*
「……いない?」
報告を反復しながら、どうにも最悪な事態しか喚起することができない。夕刻過ぎに別邸へ到着し、部屋へ入るなり主が徐に猫に戻るようにと呟いた。移動中、主が退屈に不機嫌気味だったことをディクスは知っている。無言で受けて部下を走らせる。しばらくして戻ってきた部下が、躊躇いがちにディクスを窺うような視線を流し、嫌な予感だけを覚えて彼は部下を伴い廊下へと出た。
「見当たらないのか?」
「は」
「『あの』娘のことだから、此処へ着いてすぐにどこかに身を潜めていると言うことはないか?」
「その件なのですが」
走らせた部下は、幾分チャトラを知っている。彼女がどんな行動を起こす人物か、非礼なことまではしないまでも皇宮の「常識」から思えば十分に、気まぐれにことを起こす人物であることを知っている。皇帝からチャトラを探すように命され、探したもののその姿を見つけられず、騎士数人で困っているところに彼女がひょっこり顔を出した。聞けば枝張りの良い木の上で昼寝をしていたと答えた。そんな小さな騒ぎはいくらでもあった。
その彼女の性格を知る部下が、チャトラを見つけられないと言った。どころか、
「単刀直入に報告いたしますと、馬車から娘が降りた姿を確認したものがいない、ようです」
「降りていない……?」
莫迦な。
皇帝の側から離れなかったとはいえ、ディクスはチャトラが不承不承、姫君と呼ばれる女と共に車へ乗りこんだ姿を見ていた。手ぶらで乗り込む彼女を見て、チャトラらしいなと内心微笑ましく思って眺めていたことを覚えている。同じように乗り込んだ女のあとに続く膨大な量の荷物と対照的だったこともある。
「姫君の馬車周りの警護についていた者を問いただしたのですが、……その」
「その?」
「室内着そのままの恰好で馬車の中で震えていたと、外套を差し出したが断られたと」
「……あの恰好のまま峠を越えたのか」
眉間に皴が寄る。どう考えても無茶だ。
「断られたものの、あの寒さです。その兵も娘を気にかけていたようです。こちらに到着して扉が開いた時に思わず確認せずにはいられなかったと、しかし中から降り立ったのは姫君一人だけだったと、もし元気であるなら是非自分に教えてほしい、そうでないと気にかかって仕方がないからと、逆にそう頼まれた次第です」
「確かに見たのか」
「警護としては無礼な部類に入りましょうが、馬止めの車内を覗き込んだけれども人気は無かったとの報告でした。自分も念のためにもう一度車内を点検しましたが、人間が隠れる隙間はありません」
「……姫君は何と言われているのか」
おっとりとした風貌の女の顔をディクスは思う。
その擬態の裏に隠れる怜悧な刃を、軍隊上がりの彼は敏感に察していた。
「会わせていただけませんでした」
「……どういうことだ」
「峠越えの風に当たったせいか、体調を崩したと、もう休んでおられるので聞きたいことがあれば明日にしてほしいと、付き人ににべもなく断られまして」
断られてしまうと賓客扱いをしている建前上、部下の権限ではそれ以上押し切ることはできない。
なるほど、と低く呟いてディクスは目まぐるしく頭を働かせる。
「自分は今一度、屋敷内すべての部屋を捜索するつもりですがそれでよいでしょうか」
「……そうしてくれ。姫君の部屋へは俺が行く」
「は」
不安を隠すことなく、けれど任務に忠実な部下はそれ以上の言葉を発することなく、数人の供回りを連れて直ぐに捜索を開始した。
着こなした黒い鎧が重い。こんな時は嫌な予感がよく当たる。
そう広くもない屋敷内で、女に宛がわれた一室へ辿り着いたディクスは、扉前の護衛に軽く目をやり、中の人間に対して礼を失しない程度の強さで扉を叩いた。
「……どなたか」
室内からくぐもった女の声がする。姫君と呼ばれる目当ての声ではなく、付き人の中年女の声だった。
「失礼させていただきます」
誰何の声に名乗ることなく、普段の彼からしては乱暴なほど扉をあけ放った。後ろ手に閉めた扉が完全に閉まりきる前、無礼者、との怒りの声と共に水差しが遠慮なく飛んできたが想定範囲内だった。
投げつけたのも付き人の女だ。その主は羽化したての蜉蝣のような儚さで、寝台から上半身だけ起こし、ディクスを黙って見つめていた。
「無礼は百も承知です。しかし姫君に火急の件がございます」
「どの口が言うか!」
顔から滴る水を拭うことなく頭を下げたディクスへ、女の叱責が再び飛ぶ。その声に被せていいのよ、と朧で浮ついた声がした。
「わたくしに、訊きたいことがあるのでしょう」
「姫様」
「お聞きなさい。答えられることはすべて答えて差し上げてよ」
「お言葉に甘えて遠慮なく」
腰を屈めた状態で、ディクスは顔だけ上げて寝台の上を見た。優しい声音とは裏腹に、突き刺すほどに冷えた視線が女から発せられている。
「猫を探しております」
「――猫」
不思議そうに首を傾げる仕草に、何人が騙されたのか。
「皇都を発するときに、姫の足元へまとわりついていた猫です。屋敷で姿を見かけず、探している最中なのですが」
「……」
「馬車へ乗り込む姿は確認されているのですが、その後の姿を誰も見ていないのです。此方へお邪魔してはいないかと思いまして」
「――わたくし?」
もう一度首を傾げ、ほう、と吐息を吐いて女は淡い額の生え際へ指を走らせた。
「わたくし、猫なんて知らないわ」
「ご存知ではないですか」
「わたくし、猫は嫌いですもの」
ねぇ、と含むように寝台脇の付き人へ女は小さく微笑んだ。童女のようにあどけない。姫様は犬がお好きですものね。中年女が微笑み返す。
「ええ、そうよ。犬はとても好き。這いつくばってすり寄ってくるでしょう。わたくしが褒めてやると、千切れるほどに尻尾を振るでしょう。愚かで哀れな生き物だわ」
「姫様のお優しさは、畜生にも通じているのでございますよ」
「そうだわ。こちらにしばらくいるのでしょう、わたくし犬が欲しくてよ。陛下にまたお願いして犬を頂くわ」
「姫君」
「――それとも、お前が犬になりたくて?」
忠犬。
囁かれてディクスは、心のうちで苦笑を滲ませる。犬呼ばわりされることに何ら抵抗は持たなかった。と言うよりは忠実な犬たれと、常に己に言い聞かせて皇帝に仕え続けてきた。むしろ大歓迎だ。
「残念ながら、二心に仕えるつもりはありません」
「――そうね」
ごねるかと思った女は、あっさりと引き下がる。
「犬ですものね」
ほうと吐息をついて、女は視線でディクスを値踏みする。
「うつくしい、けものね」
「重ねてお尋ねしますが、此方に陛下の猫はお邪魔していないのですね?」
「さぁ……?」
夢うつつの視線はどこか頼りなくて、話にならない。話をする気がないのだ。
これ以上関わっても無益だとディクスは判断し、邪魔をした非礼を詫びて部屋を後にした。扉を閉めたその顔がひどく険しくて、扉前にいた兵士が慌てて姿勢を正す。
チャトラの行方が不明になったことについて、女が関わっていることに間違いはない。黒か白かと言われれば、確実に黒だ。ただ、その情報が引き出せない。
思わず顎に手を当て思案し始めたディクスの背後から、躊躇いがちな声が掛けられる。
「ディクス卿」
扉の前に立った若い警護のものである。
振り向いて初めて、しげしげと見直した若い男は実直な顔をしていた。ディクスの部下の部下のさらに部下、そのあたりの役職であると思われる。何度か兵舎で顔を見かけたことはあったが、生憎名前までは覚えていなかった。
「……君は、」
「ラズと申します。先月まで第五特殊部隊……ミルキィユ隊長の部隊に配属されておりました」
「殿下の」
不意に愛弟子の名を聞いて、ディクスの視線がほころぶ。彼女が皇帝の抜身の刃になると決めたその日から、己の技のすべてを授けた経緯があった。
「皇宮はどうだ。慣れたか」
「戦場と同じと言う訳にはいきません。まだまだ不慣れで無作法な粗相ばかりです」
「そうか」
年の思い切り離れた弟を眺める気持ちでディクスは兵士に向き直る。
「ラズ、殿下の話はぜひとも聞かせてほしいところだが、俺は今とても忙しい。呼び止めた理由を聞いてもいいだろうか」
「は、お忙しいところ申し訳ありません。ですが呼び止めた件はミルキィユ隊長のことではないのです。その……、自分にはどうしても気になることがありまして」
「気になること」
皇妹ミルキィユの部隊は「特殊部隊」と名の通り、奇抜な行動を得意とし、一撃離脱の戦法や奇襲、闇討ちに利用されることが多い。当然、個々の能力もある基準以上を求められるし、戦場でものを言うのは実力だけだ。芯の通っていない貴族上がりの偽りの騎士が、部隊の訓練段階で根を上げ、彼女に罵倒された挙句除籍処分を受けたと言う逸話も一つ二つでは済まない。
彼女は厳しい。ただしその厳しさは常に、周りのものより自省する厳しさである。
であったから、口さがのない軍上層部はともかく、実力を実力と認める傭兵や下っ端の兵士には人気が高い。
目の前の兵士はまだ年若いが、その「厳しさ」に耐え得る強さを持っていたのだろう。それは言いかえると有能であると言うことだ。
ディクスに名を呼ばれ、一瞬破顔した顔を引き締めてラズと名乗った若い兵士は言った。
「自分は皇都の礼儀をまだ知りません。ですので、率直に申し上げます。皇都よりこちらまで姫君の馬車周りの護衛に自分は就いておりました。娘の不在に車内を覗いたのも自分であります」
「君か」
「はい」
「気になること、とは何だ?」
「娘の声を聞いたように思います」
「……チャトラの?」
聞き捨てならない言葉を聞いて、ディクスの顔が真剣味を増した。
「どこで?」
「丁度峠越えの辺りであったように記憶しております」
「それは、」
「確証はありません。姿を見た訳でもありません。ただ、風に乗って呼びかけるような声が聞こえたように思います」
「……確認するが、外から、か?」
「谷間の辺りより聞こえたような気がしました。ただし、あの悪路と天候で、自分も確かめに戻る訳にもいかず、続けて聞こえては来なかったので、空耳だったのだろうと聞き流していたのですが」
「外套を差し出したのは君だったのだな」
「申し訳ありません。今では無理にでも着せ掛けていればと後悔しています」
「……いや」
若い兵士の言葉一つで判断する。軽率と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。けれど手がかりが少ない今、一刻を争う事態になっているのだとしたら、行動を起こさない訳にはいかなかった。
あの薄着で山中に放置されたら確実に死ぬ。
「ありがとう。参考にする」
ぽんと肩を一つ叩いて、ディクスは踵を返す。少し歩いたところで、向こうから小走りに自分を探す部下の姿に気付いた。
「やはり、見当たりません」
短時間で全ての部屋を確認して回ったのだろう、息を切らせて併歩しながら、ディクスの指示を仰いでいる。
「エイコ」
「は」
部下の名を呼んだ。
「極寒を覚悟で、装備を固めて直ぐに数人分、用意できるか」
「十もあれば良いですか」
「頼む」
「は」
短い返事のみで来た廊下を直ぐに引き返す己の片腕を頼もしい思いで眺め、それからいつの間にか辿り着いていた皇帝の部屋の前で足を止める。
深呼吸をした。
軽く叩いてやはり了承を得る前にディクスは扉を開ける。先はそこで水差しが飛んできた。さすがに主は慣れたもので、視線をディクスへ流すのみで、咎めの言葉は一言もない。
と言うより、主がそうした礼儀だの手順だのに拘った場面を、長年側に仕えているディクスですら見たことがない。
「――ディクス」
「はい」
「雪が止んだ。良い月だ」
長椅子にゆったりと腰かけ、窓越しに薄暗くなりつつある外を眺めていた主は顔だけディクスへ振り向いている。蝋人形のように生気の薄い肌は真っ白で、あまり具合が思わしくないのだなと気付かせる。
「陛下」
「うん、」
「チャトラが消えました」
疲れているだろう時に、心労を増やすような報告をしたくはないなと内心一人語散、それから、主はチャトラの不在を聞いて心労になるのだろかと、ふと疑問に思った。
根っこの部分では主も、姫と呼ばれる女も似たようなものだ。
寒天質のような薄膜一枚隔てた「向こう側」に彼らは生きていて、そこは似て非なる場所である。
「ほう」
暫く沈黙を楽しむように、手にしたグラスの中の液体をゆらゆらと回していた男が、静かに呟いた。
「魔法使いがいるのかな」
「行途で彼女は逸れたと思われます」
「はぐ――れた、ね」
くふぅん、と鼻から息を漏らして皇帝は僅かに笑った。
「器用な逸れ方をするものだ」
姫君が、と言葉にしかけてそれは自戒した。ディクスの立場で口にして良い話題ではない。少なくとも、主が女を客扱いしている間は。
それに、ディクスが口に出さなくても、主は既に十分判っている。
「君のその様子だと、今から捜索隊を出すとでも言いそうな気配だ」
「はい。直ぐにでも出発させる予定です」
「場所は特定できているのかな」
「おおまかには」
「……」
そこで初めて皇帝はディクスの方へと体ごと振り向き、
「――この寒さの中、しかも光源の少ない夜に、山中を捜索することは自殺行為ではないか」
言った。
「ですから」
危険は百も承知だ。しかし、主の命を受けた以上に、その自殺行為である真っ只中に今チャトラがいるかもしれないことを思うと、どうにも気が焦る。若い兵士の証言は十中八九間違いがないだろう。ディクスは兵士の人となりを知らないけれど、断定してもいいような気がした。そうでなければミルキィユ直下で動けはしない。
「ディクス」
「はい」
「君は部下を凍死させる気なのかね」
「……それは、」
ディクスにしては珍しく口ごもる。言われるまでもなく、日が暮れてからの山中探索を決行することは、無謀だと言うことは判っていた。しかも、冬。
多重遭難。
そうでなくともチャトラが既に動けない状態になっている確率が高い。
「猫の仔一匹とまだ用途のある兵士十名。――どちらが優先されるべきか、君なら判っているはずだが」
「しかし」
「君らしくもないね。何を躊躇う」
「しかし、陛下」
ディクスにしては珍しく食い下がった。
……大局を見よ。
軍人であった家系のディクスは、幼い頃よりそう言い聞かされて育ってきたし、長じては己自身言い聞かせて勤めに当たってきた。戦場であれ、護衛の任であれ、一瞬の判断が求められる時に情けを挟むと厄介なことになる。女子供を剣にかけても動じない自制心。それは強さと言うには少し悲しいが、今は仕方がないと思っている。「そういう」時代なのだ。判っている、けれど。
うっすらと笑みを浮かべ、まるで焦慮しない皇帝にふとディクスは寒気を覚えた。この主は本当に、人を人として見ていないのではないか。
使い捨てられ、惑わされた人間のなんと多いことか。
「出発することを許可しない」
「しかし」
「今日はご苦労だった。君の部下たちも草臥れていることだろう。休むように伝えなさい」
「しかし」
「――ディクス」
淡々と告げる皇帝へ尚も渋ったディクスの耳に、
「はい」
「ご苦労だった。休みなさい」
酷く静かな声が飛び込んだ。はっとした想いで、ディクスは思わず顔を上げる。
見上げた皇帝の顔は、相変わらず取り乱しもせず綺麗だった。どこか夢を見ているような茫とした視点の定まらない瞳。暖炉の明かりに揺らいで見えない窓側の、素顔。
「申し訳ありません」
頭を下げなおしたディクスに、
「疲れたろう。休みなさい」
重ねて皇帝が言った。
それ以上ディクスには何も言うことがなくて、黙って姿勢を正すと静かに部屋を後にした。重い気持ちで廊下を進む。準備が整ったと駆けてくるエイコに二言三言、首を振って応え、それから自室へと向かう。
最後に掛けられた主の言葉は、労いの意味のはずだった。だのに、ディクスには独りにしてくれと聞こえてならなかった。
*
彼女に初めて出会ったのがいつだったのか、チャトラはあまりよく覚えていない。どことも知れない町の広場で、夕日を背にした彼女がチャトラに向かって近付いてきた。どんな顔をしていたのか、判らない。笑っていたのかもしれない。笑っていたのだろう。きっと、歩きくたびれてぐしゃぐしゃになったチャトラを、脅かさないようにそっと笑って近付いてきたのだろうと思う。
対した自分には、あまり感動が残っていなかった。怖い、だとか悲しい、だとかそう言ったものはもう何日も前に涙と一緒に流し尽くした後だった。喉が渇いていたし、腹はずっと減っていたし、涙と鼻汁まみれの顔はごわごわと乾いて、不快なだけだった。
彼女が何を思って自分へ近付いてきたのか判らない。行き交う大人の足元を、ふらつきながら無表情で歩く自分に何かを重ねたのか、それとも保護して恩を売っておいて親が探しにでも来たら、せしめようとでも思ったのか。正確な年は判らないけれど、三つか四つの頃だった。人買いにでも知らず売り飛ばせれば、それなりな値段にはなっただろう。
(違う)
皮肉に流れる思考を頭を振ってチャトラは引き戻す。
彼女はどうしようもなく優しかった。上辺だけの優しさで、あそこまで無償になれるはずがない。多分彼女は後先も考えず、汚れた幼児に見かねて手を差し伸べたのだ。
困ったように笑って。
――おかあさんとはぐれちゃったんでしょう。
相変わらず夕日を背にしていて、顔がよく判らなかった。けれどチャトラにはもうどうでも良かった。目の前に、視線を合わせるように屈んで、彼女に覗き込まれた時も、怯えも驚きもなかった。ただ、目の前に障害物が急に湧いたので、歩くのに邪魔だなと思っただけだった。避けて歩くのは億劫だった。できればさっさとどいてほしいと思った。
腹が減っていた。
口に物を入れたのは、落ちていたビスケットを拾って食べたのが最後だと思う。いつ食べたのかは幼児の時間記憶で、はっきりとしない。半日前だったのか、数日前のことだったのか。ただ、半欠けのそれが、道端にひっくり返って落ちていて、同じタイミングで見つけた野良犬を死に物狂いで追い払って食べた。払っても落ちない汚れがところどころ染み込んでいて、口に入れると大分じゃりじゃりとした音がしたけれど、それでも「食べられるもの」だった。じっくりと噛み含んでなるべく引き伸ばして食べようと思ったけれど、気が付くと瞬く間に食べ終わっていた。
きりきりと痛むほど空っぽだった腹に放り込んだなけなしのビスケットは、余計に空腹を際立たせるだけで何の満足感も得られなかった。
惨めだった。
腹が減っていたし、寒かった。
道の両脇の露台には、果物や野菜や、そのほかチャトラの名前の知らない食べ物がずらりと並べて売られていたけれど、それを手にする勇気はなかった。三つ四つの割に知恵が働いたのでも、良識があったのでもなく、単純にもう何度も腕を伸ばしていて、したたかに折檻されたからだ。
これ以上打たれるのはまっぴらだった。
その時分で既に親の顔が判らなかった。覚えていたのに忘れたのか、そもそも覚えるほど側にいなかったのか、チャトラには判らない。その時チャトラは生きていたから、数日前までは確かに養われていたのだろう。幼児が一人で生きてゆけるとは思えなかった。何がしかの情を注がれていたのか、それとも放置されていたのかそれは判らない。
ただ、あまりあたたかなものは存在しなかったように、おぼろげながら思う。
そうして、きっと棄てられたのだ。
数年してから、旅の一座からはぐれたに違いないと、彼女が何度もチャトラに言い聞かせてくれたけれど、それはないのだろうなと幼心に感付いていた。
それでも自分は頷いていた。信じたふりをした。何故なら彼女が自分を傷つけないように、懸命だったことは判ったから。
膝ががくがくと笑っている。
目の前の影はどこうとしなかった。
舌打ちして、のろのろとチャトラは顔を上げる。どけよ、と言いかけた口がその形のまま止まった。
――食べる。
短い言葉と共に差し出された黒パン。目にした瞬間、言葉の意味が頭に染み込むより先にひったくるように奪っていた。
奪ったのと、口に入れたのが同時だったかもしれない。
満足に咀嚼もせずに三、四口。驚く様子もなく彼女は、手提げをまさぐってさらにもうひと欠片差し出した。
奪って食べた。
差し出す。
食らう。
出しだす。
食らう。
考える余裕はなかった。
ほとんど塊のまま飲み込んで、喉に詰まらせ目を白黒させていると、女が水を差し出した。ひったくって飲み干し、また焦ってパンを口に詰め込む。
この女は何なのかだとか、どうしてこんなことをするのかだとか思いつきもしなかった。無我夢中だった。
暫くそうして繰り返して、とうとう手提げが空になる。
彼女がおかしそうに声を立てて笑った。
衒いのない声だった。
――アンタ、ひと土台全部食べたわよ。
黒パンひと土台と言えば、大人の頭と同じほどの大きさで、それを一気にろくに噛みもせず幼児が食べきってしまったのだから、驚きもするだろう。体だけはあの時の自分より二倍は大きくなったチャトラだけれど、今ひと土台一度に食べきれるかと言うと、とことん腹を空かせたとしても、あまり自信がない。
それだけあの時の自分は飢えていたのだ。
腹が満たされてなんだか呆となったチャトラは、ゆらゆらと揺れながら立っていた。生理的な苦痛からようやく解放された思考は、まだ追いついてこなかった。
そのチャトラへ腕を伸ばし、彼女は不意に抱きしめた。垢と汗と埃と泥と涙と鼻汁と、いろんなものでぐちゃぐちゃになったチャトラを、躊躇いもせず、両腕で、ぎゅっと。
無感動に抱きこまれた彼女の胸は、あたたかくてやわらかくて、いいにおいがした。やさしい匂いだった。
途端にチャトラの中の何かが崩れた。
ずっと堪えていたのだった。冷えて凝り固まった痞えを、押し殺して無理やり見ないふりをして、生き延びることに必死だった。そのうち忘れて。自分自身忘れてしまうくらいに。
わっと火が点いたようにチャトラは泣き出した。何が悲しかった訳でも怖かった訳でもないのだけれど、涙が止まらなかった。泣きやむまで、疲れて眠ってしまうまで、彼女は辛抱強くずっと抱きしめてくれたままだった。
――我慢してたのね。
そんなことを囁かれていたように思う。自分の泣声が耳について、半分以上聞き取れはしなかった。
もっときちんと聞いておけばよかった。
それが今になって悔しい。
目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。天井裏の手狭な一部屋だった。あちこち擦り切れ使い古された、けれど丁寧に繕われている毛布にチャトラはくるまれていて、朝日をやはり背にした彼女が、こちらをみておはよう、と言った。表情は判らない。
じっくりと室内を見回す。
軋む金属骨組みの寝台と、古ぼけたランプ、日に焼けたカーテン。それと彼女の身の回りの品が仕舞われた小さな木箱。
部屋にあったものはそれだけだった。
一緒に住むかだとか、養ってやるだとか、彼女は一言も口にしなかった。けれど逆に出て行けとも邪魔だとも言われなかったので、チャトラは何日かそこに居ついた。彼女は夕暮れになるとどこかに出かけて行き、朝になると戻ってきた。いくらかの金銭と、朝食のパンを抱えて戻ってくるのをそのうちチャトラはじっと待つようになった。
夜中一人で待つのが怖かったかと聞かれると、今でも不思議に思う。怖くはなかった。全くの無音であったなら、幼児にとって恐怖だったのかもしれないが、生憎と雑然と建て込んだ裏通りは、夜半必ずどこかで酔いどれの喚き声が聞こえたし、そうでなくとも近隣の壁は薄くて話し声や喧嘩の内容や、珍しくない頻度で交接の喘ぎも聞こえてきた。その音を子守歌にチャトラは眠った。
何日か居ついていたものが、そのうちひと月が経ち半年が経ち、気が付くとチャトラは彼女と一緒にその部屋で暮らしていた。
姉ちゃん。
ひやりとしたものを感じてチャトラは目を覚ました。いつの間にかうとうととしていたものらしい。眠りかけていた。この状況で。
人間は歩いたまま眠れるのだな、と妙なところで感心した。
眠ったまま崖下にでも足を滑らせてこと切れるのなら、それはそれで安楽かもしれないとふと思い、
……それはないな。
もう一人の自分が直ぐに否定した。
それはないだろう。安楽と思えるのなら、どうして自分はあの場所を離れて今歩いている。
馬車より放り出されて、吹き荒れる雪の中、寒さに朦朧と歩いていたチャトラの目に黒く口を開けた洞(うろ)が飛び込んだ。枝葉を落とし幹の部分で雪を受けて、半分溶けた幽霊のようになった大木の洞だった。少し窮屈ではあったけれど、風と雪を避けられるだけでも十分マシだった。
潜り込んだ木の洞の内部は、どこもかしこもやはり冷えていて、触れるたびにそこから体温が抜けていくような気がして泣きたくなった。いつまでここにいたらいいのか、少なくとも風雪が止むまではどうにもならない。迎えは来る気がしなかった。そもそも声すら届かなかったろう。足踏みをして暖を取り、恐怖を抑えるために小さく数え歌を歌った。何が怖いのか自分でもよく判らない。死ぬのかもしれないと言う恐怖も勿論あったけれど、それよりも静まり返った無音の世界が怖かった。
当然風の吹きすさぶ音や、舞い上がった雪が樹木の間を駆け行く葉擦れにも似たような音はあった訳だが、何よりその時チャトラは世界で一人ぼっちだった。
運が良かったと言うべきか、悪足掻きをするという意味では悪かったと言うべきか、深更にはすっかり雪雲が晴れて、煌々と雪面を月が照らしていた。
暗闇は怖い。
暗闇を一人で歩くのは怖い。
けれど、その場に留まることはもっと怖かった。追い立てられるように洞を出て、振り向いたぽっかりとした空洞にぞっと背筋を凍らせる。
それから、中りを付けた方向へ、チャトラは歩き出した。崖から転がり落ちた時点で道は疾うに外れている。方向も曖昧で、月明かりが照らしているとは言え大まかな南北が判ったところでどうにもならない。ただ、盲滅法に歩き始めただけだ。
姉ちゃん。
時折ざざと樹木の枝から雪が崩れ落ちる音がするよりほかは、無音だ。自分の呼吸音だけが耳障りに響く。
再び夢見心地のまま、チャトラは進んでいた。
姉ちゃん。
そういう風にチャトラは彼女を呼んでいた。何度か名前を教えてもらったこともあったけれど、教えてもらうたびに彼女の名前は変わっていて、一向に定着しないのだった。発音が難しかった、訳ではなく文字通り教えてもらう毎度、名を変えていたのだ。彼女自身が望んでそうしたと言うよりは、その時呼ばれていた固有名詞が「それ」だったに過ぎない。「仕事場」を変える度、名前を変えていたのだろう。
最初に呼んだとき、姉は少しくすぐったそうな顔をして、それからいいわ、と笑った。
やさしい人だった。
姉は娼婦だった。それも、店に属することのない、街角で立つ花売りとも夜鷹とも呼ばれる最下層の娼婦だった。店に属すると、中間手数料として半分以上を売り上げと称して持って行かれる。姉と同じ境遇の女が、その手口を嫌って単独のその日暮らしをしていた。手っ取り早く、その日の「売上」がそのまま懐に入ることも大きいようだった。
給金と言う形で月に一度の支払いとなるそれでは、暮らしていけないのだった。保たないのだ。
けれど、花売りの儲けが店と比べて、決して多かった訳ではない。店に属さない彼女たちは、属さないが故に時にはひどく扱われ、弄ばれ、どこそこの路地裏に裸で転がされていた、だとかいう半ば薄ら暗い噂話も年に数度は流れた。裏町一帯を取り仕切るやくざ者の嫌がらせからも、彼女たちは逃れる術を持たなかった。
姉と呼んだ彼女も、何度か顔に酷い痣を作って帰宅したことがある。泣き腫らした目が真っ赤に充血していたにもかかわらず、部屋で待っていたチャトラを見るや、ただいま、そう言って笑った。花がほころんだように優しい笑顔だった。
驚いて駆け寄るチャトラを抱きしめて、何でもないのよと謳うように言った。何でもないの。アンタは心配しないでいいのよ。
そんなときの姉はいつも、あたたかでやわらかくて、そうして白粉の少しだけ良い匂いがした。
姉は気丈だった。少なくとも、チャトラの前ではいつも。
三つだったチャトラが四つになり、五つになり、六つになる頃には、少しは分別とやらが身について、姉の置かれた状況も理解し始める。
姉の一夜の花代では、姉とチャトラが満足に暮らしていけるには程遠いことに、ある朝気が付いた。いつもと同じように朝飯を詰め込んでいたチャトラを、愛おしそうに眺めていた、その表情をみて何故か気が付いた。
彼女はどうして抱えてきたパンを口にしないのか。どうしていつも嬉しそうに食べるチャトラを見ているだけなのか。
いらない。
不意に食欲が失せて、齧りかけたパンを差し出したチャトラを、彼女は不思議そうに見つめる。
これ、いらない。
どうしたの。
なんでもない。
お腹でも痛いの。
違う。
じゃあ、どうして食べないの。
……だって。
オレが、オレのせいで姉ちゃんが腹一杯食べられてないから、言いたかった言葉は喉で痞えて、代わりに俯いた拍子に涙がぼたんと落ちた。
彼女はその涙を見て、全てを理解したようだった。
莫迦ね。
唇を噛み締めて泣きべそを堪えたチャトラの両頬に手を当て、彼女の方へ顔を上げさせる。生真面目な、少しだけ厳しい、それでもどうしようもなく自愛の顔をした、姉。
アンタは子供なの。子供は食べることが仕事なの。子供はそんなこと気にしないでいっぱい食べなさい。
叱る姉の声。
嬉しかった。そう言ってくれる姉が、仮令空元気だったのだとしても自分の前では何にも代えがたい、頼れる存在としていてくれた姉が。
そうして悲しかった。庇護されることに甘んじる、自分の未熟さと幼さが。
差し出された食べかけを口に入れ無理矢理咀嚼した。飲み込んだパンは塩辛かった。
(……莫迦はどっちだよ)
今になって思う。
大人ぶった姉は、今のチャトラの年とそう違いはなかったはずだ。たった十四、五の娘が、育ち盛りの子供を抱えて二人、生きて行くのがどれほど大変だったか。
どれ程自分はそれに甘えていたか。
チャトラ。
そう名前を付けてくれたのも彼女だ。
アンタは花売りとは違うのよ。
固定した名前を持たない彼女が付けてくれた固定された名前。もしかするとそう言いたかったのかもしれない。
本当は、チャトラは娼婦でも構わなかったのだ。姉のために役立つことならば何だって構わなかった。けれど残念なことにチャトラはあまりにも幼くて、その「用途」を果たせず、事情を知る花売りの女たちの目もあった。仮に街角に立ち、幼女に対してある一定の性癖を持つ大人を捕まえられたとしても、周りがこぞって止めたろう。
半分はチャトラの為に、そうしてもう半分は姉の為に。おせっかいな花売りたちはきっと止めたろう。
案山子に布を巻きつけただけのような幼い娘が、他に役立てる仕事も街ではこれと言って無かった。
初めてチャトラが、タダ働き同然でくたくたになるまでこき使われた日、子守り名義で家の中のチャトラに出来ること全てを押し付けられた日、棒切れのようになった足を手で揉みながら、チャトラは家に帰った。同じくらいの重さに思えた赤ん坊を、丸一日背負った肩は赤く腫れてひどく痛んで、それでも得意げに駄賃を姉に差し出した時の、彼女の顔を忘れない。
いつものように部屋に戻ってきた姉は、差し出された何枚かの銅貨を見て驚きに目を見張って、それから両目を涙でいっぱいにして、何も言わずにチャトラを抱きしめた。
姉はその時もあたたかくてやわらかくて、いいにおいがした。
しばらく声も立てずにじっと抱きしめていた彼女は、それからさっぱりした表情で何か買いに行きましょう、そう言って笑った。
銅貨を握りしめて、朝の喧騒の町中を二人で手を繋ぎ歩いた。見かけた菓子屋で足を止め、手の中の駄賃と菓子を睨むように何度も何度も吟味しながら、四葉の形の焼き菓子を数枚。手渡されてそれで駄賃は終わりだった。それでもチャトラは得意だった。姉に何かをしてあげられたこと、ようやくその手伝いができること、大人になったと認められたような気がして嬉しかった。
焼き菓子は二人で噴水横に座り、分け合って食べた。少しずつ少しずつ、大事そうに口に運ぶ姉を見て本当にうれしかったのだ。
自惚れていたのだ。
その実二人で住む、鳩小屋のような屋根裏部屋すら、木賃を滞納しかけていて追い出されかかっていたこと、姉が体を売って大家に掛け合ってどうにか凌いでいたこと、日に日に成長するチャトラが姉の稼ぎを上回っていたこと、そうした一切を顔に出さずにいつも笑っていたこと。
(……莫迦は、オレだ)
自惚れて、大人の仲間入りをした気になって、姉が「危ない」とされる種類の客を、周りの花売りの女たちがよほど切羽詰まらない限り手を出さない客を、引いていたことをまるで知らなかった。僅かに不穏の欠片は覗いていたけれど、大丈夫、アンタは心配しなくてもいいのよ、そんな言葉を頭から信じ込んで彼女の心労を全く理解できなかった。
子供だった、自分は本当に子どもだったのだ。
姉はきっと、自分を棄ててしまえば良かったのだ。
チャトラを放り出した生みの親と同じ、手に余るくらいなら切ってしまえば良かったのだ。我が身を削って、どこまでもどこまでも削いで、そこまで尽くす義理がどこにある。薄汚い、ずる賢い目ばかりがぎょろぎょろと白い子供を無償で養うなんてことはせずに、どこか街の広場へ、棄ててしまえば良かったのだ。
姉はしなかった。
できなかった、のかもしれない。やさしい人だったのだろう。
あの客は昏い目をしている。あの客はよした方が良い。
止める周りに大丈夫、と笑って姉は出かけて行った切り、ある日戻ってこなかった。報せを受けて走ったチャトラの目に映ったのは、冷たく、青く、硬くなった、姉の変わり果てた姿だった。路地裏に、まるで人形のように転がされていた。見つけた通行人がきっと情けに腰を覆ったのだろう、きわどい下半身はそれでも何とか襤褸布で隠されていたけれど、上半身は剝きだしで、絞め殺された指の痕が首に赤黒くはっきりと浮かんでいたのだった。
いつもあたたかくてやわらかくて、いいにおいのした彼女はもうどこにもいなかった。
二人を知ってる誰かに押し出され、硬い体の前に立ってまじまじと見下ろす。
目を見開き、苦悶に歪んだ表情は初めて見る類のもので、それはチャトラの知らない「誰か」だった。少なくとも姉ではない。
じっと見下ろしているのはなんだか無慈悲な気がしたので、しゃがみ込んで彼女の瞼を押さえ、そっと下ろした。目を閉じるといくらかあどけない表情になった。
涙も、声も出なかった。
ただ、がんと頭を殴られたような衝撃が一つあって、その日のうちに黙ってチャトラは街を出た。部屋には戻らなかった。戻りたくなかった。
あの部屋で待っていれば、彼女は朝になって帰ってくるのだ。きっと帰ってくる。だって今までもずっとそうして帰って来ていたから。
開かない扉を見つめているのは怖かった。
もう戻らない何かがあるのだと認めることは嫌だった。
(――姉ちゃん)
強張った唇が小さく姉の名を呼んだ。
夢を見ているようだった。
ざくざくと足は確かに積雪を踏みしめているはずなのに、音さえも何故か遠い。皮膚感覚はとっくにどこかへ行っていて、痺れるようなぼんやりとした痛覚だけが残っている。だのに寒さは芯まで切り裂いて、時折頭から足先に響くような衝撃が響いた。
夢は見たくない。
夢の中ではいつまでも、姉の縊り殺された顔が消えないから。
皮肉なものだと思う。
二人で暮らした数年の間、姉自身が持っている何もかもを、注いで育んで愛おしんでくれたと言うのに、夢に出てくるのはこと切れた死体の顔だけだ。
抱きしめてくれた、その腕を伸ばして。
花が咲いたように笑いさざめいていていた、顔を苦悶に引き攣らせて。
夢の中で何度も何度も、彼女はチャトラの首を絞める。
アンタなんていなければよかったのに。
アンタがいなければ、あたしは。
(違う)
姉は言わない。あの底無しに愚かなほどやさしい彼女が言うはずがない。それはチャトラの昏い願望だ。
チャトラ。
ふと耳元で誰かが呼んだ気がして、のろのろとチャトラは顔を上げた。いつの間にか、雪の上に膝を突いて放心していた。
駄目でしょう。
叱られた気がして膝を立てる。がくがくと膝が笑う。あの時、姉が最初にチャトラを「拾った」その時笑っていた膝と同じように思えて、彼女は少し笑った。
笑ったとは言っても顔は既に凍り強張っている。睫毛の先まで霜が降り、正直視界も暗い。笑ったような気持になっただけだ。
緩慢な動きで後ろを振り向く。点々と自分の足跡だけが蛇行しながら足元まで続いている。ここまで歩いてきたのだな、脈絡もなくそんなことを思う。
あるかないと。
麻痺した頭にそれだけを思う。
あるかないと、姉ちゃんにおこられる。
踏み出した足に余りに感覚がなくて、おかしな具合に足首をひねってどう、と転んだ。細かな粉雪が倒れたはずみにきらきらと舞って、月明かりに豪く綺麗だった。一瞬見惚れて、それからまた立ち上る。
動かないと、動かないと直ぐにでも体の芯まで冷え切って動けなくなってしまう。
街頭で、路地裏で、何人も同業者が朝になって冷たくなって死んでいた。前日まで動いていたものが、たった数刻前まで話をしていた隣の人間が不意に息をしなくなっている恐怖。
チャトラ。
真っ白な息を吐いて歩くチャトラの耳元で、誰かの呼ぶ声がする。
姉だと思ったその声は、いつの間にかずっと低くて、腹立たしいほど耳に心地よいものに変わっていた。繰り返し吹き込まれるテノール。
アンタは。
アンタは、いつもいつもオレのことを名前で呼ばないくせに、滅多なことじゃ呼ばないくせに、こんな時に限ってそんな優しい声で呼ぶのか。
悔しくて歯軋りをした。
チャトラ。
(オレを呼ぶな)
唸る。
姉ちゃんが付けた名前でオレを呼ぶな。
アンタは姉ちゃんとは違う。硬くて、どこもかしこも冷たくて、ほんの少しだけぬるい。そのぬるさでひとを惹きつける。やさしそうなふりをして容赦なく突き放す。醒めた視線で周りを見ていて、一向に自分の裡へ近付けない。
逃げ水みたいなものだ、とふと思った。
目の前少し先にゆらゆらと浮かんでいるくせに、近付こうとするといつの間にか先へ逃げている。どんなに追いかけたって追いつける道理はない。
だとしても決して虹のような、だなんて言ってやるものかと思う。そんな綺麗なものに例えるなんて業腹だ。
あの人形のような女の人にだって、そうしたんだろう?
アンタがもう小指の先分でも、あのひとに優しくしてあげたら、あのひとを気に掛けてあげていたら、何かが変わったんじゃないのか。徹底して撥ねつけて、だのに手放さない関心は、関心なんかじゃあない。本当に要らないのなら無理矢理にでも国へ送り返すべきだ。相手にはっきりと告げてやるべきだ。
透明質な視線の向こうに、渇望した女の焦れた色を思い出す。
そうして、男の起こした過去をひっ被せられて、なんて自分は損な役回りなのだろうと思う。あの男のせいで殺されかけるだなんてまっぴらごめんだと思った。
でももう体が動かない。
小刻みに震えている歩みを維持することが出来なくて、チャトラは再び躓いた。
顔面から突っ込んだ新雪は、衝撃を何も与えはしなかったけれど、冷たさが痛みとなって遅れて脳内に響く。痛い。
もうこりごりだ、こんなこと。
いっそ泣き喚きたかったけれど、流す涙はとっくに凍り付いていたし、その元気もなかった。
ただ鼻の奥が僅かに痛んだだけだ。
――姉ちゃん。
ようよう雪に手を付き顔を上げる。飛び込んだ視界は一面の白と黒。酷く喉が渇いていたのでそのまま雪を口に含んだ。
ごくり、と飲み込んだ喉が引き攣れて嫌な味がする。
折しも過ぎて言った一陣に、やわらかく舞い上がる白いそれは、綿毛か羽毛のようだ。
指で触れてみたかったけれど、腕はもう上がらない。
チャトラ。
静かに、なぞるように名を繰り返すテノール。ごう、とどこかで風が吹いた。もう苛立つことすら面倒だ。一度くらいだったら、呼ばれてやってもいいかと思う。
もし今度出会えたら、一度だけ名前を呼んでほしい。
姉ちゃん。――……皇帝。
体を丸めて今度こそ、チャトラは動かなくなった。
*
ぼんやりと椅子に腰かけ、窓の外を眺める。
いつの間にか夜が明けたらしい。視界はひどく濁っていた。それが寝不足の為だけではないことを男は知っている。
自分の体のなんという欠陥だらけなことか。
そう思う。
自虐的な気分に陥っている訳ではなく、単純に事実として「そう、」と言うだけなのだけれど。
口に上らせるほどのこともないと思っていたし、黙って己の胸の内にしまっていたのだが、割と早い時期に「あれ」が異変に気付いた。
異変、と名付けるには少しおおごとだと思う。けれど男はあまりそれより他に適切な言葉が思いつかない。
結論から言うならば、目が見えなかった。とは言え見えないっぱなしと言うことではなく、時折訪れる眩暈と似たようなものだったから、どこか体の配線の具合がうまく繋がらなくて見えないものなのだろう。
騒ぐほどのことは何もないと思っている。
全く見えないと言う訳でもなく、光や色の濃淡程度は区別がつくし、細かな部位が判らないまでも歩くのに対して苦労はしない。文章はまるで読めないが、それも視界が晴れるまで待たせておけばいい話で、もともと大して支障のない生活を送っているのだ。
黙って座っていた男へ、ある時あれが呟いた。
――アンタ、今、見えないんだな。
焦点が合っていなかったのかもしれない。何故気付いたのか、男には判らない。騒ぐほどのことはないと思っているのと同じくらいに、隠すほどのこともないと男は思っていたので、そうだと答えた。
思った以上に周りが騒ぎだして厄介な目にあった。
そんなことを思い出す。
皇都から少し離れたこの屋敷へ移動してから何日経ったのか、実のところあまり把握できていない。少なくとも昨日ではないな、その程度の認識だ。眠る気にもなれず、室内で椅子に腰かけたまま呆と過ごしている。
割と皇宮で執務に追われている分、こうして不意に何もない状態に投げ出されると、何をして良いものやら途方に暮れる。読み挿した本でも読もうかと膝上に乗せたは良いが、文字が読めないことに気が付いた。嘆息した。
少なくとも昨日ではないな。
何気なく胸の内でもう一度繰り返して、それが身辺が急に静かになった日数と同じなのだと気が付いた。そうして、部屋にいる間中、付かず離れず邪魔にならない位置で、小さな体がちょろちょろしていることが、常態になっていたのだなと思う。
頭が重い。
もう何日も横になっていないのだからそれもそうなのだろう。意地を張って睡眠をとらない、だとか子供じみた考えがある訳ではなくて、眠くないだけだ。腰掛けたままうつらうつらとすることもあるのだし、まるで不眠と言う訳でもないのだけれど、それでも何かを待つように窓の外から目が離せない。
仕事がないおかげで、草臥れ切って前後不覚に寝落ちることもできない。
いっそ、そうなってしまえば楽なのだけれど。
晴れた日は雪がやたらと日光を乱反射して、寝不足の瞳を焼く。しばらく見つめて室内へ目を転ずると、ただでさえ見えにくい視界がいっそうに見えない。
だが、見えないことは好都合だ。周りが妙に気を使って、腫物でも触るように放っておいてくれる。
そもそも、何に意地を張ると言うのだ。
腹を立てていることも気がかりなことも何一つない。ないはずだ。強いて言うなら、遠方に発症した病が黒死病かどうかの是非が気になるが、ただしそれは不安とは一切無関係だ。執政の側にいる立場上、厄介なことにならなければ良いが、程度の関心である。
それ以外に何があるだろう。
とても、静かだ。
ぱち、と薪の爆ぜる音がして、男は物憂げにゆっくりと振り向いた。先刻から、室内に他人が入り込んでいることは知っていた。気障りだったけれど、言葉を発するのも億劫で、黙って退室を促していたのだが、相手に去る気はないようだ。
流し見た人の形をした影は、男の視線を受けてようやく動き始める。
腰を折ったのだ、とぼんやりと眺めて気が付く。気が付いたところでどうと言うこともなかったので、男は黙っていた。
「わたくしの勝ちですわ」
ぞっとするほど澄んだ鈴を振るような声で、影が不意に呟いた。女だ。
「ゲームの掛け金を頂きに参りましたのよ」
蠱惑的だとか言うのだろう。世間の常識に当てはめるとするならば、そんな声色だ。
「ゲーム、ですか」
男にとっては面倒臭いだけだった。ようやく声を押し出す。発した声は久しぶりに過ぎて、低めのテノールが僅かに掠れた。
「以前に申しましたでしょう。大事なもの。大切なものを先に作った方が負け。陛下は大事なものをお作りになられました。わたくしには何もありません。勝ちですわ」
「――大事なもの」
「猫がそんなに大切ですか」
「猫――、」
女の言葉の端々を繰り返して頭を振る。何を言っているのか判らない。判らないと言うよりは、男はとても面倒くさかったのだ。考えを巡らせることすら苦痛で、放っておいてほしかった。
気配で女が近付いてくる。不意に光が遮られ、目の前に立たれたのだなと思った。
そのまま薄布の滑り落ちる音が、他に音もない室内に響く。寝凭れた男の膝の上に女は乗り上げ、男の片腕を取る。
体へと添わせた。
薄布の下の体は裸だった。
形の良い小ぶりの乳房に男の掌を当てる。しっとりと吸い付く、なよやかな肌。男の体温を感じたのか、ほう、と女が吐息をつく。それから、
「わたくしの勝ちですわ」
もう一度囁いて、動かない男へ焦れるように唇を寄せ、互いに重ねて啄ばんだ。進めた片膝が男の下腹を徒に刺激する。ささくれひとつない真珠貝のような爪先の手のひらが、男の頤を撫ぜ上げ、女はくすくすと笑いを漏らした。
いつもの遊び。いつもの馴れ合い。
「お気づきになられないなら、代わりにわたくしが教えて差し上げてよ」
女が唇を落とし、その都度微かな痛みと共に赤紫の痣が残る。あちらこちらに不恰好に残される斑点。黒死のようだな、とふと思う。
吐息が次第に熱を帯び、いつの間にか肌蹴られた男の襟元に吹きかけられる。くちゃりと濡れた音が響いて、不意に左肩に爪が食い込んだ。変わり映えのしない行為だ。そうして痛みを与えて、我が身を支配した気になっているのだから、可愛い気と言えばそうなのかもしれない。
ただし、男に興味はなかったけれど。
「大事なものを失った気分は――いかが」
勝ち誇った女が微笑んだ。
ああ、なるほど。
ぼんやりと眺めていた男は不意にこみ上げた嘲笑を堪え切れなくなって、始め喉を震わせて忍び笑い、堪えきれなくなって、くつくつと音を立てた。そのままげらげらと身をよじって男が笑い始めたので、流石に女は身を起こした。そのまま顔を強張らせる。
女の喉元に剣針を付きつけていた。
親指ほどの太さのある剣身である。護身用として、男が懐に仕込んでいる一つだ。真横に数度滑らせても、刃を持たないそれは女の柔肌を傷つけることはなかったが、ほんの少しの反動さえあれば、動脈に突き立てられることを男は知っている。
そうして、突き立てる動作自体に男がなんら躊躇いを持たないことを、舞い落ちた木の葉を払うよりも簡単な仕草で済ませられてしまうことを、女は知っていた。
ごく、と喉を鳴らす。
知っていた。何故なら女と男は互いに鏡のようなものだったから。
「何が大事だって?」
しんと冷えきった声音で男は呟いた。億劫さを払いのけた瞬間に、苛立ちは急速に襲いかかっている。自身を掘り探られる行為を、男は好まない。それは互いに判っていたはずで、今まで何度も女は「ゲーム」とやらを男に仕掛けてきたけれど、その最後の一線を越えることがなかったから、男は取り合わなかっただけだ。
女が口にする「ゲーム」に興味が湧いたことは一度もなかった。
聞き流していたに過ぎない。それを同意と受け取ったのなら、あまりに浅はかだと思った。押し殺したテノールが、床を這い女へ鎌首をもたげる。
「ゲームとは何のことだ?」
「以前に申しましてよ。貴方とわたくし、お互いに大事なものを先に作った方が負け、と――」
「覚えていない」
「面白いと、貴方はそう仰った」
「――面白い――」
首を傾げて男は口の中で繰り返し呟き、思い当たってああ、と片頬を歪めて見せた。
昏い笑みだと自覚はしている。取り繕うつもりはない
「君の言動が面白いと思った、ただそれだけのことだったのだけれど」
「わたくしの」
「私の反応に一喜一憂する。自分では気が付いていないようだが」
「わたくし、は」
世間一般ではそれを恋と言うのではなかったか。
「仕掛けたつもりで、『ルール』とやらに振り回されていたのはどちらかな」
「わ、たくし……、」
「戯れに手向けた関心をおかしな方向へ勘違いする。大変に迷惑だ」
「わたくしと……貴方……おまえは……、対等な立場であるはずでしょう」
女の口調が虚ろになり、乱れる。
「この期に及んで何を対等と言うのか」
「わたくしを蔑(ないがし)ろにして、只で済むとお思いですか?」
「『何』が『どう』済まないと?」
せせら笑って男は壁際へ目を向ける。置物のように控えていたディクスが、視線を心得て、僅かに頭を下げた。
「ディクス」
「はい」
「姫君に――、彼女の置かれた『立場』を説明しなさい」
「は」
忠犬は不要な言葉は何も吐かない。ただ淡々と、
「東方より発した黒死の風が、あちらこちらに飛び火しております。先日もたらされた情報によりますと、シュイリェの太守が逝去されたとのことで」
告げる。聞きなれない発音は、女の故郷の名だ。
「……父が?」
女は瞬間ぽかんと表情を失った。詳細をディクスが告げずとも、意味は十分通じたはずだ。
「御父上は生前、大変に健勝であったと見えるね。出来の良いの悪いの揃えて百近くが、骨肉争う王冠争奪戦を繰り広げているそうだよ」
女が頼みとしていたのは、その「百近く」いる中でも特に女への妄執ともいえる偏愛を、前太守が持っていた、それだけのことで、
「後ろ盾のなくなった君の立場が判るか」
一刀に断とうと女を見やった男は、徐に視界が戻っていることに気付く。わななく唇の隙間から桃色の舌が零れて見え、気を惹かれる。剣針を引いたと同時に女の顔を引き寄せた。首の後ろに手を当て、噛み付くように唇を貪る。暴れるかと思った女は、されるがままに静かだった。
「――こう」
されたかったのだろう?
囁いて突き放す。
「くだらない」
吐き棄てる。
「わたくしを……わたくしを、捨てるのですか」
半ば陶然としながら床へ蹲り、女は小刻みに震えている。一糸まとわない女の体は床の上ですら美しい。……すてる?その女へ向かってエスタッド皇は凍った声のまま鼻先で笑った。
「もとより拾い上げて居らぬよ」
興味を惹かれたのは、ほんの気まぐれ。その気紛れすらも、
「繋ぎとめられるとでも思ったか」
私を。
言い放ちながら、相当に非人だと自分のことながら思った。冷たい人間なのだろう。あたたかさややさしさと言った、思いやりの欠片もない。だがそれがどうした。
――何に役立つ?
嗤いがこみ上げる。
そのまま、ふと熱情が途切れて、男は針を投げ出すと物憂げに椅子に凭れた。肌蹴られた襟元の風通しがよすぎる気もしたが、直すのも億劫だ。外界へ目をやり、それきり女のことは忘れた。何かを口に仕掛けた女が言葉を飲み、数度こちらを振り向きながら退室した気もするけれど、それも曖昧だ。
そもそも女が部屋にいたことすら夢か現か。再び視界が霞み始めている。
喉が渇いていたけれど、寄られることは嫌だった。
卓上に置いた酒瓶の中にまだ少し残りがあったはずだ。馴染の薄い度の低いそれは、大して美味いとも思えなかったが飲まないよりはましだった。飲み潰れたら少しは眠れるかもしれない。思って男は手を伸ばし、そのまま唖然として固まった。
窓の外にはこの屋敷へ通じる山道が伸びている。その山道に黒い染みのようにぽつんと、見えた何か。
酒瓶が音を立てて転がる。知らず立ち上っていた。
*
ざざざ、と重たい音を立てて梢から半解けの雪が滑り落ちる。
ここ数日降り続いていた白魔も今は鳴りを潜め、穏やかな日差しが斜めに注いでいる。それでも吐く息はそのまま雲になり固まってしまうのではないかと思えるくらいに、やはり寒い。
暖炉と呼ぶにはお粗末な、火熾しの炉程度の――しかしそれでも暖を取るには十分だ――脇に積み上げた薪が残り少なくなっていることに気付き、日が落ちるより前にと重い腰を上げた。しばれた体を震わせながら手斧を振るっていたのだが、十も縦割ると徐々に芯から温まり、汗まで滲み出る。良い運動だなと思うとともに、自分の年で良い運動も何もあったものではないかと思い直した。
初老の男だった。
くたびれた着衣と、雪焼けした肌。丸み始めた背が、自分を実際以上の年齢に見せることを男は知っている。知ってはいたが、年頃の娘でもあるまいし見た目を気にするにはあまりに山奥に人の目はなかった。そもそも男は人嫌いの気があったし、言葉を交わすことにたいした重みを感じてる性質でもない。酔った勢いで二言三言、軽口を叩くことも稀にはあったがその程度だ。
そうして、山にはその「言葉を交わす」相手すらいない。極端な時には半年、人と交わることがない。自然黙々と仕事を行い、余計な事をしゃべらないので饒舌になりようがない。寡黙、と言うよりは考えを言葉にして発することが土台苦手だ。
男は、炭焼きを生業としていた。
山の木々が木の葉を落とし、霜の降り始める頃に山へ籠る。使いこなれた窯を丹念に手入れして、それから夏の間に目星を付けてあった原木を一人で切り倒す。同じ樹種であっても日当たりや養土で具合がかなり変わってしまうので、一本一本慎重に中りを付けて行く。そうして数日の間、釜の火加減を睨み続け、火が落ち着いた頃に掻き出し、倉庫と呼ぶにはは名ばかりの、雪避けの付いただけの覆いの中に積み上げる。長い時には明けて春が訪れ木々が芽吹くぎりぎりまで、山を下りない。
途中で降りるのは、日常に必要な物資が足りなくなった時だけだ。
男の焼く炭は状態が良いと評判だった。
臭いがない。煙が少なく、持ちが良い。
馬橇(うまぞり)に積んで山を下れば、そこそこの値が付いた。
それで暮らして行けたので、考えることもない。物心ついた時分から男はそうして炭焼きをして生計を立ててきたし、他の職種に興味を惹かれたこともなかった。
血縁も既に亡い。
中には一人で全てをこなしてどうする、大した量もできずまた冬山で何かあったらどうする、だとかで数人の分担作業を勧めてくれるお節介もいたけれど、男は黙って首を振った。生計さえ立ち行けば儲けは気にしていなかったし、自分のペースでこつこつとこなせる環境にもうずっと慣れていたので、今更それを変える気もない。
かん、と甲高い音を立てて薪の一片が少し遠くへ飛んだ。考え事というほどのものでもないが、ぼんやりとそんなどうでも良いことを考えながら振り下ろしていたので、僅かにぶれたようだ。
じんわりと滲んだ額の汗を片腕で拭い、それから腰を伸ばして息を吐く。ごきりと首を回してついでに視界も一緒に回ったところで、差し出された木片。
「はい」
「……ああ」
礼を言うほどのことでもないので曖昧に語尾は濁して受け取る。差し出した相手は数呼吸ゆらゆらと前後に体を揺らしながら黙って立っていて、それからくそ、と悪態をついて雪にしゃがみ込む。
しゃがんだと言うよりは、崩れたと表したほうが正しいのかもしれない。
「冷えるぞ」
案じたと言うよりは事実を告げただけの男の声に、相手はしばらく俯いていた後に顔を上げる。男の持つありったけの防寒具を着込ませて丸膨れになっている癖に、真っ青な顔で脂汗が浮いている。大丈夫か、だとか小屋へ戻れ、だとかそう言った言葉は扁桃あたりで立ち消えて、代わりに男は顎をしゃくった。
「運ぶのは腰に来る。自分で戻れ」
娘だった。
娘と呼ぶには体のどこにも丸みがなくて、まだ餓鬼と呼ぶのが一番しっくりくる。数日前の雪の晴れ間に、たまたま伐採する予定だった目ぼしい樹木の様子を見るために、釜を離れた。雪の中に着のみ着のまま埋もれていたのを見つけて小屋へ運んだのだった。
最初に見つけた時には、驚くよりもまず呆れた。
どんな状況で倒れたのか知らないが、冬山とはまるでかけ離れた格好をしていた。きらびやかな装いはしていなかったけれど、触感で上物を着ているな、と何となく気付く。
半ば凍っていたので死んでいると思った。
転がしたままには少し哀れに思う。放っておけば恐らく冬眠しきれずに腹を空かせた獣の餌になることは間違いなくて、むしろそれまで無傷で残っていたこと自体がすでに幸運だ。雪下の土にでも埋めてやろうと持ち上げかけた時、僅かに動いた気がしてそこで初めて驚いた。
とりあえず脈を見ると、まだ微弱ながらも反応がある。なんだ生きていたのか。凍死寸前の体を担いで小屋へと戻る。火を熾し、濡れた服を脱がせて手足を擦る。防寒具を着込ませ、暖炉の前に転がしておいた。それ以上の看護はしなかった。男自身それ以上の知識がなかったし、手を尽くしても駄目なときは駄目だと言うことを知っていた。
娘は朝になってもまだ息をしていた。
しぶといな、と思った。
ただそれからしばらく意識は戻らなかった。息をして転がっているだけの体へ向けて、男は取りあえず火だけは絶やさないように薪を焚き続け、意識のない口へ水を注ぎこんだ。その度に娘がうなされて何かの名前を呟いていたように思う。聞き取るほどに男は娘に興味が持てなかったし、そもそもひどく掠れた小さな声だったので、一体何と呟いていたのかは今も判らない。
ぱち、と不意に目を開けたのは昨晩のことだ。
とすると、三日近く寝ていたことになるのだろうかと、男はふと気付く。弱っていた娘は、目を開けた後もしばらく何も喋らなかった。男にとってはその方が都合が良い。矢鱈に話しかけられても戸惑うばかりだ。
黙って道具の手入れをする男の横で、じっと炎を瞳に映していた。
一晩黙りこくっていた娘は、朝になるとよろよろと表へ這いずり、用を足してまた戻る。自力で動けるのならば割と回復は早いだろう。眺めていた男は、戻ってきた娘へ黙って椀を差し出した。
やはり黙ったまま受け取った娘は、ゆっくりと湯気の立つ羹(あつもの)へ口を付け、そのまましばらく動作を留めて、そうして飲み込む。ごくんと喉が動き飲み込んだ拍子にぽろ、と娘の目からしずくが一粒こぼれ落ち、それから二粒目が椀の中にこぼれ落ち、娘は一言も声を発さずただ静かにぼろぼろと涙をこぼし始めた。こぼしながら、泣いていることが気に入らないのか、何度も悔しそうに眼を擦る。
女子供と言うものは大小に関わらず、機嫌を損ねると甲高い声を上げて泣き喚く生きものだと男は思っていたから、こんなに静かに泣くこともできるのかと感心する思いで眺めていた。
ただ、何か言葉を掛けようと言う気はなかったので放っておいた。
暫くそうしていた娘は、気が済んだのか泣き止むと、鼻をすすりながら椀の中身を平らげて、それからようやくありがとう、と男へ小さな声で言った。
たどたどしい発音。
「お前、名前は」
眺めて続けていた男は、流石にそこで何か応じた方が良い気がしたので、一言尋ねた。
濡れた頬をごしごしと乱暴に擦っていた娘が、拍子に男をじっと見つめた。吸い込まれそうな深淵の、緑青の瞳。
ちゃとら。
娘はそう名乗った。
*
それが昨日のことで、どうしてか今チャトラは一人で道を歩いている。少し前まで道案内をしてくれた口数の少ない炭焼きは、彼女と一緒に屋敷へ向かうことをゆるく首を振って拒否した。
「後はお前ひとりで行け」
そう言う。
屋敷へ戻れば騒がれることは目に見えていたし、それが煩わしいのだなと彼女にも理解できたので、
「オレのこと抱く?」
できたからこそ、それ以上の駄々はこねずに、唐突にそんなことを聞いた。
言ってから何とはなしにおかしくて僅かに苦笑いする。炭焼き小屋で持ちかけるならともかく、雪深い山中で提案する話ではないと思ったからだ。下手に肌を晒すと凍死する恐れがある。
「何故」
驚いた訳ではないけれど片眉を上げて訝しんだ男へ向かって、チャトラは肩を竦めた。言い出した以上後に引けない。
「オレ、何も持ってないんだよ」
チャトラは文字通り身一つだった。金がある訳でも名誉を与えてやれるわけでもない。男に他意があって自分自身を助けてくれたわけではないのだろうなと察しはついたが、貸し借りで言うところの、
「借り」
があるままに別れることは気がかりだった。
「女が欲しくて助けた訳じゃない」
「ごめん」
淡々と返す答えに、チャトラは反射的に謝っていた。自分の申し出は、男の好意や自尊心を傷付けただろうか。しまったな、と下唇を噛む。
その頭にぽんと、がさついた手のひらが置かれて乱暴に撫でられる。
「気持ちだけもらっておく」
見下ろされた眼差しは意外なほど温かくて、不意に鼻の奥が小さくつんと痛む気がした。思い出しかける昔の記憶。姉ちゃん。慌てて鼻をすすって妙な気分を誤魔化す。
「じゃあな」
余計な言葉は一切口にしない炭焼きの男は、来た道へくるりと振り返り、根雪を踏みしめて小屋へと戻っていく。もしかすると方向は、伐り倒す原木の様子でも見に行くのかもしれない。丸めた背へ向かってありがとう、とがなると、肩越しに上げられた手だけが二、三度振られた。
その姿を最後に、チャトラも教えられたとおりに男とは真逆の方向へ雪を踏みしめ始める。ここ数日の朝晩の冷え込みで表面のしっかり固まった雪は、それでもチャトラの体重を支えるには僅かに足りなくて、踏み出すたびにざくざくと音を立てて凹みを付けた。
男に着膨れさせられた防寒着のおかげで、寒さはさほど感じない。昨日一日ほとんど寝て過ごしたので、体調も復帰していた。まだ視界が斜めに傾いだりすることはあるけれど、歩くのにほとんど支障はなさそうだ。
だのに進む歩幅が次第に狭くなって、自覚のあるチャトラは小さく溜息を吐く。
参ったなァ。
内心一人語散た。
歩幅は自信の表れだ。正直なところ、屋敷へ行きたくない。もっと正直に言うならば、皇帝の許に戻ることが嫌だった。
雪の中で朦朧と歩きながら、皇帝の声を聞いた。それはきっと極限まで追い詰められた、自分の無意識が聞かせた幻聴ではあったのだろうけれど、その時自分が男の声を聞きたかったことは、認めたくないけれど事実だった。自分をいつくしみ育ててくれた、姉の声よりもチャトラはあの一瞬だけは、皇帝の声がもう一度聞きたかったのだ。
顔を合わせるたびに苛立ちが募る相手の声が聞きたいだなんて、どうかしている。
自分でもそう思う。
あの、何事にも動じない澄ました顔も嫌いだ。平気で人を人と思わない考え方も嫌いだ。周りの人間を自分の都合で振り回して全く介さない図太い神経も、何もかもが大嫌いだ。
雪に埋もれてみた夢の中で、何度も何度も姉がチャトラの首を絞めた。いっそ捩じ切ってくれて構わないのに、と思った。巷間に流れるよくある話で、川を挟んだ向うで、もう亡い相手に戻れと言われただとか、花一面の野原でまだここへ来てはいけないと諭されただとか。いっそそうした幻でも見られたらよかったのに、姉は相変わらずあの狭い路地裏で固く冷たくなって転がっているだけなのだった。とどめを刺そうとはせず、呪詛を吐きながら真綿で首を絞めるように、その細い腕で何度も何度もチャトラの首へ手をかけるのだ。
悪夢を嫌と言うほど繰り返し見て、不意にぽかんと意識が浮いた。
目を覚ますとまるで知らない小屋の中にいて、他人のにおいがする防寒服を着せられて炉の前に転がされていた。
声を上げるにも、飛び起きるにもチャトラはひどく弱っていたし、介抱してくれたらしい男は一言も発しなかったので、チャトラも黙って転がっていた。
生きていたのだなという実感がわいたのは、男に湯気の立つ羹の入った椀を差し出された時だ。
受け取った拍子に涙がこぼれた。
捨てられたんだな。
そう思った。
それからすぐに、皇帝が自ずから自分を探し出そうと努力するような性格ではないこと、万に百分の一の確率で彼が自発的に動こうとしたとしても、周りがきっと止めること、と言うよりもよく考えてみれば、そうした行動を彼ができるような丈夫な体ではないことを思い、
でも。
そんな理屈はどうだってよかったのだ。雪の中ではひどく心細くてさびしくて、だからきっと普段は見ただけでむかっ腹の立つ男の顔であったとしても、目を覚ました時に側にいてくれさえすれば、自分は安心したに違いないのだ。
けれど、皇帝にとって自分がこの程度の扱いの人間だった。再確認させられた思いで、なんだか妙に悲しかった。
捨てられたのかな。もう一度思う。
そうなのかもしれない。どんな形であれ愛着を持つ相手だったなら、そもそも他人へ手放すような真似をするのだろうか。
幾らでも替えの利く消耗品。
拾われた、と表現できるのかどうかも疑わしい。皇帝はおそらくほんの少しの興味が湧いたから、手を伸ばしたに過ぎない。懐を狙って飛び込んだのはチャトラ自身だ。その意識と意識の隙間に生まれたような些細な興味を、まともに受け取って反発し大騒ぎして逃げようとしていた自分が、間違いと言われればそうなのかもしれない。
ああ、でも、やっぱり名前を呼んでほしかったな。
姉が愛おしんで付けてくれた名前。あの響きの良いテノールで、一度。
屋敷が遠く見えたあたりでとうとう一歩も踏み出せなくなって、チャトラは雪溜まりの影に隠れるようにしてしゃがみ込み、かじかんだ手のひらを擦った。あまり長時間寒い中でじっとしているのは、まだ体に良くないことは判っている。
そう思うけれど、どの顔をして屋敷へ戻れば良いのか判らない。ディクスあたりはきっと嬉しそうな顔をしてくれるように思ったけれど、当の本人に無関心を貫かれたら、ぶん殴ってしまいそうだ。泣き濡れる性格でも、黙って身を引く性格でもないことは、自分自身よーーく判っている。
殴ったら、アンタは。
考えがまとまらず、溜息をまた吐いた。真っ白い息が長く立ち上る。
「猫」
いきなり呼ばれて、弾かれるように顔を上げた。ここで、こんなところで、こんな格好で、こんな状況で。思いもよらなかった。動悸と眩暈が一気に襲い掛かって来て、どうにも立てそうにない。心臓をわしづかみにされるような、と言うような表現は、こういった時に使うのだろうな、だとかどうでもいいことを思った。
顔を上げた先に男が立っていた。声の届く割と近い距離に、寄られていたのに気が付かなかった。
明らかに室内着だろう、薄手の更紗を肩から流して、自分と同じような真っ白な息をせき切らせて立っている。雪の上の足跡は転々と乱れていて、梳られていたはずの日に透けて金茶の髪は、風にほつれている。半目に伏せられがちの視線は上げていたけれど、焦点の曖昧さに、男がほとんど視界を失っていることに気が付いた。
……見えないのに走ってきたのかよ。
気が付いたと同時に驚きだとか心配よりも呆れた笑いが浮かんだ。皇帝らしい。そうも思う。
その男が、目を眇めた。
猫、ともう一度、今度は先よりも小さな声で確かめるように呼ばれる。それから、男はチャトラの前へ膝を付いた。雪雲から差した薄日は、そう光量の多いものではなかったけれど、真っ白な雪原に乱反射して男の表情を逆光に隠す。逆光。
ひどい既視感を覚えて、狼狽えたところに、腕を伸ばされて不意に抱きしめられた。
片腕で、ぎゅっと。
動けない。この情景は、あの日をなぞっている。
あの日。
垢と汗と埃と泥と涙と鼻汁にまみれた子供を抱きしめた時と同じような力で、同じように躊躇いもなく、いいにおいのする、やさしくて、あたたかな、
「――皇都に比べてここの夜は寒い」
呆然としている彼女の耳へ、唇が寄せられる。
「独り寝は凍える」
言われた言葉に驚いて、チャトラは男を見返した。その視線から逃れるように、つと男は顔を下へとずらして、喉輪の鈴を啄ばむ。
ちりり、と音が響く。
「チャトラ」
謳うように、男が名前を囁いた。
(20110219)
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最終更新:2011年07月11日 10:31