日溜りに腰を下ろすと、風が柔らかに吹き抜ける。
午後。
皇都エスタッドである。
アルカナ王国との休戦協定が予想以上に長引いていた。
その肩書きゆえに、已む無く皇都へ、一時帰還を余儀なくされた第五特殊部隊将軍である。
いつまた開戦してもおかしくは無い、曖昧模糊な協定ではあったので、
駐屯兵はそのままに、野営生活である。
付き従ってダインもまた、皇都へ戻ってきていた。
但し、彼には一切の肩書きは付けられていない。
飽くまでも彼は、彼女の私兵的扱いである。
自発的に付いて来たに過ぎない。
であるから、やれ公務だ軍議だ報告だと、目の回るほどに忙しいミルキィユとは相対的に、
とことん欠伸の出る、惰日常を送っていた。
特に何か任務が与えられているわけでもなく、
もちろん住居及び小間使いが、与えられているわけでもない。
これまで通りの木賃宿に、これまで通りの週払いで前金を納め、ぶらぶらと市場を歩く。
朝から晩まで予定の組まれたミルキィユと、会える機会もそうそう訪れず、最後に会ったのは、もう七日前。
暇なのである。
あまりにも暇であったので、咎められないのを良い事に城内へ入り込んで、皇軍の新兵訓練に紛れ込んでみた。
以前に見せた顔であったし、将軍自身から紹介もされていたので、兵士達に警戒されることもなく、
逆に歴戦の猛者と、尊敬と憧れの注目を一身に浴びることになり、少しだけ閉口した。
歴戦でも猛者でもあるつもりは、ダイン自身にはない。
ただ目の前の敵と切り結び、金を受け取る。
気がついたらまだ生きていた、その程度の認識なのである。
戦えなくなったら、動けなくなったら死ぬのだと、そう割り切る節もある。
名を上げようだとか、褒美を得ようだとか、あまり考えたこともない。
見返りを求めない性分なのだ。
加えて、煽てられると断れない一面も持つ。
訓練場に顔を出した彼を見て、おそらくはまだ十代の新兵達は、口々に教示を乞うた。
最初は謙遜と共に、生来の面倒臭がりさで、指導を拒んでいたダインだったが、
巧みに乗せられて、いつの間にか、我流ではあるものの、型を教えることになっていた。
体を動かすそれ自体は、彼は嫌いではない。言い直せば好きである。
教えるうちに夢中になった。
以来、毎日ここへ足を運んでいる。
およそ二刻ばかり、まだまだ青いながらも、真剣さは人一倍強いそれぞれと手合わせし、
一休みしようと訓練場の隅の芝の上に、腰を下ろしたのだった。
「精が出るな」
不意に軽やかな声が響く。
鈴を転がすようによく通る声である。
「お嬢か」
「上官と呼べ」
振り向くまでもなく彼女が上機嫌なのが判る。
声が跳ねている。
「なんだァ、久しぶりじゃねェか」
抑えようと意識しても、ついついダインの頬は緩む。だらしが無いことこの上ない。
無表情とはかなり縁遠い。
「うむ。室内ばかり篭りきりで、黴か茸が生えそうだ。
一息付く様子もないので、昼食と称して強引に抜けてきた」
言ってミルキィユも、彼の隣に腰を下ろす。
「……で、飯は」
「あいにく食欲が湧かない。だが外はいいな。せいせいする」
抜けるような空を見上げて、彼女は大きく伸びをした。
「貴様も倦んだ顔をしているな。暇を持て余したか」
「まァ……平和ボケよりゃ戦ってる方がマシかねェ」
「お互いに、血の香を嗅がねば安眠できない口か」
くつくつと笑って大きく顔を覗き込んだミルキィユは、その勢いのまま、投げ出した彼の足を枕に寝転がった。
「お嬢」
「上官命令だ。しばらく動くな」
訓練場は中庭にある。
四方を建物に囲まれるそこは、言い換えるならば、城のどの窓からでも見下ろすことが出来る場所なのである。
異父兄弟だろうと、大臣一同から迫害されていようと、皇女には変わりない。
いくら悪名高い鬼将軍だろうと、これは流石に風聞に関わるのではないかと、
ダインが驚いて制止しても、彼女はあどけない顔をして、空を見上げている。
「……誘ってるんじゃねェよなァ……」
「え?」
向けてくる栗色の大きな瞳は、まるで邪気がない。
「いや、なんでもない」
邪な心は即効で投げ捨てた。
つい半月前、邪心を起こしたばかりに、二日間ほど地獄の淵を彷徨った記憶もまだ新しい。
死ぬかと思った。と、生きてきた中で、その言葉を口に出したことは何度もあったが、
本気で死ぬかと思ったのは、あの時が初めてだ。
胃の腑が引っくり返るとは、まさにこれだと痛感した。
絶対に一生酒精から縁を切ろうと、出来もしない誓いを心に念じた辺り、
ダイン自身は知らないことだが、どこかの太守と脳内構造は同じであった。
「そう言えばな」
しばらくは風に頬を弄らせて、黙って空を見上げていたミルキィユが、不意に口を開く。
「ん?」
「先程、ここに来る前、温室に行ってきた」
「温室……?」
「うむ。式典に使ったり、城内に飾る花を育てている場所だ。園丁が丁度いてな」
「うん?」
「……エンゼルランプ」
言葉にぎょっとして、ダインは思わず身を起こした。
その花の名前を、ここで言われようとは、思わなかったからである。
ダインの様子を、悪戯心満々に眺めていたミルキィユが、堪えきれずにころころと笑い出す。
「やはり貴様か」
楽しそうだ。
「その狼狽てぶり、少しは陛下を見習うといい」
「皇帝がどうしたよ」
「呆れるほどにポーカーフェイスが巧いからな」
「……見習いたくねェ……」
よほどダインの驚いた表情がおかしかったものと見え、しばらくミルキィユは思い出しては肩を震わせていた。
からかわれたダインに立つ瀬は無い。
しばらくむっつりと訓練を眺めているうち、膝の上は静かになって、
見やれば、小さな寝息を立てて眠ってしまっていた。
疲れているのだろう。
寝顔に彼は思わず目を惹かれる。
子供の顔で眠っていた。
こんな時に、彼女がまだ幼いのだと実感するのだ。
普段、威風堂々として何事にも動じない彼女が、まだ17の少女なのだとしみじみ思う瞬間である。
稚けないことこの上ない。
ポーカーフェイスの忠告も忘れて、口を半開きでぼんやり眺めてしまったダインだった。
そしてまた、空を眺める。
青い。
戦場で見える空よりも透き通って見えるのは、ここが平和な場所だからか、それとも少女がいるからだろうか。
などと徒然に思い耽りながら、日溜りで伸びきっている。
突如、
緩んだ口をに引き締めて、瞬時に表情を変えたのは、幾多の戦場を駆けた勘。
斜め後ろに炎がある。
冷たい氷の炎である。
「誰だ」
それでも眠る少女を起こさないようにと、低い声で囁けば、抑えた笑いが漂った。
「……これは困ったね」
語尾は掠れて風に消える。
「気分が良いので散歩に出たら、虎に出遭ってしまったようだ」
「……アンタは」
膝には少女が頭を乗せている。
ダインは首だけ振り返り、その声の主を目に入れた。
見た覚えの無い男がそこに立っている。
青年と言って差し支えは無いだろう。
微風に切れ長の目を細め、穏やかに立ち、その傍らに黒鎧の男が付き従う。
流れるような金の髪が、膝裏辺りまで届いている。
そういえば昔、そんな長い髪の姫君が出てくるお伽話を聞いた事があるなと、
ダインはぼんやりと思った。
身に纏う衣服は簡素だが、品が良い。
造形は、どこもかしこもまがいものじみてる。
玉に瑕な猫背気味な前傾姿勢と、風にはためく片袖に、
初めて見る姿ながら、ダインは聞かずとも相手の名を知った。
腕がない。
エスタッド皇国の現皇帝である。
「……皇族ってェのは、みんな背後から近づく習慣でもあるのか」
時候の挨拶をすべきか、まずは非礼を詫びるべきか、はたまた自身の名でも名乗ったら良いか、
数呼吸分悩んだ末に口に出した問いに、低く抑えた笑いが誘われる。
ダイン自身は、至極真面目な問いを発したつもりであったのだが、皇帝にはそう取られなかったらしい。
「面白い男だ」
「……なんだ。妹に俺が手ェ出しそうだったから、釘でも刺しに来たのか」
「いいや。ここは、私の住まいだからだよ。先も言ったろう。気分が良いので散歩に出ただけだ。
自分の屋敷の中庭を散策するのは、おかしいかね?そもそも私は、君達の後姿しか確認していなかったのだが、
君のその発言は、自己申告の懺悔行為と、そうとっても良いものかどうか」
ねぇ、と傍らの黒鎧を振り向く。
「どう思う、ディクス」
黒鎧は僅かに肩を竦めただけである。余計な口出しは無い。
見事に墓穴を掘るダインだった。
「出してねェし、出せねェよ……」
肩を落として情けなく項垂れるダインに、また皇帝は喉の奥でひとしきり笑ってから、
「まあ、良いのだよ。私は散歩に出ただけなのだから、今は皇帝ではなく、ここの屋敷のただの主だ。
主がそぞろ歩きで暇つぶしをしていると思ってくれればいい。
……ところで君は、どこの生まれだね?傭兵かね?まだ独り身かね?」
唐突に問う。
面食らった。
「なんだよ……急に」
畳み掛ける質問に、ダインが何とはなしに警戒した目で皇帝を見ても、
「世間話と、取ってくれるとよいよ」
取り付くしまが無い。
探る視線で、それでも素直にダインは応えた。
「……生まれは北の方だ。もうその国は無ェ。見ての通り、金を貰って戦場で働いている」
ダインの言葉に、皇帝は伏せていた視線をやや上げて、眉を上げた。
「ふむ。国は滅ぼされたか」
「まァね」
「三つ目の質問の答えがまだであるよ」
「……この通り色気もへったくれもない無骨者でね。
戦場帰りと言っちゃあ妓娼は喜ぶが、堅気の町娘はまず寄り付かねェな」
「ふむ。そうか。……私も君と同じく女性には縁の無い身だ。それは同類だね」
「アンタに女が寄り付かないってなァ……ないだろ、そりゃ……」
飄とした風情に、呆れて彼は呟いた。
左右対称の顔も、色素の薄い茶の瞳も、陽の下ですら青く感じる空恐ろしいまでの白い肌も。
かたわであることを差し引いても十分な釣りが来るほど、
むしろ釣り銭が多くて返金するのに難儀なほど、
絶世の容姿である。
艶姿だの、玲瓏だの、ダインですら、詩的表現を使いたくなる容姿である。
あまり想像できないが、自分が城の侍女であったなら、恋をしたかもしれない。
ミルキィユに聞いていた前知識がなければ、確実に後宮の愛妾だとでも勘違いしただろう。
妓館で見かければ、本気になって通った容姿である。
「女は綺麗な顔が好きだし、そうでなくてもアンタは皇帝なんだろう。
俺にはよく判らない世界だが、政略だのなんだのの、結婚話なんてのも諸国からきてるんじゃねェのか。
……それとも、貴族さまにたまにある、女嫌い……ってヤツか」
勘繰りも含めて聞く。
男好きとは限らないが、確かに目の前の皇帝に、女性が並び立つ姿がダインには想像できない。
似合う似合わないの問題ではなく、
たった一人で完璧なのである。
「女性は普く好みであるよ」
あっけらかんと皇帝は否定する。
「……じゃ、なんでまた」
「縁を作れない、が正しいのかもしれないね」
「作れない?」
「聞いているだろうが、生まれつき体が弱い。皇妃を迎えても形式でしかないのだよ」
皇帝は低く笑う。伏した瞳が煌いた。
悲壮感は感じられず、楽しんでいる様子だった。
「形……、」
「端的に言うと、交わりで間違いなく往生するのだよ」
「……そりゃすげェな。腹上死か」
「男冥利に尽きるかね?」
「尽きるなァ」
自嘲なのか達観なのか、まるで他人事と話す素振りの皇帝に、
相手の事情はさておき、思わず感心しかけたダインは、けれどそこで不意に我に返り、
「何でそんな話するんだアンタ」
訝しげに尋ねた。
「いやなに、」
アンタ呼ばわりされようと、皇帝もその護衛もまるで動じた様子が無い。
――ここいらは、兄弟だな。
妙なところで感心したダインだった。
「それの飼う虎が如何なる物か興味が湧いただけであるよ」
獣呼ばわりである。
虎と言われて悪い気はしなかったので、
「そうか」
それだけを応えた。
しばらく口を噤み、皇帝は緩やかに視線を、ダインの膝で熟睡する少女へ向ける。
「……そんな顔で眠ることも出来るのだね」
優しい沈黙の後で、ぽつ、と呟いた。
「え?」
聞き漏らしそうなほど小さな声である。
「それが、そんなにも安心しきって眠る姿を私は見た事がない」
皇帝はそう言って近寄ると、肩にかけていた薄い紗を、目を覚ます気配の無いミルキィユの体に被せた。
「えーと……皇帝……あー……陛下?」
「君は、」
ダインの声を遮って、皇帝は数歩前に歩くと、訓練中の兵士達に目をやりながら呟いた。
「君はそれの、鬼と呼ばれる謂れを知っているか?」
「……いや……、強いから、じゃあねェのか?」
「そうか」
そう言えば又名の由来を知らない。
首を捻ったダインに薄く笑い返し、
「そのうち嫌でも耳に入ろう」
深い長い溜息をついて、皇帝は言う。
「……それの事を、火遊び程度に考えているのであれば、今の内に去ることだ。
半端な気持ちでは、喰われるよ。現に、隣国の第三王子の首は飛んだのだしね」
「……アルカナの太守が似たようなこと言っていたな。何があったんだ」
「さあ。自身でそれに尋ねると良い」
風を掴むように、捉えどころの無い答え。僅かにダインは苛立って、責める視線で皇帝を見やる。
「良い雰囲気のときに邪魔をした。私はこの辺で退散するとしよう」
視線の意味を十分理解している上で、皇帝はそれに応じない。
唐突に絶たれた平穏は、同じ人物によってまた唐突に打ち切られ、
皇帝は優雅に踵を返し、中庭伝いに別館へと去っていった。
振り向かない。
「……なんだかんだ言って」
半ば呆気に取られつつ、今はもう届かないぼやきを、その遠い背中へ投げかけた。
「しっかり釘刺しに来てるんじゃねェか」
背を丸める。
「……腹は絶対に黒いだろ……」
溜息をついて見下ろす先に、相変わらず安らかに眠る小さな顔がある。
あまりに無防備な顔だった。
無意識に、髪を指で梳いていた。
――何があったのか。
尋ねて応えてくれるのだろうか。
あの城砦で浮かべた凄艶な笑みを思い出して、急激に思いが込み上げた。
込み上げるのは切なさである。
あの時、少女は砕けそうな笑みを浮かべていた。
「お嬢」
小さく囁いてみる。
夢の中にまで届いたのか、少女の口唇が微かにほころんだ。
元気そうで、何よりでした。
しばらくは時候の挨拶を交わし、取り留めの無い世間話に花を咲かせて食事を終え、
ようやく食後の一杯を喫するに至って、目の前の少女はにっこり微笑む。
「……そちらも、変わりなく」
「はい。けれど、皇都は窮屈に過ぎます」
喧騒から少し離れた、街の一角の小ぢんまりとした屋敷で、男は茶を啜る。
窓から眺める宵闇は、皇都の穏やかな夜の訪れの象徴でもある。
皇帝のまさに身を削る政策の成果か、最近になってようやく国力も安定し始め、
遅くに路地を歩いていても、悲鳴の聞こえる夜は無い。
――前皇帝の頃はこうはいかなかった。
しみじみと感慨に耽る男だった。
名をディクスと言う。
普段は国王直属の護衛任務に就いている。
面と向かって本人に直訴した勇者は未だにいないが、多分に気まぐれで、偏向気質で、
その上、時には冷酷で非常な、エスタッド現皇帝の側近を勤め上げられる資質を持つ、数少ない一人である。
大抵は二日と持たない。
指折り数えて片手には収まりきらない年数を、皇帝と共に過ごした偉業は、
その他の皇帝付きの侍従から尊敬と憧憬の念で見つめられている。
側近任務を、苦行と陰口を叩く者さえいると言う。
幸運にもディクスは、そうとは感じずに、今に至った。
皇帝の怜悧な仮面の奥に隠された、脆い素顔を感じ取れたおかげでもある。
――この方は罅割れた盾だ。
気付いたからだ。
そして、同じような感慨を抱く人物がもう一人目の前に座っている。
「先生?」
砕璃の剣。
ミルキィユである。
怪訝そうな瞳で、物思いに耽りかけたディクスを、覗き込んでいた。
「どうかしましたか?」
「……殿下。その呼称は」
苦笑する。
苦笑し、ふと過去に思いを馳せた。
昔その腕を買われて、少女の剣技の指導をしたことがある。
豪剣。
そう呼ばれた彼の技を、まるで乾いた苔を水に落とした如く、ミルキィユは余すことなく全てを吸収した。
けれどディクスは知っている。
天性の才能だけでなく、少女自身の血の滲むような努力の賜物である。
口さがの無い者達が陰口を叩こうとも、
朝に晩に水中に身を浸け、水面に映る己自身を切り上げ切り下ろした結果なのである。
まるで武芸の心得の無かった少女に、教唆することを最初は渋っていたディクスも、やがて本気になった。
少女の身長にまるで合わない、彼自身の獲物であった大剣を、使うことも許した。
出来の良い弟子に、彼の技の全てを伝授したのだ。
その頃の名残で、彼女は今でもディクスを師扱いする。
皇都には、怖いもの知らずと揶揄される鬼将軍ミルキィユの、頭の上がらない人間が二人いる。
エスタッド皇帝と、その腹心ディクスである。
「わたしも殿下ではありません」
ふふふ。笑ってミルキィユは茶碗の縁をなぞった。
「軍を率いる一将、ですか」
「そうです」
「成果は上々ですな」
「はい。けれど、まだまだです」
言ってしばらくは、茶碗から立ち上る湯気をぼんやりと眺めるミルキィユだった。
物憂げでもある。
その様子に口を挟むこともなく、同じように黙って卓の敷き布の模様を、数え始めるディクスである。
沈黙が苦にならない。
と言うよりは、元来無口な性質であった。
夕刻、退室の時間になり、皇帝に挨拶を済ませ、同僚に引継事項を伝達すると、
ディクスは市街に構える我が家へと帰ろうとした。
呼び止めた声がある。
よければ、一緒に夕飯を。
振り返ると、物覚えの良い愛弟子が、小さな頭を下げていた。
――ご無沙汰しております。
嬉しそうに笑っていた。
誘いを受ける気になり、彼女の私邸で馳走になったディクスである。
誘った本人は知らないだろうが、ディクスの脳裏を、昼間の光景が過ぎったせいでもある。
紅茶が湯気を出し終わり、いい加減冷め始めた頃、押し黙っていたミルキィユが不意に、
「そういえば、最近、虎を飼い始めました」
口を開いた。
「……虎、ですか」
「虎です」
「それはそれは」
不意の話題にも面食らうことが無い。ディクスの取り柄である。
唐突な話題の変換は、皇帝の傍らに控えるだけで免疫が出来ているとも言う。
散歩と称した皇帝に付き合って、中庭で出会った愚直そうな男を思い浮かべた。
あの時、奇しくも皇帝もまた彼を、「虎」と呼んだのだった。
「……しかし、虎ならば手を噛みましょう」
「噛まれたならば、噛まれる飼い主が悪いのです。擦り寄ってくる猫よりはマシです」
明快なミルキィユの応えに、ディクスは苦笑する。
「随分と気に入られておりますな」
「はい。とても強い」
「……強い、」
含んだ言葉が気になって、呟きながら視線を上げると、
「上手に説明は出来ないのですが、」
言い置いてミルキィユが小さく首を捻った。
「今まで見たことが無い強さです。先生の強さともまた違う。正面切って対峙してくる強さではないのです。
力に、力で応じてこない。打ちかかっても、受け流される。
柳のようなしなやかな強さです。わたしは、もっとその強さを知りたい」
好奇心が表情に溢れている。
眺めてディクスは、鉄面皮を崩し、頬を緩めた。
剣技を教えていた以前と同じ、変わらない純粋な好奇心である。
伝えたことを吸収するだけでなく、こちらの伝えんとしている事まで逸早く捉えて放さない。
――勘の良い子だ。
「……それに、」
好奇心が急に鳴りを潜め、諦観の混じった幽かな微笑を、少女はその口唇に浮かべる。
躊躇ってもあるようで、
「ミルキィユ様?」
気になったディクスは思わず問うた。
「その、……自身が女であるということを、思い出しました」
「と、言いますのは」
「おかしなものです」
躊躇いながらも、言い切る視線は真っ直ぐにディクスを見ている。
「14の歳、わたしはアルカナ王国に嫁いで……、あの日、王子を殺して馬を走らせていた時に、
わたしは女であることを忘れようと思いました。女をやめることは出来ないだろうけれど、いっそ忘れてしまおう、
男のようには振舞えずとも、男になろうと思いました。
それでもう良いのだと、誰にも頼らず生きていくしかないのだと思いました。……それが、」
それが。
区切って困ったようにミルキィユは小さく笑う。
「……最近気付きました。
わたしは女を忘れようとして、けれど結局今までもずっと女であったと。
弱い、頼りない、果敢ない女であったようです」
「……ミルキィユ様」
「虎を飼い始めてから、しばしば自身が女であることを思い出します」
そう言って茶碗を両手に包み込んだまま、ミルキィユは窓の外を眺める。
思いが駆しる。
ディクスもまたじっと口を噤み、そんな愛弟子の様子を静かに眺め続けたのだった。
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最終更新:2011年07月21日 10:55