<<それじゃあ、バイバイ。>>
「御渡りをお待ちいたしております」
開口一番告げられた。
珍しくまだ日のある時間に、アウグスタ補佐とセヴィニア補佐が、そろってエスタッド皇の執務室を訪れた。珍しいなと思うとともに、後宮の部屋をいくつか改装したのでいずれ訪れを、と不躾に報告されて小さく眉をひそめる。セヴィニアに言われた意味が、判らなかった訳ではなくて、事後承諾の形を取られたことが気に入らなかっただけだ。
「――どういうことかな」
聞き返していた。低い声になった自覚はある。
「皇帝ともあろう御方が、いつまでも御一人身では体裁が整いませぬ故」
「君に小姑になってほしいと頼んだ覚えは、私にはないが」
ペンを走らせていた手を止めて、掬い上げるように睨めつける。小憎らしいことに対したセヴィニアは動じない。動じるだけの思いやりだとかやさしさだとか言うものは、きっとお互いに一片も持っていないのだ。
後宮の部屋を改装した、とセヴィニアは言った。つまりそこに、幾人かは知らないが「そうした」役目の女を配置したと言うことだ。家柄がよく、見た目も美しく、男に傅き、決して逆らわない。世間一般で言うところの「側室」としての一定条件を、満たした上に更に審査で選考されてきたような、申し分のない女どもであったのだろうが、けれど頼んだ覚えはない。そうした女をはべらせる気もない。男にしてみれば余計な話だった。
数年前に、シュイリェから使節と言う形で訪れていた女はともかく、男が現エスタッド皇の座に就いてから今まで、身辺に花の香りの漂うことはなかった。現皇帝は体が弱い。事に及べば腹上死するのではないかと、近習辺りまで噂していることを男自身は知っていたし、訂正する気もなかった。試したこともない。そう思われていた方がよほど便利だ。
「側女を持つ気はないよ」
「持つ気が無かろうと構いませぬ。世間体の問題もございます」
「――世間体」
ひそめた眉をますます大きくさせて、苛々と皇帝は髪を掻き上げた。
「君が今さらに世間体を気にするとは思えないね」
「私はいたって普通に世論に怯える男にござりますれば」
「言ってくれる」
そうして溜息を吐き、並ぶアウグスタに目をやった。セヴィニアと違ってやや世渡りが不器用な男は、皇帝の視線に怯みはしなかったものの、どこか居心地悪そうな顔になる。
「アウグスタ。君もかね」
「陛下」
渋い顔をしてアウグスタが重い口を開いた。
「その……つまり、ですな」
「――判っている」
言葉を濁すアウグスタから、手元の書き散らしへ視線を移して、
「つまり君たちは、私が自室に『あれ』を置いているのが気に入らないと、そう言いたいのだろう」
単刀直入に皇帝は言った。自分がする分には何ら気にも留めないが、相手から回りくどいことされるのは嫌いだ。
「判っておられるなら話は早い」
手にした書類をつと差し出しながら、セヴィニアは上段から男へ斬り込む。
「今すぐにでも、暇を出すべきです」
「あれは君の姪御であったと、記憶しているが」
「私の姪であれば既に皇宮にはおりますまい」
言い切った。仮令本当にチャトラがセヴィニアの遠戚であったとしても、彼は平気で切り捨てるだろうと思わせる口ぶりだった。家族ですら手駒の一つに過ぎないと、表でも裏でも酷評されている男である。
「……警護の、問題もあるのです」
言葉が過ぎるぞと、態度で牽制しながら、今度はアウグスタが一歩前に出た。
「このひと月、皇宮内にて不審人物を捉えたのが三件。うち一件は娘への接近に成功しております。小脇に抱えられたところを警護のものが気付き、事なきを得ましたが」
「接近に――成功」
言われて男の視線が鋭いものになった。
ひと月。そんなことがあったことすら知らなかった。部屋に戻るといつでも猫は猫のままで、おかしな素振りを見せてはいなかった。接近というものがどの程度か想像で補うしかないが、それでも拉致されかけた事実を猫は男に隠していたと言うことになる。
――また我慢していたのだろうか。
「皇宮の警護は、君たちの管轄であったと記憶しているがね。宮内にそれだけの不審人物の侵入を許しておいて、何が警護か。笑わせてくれる。己の不手際を棚に上げて意見するとは、物事の順番と言うものが逆ではないかね」
男が思わず辛辣な口調になると、対するセヴィニアとアウグスタは、豪く慇懃に頭を下げて見せた。
「ごもっともにございます。しかし、御怒りを承知の上で、敢えて言わせていただきます。政に御執着は不必要かと思われます」
「足元を掬われると言いたいか。――私がそうした人間に見えると、そう言うことかな」
「……さて。今はまだ私どもの内、詮議の段階でございます。しかし今後そうした件が増えるとも限らないのです」
あれを放逐しろ、と。補佐官二人が厳しい顔になっている。女が必要ならば後宮を利用しろと、情愛の交歓のない無味無臭の女どもと褥を共にしろと、
「留意しておこう」
その生温かい肉の感触を思い出して、男は一気に不快になった。媚を含んだ視線を思い出す。吐き気がする。話を強引に打ち切って立ち上る。まだいくつか、今日中に仕上げなければいけない書類が残っていたなとちらと頭の隅で思ったけれど、知ったことかと投げ捨てた。補佐はそれも承知で、話を持ちかけてきたに違いないからだ。
慇懃に頭を下げる二人は、それ以上の用事もないらしい。一瞬だけ視線をやって、それから皇帝は執務室を後にした。
無表情の内にも不機嫌に退出した主を見送って、それからセヴィニアとアウグスタはどちらからともなく顔を上げる。
差し出したものの受け取ってもらえなかった書類を、本日片付けられるはずだった束の上に重ねて、それから何事もなかった態で、皇帝と同じように退出しようとしかけたセヴィニアを、アウグスタは背後から呼び止めた。
「……セヴィニア公」
「何か」
返った声は鋭い。かけられることも予想していたのだろうと思う。
「陛下に……、陛下の……、いや。……本当にこの方向でよいのか」
「この方向」
振り返ったセヴィニアは肩をそびやかして見せた。
「何を今さら」
「お嬢ちゃんが来てから、何も悪いことばかりだったわけでもあるまい。……確かに陛下は以前と比べると少し変わられた。だが、それは良い方の変化であったのではないかと俺は思う。御食事を召し上がられるようになったし、睡眠もとられる。この間の遠出の時は、いつお倒れになられるかとヒヤヒヤしたが、なんの、以前と比べて大分、丈夫になっておいでだ。この際、陛下の御健康を思、」
「御健康はどうとでもなる」
言葉は中途で遮られた。冷酷な視線は相変わらずだ。
「肝要なのは、屋台骨が揺るぐことのないよう、我々が支柱を差し込まなければならぬこと」
「お嬢ちゃんはいい子だろう」
感情の薄い視線に怯むことなく、大柄なアウグスタは眉根を曇らせる。三補佐の中でも皇宮内の担当する仕事の割り振りはあるもので、彼は全体の警護の報告を受ける立場にあった。実際現場を指揮するのは、護衛騎士団長であったり、側近のディクスだったりする訳なのだが、それらすべてを統括する、つまりは「何かあった時の責任者」的な役割にアウグスタは置かれている。
当然、皇宮内のあちらこちらよりさまざまな報告が入ってくるわけで、チャトラが拉致されかけただとか言う情報や、
「あそこまで自分の仕事に熱心なものがおるか。一生懸命、一つのことに打ち込めるものがおるか。泡だらけになって浴場を洗えるか。真っ赤に日焼けしながら剪定を手伝い、誰に言われるでもなく回廊を掃除し、木の上に引っかかった洗濯物を取りに行って、枝ごと折れても笑っていられるか」
あの子はどこの子なのだい。あの子は本当にいい子だ。
尋ねて回ると、実際に皇宮の生活を支える裾野の部分の人間が、口をそろえてチャトラのことをそう言う。一つ一つは、たいして褒められることでも、話題に上げることでもないのだ。だのに、チャトラを評するとき、聞いた誰もが嬉しそうに話す。
「良い、悪いで政治が務まると公は思っておられると言うなら、浅慮と返そう」
「政のことを持ち出すな。感情論を俺は言っておるのだ」
「感情で国は動かぬ」
「国を動かすのは人間だろう」
アウグスタに即座に切り替えされて、セヴィニアは一瞬言葉を失い、しばらくしてから苦笑いを浮かべた。
「埒が明かぬ。貴殿と私はいつもそこで対立する」
「セヴィニア」
公、とは敢えて呼ばずにアウグスタは苛立たしげな声を発した。
「陛下も人間であらせられる」
「判っている」
話は終わりにしたいとでも言うように、手を振り再び背中を向け扉に手をかけたセヴィニアが、
「公はここをどこと心得る。皇宮ぞ」
咎めるように最後にぽつ、と呟いた。
「皇宮に、良いものは要らぬ」
ここは魑魅魍魎の跋扈する世界であるから。弾かれたように顔を上げたアウグスタの目に、戸口をすり抜ける同僚の姿が最後に見えた。
「あれ……おかえり」
窓際で膝立ちになり、布きれを左右に持っていたチャトラが、少し驚いて振り向いた。何をしているのかと皇帝は目を細めて観察する。どうやら枠にはめられたガラスを磨いていたものらしい。
「昨日雨降っただろ。砂埃付いちゃってたから……どうよ、きれいになったろ」
入室して一瞬足を止めた男の視線の意味を、今の自分の恰好を問われているのだと解釈したらしい。言いながらまたガラスへはぁっと白い息を吹きかけて、手にした白布で擦り磨いた。それを眺めて思う。
猫は何も変わらない。多分最初から毛筋ひとつほども、その本分に変わりはない。すぐにむきになるところも、何にたいしても必死であるところも。では、と男は考え込む。変わったのは自分なのだろうか。補佐官どもが余計な気を回すほどに。がらんどうで小気味良いと思っていた後宮の部屋へ女を入れるほどに、
「明るいうちからアンタが帰ってくるとか。珍しいけどなんかあったの」
何も知らないチャトラが言った。
夕食を一緒に食べたいから待っていると、毎日部屋を出る時に声を掛けられ、三度に二度は深更に戻って反故にする。罪悪感はない。一人でもきっとうまそうに平らげているに違いなく、逆に男は食事の席に着くのが割と億劫だ。空腹感は確かにある。腹が減ったなと思うことだけは思うのだけれど、そうして目の前に出された何もかもがすべて、粘土のように味気ない。言うと笑われた。アンタ、疲れてるんだよ。そうして働きすぎなのだとも。自分でもそう思うが、では具体的にどうしたら、と考えるには至らない。面倒くさいからだ。
「なんか飲む」
言ってもう一度こちらを伺ったチャトラへ、男は不意に近付いてその体を引き寄せた。うわ、だとか小さく驚いた声を上げて、チャトラは窓枠から転がり落ちる。すっぽりと腕の中に納まる小さな体。
これを、手放せと言う。
「補佐どもから聞いたのだよ」
「補佐?……なにを?」
不思議そうに見上げてくる緑青。どこまでも透きとおったものならば成程作り物であると納得もするけれど、それはどこかくすんで濁っている。淵の深み。よどみの色だ。
「かどわかされかけたと――そう」
「……」
言われて困ったように八の字に眉尻を下げた顔が、アウグスタの言葉を裏打ちした。小脇に抱えられたと言っていた。この軽さなら、仮に暴れたとしても恐らく簡単なことだったろう。大したことはなかったんだよ、と言い訳のようにチャトラが歯切れ悪く呟いた。
「中庭歩いてたらなんか急に……」
「囲まれた?」
「いや、囲まれたって言うか、なんつーか……その。ちょっと」
「脅された?」
繰り返す男に慌てて、大したことはなかったんだよ、とチャトラはもう一度言った。口ごもる様子が言葉を裏切っている。脅されたのだろう。
哀れな、と思った。
それこそ物心つく前から、今現在の地位をある程度約束されていた男にとって、不意の襲撃は日常茶飯事だった。最初は怯えていたような記憶もあるけれど、そのうち億劫になった。人間、どんな刺激にもそのうち慣れてしまうものらしい。ぎらつく刃を向けられて襲い掛かられてきても、ああまたかと冷めた目で眺めていられるのは、鈍感になったと言おうか度胸がついたと言おうか、自分自身よく判らない。腕を切り落とされた時もそうだった。死ぬのだろうなとひどく冷たい霧のような思考が、脳裏を横切りはしたが、それで怖かったかと聞かれると、どうにもよく判らない。
しかし自分はともかく、チャトラはそうした状況にまるで慣れていない。小さな襲撃ですら、その動揺は見ていて大丈夫かと心配になるほどで、それを生来の強気と言うか負けん気で、はね除けているようなところがある。仕方がないとも思う。生きてきた世界があまりに違うのだ。
たぶん、彼女の人生での「死」と言うものは、飢えたり、寒さだったり、病によってもたらされるものなのだ。他人の意思によっていきなり断ち切られるような、そうした事故にも似た、けれど事故では決してありえない、
「――まだ――、日が高い」
考えを振り払いたくて、男は不意に話題を変えた。どうせ、怖かったかと聞けば怖くないと猫は答えるだろうし、何故言わなかったと聞いても、困ったように口を噤むのは目に見えている。そうして訪れる沈黙は嫌だった。
「あ?」
「この間、約束したろう」
「は?……約束?アンタと?」
振られた話題に付いていけなくて、チャトラが目を白黒させている。それを見て男はようやく強張っていた頬を緩めた。
「私の時間が欲しいと」
「え?時間?……ってあの。もしかして、こないだ言ってた、誕生日にほしいものとかの……アレか?」
冗談だろ。
探りを入れる目の色に変わるのがおかしい。
十日ほど前、裏庭の枝垂れ桜の木の下で、人目を避けるようにこっそりと、チャトラが一人宴会をしているところに乱入した。構ってほしくない瞬間にあえて近付き、無音の威嚇をされることが好きだ。誰に言っても悪趣味だと必ず顔を顰められるので、口には出さないが。
ほしいものが何かないかと尋ねると、しばらく悩んだ後に、男自身の時間が欲しいとからかうように口にされた。アンタ出来ないだろう?揶揄されていると言うよりは、すこしだけ諦観が混じっているようにも聞こえて、だから男は心が動いた。残念だがそれは無理だ、と切り捨てるのは容易かったのだけれど、
「行くよ」
「は?え?どこに?」
「支度をしなさい」
「今から?え、アンタ本気で言ってんの?」
言われている意味は判っても、それが本気かどうかチャトラには判らないらしい。
――いいや。
本当は判っているのだ。男がとっくにその気になっていることが判っていて、だのに判らないふりをしてなんとか事態を回避しようとする。小賢しいと言えば小賢しい。
「ちょ、ちょっと待てって。そもそも行くったって、どうやって行くつもりなんだよ」
「お前の抜け道を使う」
「ディクスさん一緒に引き連れてか?」
「彼には用事を言づけた。今日はもう戻らない」
つまり今、部屋の外に常駐する護衛兵以外、うるさい目付け役はいないのだ。言ってやると、あからさまにチャトラが狼狽えるのが判った。
「……んなこと言ったってどうやって部屋でるんだよ」
「窓から出ればいいだろう?」
指し示してやると窓へ顔を向け、数呼吸黙って考え込んでいるように見えた。見ていて面白い。できないから、実現不可能だと思っているから、彼女は黙り込んだわけではなくて、どうやったら男と一緒に皇宮を抜け出るかもう考え始めている。それが、手に取るように判る。顔に出る性分なのだろう。
「……判ったよ」
しばらくして、手筈が頭の中でまとまったのか、チャトラが溜息を吐いた。
「アンタに付き合う」
「それはありがたいね」
「けど、アンタどうやったって目立つんだから、せめて顔隠せ。せいいっぱい地味な格好にしろ」
言いながらてきぱきと準備を始めるチャトラを見て、男は低く忍び笑った。どうかしている。そうかもしれない。いくら補佐どもから諫言を食らったからと言って、腹いせに彼女を巻き込み、護衛を外して場外に出るなど、統主の行動としてとても思えない。
頭では判る。だのにそうしたい自分がいる。
そのまま外で、誰とも判らない相手にすれ違いざまに命を狙われたら、それはそれで楽しいかもしれない。そんなことを思い、そうなったらこれはまた泣くのだろうか、だとか考えても先のないことを思った。
そう、どうかしている。
*
もっと手こずるかと思った場外への脱出は、裏木戸あたりから割とあっさりと成功した。肩透かしにも近い。皇宮の警備は、入る方はともかく出る方はかなり楽だと、以前にダインと話していたような気もするが、本当にその通りのようだった。事が発覚した場合、もしかすると警護のものはものすごい勢いで責任を問われるかもしれないが、知ったことかと開き直る。自暴自棄になっているのかもしれない。
最初は困惑顔で、こちらを窺っていたチャトラも、皇宮が遠くなるにつれていつもの調子を取り戻しつつあるようだった。こちらもある種の開き直りをしたのかもしれない。既に膨らんだ金入れをひとつ、手にしている。見事なものだと褒めると不思議な顔をされた。
「そういえば、前から聞いてみたかったんだけどさ」
そんなことを言う。
「なにかな」
「アンタ、オレが掏摸だって知っても態度変わらなかったけど、なんか言おうとか思わなかったの」
「何か――とは」
言われた意味がよく判らなくて、男は首を傾げた。普段ならその動きで肩から胸へ流れるうっとおしい髪は、今は被った布の中に収まっている。
己の見た目に興味がまるでない男であっても、やはり市内でやれ皇帝だ何だと騒がれ囲まれることだけは避けたかったから、頭からすっぽりと薄布を被っていた。人目について連れ戻されることも面倒だ。
「だからさ。よく言うだろ。人さまの懐を狙うなんてとんでもないことだ、良くないことはやめろ、とか。そんなことしていると必ずそのうち罰が当たるぞ、とか」
「言ってほしかったのかな」
「まさか」
肩をすくめて苦笑いを返された。そんなこと、言われなくたって判ってる。
「でも、普通は言うだろ……実際オレが掏摸だって知ったヤツァみんな、そんなようなこと言ったし。それが当然だとも思ってるし」
「言われたいのなら言うが」
「だからそうじゃなくて」
「それに」
と男は言った。
「何を基準にして良くないことを決めるのだろうか」
思った通りに呟くと、ひゅ、とチャトラの喉が鳴った。驚いて息を飲んだのだと気が付いた。
「生まれてよりこの方――、飢えたことも凍えたこともない私が、何をもってお前を非難するのだね」
「……でも」
「責められるべきはどこにもない。前にも言ったかもしれぬが、お前は『そう』するしかなかったからそうしたのだろう。それに良しも悪しもない」
他人を批判できるほど、男は清廉潔白な人生を過ごしてきた覚えもない。よくよく眺めれば実に血塗れの人生だ。自分が生き延びるためには大抵のことは何でもやったし、そうしなければ自分は生きてはこられなかった。
そう思うことで己を保って生きてきた。
毒杯を握りしめ、仰向けになって玉座の上で冷たくなっていた、父と呼ぶべきだった先代。その盃を設えておくように指示したのはいったい誰か。公式記録には残らない。だから誰も知らない。そんな事象が思えば皇宮にはいくらでもある。
「とはいえ、統治していくのには一定の決まりごとがなければ、人間の集合体である街としての機能を果たさないのもまた確かだ。仮に、統治者としての私へ判断を求められたのだとしたら、相応の刑罰と言うものが必要なのだと答えるけれど、ここにいるのは一個人としての私でしかない。――であるので、ここだけの話であるが、個人的に私がお前の行為に対して好嫌を覚えることは――ないよ」
「……」
「――そうしてこれもここだけの話ではあるが、まず罪を問われるのだとしたら、お前ではなく、私が糾弾されるべきだと思うのだよ。ひと一人が生きて行くのに、『そう』するしかない状況に陥らせた政治責任は重い。その責任を転嫁して、声高に罪をなじる――、施政者としてあるまじき行為だ」
「……」
「それを言い出し始めたら、国なぞ統治できないと、頭の固い議会辺りには言われそうではあるがね。だから口にはしない。すべきではない。だが、個としての意見はそういうものなのだよ」
「……」
「それではいけないだろうか」
「……」
言葉を探しあぐねてしばらく口を噤んでいたチャトラが、アンタ変わってる。たっぷり間を開けた後に、ようやく絞り出した。
「そうか」
良く言われる。僅かに口の端を上げてみせると、本当に変わってる、繰り返したチャトラがふと通りの向こうへ目を転じた。
「でも」
「うん?」
「ありがと」
「――そうか」
それは彼女なりの照れ隠しであったのか、施政者としての自分への労わりであったのか、その一言だけでは男にはよく判らなかった。
それでよいと男は思う。そうして、その曖昧な言葉をもっと聞いてみたいとも思う。
「そういやあっち、仲見世が出てるんだよな」
「ほう」
「なんか食おうぜ?オレが奢ってやるから」
な。手にした金入れを指し示してチャトラがにやにやと笑う。痛み分け。共犯者に仕立て上げるつもりなのかもしれない。面白くなって、いいだろうと男は小さく頷いた。
(20100505)
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最終更新:2011年05月05日 22:28