*
たくさんの話をした。
どうせ助け出されるまで何ができる訳でもないのだし、ジタバタしてもしょうがないと、開き直った男が言った。
「声がかれるまで聞かせなさい」
言われてそのまま、泣きながら笑いながら、たくさんの思い出をチャトラは口にした気がする。男に知ってほしかっただとか、気持ちを判ってほしかった訳ではなく、ただ、誰に言うでもなく、話し尽くしたい気分だったことは事実だ。
話したことは姉のこと。初めて掏摸をしたときのこと。見たもの。街。きいたもの。におい。深夜に見上げた星。雪のちらつく中でなぜか照らした、青く透きとおった月の色。風の中に舞う綿毛。うすらいのはかなさ。
つかれるとしばらく黙り、また口を開いて話し出す。憑かれたように話し続けた。時折聞こえる落盤音に体を強張らせると、なだめるように男の手が伸びた。冷え切った、細い男の右手を、胸元に抱えるようにしてチャトラは話し続けた。うん、だとか適当に相槌をうつ男が、相槌を打つ間はまだ意識があるのだと、心強みにして話し続けた。
「意識が混濁されてしまうことが、一番危険なのだ」
チャトラは皇帝に言わなかったけれど、外から指揮するセヴィニアには、そう厳命されている。なんでもいい、なるべく皇帝の意識を保つように努力せよ、と。
それもあって、話し続けるのを止められなかった。怖かったからだ。けれど皇帝にはある程度、彼女の意図は判っていただろうと思う。だからきっと、聞かせろ、といったのだ。皇帝自身の体なのだし、相手の裏を読むのが好きな男だから。
とは言え、もともと際限なく話のできる性分でもない。たまに暴走馬車のように、放っておけばひたすらしゃべり続ける性質の人間がいるが、チャトラは実に感心する。いつ息継ぎをしているのだろうと思う。あれはきっと、才能なのだ。
喋りつかれてまた口を噤んだチャトラの耳に、ほうほうと何か不思議な和音が響いていることに気が付く。まるで楽器のようだ。暗がりなのでどこから鳴っているのか判別ができない。それでも、あちらこちらへ頭を巡らせていると、動きに気付いた男が、どうしたのかと尋ねた。
音だよ、と答える。
「――音」
「……なんだろうな、なんかでけェ笛でもふいているような」
「ああ、」
頷いた男が、水琴窟のようなものだろうと答えた。聞いたことのない言葉に首を捻る。
「岩の空洞を流れる水のが、音を出す仕組みになっているのだよ。自然につくられた地形はそうそうないので、普通は人為的につくるものが多いのだがね」
「へぇ」
確かにこんな、半ば埋まりかけの場所で誰かが楽器をかき鳴らす訳でもなし、説明されれば成程と納得はするものの、不思議なことには変わりがない。
「皇居の庭にも確かいくつかあったはずだが――」
「アンタんとこの庭は広すぎんだよ」
言うとそれもそうだ、と男が笑った気配がした。
「皇帝」
「ぅん――?」
ゆっくりと答える彼の声は、耳触りの良い低めのテノールだ。自分の声よりもずっと深く音が響くことにチャトラは気が付いて、
「なんか言って」
寄りかかって背もたれていた男に言った。言われて何か、と首を傾げた様子へ、なんでもいいんだ、と重ねて言った。
「アンタの音が聞きたい」
言われた男は数呼吸分考える素振りを見せて、それから深い声でチャトラ、と呼んだ。
「あ?」
呼ばれて答えたチャトラに、苦笑する気配が伝わる。
「何か言えと言うから」
「……それがオレの名前?」
「気に入らぬかな」
「ううん」
男の、自分の名を呼ぶ声がチャトラは好きだ。けれど呼ばれたいと願っても口に出して言える性格でもなし、たとえ頼んだところで、男の方も素直に呼んでくれるとはあまり思えない。逆に呼んでくれなくなるのがオチだと、七割がた見積もっているし、あながちそれは間違っていないだろうと思う。天邪鬼だから。
もう一度チャトラ、と呼ばれてその声が殷々と坑窟いっぱいに広がる。けれどその声は、先よりも少しかすれて、チャトラが響きを楽しむ前に、男が不意にがっくりと頭を落とした気配がした。
「おい」
「――うん、」
「皇帝ッ」
思わず抱えていた男の腕を取り落す。落とした衝撃に男が顔を上げるのが判った。朦朧としているようではあるが、まだ意識を手放したわけでもないらしい。
何か話さなきゃ。
何か。
意識の混濁が危険だとセヴィニアは言った。自分が何か話すことで、もう少しでも男の意識を引きとめることが出来たら、と話題を探そうにも、思い当たらない。こんなときに咄嗟にどうでもいい話を振れるほど、チャトラは多弁ではない。どうしよう。
どうしよう、と思いがそのまま声に出たのだと思う。それを聞いた皇帝が名前を、だとかうわ言のように呟いた。
「は?え?……なまえ?」
「わたしの――」
名前を考えてくれると言ったろう?
かすれ声で呟かれてえ、と聞き返した。言われた。たしかに言われたことは覚えているけれど、でも。
「なんで。今いきなりそんなこと言われたって……思いつかねェよ」
「――に」
「え?」
「墓に刻むのに――、必要であろう」
「縁起の悪いこと言うなよ……!」
思わず怒鳴りつけていた。縁起が悪い。こうして坑道の中に閉じ込められていることも、状態の不安定な皇帝と二人きりでいることも。ヤケクソに泣けるものなら泣きたかった。泣いて事態が好転するならいっそわめき散らしたと思う。
「縁起が悪い――かな」
「それに墓とか、アンタにゃ土饅頭がお似合いだよ。今おっ死んだら墓守りとか、オレぜっっったいやってやらねェぞ」
精一杯の強がりにそうか、と男が生真面目に頷く気配がした。
「割と本気ではあったのだが」
「やらない。絶対やらない。辛気くせェ」
「……つれないね」
口調がどこかさびしそうで、どうしたものかとチャトラは思う。思うけれど、この年で死だとか、今一つ考えにくいことは事実だ。それは日常において、本当はどこにでも転がっているものだ。例えば皇宮にきてからの生活はさておき、路上で生活していた頃は、割と身近に死を感じたことも一度や二度ではない。けれどうまくしたもので、その状況から離れてしまうと、すぐに恐ろしさは遠い感覚のものになる。ついさっきまで、手の届く近さに迫っていた恐怖が、一夜明けるとどこか別の時間、別の世界の話のような心持になってしまう。楽観主義と言うよりは、きっともとからそうしたものなのだ。
座った姿勢を保つことが辛くなったのか、ずずずと床に寝そべる皇帝の頭をせめてもとチャトラは己の膝に乗せた。ごつごつと硬くて濡れた地面ではあまりに不快だと思ったので。
「つれないね」
どこか熱に浮かされたように、もう一男が呟く。それを聞いてしょうがないな、と諦めた。きっと自分は男にずいぶん毒されている。少しなら譲歩してやろう、だとかそうでなければ思い付くはずがない。
「ああもう……。じゃあ花守りなら、してやるよ」
「はな――もり?」
男にとっては初めての響きだったのだと思う。知らないのも当たり前だ、と言い置いてチャトラは、
「……姉ちゃんが教えてくれたんだけど、姉ちゃんのうまれた村では、『花守り』っていうのがあって、大切な人が死んじまったときに、その墓の上に花を植えてやるんだって」
言った。
「――」
「そしてたまに訪れて……、花が枯れないように、木の世話してやるんだ」
気まぐれなアンタの上には、きっと気まぐれで色の変わる花が似合うな。
「ほう」
大切な人が、のところに私は含まれてよいのかね?男に聞き直されて、思わず頬に血が上った。
「あー……。言葉のあやだよ。言葉の」
「――なるほど」
鼻から含み笑いをつと漏らして、それからまた男が身を震わせるのが判った。痛みを堪えているのだ。そこで理解する。いつから堪えていたのだろう。チャトラには判らなかった。
「なぁ、皇帝」
「うん……?」
何故だかこの時チャトラには、男がひどくはかないものに映った。
……どうしてかな。
何でも手中に収められることのできる立場にいて。
高くそびえた塔から四方を見下ろして。
何不自由ない生活をしていると言うことを、チャトラも知っているはずなのに、
「オレ、アンタが万に百分の一どうにかなっちゃうことがあるなら、その……、アンタの花守りやってやっても、いいよ」
口を衝いてそんな言葉が飛び出していた。
「――そうか」
「うん」
男の気配で頬を緩ませているのだろうことは判った。どうにも気恥ずかしくて、チャトラは不貞腐れて無言になった。そのまま流れていた男の髪を指に絡める。くせのない柔らかな長いそれは、男の声と同じくらいに彼女が実は気に入っているもので、けれど日頃そうそう触れる機会もない。
思う存分触っておこう。
こっそり誓ってみたりした。
いつの間にか男の頭を膝の上に抱えたまま、うつらうつらとしていたらしい。籠もっているけれどざわついた、多人数の声を聞いてチャトラははっと目を覚ました。
「皇帝……」
最初に確認したのは、男の意識の有無だった。うん、と小さいけれど割にしっかりとした声がかえってああまだ大丈夫だ、と内心息を吐く。それから、
「オレちょっと様子見てくるよ」
言って、膝に乗せていた頭を敷いた上着の上に下ろし、坑道の「元」入口へと這って行った。足元が見えなかったからではなく、単に小柄なチャトラにしてみても、そうして体勢を低く構えないと、先へ進めないためである。細い空気穴程度の、残された外との連絡孔へ、呼びかけるとすぐに応えが返る。
「丁度良かった」
あれ。
なんとか呼び出そうとしていたんだ、人懐こいかすれ声に首を捻った。ノイエの声だと思う。思うけれど、視察当目的でここへ到着した時、彼は場にはいなかった気がする。そう言うと、仕方がないよ、と答えが返ってくる。
「陛下と君がここに閉じ込められてから、丸一日経つんだよ。セヴィニア殿から連絡をもらって、皇都から飛んできたんだ」
「そうなのか」
丸一日。時間の経過が思ったよりも早かったことにチャトラは軽く驚いた。そんなチャトラにうん、とノイエが応える。
「さっきも、ここから呼んだのだけれど、聞こえなかったかな」
「聞こえなかった……」
「そうか。……僕がここに到着してから、君の声が聞こえなくなったもので、何かあったのかと心配していたんだ」
「悪ィ、ちょっとぼんやりしすぎたかな」
「無事でよかったよ」
「無事じゃあねェけどな」
この状況は。ボヤくと、そうだね、と笑われる。それからノイエは少し真顔になって、
「ところでチャトラ、陛下のご様子は」
「……起きてる。けど、あんまりよくないと、思う」
「意識は」
「ある。でもどっか体が痛いみたいで、でももう薬ねェし、オレどうしたらいいのかわかんねェし」
言いながらなんだか気が緩んで、ついつい声が湿った。大丈夫?案ずる声がする。
「怪我はないのかい」
「……うん。平気」
「もうあと少しでそこから出してあげるから。もうちょっとの辛抱だよ」
「うん」
年の離れた兄に慰められている気分になって、チャトラは素直に頷いていた。その間にノイエは、背後にやってきた伝達兵と一言二言言葉を交わして、頷き、何かをまた指示する。
「チャトラ」
「うん」
「今、君たちの塞がれた坑道の丁度真横の側道から、掘削する作業を勧めているんだけど、少し硬めの岩盤があって、どうやら小さく発破をかけるようだ」
「うん」
「落盤を招くほどの強いものは仕掛けないから安心して。だけど、壁際から離れて、それと落ちてくる小石だの砂だのに注意してくれると嬉しい」
何しろ、大事な御体だから。
続ける言葉に了承の意を示して、それからまた這いずったままの姿勢で、そろそろ後ろに進んだ。体を無理やりねじ込んだような穴であったから、おそらくチャトラの体格でなければ、外との連絡を取ることも難しかったはずだ。
ぬかるみの中を転がったような、泥まみれの状態で男のもとへと戻り、くぐもったざわめきの聞こえる壁際から男の体を引きずる。いくら痩せているとは言え、かなり長身の成人男性の体はずっしりと重くて、簡単に移動と言う訳にもいかない。うとうとしている男の脇の下から手を入れ、胸の前で組み合わせて、泥まみれ以上に汗みずくになりながら、チャトラはようよう男の体を移動させた。
そのことをもう一度ノイエに報告しに行って、それから寝そべった男の体の上に上半身を伏せて発破を待つ。自分の体でどの程度砂礫から庇えるものなのか判らなかったけれど、何もないよりはましだろうと思ったからだ。
しばらくして、ざわめきが一瞬静まり、いくぞと恐らく怒鳴った声の数瞬後に、ずんと下から突き上げるような鈍い爆発音がした。思わず体を強張らせる。落盤を招くほどのものは仕掛けないとノイエは言ったけれど、それにしても上から降りそそぐ土砂はかなりの量だったし、こんな時に限って監督長が地盤が緩んでどうのだとか言っていた言葉を思い出したりする。しまった。思い出さなくてもよかったのにな、と舌打ちした。その舌打ちの音すら、自分の耳には届かない。
「――」
もうもうと土煙を上げる中、いつの間にか首根を抑え込まれて、男の胸元へ強く頭を押し付けられていることにチャトラは気が付いた。これではまるで男に庇われている風だ。庇うつもりが庇われていては本末転倒だ、と彼女は慌てて頭を上げようとする。その時男が漏らした小さな呟きが、チャトラの耳に届いた。何を言っているのか、言葉尻までは判らなかったし、この地鳴り音の中、空耳であると言う可能性もあったはずだのに、何故かチャトラは男の声だと判った。
続けて男が身をかがませて彼女の耳元へ唇を近づける。
「え?」
何かを呟いているらしいのは、判る。判るけれど何を言っているのかが、判らない。聞き返そうにも硝煙交じりの埃にむせて、次いでもう一度発破音。
そうして不意に飛び込んできた、強烈なほどの陽光の明るさと吹き込んだ外気。駆けつける医師団と護衛騎士。見知った補佐官二人。ディクスの大柄な体も、強い光に焼かれちかちかする視界の中で確認したような気がする。
だからチャトラは結局男がいったい何を言おうとしたのか、知るタイミングを逃してしまったのだった。
無数の腕が横たわった皇帝に我先に伸ばされて、処置を施してゆく。たちまちその体が布に覆われ、見えなくなる。運び込まれた担架に数人がかり、壊れ物を扱う手つきで持ち上げられ、輪から弾かれたチャトラはその人と人の足の下から、男の顔を垣間見た。埃で煤けた男の顔は、けれど相変わらずひどく清冽に綺麗なのだった。すぐにそれも見えなくなってしまい、一団を何とはなしに見送る。群衆に紛れて行きかけたノイエが、へたり込んだままのチャトラを見咎め、顔をしかめた。上着を広げて走り寄る。
「チャトラ」
「……うん」
「大丈夫かい?」
「うん……?」
何を指し示しての「大丈夫」、だったのか一瞬判らなかった彼女は、助けられたと言う放心状態のまま、自身の体を見下ろして苦笑いを浮かべた。
これは、相当に酷い恰好をしている。
泥まみれ、土だらけなのは仕方がない。落盤に巻き込まれたと言うことはそういうものなのだし、けれどそれ以上に引きちぎられたシャツと、半ばはだけた傷だらけの上半身。男がやったと言うよりは、明らかに悪夢にうなされたチャトラ自身による引っ掻き傷がほとんどだったけれど、掻き毟った首から胸にかけては、赤黒くシャツが変色している。
「手当を」
「……私が行う」
隠しから思わしげにハンカチを差し出し、困ったような顔になったノイエの背後で重々しい声がする。げ、と内心悲鳴を上げてチャトラは立ち上ろうとしたけれど、流石に怒涛のように起こった一連の事後では、思うような身軽な動きはできなかった。
「セヴィニア殿」
「ノイエ卿。卿は手筈通り、陛下を」
「……はい」
振り返ったノイエへ無言の撥ねつけを見せ、それ以上の意見を許さない。この辺りは各々の格、というものもあるのかもしれないけれど、そうというよりは年の差、経験の差、と言うものだろうとチャトラは思った。
ごめん。小さく謝って、ノイエはチャトラから離れる。謝るようなことを何もされていないと彼女は思うのに、そういうところに気を使うのがノイエらしい、のかもしれない。
立ち去る背中をこれも見送って、チャトラはいやいや男と対面した。
会いたくもない相手と話すことも嫌なうえに、こうして酷い恰好をしている状況をセヴィニアに見せるのも二度目だ。いい加減また説教でも食らうのかと苛々として、なんだよ、と吐き棄てた。
「大した怪我でもあるまいし、手当は己でできるな」
「するよ」
「相変わらず酷い恰好をしている。上着をきちんと着込んだ状態で、あの馬車にこい。屋敷へ帰ったらなるべく他人の目につくな」
「判ってる」
あの、と指示されて、一頭引きの車を引いた馬を見る。見回すとセヴィニアの計らいなのだろう、人払いをされていて既に御者と数人の供回りの他に人はいなかった。馬車ね。セヴィニアと同乗する、と考えただけで卒倒しそうな気がするけれど、歩いて帰れ、だとか言われると覚悟していたチャトラは、割と拍子抜けしてまじまじと目の前の男を見る。
その視線をふんと鼻息ではね返して、セヴィニアは逆に彼女の上から下までを数度、冷酷な舐めいたぶる視線で眺めやった。品物を鑑定する目付き。本当にこの男だけは気に入らない。
「……なんだよ」
「お前を私の遠戚と公表してしまったこと、返す返すも失態であったと思ってな」
「はぁ?」
好きでなったつもりも、そうしてくれと頼んだつもりもない。勝手に遠戚にされて勝手に貶されるのは、我慢ならないと思った。
「遠縁とか言い出したのはそっちだろ」
「だから失態であったと言っておるのだ」
「……そうですか」
諦めて溜息を吐く。嫌な男と会話を続けるのも妙な話だった。そうして顔を背けたチャトラを、また暫し見定める目付きになって、それからセヴィニアは、
「ひとつ聞くが」
この男にしては僅かに躊躇い、
「『それ』は合意の上だと理解してよいのだな?」
言った。
「は?」
セヴィニアに言われた意味が判らず、チャトラは首を捻った。合意の上。何がだ。
「下賤の生まれ故か、言葉よりの読解力が足りないか」
「頭の悪いオレにも判るように説明しろよ」
「……そのお前の今の見た目は、お前の同意のもとに行われていると思ってよいのだろうな?」
言われてやっぱり判らない。けれどもう一度尋ねたら、今度は容赦なく罵られることは目に見えている。今のオレの見た目、と口の中で呟いて、そこでチャトラは男がこの、掻き毟られた自分の体のことを指しているのだと気が付いた。
「無理矢理襲われたとかだったら、アンタなんとかしてくれんの」
目の前の男が、一体どこまでチャトラと皇帝の関係を知り得ているのか、そもそも傷はほとんどが自分でつけたものであるとか、シャツを引き毟ったのは皇帝の仕業としても、その後の行為については何も犯されていないのだけれど、だとか説明するのも面倒くさい。かといって誤解されるのもたいそう困る。ややこしいことこの上ない。
であったから、相手の出方を窺うようにチャトラは聞いていた。
「……そうだな」
セヴィニアは頷きながら、支度を整えるチャトラに早くしろ、と促した。急き立てられて土を払い、上着の釦を一つ一つ丁寧にとめながら、顔を上げる。割と難しい顔をして男が彼女を見ていた。
「合意の上でないのならば、まずはお前を皇宮より放逐する。合意の上であるとしても、やはり時間は前後するがお前を皇宮に置いてはおけぬ」
「放逐ってなに」
「つまみ出すと言うことだ」
「……そっか」
ふぅん、と頷いて、チャトラは立ち上った。先へ行く男の背中を追うようにして付いて行く。はっきり邪魔だと告げられて、腹が一切立たないことが逆に不思議だと思った。
予感していたのだろうか。
「アンタが嫌じゃないのなら、理由を聞いてもいいかな」
馬車に乗りこんで向かい合う。苦手と言うよりは、はっきりと互いに馬が合わない同士、向かい合って座るだとかとんでもない苦行だとは思うものの、横並びに肩を寄せるよりは相当マシだ。
「オレのことが気に食わないから?」
「仕事に私情を挟むことはせん」
「ふーん」
さんざん私情を挟まれて頬を張られたような気もしたけれど、藪をつつきすぎるのもどんなものか。蛇は出したくなかったので、口を噤んでおくことにした。それより今は、皇宮より「つまみ出したい」その理由をはっきり知りたいと思った。理解できるとも思えないが、と相変わらず皮肉を前おいてからセヴィニアは口を開いた。
「……知っての通り、皇国エスタッドは専制君主国家だ。エスタッド皇帝陛下の御意ひとつで全ての物事が決定される。我々三補佐はあくまでも皇帝陛下を『補佐』するものであるし、それ以上の働きは無い。対外国や特定の小うるさい貴族院の対策として議会も設置してはいるが、それも建前上のものだ。判るか?この国は、皇帝陛下の御裁可で、様々なものが成り立っている。皇帝陛下が居られねばすべての物事が立ち行かぬし、またそういう体制になるべくして陛下は政策を進めてこられた」
皇都に来てから初めてチャトラは国の構造であるとか、政治の仕組み、そうしたものを皇宮内のあちらこちらで耳にし、目にして足りない分はあくまでも「ある程度」の範囲ではあったけれど、自分で学んで補った。そうでなければ男にからかわれる一辺倒だと思ったからだ。そもそも地図と言うものですら、皇都にきて初めて目にしたのだ。大陸を上から見た形で、壁いっぱいの羊皮紙に書き込まれてあった。俯瞰図というらしい。鳥でもないのに、空から眺めた地上の形とやらを、どうして計量できたものか、その時点から彼女は驚くことばかりで、侵略であるとか政治交渉、国交の手綱の緩急のくだりは、未だに理解できていないことが多い。
その、まだ学習中のチャトラにも判るように、かなり噛み砕いてセヴィニアは言葉を選んでいる。黙ってうなずいた。
「端的に言うと、皇帝陛下の資質そのものに、エスタッドの立ち行きが左右されていると言うことだ。喜ばしいことに、女色に耽るばかりで政治を采配する気のなかった先代、先先代とは違い、陛下の資質は我々補佐官の疑うところではないし、尽力されておられることも十二分に理解している。その御身が御健勝であられる間は、エスタッドの地盤が揺れ動くことは無いだろう」
そしてまた、とセヴィニアは続ける。
「御健勝であられるということは、無論玉体の御健康状態も含め、陛下の御心状態も関係してくると私は思う」
「……こころ……」
「精神だな。お前相手に歯に衣着せても仕方がないからはっきり言うが、最近の陛下の御様子は少しおかしい。揺れておられるように思う。要は不安定なのだ。まだ三補佐以外のものが気付くような表だったものではないが、杞憂に過ぎると一笑に付すことは愚策に思う。打てる手はすべて打つべきだ」
お前だ、と視線で示されてチャトラは何も言えなくなる。言われなくても彼女にも何となく判っていた。皇都に連れてこられたときに比べて、どうも最近の皇帝の行動は彼女に言わせても不可解だ。つまり、「らしくない」。無関心無興味の、ただ自分の退屈しのぎのために手のひらで転がしていた当初と比べてあまりにも、
「今度の件でもそうだろう。お前を採掘現場へ供させてきたのは何故だ」
「……」
「シュイリェの姫君がお前へ剣を向けた際の陛下の行動、そうして落盤時にお前へと差し伸べた腕は何故だ」
「……」
「気に入った供回り、ある程度場を任せられる小姓。その程度で済ませられるものならば私が口を挟むことではない。好みは誰にもあろう。……ただ、」
ただ。
口ひげを捻りながらセヴィニアがチャトラを眺める。品定めする目付きだと思っていたそれが、実は憂いを込めた思案の視線だったことに彼女は気が付いた。
「陛下は御台であるし、御柱であらせられる。僅かの動揺も許される立場に居られない」
お前を。
「『気に入る』と言うこと自体が既に非常に危険なのだ」
「……アンタはオレが、あのひとに気に入られてると思ってんの」
「判らぬ。知りたいとも思わない。ただ、興味を持たれていることは確かだ」
「……」
「仮に。お前がどこか小国の一味にその身を捉えられたとしよう。その身と引き換えに、何かの条件を皇国に突きつけたとして。その時、特定の『気に入った』相手を、陛下が即座に切り捨てられるかどうかということだ。おそらく最終的な判断の前に、陛下は御私情を挟まれるような真似はなさるまい。なさるまいが、その一瞬の隙、蟻の一穴、無いに越したことはない」
言われながらそう言えば、とチャトラは男の側近であるディクスのことを思う。
影のように付き従う大柄な男は、皇帝がまだ即位するかしないかの時分から仕えてきたと聞いた。政権が現皇帝に移り変わったのが、十代の終わりだと聞くから、随分と長い年月になる。その間「側近」の文字通り、昼夜を問わず皇帝に付き従い、軍隊きっての鉄壁の守りを体現して見せた。
女を娶ったのが数年前。本人は結婚の意思が無かったらしいが、皇帝が内内にことを進めて強引に娶らせたと聞く。これに対してディクスは珍しく、かなり反発したようだ。守るものを増やすほどに己は強くはない、というのがその理由だったらしいが、それにたいして皇帝は無下に、
「守るものがあるから強くなる」
だとか言葉を弄して、本人の抗議を受け流してしまったらしい。聞いた時にはチャトラには皇帝の意思がよく判らなかった。精神論を振りかざす性格でないことは知っていたし、何よりその台詞はあまりに皇帝に相応しくない。けれど、今なら判る気がする。たぶん皇帝はディクスの家系だとか血筋、事後の立ち行きを案じた訳ではなくて、それ以上自分の側に他人を近寄らせることを嫌ったのだ。
味方は誰もいないと皇帝は言った。
味方を作ることが嫌だったのだろう。
ディクスはそうしてわざわざ弱い部分、妻子を抱える身を作らされて、城下町に居を構えている。もし妻子を質に取られ、喉元に剣を突きつけられて、失いたくなければ皇帝を弑せと詰められたら、ディクスは一体どちらを選ぶのだろう。
チャトラには判らなかった。
そうして、その状態と同じような弱い部分を、皇帝が持つことは危険であるとセヴィニアは言っているのだろうと思った。
「でもオレ別に気に入られようとして、あのひとに近づいた訳じゃない」
もともとは事故のようなものだった。どうしたはずみか、皇帝に引き摺られるまま、片田舎の街から皇都に連れてこられてしまったけれど、それがチャトラの意思かどうかと言われると、正直、紐で何重にも巻かれて猿轡を噛まされた記憶しかない。不本意と言えば不本意だ。
「それは判る」
セヴィニアも言った。
「お前は思慮の浅いどうしようもなく愚かな娘ではあるが、逆にそうした政治的思惑をもって陛下に近づいた訳ではあるまい。と言うよりも、むしろシュイリェの姫君のようにはっきりと目的をもって陛下に近付いた方がまだ『マシ』なのだ。いくらでも対処のしようがあるし、それを逆手に取ることもできる。気晴らしの遊びのやり取りの上であるならば、私もお前に言いはしない」
なんだか、変だ。
聞きながらチャトラは、不意に声を立てて笑いたくなるほどおかしい気持ちになった。セヴィニアの言いようは、まるでチャトラが皇帝に大事にされているように聞こえる。
彼女にはよく判らない。相変わらず男はやさしいようでひどく冷たいし、構うかと思えば何日も放り出していたりする。平気でチャトラの傷口を抉るくせに、それを舐めとって、癒そうとする素振りを見せたりもする。
それを大事にしていると呼ぶのならば、チャトラの世界とは遠くかけ離れすぎている。世界の摺合せが可能かどうか、それも彼女には判らない。互いに遠く離れた対岸に立って――、あるいは片方が尖塔の上から見下ろし、片方が地面から見上げたとして。
高みに並び立ちたいと言う気持ちはあったとしても、男がそれを許したのだとしても、結局できることなのかどうかも判らない。
なんと言ったらいいのか混乱して、チャトラは窓の外を眺め、それきり口を噤んだ。セヴィニアもこの場でそれ以上の会話は無駄と判断したのか、それとももともと話し続ける気もなかったのか、同じように黙り込んで動かなくなった。
大事にされている、とか。
ふと、少し前、男が何かを囁いた片耳にチャトラは手を当てた。
聞き取れなかった声。けれど確かに発した気のする男の言葉。
……アンタ、なんて言ったのかな。
何かとても大事な言葉を囁かれたような気がする。
(20110413)
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最終更新:2011年04月13日 07:59