<<りゅうの目のなみだ >>


  夢を見ているようだと思う。悪い夢だ。そうでなければ突然どうして自分がこんなことになってしまっているのか、チャトラには納得できないし、自分自身への説明もできなかった。
  このところ一気にいろんなことがあった気がする。ありすぎて、ひとつずつ思い返して整理するのも億劫だ。
 (それとも、思い返したくないのかな)
  そうかもしれない。自分の中のどこかの部分が疼いて、チャトラは小さく笑った。笑うと潰れた喉がひどく痛む。ゆっくりと腕を引き攣れたような喉に当てようとして、左はともかく右は固く寝台の柱に括りつけられていることに思い当たった。どういうつもりなのだろう、と思う。どういうつもり。黙って部屋を訪れてはこうして縛めて行く男も、それに対して抵抗をせず大人しく縛められる自分も。
  何かが決定的に変わってしまったのだと思う。大切な何かが。
  思い返したくないと思いながら、それでも考えを巡らせることを止められない。
  あの夜。
  皇帝と二人でこっそり城下へ繰り出し、そぞろ歩いた。当初チャトラは、男の街へ行くと言う言葉を信じていなかったが、男は割と本気だったらしい。否定した自分を見てますます行く気になったようで、行く気になった男を、そうなると止める方法はなかった。天邪鬼の男に、制止する言葉の何を述べても通じるとは思えない。と言うよりも逆効果でしかないだろう。
  多少ゴタゴタに巻き込まれつつ、奇遇の上に奇遇が重なってディクスと合流し、皇宮近くへ戻ったところを破落戸どもに襲撃された。たぶんそれは皇帝を狙ったと言うよりは、その少し前に、赤子を抱えた女に絡んでいたところを掻き回したことへの、報復だったのだろう。あの男どもは最後まで、皇帝を襲撃していることに気が付かなかったはずだ。
  そうしてチャトラは巻き添えを食って殴り飛ばされた。痛かった、とは言えるものの、それ以外は何が起こったのか判っていなかった。
  打ん殴られ吹っ飛んで、一瞬意識がどこかへ行ったのは判る。そんなに長い時間ではなかったはずだ。なのに、気が付くと辺りが一変していた。驚いたと言えば驚いたのだろうけれど、実際そこまでの衝撃はチャトラにはなかった。
  ゆらゆらと陽炎のように立つ、目の前の姿が朱に染まっていた。最初何だろうと目を凝らして、それが皇帝だと遅れて気が付いた。そうして、

  ああ。やっぱり。

  そんな風に思った。
  やっぱり「何」だったのか、チャトラにもよく判らない。何をあの後に続けて言いたかったのか、思い出せない。ただ無心にやっぱり、と思ったことだけ覚えている。
  それから皇宮に戻り、次に気が付いた時は馬乗りになった皇帝に、いきなり首を絞められていた。何が何だか本当に判らなかった。容赦のない力に、自分は今殺されるのだなと言うことだけは理解した。
  あの時、男は自分を本気で殺したかったのだ。それだけは判る。目茶苦茶に暴れても、男の体はびくともしなかった。それまでに何度か試されたものとは違う。戯れやからかいでこんな力が出るか。
  ぎりりと細紐を引きしめられて目の前がちかちかと白く光り、真っ赤になって膨れ上がり、それから何故か急激に空気が流れ込んできて混乱した。男が急に手加減でもしたのかと思って何故だ、とチャトラは喚きたかった。
  違う。
  アンタはそんなひとじゃない。一度殺そうと思ったのなら、止めを刺すまで容赦をしないひとだ。転々と気が逸れるように見せかけているけれど、本当は一貫して本心の変わらないひとだ。底辺に流れている透徹した信念をうまく隠して、隠せると思っていて、実際周りの人間には隠しきれているけれど、でも。
  そうして男が床に投げ捨てた紐を見て、切れてしまったのだなと思った。紺地に銀と朱の絹糸が織り込まれた細い組み紐。街へ出た時に男が仲見世で手に取って、チャトラへ選んでくれたものだった。選び、手ずから紐を結んで、結び終えると少し離れてチャトラを眺めていた。似合うとでも言いかけたのだろうか、男が目が眇めてこちらを見るので、眩しいのかなとチャトラは思った。
  嬉しかった。
  高級な絹織物も貴石もいらなかったけれど、男が選んでくれたことが、チャトラは単純に嬉しかったのだ。
  その飾り紐が、無残に引きちぎれて床に投げ捨てられている。拾わないとダメだ。心がざわめいてチャトラは立ち上ろうとした。あれは、少し千切れてしまってもう紐の役目は果たさないかもしれないけど、でもアンタが買ってくれた、オレの。
  立ち上ろうとした動きを男がどう解釈したのか知らない。足首を掴み引き摺られて、熱に浮かされたような目でじっと見つめられた。どうしたらいいのか判らなかった。おかしいことだけは判っている。アンタはもうずっと前から、ちょっとずつおかしかった。本心を隠すのが得意だったはずのアンタが、三補佐のひとたちに気付かれるくらい、少しずつおかしくなっていってた。
  どうしちゃったんだよ。
  声が出たならチャトラはそう言ったと思う。きつく喉元を締められたせいで声は出なかった。潰れたのだろうかとも思ったがどうでも良いことだ、と即座に考えを追い払った。重要なのは今、憑かれた視線で眺めてくる目の前の男だ。皇帝、と唇の動きで訴えてみたけれど声の出ない訴えに力などない。
  溢れた唾液を拳で拭うと、動きをぞくぞくとした表情で男が見ていた。瞳の色素がいつもより薄いと思う。
  その手に、いつの間にか小指ほどの太さのある剣針が握られていた。男が懐に隠し持っているものだ。護身のためなのか、男は常に袖だの腰布だの、表からは判らないようにあちらこちらに武器を仕込んでいる。そのうちの一つだった。ひたと足の甲に当てられ、これは逃げようがないなと瞬間腹を決める。男が本気なのは相変わらずだったし、彼女は腕が使えない。下半身はがっちり抑え込まれていたから、暴れたところでどうにもならない。
  そうして男の目の色を見てしまったチャトラに、あまり逃げる気もなかった。
 (……アンタ、なんて目でひとのこと見るんだ)
  そんな目で。焦れたような。飢(かつ)えたような。じっと顔色を窺い、彼女が怯えるかどうか試している。怖くないと言えば嘘になるし、痛いことは絶対に嫌だったけれど、どうしても動けない。動いてはいけないと思う。
 (逃げたら、アンタは勝手に一人で傷つくんだろ)
  覚悟を決めて見返してやると、唐突に皇帝の手首が返されて、ぶつりと足の甲に針が突き立った鈍い音がした。目を逸らしもせず凝視したまま刺し貫くだとか、男も大概いい根性をしているとチャトラは思う。直後襲った激痛に身悶えた。がつんと、頭を殴られたような衝撃があった。しまったな。これは相当痛い。
  でもまだ耐えられそうだ。
  こぼれた涙が弱いと思われそうで癪だったので、ろくに動かない腕は諦めて、チャトラは肩口で頬を擦った。
 「――ああ、随分深い穴が開いてしまった」
  傷口から溢れる血液を舌を伸ばして舐めとり、愛おしむように男は呟いて、それからどこか満足気に足の甲を眺め、裂いた敷布で丁寧に穴を塞いだ。チャトラには、さっぱり男が何を考えているのか判らない。判り得るはずもない。
  逃がさぬよ、と男は言った。
  逃げてくれるなと懇願されているように聞こえて、チャトラは身動きが出来なかった。
  そこまでぼつぼつと思い出して、急に縛られた右肩が同じ姿勢でひどく痛んでいることに気が付く。顔をしかめ、体勢を入れ替えようと動くと、する、と簡単に結び目が解けてしまった。
  最初から縛り付ける意思が無かったものとしか思えない。固く括りつけられていると思っていたチャトラは、面食らって解けた縄を見た。どうしようか、とも思う。解けた縄を見て男はどう思うだろう。自分でまた括りつけておくべきだろうか。
  それから急にどうでも良くなって、ふらふらと光に惹かれるようにしてチャトラは窓際へ寄った。厚い緞帳が下ろされたままの隙間から真っ白に差し込む光。もう何日か陽光を浴びていない。うまく力が入らない腕を震わせながら上げて、飾り紐を引くと一気に光が部屋へとなだれ込む。
  眩しくて涙が滲んだ。
  もう何も考えたくなかった。ただこの澱んで饐えた空気の籠もる部屋から出て、新しい風を吸い込んでみたかった。
  窓を開け、いつものように中二階から飛び降りようと下を見て、全く自分の体がその衝撃に耐えられないことに、チャトラは気が付く。穴の開いた片足は、まだじくじくと走るどころか歩くのにも痛んで、これではとても飛び降りることはできないように思えた。縄を垂らして降りることも考えたけれど、ようやく何とか持ち上がるようになったとは言え、酷く打撲し痛めつけられた腕で、自分の体重を支えることができるかどうかも疑わしい。
  溜息を吐き、仕方なく窓を閉め、廊下への扉へと向かった。男が施錠をしていないことは知っている。逃がさないと言い切った割に、そうしてチャトラがどうするのか眺めているような真似をする。早く逃げてしまえと言われているようにも思えたけれど、それが男の本意なのか判らない。
  とりあえず逃げ出す訳ではない、少し外の空気を吸うだけだと自分に言い訳をして、チャトラは身支度を整え、扉に手をかけた。
  扉の外には護衛の騎士一人常駐しているでもなく――もちろん部屋には今皇帝はおらずチャトラ一人だったのだから、いないと言えばいないのが当然ではあったのだけれど――正直なところ、監視のひとつでも付けているだろうと思っていたチャトラは、少し拍子抜けした。それから、なるべく人目を避けて、後宮裏の庭にでも行こうと思った。いつだったか月見と称して男が連れて行ってくれたその場所は、ろくに庭師の手も入らず荒れ果てていて、雑草も含めた季節の野花が、勝手に咲き乱れていた。その気ままさがとても良かった。あれがもう一度見たいと思った。
  ひょこひょこと片足を引き摺りながら、チャトラは勝手知ったる居住区を奥へ奥へと進み、後宮区と言われるあたりに立つ。瞬間、不意にむっと立ち込める香に顔をしかめる。
  何だろう。これは。
  この間まで後宮に、こんなにおいはしなかった。
  知らない変化に胸がざわめく。
  見回すと、透きとおる紫煙が渦巻いている様子が見えるような気がして、手を振って払い除ける。決して不快な香りではないはずなのに、まとわりつくそれが気持ち悪くてたまらない。辟易としながらまた少し進み、それから人の気配が随分あちこちから立ち上ることにはた、と気が付いた。
  人が住んでいる。
  これまで伽藍堂のまま放置されていた場所だった。ただ薄く張られた無人の部屋の紗だけが、微風にひらひらとたなびいていた場所だった。あまりに無人であったので、チャトラは男の体が交接に耐えられないと言う言葉を本気で信じたし、無駄な空間だと憤りもした。単純にもったいない。
  そう思っていたのに、いつの間にか潜めた含み笑いが聞こえてきそうなほど、中央通路には媚態が満ちている。
  後宮に人がいる。
  気付いて狼狽え、チャトラは辺りを見回した。この場合異分子は自分の方だ。
  そうして、どうしたものか、と悩んだ。
  無人であるならば堂々と、通路のど真ん中を突っ切っていくことも出来よう。が、住人がいる中を部外者の自分が、土足でずかずかと踏み込むのも、流石にどうかと思う。辺りを見回すと、幸い奥庭へ通じていそうな脇道を見つけたので、住人の邪魔にならないようにそちらから向かおうと思った。
  ちょっとした花壇が設えてある各部屋の窓下を、壁沿いに通り抜けるようになっているその通路は、立って通るには少し窓枠が低くて、小さいチャトラの背丈でも、部屋の中が覗けてしまう。ほとんど敷居がない暮らしそのものが後宮なのだとしても、やはり気が引ける。背を屈めてチャトラは窓下を通り抜けた。そんなつもりはなかったのに、音を立てないようにそっと歩いていると、まるで忍び歩きか覗き見のようで、妙に居心地が悪い。
  奥庭まであと二部屋ほどと言うところで、それまでと同じように窓下を通過しかけたチャトラの足が、ぎくりとして止まる。中にいるであろう部屋主の女の甘い香りの中に、嗅ぎ慣れた練り香水が混じっている気がしたからだ。
  部屋の中にはもったりと粉黛の気配があって、くすくすと笑いが聞こえる。水煙管。そして女の潜めた笑いだ。生臭い吐息。衣擦れと時折小さく漏れる喘ぎ。くぐもった泡立ち音。
  うわ、と声にならない声を上げてチャトラは慌てた。どうしよう。
  中で何が行われているのかは想像に難くない。貧民窟育ちのチャトラは、年の割に男女のあれこれを見飽きるほど見てきていて、決して珍しい行為ではなかったのに、どういう訳か冷や汗が出た。誰も見ていないと言うのに思わず空を仰いだり足元へ目をやって、何とか誤魔化そうとした。
  何に対して誤魔化そうとしたのかは知らない。
  そこへ、ふ、と微かに漏れた声がある。
  聞き覚えがあるなと思った瞬間から、チャトラは一歩も動けなくなった。
  そうして丁度体の中心あたり、肋骨と肋骨の間が妙にぎゅうと痛い。何だろう。思わず下を向き、胸元を眺めてそこを撫でた。
  いっそさっさとこの場を立ち去ってしまえばいいと頭では思うのに、部屋から溢れる濃密な空気に、体が固まり身動きが出来なくなる。参った、と混乱しながらそれだけを思った。目を閉じても耳に容赦なく行為の音が飛び込む。耳を塞いでも爛れた香りはまとわりついて消えない。
  行為の合間に漏れ聞こえてくる睦言は、確かにチャトラが知っている音で、いたたまれない気持ちがじわじわと湧いてくる。急に頭から冷水を浴びせられたような、どうにも嫌な気分だ。あるいは、気持ち良くうたた寝をしていたところを叩き起こされたような。
  参った。……いやだ、こんなの。
  長く尾を引く女の呻きに足が萎えて、とうとうしゃがみ込んだ肩を、背後から控え目に叩くものがいた。ぎょっとして飛び上がり、慌てて振り向く。出歯亀と間違われたんだろうか。振り向きながら言い訳を考えていた。そんなつもりじゃない、とかなんとか。それで納得してもらえるとも思っていなかったけれど、巡回の騎士か、なにか、
 「し」
  振り向き相手の顔を確認したチャトラが、声も出ないのに反射的に名前を呼ぼうと口を開くと、それを宥めるように口元に当てられた指がある。
 「……こっちへおいで」
  相手はそれだけを言って、腕を引く。特に抵抗する理由もなく、チャトラはその背を眺めながら、動くようになった足を進めて後に従う。
  そうして連れてこられたのは、当初チャトラが来ようと思っていた後宮の奥庭だった。
  連れてきた相手は、そのまま人目を避けるように庭の小さな水面を臨む東屋へ彼女を引いて行き、長椅子に腰かけるように示した。チャトラが座ると、相手も同じように端に腰を下ろす。座ると丁度東屋の柱の陰に隠れて、後宮からは見えない造りになっているようだった。
  庭には誰もいない。椅子に腰かけ周りを見回して、チャトラはがっかりし、溜息を吐いた。
  少し見ない間に小さな箱庭は、見違えるほど綺麗に整備されてしまっていた。後宮の活性に伴ってこちらにも人の手が入ったのだろう。好き勝手に咲き誇っていた野草はどこにも見えなくて、水面にたゆたう睡蓮の葉も前より整えられている。はびこっていた藻は除去されてしまったようだ。花壇にも整然と季節の草花が植えられていた。確かあの時は皇帝にここに誘わられた。月が青かった。虫の音の聞こえる庭で、宙をふわふわと舞う綿毛がひどく幻想的だった。そこで特に話すこともなくただ月と綿毛を眺めながら酒を酌み交わした。もう一度あれが見たいと思った。ここに来れば見られると思っていた。けれど、季節外れの昼間の今はそのどれもが見当たらない。
  見たいものは何一つなかった。
 (こんなものを見に来た訳じゃあない)
  妙に機嫌の良かった皇帝と二人、黙って月を眺めていた。何でもいい。あの時の月夜の切れ端、建屋の影のよすが、そんなものがもう一度見てみたかった。
 「大丈夫?」
  溜息をついた自分をどう捉えたのか、ここまで連れてきた男――ノイエ――が、気遣う視線でチャトラを覗き込んでいた。この男はきちんと視線を合わせて話すのだな、とチャトラは気付く。高さまで同じ位置に下げるのだ。親しみやすい、と三補佐の中でもそう評価されていることを何となく思い出す。
 「見ちゃったね」
  言われてうん、と頷く。実際は部屋の中の光景そのものを目にした訳ではなかったけれど、あそこまで露骨に音が聞こえていれば、推して知るべし、というものだろう。しかしノイエは何故あの場にいたのだろうかとふとチャトラは思った。言ってしまえばチャトラも、勿論あの場にそぐわない人間ではあるはずだけれど、
 「……僕は、あそこの区画を担当しているからね」
  疑問が顔に出たのか、先んじてノイエが水面に目をやって呟いた。複雑な顔つきのチャトラから、敢えて目を離してくれたのかもしれない。
 「補佐はそれぞれ担当区域を受け持っていてね。僕は主に、陛下の生活区画を担当しているんだよ」
  彼の言葉にチャトラは相槌を打ちたかったけれど、生憎声は出ない。黙って頷くと、でも今日が初めてなんだよ、とその無言の頷きをどう捉えたのか彼は更に続けた。
 「後宮に人を入れる案は、三補佐の間で決定したことではあったんだけど……、事後承諾の形を取ったからね。陛下はかなり御本意ではなかったはずで、後宮の体裁は整えたけれど御渡りは一度もなかったんだ」
  御渡りだとか。チャトラは思わず笑い出しそうになった。慌てて頬の内側を噛んで堪える。つまり言葉は上品だけれどもすることはアレなんだよな、そう心の中で呟いた。
  そんな彼女を横目で眺めて、それからノイエは、
 「……陛下は今まで執務室で寝泊まりされていたようだから」
  実に言いにくそうに口を開いた。
 「御部屋にもほとんど戻られていなかったろう?」
 (そう)
  また黙ってチャトラは頷いた。男が部屋へ立ち寄るのはチャトラへの戒めを確認するときだけで、すぐにまたどこかへ出て行った。聞けなかったけれど、どこへ行っているのだろうと思っていた。あそこはアンタの部屋なのに。
  邪魔なのだろうかと思う。自分がいるから、男は部屋へ居付くことができないのだろうか。気が休まらないのか。顔を見るのも嫌なのだろうか。だから縛る?
 (……だったら出ていくのはアンタじゃなくてオレの方だ)
  だのにきっと男はそれを望まないのだと思った。おかしくなっている。チャトラが何度も自分に言い聞かせてきたことだった。男はもうおかしい。
  突き放したいのに引き寄せたい。いっそ手放して清々としたいと願うのに、空になった手のひらを眺めて途方に暮れるのが嫌なのだ。お気に入りの人形はもう薄汚れて千切れ、他人が見たら益体もないボロ布の塊でしかないのに、後生大事に引きずり握って口に入れてはしゃぶり、決して離さない。
  それが人形であると言うなら、普通は母親であるとか周りの大人が見兼ねて手をだし、本人の居ない間に棄ててしまう。彼らにとってはそれは大事なものではなくただの汚れた塊だから。そうして失くした褥を求めてきっと子供はいつまでもうろつき迷う。諦めるのは周りから諭された言葉ではない。求めても二度と戻らないものがあるのだと本人が腑に落ちるまでだ。
 (オレはどうしたらいいのかな)
  結局部屋からでたところで堂々巡りだ。皇帝から考えが離れない。
  出て行け、とセヴィニアは言った。セヴィニア個人の意見と言うよりは、三補佐の中での共通したものなのだろう。皇帝は動揺している。補佐や議会はそれを許さない。
  鼻から長く溜息がまた漏れ、チャトラは膝を抱えた。ついでに上を見上げ、あ、と小さく口を開いた。水面に面した東屋の屋根は見事な藤棚になっていて、薄紫色の雲が頭上に浮かんでいた。皇帝に似ているな、と少し思った。甘く虚ろな匂いを漂わせている紫のそれ。強烈なのにはかないそれ。見せてやろうかと思う。房の先端まで咲ききっているそれを、男は見たことがあるだろうか。
  椅子の上に立ち上り、徐に手を伸ばした。どうしたのかと見やってきたノイエが、欲しいのかと尋ねるので頷いた。部屋に持って帰ろうと思う。声に出来ないのがもどかしい。ひとつ貰って行ってもいいだろうか。身振り手振りで伝えようと腕を振り回すとああ、とノイエが笑った。判ってくれたらしい。
 「取ってあげるよ」
  椅子の上に立ってもまだ藤棚は上の方で、ちらとチャトラの背丈と棚を見比べたノイエが立ち上がる。そうして花房へ手を伸ばしながら、
 「怪我をしたんだってね」
  と確認するように呟いた。
 「大丈夫?」
  声が出ない以上に一瞬答えに詰まる。どう答えたものかと思った。腕や頭は確かに襲われた際のものであるのだけれど。その他の傷は皇帝自身が付けていったものだと告げたら、ノイエは一体どんな顔をするのだろうかと思った。
 「……チャトラ」
  捥いだ花房を差し出しながら、その、とノイエが躊躇いがちに言った。
 「皇宮を君が離れるとして」
  言われた言葉にチャトラは思わずノイエの顔を見た。離れる。セヴィニアに言われた言葉ではあったけれど、こうして他の人間の口からも出てくるとまた趣きが違うものだなと思った。
 「行く当てがもしあまり思い当たらなかったとしたら……その。君さえ良ければ、僕のところに来ないか」
  ――は。
  驚いて声にならない声が口から漏れた。
  ――どうしてアンタがそんなことを言うんだ。
 「……どうしてって言われてもうまく説明できる自信はないのだけれど」
  唇の動きを読んだのか、それとも驚きがそのまま顔に出たのか、困ったように微笑んでノイエは目を逸らす。そう言えば、この男はいつも笑っている印象があるなとチャトラは思う。それも皇帝のように笑って「見せる」笑いではなくて、どちらかと言うとあたたかみのある親しみやすい笑いである。
 「君のことを放っておけないから、ではいけないかな」
  ――放っておけない。
  言われている意味が今一つ判らなくて、問いただすようにチャトラはじっとノイエを見つめた。タダより高いものはない。諺ではなくそれを実際に暮らしの中で体得してきたチャトラにとって、見返りのないうまい話には必ず裏があるとしか思えなかった。見つめられてますます困ったようにノイエは頭を掻く。
 「……そうだな……、僕は小さい頃に家族を流行病で亡くしたんだけれども」
  そうして仕方がないね、と苦笑いを浮かべてノイエは言った。
 「亡くした妹と君が同じ年頃だったなとか。そんなことが最近妙に気になるんだよ」
  ――同情なのかな。
  聞くとしばらく考える素振りを見せた後でそうだね、と彼は頷く。
 「……そうだね。同情なのかもしれない。君は怒るのかもしれないけれど」
  ――怒ると思うのか。
 「君は誇り高い人間だから」
  ――オレが?
  言われたことが突拍子もなくて、チャトラは数度瞬きをする。てめェは頑固だ、聞き分けがない。そうした言葉は何度も周りから言われてきたし、事実彼女自身そうなのだろうなと納得もしていたけれど、
 「帰ろうか。……部屋まで送るよ」
  差し出された藤の花を受け取ろうと持ち上げた、チャトラの腕の包帯に顔を痛ましそうに眉を顰めてノイエは言った。見たいものはなかった。これ以上この奥庭に留まる意味もなかったし、そろそろ部屋に戻った方が良いとチャトラにも思えたから、うん、と素直に頷く。
  長椅子から立ち上がり先に歩きかけたチャトラの腕を、後ろから不意に引き寄せて、
 「ごめん」
  何に対して謝ったのか彼女には判らない。気が付くとノイエに背後から抱きしめられていた。思いがけない動作に一瞬身を引くことも忘れて、目を丸くして固まる。
  藤の花に群れた蜂の羽音が騒がしいと、ふと思った。
 「……同情じゃ、ないんだ」
  後ろから耳元に囁かれた声が熱い。
 「君が好きだよ。……何にでも一生懸命な君がとても好きだよ」
  言われてますますチャトラは固まった。ぎゅうと込められた腕の力に、三補佐としての建前や策略ではなくノイエは本心で言っているのだろうなと思った。思ったら余計に振り解けなくなった。こういう時どうしたらいいのだったか。正直こうした状況に陥ったことはまだなくて、どういう対処が適切なのか咄嗟に浮かんでこない。ありがとう、だとか答えるべきか。無言でいるのは悪いような気がする。声が出ないことがもどかしい。
  もどかしい。けれど声が出なくて良かったとも思う。


(20110521)
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最終更新:2011年05月21日 13:47