「なんてェ闘い方しやがる」
唸った。
その声に同じく視線を流して、ダインも喉の奥で呻く。
戦場である。
隣で腐れ縁ヤオが戦斧を振り回している刹那の呟きだった。
仮初めの休戦協定は、アルカナ王国が軍備を整えなおすと共に再開され、
野営基地にて束の間の休息を楽しんでいた傭兵達も、再び渦中にある。
これが仕事である。
不満を言う腰抜けはいない。
むしろ、ようやく本領発揮が出来ると剣呑な笑いを浮かべるものが多数。
自身たちは殺人狂ではないかと、ダインが思う瞬間でもある。
守銭奴。
金に拘るダインも勿論、参加に否やは無い。
右手に愛用の長剣を持ち、左手に気休め程度の盾を掲げ、
皇都軍本隊の騎馬隊が突撃するその露払いを、鬼将軍ミルキィユに率いられて、現在交戦の真っ最中である。
背後から威嚇射撃の応援を貰い、我武者羅にアルカナ軍とぶつかった。
斬る。
左肩から袈裟懸けに斬られた相手が声も無く倒れた。
血が吹きしぶき、目を細める。
その赤い幕の向こうにまた敵がいる。
構える。
隣では勢いに任せてヤオが戦斧を振り回していた。
長剣で相手の息の根を止めるダインと違って、両手持ちの戦斧は、狙いを定める必要がない。
当たればいいのである。
腕であろうと胴であろうと、首、頭であろうと、当たれば確実に相手は傷つく。
必要なのは、それを振り回す腕力だけである。
振り回しながらも余裕がある。
遠目に自軍の将を見やって、呟いた言葉がそれだ。
離れた遠くで、ミルキィユが自慢の大剣を振り翳していた。
大剣の扱い方は、戦斧に似ている。
刃の切れ味は関係ない。
力任せに反動でへし折るのである。
遠目で見るに、大剣の扱い方は間違ってはいない。
あの体で、よくも獲物に振り回されずに勢いを保てるものだと、ダインは感心すらする。
問題は闘い方の方だった。
その闘い方を、ダインは知っている。
野営地に奇襲を受け、櫓に登って敵と思い、初めてミルキィユと対峙した時の、その闘い方と同じであった。
保身が無い。
斬りつけられたらこう逃げよう、とするその余地がない。
捨て身なのである。
ミルキィユの無防備さに気付いて、敵が集まる。叩き斬られる。
力で勝る内は対応の出来る闘い方でも、それ以上の相手が来ると、
「……肉を切らせて骨を断つ、てかァ」
「無茶だ」
ヤオの皮肉な言葉にダインが顔をしかめる。
「ダイン。行ってこい」
相変わらず戦斧を振り回して、息一つ乱れずにヤオが怒鳴った。
「姫さん助けに行ってやれ」
「悪ィ」
応えながら既に体は動いていた。
敵味方入り混じる人混みを掻き分けて、ダインはミルキィユの許に走る。
戦場でいっぱし名の売れたダインと気付いたか、アルカナ王国の士官クラスが目の前に立ち塞がったが、
ごきり。
嫌な音と共に、次の瞬間崩折れていた。
ダインが、力任せに相手の顔面を殴りつけた音だった。
――なんだ、これァ。
走りながらじりじりと焦る自身に気付き、苦笑が湧く。
戦場でこんな思いをしたのは初めてだと気付いた笑いである。
守るものが無かった。
生まれた国は滅ぼされ、命からがら逃げ出した時には家族は半分に減っていた。
そのまま流れて、気付いた頃には一人だ。
知らず、戦場に身を置くようになった。
滅んだ故郷を懐かしむ気はない。
滅んだのならば、滅ぶ価値だけのものだったのだと割り切った。
離散した家族を懐かしむ気もない。
見回せば辺りは、そんな境遇のもので溢れていたからだ。
ずっと一人で生きてきたのだ。
あの日、ミルキィユと出会うまでは。
「あれは、あんなのが好みであったのか」
執務室で皇帝が呟いた。
皇都。正午。
大量に積み重ねられた検案書の束。
見るからにやる気の無い素振りで書類に目を通し、認印を押していた皇帝が、伸びと共に呟いた言葉である。
いつものように脇に控えるディクスだった。
呟いた皇帝の表情には殆ど表れてはいないが、長年の経験でディクスには判る。主は上機嫌である。
どう楽観的に見ても二、三日では終わりそうの無い書類の山を前にして、上機嫌である。
とは言え言葉通りの上機嫌とは、少し意味合いが違う。
肉食獣の笑みに似ている。
どちらかと言うと、新しい玩具を見つけた期待感に近い声音である。
「意外であったな」
恐らく弄ばれるのだろう。
”あんなの”扱いされた傭兵の前途を思って、珍しくディクスが小さく溜息をついた。
「……なんだね」
溜息に反応した皇帝が、ゆっくりと振り向く。
「敵いませんね。楽しんでいらっしゃる」
「それはそうだろう。……そうでなくとも暇なのだ。楽しめるものは最大限に利用しない手は無い」
苦労するだろうな。
平和そうにぼんやりと、空を眺めていた傭兵の顔を思い出して、密かにディクスは同情した。
「私はね、」
机上に置かれた蘭の花に顔を寄せて、うっとりとその香を嗅ぎながら皇帝は言う。
皇帝の風貌は、強烈で果敢ない蘭の花に少し似ている。
「私はてっきり、君のような男が、あれは好みだと思っていたのだが」
「陛下」
「君が既婚者で、愛妻家でなかったら強く推し進めたところであった」
にい、と笑う皇帝に無言で返した。無闇に応えれば手玉に取られ暇つぶしにされるのがオチであることを良く知っている。
僅か残念そうに見えるのは、気の迷いだろうとディクスは決め付ける。
「あの傭兵では役不足とおっしゃいますか」
「とんでもない」
大袈裟に肩を竦める動作が芝居がかって見え、
「あれが気に入った者であるなら、私はどんな者でも諸手を上げて歓迎するよ」
絶対に、楽しんでいる。
鉄面皮の下でディクスは確信した。
「……ただね、」
起こした背筋が真っ直ぐには至らない。
腕を失った際に、同じく差し込まれた刃で傷つけられた内臓が今でも時折引き攣るのだと、皇帝は言う。
「あの傭兵は恐らく、いつまでも一所にはおるまいよ。風のようなものだ。繋ぎとめる術は無い」
――女であることを思い出しました。
皇帝の言葉を耳にしながら、
そう自身に告げた時の、羞恥らったような、諦めたような、ミルキィユの不可思議な表情を、ディクスは思い出す。
「困ったね」
ディクスの返事を期待していたわけでもない皇帝は、一人ごちて満足し、
花瓶の一輪、黄の細やかな花粉が零れるのを指で弾く。
はらはらと、書類の上に季節はずれの粉雪が散った。
香りが濃くなる。
「私には見ていることしか出来そうにないよ」
憂鬱に皇帝は呟いた。
深々と冷える。夜になっていた。
昼の喧騒が嘘のように、戦場は静まり返っている。
目を落とせば遠く野営地の松明に照らされ、あちらこちらに屍が転がっているのが見える。
敵か味方かは判らない。
ひょっとすると、以前酒を酌み交わしたことのある仲間もいたかもしれない。
傭兵家業の一番の泣き所である。
昼の興奮冷めやらず、見張りの交代時間になって尚、冴えて眠れそうに無い頭に苛立ったダインは、
気晴らしに野営地の外周りをぶらぶらと歩いていた。
血濡れた大地を踏みしめ歩くうち、ぽつんと戦場に一人立つミルキィユに気付く。
昼間の戦闘では、結局少女の下に馳せ参じる前に、騎馬隊による突撃が始まり、
鼓を聞き、已む無く退いたダインである。
下級とは言え、そしていくら他将軍から厄介者扱いされていても、階級の壁は高い。
あちらから近づいてこない限り、野営地ではおいそれと話しかけることも出来ないのが傭兵と将軍の関係である。
昼間より姿を見ていなかった。
一人立つミルキィユは、物思いに耽っているようで、邪魔をしないように静かにダインは近づく。
夜気の中をちりり、と小さな音が響いた。
ガラスの擦過音。
「……今夜は月が中々出ないな……」
近づく足音にとうに気付いていたらしいミルキィユが振り向きもせず、呟く。
指に握られているものは、
「お嬢?」
「……上官と呼べ」
返す言葉に覇気が無い。
「どうした」
横に並んでダインは、俯き加減のミルキィユの顔を覗き込んだ。
口の端が上がっていた。
自嘲のように見えた。
「元気がねェな」
「……少し。な、」
指に握られているものは、朱色の花の透かし模様。ガラス細工の髪飾り。
握る細い指先にも、腕にも肩にも、止血のための布がぐるぐると巻かれて、今日の昼の激戦をうかがわせた。
痛々しいことこの上ない。
「喧嘩帰りの猫みてェだなアンタ」
そう思ったので素直に呟く。聞いたミルキィユが小さく笑った。
虫の音が聞こえる。
しばらく黙ってダインがその音に耳を澄ませていると、
「……何があったか聞かないのか」
やはり虫の音に耳を済ませていたミルキィユが、呟く。
「なんだよ」
ダインが見やると、彼女は首を少し傾げて
「聞きたそうな顔をしている」
そう言う。
「言いたいのか」
「……言いたいのかもしれないな」
「そうか」
ダインが頷くとまた、言葉を捜すようにミルキィユは押し黙る。
何か機転の利いた言葉でもと、頭の中でダインが捻る内、
「先刻、本陣の方へ、アルカナ本国より使者が着いた」
少女は言った。
「ほう」
「大将軍自らのお出ましだったぞ」
「そりゃ、すげェな」
「仰々しく列を組んで手土産を抱えてな。見物であった」
「へェ」
少女が何が言いたいのか判らなかったので、ダインは適当に相槌を打つ。
そこまで話してまたミルキィユは黙り込んだ。
しゃがみ込み膝を抱えて、足元の踏みにじられた小さな花に指を伸ばす。
「お嬢?」
「……国王取り巻き一派の命乞いだった。
手土産は、国王とその一族全ての首だ。まだ年端も行かない幼子まで律儀に並んでいた」
ぷち、と小さく音を立て、ミルキィユが花を摘み取る。
陰って色も見えないその花に顔を寄せ、
「……花もわたしも血の香りがするな」
「どうしたんだよ」
力なく呟くミルキィユへ、突っ立っているのも気が引けて、ダインも同じく膝を付いた。
「わたしがアルカナ王国へ嫁いだことは耳にしたか」
不意に耳に飛び込んだ言葉に、巧く空気を吸い損ねてダインは噎せた。
勿論、初耳である。
噎せるダインを見て、初めてミルキィユが楽しそうに頬を緩めた。
「器用な男だな」
感心している。
咳き込んだついでに垂れ出た鼻を拳で拭って、なんだよ、と照れ隠し。ダインはぶっきら棒に返した。
「14の時にな。アルカナ王国の方からから申し出があった。
第三王子との婚姻で、両国の協定を強化することが狙いだったようだ。
戦を好む王子で、あまり良い評判も聞かなかったので、アルカナでも持て余し気味だったのだろうな。
同じくエスタッドにて持て余し気味のわたしと、丁度釣り合いが取れるというわけだ。
わたしは無論、陛下も知らない内に、頭の黒い鼠共が、隣国と話を進めていたらしい。
気付いた頃には、後戻りできないほど話が進んでいたのだが、気付かなかったこちらが悪いな。
まあ、私自身反対も無かったし、陛下の御為になるなら、わたしは喜んでその駒になろうと思ったが」
しゃがんだまま、ミルキィユは空を見上げる。
つられて見上げたダインだったが、目に入るのは雲に覆われた空だけである。
黒い雲の流れが速い。
「国王はともかくとして、第一王子夫妻、第二王子夫妻からは優しく迎えていただいた。
彼らの間に生まれていた、歩き始めたばかりのよちよち歩きの子供が、とても可愛かったな」
花嫁装束のミルキィユを、ダインは思い浮かべる。
真っ白な衣装に包まれた、真っ白な少女はさぞや愛らしいかったろう。
――見てみてェな。
ふと思った。
「決して仲の良い国同士ではなかったが、それでも敵対はしてなかった。
……敵対し始めたのには理由がある。わたしが、結婚相手であったはずの第三王子を殺して、逃げたからなのだ」
どうして、とは流石にダインは聞けない。
目の前の少女が、自身の行為の結果を予想できない程、浅はかでは無いことはとうに知っていたし、
ならば尚更、その原因を聞くには躊躇いが混じる。
言葉に詰まるダインを眺めて、淋しそうにミルキィユは笑った。
「第三王子の首を刎ねて逃げたのだ」
繰り返す様子が妙に自虐的で、
「お嬢」
見咎めたダインが思わず呟く。
「その結果がこのざまだ。数多の人間を巻き込んで、わたしは未だにのうのうと息をしている」
「……昼にアンタの姿を見た。何故あんな闘い方をする」
低い声で尋ねれば、急に弾けて、げらげらとミルキィユは笑い出した。
狂気の混じった笑いである。
「剣技を教えてくれた師に知れたら、破門ものだな。いい子ぶるのにもそろそろ疲れた」
「お嬢!」
「わたしは早くに死んだほうがよい。関わったものが皆不幸になる」
今日のあの小さな首のように。
仰け反り大声でミルキィユは笑っているのに、ダインの目には泣いているように見えた。
膝を抱えて泣いている。
抱きしめようと、思わず伸ばしたダインの腕をするりと抜けて、
瞬間彼女は立ち上がると、逆毛を立てた猫のように、数歩後ろに飛び退った。
飛び退り、追いそびれて間抜けに立ち尽くす、ダインに向かって振り向いた。
「これでも、」
振り向き、首まで覆った黒の鎧下をぐいと捲り下ろす。
「これでも貴様は」
しなやかに細い肩が剥きだしになった。
刹那。計ったように、雲の隙間を縫って月光が射す。
満月に近い月の光は、暗闇に慣れた目には眩しいほどに明るい。
闇夜に浮いた体が光に浮き彫りになる。直視し、ダインは息を呑んだ。
鬼の謂れを知っているか。
いつか聞いた言葉が、耳管に木霊する。
ところどころ、の話ではない。
首から下、か細い鎖骨にもなよやかな肩にも折れそうな腕にも、醜く引き攣る痕が見える。
赤黒く引き攣る痕である。
まるで何かの文様のように、渦を巻き、くねり、のたうつ痕である。
肌の白さと相まって、いっそ無残。
火に焼かれた痕だった。
――コレは、危険だ。
「初夜の晩に第三王子はわたしを化け物とそう言った」
悲鳴のような笑い声をあげ、ミルキィユは言葉を失ったダインを睨みつける。
「引き立てられ、城門の前に投げ置かれ、万人に晒されてな!」
壮絶な瞳に貫かれ、ダインは身じろぐことすら忘れた。
砕けそうな笑みの理由を、その時彼は初めて知った。
駄々を捏ねるように、試すように睨みつける少女を喘ぎながら、彼は見つめ続けた。
鬼の謂れを知っているか。
月明かりの下で鬼が泣いている。
わたくしが、アルカナ国王一家に忠誠を誓いましたのは、そう、まだ13と2月の事でございました。
故郷から出てきたばかりの、田舎者丸出しのわたくしは、
余りにもきらびやかな王宮の生活に、眩暈を感じましてございます。
そこはまるで天国のように、何もかも規模が大きく、豪奢で、溜息が出るほどの別天地で、
わたくしの拙い言葉では、とうてい言い表すことが出来そうにございません。
とにかく、わたくしは雲の上の世界に来てしまったのだなと、そう感じましたのでございます。
わたくしがおおせつかったお仕事は、王宮内のお掃除でございました。
取り柄と言って、取り得の無いわたくしでも、お掃除だけは得意でございましたから、
それはそれは一生懸命に、心を込めて磨かせていただきました。
アルカナ王国の王宮には、国王陛下と王妃さま、その御子である第一王子と奥様そしてお二人の御子さま、
第二王子と奥様、そして未だ未婚でおられました第三王子がいらっしゃいました。
お掃除の合間に王族の方々のお姿を、幸運にも垣間見られた日などは、
わたくしは興奮し胸がどきどきして、居ても立ってもいられないほどになりましてございます。
王族の方々は大変に優雅で高貴で、
きっと田舎出のわたくしとは違い、人種そのものが全く異なるのでございましょう。
空にぽっかりと浮かぶ、お月様のようなものでございます。
決して手の届かない、どころか手が届くことを許されない、
けれど、時には水面に揺られる月を掬い取れる錯覚に陥るような、そんな方々だったのでございましょう。
一生懸命にお掃除をさせていただくわたくしに、
王妃様や第一、第二王子様、その奥様方は優しくお声をかけてくださいました。
難しいお話ではないのです。
今日のお天気や、咲いている花のこと、昨日に食べた食事など他愛の無いお話ですのに、
わたくしは一度たりとして、上手に応えられたことができなかったのでございます。
これはきっとわたくしが、要領の悪い田舎娘であったからでございましょう。
よちよち歩きの御子さまは、たいそうお可愛いくいらして、よだれにベトベトまみれた小さなお手で、
わたくしのスカートを、何度も何度も引っ張ってくださいました。
そしてその手に握る玩具やお花を、わたくしに下賜してくださったのです。
わたくしはもう、言葉も出ないほど豪く感激して、ただただ頭を下げることしか出来なかったのでございます。
その中で、一度もわたくしにお声をかけてくださらなかったお方が、一人だけいらっしゃいました。
第三王子様でございます。
とは言っても、わたくしは、お声をかけてくださらなかったことに対して、不満を抱いたわけではございません。
あの方は、いつも一人で、国王様一家の輪の中には入っていかれない、
恐れながら少しお怖い、けれどお寂しそうな方でございました。
右手にいつも乗馬鞭を持ち、お気に召されませんとすぐに癇を起こされるのです。
戦のたいそうお好きな方で、
国王様がお命じになられるよりも以前に、お一人颯爽と戦場に出かけてしまわれるのです。
口さがの無いものたちは、第三王子様は狂っていると陰口を叩いておりました。
血に飢えた殺人狂だと、噂するのでございます。
わたくしは、そう言った陰口を聞くたびに、陰口を叩くものたちをきつくきつく睨みつけてやりました。
空に浮かぶお月様に対して、なんと恐れの多い、越権行為な言葉を吐く者どもだろう。
きっとそのうちにバチが当たって、悪いことが起きるに違いない。いいえ、起きて欲しい。
わたくしはそう願っていたのでございます。
ある日。遠く離れたエスタッド皇国と言う国より、御使者が参られました。
未婚であらせられた第三王子様との婚姻話を、持ってこられたようでございました。
その話を小耳に挟んだわたくしは、不意に胸が締め付けられ、息が苦しくなりました。
第三王子様がご結婚なされる。
おめでたい、とてもおめでたいお話のはずでございましたのに、
わたくしは、何故かたいそう複雑だったのでございます。
国を挙げての婚礼の儀が近づくにつれ、ますますその思いは強くなり、
あんなにも心を込めていたお掃除にも身が入らなくなり、しばしば侍従長様より叱られましてございます。
最近のお前は上の空でずっとぼんやりしている。
謂れのないお叱りではございません。わたくしが全て悪いのでございます。
けれど時には悲しくなると、そっとお城を抜け出して、裏の森の泉近くで、一人泣き濡れていたのでございます。
何故あんなにも心が痛んだのでございましょう。
わたくしは今でも判りません。
その日も一人泣いていると、不意に背後に人の気配がして、
――女。
そう呼びかけられたのでございます。
――何を泣く。
驚いて振り向くとそこには、恐れながら憧れてやまない、第三王子様そのお方が立っておられました。
野駆けでもなされておられましたのか、上半身はむき出しで、髪は木の葉が紛れ、
お履きになっているズボンもところどころが破け、うっすらと血が滲んでおられました。
周りには王子様以外誰もおらず、
どうやらお一人でここまでいらっしゃったようでございました。
わたくしはもう、驚いてしまって声も出せず、
唖のようにぱくぱくと、口を開閉することしか出来なかったのでございます。
――その服装は、城の者だな。
そう言って王子様は、ぐいとわたくしの腕を引き、
まだ汗ばむ熱い胸元に、引き寄せましてございます。
――あ、あ、あの。
――煩い。口を開くな。
あの方の広い胸に抱かれて、わたくしは頭が真っ白になり、
なにをどうしたものやら全く判らなくなりました。
第三王子様は、そうして戦慄くわたくしへ、口元を歪めて一度だけお笑いになり、
それからわたくしの着衣を全て、その御手で引き裂かれましてございます。
引き裂かれた着衣は、力なく足元へ舞い散り、
そうして、王子様はわたくしを泉の側の草叢へ放り落とすと、即座に挑んでいらっしゃったのでございます。
天にも昇る心地と言う言葉は、あのような時に使うのでございましょう。
わたくしは、おぼこでございましたので、痛みが無かったといえば嘘になりましょうが、
それよりもあの、手の届かない御方から求められている喜び、
空のお月様が、仮初めの姿をおとりになって、こんな哀れで醜い田舎娘に目を止めてくださった悦び、
そして、あの方の御手にて女に生まれ変わることの出来た歓び、
それらがごっちゃになって渦巻き、
気がつくと、わたくしは一人で草叢に蹲っていたのでございます。
夢だったのかもしれません。
夢であったのだと思います。
日は流れ、エスタッド皇国より姫君が仰々しい行列を引き従えて、アルカナ王国へやってこられました。
僅かに棘の刺さるように、姫君様を心の底から喜んでお迎えできなかったわたくしは、
いささかの後ろめたさと共に、お迎えいたしましてございます。
けれど、お輿よりお降りになった姫君を見て、わたくしは衝撃に打ち震えたのでございます。
真っ白い、不吉なほどに真っ白いベールに包まれて、
白の姫君は可憐で健気で、麗しゅうございました。
わたくしの周りの者どもも皆、思わず感嘆の溜息を吐いたほどでございました。
あの方が、第三王子様の奥方になられるのだ。
わたくしなど、到底敵うはずもございません。
敵うどころか、敵おうと張り合うこと自体が、無意味でございます。
白の姫君もまた、雲の上に住まう王族の方々と同じ人種でございました。
同じ人種なのだろうと、愚かなわたくしは信じてしまったのでございました。
第三王子様は、白の姫君をお迎えすることもなく、
その日も、同じように戦場に出かけていらっしゃったのだと、後ほど噂で知りました。
けれど、あの姫君は、魔性の者であったのでございます。
白い衣装に身を包んで、正体を顕すことなく、第三王子様に近づいたのでございます。
その晩に。
帰っていらっしゃった、王子様のけたたましい喚きと笑い声に、城内は震撼いたしました。
お可哀想な王子様。
白の姫君と王子様の寝室より、王子様が出ていらっしゃいました。
片手には、身を縮める姫君を引き連れていらっしゃいました。
なんということでしょう。
真っ白いベールを脱いだ姫君の体は、それは酷く引き攣れ歪み切っていたのでございます。
赤とも茶とも言えぬ、忌まわしくも汚い、呪いの文様にも見えるそれは、
きっとエスタッド皇国からの、呪詛でございましたのでしょう。
わたくしは息を呑んでお二人を眺めておりました。
いいえ、正しくは王子様と魔物の姫をでございます。
お可哀想な王子様は、白の姫君が魔物とは知らず、婚姻関係を強制的に結ばされてしまったのでしょう。
お怒りになるのもご尤もな事でございました。
それなのに、愚かな周りの侍従たちは、どうぞお控えくださいと、王子様をお諌めするのです。
嘘を吐いたのは白の姫君なのに。
騙されたのは王子様なのに。
あのような忌まわしい魔物と比べれば、
一度とは言え、王子様から光栄にも求められたわたくしの方が、何倍も何十倍も、
いいえ、きっと何百倍も美しいに違いないのです。
裸に剥かれた魔物は、泣いているようでした。
ざまを見ろという気持ちが湧き上がったのは、丁度その表情を目にした瞬間でございます。
恐れ多いとは思いませんでした。
何故なら、魔物は、決して天国に住む方々とは同じではないからでございます。
地の中に棲み、泥を啜る生き物でございます。
わたくしは、たいそう晴れやかな気持ちになりましてございます。
あの魔物は女ですらないのです。
正当なお怒りを湛えた王子様は、そのまま魔物を連れて城内を引き回した末に、
最後に城門の外、つり橋の上へと投げ落としたのでございます。
篝火の明かりが赤々と燃え、魔物の肌はいっそうに淫猥で醜悪で、
それを見たわたくしは、背筋が凍る思いでございました。
あんな魔物を、王子様は娶らされる寸前だったのです。
一体、婚姻話を持ち上げた大臣達は、何を考えていたのでしょう。
王子様は打ちひしがれる魔物を見下ろし、げたげたと高笑いなされながら、
何事かと城内殆どの者が起き出し見つめる中、
魔物を、何度も何度も手にした鞭で打ち据えたのでございます。
わたくしはそれを目にし、ますます晴れやかな気分になったのでございます。
そして、あんな魔物に、少しの間とは言え、敬意を表していたことを腹立たしく思いました。
わたくしもまた、騙されていたのでございましょう。
しばらくの間、王子様は魔物を苛んでいらっしゃいました。
お可哀想な王子様。
想像するのも恐れ多いこととは言え、もしわたくしが同じように王子様の立場でございましたら、
やはり同じように憤ったと思うのでございます。
それなのに、尚も愚なる周りの侍従たちは、王子様を諌めるのです。
それどころか、聡明であられるはずの第一王子、第二王子様までもが、何故か魔物を庇いだてして、
王子様をお叱りなさるのです。
王子様は、ますます猛り狂われたのでございます。
そうして、腰に差していた剣を手に取り、鞘を脇へと放り出されました。
けたたましい鉄の音が、静まり返った城門前に鳴り響いて、
その、わんわんと言う余韻が消えるか消えないかの寸前に、
しゅぶっ。
そんな音を立て、不意にわたくしの視界が真っ赤に染まったのでございます。
篝火の中で、まるで幻想的な光景でございました。
何事が起こったのか、わたくしも、そして周りの者どもも、
理解に至ったのは、数瞬過ぎての事でございました。
第三王子様の。
ああ。
第三王子様の首が、
ごろごろと音を立てるように、わたくしの足元に向かって転がって参られたのでございます。
ゆらりと俯き立ち上がった魔物の手には、先まで王子様の御手に握られていた剣がありましてございます。
不吉に染まる、白と赤の魔物です。
――お、お、お、お、おおおおおおおおおおおおおおおおお。
魔物は不意に天を仰ぎ、知恵のある人間の声とは到底思えない、原始的な声をあげ、
それから血濡れた剣を真っ直ぐに掲げたまま、走り去って行きました。
唖然と勢いに飲まれていらっしゃった、第一、第二王子様たちが身動きできるようになられたのは、
その随分後でございました。
周りのものもいっせいに身動きし始め、
突如、辺りは悲鳴と叫喚で溢れかえったのでございます。
魔物が、アルカナ王国に呪いをかけて去っていったのでございます。
誰も彼もが戦き、嘆いて、
ああ、本当にあんな婚姻などなければ、
第三王子様がきっとその求心力を買われて、次国王になられたはずでございましたのに。
誰も見向きもしない足元に転がった王子様の首を手に取り、
わたくしは半目を開く王子様と向かい合わせたのでございます。
また、わたくしを選んでくださった。
わたくしは幸福に包まれておりました。
わたくしの許に、いらしてくださった。
そして、騒ぐだけの能の無い周りと世界を切り離し、
わたくしはそっと、王子様の唇に、初めて口付けをしたのでございます。
最初で最後の口付けでございました。
血の。
血の味がいたしました。
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最終更新:2011年07月21日 11:00