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<<砕動風>>


  局地的ではあったものの、猛威を振るった黒死病がようやく収まりつつあるようだとの報告を受けて、男は鷹揚に頷いて見せた。その間も資料から目を上げない。流し読みつつ流し聞くのは、もはや男の癖のようなものだ。
  器用な男だと常々思う。
  チャトラである。
  執務に勤しむエスタッド皇の机の脇で、床に転がり羊皮紙を広げて書き取りをしていた。座って書く方が本当は楽なのだけれど、そもそも屋敷には、チャトラが使えるような机が部屋のどこにもない。ひとつだけの文机は皇帝が占領中だ。
  行儀が悪いと咎める人間もここにはいないので、堂々と寝転がっていた。
  皇都より馬を走らせて半日ばかり北へ行った、屋敷の一つだ。こう言った静養地としての屋敷が、皇国内のあちらこちらにいくつもあるのだと聞かされた時、チャトラはしみじみと世界の差を知った。窓の外、庇にはまだ氷柱が鋭く牙を尖らせていると言うのに、部屋は薄着一枚でも十分なほどに暖かい。
  贅沢だなと思う。
  自分にとっての冬と言うものは、凍えることが当たり前で、雪解けの春を早く来い早く来いと念じていた。芯まで冷えた体を温めてくれるものは何もなくて、一人路地裏の壁に凭れて震えて朝が来るのを待っていた。
  それが今では手足を伸ばして、呆れるほど大量の薪を暖炉にくべた前に陣取っている。これでは路地生活に戻った時にしばらく痛い目を見ることになりそうだな、そんな考えがふと過ぎって、それからその生活とやらに戻るのは一体いつのことになるのだろうと思った。
  ちょっとした手違いと言おうか、掏摸であったチャトラの「人選ミス」で、どうしたことかエスタッド皇帝と知り合うことになった。なし崩し的に「飼われる」だとか言われ、呆気にとられている内に皇都に連れてこられた感が強い。当初は皇帝に対しても、半ば嵌められたような状況にもひどく抵抗したけれど、すればするほど自身の常識と相手の非常識の差額を思い知らされることばかりだったし、埒が明かなかった。
  そのうちエスタッド皇には、どう足掻いても自分を解放する気はなさそうだと気付いて、少しばかり考え方を変えた。
 「飼われている」だとか譜面通りに受け取るから腹が立つのだ。
 「皇宮で働いている」とでも思えばいい。
  幸い、連れてこられた皇宮は突拍子もないほどに広かったし、チャトラ自身に申しつけられた「皇帝の身の回りの世話」の他にも、仕事は探せばいくらでも転がっていた。雨露をしのげる屋根の下どころか、皇帝の側に近いおかげで、恐ろしく快適な生活設定がなされている。三食に昼寝まで付いて、ついでに読み書きも教えてもらえるらしい。
  これほど恵まれた状況は、そうそうないのではないか。
  感謝すればこそ、恨めしく思うことが間違いなのではないか。
  言い聞かせれば、多少皇帝にいじられたところで腹も立たない。

  ……立つが。

  何にせよ、皇宮はどこでもいつでも手が足りない状態だったものだから、雑用を進んで引き受けるチャトラは下働きの女たちには特に重宝されていた。
  チャトラ自身も、雑用を任されることが嫌いではない。
  体を動かすことがもともと好きだと言うのも勿論あるのだけれど、雑用を済ませたと報告するときが一番に好きだった。
 「ありがとう」と、言われた。
  嬉しかった。
  あまりに嬉しかったので、初めて仕事を終え部屋へと戻りがてら、思わず考え込んでしまった。
  そうして、気付く。
  もうずっと自分は、他人から感謝されるような暮らしをしていなかったのだ、と。
  実入りの多そうな懐を抜け目なく狙い、すれ違いざまに抜き取る。
  金入れの重さに一喜一憂はするけれど、基本的には緊張の連続であったしそもそも相手から喜ばれることは何一つしていない。住処にしている間の、街の露店の商人たちの無関心がせめてもの救いではあったけれど、それはやはり好意と言うよりは「無関心」でしかなかった。
  ありがとう。
  しみじみとした礼と言うものでは決してなく、反射的に出た時候の挨拶のようなものだ。チャトラにもそれは判っている。けれどその一言が嬉しくて、進んで仕事を買って出る。
  単純だと思う。それでもいいとも思っている。
  どのあたりに興味が湧いたのか、エスタッド皇にも尋ねられたことがあったので、説明したのだけれど理解してもらえなかった。判らない、と半分本気で首を捻られ、それもそうだろうなと自然に思った。納得と言ってもいい。
  自分と、皇帝の生きてきた世界はあまりにも異質に過ぎる。例を挙げるまでもなく、生まれた場所がそもそもに異いすぎるのだから、これはもう仕様のないことだ。
  そう思う。
  
  とん、と軽く文机を叩く音がして、チャトラは音に惹かれるように顔を上げる。いつの間にか報告を終えた騎士は退出しており、エスタッド皇が報告書をめくる手を止めて、チャトラを見ていた。
  文書に目を通す時に時折使用している片眼鏡が、窓からの光を鈍く反射させる。褒めるつもりはチャトラにないけれど、片眼鏡だとか気障にしか見えない小物を、当然のように身に着けて、それが全く嫌味を感じさせないのだから、そういうところだけは、素直に感心する。
  そういうところ「だけ」は。
  なに、と口に出さずに目で問うと、男は物憂げに片腕を伸ばした。
 「――書けたかな」
 「ああ……うん」
  体を起こして、羊皮紙を差し出した。男が最初にいくつかの見本の言葉を書きこんでおり、それをチャトラがなぞる。皇都に来るまで、読み書きの勉強なんてしたことがない。基本ができていないのだから、ある程度自己流になってしまうのは仕方がないことで、
 「暗号になっている」
  差し出した努力の結果を見て男が可笑しそうに口の端を上げた。
 「うるせぇ」
  顔を赤らめて立ち上がり、急いで男の手から羊皮紙を取り返す。言われなくても見本で書かれた男の文字とは似ても似つかない、ミミズがのたくったような記号になっている自覚はあった。筆の持ち方すら怪しいものなのだから仕方がない、と言い聞かせていたのに、
 「つーかアンタが綺麗すぎんだよ」
  悔し紛れにそんな言葉が出た。
  あまり他の文面を覗こうと言う気はないけれど、それでも皇帝の側にいればいくらでも報告書は積まれている訳で、目に入る文字の中にはチャトラと似たり寄ったりの金釘文章も中にはあった。割に三補佐の面々も癖のある字を記す。特殊と言う訳ではないけれど、だから余計に皇帝の文字の正確さが際立つ気がする。神経質なほど几帳面な細い筆跡は、全くもって完全無欠に乱れない。
  もしかすると、上に立つものというのは、文字の美しさの訓練でもするのかもしれない。そう思うチャトラだ。
  おや、と男が片眉を上げ、懲りずにもう一度腕を伸ばす。
 「何だよ」
 「見せなさい」
 「いやだ」
 「猫」
 「もう見ただろ」
 「今度は笑わないから」
 「……」
  嫌だと言い張ったところで何一つ解決しないし、と言うより読み書きを教えてほしいと言ったのは自分の方なので、チャトラは少しためらった後、渋々もう一度男へ用紙を差し出した。
  今度は真面目な顔で男が用紙に目を落とす。顔だけは無表情を保っていたものの、目が明らかに笑っている。脛でも蹴ってやろうかと思ったチャトラへ、男は不意に手招きし、
 「――ここだね」
  筆先でチャトラの文字を指し示した。
 「この曲りで力が入るから、上手く円になっていない」
 「へぇ」
  言われて男の手元を覗き込む。チャトラの難解古代文字の横に、さらさらと皇帝が正しい綴りをもう一度上書いた。その手が不吉なほど真っ白で、ふとチャトラは視線を上げる。
 「皇帝」
  呼んでいないとそのまま凍り付いて固まってしまいそうだと思った。
 「――ぅん?」
 「顔色すっげぇ悪いぞ」
 「ああ……――うん」
  自覚があったのか僅かに男が頷いて、今日は今一つだ、だとか小さくぼやいた。煩わしそうにこぼれた髪を掻き上げている。
 「まぁ、寝込むほどのものでも」
 「いやいやいやいや。寝ろよ」
 「視察が終わったらね」
 「……しさつ?」
 「視察」
  もう一度繰り返して、男がまた丹念にチャトラの文字へ目を落としていく。何の視察なのか、説明する気もない風の皇帝の性格をチャトラはこの数か月で悟ったので、口を噤んで代わりに机の脇に置かれた茶器を手に取った。温かな紅茶でも持ってこようかと踵を返したところへ、
 「お前も来るかね?」
  不意に投げかけられた言葉にえ、と扉の前で振り向く。
 「どこへ?」
 「付近の鉱窟だとか言っていたかな。この辺りは昔から鉄がよく採れてね、軍備に鋼鉄は欠かせないものであるから」
 「……アンタが顔を出すことで掘る量が増えるの?」
 「形式上のものだ。出したところで何が変わる訳でもないが、箔は付くだろう?彼らが欲しているのはその『名』なのだろうよ」
  増えたらよいね、だとか大真面目に男が頷いて見せた。よく判らないままに釣られて頷く。チャトラには判らなかったけれど、男がそう言うのだからそうなのだろう。
 「と言うよりも行くことは決定されているのだが」
 「は?」
  この場合、指定されていないけれどもその主語は自分に当たるのだろうなとチャトラは思った。
 「……オレ?」
 「――屋敷に置いてゆくと何かと面倒事が持ち上がりそうだ」
 「面倒事ってなに」
  聞いても男は答えない。うっすらと笑っただけだった。


  結局同じ馬車の中で揺られている。


 「オレはひどい人間かな」
  出発してしばらくは、御者台の横へお邪魔して四頭引きの手綱を御する様子であるとか、馬の呼気、辺りの風景を楽しんでいたチャトラだったが、いい加減寒くなり車内へと引っ込んだ。頭から防寒着をしっかりと着込んでも、やはり寒さは苦手だ。
  室内の空気は、馬車と言うには最大限暖められていて、後部席のど真ん中に皇帝が座している。足を軽く組み、窓枠に降ろされた緞帳を上げるでもなくうつらうつらとしていたようだった。
  言ってみるなら「なし崩し的に」、勢いに押し切られて、何故か皇帝と同衾と言う首を捻る事態に毎晩陥っているチャトラだったけれど、男の眠りが異様に浅いことを知っている。寝返りどころか僅かな身動きでも、ふと目を覚ましているような気配がある。面と向かい合い抱きしめあって寝ている訳でもないので、確かめてはいない。
  ただ、「気配がする」、その程度だ。
  そのせいか、机へ向かう時はともかく、他の生活全般で男は物憂げな様子を見せることが多い。はっきり言うととてつもなくだるそうなのだ。
  疲れているのに眠れないのだと気が付いた。気が付いたけれどチャトラにどうすることもできなかったので、放ってある。
  ぼんやりと視線を上げて皇帝が口を開いた。
 「――何故」
  掠れ声だ。
 「さっきさ」
  言いかけて一度噤み、しばらく言葉をまとめてからチャトラは口を開いた。
 「黒死病が収まりそうだって聞いた時によかった、とか思ってた。でもそれって、オレがいるところまで病気が来なくてよかったって、思ってるだけだった。オレが罹らなかったからよかったって。病気になって苦しんで死んでいった人間はたくさんいるのに、オレは助かったからよかった、とか」
 「――」
 「オレ、たまにアンタがすげェひどい人間に思えることあった」
  そう言ってチャトラは皇帝を真っ直ぐ見る。何を言い出すのか、と睡魔が去ったらしい皇帝が、面白そうに彼女を見返していた。
  エスタッド皇帝とチャトラの価値観の幅は恐ろしく広い。皇宮では執務室を覗くことはなかったし、チャトラが暮らしているのは男の生活居住区であったから、そう言った意味では男の仕事へ向かう姿をまじまじと眺めたのは、屋敷に来てからのように思う。
  執政する人間と言うものを、チャトラは皇帝以外に知らないから、比較対象するにもその相手がいなかったのだけれど、

  不必要と判断したら、恐ろしいほど簡単に男は裁可する。

  それを冷たいと思った。
  動作は、手のひらに止まった羽虫を握りつぶす程度にほんの些細なことで、それを男は無表情のままやってのける。
  脇で眺めていたチャトラには政治や経済の話はほとんど判らなかったし、自分が口出す問題ではないとはっきり割り切っていたから眺めていただけだった。眺めていただけではあったけれど、男の可否が時には多数の人間の命を左右するものなのだと言うことにも気づいていた。
  仮に、男が死ねと発すれば、数千の単位で人間が殉ずる。
  仮に、男が殺せと命じれば、いとも簡単に村ひとつ消失する。
  そういう力を持った男なのだとチャトラはようやく気が付いた。偉いだとかして周りに敬われるのは、その力のせいなのかとも思う。淡々と事務処理をこなす横顔は、恐ろしく静かだ。
  そうして理解する。
  黒死病に限らず、男は今までにももう何度となく、数えきれないほどに羽虫を握りつぶす行為を繰り返してきたのだと言うことを。
 「オレさ。街にいた時に、病気が流行ったって聞くと死に物狂いで逃げてた。一旦囲まれて街を封鎖されちゃったらもう逃げられないし、逃げられなくなって病気で死ぬのはまっぴらだった。逃げながらいつも、こうして街を囲めとか命令してるヤツの顔が見たいって思ってて、きっと鬼のように残酷なヤツなんだろうって思ってたし、逃げてるヤツらで顔拝んでみてェとか悪態ついてたの思い出した」
 「――」
 「でも」
  病気が来なくて、死ななくてよかった、と。
  その「よかった」の出所はどこにあるのか。
  いつの間にか自分のことしか考えてない自分自身と、罹った街を封鎖して、それ以上広がらないように対策を練る男と、どちらがより人でなしかと考えたら、自身のような気がしてきた。
  そう告げると、
 「――人でなし、ね」
  聞いて男が薄く笑う。
 「猫」
 「うん、」
 「実際に――鬼の顔を拝んでみての感想は如何なのかな」
 「……うーん」
  問われてチャトラは言葉に詰まる。一概には言えない。
 「綺麗だよね」
  仕方がないので思った通りの答えを口にすると、くつくつと男が笑いを漏らす。
 「綺麗か」
 「綺麗っていうとなんか誤解されそうだけどさ……見た目で褒めてるんじゃなくて、こう……、何ていうか、アンタ良くも悪くもブレてねェんだよなきっと」
 「ほう」
  つっかえつっかえ答える彼女を、皇帝が面白そうに眺めている。
  チャトラは男を鬼と譬えた。その鬼は、二種類いると思っている。
  ひとつは、見た目が美しくても心なきもの。
  ひとつは、見た目は人でなくとも心あるもの。
  男がそのうちどちらに属するのか、チャトラ自身にもまだ判別がつかない。前者のように思える時もあるし、後者に思える時もある。
 「人で無きはその通りかもしれぬ」
  ふと、男が思い出したように口を挟む。足を組み替えたついでに腹の傷が引き攣れたか、微かに眉根を寄せていた。
 「私には恐らく人として何かが欠けている。事実として『そう』なのであろうよ」
 「……」
 「『あたたかさ』や『やさしさ』といったものが、私には信じられぬ。理屈では理解できるのだが、実感がない。おそらくそうしたものを受けたことがないのだ。全ての行動には損と得、裏と表があると思って育ってきたし、それ以外に何があるのか判らない」
 「……」
 「母の愛とやらも私は知らないし、実父は玉座で冷たくなった。人としてはなるほど、私はなりそこないなのであろうよ」
  淡々とした男の顔には、自虐の影はない。男が本当にそう思っているのだと言うことに、チャトラは気付く。
  ……アンタ、あの時もそう言ったな。
  たったひとりだと言った。
  味方はいないのだと言った。
  あの時、自分は熱で半ば朦朧としていたけれど、その声だけは妙に胸に突き刺さった。一人で生まれてきて一人で死ぬ。言い切ってしまう男の言葉が今は少し悲しいと思う。

  そのまま特に気分を害した訳でもなく、男は再び黙ってしまったけれど、だから鉱窟へ到着しても、僅かチャトラは複雑な気持ちだった。

  採石現場は、初めて見る場所だ。
  そもそも鉱石と言うものに縁がない。
  先にエスタッド皇が述べたような、戦主体の鉄鉱の生産量云々はもちろんチャトラは考えたこともないし、坑道と聞いておおよそ思い浮かべるのは、宝石だとか貴金属の類である。自身で購入するだとかまるで世界の異なる話だし、懐を狙う際の獲物にはあまり向かない。
  足が付く恐れがあるからだ。
  どんなに立派な細工を施されたものであっても、それをそのまま日常の買い物に使用するわけにはいかない。となると獲物と現金との交換場所を探すことになる。
  身なりを整えた立派な紳士淑女その使用人ならともかく、薄汚れた小娘が交換所に入ったところで盗品と見抜かれるのがオチだし、下手をすると獲物を取り上げられた上に通報されかねない。掏られたと気付いた当の本人が、交換所へ出張っている場合もある。良くて袋叩き。運が悪かった時のことは考えたくもない。
  そうなるとあとは、盗品と知って尚取引してくれる場所、いわゆる「裏」の顔を持つ交換所を当たるしかない。そうは言っても彼女の見た目で勝負するには、足元を見ることにかけて百戦錬磨の商人相手はかなり厄介な相手だ。のらりくらりとはぐらかされて、取引話に持ち込んでもらえない場合も多くあったし、そう言った後ろ暗い店へ出入りするのは抵抗があった。
  ひとつの街にある程度の期間逗留しようと思ったら、その街での評価はある程度の指針だ。露天商の一人にでも見咎められでもしたら、早晩には次の街への移動を迫られることになる。彼らが見逃してくれるのは、騒ぎにならない程度に旅人を狙った「稼ぎ」だけ。それ以上の厄介ごとは基本的に嫌われる。
  だからチャトラは懐の獲物であっても現物は狙わない。
  良心の呵責、だとかまっとうな理由ではないことは確かだ。
  そんな縁もゆかりもないような宝石貴金属の元となる原石を並べられ、緊張か恐怖かがちがちに強張った採掘現場の監督長が、右から順に説明をまくし立てている。これは何の原石である、だとかの説明ならともかく、皇帝と監督長に交わされている内容は採掘量がどうだの、含有率がどうだの、鉄器への鋳造率がどうだの、かなり真面目な専門用語で、正直何を話されているのかさっぱり判らない。
  というか、外国語に聞こえる。
  そうして厄介なことに、セヴィニア補佐官の顔が見えた。
  視察地であるのだし、現地の段取りだとか警備を先行していたのではあろうけれど、よりによってセヴィニアでなくても良いと思った。
  皇都から離れて顔を見なくなってほっとしているのに、何もこんなところで。
  首をすくめて舌打ちする。聞こえなかったはずなのに、鋭くチャトラを見た視線が、相変わらず蛇のように冷酷だった。嫌悪感を隠しもしない。
  わざわざ近付いて嫌な思いをする趣味もないので、ゆったりと歩を進める皇帝とその取り巻きの進行方向へ、速足で先走った。距離は取っておくに限る。
  足元が濡れているから気を付けろ、と監督長が怒鳴っただけで、特に咎められもしなかったので、ぽかりと開けた坑道口へ顔を突っ込んだ。
  ひんやりとしているかと思った内部は割と暖かい。
  思った通りを口にすると、案内していた鉱夫の一人が土の中だからな、と言った。土の中だから、季節に関係なく温度が一定しているのだと言った。なるほど、地下室のようなものなのだなと思う。
  土壁のところどころに小さな穴が開いていた。細いながらも随分と深く掘られている気がしたので、再び尋ねる。空気穴だと言う。
 「へぇ」
  この細い穴が地上まで続いているのか。感心して声が漏れると、聞こえたのか皇帝がちらりとこちらを見やった。
  少し進んだけれど、本道はさらに地下へと続いているようだった。急な下り坂がうねって先が見えない。鼻を摘ままれても判らない真の闇である。
  脇にいくつか本道よりも細い道があって、聞けばそちらも鉱掘なのだそうだ。
 「しかし、最近の暖かさで雪解けの水が壁に染みだし始めてですね」
  強張った監督長が、背筋を正していった。チャトラと同じように、丁寧な言葉遣いと無縁な生活を送っているのだろう。どこかぎこちない。
 「濡れる?」
 「というか、落盤の危険があって」
  ぐずぐずに軟らかくなった壁は、いくら支えを増やしても厄介だと言われた。干し草を壁に保定しては掘り進んでいくらしいのだが、深さのある本道はともかく、比較的浅い坑道は振動に耐えられないのだと言った。
 「発破をかけて埋めちまう予定ですんで、あまりそちらへは深入りせんでくださいよ」
 「うん」
  頷いたものの、出口へ向かおうとするとセヴィニアが立っている。困る。
  顔を合わせれば皮肉しか言われないことは目に見えていたから、チャトラは仕方なく皇帝へ近付いた。
  専門用語の羅列についていけないので、ぼんやりと聞き流し、もう一度出口を見る。相変わらず苦手な男はそこへ立っていて、確かにそれは護衛としては用を成しているものの、まるで通せんぼうしているようにも見えてクソ、と口の中で悪態を噛み潰した。
  噛み潰してからこちらへ背を向けているセヴィニアが、緊張していることに気が付く。
  彼が硬くなる背中は初めて見た。
  ざわ、と表が騒がしくなって何かの問答、馬の嘶き、それからセヴィニア自身が制止する低い声。
  何事かと話を止めて、皇帝が騒がしくなった方へ視線をやる。釣られて追い、チャトラは小さく息を飲んだ。

                   *
  
  どうしようもない男を好きになってしまいました。

  炎のように熱いのに、冷たい。孤高なそれは、何者をも寄せ付けることのなかった。触れることを望んだ自分が間違っていたのかもしれない。それは判っていたはずでした。
  見た目の美しさだとかを、よく人は口に上げて言うけれどそんなものは見かけだけでしかない。言ってみれば見かけ倒しで終わるような紛い物も多い訳で、その中でもあの男は自分によく似ていると思った。確証はありません。一種の感のようなものです。思ったからこそ、より一層近くへ寄りたいと思ったし、何より意識を共有してみたかったのです。
  あの国を見事腐らせて来い。あの男を殺してこいと、言外どころか面と告げられ、めくらやみのような妄愛に包まれて国を送り出されたことがもう遠い昔のようです。自分は今よりも世間と言う物を知らなくて、その頃はまだ父と言うものにもしかすると愛されていたのかもしれないなんて思うこともあって、けれど本当は両手に余るどころか、有象無象の集団の一つでしかなかった。父が自分を認識していたのかどうかも朧げです。黙って言葉に従ったのは、それでもきっと愛されていたのだと信じていたかったのかもしれない。
  罅割れるような鐘の音とけたたましい歓呼、幾重もの帳を払って花嫁御料の籠から降りた時、まるで色を成さない群衆と言うものの遠く向こうにあの男はいました。接待用の正装を皺ひとつなく着こなして、光に透けた長い金糸を纏って自分を見ていた。眺めていた、と言った方が本当は正しかったのかもしれません。向けられた瞳は昏くさびしくて、そこに儀礼以上の何物もないことはすぐにわかりました。
  ああ、この男は自分にとてもよく似ている。

  どうしようもない男だったのです。

  その目を捉えた瞬間に、自分の体は確かに震えた。それが武者震いと言うものだったのか、恐怖や何がしかの期待によるものだったのか、今になってはもう判らないし判りたいとも思わない。
  ただひたすらに男が憎いと思ったのです。
  自分と同じように何も愛せず、何も持たず、何も感じないあの男が疎ましくて仕方がなかった。話しかけるきっかけを作ったのは自分からだったのでしょうか。
  非常に面倒臭そうに自分の傍らに歩み寄り、形式だけの挨拶を済ませさっさと背を向けたあの男に、自分は隠し持っていた短剣を振り上げようとしたけれど、無駄なことでした。何故ならあの男は、全くもって自分を見向きもしなかったからです。刃に怯え命乞いしてもいい。驚きに目を見張っても、恐れに顔を引き攣らせても構わない。
  実際に引き攣り構えたのは周囲の護衛の幾人かで、それすらも形だけの脅しに過ぎないと判った。
  男の背中は隙だらけでした。
  囮だと言うのなら、それはあまりにも陳腐な囮で、自分は握りしめた短剣を下げずにはいられなかった。注視もされずにただの暗殺者になるなんてまっぴらです。
  諦めた自分を肩越しに少しだけ振り返って、その時男は初めて嗤いました。
  ひどく冷たい嗤いでした。
  酷薄な瞳に自分の姿が映っていた。嵌められたのだと気が付きました。男は自分が懐に短剣を忍ばせていることを最初から知っていた。
  本当に酷い男です。
  あのまま剣を振り下ろしていたら、と今になってはそう思う。真っ赤な血潮が黒曜石一面にだらだらと広がってそれはきっと凄惨で世にも美しい光景になったには違いないのです。あの時男は死ねばよかった。自分がとどめを刺しておくべきでした。骨と骨の隙間を縫い刺して、弱く脈打つ心臓を貫けば男の時はそこで終わったのです。
  皇宮の一角に部屋を与えられ自分の奇妙な生活は始まりました。
  貴賓でも来賓でもない扱いを受け、そうして貴賓であり来賓である扱いを受ける。話題上では、あの男の後宮の第一候補と言われてけれどその実男が自分の部屋を訪れたことなど一度もありませんでした。そもそも自分の部屋を男は知っていたのか。きっと知らなかったに違いないのです。塵ひとつなく掃除の行き届いた後宮は、誰も棲むものもない不毛の大地でした。自分はそこへ糸を張ったのです。
  どうしようもなかったあの男へ、せめて一太刀食らわせてやりたかったのです。
  国元へは、戻れませんでした。戻る場所などなかったのです。戻ったところで早晩に殺されることは目に見えていました。
  だったらせめて、あの男の手にかかって死ねたら良いと思うようになりました。いいえ、やはり自分があの男を殺してやろうと思いました。国の為であるとか父の為であるとかもうそんな大義名分はどうでも良かったけれど、相果ててやろうと思いました。
  そのためには、男が自分へ興味を向けない事には、何も始まりません。

  男が自分を向く気配はどこにもなかった。

  どうしようもない男を好きになってしまいました。
  だのに、結果的にあの男が拾い上げたのは自分ではなく、薄汚れた娘です。あの男が選んだのは自分ではなく、地味な娘です。あの男が目に入れたのはわたくしではなく、わたくしではなく、わたくしではなく、わたくしではなく、わたくしではなく、わたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではなくわたくしではな
  離れた方が良いだとか、国元へ帰った方が良いだとか。
  そんな当たり前の正論は判り切っています。このまま近くにいたところで何の実入りもないことも、どんな行動を続けたところであの男が自分を目に入れることはないと言うことも、何もかも判ってはいるのです。
  父と同じような妄執に冒された自分は、もう人ではないものかもしれません。あの男が妬ましくて、狂おしくて、憎くて仕方がないのです。相殺したところでこの身をじりじりと焦がすほの暗い感情が消えることは無いように思う。自分は既に人ではない何かです。
  いっそ姿かたちまで変わればいいものを。
  そうすれば、もしかしたらあの男も。自分へ感情を向けてくれるようになるのかもしれません。好奇心か、憐憫か、今となってはもうなにものでも構わない。ただ一目、決して自分のことへ気を向けたことのない男が一目集中する。それはきっとぞっとするほどの快感と幸福であるはずなのです。
  どうしようもない男を好きになったわたくしは、あの男以上にどうしようもなくなっている。引きも押しもできぬ泥濘地獄です。その血泥に頭の天辺まで浸かって法悦の雄たけびを上げているのです。
  この赤黒い歓喜は、あの男に与えられたもの。
  あの男の体内に収まる、同じような色の脈打ったものを刺し止めてしまえたら今以上の悦びが待っているに違いないのです。
  狂っていることは判っている。常軌を逸していることは百も承知ですただ判っていることと、この衝動を止められることは別のことで、止められるものならば初めから止まっているのです。
  止められぬ。
  窓の外を見やれば、軒先から鋭く垂れた氷のかけらが光を逸らしていました。光は網膜を焼き脳髄を抉ります。手に取るとぎらぎらと輝いた。逆剝けた指先から赤い液体が滲みました。
  ――この切っ先を収めることができたら。
  体の中に巣食った何かが、そう囁くのです。切っ先を。どこに。だれのからだに。



(20110307)
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最終更新:2011年03月07日 23:21