*


 「それ、なに?」
  じっと男が見下ろしていた縁台に、屋台で串焼きを買ってきたチャトラが近寄ってきた。
  色とりどりの組み紐が、一本一本丁寧に台の上に並べられていて、それを男は眺めていたのだった。飾り紐?聞いた傍らの首筋をぐいと掴んで引き寄せる。彼女の首には細い皮の紐が結ばれており、その先に小鈴が結んであった。所有の証と主張するには小さいそれ。男が付けさせたものだ。
  皇宮のあちらこちらとせわしなく動く彼女に合わせて、ちりちりと涼やかな音を立てる。もしかすると空耳なのかもしれないけれど、どこか別の場所、別の部屋にいても、耳を澄ますと聞こえてくる時があった。そんな時、ふと執務の手を止めて音を探している自分がいる。また何かに首を突っ込んで大騒ぎしているのか。想像するだけで、どこか胸の片隅の部分が温かくなるような気がした。
  その革紐が、最近白茶けてきていることに気付いていた。そろそろ新しいものに変えた方がよいか、そんなことを思っていた。
  徐にこれをもらおうか、と並べられたうちの一つを指して、男は店主に声を掛ける。薄織物を目深に被り、じっと品物を見定めていた男に胡乱な視線を投げかけていた店主は、買うと知れた途端に愛想よく笑って見せた。現金なものだと思う。
  現金と言えば、皇宮で何不自由なく過ごしている皇帝に、持ち合わせと言うものはなかったけれど、城下にでてすぐに指輪の一つを金に換えた。それなりに良い品物であったはずなのに買い叩かれかけ、相場はそんなものかと引いた男に替わって、チャトラがしぶとく交渉した。しらを切っていた店主も、そのうち苦笑いをしてチャトラの言い値で良いと頷いた。おかげでかなりの額になった。
  受け取った組み紐を、男を見上げていたチャトラの首に当てる。
  古い皮ひもを解いて鈴を抜き取り、新しいものへと通す。ちり、と音を立てて収まったそれを、チャトラの首に改めて巻きつけた。巻き付けかけて少しだけ困ったなと思う。解くことは簡単にできても、片腕の男では結ぶのが難しい。見兼ねたのか、自分でやるよと後ろに回してくるチャトラの腕を軽くはね除けて、男は時間をかけて丁寧に紐を結んだ。
  結び終わると少し離れて眺める。
  抑えた紺地に、銀と朱の絹糸が木目細かく編み込まれているそれは、真っ直ぐに男を見上げてくる緑青色によく似合った。
 「ありがと」
  礼を述べたチャトラの顔が、嬉しそうで良いなと思った。
 「大事にする」
  真面目に答える様子を見て、そう言えば男が直にチャトラに何かものを贈る、という行為が初めてであることに気が付いた。と言うより、皇宮においてチャトラに限らず、誰かに何かを贈ったことはあったろうか。自問した。
  わざわざ男が気を揉まなくても、そうした役職のものに丸投げしておけば、だいたいチャトラが皇宮で生活していくのに必要なものは揃えられていたし、それでいいと思っていた。ものの本では、男が女に何かを贈ることに心を砕いたりだとか言う描写が出てくるので、そうした心持ちも頭では理解できる。出来るけれど、それを自分がするかどうかは別の話だ。そもそも贈りたい相手がいたためしがない。
  そうして、チャトラから差し出された串を、通りの脇の石段に二人で並んで座って食べた。ぶつ切りに切った豚肉を、濃い目のタレに絡めてじっくりと炙って焼き上げてある。仕上げにスパイスを振りかけたそれは、男が初めて食べるものだった。
 「うまいだろ」
  ここの店のはタレがうまいんだ、だとかどこか嬉しそうと言うか誇らしそうに教えてくれるチャトラの顔を見て、男はゆっくりと頷く。確かに美味い。適度に焦がされた表面からぷんと漂う炭の匂い。少し砂埃が立つ往来で食べるにその大柄な味はとても合う。ここの所また忙しくて、食事らしい食事もとっていなかった男にしてみれば、それは久しぶりのまともな食べ物だった。
  ナイフもフォークもない、串から直接噛み千切る食事と言うものも良いものだな、だとかのんびりと男は思い、いつの間にか苛立ちが消えていることに気が付いた。
 「アンタと、こんな風に歩いてるなんてなんか冗談みたいだ」
  先に食べ終わったチャトラが日が落ち暗くなった通りを眺めながらぽつ、と呟く。
 「絶対こんなこと出来なさそうな人種だよね」
 「そう見えるかね」
 「見えるも何も、そういうもんだろ」
 「そうか」
 「今でも半分、昼寝の中なんじゃねェのかなって思う」
 「残念ながら、現実だ」
  ちりちりと鳴る喉元をいじりながら、
 「アンタとさ」
  チャトラが男を見て言った。
 「うん――?」
 「アンタと見たい場所が本当はたくさんある」
  都で一番安いのに酒がうまい店。鳥の集まるパン工房の前の公園。午後になると噴水に虹がかかる、中央通りの石畳。赤茶の煉瓦に映える楡(にれ)の大木。生誕祭でにぎわう灯篭の掲げられた裏通り。
  指折り数えて、本当にいっぱいあるんだよとそんなことを言う。
 「アンタが治めてるエスタッドって国の、アンタが治めてる都ってすげェって思った。綺麗なんだ……そりゃもちろん、人間が住んでるんだから汚ねェところも悪ィ所も色々あるんだろうけど、でもやっぱり都はとっても綺麗だった。道が真っ直ぐだとか、建物の形とかそういうんじゃなくて……それもすごいことなんだろうけど、オレが言いたいのはそういうことじゃなくて」
  伝えたい言葉が見つからなくて、少し歯痒そうな顔をしたチャトラへ、男は静かに口を開いた。
 「そのひとつひとつを見せてもらいたいものだね」
 「……え?」
  今?
  驚いて見張っただろう薄暗がりの向こうの目に、そうじゃないと薄く笑って返す。目深にフードを被っているので、チャトラからは口元しか見えないだろうけれど、それで十分だろうと思った。
 「また次の時。――そうしてまた次の次の時」
  次、があるのだろうか。男はふと思う。もう少ししたら戻らなければならないことは判っていた。抜け出して二刻にはなる。男が皇宮内のどこにもいないと知れたら、大騒ぎになるに違いない。騒ぎになってしまえば、監視の目がますます厳しくなることは容易に想像ができるし、そうなっては男が今口にした「次」の機会も遠のいてしまう。だから、今すぐにでも腰を上げて大通りを戻り、何もなかった態で裏庭あたりから顔を出すのが良いと言うことは判っていた。
  夕日が沈み、夜の気配が忍び寄る通りで、けれどもう少しだけこうして黙って座っていたいと男は思った。特に会話することもなく、食べ終わった串を弄びながらただ、行き交う雑踏を眺めていたいと思った。
  その時、隣に並んだチャトラの体に、さざ波のような緊張が走った。見ていてはっきりと判る変化だったので、どうしたのかと男は小声で尋ねる。あのひと、と通りの一点を見ながら、チャトラが鋭い目になって囁いた。
 「あのひと、尾けられてる」
  言われて何気ない動作で同じ方角を見た。夕餉の買い出しをするもの、家路に急ぐもの、早くも少しばかりの酒精を入れてほろ酔い気分で練り歩くもの。雑踏の中、いったい彼女がどの人間を指したのか、男には判らなかった。
 「――どこへゆく」
  不意に動き出しかけた彼女の体を咄嗟に捕まえて、尋ねると助ける、と短い返事が返ってきた。
 「助ける――、」
 「赤んぼ抱えてる。見捨てられないだろ」
 「どうやって」
 「わかんねェ。場のノリで考える」
  アンタはここで待ってて、そう言いかける口を軽く手のひらで押さえて男も立ち上った。困ったように見上げてくる、頭一つ半分下の顔がある。
 「アンタついてくるつもりなのかよ」
 「一人より二人の方が何かと便利なのではないか」
 「……オレ、アンタが怪我でもしたら、たぶん各方面から相当な確率でブッ殺されるんだけど」
 「何、自分の身は自分で守れる」
 「どの口で言うんだよ」
  無駄口を叩いているように見えて、チャトラの視線は、捉えた女から目を離していない。本気で事を起こすつもりなのだな、と男も忍ばせた獲物の感触を確かめながら、
 「行くよ」
  言った。

                   *

  やめてくださいまし。
  女は小さく悲鳴を上げた。胸に抱いた赤ん坊を強く抱きしめる。
  路地裏で囲い込まれていた。
  どうしてこんなことに、だとか麻痺しかけた頭で思う。今日も何の変哲もない、ごく普通の一日だと思ったのに。
  朝早く、勤めに出る夫の弁当を作り、持たせて見送り、それから生まれてふた月の我が子をあやしながら、洗濯をし、掃除をし、買い物に出たのだった。夫が毎晩、飯の席でのんびりと傾けている果実酒の残りが、もう少なくなっていることに気付いたからだ。買い足すついでに夕飯の材料も見繕うつもりで、編み籠を持ってまず酒屋にむかった。
  通りに面して酒を販売している店先で、店の親父と世間話を交わしているあたりから、妙に首の後ろあたりにちりちりとした視線を感じた。嫌だな、と何となく思った。その後ぶらついたいくつかの店舗で、相変わらず嫌な視線が追ってくることをはっきりと認めて辺りを見回す。少し離れた馬止めに妙に下卑た顔付きの男が三人。何気ない態を装っているが、時折ちらりと自分へ視線を流していた。
  何の用か、と思う。
  もちろんその品のない破落戸(ごろつき)の中に見知った顔はなかったし、一瞬夫の仕事関連かとも思ってみたけれど、それにしても酔った視線に品がない。夫が家へ連れてくる同僚は、みなそれぞれにきちんとした身だしなみをしていたし、はきはきとした受け答えをするものが多かった。気持ちの良い人たちだ、と言うのが彼女のざっとまとめた感想で、それはいやな視線を投げかける男たちとは明らかに違う。
  男たちは、通りで一定以上彼女に近寄ってくることはなかった。なので、もしかすると自分の気のせいなのかもしれない、赤ん坊を抱えた母親の過剰な自己防衛心とでもいうものかもしれない、と理由を付けて納得させて、足早に我が家へ戻ろうとした。
  それがいけなかった。
  今になって思えば、店先の親父の誰でもいい、助けてだとか、何か一言救いを求めても良かったのだ。
  後から思い過ごしだと笑われようが、あすこの奥さんはやけに神経質でいけねぇ、だとか噂されようが、自衛すべきだったのだ。
  一瞬人通りの途切れた隙を突いて、一人が女の前に回った。ひやりとして方向転換しかけた背後に、やはり一人。少し離れて一人。嫌な予感にぎゅっと心臓を掴まれたようになりながら、追い込まれて路地裏へ足を踏み入れていた。逃げる余地のある空白が、そこにしかなかったからだ。
  一本隣の大通りには、都の警護に当たる者たちの宿舎がある。彼らにも任務と言うものはあるから、ほとんどの人間は出払っている。とは言え、あちらこちら行き来する中か、もしくは門前に数人、屯(たむろ)しているはずだった。そこへ辿り着きさえすれば、保護してもらえるだろう。
  一本向こうの通りへ、行けば。
  踏み入れて直ぐにはっと気づいて背後を向く。ここは駄目だ。一見通り抜けができるような間口の広さを見せておいて、袋小路の造りになっている。通り一本向こうにでるには、隣の細い通路でなければいけない。
  通路を押し塞ぐように、男の体が滑り込んできて、女は今更通りへ戻れないことを知った。路地の壁に背を当て、せめてもの気丈さで男たちを睨みつけながら青ざめる。
 「何のご用です」
  囲んだ今、絡みつくと言うよりは、べたつく視線を男たちは彼女へとはっきり向けてきながら、にやにやと笑う。
  男たちの目的が一体何であるのかが判らないのが怖かった。酔った勢いの体目的なのだろうか。金目もの目当ての強盗なのかそれとも。胸元に視線をちらと落とすと、息子はぐっすりと安心して眠っていて、咄嗟にこの子だけは守らなければ、と思った。
  でも、どうやって。
 「何のご用です」
  不安に泣きだしそうになりながら、女は自身を叱咤する。震える声は隠しようがなかったけれど、常に堂々とした夫の立ち姿を思い出して、少しだけ心強く思った。挑むように男の一人を見据えてやる。その視線が気に食わなかったのか、僅か顎を引いた男が、口元を歪めて彼女へ向けて腕を伸ばしてきた。どうか、我が子だけは。
  無意識に庇い、背を向けた女の耳に、がっ、だとかばき、とだとか力任せに鈍器を投げつけたような妙にくぐもった音が飛び込んで、
 「……にしやがるこの糞ガキ!」
  思わずきつく瞑っていた目を開いて、彼女は振り返った。
  遅れてじゃりじゃりと耳慣れた――貨幣が大量に道に転がる音――が聞こえてこんな時だというのに、誰かが小銭でもぶちまけたのだろうかと好奇心をくすぐられて下へ目をやる。驚くほど大量の銀貨や銅貨が、もったりと大きな金入れからこぼれて散らばっており、男が一人白目をむいて悶絶していた。随分大きな音がしたから。そう女は思う。それから、その向こうに悔しそうだとか怒っていると言うよりは、何だか泣きだしそうな顔をした少年が一人立っていた。こういった状況に颯爽と現れた英雄にしては、情けない顔をしていると言うのが、彼女の正直な感想だ。
  勿体ねェ、と少年は言った。
 「いい獲物だったのに」
 「――物は使いようと言うだろう」
  涼やかな声が続いて、目深に織物を被った長身が、少年の脇に現れた。少年と並んで頭一つ半は高い。声の調子からして男だとは思うのだが、それにしてはゆらゆらと頼りなく細かった。身長だけで比べれば彼女の夫と同程度。ただ、安定感と言うか横幅、例えば隣の少年が思い切り当て身でも食らわせたとしたら、簡単に長身はよろめくのではないか。
  そんなことを思った。
  そうして女が場違いに感想を抱いている間、仲間の一人を転がされて頭に来たらしい破落戸の残り二人が、拳を固めて少年と長身に襲い掛かる。うわ、と首をすくめて間一髪身を躱した少年は、なるほど確かに身のこなし生来のものであるように見えたが、だからと言って男二人に、その身軽さだけで対応しきれるとは到底彼女には思えなかった。
  長身の方は、泰然と佇んだままである。与し易しと判断されたのだろう、小さい方を掴みかけてかわされ、よろめかされた男たちが、次はこいつとばかり歯を剝きだしてその長身へ腕を伸ばすのへ、
 「へぇ……見た目よか案外金持ってるんだな」
  挑むような声が、二人と女の背後から投げかけられる。なんだと振り向いた男たちに、少年がこれ見よがしに掲げてみせる二つの金袋。二人が慌てて己の懐をまさぐった。
 「てめェ……!」
  怒声。少年が男たちからすれ違いざまに掏ったのだと、女は気付いた。
  ――見えなかった。
  掏摸なのだ。驚きに目を見張る。確かに自分は今、瞬きもせずに、掴みかかった破落戸どもと掴みかかられ慌てた様子の少年を眺めていたはずで、もちろん彼の腕の動きを特別注視していた訳ではないけれど、それにしてもこうまで気が付かぬものなのかと感心した。
  気が付かないと言うよりは気が付けないと言うのかもしれない。そんな風に思う。それが手練手管(そう言うものあるものかどうかは判らないが、)の上手下手の線引きなのかもしれない。
  感心する女を襲っていたことなどすっかり頭から離れた態で、破落戸二人は唸り声をあげ、頭から首のあたりまで真っ赤になりながら、完全に標的を少年に移し替える。
  庇ったのだ、と女は思った。
  一見すると、酔いどれ三人に絡まれた女自身を、少年は引きつけたともいえる。けれど渦中にありながら、つい第三視点で眺めてしまった彼女には、このなよやかな男から酔いどれどもの意識を逸らすために、少年が挑発したさまがはっきりと判ってしまった。
  手にした一つの金入れを、少年は高々と宙に投げ、それからくるりと踵を返して表通りへ走り始めた。待てこら、とありきたりの怒声を上げて男二人がそれへ続く。今しがたまで自分たちが何をしていたのか忘れてしまう程度の、頭の足りない連中だったに違いない。
 「――こちらへ」
  それでも思わず呆気にとられた女の腕を引いて、長身の男が囁いた。
 「あの、……あの、お連れさまは、」
 「貴女の家へまず向かおう」
 「……私の?」
  私を知っておられるのですかと、問うた声に返事はなかった。ただ、すっぽりと被った薄布から覗いた薄い唇に見覚えがあるようなないような、よく判らない。顔が見えないので、もしかするとこの男と面識はあるのかもしれないが、先程のすばしこそうな少年は明らかに初対面だと思う。
  進もうとした女の体が、裾を引かれてつんのめる。驚いて振り返ると、泡を吹いていたはずの男がいつの間にか立ち上がり、剣呑な面構えで構えていた。ひ、とわななく彼女の前に滑り出るように長身は立ち、こちらも文字通りの目にもとまらぬ早業で、どこからか取り出した短刀を男の首筋の上に容赦なく当てていた。迷いなく頸動脈の上である。
 「邪魔をするな。――去ね」
  長身の殺気は間違いなく本物で、頭の足りない大男にもそれは十分伝わったのだろう。両手を上げ、ずるずると壁伝いに這い進むと、凍りついたまま路地奥へ尻餅をつく。腰が抜けたらしい。
 「さあ」
  促されるままに、半分頭が痺れた状態で、彼女は赤ん坊を抱えなおす。もしかして悪い夢でも見ているのかと思った。我が子の顔を覗き込むと、騒ぎに目も覚まさずぐっすりと眠っている。
 「――良い子だ」
  彼女の視線を追って同じように腕の中を覗いた男が、つと口の端を上げる。
 「豪気」
  褒め言葉だったのだろう。ありがとうございますと、女は思わず呟いていた。

                   *

  脇に並んで歩く男は、一体どこの何者なんだろう、と家に近付くにつれてようやく女に警戒心が沸き起こる。本当だったらもっと早くに起こって良いものなのだろうけれど、事前の破落戸どもに囲まれたことで、そうした常識的な警戒心がおよそ麻痺していた。
  長身と少年が、無害を示すものはどこにもなくて、ただ彼らはあの状況から救ってくれただけだ。ひねくれた見方をすれば、もしかするとこうして女に近付くために破落戸どもをけしかけたと言う可能性も否定できない訳で、やすやすと信用した自分が少しだけ恨めしい。
  どうしたものかと脇の男をちらりと見やる。視線の意味はとっくに判っていたのだろう、
 「……気になるか」
  前を向いたまま男が歌うように呟いた。薄布を目深に被っているので、下から見上げた彼女にも男のはっきりとした容姿は伺えない。ただ、えらく整った顔立ちをしていることは確かなようだった。それと、身に着けている絹物が乱雑に組まれているようで、実際街中でなかなか目にしないほどの高級品だと言うことにも、彼女は気が付いた。
 「は――はい」
  身分を隠した貴族の何某かが、忍んでそぞろ歩きでもしているのだろうか。
 「だいたい、合っている」
  考えが顔に出たのか、それとも読心術でもあるのか、長身は彼女が口にする前にゆっくりと頷いた。答えにぎょっとする。ぎょっとした彼女を見て、少しだけ男が薄絹をずらした。垣間見えた白皙に、あ。女の口から声が零れる。あまりに綺麗な顔だったので。
 「覚えておられるかな」
 「あ……え、」
  判らない、とは言えなかった。どこかで確かにまみえた顔だと思う。いや、絶対に知っていると言い切れる。一度目にしたら忘れられないほど印象深い顔であったし、彼女の知り合いに、ここまでの容姿の人間はそうそういない。だからすぐにでも名前が出てきて良いはずなのに、女は男の名前を思い出すことができないのだった。

 「ああもう、勝手に行くなよ」

  不意に後ろから声がかけられて、少年が走り寄る。破落戸を引きつれて走って行ったはずの背中の後ろに、二人の影は見当たらない。
 「迷子になったかと思っただろ」
 「守備は」
 「上々、とか言うんだっけこういう時。アイツ等ちょっとからかったら、頭に血が上りすぎてなーんも見えなくなって、だからそのまま兵舎に飛び込んでやった」
 「……兵舎に」
  会話を端聞いて、女は目を見張る。実際に見た訳ではないのに、何故かその光景が容易に思い浮かべることができた。
 「そうそう。すげェ形相で追っかけてくんだぜ。食われそうな勢いだったな、あれは」
 「大丈夫だったのですか」
 「うん。警護兵が何人かヒマそうに突っ立ってやがったから、ちょっと演技して、たすけてーとか叫んで、突っ込んでやった」
 「まぁ」
 「仕事を与えてやって彼らも救われたろう」
 「どんなもんなんだろうな。やたら張り切ってお縄にしてたけどな」
  な。
  女に目を向けて少年は人懐こい笑みを浮かべた。ほとんど表情の動かない長身に比べて、こちらはくるくると実に目まぐるしく色が変わる。つられて女は思わず微笑んだ。得体の知れなさでは少年も長身の男も大した違いはないが、少年は明らかに邪気がない。
 「お怪我は、無いのですか」
 「ん?オレ?ないない。……でも」
  でもあの金入れはもったいなかったな、と肩を落として少年は呟いた。
 「……久しぶりの大物だったのに」
 「あの。……お尋ねしても、よろしいでしょうか」
  がっくりと項垂れている少年に、女は尋ねた。長身の男は、会話を交わすにはどうにも人間離れしすぎて、どうにも会話がしにくい。その点少年は親しみやすいと言うか、つまりは「人並み」に見えたので、聞く方も気が楽だ。
  疾うに自宅の前に着いていたけれど、このまま素性の知れない人間を家に上げる訳にもいかず、しかし本当に窮地を救ってくれた人間であるならば、相応の形を取るべきだと思った。
 「どうして私を助けて下さったのですか」
 「……どうしてって」
  聞かれた少年が、初めて困ったように首を傾げた。ちり、と喉元に結わえた鈴が小さな音を立てる。音に釣られて目をやった女は、そこで目の前の恩人が、少年ではなく少女なのだとようやく気が付いた。鈴の下の首筋は、男のものにしてはあまりに滑らかだったからだ。喉仏が見当たらなかった。
 「アンタが、母さんだったから、じゃ理由にならない、かな」
  つっかえながら答えた娘に、聞いた女の方も困惑する。
 「母……ですか」
 「女と子供は大事にしろってオレは思ってるから。赤んぼ抱っこしてる母さんなんか、一番に大事にしないといけない相手だろ」
 「……けれど」
  それだけで見ず知らずの自分を助ける理由になるのだろうか。
 「――助ける理由になるのだよ」
  互いに戸惑った女と娘の助け船を出すように、それまで面白そうに眺めていた長身が口を挟む。
 「少なくとも、『これ』にとっては十分に理由になるのだろうよ」
  説明されていたはずなのに、はあ、と彼女は頷けはしなかった。体が反射的に硬直する。男の言葉は上滑りしただけで頭の中まで染み入ってはこなかった。唐突に、目の前の長身の声の正体に思い当たったからだ。
 「貴方さま……」
  まさか、と思った。どうしてこんな時間、こんな場所に。
 「……陛下。皇帝陛下……!」
  ぎゅうと抱きしめる力がこもったものか、それまでおとなしく眠っていた胸の中の赤ん坊が、急にむずかり始めた。ああ、と慌てて娘が赤ん坊を覗き込む。
 「オイこの莫迦!脅かすなよアンタ。赤んぼ泣いちまったじゃねェか」
  だいじょうぶ、なにも怖くないよと赤ん坊に語りかける娘の背後で、長身の男がうっすらと笑むのが見えた。そうだ。どうしてその笑みを見た時に、すぐに気付かなかったのだろう。その実決して笑っていないのに、表面だけ取り繕って笑って「見せる」男。一番表層の薄皮一枚動かして、相手を無意識に魅了しようとする男。
 「久しいね、――ディクス夫人」
  エスタッド皇帝はそう言って、薄織物の中から艶然と視線を流した。

                   *

 「息災であったかね」
  御口に合いますかどうか、恐縮しながら置いた紅茶に口を付けながら、男は言った。
 「おかげさまで元気でおります」
 「不自由なく暮らしているか」
 「はい。ありがとうございます」
  応えながらディクス夫人は緊張に体を固くした。どうしよう、そんな言葉が頭の中を回る。茶の用意をしたのはいいが、それからどうしたらいいものか判らなくなった。男の前で、立ったまま話を進めてもいいものか、それとも向かいの席に座るべきか、一体どちらの方が失礼にならないのか、どうにも判らない。世間一般的な躾と言うか、「表に出されても恥ずかしくない」程度の教養は習ったつもりではいたけれど、夫の雇い主でもあり、そもそも一国の主でもあるという人物と、同じテーブルについてもいいものなのかどうかまでは、誰も教えてくれなかった。盆を持ったまま彼女が迷っているのが判ったのか、男――エスタッド皇帝――は、さり気なく席を指し示した。
 「招かれざる客なのだ。――そう固くならずとも良い。貴女も座りなさい」
  そういわれても正直困る。固くなるなと言われてならずにいられるのなら、何も苦労はしないのだ。
 「はい、あの……、でも」
 「……あのなぁ」
  座れるわけねぇだろ。
  横から呆れた声が挟まれた。
 「絶対いるハズのない皇帝サマがいきなり目の前に出てきて、でもって家にまでやって来て、そんで緊張すんなとか言ったって、ムリに決まってんだろ」
  声の出所に目をやると、チャトラと名乗った娘がこちらを向いて赤ん坊を胸に抱え、ソファの上に足を崩して座っていた。あやし方がなかなか様になっている。同じように思ったのか、皇帝がそう言って褒めた。まぁな、と娘が胸を張る。
 「日払いで子守りとかしたことあるしな」
 「ほう」
 「やっすい駄賃だったけどな。負ぶった肩は痛いし、ガキんちょは背中で、でっかいのも小さいのも遠慮なくやってくれるし、偉そうにババァは用事言いつけてくるし、何度もやめてやろうかと思ったけど。……けど、なんでも経験しとくもんだなァ」
  ババァときた。悪気はないのだろうけれど率直な物言いに、聞いて思わず夫人の頬が緩む。
  むずかっていた赤ん坊は夫人の乳を飲み、チャトラに抱かれて大人しくなっていた。今は彼女の動きを目で追い、腕の中で機嫌よさそうにニタニタと笑っている。最近人見知りし始めた息子にしては、珍しい懐きようだった。視線を落として、同じようにニタニタと笑って返すチャトラを見て、夫人の頬がますます緩む。
 「チャトラさまは子供がお好きなのですね」
 「赤んぼは好きだよ」
  なにしろ、やわらかくてあったかくていい匂いすんだぜ。そう言って笑って赤ん坊の頬に顔をすり寄せた本人のほうが、やわらかくてあたたかい顔をしていることに気付いているのだろうか。いい子なのだなと思った。掏摸と知った時はいくらか驚きもしたけれど、根は素直で良い子のだろうと思った。
  笑って緊張がいくらか解けて、それでも躊躇いがちにディクス夫人は皇帝の向かいの席へ腰を下ろした。何気ない言葉ではあったのだけれど、自分の緊張をほぐすためにチャトラが声を発したことには気づいていた。それがチャトラにとって、意識的なものか、無意識なのかまでは判らない。
 「お二人さまはこれから如何なさるのですか」
 「そろそろ、皇宮に戻るつもりであるよ」
 「大騒ぎされてそうだもんな」
  皇宮をこっそり抜け出して市中をそぞろ歩いていた。たまたま通りで見かけた女を助けてみたら、知人だった。知らないふりをしても良かったが、折角だから声を掛けてみた。――だとか最初に説明をされた時は、担がれているのかと疑ってしまったのだけれど、どうやら本当に二人でブラついていたらしい。それはそれで問題があるように思うし、と言うより皇帝が現在目の前にいるとして、その皇帝の警護の任についているはずの自分の夫は、今頃どこで何をしているのやら、生真面目な夫の顔を思い描いて気の毒なことだ、だとか少しだけそんな思いも頭をかすめたが、
 「皇帝陛下」
 「うん、」
 「先程は本当に、どうもありがとうございました」
  それよりもまず、とディクス夫人は礼を述べ、頭を下げた。
 「私はともかく――この子がどうなりましたことか。何かありましたら、夫に顔向けができません」
  年の離れた夫は、彼女をまるで壊れ物のように扱ってくれる。病弱な訳でもどこか体に悪い所がある訳でもないのだけれど、彼女が、息子を孕んでいた時分に体調を崩したことがよほど気になるらしい。あの時はひどかったな、と思う。最悪の場合は子供の命は諦めろとまで医者に告げられ、意地でも産もう、と思った。我が子をこの手に抱きたい気持ちも勿論そこにはあったのだけれど、夫が何より子供を望んでいたことを、口には出さないけれど彼女は理解していた。十月十日経ち、我が子を夫が抱いた時、いつも無口な目が潤んだことを彼女は知っている。
  そんな我が子に何かあったら。
  改めて思い出して、体の芯までぞっと冷える心持がする。何が目的か知らないけれど、あのまま彼女一人ではひどいことになっていたに違いない。そう言って頭を下げた夫人へ、少し考え込むような視線を向けていた皇帝が、杞憂に越したことはないが、と口を開く。
 「あのものたちは、貴女の知り合いではないのだね?」
 「はい。初対面です」
 「――そう」
  どうしてそんなことを聞くのか、首を捻って答えた夫人に、赤ん坊を膝の上で左右に揺らして喜ばせていたチャトラがアイツ等、と言った。
 「アイツ等、アンタをアンタと知って狙っている気がする」
 「私を――、ですか?」
 「正確にはディクスの細君だからであろうね」
 「主人の」
  言われてますます判らない。仕事付き合いの何某かなのかもしれないけれど、紹介された覚えもない。どういうことですかと尋ねると、皇帝がわずかに俯いた。それだけで憂鬱な顔になるのは元の造形が整っているからだろうか、だとか思わず見とれて彼女は考えた。
  さっきから一度に体験したこともない出来事が起こりすぎて、ついついこうして家に招き入れ、向かいに座って茶を飲んでいるけれど、よくよく思えばとんでもない話だ。改めて気が付いた。エスタッド皇帝と直接話をする機会なんて、こんなことでもなければ一生有りえない。「こんなこと」という自体も相当ありえない。
  そう思うと急にどうでもいいことが気になって、ディスク夫人は慌てた。例えばテーブルクロスの見えない部分ではあるけれどちょっとした染みであるとか。壁が少しくすんでいたな、だとか。ああこんなことならもっときちんとしておくのだった、そう考えたところへ、
 「アイツ等、酔ってなかった」
  深刻そうなチャトラの声が響き、我に返った。
 「は。……え?」
 「酔ったふりをして、アンタに絡んで難癖付けようとしてたみたいだけど、酒の臭いがしなかった。アイツ等、誰でもいい、適当な女を狙ってた訳じゃないと思う」
  そう、言葉を受けて頷いた皇帝が唐突に、
 「護衛を付けた方がよいだろうね」
  そう言った。
 「護衛……ですか」
  彼女は目を瞬かせる。想像もしなかった提案だった。
  確かに襲われたことは事実だけれど、あまりにも物々しすぎるのではないだろうか。逆に不安になる。二人の言う通り、あの破落戸どもはもしかすると酔っていなかったかもしれない。けれど、だからと言って護衛を付けて身辺を守るとは、随分と話が穏やかではない。護衛された経験もないので余計に困る。例えば目の前の男のように、貴人クラスの人間に護衛を付けるならまだしも、軍人の家に嫁いだ自分にそう価値があるとも思えなかった。
 「ディクスは何も言わ――……ああ。言わないだろうね」
 「……主人が?」
  聞き返した彼女の前で皇帝が目を閉じる。
 「あれの良い所は、余計なことを口にしない所ではあるが――必要なことまで口にしない。言葉ではなく、行動で示すべきだと考えているような所があるね」
 「……あの……あの。主人が、何か」
 「ああ――……いや。咎めた訳ではないのだ」
  言って皇帝は一旦口を噤み、言葉を選んでいるようだった。
 「そう……、一言でいうと、最近どうもエスタッド周辺の不穏分子と呼ばれる者どもが、あまり良くない動きをし始めている、と言ったらよいだろうか。なるべく大事にならないよう努めてはいるし、そうした解決方向へ向けて目下、鋭意努力中であるのだが、あれらはどうも過激でいけない。争いごとを起こしたくてたまらないのだね。そうなると、真っ先に狙われるのは抵抗が少なく、けれどある程度、抑えて脅しの利く相手――つまりは要職に就くものの家族、なのだよ」
 「……家族」
 「親の、子供の命が惜しければ要求を呑めと――連中の使う手はいつも同じだ。そうして癪なことに、いつも同じ手がその実一番有効であるのも確かだ」
  言われて彼女は息を呑む。
 「留守の間、頼む」
  初めてこの家に来た日に、えらく真剣な顔で、夫から告げられたことを思い出した。あの時はただ家事であるとか近所付き合い、仕事が忙しい夫の手を煩わせないように、身の回りのこまごまとした雑務をこなしてほしい、そう言われたのだと思っていた。子供を産まれて後は、世話をよろしく頼む、そういう意味だと安易に解釈していた。
 (あなたが頼んでいたことは、そんなことではなかった)
  気付いて、彼女は今更ながらひやりとする。
  夫の仕事はエスタッド現皇帝の護衛であり、夫は皇帝の側近であり、つまり皇帝から物理的に一番近い場所にいる。一番近い場所と言うことは、皇帝に害を成そうとしたときに一番有利な立ち位置だと言うことである。皇帝の背後から、周囲が気を抜いた瞬間、切りつければそれで済む。簡単なことだ。
  勿論夫は、そんなことをするような人間ではない。仕事に対するクソ真面目さは傍で見ている彼女が呆れるほどで、叛意を抱くこととはまるで真逆の位置に夫はいる。自分に何より厳しい人間で、妥協を許さない。
  けれど、と思う。
  その何よりも妥協を許さない人間が、例えば家族を質に取られて、家族の命と引き換えに皇帝を狙えと脅迫を受けたとしたら。
  夫は家族と主と、どちらの命を取るのだろうか。
  愕然とし――、そうして彼女は何故か悲しいと思った。場違いな感傷なのかもしれない。けれど、初めて夫の立場と言うものを理解したような気がする。
  彼女との婚姻の話が持ち上がった当初、夫は快諾しなかったと、間に立った人間からそれとなく聞いていた。ずるずると答えを渋り長引かせ、周囲が押し切って漕ぎ着けたようなところもあったから、最初彼女は夫に愛されていないのだと思っていた。それもそうか、とも思っていた。家と家同士の婚姻に反撥したい気持ちもあったろう。もしかすると好いた女の一人でもいたのかもしれない。勧めた人間の言葉を断りきれなかったのだと思っていた。だったから、初めて対面した時に、それほど嫌がっていた自分に対して優しかったことが意外だった。無口ではあったけれど、見つめてくる視線は温だった。だから彼女は夫との結婚を決めたのだった。
  あの時から、夫はきっと決めていたのだ。
  仕える主と家族の二択を迫られた時に、自分がどちらを選択するか。判っていて、だから婚姻を渋った。勝手に悩み、勝手に心を決めて、そうして彼女を愛おしんだ。壊れ物のように扱ってくれた。それはきっと、夫が心に抱いている疾しい気持ちの裏返しだ。
  忠か情かと聞かれたら、夫は黙って忠を取るだろう。彼女には判る。夫はそういう人間だ。

 (悲しい人だ、あなたは)

  黙った彼女を気遣ったのか、大丈夫、とチャトラが近くに寄ってきていた。赤ん坊を揺らしながら、下から覗き込んでいる。眉尻の下がった顔は心底彼女を心配しているようで、気を取り直した彼女は取り繕って笑って「見せた」。
  笑いながらああ自分は今、先程の皇帝と同じような笑みを浮かべているのだろうなと思った。笑う以外の表情で、本心を隠すことはできない。だから笑うのだ。常に誤魔化して「見せる」目の前の相手も、きっとそうして悲しいのだろうと思った。

 「――今帰っ」

  そこへ、場の空気をぶった切るように突然部屋の扉が開いて、帰宅した夫が顔を見せる。いつもと大差ない時間、同じような恰好で同じように片手で襟元を緩め、そうして。言葉途中で、そのまま取手に手をかけ固まった。
 「……」
 「おかえり、ディクス」

 「……へ……い、か?」

  あんぐりするというのは、こういうことを言うのだろうなと夫人は思った。おそらく喜怒哀楽どれも今、夫の頭に浮かんではいなくて、思考はただ真っ白なのだろう。冷たい訳では決してないけれど、沈着で寡黙な風を崩さない夫の、幽霊に出会っても驚かなそうな夫の、引っくり返った声を初めて聞いた。
  信じられん。
  言葉に言い表すとそんな感じかもしれない。


 「あの。えっと。……オレ、説明しようか?」
  それぞれの顔を見比べ、躊躇いがちにチャトラが口を開いた。



(20110509)
--------------------------------------------
最終更新:2011年05月09日 21:38