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                 *

  ぼんやりと椅子に腰かけ、窓の外を眺める。
  いつの間にか夜が明けたらしい。視界はひどく濁っていた。それが寝不足の為だけではないことを男は知っている。
  自分の体のなんという欠陥だらけなことか。
  そう思う。
  自虐的な気分に陥っている訳ではなく、単純に事実として「そう、」と言うだけなのだけれど。
  口に上らせるほどのこともないと思っていたし、黙って己の胸の内にしまっていたのだが、割と早い時期に「あれ」が異変に気付いた。
  異変、と名付けるには少しおおごとだと思う。けれど男はあまりそれより他に適切な言葉が思いつかない。
  結論から言うならば、目が見えなかった。とは言え見えないっぱなしと言うことではなく、時折訪れる眩暈と似たようなものだったから、どこか体の配線の具合がうまく繋がらなくて見えないものなのだろう。
  騒ぐほどのことは何もないと思っている。
  全く見えないと言う訳でもなく、光や色の濃淡程度は区別がつくし、細かな部位が判らないまでも歩くのに対して苦労はしない。文章はまるで読めないが、それも視界が晴れるまで待たせておけばいい話で、もともと大して支障のない生活を送っているのだ。
  黙って座っていた男へ、ある時あれが呟いた。
  ――アンタ、今、見えないんだな。
  焦点が合っていなかったのかもしれない。何故気付いたのか、男には判らない。騒ぐほどのことはないと思っているのと同じくらいに、隠すほどのこともないと男は思っていたので、そうだと答えた。
  思った以上に周りが騒ぎだして厄介な目にあった。
  そんなことを思い出す。
  皇都から少し離れたこの屋敷へ移動してから何日経ったのか、実のところあまり把握できていない。少なくとも昨日ではないな、その程度の認識だ。眠る気にもなれず、室内で椅子に腰かけたまま呆と過ごしている。
  割と皇宮で執務に追われている分、こうして不意に何もない状態に投げ出されると、何をして良いものやら途方に暮れる。読み挿した本でも読もうかと膝上に乗せたは良いが、文字が読めないことに気が付いた。嘆息した。
  少なくとも昨日ではないな。
  何気なく胸の内でもう一度繰り返して、それが身辺が急に静かになった日数と同じなのだと気が付いた。そうして、部屋にいる間中、付かず離れず邪魔にならない位置で、小さな体がちょろちょろしていることが、常態になっていたのだなと思う。
  頭が重い。
  もう何日も横になっていないのだからそれもそうなのだろう。意地を張って睡眠をとらない、だとか子供じみた考えがある訳ではなくて、眠くないだけだ。腰掛けたままうつらうつらとすることもあるのだし、まるで不眠と言う訳でもないのだけれど、それでも何かを待つように窓の外から目が離せない。
  仕事がないおかげで、草臥れ切って前後不覚に寝落ちることもできない。
  いっそ、そうなってしまえば楽なのだけれど。
  晴れた日は雪がやたらと日光を乱反射して、寝不足の瞳を焼く。しばらく見つめて室内へ目を転ずると、ただでさえ見えにくい視界がいっそうに見えない。
  だが、見えないことは好都合だ。周りが妙に気を使って、腫物でも触るように放っておいてくれる。
  そもそも、何に意地を張ると言うのだ。
  腹を立てていることも気がかりなことも何一つない。ないはずだ。強いて言うなら、遠方に発症した病が黒死病かどうかの是非が気になるが、ただしそれは不安とは一切無関係だ。執政の側にいる立場上、厄介なことにならなければ良いが、程度の関心である。
  それ以外に何があるだろう。

  とても、静かだ。

  ぱち、と薪の爆ぜる音がして、男は物憂げにゆっくりと振り向いた。先刻から、室内に他人が入り込んでいることは知っていた。気障りだったけれど、言葉を発するのも億劫で、黙って退室を促していたのだが、相手に去る気はないようだ。
  流し見た人の形をした影は、男の視線を受けてようやく動き始める。
  腰を折ったのだ、とぼんやりと眺めて気が付く。気が付いたところでどうと言うこともなかったので、男は黙っていた。
 「わたくしの勝ちですわ」
  ぞっとするほど澄んだ鈴を振るような声で、影が不意に呟いた。女だ。
 「ゲームの掛け金を頂きに参りましたのよ」
  蠱惑的だとか言うのだろう。世間の常識に当てはめるとするならば、そんな声色だ。
 「ゲーム、ですか」
  男にとっては面倒臭いだけだった。ようやく声を押し出す。発した声は久しぶりに過ぎて、低めのテノールが僅かに掠れた。
 「以前に申しましたでしょう。大事なもの。大切なものを先に作った方が負け。陛下は大事なものをお作りになられました。わたくしには何もありません。勝ちですわ」
 「――大事なもの」
 「猫がそんなに大切ですか」
 「猫――、」
  女の言葉の端々を繰り返して頭を振る。何を言っているのか判らない。判らないと言うよりは、男はとても面倒くさかったのだ。考えを巡らせることすら苦痛で、放っておいてほしかった。
  気配で女が近付いてくる。不意に光が遮られ、目の前に立たれたのだなと思った。
  そのまま薄布の滑り落ちる音が、他に音もない室内に響く。寝凭れた男の膝の上に女は乗り上げ、男の片腕を取る。
  体へと添わせた。
  薄布の下の体は裸だった。
  形の良い小ぶりの乳房に男の掌を当てる。しっとりと吸い付く、なよやかな肌。男の体温を感じたのか、ほう、と女が吐息をつく。それから、
 「わたくしの勝ちですわ」
  もう一度囁いて、動かない男へ焦れるように唇を寄せ、互いに重ねて啄ばんだ。進めた片膝が男の下腹を徒に刺激する。ささくれひとつない真珠貝のような爪先の手のひらが、男の頤を撫ぜ上げ、女はくすくすと笑いを漏らした。
  いつもの遊び。いつもの馴れ合い。
 「お気づきになられないなら、代わりにわたくしが教えて差し上げてよ」
  女が唇を落とし、その都度微かな痛みと共に赤紫の痣が残る。あちらこちらに不恰好に残される斑点。黒死のようだな、とふと思う。
  吐息が次第に熱を帯び、いつの間にか肌蹴られた男の襟元に吹きかけられる。くちゃりと濡れた音が響いて、不意に左肩に爪が食い込んだ。変わり映えのしない行為だ。そうして痛みを与えて、我が身を支配した気になっているのだから、可愛い気と言えばそうなのかもしれない。
  ただし、男に興味はなかったけれど。
 「大事なものを失った気分は――いかが」
  勝ち誇った女が微笑んだ。

  ああ、なるほど。

  ぼんやりと眺めていた男は不意にこみ上げた嘲笑を堪え切れなくなって、始め喉を震わせて忍び笑い、堪えきれなくなって、くつくつと音を立てた。そのままげらげらと身をよじって男が笑い始めたので、流石に女は身を起こした。そのまま顔を強張らせる。
  女の喉元に剣針を付きつけていた。
  親指ほどの太さのある剣身である。護身用として、男が懐に仕込んでいる一つだ。真横に数度滑らせても、刃を持たないそれは女の柔肌を傷つけることはなかったが、ほんの少しの反動さえあれば、動脈に突き立てられることを男は知っている。
  そうして、突き立てる動作自体に男がなんら躊躇いを持たないことを、舞い落ちた木の葉を払うよりも簡単な仕草で済ませられてしまうことを、女は知っていた。
  ごく、と喉を鳴らす。
  知っていた。何故なら女と男は互いに鏡のようなものだったから。
 「何が大事だって?」
  しんと冷えきった声音で男は呟いた。億劫さを払いのけた瞬間に、苛立ちは急速に襲いかかっている。自身を掘り探られる行為を、男は好まない。それは互いに判っていたはずで、今まで何度も女は「ゲーム」とやらを男に仕掛けてきたけれど、その最後の一線を越えることがなかったから、男は取り合わなかっただけだ。
  女が口にする「ゲーム」に興味が湧いたことは一度もなかった。
  聞き流していたに過ぎない。それを同意と受け取ったのなら、あまりに浅はかだと思った。押し殺したテノールが、床を這い女へ鎌首をもたげる。
 「ゲームとは何のことだ?」
 「以前に申しましてよ。貴方とわたくし、お互いに大事なものを先に作った方が負け、と――」
 「覚えていない」
 「面白いと、貴方はそう仰った」
 「――面白い――」
  首を傾げて男は口の中で繰り返し呟き、思い当たってああ、と片頬を歪めて見せた。
  昏い笑みだと自覚はしている。取り繕うつもりはない
 「君の言動が面白いと思った、ただそれだけのことだったのだけれど」
 「わたくしの」
 「私の反応に一喜一憂する。自分では気が付いていないようだが」
 「わたくし、は」
  世間一般ではそれを恋と言うのではなかったか。
 「仕掛けたつもりで、『ルール』とやらに振り回されていたのはどちらかな」
 「わ、たくし……、」
 「戯れに手向けた関心をおかしな方向へ勘違いする。大変に迷惑だ」
 「わたくしと……貴方……おまえは……、対等な立場であるはずでしょう」
  女の口調が虚ろになり、乱れる。
 「この期に及んで何を対等と言うのか」
 「わたくしを蔑(ないがし)ろにして、只で済むとお思いですか?」
 「『何』が『どう』済まないと?」
  せせら笑って男は壁際へ目を向ける。置物のように控えていたディクスが、視線を心得て、僅かに頭を下げた。
 「ディクス」
 「はい」
 「姫君に――、彼女の置かれた『立場』を説明しなさい」
 「は」
  忠犬は不要な言葉は何も吐かない。ただ淡々と、
 「東方より発した黒死の風が、あちらこちらに飛び火しております。先日もたらされた情報によりますと、シュイリェの太守が逝去されたとのことで」
  告げる。聞きなれない発音は、女の故郷の名だ。
 「……父が?」
  女は瞬間ぽかんと表情を失った。詳細をディクスが告げずとも、意味は十分通じたはずだ。
 「御父上は生前、大変に健勝であったと見えるね。出来の良いの悪いの揃えて百近くが、骨肉争う王冠争奪戦を繰り広げているそうだよ」
  女が頼みとしていたのは、その「百近く」いる中でも特に女への妄執ともいえる偏愛を、前太守が持っていた、それだけのことで、
 「後ろ盾のなくなった君の立場が判るか」
  一刀に断とうと女を見やった男は、徐に視界が戻っていることに気付く。わななく唇の隙間から桃色の舌が零れて見え、気を惹かれる。剣針を引いたと同時に女の顔を引き寄せた。首の後ろに手を当て、噛み付くように唇を貪る。暴れるかと思った女は、されるがままに静かだった。
 「――こう」
  されたかったのだろう?
  囁いて突き放す。
 「くだらない」
  吐き棄てる。
 「わたくしを……わたくしを、捨てるのですか」
  半ば陶然としながら床へ蹲り、女は小刻みに震えている。一糸まとわない女の体は床の上ですら美しい。……すてる?その女へ向かってエスタッド皇は凍った声のまま鼻先で笑った。
 「もとより拾い上げて居らぬよ」
  興味を惹かれたのは、ほんの気まぐれ。その気紛れすらも、
 「繋ぎとめられるとでも思ったか」
  私を。
  言い放ちながら、相当に非人だと自分のことながら思った。冷たい人間なのだろう。あたたかさややさしさと言った、思いやりの欠片もない。だがそれがどうした。
  ――何に役立つ?
  嗤いがこみ上げる。
  そのまま、ふと熱情が途切れて、男は針を投げ出すと物憂げに椅子に凭れた。肌蹴られた襟元の風通しがよすぎる気もしたが、直すのも億劫だ。外界へ目をやり、それきり女のことは忘れた。何かを口に仕掛けた女が言葉を飲み、数度こちらを振り向きながら退室した気もするけれど、それも曖昧だ。
  そもそも女が部屋にいたことすら夢か現か。再び視界が霞み始めている。
  喉が渇いていたけれど、寄られることは嫌だった。
  卓上に置いた酒瓶の中にまだ少し残りがあったはずだ。馴染の薄い度の低いそれは、大して美味いとも思えなかったが飲まないよりはましだった。飲み潰れたら少しは眠れるかもしれない。思って男は手を伸ばし、そのまま唖然として固まった。
  窓の外にはこの屋敷へ通じる山道が伸びている。その山道に黒い染みのようにぽつんと、見えた何か。
  酒瓶が音を立てて転がる。知らず立ち上っていた。

                   *

  ざざざ、と重たい音を立てて梢から半解けの雪が滑り落ちる。
  ここ数日降り続いていた白魔も今は鳴りを潜め、穏やかな日差しが斜めに注いでいる。それでも吐く息はそのまま雲になり固まってしまうのではないかと思えるくらいに、やはり寒い。
  暖炉と呼ぶにはお粗末な、火熾しの炉程度の――しかしそれでも暖を取るには十分だ――脇に積み上げた薪が残り少なくなっていることに気付き、日が落ちるより前にと重い腰を上げた。しばれた体を震わせながら手斧を振るっていたのだが、十も縦割ると徐々に芯から温まり、汗まで滲み出る。良い運動だなと思うとともに、自分の年で良い運動も何もあったものではないかと思い直した。
  初老の男だった。
  くたびれた着衣と、雪焼けした肌。丸み始めた背が、自分を実際以上の年齢に見せることを男は知っている。知ってはいたが、年頃の娘でもあるまいし見た目を気にするにはあまりに山奥に人の目はなかった。そもそも男は人嫌いの気があったし、言葉を交わすことにたいした重みを感じてる性質でもない。酔った勢いで二言三言、軽口を叩くことも稀にはあったがその程度だ。
  そうして、山にはその「言葉を交わす」相手すらいない。極端な時には半年、人と交わることがない。自然黙々と仕事を行い、余計な事をしゃべらないので饒舌になりようがない。寡黙、と言うよりは考えを言葉にして発することが土台苦手だ。
  男は、炭焼きを生業としていた。
  山の木々が木の葉を落とし、霜の降り始める頃に山へ籠る。使いこなれた窯を丹念に手入れして、それから夏の間に目星を付けてあった原木を一人で切り倒す。同じ樹種であっても日当たりや養土で具合がかなり変わってしまうので、一本一本慎重に中りを付けて行く。そうして数日の間、釜の火加減を睨み続け、火が落ち着いた頃に掻き出し、倉庫と呼ぶにはは名ばかりの、雪避けの付いただけの覆いの中に積み上げる。長い時には明けて春が訪れ木々が芽吹くぎりぎりまで、山を下りない。
  途中で降りるのは、日常に必要な物資が足りなくなった時だけだ。
  男の焼く炭は状態が良いと評判だった。
  臭いがない。煙が少なく、持ちが良い。
  馬橇(うまぞり)に積んで山を下れば、そこそこの値が付いた。
  それで暮らして行けたので、考えることもない。物心ついた時分から男はそうして炭焼きをして生計を立ててきたし、他の職種に興味を惹かれたこともなかった。
  血縁も既に亡い。
  中には一人で全てをこなしてどうする、大した量もできずまた冬山で何かあったらどうする、だとかで数人の分担作業を勧めてくれるお節介もいたけれど、男は黙って首を振った。生計さえ立ち行けば儲けは気にしていなかったし、自分のペースでこつこつとこなせる環境にもうずっと慣れていたので、今更それを変える気もない。
  かん、と甲高い音を立てて薪の一片が少し遠くへ飛んだ。考え事というほどのものでもないが、ぼんやりとそんなどうでも良いことを考えながら振り下ろしていたので、僅かにぶれたようだ。
  じんわりと滲んだ額の汗を片腕で拭い、それから腰を伸ばして息を吐く。ごきりと首を回してついでに視界も一緒に回ったところで、差し出された木片。
 「はい」
 「……ああ」
  礼を言うほどのことでもないので曖昧に語尾は濁して受け取る。差し出した相手は数呼吸ゆらゆらと前後に体を揺らしながら黙って立っていて、それからくそ、と悪態をついて雪にしゃがみ込む。
  しゃがんだと言うよりは、崩れたと表したほうが正しいのかもしれない。
 「冷えるぞ」
  案じたと言うよりは事実を告げただけの男の声に、相手はしばらく俯いていた後に顔を上げる。男の持つありったけの防寒具を着込ませて丸膨れになっている癖に、真っ青な顔で脂汗が浮いている。大丈夫か、だとか小屋へ戻れ、だとかそう言った言葉は扁桃あたりで立ち消えて、代わりに男は顎をしゃくった。
 「運ぶのは腰に来る。自分で戻れ」
  娘だった。
  娘と呼ぶには体のどこにも丸みがなくて、まだ餓鬼と呼ぶのが一番しっくりくる。数日前の雪の晴れ間に、たまたま伐採する予定だった目ぼしい樹木の様子を見るために、釜を離れた。雪の中に着のみ着のまま埋もれていたのを見つけて小屋へ運んだのだった。
  最初に見つけた時には、驚くよりもまず呆れた。
  どんな状況で倒れたのか知らないが、冬山とはまるでかけ離れた格好をしていた。きらびやかな装いはしていなかったけれど、触感で上物を着ているな、と何となく気付く。
  半ば凍っていたので死んでいると思った。
  転がしたままには少し哀れに思う。放っておけば恐らく冬眠しきれずに腹を空かせた獣の餌になることは間違いなくて、むしろそれまで無傷で残っていたこと自体がすでに幸運だ。雪下の土にでも埋めてやろうと持ち上げかけた時、僅かに動いた気がしてそこで初めて驚いた。
  とりあえず脈を見ると、まだ微弱ながらも反応がある。なんだ生きていたのか。凍死寸前の体を担いで小屋へと戻る。火を熾し、濡れた服を脱がせて手足を擦る。防寒具を着込ませ、暖炉の前に転がしておいた。それ以上の看護はしなかった。男自身それ以上の知識がなかったし、手を尽くしても駄目なときは駄目だと言うことを知っていた。
  娘は朝になってもまだ息をしていた。
  しぶといな、と思った。
  ただそれからしばらく意識は戻らなかった。息をして転がっているだけの体へ向けて、男は取りあえず火だけは絶やさないように薪を焚き続け、意識のない口へ水を注ぎこんだ。その度に娘がうなされて何かの名前を呟いていたように思う。聞き取るほどに男は娘に興味が持てなかったし、そもそもひどく掠れた小さな声だったので、一体何と呟いていたのかは今も判らない。
  ぱち、と不意に目を開けたのは昨晩のことだ。
  とすると、三日近く寝ていたことになるのだろうかと、男はふと気付く。弱っていた娘は、目を開けた後もしばらく何も喋らなかった。男にとってはその方が都合が良い。矢鱈に話しかけられても戸惑うばかりだ。
  黙って道具の手入れをする男の横で、じっと炎を瞳に映していた。
  一晩黙りこくっていた娘は、朝になるとよろよろと表へ這いずり、用を足してまた戻る。自力で動けるのならば割と回復は早いだろう。眺めていた男は、戻ってきた娘へ黙って椀を差し出した。
  やはり黙ったまま受け取った娘は、ゆっくりと湯気の立つ羹(あつもの)へ口を付け、そのまましばらく動作を留めて、そうして飲み込む。ごくんと喉が動き飲み込んだ拍子にぽろ、と娘の目からしずくが一粒こぼれ落ち、それから二粒目が椀の中にこぼれ落ち、娘は一言も声を発さずただ静かにぼろぼろと涙をこぼし始めた。こぼしながら、泣いていることが気に入らないのか、何度も悔しそうに眼を擦る。
  女子供と言うものは大小に関わらず、機嫌を損ねると甲高い声を上げて泣き喚く生きものだと男は思っていたから、こんなに静かに泣くこともできるのかと感心する思いで眺めていた。
  ただ、何か言葉を掛けようと言う気はなかったので放っておいた。
  暫くそうしていた娘は、気が済んだのか泣き止むと、鼻をすすりながら椀の中身を平らげて、それからようやくありがとう、と男へ小さな声で言った。
  たどたどしい発音。
 「お前、名前は」
  眺めて続けていた男は、流石にそこで何か応じた方が良い気がしたので、一言尋ねた。
  濡れた頬をごしごしと乱暴に擦っていた娘が、拍子に男をじっと見つめた。吸い込まれそうな深淵の、緑青の瞳。
  ちゃとら。
  娘はそう名乗った。

                     *

  それが昨日のことで、どうしてか今チャトラは一人で道を歩いている。少し前まで道案内をしてくれた口数の少ない炭焼きは、彼女と一緒に屋敷へ向かうことをゆるく首を振って拒否した。
 「後はお前ひとりで行け」
  そう言う。
  屋敷へ戻れば騒がれることは目に見えていたし、それが煩わしいのだなと彼女にも理解できたので、
 「オレのこと抱く?」
  できたからこそ、それ以上の駄々はこねずに、唐突にそんなことを聞いた。
  言ってから何とはなしにおかしくて僅かに苦笑いする。炭焼き小屋で持ちかけるならともかく、雪深い山中で提案する話ではないと思ったからだ。下手に肌を晒すと凍死する恐れがある。
 「何故」
  驚いた訳ではないけれど片眉を上げて訝しんだ男へ向かって、チャトラは肩を竦めた。言い出した以上後に引けない。
 「オレ、何も持ってないんだよ」
  チャトラは文字通り身一つだった。金がある訳でも名誉を与えてやれるわけでもない。男に他意があって自分自身を助けてくれたわけではないのだろうなと察しはついたが、貸し借りで言うところの、
 「借り」
  があるままに別れることは気がかりだった。
 「女が欲しくて助けた訳じゃない」
 「ごめん」
  淡々と返す答えに、チャトラは反射的に謝っていた。自分の申し出は、男の好意や自尊心を傷付けただろうか。しまったな、と下唇を噛む。
  その頭にぽんと、がさついた手のひらが置かれて乱暴に撫でられる。
 「気持ちだけもらっておく」
  見下ろされた眼差しは意外なほど温かくて、不意に鼻の奥が小さくつんと痛む気がした。思い出しかける昔の記憶。姉ちゃん。慌てて鼻をすすって妙な気分を誤魔化す。
 「じゃあな」
  余計な言葉は一切口にしない炭焼きの男は、来た道へくるりと振り返り、根雪を踏みしめて小屋へと戻っていく。もしかすると方向は、伐り倒す原木の様子でも見に行くのかもしれない。丸めた背へ向かってありがとう、とがなると、肩越しに上げられた手だけが二、三度振られた。
  その姿を最後に、チャトラも教えられたとおりに男とは真逆の方向へ雪を踏みしめ始める。ここ数日の朝晩の冷え込みで表面のしっかり固まった雪は、それでもチャトラの体重を支えるには僅かに足りなくて、踏み出すたびにざくざくと音を立てて凹みを付けた。
  男に着膨れさせられた防寒着のおかげで、寒さはさほど感じない。昨日一日ほとんど寝て過ごしたので、体調も復帰していた。まだ視界が斜めに傾いだりすることはあるけれど、歩くのにほとんど支障はなさそうだ。
  だのに進む歩幅が次第に狭くなって、自覚のあるチャトラは小さく溜息を吐く。
  参ったなァ。
  内心一人語散た。
  歩幅は自信の表れだ。正直なところ、屋敷へ行きたくない。もっと正直に言うならば、皇帝の許に戻ることが嫌だった。
  雪の中で朦朧と歩きながら、皇帝の声を聞いた。それはきっと極限まで追い詰められた、自分の無意識が聞かせた幻聴ではあったのだろうけれど、その時自分が男の声を聞きたかったことは、認めたくないけれど事実だった。自分をいつくしみ育ててくれた、姉の声よりもチャトラはあの一瞬だけは、皇帝の声がもう一度聞きたかったのだ。
  顔を合わせるたびに苛立ちが募る相手の声が聞きたいだなんて、どうかしている。
  自分でもそう思う。
  あの、何事にも動じない澄ました顔も嫌いだ。平気で人を人と思わない考え方も嫌いだ。周りの人間を自分の都合で振り回して全く介さない図太い神経も、何もかもが大嫌いだ。
  雪に埋もれてみた夢の中で、何度も何度も姉がチャトラの首を絞めた。いっそ捩じ切ってくれて構わないのに、と思った。巷間に流れるよくある話で、川を挟んだ向うで、もう亡い相手に戻れと言われただとか、花一面の野原でまだここへ来てはいけないと諭されただとか。いっそそうした幻でも見られたらよかったのに、姉は相変わらずあの狭い路地裏で固く冷たくなって転がっているだけなのだった。とどめを刺そうとはせず、呪詛を吐きながら真綿で首を絞めるように、その細い腕で何度も何度もチャトラの首へ手をかけるのだ。
  悪夢を嫌と言うほど繰り返し見て、不意にぽかんと意識が浮いた。
  目を覚ますとまるで知らない小屋の中にいて、他人のにおいがする防寒服を着せられて炉の前に転がされていた。
  声を上げるにも、飛び起きるにもチャトラはひどく弱っていたし、介抱してくれたらしい男は一言も発しなかったので、チャトラも黙って転がっていた。
  生きていたのだなという実感がわいたのは、男に湯気の立つ羹の入った椀を差し出された時だ。
  受け取った拍子に涙がこぼれた。
  捨てられたんだな。
  そう思った。
  それからすぐに、皇帝が自ずから自分を探し出そうと努力するような性格ではないこと、万に百分の一の確率で彼が自発的に動こうとしたとしても、周りがきっと止めること、と言うよりもよく考えてみれば、そうした行動を彼ができるような丈夫な体ではないことを思い、
  でも。
  そんな理屈はどうだってよかったのだ。雪の中ではひどく心細くてさびしくて、だからきっと普段は見ただけでむかっ腹の立つ男の顔であったとしても、目を覚ました時に側にいてくれさえすれば、自分は安心したに違いないのだ。
  けれど、皇帝にとって自分がこの程度の扱いの人間だった。再確認させられた思いで、なんだか妙に悲しかった。
  捨てられたのかな。もう一度思う。
  そうなのかもしれない。どんな形であれ愛着を持つ相手だったなら、そもそも他人へ手放すような真似をするのだろうか。
  幾らでも替えの利く消耗品。
  拾われた、と表現できるのかどうかも疑わしい。皇帝はおそらくほんの少しの興味が湧いたから、手を伸ばしたに過ぎない。懐を狙って飛び込んだのはチャトラ自身だ。その意識と意識の隙間に生まれたような些細な興味を、まともに受け取って反発し大騒ぎして逃げようとしていた自分が、間違いと言われればそうなのかもしれない。
  ああ、でも、やっぱり名前を呼んでほしかったな。
  姉が愛おしんで付けてくれた名前。あの響きの良いテノールで、一度。
  屋敷が遠く見えたあたりでとうとう一歩も踏み出せなくなって、チャトラは雪溜まりの影に隠れるようにしてしゃがみ込み、かじかんだ手のひらを擦った。あまり長時間寒い中でじっとしているのは、まだ体に良くないことは判っている。
  そう思うけれど、どの顔をして屋敷へ戻れば良いのか判らない。ディクスあたりはきっと嬉しそうな顔をしてくれるように思ったけれど、当の本人に無関心を貫かれたら、ぶん殴ってしまいそうだ。泣き濡れる性格でも、黙って身を引く性格でもないことは、自分自身よーーく判っている。
  殴ったら、アンタは。
  考えがまとまらず、溜息をまた吐いた。真っ白い息が長く立ち上る。

 「猫」

  いきなり呼ばれて、弾かれるように顔を上げた。ここで、こんなところで、こんな格好で、こんな状況で。思いもよらなかった。動悸と眩暈が一気に襲い掛かって来て、どうにも立てそうにない。心臓をわしづかみにされるような、と言うような表現は、こういった時に使うのだろうな、だとかどうでもいいことを思った。
  顔を上げた先に男が立っていた。声の届く割と近い距離に、寄られていたのに気が付かなかった。
  明らかに室内着だろう、薄手の更紗を肩から流して、自分と同じような真っ白な息をせき切らせて立っている。雪の上の足跡は転々と乱れていて、梳られていたはずの日に透けて金茶の髪は、風にほつれている。半目に伏せられがちの視線は上げていたけれど、焦点の曖昧さに、男がほとんど視界を失っていることに気が付いた。
  ……見えないのに走ってきたのかよ。
  気が付いたと同時に驚きだとか心配よりも呆れた笑いが浮かんだ。皇帝らしい。そうも思う。
  その男が、目を眇めた。
  猫、ともう一度、今度は先よりも小さな声で確かめるように呼ばれる。それから、男はチャトラの前へ膝を付いた。雪雲から差した薄日は、そう光量の多いものではなかったけれど、真っ白な雪原に乱反射して男の表情を逆光に隠す。逆光。
  ひどい既視感を覚えて、狼狽えたところに、腕を伸ばされて不意に抱きしめられた。
  片腕で、ぎゅっと。
  動けない。この情景は、あの日をなぞっている。
  あの日。
  垢と汗と埃と泥と涙と鼻汁にまみれた子供を抱きしめた時と同じような力で、同じように躊躇いもなく、いいにおいのする、やさしくて、あたたかな、
 「――皇都に比べてここの夜は寒い」
  呆然としている彼女の耳へ、唇が寄せられる。
 「独り寝は凍える」
  言われた言葉に驚いて、チャトラは男を見返した。その視線から逃れるように、つと男は顔を下へとずらして、喉輪の鈴を啄ばむ。
  ちりり、と音が響く。
 「チャトラ」
  謳うように、男が名前を囁いた。



(20110219)
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最終更新:2011年02月19日 00:59