*

  しばらく経ってディクスの家を辞し、皇帝とチャトラとディクスは、黙って通りへ足を運んだ。皇帝はとくに自分から口を開く気分ではなかったので黙っていたし、チャトラも何か考えているようで、無言だった。ディクスは混乱しているようだった。それもそうか、と騒ぎを作り出した本人しては、他人事のように思う。最初の衝撃から立ち直り、ようやく自制心を取り戻した態を装っているが、開けばディクスの中身は大混線になっているに違いない。こちらもむっつりと黙っている。
  どうやって戻る、とチャトラに聞かれて、出てきた通りにと答えた。裏木戸辺り、修復途中の板の隙間をこっそりくぐって抜け出した。既にディクスに見つかってしまっているのだから、表門から堂々と戻ればいいのかも知れないが、無用な騒ぎは避けた方が賢明のような気がする。ディクスはともかく、三補佐に見つかれば厄介だ。
  それでますますディクスは黙ってしまった。おそらく、三補佐のいずれかにこの事を告げた方がいいものかどうか、告げた場合どのような騒ぎになるか、また告げなかった場合、それは己の保身故と誤解されないかどうか、だとか、ごちゃごちゃと考え始めたに違いない。手に取るように判ったので、男はこれまた黙って眺めている。
  そうして三者三様の無言を続けて、なるべく人目の多い表通りを避け、区画の間を縫うようにして三人は皇宮近くまで戻った。正直男はどの辺りを歩いているものかさっぱり判らない。ディクスとチャトラが判っているようなので、良しとしている。
  戸板近くまで戻り、潜り抜けようと身を屈めた時に、背後に立っていたチャトラの体が小さく揺れた。それが緊張なのだと気が付く前に、自動的にディクスが前に立つ。男への壁となる。
  におい、と小さくチャトラが呟いた。
 「さっきの奴らと同じにおいがする」
 「尾けてきたか」
  自分の迷いはとりあえず棚に上げて、本来の職務を遂行することを選んだディクスが呟く。油断なく腰の獲物へ手をかけた。反りを打つ。
  間髪入れず、ばらばらと男が数名現れる。通りに散開し、三人を囲んだ。人相の悪さは先程の破落戸と似たり寄ったり、いい勝負である。三下感が否めないのもやはり同じ。素人だな、と他人事のように皇帝は思った。腰が落ち切っていない。武芸の心得が少しでもあるならば、形なりはきちんとしている場合が多い。
  中に一人、見知った顔が見えた。「見知った」と言うには少しばかり時間が短いが、要は先程、皇帝とチャトラが相手にしたうちの一人だと言うことである。警護兵の隙を突いて逃げ出したものと見えた。
 「――報復――かな」
  呟く。ディクスの細君はともかく、エスタッド国の皇帝への襲撃と言うにはあまりにも用意が粗末すぎる。思いつき、と言うにふさわしく、囲んできた様子も、武器を構えた様子も、まちまちだった。
  とすれば、相手がこちらの正体に気付かないうちに退散するのが得策のようだった。相手がこちらを見逃してくれれば、の話ではあったが。
  押し出すように、じり、とディクスの体が男を戸板の隙間へ誘導する。ここでは自分たちが圧倒的に不利だと判断したのである。腕の優劣だけで比べるのならば、はっきりとディクスに軍配が上がるだろうが、問題は彼が男を守りながら、一度に数人を相手にしなければならないことになる。この場合、武芸の上手下手はあまり関係がない。数を頼みとした方が有利なのだ。
  ディクスが皇帝を隙間へと押し切る前に、かかれ、と誰かの合図が聞こえた。思い思いの獲物を手にした男たちの怒気が、男を背に庇ったディクスへ向けられ、チャトラが小さく息を呑む。
 「チャトラ……!」
  陛下、と呼びかけるのはさすがにまずいと判断したのだろう。男の脇に立った強張った娘へ、ディクスは一瞬視線を投げかけて早く中へ入れ、と怒鳴った。
  それを受けて、うん、と引き攣りながら頷いた彼女が次の瞬間、
 「……あぶな……ッ」
  思わず叫んだ。薙ぎ払った破落戸どもの刃が、ディクスの首筋を狙ったのである。ぎりぎりのところで避けたディクスがもう一度、皇帝とチャトラを顧みた。早く、と急かされてチャトラが男の腕を引く。それを見てまずいことに、破落戸どもは獲物の矛先を男へと変えた。まさかこの皇宮の主とは思わないでも、護衛がいて、男はその背に守られている。身分の高さはこちらが上と、感付いたらしい。
  それらが一斉に男へと襲い掛かる前に、半ば突き飛ばされる形で、男は修復途中の木戸の合間を抜けた。野郎、と続けてディクスの隙を突いた一人が、戸板へ体をねじり込み後を追う。その頭がぐき、とかなりの角度に曲がった。砂嚢だ。穴の臨時の塞ぎのために側に積んであったものを、火事場の何とやらで持ち上げたチャトラが、遠心力を利用してブン投げたのだった。体格ばかりは立派な襲撃者も、横っ面への不意の一撃は、予想だにしていなかったのだろう。そのまま戸板に頭を打ち付けて呻いた。
 「――猫」
  こちらへきなさい、と壁の内から言いかけて、皇帝はそれが無理であることに気が付いた。隙間は呻いている破落戸が塞いでいる。他に裏庭へ通じる抜け道は近くになさそうだ。騒ぎを聞きつけたのか、回廊の灯りがざわめき、騎士が数名こちらへやってくるのが見えた。
 「莫迦、アンタ、はやく行っ」
  隙間から顔を見せ、言いかけたチャトラがそのまま凍りつく。
  呻いていた破落戸が気を取り直していたのだ。手にした棍棒が、真っ直ぐにチャトラの頭を狙っていた。迷いがない。手加減してやろうと言う生半可な覚悟の力ではない。はっきりと殺意の籠もった一撃だった。警告の声を発する間もなかった。
  彼女の目が見開かれたのを、皇帝は確かに見た。心臓が鷲掴まれる。凝視する男の前で、咄嗟に彼女は両手で頭を庇った。その腕ごと力任せに男は殴りつけ、勢い彼女の体が持ち上げられて吹き飛ぶ。がっ、とそのまま少し離れた地面に叩きつけられて、そのままもんどりうって転がりのけぞり、彼女は動かなくなった。
  そこまでが一瞬だった。
  ディクスが何か言っている。腕を広げ、襲撃者に向かって抜刀し、油断なく腰を落とし構えながら、何かを告げている。けれど男には聞こえない。どういう訳か、男は通りに戻っていた。そうして倒れて動かないチャトラの姿を見止め、それから、痺れているのに妙に醒めた頭を上げて、叩きつけられた地面を見た。汚く伸び、擦りつけられた染み。

 (――朱い、)

  見なれたその色。何度も何度も何度も何度も、流れて皇都に染み込んでいったその色。

 (――朱い、)

  自分にも流れているはずの、流したはずの、流し続けているはずの。そうして目の前の痩せぎすの体に、確かに流れているはずの。
  猫の体が小さく震えた。
  ぶつぶつと抑え付けていた紐が切れてゆく気がする。
  赫、と瞬間目の前が燃えた。
  一面の朱。他は何も見えない。一切の音も聞こえない。ただそこに小さな体が転がっている。それ以外は必要ないと思う。
  ゆっくりと自分の指が懐をまさぐり、刃を握りしめるのを感じた。持ち手の短いそれは、握った自分の手のひらを、多分傷付けていたはずなのだけれど、痛みは感じない。水の中を歩くように鈍い感覚で男は襲撃者に近付く。実際どの程度の早さだったのか、よく判っていなかった。接近した男に驚き、棍棒を振り上げかけた腕に容赦なくひと針、根元まで深々と刃を差し込んでやった。そして痛みに引き攣り、悲鳴を上げようと開けた口の中に、次いでひと針。喉頭から後頭部まで力任せに突き刺した。げぇ、と胸糞の悪い断末魔と、黒くて汚い何かを噴き出す体をまたぐようにして、さらに眼底へ三針目。
  弾けた水晶体の液体が、ばっと頬に飛び散った。
  振り返って残りの者どもを眺めまわす。今ならいくらでも相手に出来るような気がしていた。熾烈な男の殺気に、襲撃者は固まっている。生ぬるいことだ、と怯えた顔を見て思った。人を傷付けることのできる道具を手にし、それを人に向けた時点で、己の行為に責任を持つべきだ。覚悟もないのに反旗を翻す輩が多すぎる。
  そうして男は音もなく、次の獲物に向かってゆらり、と歩みを進めた。護身用と言うには過剰なほどに、凶器を男は擁していた。体の線を出さない工夫を施された衣は、元は男のかたわの体を隠すために、誰かが提言したものものであったが、利用して今はあちらこちらに刃を仕込んである。全て使い切る前に残りを始末できそうだ。
  近付く男に気圧されていた襲撃者の一人が、ひ、と悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。仲間の逃げる動きに、他の面々にも動揺が走る。次々と我先に背を向け逃げ出す。口ほどにもない。唇を歪めてその後ろ姿に数本、剣針を真っ直ぐに投げつけた。的確に項を捉え、運の悪いものはそこで絶命する。
  息を呑んだ誰かに呼ばれたように思って、皇帝はゆるゆると振り向いた。
  視線の先に酷い顔をしたディクスが見えて、男は少し嗤う。今日の君は随分と表情が豊かだ。ごらん、朱が広がってゆく。
  際限なく広がって浸食してゆくさまが、穢れて美しいだろう?
  体に染みつく慣れた臭い。吐き気を催して少し噎せた。だのに低く引き攣れた声が喉から漏れていて、それが笑いだとうっすら認識する。止める術を男は知らない。
 「……こうて、」
  その時、小さく呟いた声が、急激に男を現実に引き戻した。酔ったようになった頭へ冷水をかけられたように、一気に狂騒が散った。音のなかったはずの聴覚が、ちり、とたてた微かな鈴の音を拾う。のろのろと首を巡らせると、上半身を起こしたチャトラが戸惑いながらも真っ直ぐに男を見つめていた。側頭部から血が滴り、鼻血も垂れている。頬から口の端までも汚れて朱い。視線は僅かに定まらないが、それでも男を見上げていた。
  ああ、どうしてくれよう。顔に出せないまま狼狽えた。
  三補佐はこれを手放せと言う。

                    *
 
 「頭部の裂傷は大したことはありませぬ」
  あの後、騒ぎを聞きつけて駆けつけた騎士たちに囲まれ、朦朧としていた猫は医務室へと運ばれた。皇居の一角にあるその部屋は、丁度皇帝の私室と中庭を挟んで対面に位置する。大きな樹が窓の外に植わり、葉擦れの音がいささか騒がしい。正直、男は不具合を訴えて運び込まれる度に、耳障りな音だと思っていた。切れば良いのに、と常々思っていたが、昼寝をするにはとても良いのだと猫が力説しているのを聞いて、それならいいかと思い直した。気持ち良く午睡ができる場所は貴重だと思ったからだ。
  そんなことを思い出す。
 「直撃を食らえばカチ割られていたかも知れませぬが、咄嗟に庇った腕が緩衝材の役割を果たしたのですな。吐き気もないようですし、脳に異常は見られないと思います。むしろ重症なのは腕の打撲の方で……いや、痣はともかく骨に支障がなくて何よりでした」
  頭は血管が多く集まっている場所だから、少し切っても驚くぐらいに出血するのだと、傷を丁寧に診察した医師に告げられた。そういうものか、と男は頷く。
 「絶対安静と本人言い聞かせてありますが、動かそうとしてもしばらくは、痛んでろくに使えますまい。看護のものを付けましょう」
 「――要らぬ」
 「……は?」
  言われた意味が一瞬理解できなかったのだろう。眼鏡の奥の目を丸くして、けれど直視することはせずに、医師は顔を上げた。皇宮に仕えるもので、男を真正面から見据える者はいない。ただ一人を除いては。
 「……それは、どのような」
 「必要であればこちらで手配する。手当てが終わったのなら、あれを私の元へ運び入れなさい」
 「陛下の御部屋に……で、ございますか」
 「あれは私の身の回りの世話をするように召し抱えたものだ。担当場所へ戻すのに何の問題があろうか」
  はぁ、と医師はいぶかしげに頷き、それから、出血は止まったものの、しばらく絶対安静をお願いしますともう一度念を置いて、しかしそれ以上の追及はしなかった。追及は分を超えたものであることを、医師は知っている。そもそも皇宮には男にとっての敵か、もしくは傅くものしかいない。主に僕は逆らわない。

  そうして猫は男の寝台の上で、静かに寝息を立てている。
  日付を疾うに回っていた。夕刻、のんびりと往来を眺めながら串焼きを食っていたはずなのに、あれから随分と時間がずれたような気がする。頭痛を堪えようと広げた手のひらへ、白布が当てられていた。医務室を訪れたついでに、男自身の小さな擦過傷も大げさすぎるほどの手当てをされている。放っておけば治る、そう言いたいのだけれど、彼らにとっては小さな擦り傷ひとつで一大事らしい。
  平和なことだと思った。きっと、暇なのだ。
  ゆっくり足音を殺して近付いた。猫は目を覚まさない。綺麗に汚れを拭われ、顔色は先程よりずっと良い。けれど、巻かれた包帯の白さがあまりに白くていただけないと思う。
  騒ぎを聞きつけ駆けつけた騎士たちには、裏庭あたりをそぞろ歩いていたときに襲撃されたのだ、と説明をしておいた。皇宮を抜け出して街を散歩してきたのだと、バカ正直に言う必要はないと思った。仮令告げられたところで騎士たちも困ったろう。彼らに必要なのは、彼ら自身が納得できるような状況報告である。外から中に襲撃されたにしては、少しばかり符合しない個所があったとしても、凡そが合致していればそれで彼らは十分なのだ。
  皇帝の言葉のせいで、裏木戸は厳重に修復され、猫の抜け道がひとつ減ることになったのかもしれないが、それはこの際仕様がないと思った。
  寝台へ腰を下ろし、そのまま男はまじまじと猫の顔を眺める。掏摸なのだよな、と今更こんな時に、認識して眺めた。
  どうして掏摸である自分を咎めないのかと、昼間に聞かれてのらくらと言葉だけを弄したような気がする。彼女も騎士たちと同様、何かしらの理由が必要なのだと思う。猫は納得したようだったけれど、男にとってあれは方便だ。実際男にとっては、猫が掏摸であろうとなかろうと良い話だった。自分の気に障るか否かが大事な部分で、それ以外のところは割とどうでも良いのだ。
  理由を付けてほしそうに見えたからつけてやった、そう言ったら莫迦にするなと、きっと怒るだろうと思う。言うつもりもないが。
  猫が生きていくうえで、恐らくその理由とやらは重要なことで、掏摸の獲物にしてもそうなのだろうと思う。必ず守る決まりごと。曰く、貧しいものは狙わない。手足の不自由なものは狙わない。子供を連れた女は狙わない。
  そう。きっと、「母」というものに猫は弱い。彼女が決して持ちえなかったものだからかもしれない。猫にとって姉はいても、母はいなかった。母代わりと母は、彼女の中では異なるもの。絶対にして神聖な犯すべからずの存在。無条件で自分を守ってくれるやわらかくてあたたかいもの。
  その母を狙った破落戸どもがいた。手を出す理由としては、それだけで十分だったのだ。男が強く止めたとしても、猫は駆け出していただろう。
  母か、といつの間にか自嘲の形に頬が歪んでいた。思えば自分にもそんなものはいない。
  産んだ女はいたろうけれど、記憶にない。淋しそうだった、だとか抽象的な印象でしかない。顔も覚えていないのだ。皇居を抜ける最後の日、泣きながらまだ少年だった男の胸に手を当て、許して、と繰り返した声だけが朧気にあるだけだった。
  そうか、と男は不意に思い当たる。誰もが去ってゆく。好むと好まざると、手の平をすり抜けて、後には何も残らない。残さない。残っているのは同じ場所にいつまでもしがみついている根雪のような自分だけだ。
 「これ」も、いずれは去ってゆくのだろうか。
  そうかもしれない。置いてゆくのは自分で置いてゆかれるのが相手なのだと、誰に対しても思っていた。どうせこの体はもう長くは持たない。ひとつ春を迎える度に、ひとつ夏を超える度に、自分の体がぎちぎちと軋んで傷み、崩れて行くのが判る。腐ってゆく臓腑を止める術はない。止めようとも思わなかった。
  それで良い。いつか自分は中身から先にとろけて、液体のぶよぶよと詰まった皮袋になるだろう。酷いにおいを発し、穴と言う穴から腐った内臓を垂れ流して、やがて乾燥し、絡みほつれた毛髪と黄ばんだ骨を最後に残す。それを見た人間は誰もが眉を顰めるに違いない。鼻を覆う仕草を悲しみだとか言う名前を付けて、いけしゃあしゃあと悔やみを言う。そうです、あの方は立派な方でございました。まったく惜しい方を失くしたものです。金箔で飾った墓標を立て、崩れた体の方は土の中に埋めて隠してしまえば、もうほとんど記憶にも残らない。
  残りたいのだろうかと、ふと思う。
  花守と言う言葉があるそうだ。男はこの間猫から初めて聞いた。猫を育てた女の、故郷の言葉であると言う。墓守と似たようなものだと解釈したが、猫の中での定義は違うようだった。それもまた彼女の中の、納得できる理由の何かなのだろう。
  あの時、彼女は男の花守をするよと言った。そうかと答えた自分は、その実何も信じていなかった。
  猫の言葉を疑った訳ではない。彼女は裏表を使いこなせるような器用な人間ではない。口先だけの約束をして、その場をしのげる人間ではない。あの時の彼女は心底そうしてよいと思ったから口に出したのだろう。それに対してそうかと自分は答えた。それだけだ。実現されるとは思っていない。猫の真摯な気持ちは受け止めようと思うけれど、結局彼女も、
 「置いてゆく――か」
  脆くはかない体は、簡単に壊れてしまう。あと少し棍棒に込められた力が強かったら、あと少し当たり所が悪かったら、あっさりと白目を剝いて昏倒し、男を置いて逝く。
  許し難いな。そう思った。全くもって許し難い。
  自分の許可なしに懐から離れて行くことは許さない。
  寝台に乗り上げ膝立ちになると、おもむろに猫の体をまたいだ。疲れたのか、それでも猫は目を覚まさない。寝息が漏れているので生きているとは判るけれど、普段の活発な動きが鳴りを潜めていると、それだけで何故か不安になる。首筋に手を当て脈を確かめようとして、ふと嚥下に動いた喉元に気を惹かれる。組み紐の括られた喉元。じっとそこから目を離せなくなった。
  締めてしまおうと思ったのと、体が動いたのが同時だった。締めようかどうしようかと迷う間はなかった。衝動的なものだ。そうだ。手元からいなくなってしまうなら、いっそこの手で、もう逃げられないようにしてやろう。形は少し変わるかもしれないが、肝要なのは猫がここに留まることだ。痛みもあるだろうし苦しいだろうが、一瞬の話だ。知ったことではない。代わりに訪れる静謐は、何物にも勝るはず。
  放っておいても猫はいなくなる。振り返りもせずあっさりと姿を消すのだ。ふらりとどこかへ行ってしまうのを留めたいのならば、簡単なことだった。動かないようにして、いつまでも腕の中に囲っていれば良い。
  そうだと男は不意に興奮して胸が躍った。柄にもなくわくわくした。腕の中に置いておけば、先程のように猫が傷つくことはない。血を流すこともない。自分が守ってやれる。どうしてそんな簡単なことに早く気が付かなかったのだろう。
  抑え付けた体が飛び跳ねた。驚いて目を覚ましたチャトラが、圧し掛かり、首紐をぎりぎりと締め上げた自分を見止めてますます目を見開く。信じられない、とその目に恐怖が走るのを男は眺めた。知らず舌なめずりをしていた。
  お前がそうして最後に網膜や水晶体を通して脳裏に焼き付けるのは、こうして絞め殺す自分の顔だ。忌まわしい記憶の中の、「姉」を殺した男の顔を上書きしてしまえば良いと思う。緑青に刻まれた己の顔。正直周りが口をそろえて誉めそやすほど自分の顔が整っていると男は思ったこともないが、この瞬間、猫の瞳に映る自分の顔は好きになれそうだ。
  無我夢中でもがく体を膝で押さえつける。医師が言った通り、打ち据えられて傷んだ腕はろくに持ち上げることもできないようで、死に物狂いで抗う割に力は弱い。片腕の男でも楽に押さえ込むことができた。締め上げた組み紐がぷつぷつと彼女の首の薄皮を破り、血がにじむ。これは息絶えた後も痕になってしまうかなと男は思っていた。できたら綺麗な形のまま残しておきたいものだが。
  食い縛ったチャトラの口から飲み込めない唾液が溢れ、それと共に言葉にならない呻きを彼女は吐いた。やめろ、だとかはなせ、だとかそういうことを言いたいのだろうなと思った。締めようと発想したのが急なことだったので、紐が細い。もう少し太いものならば簡単に気道を潰して骨を折ることもできるのだが、食い込むばかりでどうにも力が弱いようだった。時間がかかってしまうかもしれないと思ったところで、突然ぶつりと紐が千切れた。力任せに引き絞っていた男は、勢いバランスを崩し、その力の緩んだ一瞬の隙を突いて猫が男の体の下から抜け出した。それを見て舌打ちする。
  とどめをさせなかった。出来れば一撃で仕留めてしまえば良かったのに、全く何て手際の悪さだろう。
  鼻水を垂れ、涙を流して咳き込み、いくらか吐いている猫を視界の端に収めながら、男は手にした紐を見た。どこかで見たような模様だと思った。どこでだったのだろう。良く思い出せない。紺地の銀と朱の幾何学模様。大事にする、とはにかんだ様子で猫が礼を言ったような気がするが忘れた。投げ捨てる。紐からこぼれた鈴がちりちりと音を立てて床に転げた。
  その動きに気を取られた猫が、次いで動いた男に怯えて壁に背を押し付ける。向き合うことは怖い。けれど背を向けることはもっと怖い。葛藤が手に取るように判って、男はうっすらと笑った。
  皇帝?呟いたのは唇の動きだけで、猫の喉から声が出ない。恐怖に掠れたものか、それとも締め付けた時に声帯を傷めたろうか。気付いておやと眉を上げ、それから好都合だなと思った。これでもう助けは呼べない。呼ばせるつもりもなかったし、自分が許可しなければ恐らく三補佐ですらこの部屋に立ち入らないだろうが、それでも耳を衝く甲高い声は嫌いだ。にじり寄った自分にもう一度彼女は皇帝、と小さく口を動かした。
  そうして逃げようと立ち上りかけた足首へ手を伸ばす。無造作に引き寄せ、転がした。動こうとする体を脚で踏み押さえた。彼女は腕を動かせない。動かせたとしても包帯で何重にも巻かれていて、満足な動きはできまいと思われた。思った通り引き寄せても猫は大した抵抗をしない。しない、と言うよりはできないのだ。
  震わせた足の甲を男は彼女にも見えるようにゆっくりと持ち上げ、唇を寄せる。舐めた。自分よりも一回りは小さな彼女の甲は、手の平とほぼ同じ大きさだった。今更ながらに気がついて、そんなことも知らなかったのかと我ながら呆れる。呆れ、そうして猫の体のあちこちを今のうちに確かめておこうと思った。もうすぐ動かなくなるのだから、その前に知り尽くすのも悪くはないかもしれない。抉りたいと思っていた場所を抉り、舐めたいと思っていた場所に舌を這わせ、思うままに好き勝手し尽してから息の根を止めても遅くはないだろう。それぐらいの時間の猶予は、まだ十分自分にも許されているはずだ。
  猫の片足を膝の上に置き、懐から取り出していた剣針をひたりと甲に当てた。親指と中指の間あたり、骨の隙間を縫うようにして、躊躇いもなく男は針を深々と突き刺す。うあ、と悲鳴にならない悲鳴を上げて猫の顔が歪んだ。額にどっと脂汗が噴き出し、生理的な涙が溢れる。痛いのだろうなと他人事に思った。実際他人事なのだから仕方がないとも思う。知る術はない。
  垂れ流れ出た朱を舌で拭い取る。後から後からそれは溢れて、男は噎せた。こんなにも、お前の中には温かい何かが流れている。ほら。これでしばらくは走ることもできない。最初からこうすればよかったのだ、と思った。捉えた鳥の羽を捥(も)ぐように、四肢を不自由にしてしまえば余計な騒ぎを起こさない。
  咳き込んだ拍子、ふと上げた視線の先に、涙でぬれた緑青が、また真っ直ぐに自分を見つめていることに気が付いた。
  恐怖に瞳孔を見開き、顔を引き攣らせ痛みに小さく喘ぎながら、男を訝しむように見つめている。狂っているとでも思われているのかなと思った。そうだね。自分は確かに狂っている。
  仕様のないことなのだよ、と口に出して呟いていた。仕様のないことなのだ。何しろ自分には忌まわしい血脈が受け継がれている。狂っているのはもともとだ。真贋を見抜く目とやらを周囲が持たなかっただけだろう?
  かたかたと身を震わせる猫の足の甲から唐突に剣針を引き抜いて、男はしばらくうっとりと溢れる液体を眺めた。それから馬鹿丁寧に傷口を拭い、引き裂いた寝具の端を足に巻きつける。
 「――ああ、随分深い穴が開いてしまった」
  可哀そうに。
  そっと巻きつけた布の上から傷口を撫でて、男は立ち上る。猫を逃がさない細工をするには少し道具が足りない。掻き集めてこようと思った。
 「逃がさぬよ」
  背中越しに告げた。
  逃げる、と思わないことだ。その時は容赦なくお前の手足を切り落とす。
  そうなった猫を想像して男はまた歓喜に震える。身動きできないお前は、それでもその真っ直ぐな瞳を向けてくるだろうか。抉ってしまおうかとも思ったが、そうすると目玉は最後まで残しておいた方がいいかもしれないな。
  何しろその澱みの色は気に入っている。


(20110509)
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最終更新:2011年05月09日 22:20