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風呂から上がって寝室に入ると、あのひとはいなかった。
濡れた髪を適当に手拭いで拭き散らして、座る所もないので寝台に腰かける。
部屋の中は憎らしいほど気持ちのいい温度に整えられていた。
こういうところ、すげぇっていうか、あのひとが周りから傅かれてるんだな、とか思う。
自分一人だったら震えながら暖炉に火をつけるのが関の山だし。
思いながら寝台をしげしげと見た。流石に皇都と違って屋敷のコレには、天蓋とか付いていないようでなんとなくホっとする。
だいたい、アレだよな。
オレがあのひとと同じ部屋にいるのがなんか普通の状態になっちゃってるのも問題だけど、それよりなにより、部屋が一人用としてしか機能してないんだよな。
そんな風に思う。
ふつう、部屋に人を長期で招き入れる時って、相手が過ごしやすいようにちょっとくらい気を使うもんじゃね?
金がない場合は気を使おうにも使えるもんじゃないし、そりゃ仕方がないだろうけど、何せ相手は「皇帝サマ」で、オレはまだ見たことないけどコッコ(国庫……?)だかに、唸るほどの金塊がみっしり詰まってるって話だし、椅子とか一つくらい揃えたっていいように思うんだけど。
いつまで経ってもあのひとの部屋は、あのひとが使いやすいようにだけ家具が配置されていて、オレはそのおまけみたいなものだった。
とっとと寝台用意しろとか言い出すのも気が退けて、床で寝てたら風邪ひいたとか、とんだ莫迦を見た。
気が付かないとか本当にどんだけ箱入りなんだよ、とか思う。
けど、あのひと一人用の部屋は、呆れるほどに居心地も良いし使い勝手も良くて、オレはその心地良さは嫌いじゃなかったから、もう最近は色々言うのは諦めた。
あのひとはどう考えても他人に合わせるような……
……というか合わせられるのか?……
……素直な性格していないし、だったらオレがちょっと我慢すればいいだけ。それだけ。
そう思っていたのに、皇都からこっちにくる道中はさんざんで軽く死にかけた。思い出したくもない。
寒いのは嫌いだったけど大っ嫌いになりそうだ。
あのひとにあったら文句の一つでもいうか、ブン殴ってやろうと思ってたのに、顔を見たらどうでも良くなった。
良くなった、って言うよりはなんかあのひとらしくない行動に出られちゃったので、こっちとして対応に迷っていたらあのひとのペースに持ち込まれたって言う感じだったんだけど。
あんな顔をして、名前を呼ぶなんて卑怯だ。
まるで大事にされているみたいで、勘違いしそうになる。
雪の中で死にかけていたオレは、運がいいことに炭焼きのおっさんに拾われて、命拾いをした。屋敷に戻るとやっぱり軽く囲まれたりして、ラズとかいう若い騎士なんか涙ぐんでいたりした。
心配してくれたんだな、素直にそう思えたからありがとうって言ったら、余計に泣かれて困った。
たぶん、探されたオレと、探した相手では心配の度合いが随分違って、そうでなくても騎士なんて職業柄女子供には優しいらしいし。
オレを見つけたディクスさんが、嬉しそうな顔をしてくれたのが嬉しかった。
根は良い人なんだろうとは思うんだけど、オレが顔を合わせるのはディクスさんが仕事中の時しかないし、いつも厳しい難しい顔をして油断なく辺りを見張っていることがほとんどだったから。
前に不用心に近づいたら、ぞっとするほど強い殺気を向けられることがあるので、皇帝とは別の意味で何となく近寄りがたかったし、近寄る時はわざわざ視界に入るように気を付けていたりした。
そのディクスさんが、一通り騒ぎが終わった後にそっと近づいてきて、ずっと待たれていた、って言う。
ディクスさんが待っていたのかって最初思ったんだけど、それにしては言い方が妙だったからえ、て見返した。
「陛下が」
オレの視線の意味が判ったのか、ディクスさんは付け足した。それを聞いてでもえーって、オレは余計に混乱した。
あの人がオレのこと待っていたとか、なんかもう絵面的にありえないよねそれ。想像がつかない。
でもそう言われてディクスさんが笑ってくれた時よりもうちょっとだけ嬉しかった。
捨てられたわけじゃないのかな。
嬉しくなって後から叩き落されるぐらいなら最初から期待しない方が良いことは判ってるけど、顔にも出たらしく、オレを見てディクスさんがくすりと笑ってた。
「あれ」
妙にがたがたと窓がなると思って、近付いてみたら掛け金が外れていた。
外はもう闇が迫っていて、月が上っている。ここで見る月は寒々としていてあまり好きになれそうもない。
掛け金をかけなおしかけたオレの目に、月に照らされた雪の上の真っ赤な何かが見えて思わず声が漏れた。
最初、あまりに赤黒いので血か何かと思ってぎょっとしたけど、それにしては妙に盛り上がっていたから、染みって訳でもなさそうだった。
拳より二回りほどちいさいそれ。
この雪の中に、そんな色彩が混じることに気を惹かれて、オレは窓から身を乗り出す。赤いバラだと気付いてあれ、って思った。
茎のついてない、頭だけもいだ、真っ赤な。
もう少し向こうに目を転じれば、またぽつんとバラの花が落ちていて、オレは窓の下からずっと足跡が続いていることに気が付いた。
誰だろう、って思う。
一番可能性がありそうなのはこの部屋のあのひとなんだろうけど、それにしては窓から出ていくだとか、オレじゃあるまいし、あまりに突拍子もなかったし、一瞬足跡について行っていいのか迷った。
でもこれ、点々と花が落ちているのって、何かの目印なのかなと思う。本当に一人になりたかったらあのひとは痕跡さえも残さない。そんな気がした。
それによく思えば、ディクスさんはまだ屋敷の中にいたし、どう見ても足跡一人です。
月が照っていて迷子になる可能性は低いとはいえ、皇帝とか言う立場上、それってどうなの、とか。
オレが側にいたって護衛の役目もなんもできない訳なんだけど、でもなんとなく気になるし。
だからオレは上着を羽織って、ついでに寝台の羽毛布団も頭からかぶって、万全の用意で窓から足跡の脇へ飛び降りた。
足跡にオレのを重ねてみた。
倍くらいありそうなそれは、男のものだと思う。
あのひとのものかな。
最初の赤い花を拾った。雪によく冷えていて、手のひらから体温を奪っていきそうになる。
布団を掻き合わせて、また少し進んで二つ目を拾った。
顔を上げるともう少し先に三つ目が落ちていて、それが足跡と一緒に青白い光に照らされていた。
ひとつひとつ拾い上げて腕に抱えていく。
とぼとぼと落とされている花は、意外に増えて行って、途中で拾うのをやめて足跡をたどるだけにしようかとも思ったけど、なんとなく置いて行くのは躊躇った。
花が枯れるからとか勿体ないとかそういうのじゃなくて、ただ、あのひとの言葉が雪の上に落ちているような気がしたからなんだけど、赤い花があまり大事なことを話さないあのひとを代弁してるような気がして。
アンタは何を思って花を落としてるんだろう。
アンタはオレに言いたいことあるのかな。
オレは皇都に来てすぐはよく判らなかったけど、たぶん今ならあのひとに言いたいことがあるような気がする。
でもそれは言葉にしてしまうと上手くまとまらなくて、余計に拡散してしまうような感じで、だけど胸のわだかまりが確かにもやもやとあって、あのひとに言いたいことだってことだけは判っている。
はっきりと認識するよりはそうして靄のまま放置していた方が良いような気もするし、オレにはよく判らない。
でもひとつだけ言えることは、この赤い言葉を辿ってオレは最終地点のアンタまでたどり着いてみたいってそれだけなんだ、けど。
左手で広げた上着の裾に、ひとつまたひとつ溜まっていく赤い花。悪戯や目印だったらこんなにたくさん落とさないよね。
両手いっぱいに花の頭を抱えて、顔を上げたオレは雪の中に倒れているあのひとを見つけて息を飲んだ。
転がっている、とか寝ている、ってより倒れているって表現が妥当な気がして、なんだか不安で怖くなる。
ああ。
死んでいるんだ。
不吉なことなんだけど妙な確信があって、オレは恐る恐る皇帝へ近付いた。
音を出すのも躊躇われるようなおかしな静けさがあって、炭焼きのおっさんがオレを見つけた時もこんなだったんだろうか、だとかどうでもいいことを思う。
こうしていると人形みたいだな。アンタ本当に死んでいるんだな。
「――花がきれた」
近付いたオレに、相変わらず皇帝は目を閉じて仰のいたままで、唇だけ動かしてそう言った。
辺り一面に頭をもがれた茎だけが、無造作に散らばっていて、やっぱりこのひとが落としていたんだなって思う。
「うん、」
唐突な振りはもういい加減慣れていたので、オレは頷いた。頷きながら死んでいたことより生きてることの方が、余計に驚いていることに気付く。
生きていると判って、いきなり胸がどきどきとする。
おかしいよね、普通は反対だと思うけど、なんというか皇帝に限って言えば、死んでいる方が自然で、綺麗にまとまって見える気がした。
でもたぶんアンタがもし死んでいたらオレはとてもかなしい。
「もう少し進もうと思ったのだけれど」
そう言ってアンタは何が可笑しいのかうっすらと笑った。
オレはそこで皇帝の頭のあたりまで近づいていて、上から立ったまま覗き込む。
月の光が遮られたのか、アンタがゆっくりと目覚めるように目を開けた。
「拾ってきたし」
「全部?」
「全部」
「――そう」
広げた裾の上の花を見せると、皇帝がまぶしそうに目を細める。
オレが少し脇にどけたせいで、真っ直ぐに月光に射抜かれたアンタの薄茶色の目。オレは多分その色が嫌いじゃない。
ぞっとするほど雪の上のアンタは血の気が抜けていて、なんだよそうして寝転がっているから寒いんだろって思う。
「なぁ」
「――ぅん?」
「アンタに何回も名前を呼ばれてる気になった」
そう言って花を差し出したけど、皇帝は笑ったままいらぬよ、だとか言う。
アンタ、自分で振りまいたんだろって、そう思ってオレはアンタの上にぼたぼたと花を落としてやった。
真っ白な雪の上に、点々と赤い染みを作って寝ているアンタの図は、割とシャレにならない。
ぎょっとなってオレは急いでアンタの上から花を払い落とした。
そんなオレを見てアンタは今度は声を立てて笑う。それから花と同じくらいに冷たい指先で、オレの腕を引いた。
大して抵抗もしないでいたら、胸元に引き寄せられて、オレも同じように半分雪に埋もれた格好になる。えぇっと冷たいのはもうお腹いっぱいなんですけど。
「……おい」
「ぅん?」
「風邪ひくどころか凍死すんぞ」
「――二人で?」
「オレはしねぇよ、凍るならアンタ一人で凍ってろ」
「冷たいね」
「ここまで探しに来たオレは、優しいと思うんだよね」
言って起き上がったオレを、今度は大して引き止めるでもなくて、アンタはオレの腕を放す。
そうしてここまで呼び寄せたくせに、あっさりと立ち上ってそのまま元来た道を戻ろうとするから、オレは思わず場の流れについていけなくてどうしようか迷った。
屋敷に戻るのは当然だし、いい加減眠いし、さっさと帰って寝たいのはやまやまだったけど、大量にまき散らされた赤い花をそのままにおいて行くのはあんまりかなとか、そんな風に思ってしまった。
ここへ来るまでに、皇帝のあの静かな声でひとつひとつ名前を呼ばれている気になっていたから、余計にそこに放置していくことは躊躇われて、オレは慌てて膝を付いてまた広げた裾の上へ花の頭をぽんぽんと放り込んだ。
だってアンタがオレの名前を呼ぶことなんてなかなかなくって、それがこんなにたくさん雪の上に落ちたまま萎れてしまうなんて。
そう思って拾い上げながら、皇帝の寝そべっていた雪のへこんだ跡を見て、ふとあのひとがいつからここへ転がっていたのか、不思議になった。
オレが来るまでずっと転がっているつもりだったのかな。
そう思ったらまたなんかどきどきして、不意に胸の靄あたりが痛くなる。
オレが掛け金の外れたことにも気が付かないで、そのまま寝ちゃってたら、アンタはここで転がったまま冷たくなっていたんだろうか。
雪の上にぽとぽとと声にならない言葉を落として、誰も拾い上げることが無かったらどうしよう、だとか考えなかったんだろうか。
雪の上でこと切れたアンタはさっきの何倍もきっと綺麗だろうと思った。
そうしてそういう考えって、退廃的?て言うのかなって思って急いで打ち消した。
あらかた拾い終わって立ち上った拍子に、また腕の中からぽろ、と零れたそれを拾い上げようと手を伸ばす。
顔をあげた視界の向こうで、アンタがこっちを向いているのが判った。
まだ先に行ってなかったのか、とか思ったけど口に出すほどでもなかったので視線を投げると、今は少し翳りを見せた栗色の目がうすく眇められる。たまにそういう顔をするよね。
でもどういう塩梅の時にアンタがそう言った顔になるのかオレにはよく判らない。不機嫌じゃない、てことくらいは判るんだけど。
それから、やっぱりこうして声が聞こえるような気がする花の頭なんかより、実際にアンタの声で名前を呼んでほしいと急に思った。
そう思ったら腕に抱えた赤い花は逆に邪魔な気がして、オレは唐突に腕をだらんと下に落とした。支えるものがなくなった花たちはまたぼとぼとと雪の上に散って、でもオレはもう拾うつもりはないよってアンタの顔を見る。
アンタは相変わらず無表情だった。何を考えているのかだなんてオレには分からない。
自分で落とした癖に、やっぱり拾おうかだとかまたでてきた未練と後悔にちょっと後ろを振り向いて、でもそういう事しちゃいけないんだなって思う。
雪の上に散らばっているバラはとても綺麗だった。
そうしてオレをどうやら待ってるらしい皇帝に近付いて行きながら、早くオレの名前を呼んだらいいのに、って思う。猫とかそういう曖昧なものじゃなくて、それこそ飽きるほどオレの名前を呼んだらいい。
たまに思い出したように呼ぶとか、もしかしたら本当にいつもは忘れていて時々思い出して口にしているだけなのかもしれない。自分の名前も忘れているくらいなんだから、そう思ったら何となく納得してしまってオレはにやにやと笑いながらアンタに近付く。
でもできたら忘れないくらいオレのこといつも呼んでくれたらいい。アンタの声嫌いじゃないし、姉ちゃんがつけてくれた自分の名前も嫌いじゃない。
いつだかアンタが言った、アンタ自身が呼ばれたい名前を、オレは今でも時々考えています。アンタはあの時の約束を覚えていますか。もう忘れてしまっているかもしれない。だったら何度でもアンタの名前を考えてやろうと思う。だからどうか、オレのこともっと名前で呼んでください。
(20110219)
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最終更新:2011年02月27日 23:00