<<九重に咲けども花の八重桜>>
割と見ごたえがあると聞いて、半信半疑でやってきた。実際目にして思わずおお、だとか溜息が出る。人間感心すると、自然に声が漏れてしまうものらしい。
皇宮だった。
その裏手奥、あまり人の手も目も入らない場所に、半ば忘れ去られて数本、その古いのか新しいのかよく判らないは木は、今を盛りと咲き誇っていた。チャトラにこの場所を教えてくれた、顔なじみの若い騎士が、この花の名前も何度か口にしていたが、忘れた。正直情緒だとか風情だとか言うものにはっきり疎い自覚だけがある。
だからチャトラは、この花の名前を知らない。
ひどくはかないうす紅いろの、枝垂れた花があちらこちら、まるで滝のようになだれ、のたくって景色は霞み向こうが見えない。見事という言葉は、こういう時に使うのだろうなと、見上げて彼女はなんとなく思った。
それから、部屋から適当に引っ張りだしてきた敷物をがちゃがちゃと地面に広げる。敷物の中には、名前の知らない酒瓶が数本と、厨房に顔をだして適当に見繕ったつまみ。酒瓶の方は部屋の棚から目についたものを抜き出してきた。皇帝のコレクションではあろうけれど、あまり蒐集に固執していないように思えたから、飲み干してもゴネられることは無いように思った。つまみも断りを入れてきたので、問題なし。唯一敷物だけは、侍従長あたりに見咎められると、はっきりと嫌な顔をされそうだ。部屋にあったものだから、皇室御用達だとかで、目の玉が飛び出るほど高級なものだとチャトラは思う。思うのだけれど、その価値、というものが今一つ判らないので、小言は食らった後に反省することにする。
反省と言うより後悔かもしれないが。
枝垂れた枝の中に敷物を広げて、その中に座り込む。すると辺りは一面ほのかなうす紅に囲まれて、自然の緞帳の向こうに皇宮の回廊の明かりが少しだけ透かして見える。秘密基地のようにも思えて、妙にわくわくした。幹によりかかり、行儀が悪いかと思いつつ口で蓋を開けると一口呷る。
「うまいなー」
するすると飲み口の良い液体が、喉をすべり腑を焼く。ひとり呟いた。誰も聞いていないのだから気楽なものだった。こうして外で飲み食いするのがチャトラは好きだ。どこか特別な気分になるのが楽しいと思う。
鼻歌交じりにもう一口。
したところに、不意に近付く足音が聞こえて一気に不機嫌になった。
こんな場所に、こうしてチャトラが一人酒盛りしているところに、近付く人間は大方知れている。そうして渋々目をやれば、
「花見かな」
思った通りに男が一人、薫風になぶられて立っていた。
「……なんで来るんだよ」
「お前の姿がさっき窓から見えてね」
「くんなよ、オレの聖域だぞ」
彼女が不愉快になっていることが十分判っているはずなのに、まるで介せず男は隣へ座りこむ。おや、と酒瓶を見止めて眉を上げたところに、持ってきたよと今更告げた。
「駄目だった、」
「――いや。構わない」
思った通りに答えが返って来たので、機嫌を直す。予定していた一人きりの楽しみの時間は、仕方がないかと諦めた。こうして花はさやさやと音を立てているし、酒もうまい。昼寝するには絶好の心地良さで、不機嫌を持続しているのはあまりにもったいない。
同じように酒瓶を手にし、こちらは一気に呷った男が、ごろりと敷物の上に横臥した。毎度毎度気だるそうに振る舞う男が、今日はいつにもまして怠そうだ。そういえば昨日は部屋にも戻らず、一晩中仕事をしている風だったなと思い起こして、少しだけ尻をずらしてチャトラは男に場所を譲った。そのくらいの気遣いはしてやってもいいように思ったからだ。
そうして、チャトラは上を見る。
枝の先の先まで、みっしりと花をつけた枝は重たげに項垂れていて、どうしてここまで必死になって花をつけるのか、少し不思議な感じがした。効率だとか言う言葉で考えれば、もう少し少なめに花をつける方が幹本体へのダメージも少ないのではないか。色も、よくよく観察すると、全体としてはうす紅色の固まりに見えるものなのに、一つ一つの花弁はとても白くてはかない。はら、と重さに耐えきれず落ちたはなびらを取るとびっくりするほどに薄くて軽いのだ。これが密集するだけで、どうしてこんなにも強い印象を与えるものなのか、チャトラはやっぱり不思議だと思う。
思った通りを口にすると、目を閉じていた男がうっすらと笑った。お前の発想はいつも面白い、そんなことを言う。自分では面白い発想をしているつもりもないので、彼女は首を捻った。
時折風に揺らされるはなびらは、男の上にも遠慮なく落ちて、目をつぶる男はそれだけでなんというか妙に様になる。腹立たしい。
喋り好きの下働きの女たちにチャトラが聞いたところによれば、名前のない皇帝は己の容姿にもまるで無頓着で、歴代皇帝の肖像画とやらだけは、周りが拝み倒してなんとか書き上げることができたものの、それ以外の男自身の絵画、というものが存在しないらしい。残すなだとか男が厳命している訳でもないのだろうが、そもそも書かせる気がないようだ。あちらこちらに残る貴族の姿絵と言うものは、普通は依頼する側が金を払って絵描きを雇い、作品と報酬が引き換えられる。そうして需要と供給が成り立っているものだそうだが、現エスタッド皇に関しては、名だたる皇都の芸術家だのと呼ばれる人間が、頭を下げて書かせてほしいと頼み込んでくるのだと言う。チャトラにはまるで判らないが、作家魂とやらをくすぐる男の造形なのだろう。本当に理解できないが。
しかし皇帝、先に述べたようにまるで己に無頓着であったので、その「高名な画家」とやらの頼み事はすべて却下したらしい。後世に自身の何かを残す、という功名欲がどうも欠けているのではないかと言うのが女たちの推測だ。
だから結婚もなさらないのさ。
付け加えたついでの一言まで思い返しながら、チャトラは横目で男の顔を見た。
じっと見つめると、光の加減で男の頬が削げているのが判った。
疲れているんだろうな。
そう思った。
男の仕事内容にチャトラは一切首を突っ込むことがないので、一体どういう激務をこなしているのか想像で補うしかないのだが、最近あちらこちらの国境の紛争が絶え間ないと聞く。どうやらいくつかは大事に発展しそうな気配だと、皇宮内でももっぱらの噂だ。きっと噂は間違っていないのだろうし、男がそれを最小限に食い止めるために手配していることもその通りなのだろうと思う。
そう考えれば、こうして自分一人の楽しみの空間に、男が土足で踏み込むことぐらい、笑って許せる度量がなくてどうする。そうも思った。
どっちにしろ、腹が立つことに違いはないのだけれど。
「――何を見ている」
傍若無人なチャトラの視線を咎めることなく受け入れていた男が、不意に目を閉じたままぼつりと呟いた。寝ていた訳ではないらしい。
「こないだ本で読んだ、姫さんみたいだなとか思って」
「姫」
「あるだろ。百年眠り続けちまう話」
「――ほう」
「知らない?花のとげが刺さって、なんでか呪いがかけられて寝ちゃって、そこに王子がやって来て起こすって言う」
「お前が私を起こしてくれるのかな」
「言ってろ」
そう言えばあの話はどうやって姫君を起こすのだったか。話のくくりは忘れてしまった。
「――そういえば、前から聞いてみたいと思っていたことがあるのだが」
暫く黙ったまま風になぶられていた男が、口を開いた。
「うん」
「お前の誕生日はいつなのかな」
「……いつって」
困ってチャトラは顔をしかめる。
「言わなかったっけ。オレ、親に捨てられてたし、生まれた日なんてわかんねェんだよ」
「――お前の姉は、お前に毎年四葉を贈っていたと、前に聞いたように思うのだが」
「ああ……姉ちゃん」
ごくりと酒瓶を傾けて、チャトラは笑った。
「きちんとした日なんて決めてなかったんだ。適当に毎年目印つけてさ。『一番最初に渡り鳥を見た次の日』だとか……、『鉢植えに植えた種が芽を出した次の次の日』……だとか」
これと決まった日はなかったけれど、そうしてつけた目印を一生懸命探し当てるその毎日が、チャトラは好きだった。
「成程」
ゆっくりと男は頷いて、では、と続ける。
「次の私の休みはどうかな」
「は?」
続けた男の言葉が一瞬判らなくて、チャトラはまじまじと男を見た。薄く瞼を上げた男が、視線を受けてチャトラを見返している。
「アンタの休み?」
「ほしいものはあるかね?」
「あー……え?」
それがチャトラ自身の誕生日のことを指しているのだと気が付いて、そこでチャトラの目が泳いだ。急にほしいもの、だとか聞かれても困る。
「食べたいものだとか」
「うーん」
「宝石だとか」
「……うーん」
「それとも四葉が良いかね?」
「…………うーん」
そうだなぁ、とぼやいて考える。路地裏暮らしの日々ならともかく、三食昼寝が付いている今の状況で、足りないものが思いつけない。少し前までなら腹いっぱい食べたい、だとかあたたかい布団、だとかでてきたのだろうけれど、今はそれもない。かといって飾り物だの服だの靴だのと言った、身を着飾るものでほしいものが思いつけなかったし、四葉のクローバーは確かに良い手かもしれないが、それでは少しひねりが足りないような気もする。
「なんでもいいの」
「出来うることならば」
「大盤振る舞いだね、アンタ」
「そう言う気分なのだ」
「そうだなぁ」
ほしいもの。やってみたいこと。
考えている内に急にむらむらと悪戯心が湧いて出た。男は立場上、金も権威も持っていて、たいていの願いは難なく叶えてしまえる立場にある。
それでは面白くない、と思ってしまった。
どうせだったら、男が困るもの、実現難しそうなもの、言われて悩むものの方が面白いかもしれない。
口から先のなんとやら、大盤振る舞いのでまかせ半分なのだと、このときは何故か思ったのだ。
「アンタと、誰にも邪魔をされずに、街を歩いてみたいと思ったことがあるな」
できない事なら、いっそ実現不可そうなものの方がいい。言いながら確実に無理だと言うことをチャトラは承知していた。自分はともかく、男はれっきとしたエスタッド皇国の代表者で、おいそれと出歩ける身分でも立場ではない。仮に本人が良しとしたとしても、周りが許さない。
だから、この時チャトラは軽い気持ちで口にしたのだった。
男が、そのあたりの街の人間と同じような恰好をするだとか、並んでそぞろ歩きながら適当に屋台で見繕って食べるとか、考えるだけで面白いと思った。まるで似合わない。似合わないと言うより、想像がつかない。
できない、と男が困った顔をすればいいなと、その程度の気持ちだった。
「アンタの時間をオレにください」
「――それが」
いつの間にか男は敷物の上に起き上がっていて、チャトラを可笑しそうに覗き込んでいた。
「それがお前のほしいものなら、お前に私の時間をあげよう」
「……え?」
即答されて目を剝いた。ウソだろと口の中で呟く。無理だ。どう考えたって無理だ。
そう思ったのに平然とした男の顔を見て、どうしてか絶望に駆られる。まずい。この目は本気だ。今更冗談でしたとも言えず、言葉を探して口を莫迦みたいに開閉させるチャトラを見て、男がふっと笑った。それを見てああ、嵌められたのだなと思う。
困った顔を見て、からかいたいのはお互い様だった。見抜けなかった己の浅はかさに舌打ちをした。
勝者の顔をして頬を緩めた男が、おもむろに腕を伸ばして、チャトラの頭に付いたはなびらを摘み取る。重ねて雪のようだと呟いた。
「この花の名前を知っているか」
「悪いけど知らないよ」
摘まんだ男の指をすり抜けて、はなびらが風に乗って飛んでゆく。二本目の酒瓶を手にしながら、厄介な願い事をしたものだとチャトラは溜息を吐く。その溜息すらも花の緞帳に遮られて、外へは漏れずに閉じ込められてしまうのだ。何かに似ているなと既視感を抱いて、それから男の雨に少しだけ似ているのだと思い当たった。
雨、と表するには少し語弊があるのかもしれないが、それ以外の表現をチャトラは知らないからそう表すしかない。どういうはずみだか男が自分へ覆いかぶさるような瞬間、長い髪が辺りに散らばって、まるで金茶色の檻にでも閉じ込められているような気分になるときがある。やわらかな慈雨。
それとこのしな垂れた枝の何重もの覆いは、少しだけ似ている。
「花の名前を知っているか」
男がもう一度繰り返す。聞いた覚えがあるはずなのに、チャトラはこの花の名前を知らない。黙って首を振り、また空を見上げた。見上げる途中、はら、とひとひら回転しながらゆっくりと舞い落ちるはなびらの向こうに、つと目を細めた男の顔が見えた。
(20110420)
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最終更新:2011年04月20日 09:13