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               *

 「”それは、狂喜に似ている。”」

  皇宮の中でもディクスもあまり入り込まない区画、皇帝の居住区域に用事があって訪れ、戻る途中の出来事だった。少し前までからりと晴天が突き抜けていたと言うのに、急に辺りがうす暗く曇り、これは一雨来るなと思いながら、回廊を歩いて戻る途中の出来事だった。
  半乾きの敷布や手ぬぐいや諸々のものを、洗濯女たちが慌てて取り込んでいる様子を何とはなしに足を止めて眺めてしまったのだった。妻の姿と重なった。今頃我が家の庭で、こうして慌てて取り込んでいる最中だろうか。濡れないと良いな、と思う。そうして仕事を終え家に戻った自分に、嬉しそうな顔で、濡れる前に取り込むことのできた英雄譚を語ってくれると良いと思った。だとしたら今にも引っくり返りそうなこの雲が少し保ってくれるといいが。
  ぼたり、と、とうとう降り落ちた雨粒に女たちが騒いでいる。濡れたところで死人が出る訳でもなく、洗濯物が駄目になる訳でもないのに、ああして一つの物事に一生懸命になれる女と言う生き物はすごいものだとディクスは思う。あれは真似できない。
  呑気なことを考えながら、そういえば同じように何に対しても懸命な小さな姿を、最近頓に見ていないなと思った。
  主にディクスは執務区域でエスタッド皇帝の身辺を警護する役職であり、猫と皇帝に呼ばれる娘は居住区域で皇帝の身の回りの世話役である。接点はあまりない。ただ接点云々は建前上のもので、猫に関していうならばあまりその制約を受けない。受けない、と言うよりは気付くとあちらこちらに気ままに出入りしているのである。
  であったから、良く見かけた。
  気ままと言っても議会であるとか三補佐の目の良く届く区域、つまりは政治だとか言うややこしい区域にあまり足を踏み入れないようではあるから、それなりに猫の中で線引きされているには違いない。
  先日、どこをどう隙を突いたものか(と言うよりはディクスにはその抜け出す様子がありありと目に浮かんで頭が痛いのだが)、皇帝が猫と二人きりで街へ繰り出していた。一日の責務を終えて家に戻った光景に己の主がいた、あの時の驚きを誰かに押し付けたいくらいだ。本気で一瞬幻覚でも見たのかと思った。
  そうして戻道、妻を襲った無頼漢が再び難癖を付けて現れた。その際猫が怪我を負ったことをディクスは知っている。酷い打撲だった。骨が折れなかっただけマシだが、本人の痛みには関係がないだろう。あの怪我は確かに完治するまでに何日もかかるだろうが、しかしあの猫が一室にじっとしているとも思えない。
  腕が動かないのはともかく、割と平気な顔でひょいと顔を覗かせていてもよさそうなはずなのに、全く姿を見せないのはよほど具合が悪いのか、――それとも。
  そこまで考え、本格的に降り出しはじめた轟音に背中を押されるように長い回廊を歩き、角を曲がったディクスはぞっとして足を止めた。
  広場を、
 「……陛下ッ」
  広場を見下ろすバルコニーに、皇帝が一人腕を広げ、ずぶ濡れになって仁王立つ光景に出くわしたからだった。
 「陛下ッ」
  声を掛けそびれ立ち竦んだ護衛騎士に、早く乾いた布をと指示しながらディクスは慌てて駆け寄った。駆け寄りながら何を考えている、だとか喚きたくなる気持ちを抑える。エスタッド皇は心臓が生まれつき弱い。風邪を引いて熱でも出そうものなら、体の一番弱い機関に負荷が極端にかかることは、周りはもちろん本人も判っていることで、
 「何をされて」
  肩に手をかけ振り向かせた皇帝が、驚いて目を見張るのが判った。それを見て何故かディクスの胸に嫌な予感が過ぎる。こんな風にあけすけに感情を表に出す主であったろうか。
 「やぁ、ディクス」
  エスタッド皇はそうして彼の顔を見て微笑んだ。子供のようにあどけない顔だった。こんな主は知らない。自身の動揺を隠すように、ディクスは渋面を作る。
 「御体に障ります。室内へ」
 「ああ――そうだ――……ね」
  どこか舌足らずな口調で呟いた皇帝は、ディクスに手を引かれ、特に抵抗する様子もなく大人しく回廊へと戻る。
 「どうなさったのです」
  尋ねなくても良いことを自分は尋ねているのだと思った。主の行動に異を唱える自分は何だ。普段なら干渉を嫌って不愉快になる主は、けれどまだどこか夢を見ているような態でぼたぼたと滴を垂らしながら首を傾げた。
 「気持ちが良かったのでね」
 「……気持ち?」
 「こうして」
  と、ずぶ濡れの主は回廊の庇から手を突きだし、生ぬるい大粒の雨を掌に受けて言った。
 「こうして当たると痛いほどの雨に打たれたことが――、ついぞ私にあったろうかと」
 「陛下」
 「似ているとは思わないかね、ディクス?」
 「陛下」
 「――一方的に勝手気ままで、沿うと見せかけて転がってゆく。地に落ちて染み入りそれはたちまち姿を消してしまう」
  何かに似ていると思う。生命力の豊かな何かに。
 「……」
  ディクスは何も言えなくなった。なので急いで戻ってきた部下から乾布を受け取り、後は自分がやる、と下がらせた。断りだけ入れてあとは黙って主の衣服の滴を拭う。芯まで濡れているようだったから拭き取れるとも思えなかったし、どうせ濡れたなら浴場にでも連れて行ってしまった方がよほど建設的なのに、ディクスは腹立ちを紛らわすように何故か拭き取る動作を止めることができない。立ったままそれを受け入れ、同じように黙ってどこか遠くを見ていた主が、
 「ディクス」
  彼の名を呼んだ。
 「はい」
 「狂っているのかな」
  私は。
  肘から先は相変わらず雨に打たせ、爆幕をうっとりと眺めていた皇帝が呟く。
 「……私には判りません」
  怒ったような声が出た。何と答えるのが正解であったのかと答えてから思った。以降は黙りこくってただ主の体を拭うことに専念する。
  皇帝は雨を見ている。


 「”それは、凶器に似ている。”」

  部屋へ戻りがけに医務室へ足を運んだ。
  この時間のその部屋には今のところ誰もいなくて、それもそうだなと皇帝は薬棚に近付きながら思う。ここの部屋の主は自分が倒れた時の対処人としての役目なのだ。現状、一応倒れもせずに生活ができている男に、付き添うほどの義理は医師にはなくて、であるから無人なことは何もおかしいことではない。
  そうして無人であることは好都合だった。
  むしろ無人であると言うことを男は知っていたから、ここへ足を運んだのだった。
  ディクスは部屋の外に待たせてある。男を邪魔するものは誰もいない。ゆっくりと時間をかけて、ひとつひとつの薬瓶に皇帝は目を通した。薬の名前を男はよく知らない。劇薬と呼ばれる物ももしかすると林立した中にはあるのかもしれないが、専門知識がある訳でもなく貼られた名前のラベルだけでは男にはよく判らない。
  一つぐらい減ったところで気づかれはしないだろう。だから、気に入ったものを持っていこうと思う。
  ふと一番上の段、奥の方に青緑色の小瓶をあるのを男は見つけた。おや、と片眉が上がるのを感じる。
  あれの色に似ているかもしれないな。
  腕を伸ばして硝子戸を開け、取り出す。蓋の口に鼻を近づけて嗅いだ。青臭い、正直どちらかと言うとあまり心地良い匂いではないなと思った。どの程度かと興味を覚えて舌を伸ばし、ひと舐めしてみた。ぴり、と僅かに舌先が痺れる感じがあって口の中に何とも言えない異物臭が広がる。思った通りに不味い。だがまぁ飲み下すのに差し支えはなさそうだ。
  どうせ男に大して効く薬はないのだ。良いものも、悪いものも。耐性ができすぎてしまっていてせいぜい気休め、効けばめっけもの、その程度のものだった。そう言えば幼い頃には随分毒薬を飲まされた。慣らすため、耐性を付けるためと言って毎日少しずつ呷ったものだったが、果たして本当にそれが効果的なものだったのかどうか知らない。医学的根拠があったものかどうか、ひょっとすると弱らせただけなのかもしれない。それでもいいと思った。死ね死ねと言われながらぬるぬるこの年まで生きているのだから。
  手にした小瓶を男は静かに懐へ収めた。酒で流し込めばそれなりにいけるかもしれないな、だとか思う。
  時を止めてしまおうと思っている。いい加減に疲れた。そろそろ幕引きをしても良い頃合いだろう。できればあまり苦しまずに往ってくれると良いのだが。
  少しだけ勿体ないような咎める気持ちが湧いたけれど、すぐに掻き消えた。薬を呷る前から男の精神はとっくに麻痺している。麻痺していると言うことだけは己で判っているつもりだった。
  窓の外を見た。どす黒く湿った雲の下に、鮮烈な夕焼けが映えている。にわか雨はどこかへ行ったようだ。
  ――あれは気持ちが良かったな。
  雨に打たれた感触を思い出す。思い出すだけで男は興奮した。
  べたつく肌の表面を洗い流されたような、力任せのその業。
  いつものように容赦なく積み上げられた机の上の書類の山にいい加減嫌気が差したのだった。それでなくとも最近は執務室に入り浸りで、同じ景色に飽き飽きしていた。立ち上がり行き処がなくてうんざりする。戻るに当然と思われる自室には猫がいた。戻りたくなかった。まだ戻る時ではないと思う。
  昨日遅く部屋へ戻った時には、片腕を結ばれたままうつらうつらと眠っていた。仮に逃げ出されたとしたら脳天突き抜けるほど腹が立つと思うのに、そうして大人しく縛められたままの姿に矢張り苛立つ。無理矢理引き摺り起こし、塞がりかけた足の甲の布を剥ぎ取った。傷を指を突っ込んで抉る。顔を歪んで喘ぐ猫の声はやはりほとんど発声されていない。男がその手で潰したのだ。
  痛みにぼろぼろと零れる透明な滴が、煩わしいと勝手なことを思った。何故零れるのだろう。こういうことをしているからだ。では、こういうことをしたいのだろうか?こういうことをしたいのだ。こういうことをしたいのだからしているだろうに、尚も気が済まないのはどうしたことだろう。
  もっと別の表情をさせたかったのでは、無かったか。
  何もかも矛盾している。そうして深く考えるにはあまりに草臥れていた。
  そこまで思い巡らせこぼれた髪を跳ね除けた拍子に、後宮を覗いてみようかと男はふと思った。正確に言うと、その奥庭に。たまたま訪れたあの月読の夜に。
  奥庭を選んだのは人気が一番少ない場所だったからで、それ以上の狙いはなかった。けれどまぼろしのような光景だった。雰囲気に呑まれた猫が、大人しく腕の中に収まっていた夜だった。何を交わした訳でもない。けれどあそこを訪れたら、絡みあってどうしようもなくなり持て余しているこの「何か」が、少しは解れてくれるかもしれない。
  けれど。
  重なる招致にも一度も頷かなかった男が、不意に回廊へ姿を現したと言って、後宮の部屋部屋は俄かに色めきたった。薄い更紗の奥から誰もが上目でこちらを伺い、手ぐすねを引いて舌なめずりをする。忍ばせているのにあからさまな媚態。慣れたこととは言え、毎回行われる同じような騒ぎに心底辟易とする。もういっそ後宮全体に油でも巻いて燃やしてしまおうか、だとか無表情の仮面の奥で考えていたことを住人どもが読めたとしたら、また違う騒ぎになっていたに違いない。
  丸ごとなくなってしまえばせいせいする。
  その部屋の一つに立ち寄ったのは、だから全くの気まぐれだった。ただその部屋の入口に下げられていた紗の色が、少しくすんだ黄色だったから、それだけのことだ。タンポポの乾いた黄色。色味の少ない男の世界に、緑青と並んで鮮烈に印象深い猫の色。
  ふらふらと一歩足を踏み入れてしまったなと後悔する。ゆるく目を閉じて頭を振った。
  中の女はまるであれと違う。
  当たり前のことだ。自分は何を期待して入室したと言うのだろう。猫が、後宮の一室に構えて男を待っている。そんな夢を見たと言うなら、今すぐ壁に頭を打ち付けて目を覚ますべきである。
  今更踵を返すのも億劫で、男は溜息を吐いて毛足の長い絨毯へ直に腰を下ろした。しなを作ってすり寄り水煙管を差し出す女を面倒臭く思う。放っておけ、それだけを呟き不機嫌に黙り込んだ。
  見るとはなしに女を眺め、壁に凭れて数度煙管を唇に挟む。急に気が変わって身を起こしたのは、窓の外を忍び足で過ぎ去ろうとする微かな音を拾い上げたからだ。ちりりと鈴の転がる音。
  猫、だ。
  がばと身を起こしぎらぎらと異様な熱を滾らせる男を、部屋の女は驚いたように眺めていた。その体へ手を伸ばし、床へ押し伏せた。身をくねらせて応える体は易々と転がる。膝を立て男を迎え入れようと期待に満ちた吐息を漏らすのを見て、男の冷え切った感情が耳元で嘲笑している。無様だ。そう思う。
  乱暴に相手の衣類を剥ぎ、膨れた女陰へ慣らしもせずに指を突っ込んだ。僅かに女が眉をしかめたのが見えたがどうでもいいと思った。どうせ苦情は言えまい。行為そのものがあろうとなかろうと、男が特定の女の部屋を訪れた、その事実で十分なのだ。尾ひれと背びれもついでに付けて、一体自分はどんな風に皇帝に挑まれたか、得意満面の一等賞顔で語るのだろうと思った。利用すると言うのならばお互い様、文句はあるまい?。
  実際に女に圧し掛かる気はなかった。腹上死するだとか医師から言われたこともあるが、それを今試す気にはならなかった。心臓が保つのか保たないのか、嘯く割に男も把握しきっていないが、少なくとも目の前の相手のために危険な橋を渡ろうとも思わない。そもそも男自身はまるで萎えたままで、役に立ちそうもなかった。
  音を聞いたろう猫が、窓の下で息を飲むのが判った。聞き取るには猫の音はあまりに微かだったし、体の下で蠢く女の作った喘ぎ声がうるさかったので、実際には聞こえていなかったのかもしれない。けれど男には手に取るように判る。判るような気がした。
 「狂っているね私は」
  ……え?
 「流せ」
  くつくつと湧き上がる笑いを漏らし男は小さく呟いた。女が体の下から聞き返してきたが、無下に切って捨てた。そうしてうっとりと瞼を閉じ、男は窓の下にいる猫を思う。
  ――ほうら。しゃがみ込み動けなくなった。
  そうしてたいそう楽しい心持ちでいた気がしたのに、すぐに別な気配が猫に近付き連れ出してしまった。窓の下は空っぽになり、がっかりとする。こうなってしまっては自分がこの部屋にいる九割方の意味はない。立ち上った。纏わりつく女を無造作に払い除け、部屋を出る。あ、だとか中途で放られた女が引き止める声が聞こえたけれど、足を止める気はさらさらなかった。
  酷い男だと噂されるだろう。それでいいと思った。何を自身に期待しているのか知らないし知りたくもないが、過度に造られた偶像を押し付けられることに飽き飽きしている。どうせ噂が広まるものなら、後宮どころか皇都全体へ広まってしまえばいいのだ。そうすれば誰も自分を特視すまい。
  無性に苛々とする。
  ぬめりつく感触を何かで洗い流してしまいたかった。
  見かけた手洗い場で手を洗ったところで不快感は消えない。いっそ庭の池にでも飛びこんでしまおうかと本気で考えた。その場合やはり護衛のものに止められるだろうか。浴場まで足を運ぶのも面倒くさいけれど、この臭いには我慢がならない。どうしたものかと考え始めた時に、俄かに雨が叩きつけてきたのだった。好都合だった。
  喜々としてバルコニーへ歩を進めた。取り憑かれた足取りだったろう。それはいっそ抑えの利かない、獣性を帯びた衝動だった。がつがつと肌を容赦なく打ち伏せる感覚に、震えが走る。胸が高鳴り、男は空を仰いで深呼吸した。湧き上がる歓喜の渦に溺れて眩暈がする。開いた口にも容赦なく豪雨はぶち当たり、気管に入って噎せ、男は堪えきれず喘いだ。けれどなんて心地良いのだろう。
  ああ。
  このまま、端の方から穴が開いて浸食されてしまえ。
  だのに恐怖に強張ったディクスの声で呼び戻された。怒りが湧くほどの覇気はなかったけれど、少し残念に思う。もう少しで向こうへ行けたような気もしていたというのに。
  そうだ、と男は薬棚を閉めながら思う。
  この部屋を訪れたのは、だから熱狂の雨の擬似体験に憧れているに過ぎないのだ。もう一度手に入れたい。もう一度あそこまで。到達できたなら、次はきっと手放さない。
  さようなら。さようなら、さようなら。
  男は呟いた。もう少し手の内で眺めていたい気もしたけれど、ここいらが打ち所。幕の上がった舞台の上で、思えば随分と不恰好な踊りを続けていたものだ。もういいだろう?誰かが囁く。もう楽にしてやろうじゃあないか。
 「そうだね」
  男は誰もいない室内で答え一人微笑んだ。
  さようなら。
  懐にはひと瓶の昏睡薬。


 「”それは、狂気に似ている。”」

  会議室。頭は目の前の書類に集中しなければと思うのに、気持ちが追い付かない。しどろもどろになった少し前の自分の醜態を思い出す度に、つい溜め息が出た。
  ノイエだ。
  こみ上げた熱意のままチャトラを抱きしめてしまった。悪かったかな、と反省している。いきなり行動に移すつもりはこれっぽっちもなかったのに。
  どう言った経緯かチャトラが後宮区に紛れていた。どうしてこんなところに、と思わないでもなかったけれど、豪く狼狽した様子だったから、知っていて来た訳ではないのだろうなと思った。用事があった自分は、たまたま、ひどく弱った様子のチャトラに出くわした。困ったようで居心地が悪いようで泣きたいのかもしれないけれど泣く理由はない、そんな感情をないまぜにした顔でしゃがみ込んで途方に暮れていたから、落ち着かせようと思った、それだけだったのだ。
  落ち着いたと言うよりは随分草臥れているように見えた。衣服で精いっぱい隠してあるけれど、あちらこちらに擦過傷があり、中には擦過では済まされないほどひどく抉られたような焼き付けられたような痕があった。歩き方もぎこちない。片足を庇うように歩いているので、どうしたのかと尋ねると挫いたのだと言った。そうなのだろうか。頷きかけて内心首を捻る。裏庭で襲撃されたとは聞いていたけれど、警備担当のアウグスタに言わせるとずぶの素人集団だと言うことだった。素人集団が一人の人間に、そんな念入りに攻撃を仕掛けるものなのだろうか。これではまるで拷問を受けているようだと思う。
  けれど、襲撃者に因るものでないとすれば、皇帝の私室付きの彼女へそうしたことを仕掛けることができるのは多分たった一人で、そのたった一人がそんな酷いことをするとはノイエには到底思えなかった。
  彼の仕える主は思慮深い。一挙一動先まですべて予測して動いているようなところがあって、しかもそれを周囲に悟らせることは稀だ。
  その主が考えもなしにチャトラを蹂躙する必要性が思いつかない。だからうまく納得できない部分があったのだとしても、きっと襲撃者に因る傷なのだろう。
  書類の文字から目が上滑りばかりして、ノイエはまた溜息を吐いた。
  草臥れたまま部屋へ戻ろうとするチャトラの様子に、余計なことを口走りつい手を伸ばしてしまった。何かあったのかな、そう聞いてみたかったのだけれど、それを聞いたらチャトラが傷付いてしまう気がして口に出せなかった。
  どうしてだろう。
  独楽鼠のようにくるくるとよく働く娘だ。正直なところ出先で拾ったと皇帝が連れ帰った時は、三補佐一同ああまたか、一体何日持つのやらと言う感想しか浮かばなかったけれど、皇帝に飽きた様子はない。珍しいと思う。最初に見た時は来ていた侍従の仕着せと相まって、とても娘だとは思えなかった。ダインにかつがれたと思った。どう見ても少年である。
  もう一年近くチャトラは皇宮で過ごしていたけれど、これと言って見た目に変化があった訳でもない。変化があったのはきっとノイエの心持ちだ。
  皇宮のあちらこちらに顔を出し、しかも下働きのものに好かれている。やれ豆を煮零すのを手伝ってくれただとか、工房に詰める人間の作業着のほつれを直してくれただとか。ひとつひとつはとても些細で取るに足らない出来事なのだろうけれど、鱗も集まれば大きな魚になる。
  同年代の妹をずっと以前に失くしたことのあるノイエにとって、まるでそれは妹のようでけれど妹ではありえない、放っておけない存在だった。ちなみにアウグスタも同じように評していたなと思う。彼の場合は妹と言うよりは娘、であったようだけれど。
  いい子だなと言うのが素直な気持ちだ。気が付くと目で追っていた。もっと話してみたかったけれど、皇宮でのノイエの立場とチャトラの軸は割とずれていて、なかなか交わる機会がなかった。三補佐の権限を使えばいくらでも呼び出しは利くだろうけれど、呼び出しても話すことはない。せいぜいが時候の挨拶だ。
  代わりにノイエは、耳に入る彼女の噂を聞くのを楽しみにした。下働きのものに尋ねれば、いくらでもそう言う話は出てきたのだ。
  曰く、巣から落ちてしまった雛を戻すために高い木へ登ったら、今度は自分が降りられなくなって半日固まっていた、だとか。
  曰く皇宮に飾るための花を育てる温室で昼寝をしていたら、真っ黒に日焼けしてしまった、だとか。
  本当に何でもない日常の風景ではあるのだけれど、その何でもないようなことを行う人間が、今まで皇宮にはいなかったのだと気付かされる。ここは皇帝の居住宮でありながら政治の中心でもあったからだ。必要なのは有能な人材だった。なんでもないことに泣き、笑い、共感できる人間は、そもそも存在しなかったのだ。
  皇帝もそのあたりが物珍しくて未だに手元に置いているのだろうか。
  そうなのかもしれない。同じ相手に三日どころか一日持てばいい気まぐれな皇帝が、手放さそうとしない。
  その執着の在り方が最近目に余るとセヴィニアは言う。主の周りにあまりに女っ気がないから余計目立つのだと。早急に後宮制度を復活させるべし、議会の承認を取り付け、アウグスタとノイエには半ば事後承諾の形で意見を求められ、ノイエには後宮区画の担当を割り振られた。異を唱えてみたかったけれど、あまりに手際が良すぎて文句を吐く余地もなかったのが現実だ。
  自分の担当区画が増えるだとか、それに伴う確認指示が増えるだとか、ノイエにとってそれは些末な事柄でどうでもよかった。ただ、極端に内に踏み込まれることを嫌う皇帝に対してお気の毒なことだと思った。お気の毒な。あれほど孤独を愛する人間もいないだろうに。
  そうしてそう思うことが既に踏み込んでいるか、とも思った。
  けれど踏み込まれることを嫌う主が、手許にチャトラを置いている。どうした心境の変化なのだろうか。少し知りたいと思った。主の生活に口を挟む気もないけれど、聞けば夜も放さずにいると言う。では色めいた話の一つでもあるのかと思えばそう言うものでもないらしい。一緒に寝ているだけだよ、と以前チャトラはそう答えた。一緒に寝ているだけ。それがどんなに前例のないことか、彼女はきっと知らない。
  前例。前例前例。堅苦しい自分の考えに嫌気が差す。
  そうして補佐とは難儀な仕事だと思った。今更な感もあったけれど。
  もうすこし自分が純粋だった頃、ノイエは家族を病で失った。思えば貧乏貴族の類であったと思う。家柄だけはそこそこ良かったものの、内情は火の車で、けれど家族の仲だけは良かった。仲の良かった両親。年の離れた妹。使用人の数は少なかったし決して豪勢な暮らしをしていた訳ではないけれど、不平不満の出ようもなかった。いずれ己が立身出世して、家族を養い家を盛り立てて行くのだと、そう思っていた時期もあった。
  ある年の冬、都に流行った病に次々と家族は倒れ、成すすべもなく皆死んだ。いっそ自分も一緒に病に倒れてしまえば良かったのに、一人生き残り途方に暮れた。家屋敷は借財の抵当にいつの間にか入っていて、ノイエは文字通り路頭に迷いかけた。勉強しようと思うのに後ろ盾もなく、目的を失ってしまった自分はただ虚ろだった。残っていたのは家名だけで、運よくその血統を買われて養子に拾い上げられた。
  以降はその家のために生きてきたようなものだ。名を上げろ、功を成せと養い親には顔を合わせる度に言われ続け、自分はその通りにしてきたつもりだ。自分にはもうそれしか目的がなかったし、
 「卿」
  ぱん、と書類を指で弾く音がして、考えに沈んでいたノイエはぎくりと我に返る。円卓を囲んだ各方位には、それぞれ自分の他に、セヴィニア、アウグスタの両補佐、それに軍部上官が着席しており、その彼らが自分へ目をやっている。
  呼んだのはセヴィニアだった。
 「心ここに非ずと言った態に見受けられるが。……大事な閣議の最中ですぞ」
 「……申し訳ない」
  ひやりとしたものを背中に感じ、ノイエは慌てて手元の書類へ目を落とした。議題内容がまるで聞こえていなかった。補佐としてあるまじき失態である。
  一旦中断した会議は、では、と促したアウグスタの声で再び流れ始め、以降はノイエも余計な考えを振り払い議題に集中したのだった。

  再び掘り起こされたのは、長引いた会議の後だ。やれやれと肩の凝りを解しながら立ち上がり部屋を出た。回廊の壁に、腕を組み凭れて出てくる面々を眺めている顔におや、と思ってノイエは近寄る。
  ダインだった。
 「どうしたの」
  一応ダインの爵位と皇妹との仲を考えるに、こうして回廊辺りをうろついてても何ら違和感のない騎士位ではあったのだけれど、あからさまに皇宮を嫌って用事がなければ顔を出さない。顔を出したとしてもさっさと退出してしまうことがほとんどで、
 「卿がこんなところにいるなんて珍しい」
  長居するだけでちょっとした異変である。因みに皇宮に居付かない最大の理由は、皇妹ミルキィユとの仲をエスタッド皇に突かれ遊ばれるのが嫌だから、であった。皇帝の弄び方は生半可ではない。それはノイエも知っている。もとは傭兵であったダインは大抵のことでは根を上げないし、忍耐力も人一倍あったであろうけれど、それでも皇帝だけははっきりと避けている。叙爵する前は皇帝自ら付きっ切りで、騎士としての知識をダインに叩き込んだと言う話だが、知識を教えたのが二割で残り八割は確実に弄ったのだろうなとノイエですら思った。
  ダイン、涙目で「次同じ部屋に閉じ込められたら舌を噛んで死ぬ」と言い切ったらしい。
  ただ、そうして皇帝を本人が嫌っている割には、使い勝手の良さと立ち位置の身軽さで、私的にあれこれと使い回されているようであった。
 「……いたくている訳じゃねェよ」
  憎まれ口も相変わらずである。
 「何かあったのかな」
 「立ち話もなんだ。アンタの仕事が上がりなら、メシでも食いに行こうとも思ったんだがね」
 「……二人で?」
 「俺と、アンタで」
  これは何か相談でもしたいことがあるのだろう。察してノイエは肩をすくめた。
 「残念ながら食事は付き合えそうにないかな。まだ仕事が残っていて、今夜は徹夜になりそうなんだ。何もないけれど、話は僕の部屋でよければ」
 「ああ……、じゃあそこでいい」
  無愛想に頷き、勝手知ったる皇宮の中ダインは先に立って歩き出した。そう言えばこの間美味いと進められて葡萄酒をいく本か貰ったのだった、あれを開けることにしようか、だとか考えながらノイエもダインの後に続いた。

 「で」
  互いにソファにくつろぎ卓を挟んで向かい合う。
  皇宮にある一角、ノイエに割り当てられた私室である。同じような補佐の仕事であっても、仕事が深夜に及ぼうとかなり真面目に皇都の邸宅へ戻るアウグスタに比べて、ノイエは皇宮に寝泊まりすることが多かった。妻子のある彼と比べると一人身だと言うこともあるだろう。正直私宅へ戻ろうと皇宮の私室で一夜を明かそうと、大した違いはないのだった。待つ人間はいない。
 「話したいことって、なんだろう」
 「俺ァ回りくどい話は嫌いだ。単刀直入に言ってもいいか」
 「うん。どうぞ」
  切り子のグラスに赤い液体を注ぎ、適当に引っ張り出した菓子を差し出す。手酌はお互いに了承済みで、ノイエはソファの背もたれに背を預けてダインを視線で促した。
 「ノイエ」
 「うん、」
 「皇帝の旦那を、どう思う」
 「……どうって」
  言われた意味を推し量りかねてノイエは曖昧に微笑んだ。養い親の強い推薦があったとはいえ、やはりこの若さ、これまでの大した経歴の無さで補佐官にまで伸し上がるには、かなり各方面からの嫉妬も中傷も受けてきている訳で、おかげで聞かれた質問の答えをそのまま返せるような率直さを失ってしまった。どう答えたら穏便に事態が済むか、どう答えたら相手の意思に沿うか。裏の裏を読み、時には誤魔化したし己の意思とはまるで逆方向の賛同もしてきた。
  皇宮には、自分のことを「人が良い」だとか「親しみやすい」だとか称する人間が多いのも知っている。耳にする度にどうにも済まない気持ちになった。自分はそんなに優れた人間でも裏表のない人間でもない。
 「僕が、皇帝陛下をいかに尊敬しているかを答えたらいいのかな」
 「……そうじゃねェ」
  判っているくせに、とぐいとグラスを空にして置いた拍子、ダインは前に屈みこんでノイエの視線を真正面から受け止めた。
 「旦那はなんだか普通じゃねェだろう」
 「普通じゃ、ない」
  言われた言葉を口の中で繰り返し、ノイエは首を傾げた。
 「このところ間近で見る機会がなくて、昨日、たまたま執務室に顔を出したが、あの様子は一体何だ」
 「何だとは」
 「旦那に何があった」
 「何が……」
 「シラァ切んなって。補佐のお偉いさんで話し合ってるんだろうが」
 「……」
  それに、と手酌でもう一杯注ぎながらダインは渋面を作った。
 「ディクスと話をした」
 「……」
 「土砂降りの中雨に打たれて突っ立ってたそうだぜ」
  判っているんだろ、と今度はもう少し確信を込めた物言いでダインが圧した。
 「旦那は明らかにおかしい」
  そう。いっそおかしいと言うよりは、
 「狂っているのか?」
 「……。……どうしてそう思うのかな」
  喉に何かが絡んだようですぐには声が出なかった。ダインにどうやら誤魔化しは利かないようだ、では一体どこまで補佐間で話し合ったことを漏らすべきかと、一瞬ノイエが悩んだからである。
 「聞けば皇帝の旦那のオヤジもそのまたオヤジも、なんだか普通の人間じゃあなかったって言うじゃねぇか」
 「君がそんなことを言うとは思わなかったよ」
 「言うなって。俺もこんなこと言いたかねェよ。……そりゃ旦那は前から風変わりだったさ。俺が知った頃にはとっくにな。何考えているのか判らねェし、まったくツボも落としどころも違うし、話が合わないどころの騒ぎじゃねェ。……けど。旦那は自分で線を引いていたよな。ギリギリの位置ではあったけど、けど、これ以上やっちまったらいけねェラインを超えることは今までなかっただろ」
 「……」
  ノイエ、とダインが静かに名を呼んだ。
 「アンタ、なんか掴んでるんじゃねェのか」
 「どうしてそう思う」
 「理屈はねェよ。カンだ」
 「……」
  じっと見つめられて仕方がないね、とノイエは溜息を吐いた。うまく説明できる自信がないが、言を左右にして逃れられる相手でもなさそうだ。そうしてノイエは瓶を手に取り、グラスの縁ぎりぎりまでどばどばと葡萄酒を注いだ。何をするんだと訝しんだダインへ向けてこれだよ、と彼は告げる。
 「前置きも過程も必要ないだろうから、僕もいきなり本題に入らせてもらうけれど……、これが今までの陛下だ」
 「……」
  表面張力で、何とかこぼれ落ちるのを堪えている滴。少し揺らしでもしたら揺蕩う赤さは堰を切って、
 「そうしてこれがあの子かな」
  手にした干菓子を数個。少し上の位置から、堪えきれない水面へ向かって落として見せた。もちろん張力はその力を失って、たちまち縁から溢れ、テーブルクロスに赤い染みを作る。けれど黙ったダインも溢れさせた本人のノイエも、その染みを見てはいなかった。
 「……ノイエ、」
 「今はいい。だけどこの菓子を取り出してしまったら、必ずグラスに隙間は空いてしまうだろう?」
  溢れた分は滴ってしまったのだから。
  少ししてダインが口を開き、それを遮る形でノイエもまた言葉を被せた。
 「あの方はその隙間を埋める術を知らない」
 「……」
 「あの方はおそらく失う恐怖を初めて知ったんだ」
 「……」
 「宝物を失うことを恐れる人間は……次に何をすると思う?厳重に鍵をかけ箱の中に閉じ込めるだろうか。それとも切磋琢磨し、より一層強い人間になって守ろうとするだろうか。……それとも」
 「ノイエ」
  聞いていられない、と吐き棄ててダインは首を振った。
 「続きを言うのは旦那を侮辱しすぎている」
 「そうだよ。これは僕の勝手な想像だ。妄想かもしれないし、妄想であればいいと思う。ただ、君は僕が何かを掴んでいるのじゃないかと思った。だから僕は答えた。それだけだよ」
 「……」
  俺はどうしたらいい、とダインが低く呟いた。飲む気も失せたのか、グラスを放り出し、頭を抱えている。判らない、と素直にノイエは答えた。
 「どうすることが最善か僕にも判らないんだ」
  チャトラをできたら屋敷へ引き取ろうと思った。手首に出来た新しい縛り跡。それとも、と三つ目を理由にするだけで納得してしまう。だから怖い。それはもしかすると保護義務と言うものなのかもしれない。好意を抱いていると言うのは勘違いで、目の前の弱った彼女を単純に見捨てられないと言うことなのかもしれない。
  だから、とノイエはグラスを傾け内心一人語散る。判らないと言ったけれど、彼には主の追い詰められた心地が判るような気がした。
  三つ目。
  ――いっそ失ってしまうものなら、己の手で粉々に壊してしまおうか。


(20110530)
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最終更新:2011年05月30日 23:09