<<君のいないこの町は僕にはもう何も与えない>>
その日は朝から雨が降っていた。物憂げと言うか、何とはなしに気鬱になるような、何がしか厄介ごとでも舞い込んできそうな、そんな天気だったことは確かだ。
仮設の平屋から最近になって四階建ての四階部に引っ越しをした。
カークである。
引っ越しをした、と言っても彼らの荷物は些細なもので、引っ越し自体にたいして時間がかかる訳でもない。それでもなかなか手狭になった平屋から移り住めずにいたのは、資金繰りの問題ではなく単純にめぼしい引っ越し先の問題――要は、三人が雨風をしのげるような、天井と壁の残る手ごろな住宅を、見つけることができなかったためである。
ひと月前ほどにいい物件を見つけた、と仕事帰りだったヒューが、部屋へ飛び込んできた。仕事途中で立ち寄った元工場の奥に、丁度手ごろな部屋を見つけたらしい。言われてその足で確かめに行ってみると(と言うよりも引っ張り出された)、確かに三人が移り住むには十分なしつらえで、壁にひびが入る訳でも天井や床が抜けている訳でもない。だのに居住する人間がいなかったというのは、単に中心部よりかなり離れていたことと、未だに十年前のP-C-C……いわゆる「完全高度管理社会都市」の中央管理塔が吹き飛んだ瓦礫残骸のまま、再興されていないことによるところが大きいのだろう。
昔と同じように、中央部の割と便利な雑然とした街並みに人は肩を寄せ合って暮らしていたし、最近では高層ビルの建設計画も進んでいると聞く。一度はその「完全管理都市」とやらの管理者として、白羽の矢が立っていたカークとしては、そしてまたその「吹き飛ばした」原因の九割を作った身としては、復興されてゆく街並みと言うものは嬉しいような感慨深いような、そのままにしておいてほしいような申し訳ないような、複雑な心中だ。
死ねばいいのに。
自分でもつくづくそう思う。
中央管理塔が吹っ飛んだ時の被害たるや相当なものであったろうし、死傷者も出たことと思う。その時の自分は、自分のことだけで手一杯で他に何も考えられなかったけれど、世間の非難をもっと本来は受けるべきなのだろうと思う。目をつぶる気はない。
かといって、どこか人の集まる場所に向かって声高に自分がその事件の張本人なのだ、と喚く気概もなく、人間にとてもよく似ているのにけれど人間ではないD-LLの体は、自己修復にたけている。下手に自傷したところでたちまちに傷はいやされてしまう。
要するに、正面切って己のしでかしたことを見つめる勇気も持てず、開き直ってなかったことにもできず、こうして鬱々と暮らしている。
暗い。
そんなカークを見て、同居人は笑う。
彼ら二人の笑いは、あまりにあっけらかんとまるで陰性を持たなくて、時折カークは拍子抜けたような、自分はここにいてもいいのかというような不安感、喚きだしたまま外へ飛び出してゆきたい焦燥感を覚える。
けれどそれを実行する覇気もない。頭の中で堂々巡りだ。
そうして、十年前と同じような「何でも屋」の突発的な仕事を請け負っては生活している根無し草。こればかりはカークの性格と言うよりは、彼の主人の定職に就かない適当な性格の余波である所も大きいから、ひとえにカークばかりを責め立てても仕方がないのでは、あるけれど。
中央部から離れて夜は明かりも届かない、正直混沌としかけたその区域を主は一目で気に入ったらしい。珍しく主の意向に渋ったカークの主張も、同じように暮らすもう一人のD-LLであるところのマルゥの主張も、さくっと右から左に流されて、強引に次の日から四階へ移り住んだ。
主の強引さは昔からまるで変わっていない。
そこに救われているような気がするカークである。
その主、ヒューは朝から依頼された仕事をこなしにどこかへ出かけていて、家の中はカークとマルゥの二人きりだ。窓際のソファで暇そうに雑誌をななめ読んでいたマルゥにねぇ、と呼びかけられて、ヒューとは別に受けていた依頼の仕事から目を上げて、カークはソファへ目をやった。
「何か」
「アンタ、今日マスタからなんか聞いてる?」
「ヒュー?」
「何か家でパーティすっぞ、とか。持って帰ってくるから準備しとけ、とか。そういうの」
「とくに聞いた覚えはありませんが――」
タバコの買い置きがない、と朝出がけに騒いでいた主を思い出して、タバコを買って戻るとは言っていましたと付け足すと、
「タバコって言うのは大きな布包みには変化しないわよね?」
「しないでしょう」
マルゥがいったい何を言っているのか、カークにはさっぱり理解出来ない。首をひねりながら、改めてコンピューターの前から体をずらした。頼まれていたハッキングの仕事は、大まかな部分は終わっていたし、残りは夜二人が寝静まった後に片づけることにする。一息つきたい気分であったし、
「コーヒーでも淹れましょうか?それとも甘いココアを」
「もうすぐマスタが帰ってくるから、それといっしょでいいわよ。それよりカーク、『あれ』……なんだと思う?」
「え?」
窓の外を指し示されて、そこでようやくカークはマルゥが窓の外、部屋へ向かって帰ってくるヒューの姿を眺めながら、話を向けてきたのだと言うことに気が付く。
雨に濡れた半分崩れた街並み。濡れたコンクリートのむせ返る臭い。埃の落ち着いた瓦礫の間に、ちらちらと見え隠れする、金と言うには少し癖の強い、オレンジ色の頭。
カークやマルゥを拾った人間であり、同居する家族であり――、記憶さえ消された遠い昔に、今とは違った形で家族として少年であったヒューを見守ったこともある。
遠い記憶はセピアの写真のようなものだ。思い出すと胸がわずかにせつなくて、けれど幸福だったように思う。よく弾ける、生命力の溢れる小さい体を抱きしめながら、いつかはこの手の中からいなくなってゆくのだと、人間とD-LLは本質的に「ちがう」のだと、自分に言い聞かせていた頃。
巡り巡ってこうしてまた同じ屋根の下暮らすようになっているのだから、――だから人生は何が起こるかわからない。
そのヒューが、『あれ』と呼ばれた荷物を抱えている。確かにタバコの包みにしては随分と大きい、そう、まるで犬か猫でも拾ってくるんでいるような。
「なにかひろってきたのかなぁ」
同じような思考パターンで眺めていたのだろう、隣で見下ろしていたマルゥがつぶやいた。
「何でしょうね」
応えながら窓を離れ、キッチンへ向かう。主が戻ってきたらすぐ、茶が飲める準備をしておくためだ。ケトルを火にかけ、こんな気温の雨の日ヒューは何を飲みたがるか、だとか考えながら二人分の茶葉をとりだし、ついでにマルゥの分のココアの缶も並べる。しばらくするとケトルから湯気が立ち上り、沸騰したそれをポットに注ぎ入れた。
ふわ、と立ちのぼる香りがカークは好きだ。
数分後、読みの通りに主が玄関のドアを開けるや否や、こちらのおかえりの声をスルーして、張り切って一声を発した。
「もらった」
そこまでは想定内、だったのだけれど。
*
この際、ヒューに常識や観念や、そもそも説明自体をもとめるということが、根本的に間違っているとカークは思う。そうした「普通」をヒューに願っても、元来無理な話だと言うこともカークには判っている。ただ、どうしても、なにがあっても、状況を把握するためには、言葉で聞かなければ判らないことがあるし、状況だけを眺めて一瞬で理解できるような、機微の利く性格の自分ではないこともカークはよく知っている。
説明は、してほしいときにしてほしいから説明と言うのだ。
「……。……。……。……ヒュー」
たっぷり数十秒無言になって、なんとか平常心と自分を取り戻したカークは、ようやく口を開いた。ただしその名を呼ぶだけの行為では、あまり意味は無かったのだけれど。
「おう」
「すこし、いいですか」
「なんだ、改まって」
濡れた靴を脱いで裸足になったヒューは、同じように無言で固まったソファのマルゥに布包みを手渡すと、シャワーに行きかけた足を止めてカークへと振り返る。
「どこでもらったんです」
「酒場の裏通りで雨に濡れててさ」
「包みが、ひとりで?」
「いや。なんか若いおねぇチャンがいてだな。傘もささないで胸の前に包みを抱えて、酒場の裏に」
「母親ですか」
「状況から考えたらそうじゃねぇかな」
「で?」
「横を、通り抜けようとしたらあのって声かけられて、困った様子だったからなんだって振り向いたらいきなり包み渡されて」
「で?」
「無料でプレゼント配ってるのかって思わず貰って開けたら、赤ん坊が入ってて、おねぇチャンがいなくなっててだな」
「――……あのですね
急に痛みだしたこめかみへカークは手をやって、
「人間の子供は貰うものではないと思います」
言った。
そう。ヒューが持ち帰った包みの中は犬や猫ではなく、れっきとした人間の乳幼児。生後一年と少しのところか、だとか横目で眺めながらカークは盛大に呆れた声を出した。
「そうなのか」
「そうです」
渡された布包みをうわ、だとか奇声を上げておっかなびっくり胸に抱いたマルゥに目をやってカークは溜息を吐く。
首が座っているのが幸いだ。マルゥの手つきはあまりにも怪しくて、任せ切るには恐ろしい。
「どうするんです」
「風呂に入れて、飯食わせて、寝かす」
「……そういうことを言っているのではなくて」
こういう時、常識の通じない相手に理を解くほどむなしいことはないと、カークは思う。
「百歩譲ってその子が、一時預かりだったとして――、親が捜索願を出しているのならば話は別ですけれども。捜索願も何も無かったらどうするんです」
「役所には一応届けてきたぞ」
「……そういうことを言っているのではなくて」
「酒場の親父にも一応言付けはたのんできたぞ」
「……そういうことを言っているのではなくて」
また溜息。
「なんだ、溜息ばっかりついてると幸せが逃げていくぞ」
「あのですね」
「それに、カークなら平気かなって思ってさ」
「わたし?」
「俺で経験済みだろ」
「……あのですね」
皺の寄る眉間に今度は指を当てて、カークは長々と息を吐く。
そう言われてしまえば、そうなのだけれど。
「カゼひいちまったら可哀そうだろ」
そう。ヒューの短絡的思考は結局その程度なのだ。
思わず納得しかけて、ああでも、「それ」と「これ」とはやっぱり話が違う気がする。割と忍耐強いカークの平常心のタガが、ぷるぷると震えて、いっそ怒鳴ってしまおうかと思い巡らせたとき、
「カーク無理!アタシ無理!」
わぁぁん。
ぐずりだした赤ん坊を扱いかねて、マルゥの方こそ泣き出しそうな顔で哀願される。
「パス!カークパス!」
放っておくと「パス」が本気で投げ出しかねない様子のマルゥに、思わず体が動いて、受け取りに行きかけたカークの肩をぽん、と背後からヒューが叩いた。
「カークならいけるって!」
「あのですね」
「名前考えないと不便だよな。……そうだな。これは、男か女か」
「男の子のようですね」
「じゃあボウズでいいか。ボウズ」
「……ヒュー……」
それがよくない所でも、悪い所でもあるのだけれど、まったくこの主人は本っ当に、何も考えていない。
地を這うような声をだし、それでも持て余したマルゥからボウズと名付けられた布包みを受け取る。これ以上何を言っても、うまい具合に話を躱される自信がカークにはあった。仕方がない。赤ん坊の行く末はあとで自分が考えなければいけない。
復旧しつつある都市のネットワークに侵入して、街をサーチするのが良いか、それとも役所とやらのデータ・バンクにアクセスしてしまうのが良いか。
思い巡らしつつ、胸に赤ん坊を受け取り、入浴の準備と食事の支度の算段を始める。
「カーク。喉乾いた」
「お茶は後です」
カークにしては珍しくきっぱりと言い切って、急いでシャワー室へと向かう。
「シャワー……」
「はい」
「俺も雨に濡れて寒いんだが」
「ヒューは風邪なりなんなりひいてください」
優先順位は赤ん坊だ。急に情けない顔をし始めた主を放置して、カークは赤ん坊をあやしつつ、ひそかにほくそ笑んだ。
これはこれで、十分仕返しができた気がする。
*
「ひどいです」
抗議は無視だ。いちいちまともに取り合っては限がない。
「カークさん」
帰ってきたそのままに濡れて震えるヒューを後回しにし、赤ん坊を先に温め、離乳食の準備をし始めた。くしゃみをしながらリビングで待っていたヒューは、カークと赤ん坊が出てくるや否や、シャワー室へと飛び込んでいた。寒かったのだろう。
シャワーから上がったら上がったで、大人しくなるかと思った主は、腹が空いた、喉が渇いたと赤ん坊に食べさせるカークの側で駄々をこね、カークはその全てをスルーしている。破天荒な主の側にいれば、なるほど妙に上がるスキルもあるものだ。
ちなみに名誉のために弁明しておくと、冷蔵庫の中に食べるものが一切入っていない訳ではないのだ。なにもカークの準備を待たずとも、適当に済ませてしまうことだってできる訳で、実際赤ん坊の世話が優先させるのだと気付いたマルゥは、さっさと自分の分を用意して食べてしまっている。
カークが一応は家事担当になっているものの、それぞれがそれぞれなりに家事はこなせるはずで、だからヒューがこうしてカークの側で愚痴を垂れなくても、それこそ作り置きの総菜が冷蔵庫には入っているし、茶はポットにあるのだから勝手に飲んだらいい。
「カークさん」
スプーンからこぼれ、即席のよだれかけに垂れたパンプティングの欠片を指ですくって、そのまま躊躇いもなくカークは自分の口へ入れる。
その昔に経験があるとはいえ、もう数十年も前のことではあったし、知識はともかく扱いを忘れてしまったと内心焦っていたのだが、こういう体で覚えたことと言うのは割と忘れずに染みついているものらしい。レシピを見ずとも薄く味付けした離乳食が出来上がり、赤ん坊を膝に乗せ、ひとくちずつ冷ましてやりながら口へと運ぶ。
ぐずるばかりで食べないのではないかと言うこともいらぬ心配で、膝に乗せたボウズは素直に口を開けてよく食べた。生後一年というところならば、本当は固形物の他にミルクでも与えたいところだけれど、赤ん坊用のミルクの買い置きはあるはずがなかったし、出すと言うのもこればかりはカークに土台無理な話なので、ボウズに我慢してもらうことにする。
後でミルクも買いに行かねばならないな。
思いながら最後のひとすくいを口に運んでやり、満足したボウズがふにゃりと笑うのへ微笑んで返す。
「お腹いっぱいになりましたか」
「カークさん」
「……はい。じゃあ、ゲップしましょうね」
肩越しにとんとんと背中を叩いてやると、すぐに小さな空気がボウズから漏れて、
「はい。ごちそうさまでした」
「……カークさん……」
次第に涙声になるヒューを一瞬、眺める。声にとどまらず涙目だ。喉も乾いているし腹も空いているのだろうけれど、それよりも自分に構われたいのだろうなとカークはちらりと思って、まるで母親だなと苦笑した。ヒューとマルゥ二人の面倒を見る母親役は、カークにはとても居心地のいいものであったことは事実だ。
「マスタ。……ねぇマスタ」
背後からちょいちょいとマルゥがヒューをつついて、どうやったって無理よ、となだめる声が聞こえる。
「別にボウズにカークを取られちゃったわけじゃないんだからさぁ」
「俺の……」
「ああしてると本当オクサマにしか見えないけど」
聞き捨てならない言葉を言われた気がして、ぴく、とカークの眉が上がる。もともと男女性別が設定されていない体は、確かに男くささを感じさせないものではあるから、子供を膝に乗せていればそう見えてしまうのも仕方がないのかもしれないけれど、
「産めばいいのに」
「産めません」
想定していた声がヒューから上がったので、即否定した。まったく自分を何だと思っているのだ。
抱えた赤ん坊が、体もあたたまり腹もくちくなって、小さく欠伸をした。今後どうするかはさておき、ひとまず自分のベッドに寝かせておこうと立ち上った背中に恨めしそうな視線を感じる。「もらった」だとか、そう言って自分で抱えてきたくせに、まったくもって主の思考は理解できない。
反応するとまたつかまりそうなので、恨めしそうな視線を受けたまま、カークはボウズを連れて自分の部屋へと向かった。
*
上掛けをかけてやって寝付くまで添い寝するはずが、すっかり昼寝としゃれ込んだ。目が覚めると夕刻を回っていて、慌ててカークは起き上がる。
ふわふわと乳臭い赤ん坊は、目を覚ます様子もなくぐっすり眠っており、これならしばらく側を離れても大丈夫そうだ。判断してカークは寝台を抜け、リビングへと入る。
自室へ戻ったらしいマルゥと、マルゥの代わりにソファに寝そべっているヒューを見止めた。結局、ひとりで遅い昼食を済ませたのかとキッチンの辛苦を覗いてみれば、そこは綺麗に片付いたままになっており、どうやら食べずに不貞寝したものらしい。どこまで子供なのだ、と半ばあきれる。それでも寝ている内は静かだろうと、起こさないようにそっと、リビングの隅に設えたコンピューター群の前へと陣取る。適当にまとめて括っていたプラグの先端を指で押さえ、それからカークはその先端を自分の右首筋に差し入れた。
痛そう、と毎度みるたびにマルゥが顔をしかめるその突き刺す行為は、カークからしてみれば慣れたもので、痛みは些細なものだ。それよりも突き刺した瞬間、都市サーバーとのアクセスやコンピューターの立ち上げ時間、そう言ったもののどうしようもなく猥雑に流れ込んでくる、まとめられていない情報の方が、よほどこたえる。たとえるなら、しゃがんだ後に不意に立ち上がった立ちくらみ。
一瞬目を閉じてやり過ごし、それからいきなりに網膜内にネットワークが広がる感覚。目を開けると実際に見えている視界とアクセス解析している脳内の映像が視神経を半分通っており、それが奇妙に入り混じってぼやけている感じだ。
まず最初に、ヒューが捜索願を出したのだと言う役所のサイトへ裏から侵入する。表の情報はどうせ「害のない」、ものであったからアクセスするだけ無駄と踏んだ。もともと管理者として製造されたカークは、都市部すべてのネットワークへの侵入を、数秒かからずにやってのける。そうした知識や技術にたけていると言うこともあるのだけれど、コンピューターの方で彼の侵入を侵入とみなさないのだ。そういう風に「設定」されている。
現在使われている都市部のネットワークは、以前のP-C-Cに比べるとひどく稚拙なものであったし、そもそも以前のP-C-Cの技術をそのまま転用して使用しているようなものだったから、カークの侵入は相変わらず容易だ。
役所のデータは思った通りに大したものは無くて、判っていたこととはいえカークは溜息を吐いた。どうしようか。これが以前のP-C-Cであるなら、D-LLと同じように、居住するすべての人間に識別番号が与えられていたため、その住所や現在の行動を特定することがかなり簡単に行えたのだけれど、中央管理塔が壊れた今、人間は勝手にしぶとく生きており、その動きを把握することは流石のカークにもできない。あとは、ヒューを頼りに、それぞれの区画に設置され今もまだ「生きている」監視アイの映像を見てもらって、その中に運良くヒューにボウズを渡したと言う女性が映っているのを確認するしか、
ない――か。
いらないデータを閉じながら、監視アイに接続しかけて――、ふと、カークは既視感に襲われて叩きかけたキーの指を止める。
なんだろう、これは。
言ってみれば静まり返った森の中、息をひそめて吐き出した呼気。
その吐き出された呼気の僅かひとつに、慣れ親しんだ「におい」がする。
完全デジタルの世界において「におい」という表現もおかしなものだけれど、その時カークにはそうとしか表現が出来なくて、
――これは。
Enterキーの上の薬指が震えた。
こんなものを今まで感じたことは無い。
少なくとも、中央管理塔のなくなってからこっち十年は。
忌々しくいとわしい、体に染みついた消毒薬のような、だのに何故か嗅ぎ慣れた安心するその「におい」。
おもむろに立ち上がり、思わず体が外へと向かう。確かめずにはいられなかった。
無意識に靴を履いたところで、ボウズのことを思い出した。いけない。放っておいて一人で行くことはできない。止まった動作に覆いかぶさるように、
「行って来いよ」
言われて弾かれたようにカークは振り向いた。いつの間に起きていたのか、ソファの上から静かな目でヒューがカークを眺めていた。そんなことにも気づかなかった。それ程盲目的に、自分は火に惹かれる夜虫のように、ふらふらと足を運んでいた。
「ヒュー」
応えた声は我ながら困惑していて、思わず首を傾ける。本意ではないのだ、そう言いたかったのに言葉が出ない。
「カーク」
「……」
「カーク」
「はい」
二度呼ばれて答えた。
「憑かれた目だなァ」
「わたし――が?」
「そんな目を前に見たな……」
頭を掻いて本格的に起き上がったヒューが、起き掛けのかすれた声で小さく苦笑した。しかたのない。言外に言われた気がして、胸が痛い。
「用事が、出来たんだろ」
何か察しているのか、それとも判っていないふりをしているのか、起動したまま、放り出したままのプラグをヒューは眺めて、ぼつ、と呟く。
こんな時の主は怖い。普段の突拍子もない、こちらを戸惑い掻き回すなりはひそめて、ただ静かにカークを眺める時の主は怖い。
全てを見透かしているような気がする。
言葉や知識や――そうしたものがなくても、ヒューはきっと直感だけで「わかって」しまうのだと思った。
動物的なものだ。
「……間男のところに送り出す心境だな」
「……」
「カーク」
「はい」
「俺は昼飯を食ってない」
「はい」
「腹が減った」
「……はい」
急に何を言い出すのかと瞬いたカークに、ヒューがにやりと笑って見せる。
「ボウズの面倒は見ててやるから、帰ってきたら、たらふく飯を食わせてくれ」
俺の好きなメニューで。
言われて胸が痛くなった。彼はほとんど理解しているのだろうなと思った。はい、と顔をそむけて頷いて、それから脱ぎ掛けた靴をもう一度履きなおす。外はもう日が暮れている。治安のよろしくはない都心へ、暗くなった今から向かうのは正直気がひけるが、それよりも心をざわつかせる「それ」の元が気になった。
ごめんなさい。
とカークは言った。「それ」に向かう自分は、主を裏切っている気がしたので。聞いたヒューがおかしそうに目を細めるのが見えた。
*
このあたり、だったはずなのだけれど。
瓦礫を掻き分けてカークは辺りを見回した。
見つからない。嘆息したはずみに、呼気が白々と夜へ立ちのぼる。勢い込んで探しに出たは良いけれど、それが単に自分の勘違いだった可能性も否定できなくて、けれど何かに駆り立てられるようにこうして中央部へ来てしまった。管理塔が爆発崩壊した時に、一番被害が大きかった地域だ。
――ここのどこかに、あのひと、の、気配がした。
ぞく、と身を震わせる。どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。
足を踏み入れることが禁忌だった。
確かに自分は管理者として製造され、教育されてきたけれど、それは自分の望むところではなかったし、長じては自分の存在意義に疑問を抱いた。逃げたくて仕方がなかった。あの人が嫌で仕方がなくて、束縛を解いてその手から離れた。そうして行き着いたのは束の間の安楽で、そこでカークはヒューと出会った。
その安楽の地を砕いたのもあの人だった。
思い出しても悲しいものでしかない。何より大切にしていた少年は、目の前で目を抉られ、血を噴き出して倒れていた。自分を連れ出した男は、文字通り蒸発して消えた。
あの人を憎んで、殺してしまいたいほど苦しんで、そうして最後は見ないふりをして――狂ったあの人を止める術をカークは持たなかった。
中央管理塔が崩壊した時に、カークはヒューを失ってひどく悲しかったけれど――、そのどこかで安心してもいたのだった。あの人は消えた。師であったD-LLと共に掻き消えた。
これでわたしは「あなた」からようやく解放される。
だのにどうしてこんな夜半に、まるで答えを求めるように、むき出しの煤けたコンピューターからあの人の「におい」を探しているのか。
あなたは、わたしの主人の命を狙って。
あなたは、わたしの人生の全てを支配しようとして。
そうして、あなたは。
ああ。
調節されていない電流が走ったように、体が強張るのが判った。
見つけてしまった。
踏み込んだ管理区の、壁面に打ち付けられでもしたのか、そのほとんどの原型をとどめずただ綺麗な顔だけを覗かせて、それは、
「――博士」
見つけてしまった。
眠っている、と思ったけれど、それはもうとっくに機能を無くした残骸だった。
白い糸の繭に埋もれて、首から上だけになったD-LLが、積もった塵と埃に汚れ、それでも静かに眠っていた。
近付いてみると、繭と思った糸の束は、無数の、一体いくらあるのか判らないほどの、細いケーブルなのだった。
このケーブルは――先生、の。
おかしな具合に足が震えて、満足に立って眺めることもできずに、思わずカークは壁を掴んだ。つかみながら、視界がまたぶれるのを感じた。
「博士」
十年一度も脳裏から拭えぬ顔だった。人間を管理することを思いついてしまった、相手のはずだった。じわじわと人間の活力を浸食し、生き死にまでも管理しようとした最低最悪の相手だった。
――為しなさい。
声高に震えた高音が、自分を酷く貫いたはずだった。
憎んで、憎んで、憎んで――、
「はかせ」
あいたかった。
どうしようもなく。
呼んだ頬につ、と流れる滴を感じるのもそのままに、カークはレンブラントであったものの残骸へと手を伸ばす。それはもう冷え切っていて動かない。人間であるゆえに人間を忌み、己自身をもD-LLへと改造してしまった体は腐れ果てることなく、静かに管理塔とともに、あの日から眠っていたのだった。手を伸ばし、触れたレンブラントは何も語らない。もう何も。
「博士」
ここには誰も咎めるものなどいない。
「博士」
そっと額を寄せた。冷たさが合わせた額から伝わってくる。涙がまた勝手にこぼれた。
どうして。
どうしてこれほど哀しい。
もう気も遠くなるような昔――間違ったものではあったけれど、確かに愛してくれたであろう相手のために――カークは邪魔されることなく、顔を寄せ、一人偲び泣いた。
とめどなく溢れた涙もいつしか止まり、泣きつかれ、うとうととしてはまたはっと我に返る。寄せた亡骸の冷たさに涙を誘われ、抱き寄せてはまた眠りの隙間へと落ちる。
このまま、遺物として、師であったものと死であったものを抱いて、一緒に眠り落ちてしまいたいような衝動も、なかったと言えば嘘になるけれど、そうしてはいけないと頭の片隅で誰かが囁いていた。
きっとそれは、ゴスペルでありレンブラントであるところの遺志。
そうした仕草を何十回と繰り返し、ようやく満足してカークはゆっくりと顔を上げた。どのくらい時間が経ったのかとようやく現実感を取り戻す。
――帰らないと。
家へ帰ろう。
胸に抱いていたケーブルとD-LLの欠片を、脇に置き、瓦礫を乱暴にかき寄せた。墓はいらないと思った。こうして管理塔の残骸と共に埋めてしまって、数百年かけて朽ちてゆくのが一番「らしい」と思った。
適当な深さに掘り、まずレンブラントの頭脳メモリチップを抜き取る。小さな二つの指で挟んでしまえるそれに、彼の生涯成してきたこと全てが刻まれている。少しの逡巡のあと、手のひらで力任せに握りしめた。ぺき、だとか儚い音がして、レンブラントのすべてが砕かれる。これで万一の悪用もないと思った。そうして穴の中へ、そっと二人と砕けたチップを入れる。もう来ることは無いと思う。しがみついていた自分の未練と一緒に、ここへ埋めて行こうと思った。
かき寄せた細い鉄骨だの電線だの、何の破片か判らない屑鉄を、ふたりの上へ被せる時だけ、胸がうずいた。
「困りました」
せんせい。はかせ。
「もう流し尽くしたと思ったのに――、まだ未練があります」
頬に苦笑いが浮かぶ。
「おいてゆきたくないです」
破片を持って帰ってしまおうか。
呟きながら、ひと思いに断ち切るように、瓦礫をかぶせる。二人の残骸はたちまち見えなくなって、どこかほっとしたような、何かがぽっかり抜けたような、おかしなすがすがしさだけが残った。
それでいいのだと思う。その喪失感が、二人の持って行ってしまった分だ。立ち上り、ふと、
「カーク」
呼ばれてカークは振り向いた。星明りもない闇の中、ぼうと光る赤い二つの点。一瞬だけぎょっとしたものの、赤外線・アイを失くした眼球の代わりにはめ込んだヒューのものだとすぐに分かった。
「はい」
なんと答えていいものか、返事はしたものの言葉に詰まって押し黙ったカークへ、
「家で待っていようかと思ったんだが」
迎えにきちまったぞ。
どこか申し訳ないような、照れくさいような主に笑みを誘われて、カークはヒューに近付く。
「今――、」
「もう夜中過ぎだぜぇ?いくらなんでも半日以上の絶食は体に悪いっての。ボウズも起きたしな」
「ああ、ご飯を」
「食わせた。水も飲ませたしおむつも変えた。マルゥが遊んでやってる」
「ああ――、ありがとうございます」
「で。治安悪化の著しい夜中に、綺麗なD-LLちゃんひとりほっつき歩かせるなんて、よほどマスタは頭が煮えているだとか、お前がさらわれて売られたら、明日からの掃除洗濯それにメシはどうするつもりだだとか、マルゥに説教されてだな」
どうするもこうするも、二人できっと路頭に迷う。
ちら、とカークの顔を眺めて泣いていたのか、とヒューは気まずそうに尋ねてきた。見てはいけなかったかな、だとかそう思うなら口にしなければいいのに、全く気が利かない割に、たまにこうした不器用な気の使い方をする。
「ええ、少し、その――」
「お前のことを泣かすなんてとんでもない間男だって、ぶん殴ってやろうかと意気込んできたんだがな」
思い出には勝てねェなぁ。
「間男って何です」
「そういう気分だったって俺は言いたいの」
がりがりと頭を掻きながら背を向ける主に、もう一度笑みを誘われて、カークは足早についてゆく。
「だけどな、カーク」
背中越しにヒューが呟いた。
「はい」
「『俺のだ』かんな」
お前は。言外に言われて思わずカークは赤面した。臆面もなく言える自信に尊敬を抱く。けれどそれから続けて、
「ちなみに、ボウズにもやんねェぞ」
「……ヒュー……」
胸を張って言い切るヒューに呆れた声が出た。
ああ、かなわない。
「まったく」
半笑いになって溜息を吐くと、あ、だとかヒューの声がする。
「そういやボウズで思い出したが、役所から通信が入ってきてな」
「ボウズの……」
「福祉課に名乗り出た若いおねぇチャンがいるって連絡で」
「あの子の――親が見つかりましたか」
ほっとした気分になって、カークが尋ねると返事が戻ってくる。
「おねぇチャンはまだ18歳でな。ロクでもない男に捨てられて、シングルマザーで食いブチに困って、家もないお金もない、いっそ心中しちまおうかって思ったんだとよ。でもやっぱり子供だけはって困ってたら俺が通りかかって、思わず弾みで渡したと」
「あの子は大切にされていたと思いますよ」
そうでなければ、あんなに無防備に笑わない。発育に問題は無かったし、着るものも綺麗なものを着せてもらっていた。
「母親はきっと一生懸命育てたのでしょう」
「雨の中一晩濡れて歩いて、やっぱり母子で生きて行こうと反省したんだと。で、名乗り出たところに、きちんと届け出を出していた俺の申請書が見つかったって訳だどうだえらいだろう」
「……何がえらいのか判らないと言うか、それが普通の対応と思いますが……」
「えらいだろう」
「……。……」
「えらいだろう?」
「えらいですね」
オウム返しに言ってやると、嬉しそうにヒューが笑った。
それもまた無防備な笑いだ。
誰が育てたのか、だとかは考えないことにした。
「ところでよく役所が、そこまでの事情をかいつまんで説明してくれましたね」
機密保持と言うよりは読んで字の如しのお役所仕事、を行う面々は、そこまで懇切丁寧に、ただの一般市民であるヒューへ対応してくれるものだろうか。
ふと抱いた疑問を口にすると、だってよ、と主は答える。
「いるもん」
「――は?」
「いるんだもん」
「何がですか」
「ウチの部屋に。おねぇチャンと、ボウズ」
役所で赤ん坊を引き渡しにいったついでに、連れて帰ってきたと言うことなのだろう。状況が一瞬で再生されて、思わず頭を抱えたカークだ。
何気なしにさらっと聞き流してしまった言葉も理解できる。
どうしてすぐに気付かなかったのか。家にマルゥとボウズ二人だけを置いて、果たしてマルゥが赤ん坊と留守番ができるかどうかと言えば、微妙なところだ。食事のさせ方も、おむつの替え方も、まったくのど素人二人がやろうとすれば出来るのかもしれないが――割かしひどいことになるのは明白で、けれど手慣れた母親がいれば何の問題もない。考えなくとも判ることだった。
「どうするつもりなんです」
「生きてく決意したって、何もないのは変わってないだろ。しばらく生活が安定するまでウチで暮らせよって、俺とマルゥの満場の一致」
「――なるほど」
「俺別にリビングで寝るの構わないし、部屋は俺んトコ使っていいし」
「わたしの部屋をどうぞ」
即答してしまった。
「カークの?なんで?……俺のトコだめか?」
「駄目と言うかなんというか明らかに駄目です」
「なんでだよ?」
「いろいろとカオスです」
片付ける、と言う癖が一切ないヒューの部屋は、たまにカークがテコ入れする程度では整頓どころか何がどこにあるのか、判らない状態で、そこへもって飲みかけのカップだの缶だのタバコの吸い殻だの、あっちこっちに林立している。まだ着れると言い張って洗濯しない洋服の山は地層が出来ている。ありえない。本人だけは何がどこにあるのか把握していると言うのがもっとありえない。
あんなところに若い女性と乳幼児を押し込むだとか、
「嫌がらせ以外のなにものでもないです。母親と子供が変な病気になります。確実に」
「まぁたまにキノコ生えてたり、二か月前のコーヒーにタラコ浮いてたりするけどな」
「わたしの部屋にしてください」
きっぱりと言った。
タラコじゃない。絶対に。
そんな会話を重ねるうちに、いつの間にか中央塔よりかなり離れたことにカークは今更ながらに気が付いた。暗闇に埋もれてしまった中央塔の残骸は今はもう見えない。開き直った気になって、カークは一つ深呼吸する。しんみりとした気持ちも、こうして日常のどうでも良いことに結局埋もれてしまうのだ。
それでいいとまた思った。そんなどうでもいい日常が、今はとても大切だ。
「ヒュー」
「おう?」
「好きなものを作る約束、何が食べたいですか」
「パンプティング」
「……。それってさっきボウズが食べていたものですよね」
「俺も食いたいです」
「肉だの魚だのは」
「パンプティングがいいのです」
「もっと別のものでも、」
「それがいいです」
「……そうですか」
(20110402)
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最終更新:2011年07月28日 08:01