到達する前に全力で止めたいのだけれど」
 「……そう」
  黒死病。
  ――現代で言うところのペストであり、大方は衛生的ではない上下水の未発達、そこに棲む齧歯類が保菌床とし、それらの血を吸った蚤を媒介として人間に感染する病だ。罹患すると全身の皮膚が黒くなることから、特にペスト敗血症に「黒死」の名が付いている。ペスト菌が血液を循環し全身を巡り、倦怠感、発熱に始まり、敗血症、各種内臓系統の不順、そうして心臓を弱らせ最終的には死亡率七割を誇る最悪の流行病である。
  効果的な予防法はこれと言って無く、罹患者を隔離する、体液には触れないといった、初歩的と言おうか原始的な方法でしか退けることができない。
  因みにチャトラは知り得ていなかったが、皇都エスタッドは歴代の施政者により上下水道が完備され、主だった齧歯類は駆逐されてこれほど大きな都だと言うのに、驚くほどに衛生が保たれていた。皇都から黒死病が発生する率は極めて低く、戦火を逃れると言う意味以外にも、安寧を求めて都への定住を望むものも多い。
  けれどいくら一方が完備されていても、他国の整備がまだ成されていない状況では、
 「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。都に病を持ち込まないよう、押しとどめることも僕らの仕事なんだから」
  言葉と表情が矛盾している。深刻そうなノイエの顔が、決して楽観視できないのだと暗に告げていた。妙に空気がざわついていた理由も、たった一言で全て納得ができる。黒死病。不意に周囲の気温が下がった気がした。
  彼女は知っている。病に罹ったものがかなりの高い確率で息を引き取ると言うことも、その際に酷く苦しむと言うことも。全身あちらこちらに痣のような黒斑が浮かび上がった死骸の醜さ。その臭気。
  それだけならまだいい。
  流行病の真に恐ろしいところは、病に便乗して人心が乱れると言うことにある。誰でも死ぬのが怖い。死にたくないから、離れようとする。病に倒れた区画から人が逃げだす。黒死病の噂が流れると、町単位で人が動く。その動いた中に保菌者がいるとたちまち隣の町に、村に、勢いは飛び火して収まることがない。
  保菌の疑いが掛けられた人間が、吊るし上げを食らっていることがあるのも、助けを求め、まだ息がある病人へ遠巻きに火矢が放たれることがあることも、チャトラは知っている。誰もが疑心暗鬼になり、血走った目で互いに埃と垢にまみれた顔を覗き見る時のあの、昏い感情。
 「チャトラ」
  膝を付かれて覗き込まれ、そこで初めてチャトラは自分が細かく震えながら、立ち尽くしていたことに気付いた。安心させようと言うのか、おずおずと遠慮がちに伸ばされたノイエの腕が、彼女の肩をぽんと叩いた。あたたかな手のひら。
 「怖がらないで」
  無理かな。言って僅かに苦笑した擦れ声に、何とはなしに救われる思いがする。
 「……ごめん」
  我に返った思いで照れ隠しに謝り、また回廊を進み始める。それはそうと、とノイエが表情を引き締めなおした。
 「君には直ぐに荷物をまとめてほしいんだ」
 「荷物……、」
 「うん。万が一の事態を想定して、陛下には暫く、別邸で過ごしていただくことに話がまとまったんだ。大事な御体だからね、危険は未然に防いでおきたい。また、無駄な騒乱を起こすことも僕たちは望んでいない。箝口令を布いているし、今はまだ、黒死病らしき病が発生したことを知っている人数が限られている。陛下が仮に別邸へ移られたとしても、それは避難ではなくただの休養になるだろう?」
 「なるほど」
 「急な話で悪いのだけども、正午過ぎには出発予定なんだ。今、護衛兵と馬の準備を急がせている。身の回りの物をまとめて、陛下の御傍で待機していてほしい」
 「……状況は、だいたい、わかった」
  話の区切りが丁度良いことに、皇宮の中でも皇帝の居住区画へと辿り着いて、チャトラは傍らの男を見上げた。
  二の腕が薄ら寒い。無意識に摩った。
 「荷物って言うのは、皇帝の荷物をまとめたらいいのかな」
 「いや。陛下は御身一つで移動されても、あちらの別邸に全て用意してあるから大丈夫。君自身の荷物だけで平気だよ」
 「……判った」
  曖昧に頷いて、それじゃあ、とチャトラはノイエに手を振り、皇帝の居室へと向かった。見送るノイエの視線に押された形で、自然小走りになる。実際はそんなに急ぐ必要もないことは判っていたのだけれど。
  なぜならチャトラにまとめるような「荷物」は一切なかったからだ。
  物欲がない訳では決してないけれど、身一つの身軽さには代えられない。とりあえず皇帝の隣で大人しく支度ができるまで待っていようと居室の扉を無造作に開け放ち、

 「……あ、悪」
  
  入室前にノックをするだとか、そんな育ちをチャトラはしていなかったし、侍従長やセヴィニアあたりはともかく、皇帝自身が無作法を咎めたことがなかったので、あまりその習慣を覚える気にもならなかったのだが、流石に、
 「猫」
  流石に室内で男女が抱擁し、唇を寄せ合う現場に出くわした瞬間は、ノックの一つでも覚えていればよかったかなと言う気になった。
  ああ、困ったな。
  悩む。
  扉を後ろ手に閉じてしまったので、回れ右をしてまた扉を開くべきか、それはこの場合、廊下に人が行き交っていたことも踏まえて控えた方が無難なのか。
  娼婦であった「姉」に育てられたチャトラにとって、男女が抱き合う姿に今更何の感慨も湧かないけれど、出歯亀の趣味も全くない。いっそ窓から出て行こうか、そうも思う。しかしこの状況で出窓から出ていくことは男女の雰囲気を最大限壊すことになりはしないか。飛び込んでおいて、今更雰囲気を壊すも壊さないもあったものではないかもしれないが。
  ちらと出窓へ視線を流した彼女を見止めて、その男女の片割れ――エスタッド皇帝――がチャトラを呼んだ。
  呼ばれて知らぬ顔を決め込むこともできず、諦めてチャトラは皇帝とその膝上に座る女へと向き直る。向き直り、
  ……あれ。
  遠慮なく眺めまわした後、首を捻った。
  どこかで見た姿だったなと言うのが最初の印象だ。次いでその女が、皇宮に来てまだ日が浅い頃に後宮区で出会った、蜉蝣のような女だと言うことに気付いた。薄い。体が、と言うよりも生気が。そのまま空気に溶けて行きそうな儚さを感じさせるのは、伏し目がちの瞳が煙っているからだろうか。
 「――猫」
 「なんだよ」
 「話は聞いたかな」
  寝椅子に凭れたまま、まるで動じていない皇帝が、チャトラへゆっくりと視線を流す。男が言っている「話」とは、ノイエの説明にもあった病の件だろうなと察して、チャトラは小さく頷く。頷きながら、男の艶やかに濡れた唇が卑猥だと思った。
  やはり、気まずい。
 「聞いた」
 「面倒なことになったものだ」
  ぶっきら棒に答えると、皇帝は微かに苦笑してそのままおいで、と右腕を伸ばす。今度こそ本気で、チャトラは狼狽えた。
 「――猫?」
 「いや無理」
  何を考えているのか。咎める目付きで皇帝を睨んだ。
  近付ける訳がない。体の線がよく判る、薄物しか纏っていない女と体を寄せている状態で、どこの愚か者がその側へ寄ろうと思うのか。
  これが名の通りの「猫」や「犬」であったなら、尻尾の一つでも振って喜び勇んで主の側に駆け寄ろうが、生憎チャトラはきちんと意思のある人間だ。
  皇帝がどう認識しているかはこの際おいておく。
 「あー……。オレ、時間まで隣の部屋にでもいるよ」
 「隣の部屋」
 「聞こえないように頭から布団被っておくし。なんなら廊下に出ててもいいし」
 「――何故?」
 「なぜって」
  思いきり気まずい空気の中で、精一杯のさり気なさを装い、気を利かせたつもりだったチャトラの言葉は男の不思議そうな声で打ち消される。
 「アンタ莫迦ですか」
  思わず呆れた声が出た。もともと皇帝相手に歯に衣着せるつもりもないが、それにしても少しは意を汲んでほしい。
 「――ああ、」
  彼女の顰めた顔でようやく合点がいったのか、男がふと口の端を歪め、それから僅かに手を振った。
 「降りなさい」
  動き自体は小さいものだったけれど、言葉は絶対だ。女が膝から大人しく身を降ろし、それでも離れる気はないらしく、寝椅子へと腰掛けた。
 「いや、あの、オレが失礼するし」
  薄羽蜉蝣のような女に一瞬見惚れて、それからチャトラは焦って言い募る。これでは本当にただの邪魔者でしかない。
 「お前は何か勘違いをしているね」
 「いや勘違いって言うかなんていうか、その」
 「姫君が怯えられていたので、慰めて差し上げていただけなのだよ」
 「だから、慰めてたところをオレが邪魔って、……差し上げ……、……え?」
  言葉を繰り返しかけて「差し上げた」、のところでチャトラは驚いて顔を上げた。差し上げた、確かに男はそう言った。身分がどうだとか階級がどうだとか、どこで判断するのかチャトラにはよく判らないが、皇宮内で限って言うなら主である皇帝が三角形の頂点に一人鎮座していて、その下を大多数が固める。天辺にいる皇帝が、同格扱いする口調と言うのは、つまり、
 「姫……えと、姫君?」
  初めて女を皇宮で見た時、傍らに付き従っていたノイエがチャトラに向けて言ったことを思い出す。
  ――姫君の身辺に不穏な噂が流れていて。
  姫君。そうだ、確かノイエ補佐官もそう口にしていた。今思えば、その後に何度か会話を交わしたノイエのどの様子よりも、あの時やけに緊張していなかったか。穏やかと表現したい常の温和な顔を引き攣らせて、彼は腰の剣に手をかけてチャトラへと迫った。

 「わたくし、動物が好きですの」
  
  何と言って良いものやら言いよどんだチャトラの声に被せるように、不意に女が口を開いた。視線は一応チャトラに注がれているが、話しかけている対象は恐らく皇帝なのだろう。
 「中でも猫はとても可愛いらしくて、国に居りました時分、何匹も傍に置いておりましたのよ」
 「――ほう」
 「皇帝陛下が猫を飼っておられたとは、初耳ですわ」
  うっとりと言葉を紡ぐ「姫君」の瞳に、チャトラは確かに映っているはずだ。はずなのに、まるで注視されている気がしない。ここではあらぬどこかを眺めて女は蠱惑的に微笑んだ。その彼女へ、まるで気のない相槌を皇帝が返して、背もたれに肘を衝き溜息を一つ吐いている。
  溜息を吐きたいのはこちらの方だ。チャトラはこっそり男を心の中で罵った。
 「変わった毛色ですこと」
  席を立った女に音もなく近寄られ、腕を伸ばされ顎を掴まれた。無遠慮な動きにチャトラはむっとする。まるで人間扱いされていないことはよく判った。見た目だけは人並み外れて綺麗なのに、何を考えているのかさっぱり読めない。そこまで思って何か似たような感概をつい最近抱いたことを思い出し、
  ああ。
  ものすごい勢いで納得した。
  なんのことはない、椅子にしどけなく寝凭れている人形のような男が、日頃チャトラをそう扱う。
  それにしても二割増、腹立たしいのが怖い。慣れでないことを思わず彼女は祈った。
 「くださいません?」
  そうして女の提案はまた急なものだった。主格が抜けているが、チャトラを指しているのだろう。完全にモノ扱いである。
 「わたくし気に入りましたわ。くださいません?」
 「――それは、」
  感情のまるで読めない顔になって、皇帝が一度言葉を切った。
 「それは姫君の手に余ると思われるが」
 「そうでしょうか」
 「気が荒い。爪も歯も立てます」
 「……それは飼えませんわね」
  会話が途切れた。
  そろそろ掴まれた顎を解放してもらってもいいように思う。というより、どこの「姫君」なのか知らないが、この扱いに抵抗しても正当防衛だと判断し、
 「おいコラ」
 「では別邸へ移動する間だけでも、貸してくださいませ」
  不満を言いかけた彼女の言葉にまた被せるように女が口を開き、チャトラの文句はあえなく潰された。
 「それとも手放し難いものですか」
 「責任は負いませんよ」
  ややあって皇帝が頷いた。と言うより端からあまり考えていないようにも見える。
 「ありがとうございます」
  貸すだの貸さないだの、自分の意思とは関係ないところで話が進んでいることの意味が判らない。噛み付きそうな顔になったチャトラをようやく女は横目で眺め、ふ、とどこか意味ありげな笑みを浮かべた。
 「まだ時間はありますわね。湯浴みをして参ります」
  飲まれたと言うのなら、完全に場の空気に飲まれていた。線の細い背中を半ば呆気にとられながらチャトラは見送って、そうして我に返る。今の会話内容を今更覆せるだとか、そんなことは期待していなかったが、一言言ってやらないと気が済まないと思った。
 「……アンタね」
  唸りながら皇帝を振り向いて息を飲む。
  男が妙に冷酷な瞳をしていた。自分に向けられたものではなく、女が立ち去った扉の向こう側へ向けて。
  不愉快むき出しで男が己の唇を拭い、それは先程身を寄せ合っていた男女の醸す雰囲気とは程遠くて、チャトラは目を見張った。
 「……皇帝」
  おかげで文句が引っ込んだ。どうせ自分の不満を訴えたところで、その半分も本当の意味で理解してもらえそうになかったし、何より剣呑な光が気になる。
 「皇帝?」
 「気にいらぬ」
 「何が?」
 「試すつもりなのかな」
 「誰が、何をだよ。っていうかオレの質問に一つくらい答えろよ」
  聞いても答えがほとんど帰ってこないことはそろそろ百も承知の域だが、それで愚痴らないと気が済まないこともある。そんな彼女を皇帝はもう一度手招いた。こうなると退く性格でないことは最近理解しつつあったので、チャトラは大人しく男へ近付く。ぐいと腕を引かれ、先程女が腰を掛けていた同じ場所に今度はチャトラが座らされる。妙な気分になった。
  細い指先でチャトラの喉元をゆっくりと撫ぜると、結わえられた鈴がちりりと音を立て、それを耳にした男が目を眇めた。
 「皇帝?」
  その様子がどこか物憂げに見えて、ぽつ、と呼びかけると、男はチャトラの瞳をじっと覗き込むように見つめ返した。この部屋に飛び込んでからようやく、男の意識が自身にまっすぐ向いた気がする。
 「――進まないね」
 「何が」
 「気が進まない」
  臆せずそのまま見返すと、焦れた衝動がほんの僅かに男の目に見えた気がした。光に透けた、薄茶色の瞳孔の中に自分の姿が映っている。
 「なぁ、あのひと、誰」
 「遠方から来た使者だ」
 「はー、……使者……ね」
  それ以上説明を求めたところで皇帝が応じるようには思えなかったし、国と国との位置関係を聞いたところで、まだ大陸全土の地図さえ頭に入っていない自分には、どうせ訳が分からない話だろうから、チャトラは曖昧に頷いて話を終わりにすることにした。
  頷いた拍子、それまで飽きずに喉元を撫ぜていた皇帝の指が紐を引く。締められて彼女は目を見張った。
 「私に宛がいたいようだよ」
 「……宛がう、って」
 「第一夫人にでも仕立てあげたいのかね」
 「オレに聞くなよ……つか離せよ、痛ェッ……」
  続けて唇を奪われる。
 「なん……、ッ」
 「口直しだ」
  抵抗しかけた体をなんなく抑え込んで、そこで初めて皇帝は寝椅子から身を起こし、積極的にチャトラの上へと圧し掛かった。僅かぎこちない。その動作に怯えるより先にあれ、と違和感を感じてチャトラは身もがく。
 「待てよ……ッ」
 「待たない」
 「いぃいぃぃいから待てって!アンタ、腕どうしたんだ」
  腕と言うよりは肩口だろうか。左の失った部位、すっぱりと切り落とされた辺へ手を伸ばす。一瞬怯んだ男の動きを、チャトラは見逃さなかった。
  男の体を片膝で押し倒し返し、逆に圧し掛かりながら、躊躇いなく部屋着を肌蹴る。日に当たることのない青褪めた肌に、点々と散る黒い斑点にぎょっとしつつ、それがただの痣であることに彼女はすぐに気が付いた。
  指の形に痕が付いている。
  ところどころきつく爪を立てたような、細い女の指の痕だ。
 「何、どうしたのこれ」
 「何ということもないよ」
 「なくねェだろ。……あのひとがやったのか?」
 「――意趣返しの――つもり、なのかな」
  何か勘違いをしているね。
  つい先ほど。含み笑いでそう言われたことをチャトラは思い出す。てっきり自分は飛び込んだ先のこの部屋で、男女の交歓が行われているものと思い込んだが、どうも話が違うようだ。顔を寄せ合い薄物一枚で抱き合って、それならば一体何をしていたのか。皇宮と言おうか貴族と言おうか、どちらにせよその常識や駆け引きとやらが全く理解できないし、理解したくもないと思った。
 「毒を含まれた訳でもなし、可愛いものだ」
 「……アンタがマゾだってのはよく判った」
  げんなりしたまま、男の服を正し寝椅子から滑り降りた。
 「……なんなの、あのひと」
  呟きながら、未だ女の名前すら知らないことに気が付いた。
  感情の読めなかった女の顔を思い出して、チャトラは重い溜息を吐く。皇都から件の「別邸」までどの程度の時間がかかるのか聞かされていなかったが、どうやら難儀なものになりそうだった。

               *

  あの男と対面したのはいつのことだったのか。
  今はもう遠い記憶になりつつある。
  記憶は風化し欠片となって、乾いた端からぼろぼろと崩れ落ちてゆく。
  感情は疾うに麻痺して、満足に声を立てて笑うこともなくなった。
  ――それとも、さいしょから、しくまれたことだったのか。
  上手く回らない頭で女は思った。
  皇帝と呼ばれる男の居室を後にして、自室へと戻るその足取りはふわふわと頼りなく揺れている。行き交った下働きのものが、女と気付いて慌てて腰を折った。
  ――くだらない。
  へつらう瞳が不愉快だ。
  しねばいいのに。
  物騒なことを思った。
  男と最初に対面した時のことを女は覚えていないけれど、その後何度となく交わした会話の中で、女は己とよく似た虚像を男の中に見出した。見出した、と言い切ることはおかしいのかもしれない。けれど確かにそんな気がしたのだ。
  何ものにも執着しない、拘りを持たない、全てのつながりを自ずから断ち切った男に共感を覚えて、女は幾度となく男に向かって無理難題を吹っ掛けた。周りから見れば、少しばかり度の過ぎた、可愛らしい提案であったはずだ。
  曰く、あれを譲ってほしい、それを使いたい、これを持ち帰りたい。
  男が、一体どんなものであったら手放すことを躊躇うのか、そんなものは存在するのか、するのだとしたらそれは自分にとっても興味を覚えるものなのか。
  ――大切なものなんて。
  ないと思っている。大切だとそれは勘違いをしているだけだ。
  男は予想通り何も変わらなかった。
  ――よろしいでしょう。
  ――結構ですよ。
  互いの二言で全ては収まってきたし、収まるべきだったのだ。
  その、男。
  くださいません?
  訪ねた瞬間、ほんの微かな躊躇いが男の目に走ったのを、女は見逃さなかった。
  ただの気紛れだったのに、俄然気が向いた。
  どこと言う取り柄もないような、凡庸な生き物だった。性別も判らない。途中で娘だと認識したのは、己と男が情事の最中だと勘違いし狼狽えた態度が、下卑た牡の物ではなかったからだ。
  猫、と男は呼んでいた。
  玲瓏とした声が真っ直ぐにその、牡牝も判別できないような、全く価値の無いように見える娘に向けられていた。
  何故だか、手に取って弄りたい心持ちになった。興味とも好奇心とも違う、けれど胸をざわつかせる何か。
  矯めつ眇めつ、ひっくり返し隅々まで調べたら、男の躊躇の理由が自分にも理解できるだろうか。
  男は冷えた鏡だった。その男に僅かでも、特別な何かが生まれることは、女にとって己の虚像を掻き乱されることと同意義だった。だから。
  くださいません?
  憤懣やるかたない面の娘は無視した。
  ――結構ですよ。
  一言そう返してほしかった。だのに期待した返事は得られない。
  責任は負いませんよ。
  酷く曖昧な言葉。手放したくないのだなと思う。
  胸が、騒ぐ。
  縊り殺してやろうか。
  娘の細い体を思い浮かべて、実に艶然と女は微笑んで見せた。頭を下げた下働きのものはそれに気付かない。女のほの暗い感情に誰も気づかない。
  栗色の視線。決して女に注がれない男の目の色。
  憎いと唐突に、思った。

                   *

  予感なんて当たらなければいいのに、嫌なものに限って当たるのだから始末に悪い。
  もったりと重たく広がっている頭上の雪雲を眺めて、腹立ちまぎれに一つ舌打ちをした。
  チャトラだ。
  ひどく寒い。
  出発前に峠を越えると小耳にはさんだ。ある程度の寒さは覚悟していたものの身を切るような寒風は久しぶりだった。気温が低い原因も八割方そこにはあるが、それ以前にチャトラに着る上着がない。皇宮内で侍従よろしく身に着けている上着は、確かに冬物ではあったが、あくまで室内用の上着であるので、防寒というには心許無かった。
  皇都に居ついてから、確かにそれまで外出する機会などそうそうなく、時折暇を持て余しては街へ繰り出すにしても、それは暖かな日中がせいぜいで、好き好んで寒さのきつくなる夜間に出かけなどしない。
  であったから、皇帝がチャトラの防寒着に全く考えが回らなかったとしても、それは仕様のないことで、というよりもそう言った細やかな心遣いを皇帝に期待する方が、きっと間違っているのだと内心諦めている。
  何しろ半月以上、床に寝ていた自分をそのまま転がせておける感覚の持ち主だ。
  意地を張った自分にも勿論問題はあると思う。が、明け方何度もくしゃみをしながら目が覚めたチャトラを、同じく異様に眠りの浅い皇帝が気付きながらも放置していたのは、途中までは本気で何かの虐めか嫌がらせなのかと思った。弱っていく自分を見て楽しむ趣向でもあるのかと、勘ぐって眺めていたがどうやら単純に、
 「床で眠ると風邪を引く」
  ことに思い至らなかったようだ。そもそも皇帝は床で眠ったことがないだろう。当たり前である。想像で補える部分と言うものは意外に範囲が狭い。
  見事に体調を崩してようやく、皇帝がその事態に気付いてくれたのは良いが、それすらも本人の想像の努力の賜物ではないらしい。ダインの名を出していたから、彼に何か注意された可能性が高かった。
  結局、感覚と言うよりも生きている世界がまるで違うのだから仕方のないことだ。
  なんとか皇帝の世界を理解してみようと、日々勉強に勤しんでいる訳なのだけれど、一体どこまで摺り合わせができるのか、まだチャトラにも判らない。
  逆に皇帝がどこまでチャトラの世界を理解しようとしているのかと言うと――、きっとその努力すらしていないだろう。
  そういう男の懐を狙った自分が莫迦だったのだ。
  最近はそう位置づけている。
  ところで。
  どうしようもなく寒い。
  歯の根が合わない芯から冷える寒さは、路地裏暮らしで相当慣れたが、吹きすさぶ寒風が尋常ではない強さだ。馬車程度の壁一枚、簡単に突き抜ける。
  自分自身を抱きすくめて震えていると、見兼ねた護衛騎士の一人が、己の外套を脱ぎ渡しかけ、慌ててチャトラは首を振った。
  好意は死ぬほどありがたいけれど、護衛はただ馬車に乗っていれば良いだけの自分とは違う。いざという時に体が凍えていてはその役も果たせないだろうし、何より車の周囲を固めるためとは言え、吹きさらしの風の中を馬に乗って移動するのだ。寒さは段違いのはずで、それを思うとどうしても受け取れなかった。
  今は後悔している。
  相手のことを考える余裕がどこにあったか。受け取っておくべきだったのだ。
  それで仮に騎士が凍えようと、風邪を引こうと、それは自分の知ったことじゃあない。
  そこまで思い、その考えは人非人だな、と自嘲する。今以上に切羽詰まった寒さは、生きてきた中でこれまでもあったのだ。
 「かおいろが、すぐれないわ」
 「姫君」と呼ばれた女が、チャトラの向かいからぽつ、とどこか興味を含んだ声色で話しかけた。皇都を発って既に数刻経っていたが、女が口を開くのはこれが初めてだった。
 「さむさによわいのかしら」
 「……どうってこと、ねェよ」
  思わず虚勢を張りながら、これほど情けない見栄もないと思った。前身ごろを掴んだ指は紫を通り越して白みを帯びていたし、鏡がないので見えないけれど、唇も頬も青白んでいる気がする。くるぶしより下は芯まで冷え切っていて、足指はかじかんでその感覚も遠い。
  向かい合う女は、薄手ながらもきっと上物と思われる羽毛の縫いこまれた上着や毛布を優雅に掛けていて、それでもこの山の寒さは凍みるだろうけれど、チャトラより数倍はまともに見えた。
  と言うより一枚剥ぎたい。剥ぎ取りたい。
  座席の上で身を縮こまらせながら、白い息を吐いてチャトラがさらに膝を抱えなおすと、
 「――おもしろくないこと」
  退屈そうに呟いた女がかた、と細い指で馬車の防風戸を開けた。
  途端に身を切るような寒気と共に、白いつぶてが車内へ飛び込んでくる。
  何を考えているのか。
  一瞬呆気にとられたチャトラだったが、次いでその猛烈な寒さに身震いした。峠越えの山道は、いつの間にか視界が利かないほどに灰白色に霞んでいる。馬車の前後に隊列を組んでいるはずの騎士の馬姿も今は見えなかった。
 「おい」
  たまりかねて跳ね戸を閉めようとチャトラが腕を伸ばすと、鋭い痛みを感じた。遅れて女が腕を跳ね除けたのだと理解する。
 「な……んだよアンタ」
 「なぁに?」
 「……は?」
 「おまえは、なぁに?」
  向けられたものは冷えて歪んだ視線だった。女がはっきりと自分を注視したのは初めてな気がする。長く伏し目がちな睫毛の下から掬い上げるように注がれる視線に、やはり似ている、と場違いなことをチャトラは思う。似ている。
  男の凍徹した視線に。
 「ねこは、かわいいですもの。わたくしもすきでしてよ。――とくに、」
  揺れ動く瞳に感情が見えない。馬車の揺れではない何かに不意に気分が悪くなって、チャトラは胸元を掴む拳に一層力を込めた。
 「とくに、おりにいれてみずにつけるのが、いちばんにすき」
  ああ、やっぱりろくでもない。
  暗澹な思いに溜息を吐く。狭い馬車の中、逃れられる場所はない。どうせ同じように寒いのなら、まだ心騒がない分だけ外の方がましかもしれない。意地を張って嫌な思いをしながら女に付き合う義理もないと、扉に手をかけたチャトラの手に、女の華奢なそれが重ねられた。軽く置かれただけの掌なのに、強張って体が動かない。
 「にげるの」
  耳元で囁く得体のしれない女は怖い。
 「とても、ぶざまね」
 「……」
 「ないてすがって、あわれみをこうと、よいのだわ」
 「アンタ……アンタ、なんなんだよ……」
 「でもねこのかわりなんて、いくらでもいるでしょう。……おまえが『とくべつ』なりゆうは、なぁに?」
  女を背に庇いながらも、妙に強張っていたノイエをもう一度思い出す。つられて、ややこしい所に首を突っ込むなと渋い顔をしたダインも思い出した。
  確かにこの女は厄介だ。
 「――凡庸に見えるのは外側だけで、皮を剝いたら違うのかしら」
  呟きながら不思議そうに首を傾げた女の目の色は本気だった。
  本気で皮を剥ぎたがっている。気付いてぞっとする。
 「おまえはなぁに?」
  ぐいと背後から顎を掴まれて、無理な体勢に仰け反らされた。晒した頸もとにひやりと刃の気配。ここから剝こうか、とえらく純粋な声に冗談だろうと否定する余裕もなく、チャトラは身を竦ませる。
  急に滑舌の良くなった女の言い回しも不気味だ。
 「故国を離れてもう何年も経つけれど、その間――あの方がわたくしを顧みたことはただの一度もなかった」
 「……やめ……ろ」
 「関心を向けられなくてもどうとも思わなくてよ。手間も暇も省けます。――ただ。なにものにも注意を払わないあの方が、お前だけに関心を寄せるのは、なぜ?」
 「知るかよ……ッ」
 「わたくし、ゲームを仕掛けましたの。あの方とわたくし、二人だけのゲームです。だいじなものを手に入れた方の、負け。大切なものを作った方の、負け」
 「……」
 「『面白いですね』。あの方はそうおっしゃった。言葉通りにあの方は、何物にも興味を示さず、長続きもせず――、わたくしとの賭けは平行線のままでしたし、ずっとそれが続くのだと思っていましたのに」
  囁かれる言葉は静かな毒だ。全身が痺れて動けない。
  敵愾心を直にぶつけてくる相手の方が数倍マシだ。いなすなり逸らすなり、対応の仕方もあろう。けれど女の語調にも態度にも、怒りであるとか感情の起伏はまるで伺えなくて、それがチャトラは怖かった。
  不思議ね。
 「お前のどこに、その価値があるのかしら」
  不意に興味を失ったように女の腕から力が抜けて、チャトラは無我夢中で振り向いた。面と向かい合うことも怖かったが、背を向けていることはそれよりずっと怖い。
 「……アンタは」
  いくらかでも言葉が通じることを願って、チャトラは震えながら口を開いた。寒さによるものか恐れによるものか、区別がつかない。
 「アンタは、あのひとに並びたいんだな」
  同じだろうか。
  ふと思う。
  皇都を見下ろすあの尖塔で、チャトラ自身が男の世界を理解したいと興味をそそられた、その感情と同じなのだろうか。
  だとしたら高低差はあれど同じ罠に見事に嵌まった貉同士、

  ぱん。

  軽く鋭い音がして、一瞬視界がぶれた。頬を張られたのだと気が付いたのは、痛みよりも女が張った手を震わせながら抑えたのを見止めたからだ。
  驚いたと言うよりはやはりと言った感覚、それからがらりと豹変した女の戸惑いと憎しみが半々入り混じった視線。
 「おまえに、なにがわかるの」
  低く呟いた女の舌足らずな言葉は、それまでの何よりチャトラには理解できるような気がした。
  何が判るのかと聞かれても、何も判らないと答えるしか能がない。そもそもあの男に関わったこと自体が既に罠に嵌まったようなもので、不可抗力なのだと思う。
  だから。
  ここにこれ以上いるのは無駄だと判じて、チャトラはおもむろに扉に手をかけ、今度こそ開いた。あえかに震えている女からの咎めの声は上がらない。開けた一瞬さてどうしようかと思案する。この恰好で馬車周りを歩くのは、割と自滅行為だと思う。周りを固める騎士の馬に乗せてもらう手だても考えたが、彼らは遊楽で付き従っている訳ではなく護衛兵なのである。仕事の邪魔をするのは憚られた。
 「にげるの」
  低く囁いた女の声に一瞬逃げる訳じゃないと言い返しかけて、けれどそうなのかもしれないと思い直して口を噤んだ。得体のしれない女と同じ馬車の中にいるくらいなら、逃げたと嗤われる方がマシに思えた。
 「あの方に泣きついて、守ってもらうと良いのだわ」
  行き場のないチャトラには、結局癪に障るけれど男の馬車の隅でも座っているより他ない。女の言うとおり男の馬車に駆け込むのは釈然としないし、男と顔を突き合わせるのは正直避けたいし、そもそも目を合わせた途端むかっ腹が立つのも判っていたが、選択肢はなさそうだ。屋敷とやらに着くまでの我慢、と言い聞かせて踏み下ろしたそのチャトラの背を、
  とん、と。
  声を上げる暇どころか驚く暇もなかった。
  折しも山道はうねうねと蛇曲する難所で、騎士たちはそれぞれの手綱さばきと上下周囲の警戒に余念がない。吹き荒れる視界の悪い雪嵐の中、馬車から転がり落ちたチャトラに注意を払う者はいなかった。
  たたらを踏んだ足が頼りない道の縁を滑り、あっと思った時にはチャトラは宙へと投げ出されていた。
  意味もなくばたばたと振り回した手足が、空を切る。それで自分が落下しているのが判った。次いで訪れるだろう衝撃に身を強張らせたけれど、ある程度降り積もった雪が緩衝剤の役割を果たしてくれる。
  それでも全身をしたたかに打ち、眩暈を起こしてチャトラは仰向けに息を吐いた。数度深呼吸をするとようやく痛みも遠ざかり、起き上がる。
  おおぉい。
  体を起こして辺りを見回し、落ちたはずの上に向かって叫んだ。
  声は上空に上る手前で強風に吹き消された。
  それでも何度か怒鳴り、耳を澄まして何の返答もないことを知る。
  白いつぶてに邪魔されて、辺りの様子は何も見えなかった。
  不意にしんと冷えた緊張、窮地に落とされた切迫感が彼女を襲った。
 「……どうしよう」
  呟いたのは聞き取ってくれる「誰か」を期待した訳ではない。端からいないことは判っている。ただ、何か口に出さないと自分自身訳の判らないことを叫びだしそうだった。
  どうしよう。どうしよう。
  何度か呟いておろおろとチャトラは周りを伺った。
  やはり何も見えない。
  じわじわと恐怖が押し寄せてきた。
  雪山の装備を何も持たないどころか、下手をすると街で一晩明かすのも危ぶまれる室内着で、崖下に投げ出され、人の気配はない。
  雪山で迷った時には動くなともいうが、それは救援が来るまで耐えられるだけの装備をしている者への言葉であって、正直今の自分にそれが当てはまるとはチャトラには到底思えなかった。
  一番手っ取り早いのは、上にある(はずの)山道へ登り戻ることだったが、視界も利かない状態で、今では一体右か左かどちらから自分が転がり落ちたのか、定かではなかった。
  寒い。
  がちがちと歯を鳴らしてチャトラは立ち上る。叩きつけるような風が、体温を根こそぎ持っていくような気がする。ほんの僅かな間のことだったのに、指先の感覚が既に失われつつあった。そういえば馬車の中にいた時からすっかり冷え切っていたな、だとかどうでも良いことを思って、それからもう一度上へ向かっておおい、と声を張り上げた。
  返事はやはりなかった。


(20110130)
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最終更新:2011年07月11日 10:27