わたくしが、アルカナ国王一家に忠誠を誓いましたのは、そう、まだ13と2月の事でございました。
 故郷から出てきたばかりの、田舎者丸出しのわたくしは、
 余りにもきらびやかな王宮の生活に、眩暈を感じましてございます。
 そこはまるで天国のように、何もかも規模が大きく、豪奢で、溜息が出るほどの別天地で、
 わたくしの拙い言葉では、とうてい言い表すことが出来そうにございません。
 とにかく、わたくしは雲の上の世界に来てしまったのだなと、そう感じましたのでございます。
 わたくしがおおせつかったお仕事は、王宮内のお掃除でございました。
 取り柄と言って、取り得の無いわたくしでも、お掃除だけは得意でございましたから、
 それはそれは一生懸命に、心を込めて磨かせていただきました。
 アルカナ王国の王宮には、国王陛下と王妃さま、その御子である第一王子と奥様そしてお二人の御子さま、
 第二王子と奥様、そして未だ未婚でおられました第三王子がいらっしゃいました。
 お掃除の合間に王族の方々のお姿を、幸運にも垣間見られた日などは、
 わたくしは興奮し胸がどきどきして、居ても立ってもいられないほどになりましてございます。
 王族の方々は大変に優雅で高貴で、
 きっと田舎出のわたくしとは違い、人種そのものが全く異なるのでございましょう。
 空にぽっかりと浮かぶ、お月様のようなものでございます。
 決して手の届かない、どころか手が届くことを許されない、
 けれど、時には水面に揺られる月を掬い取れる錯覚に陥るような、そんな方々だったのでございましょう。
 一生懸命にお掃除をさせていただくわたくしに、
 王妃様や第一、第二王子様、その奥様方は優しくお声をかけてくださいました。
 難しいお話ではないのです。
 今日のお天気や、咲いている花のこと、昨日に食べた食事など他愛の無いお話ですのに、
 わたくしは一度たりとして、上手に応えられたことができなかったのでございます。
 これはきっとわたくしが、要領の悪い田舎娘であったからでございましょう。
 よちよち歩きの御子さまは、たいそうお可愛いくいらして、よだれにベトベトまみれた小さなお手で、
 わたくしのスカートを、何度も何度も引っ張ってくださいました。
 そしてその手に握る玩具やお花を、わたくしに下賜してくださったのです。
 わたくしはもう、言葉も出ないほど豪く感激して、ただただ頭を下げることしか出来なかったのでございます。
 その中で、一度もわたくしにお声をかけてくださらなかったお方が、一人だけいらっしゃいました。
 第三王子様でございます。
 とは言っても、わたくしは、お声をかけてくださらなかったことに対して、不満を抱いたわけではございません。
 あの方は、いつも一人で、国王様一家の輪の中には入っていかれない、
 恐れながら少しお怖い、けれどお寂しそうな方でございました。
 右手にいつも乗馬鞭を持ち、お気に召されませんとすぐに癇を起こされるのです。
 戦のたいそうお好きな方で、
 国王様がお命じになられるよりも以前に、お一人颯爽と戦場に出かけてしまわれるのです。
 口さがの無いものたちは、第三王子様は狂っていると陰口を叩いておりました。
 血に飢えた殺人狂だと、噂するのでございます。
 わたくしは、そう言った陰口を聞くたびに、陰口を叩くものたちをきつくきつく睨みつけてやりました。
 空に浮かぶお月様に対して、なんと恐れの多い、越権行為な言葉を吐く者どもだろう。
 きっとそのうちにバチが当たって、悪いことが起きるに違いない。いいえ、起きて欲しい。
 わたくしはそう願っていたのでございます。
 ある日。遠く離れたエスタッド皇国と言う国より、御使者が参られました。
 未婚であらせられた第三王子様との婚姻話を、持ってこられたようでございました。
 その話を小耳に挟んだわたくしは、不意に胸が締め付けられ、息が苦しくなりました。
 第三王子様がご結婚なされる。
 おめでたい、とてもおめでたいお話のはずでございましたのに、
 わたくしは、何故かたいそう複雑だったのでございます。
 国を挙げての婚礼の儀が近づくにつれ、ますますその思いは強くなり、
 あんなにも心を込めていたお掃除にも身が入らなくなり、しばしば侍従長様より叱られましてございます。
 最近のお前は上の空でずっとぼんやりしている。
 謂れのないお叱りではございません。わたくしが全て悪いのでございます。
 けれど時には悲しくなると、そっとお城を抜け出して、裏の森の泉近くで、一人泣き濡れていたのでございます。
 何故あんなにも心が痛んだのでございましょう。
 わたくしは今でも判りません。
 その日も一人泣いていると、不意に背後に人の気配がして、
 ――女。
 そう呼びかけられたのでございます。
 ――何を泣く。
 驚いて振り向くとそこには、恐れながら憧れてやまない、第三王子様そのお方が立っておられました。
 野駆けでもなされておられましたのか、上半身はむき出しで、髪は木の葉が紛れ、
 お履きになっているズボンもところどころが破け、うっすらと血が滲んでおられました。
 周りには王子様以外誰もおらず、
 どうやらお一人でここまでいらっしゃったようでございました。
 わたくしはもう、驚いてしまって声も出せず、
 唖のようにぱくぱくと、口を開閉することしか出来なかったのでございます。
 ――その服装は、城の者だな。
 そう言って王子様は、ぐいとわたくしの腕を引き、
 まだ汗ばむ熱い胸元に、引き寄せましてございます。
 ――あ、あ、あの。
 ――煩い。口を開くな。
 あの方の広い胸に抱かれて、わたくしは頭が真っ白になり、
 なにをどうしたものやら全く判らなくなりました。
 第三王子様は、そうして戦慄くわたくしへ、口元を歪めて一度だけお笑いになり、
 それからわたくしの着衣を全て、その御手で引き裂かれましてございます。
 引き裂かれた着衣は、力なく足元へ舞い散り、
 そうして、王子様はわたくしを泉の側の草叢へ放り落とすと、即座に挑んでいらっしゃったのでございます。
 天にも昇る心地と言う言葉は、あのような時に使うのでございましょう。
 わたくしは、おぼこでございましたので、痛みが無かったといえば嘘になりましょうが、
 それよりもあの、手の届かない御方から求められている喜び、
 空のお月様が、仮初めの姿をおとりになって、こんな哀れで醜い田舎娘に目を止めてくださった悦び、
 そして、あの方の御手にて女に生まれ変わることの出来た歓び、
 それらがごっちゃになって渦巻き、
 気がつくと、わたくしは一人で草叢に蹲っていたのでございます。
 夢だったのかもしれません。
 夢であったのだと思います。
 日は流れ、エスタッド皇国より姫君が仰々しい行列を引き従えて、アルカナ王国へやってこられました。
 僅かに棘の刺さるように、姫君様を心の底から喜んでお迎えできなかったわたくしは、
 いささかの後ろめたさと共に、お迎えいたしましてございます。
 けれど、お輿よりお降りになった姫君を見て、わたくしは衝撃に打ち震えたのでございます。
 真っ白い、不吉なほどに真っ白いベールに包まれて、
 白の姫君は可憐で健気で、麗しゅうございました。
 わたくしの周りの者どもも皆、思わず感嘆の溜息を吐いたほどでございました。
 あの方が、第三王子様の奥方になられるのだ。
 わたくしなど、到底敵うはずもございません。
 敵うどころか、敵おうと張り合うこと自体が、無意味でございます。
 白の姫君もまた、雲の上に住まう王族の方々と同じ人種でございました。
 同じ人種なのだろうと、愚かなわたくしは信じてしまったのでございました。
 第三王子様は、白の姫君をお迎えすることもなく、
 その日も、同じように戦場に出かけていらっしゃったのだと、後ほど噂で知りました。
 けれど、あの姫君は、魔性の者であったのでございます。
 白い衣装に身を包んで、正体を顕すことなく、第三王子様に近づいたのでございます。
 その晩に。
 帰っていらっしゃった、王子様のけたたましい喚きと笑い声に、城内は震撼いたしました。
 お可哀想な王子様。
 白の姫君と王子様の寝室より、王子様が出ていらっしゃいました。
 片手には、身を縮める姫君を引き連れていらっしゃいました。
 なんということでしょう。
 真っ白いベールを脱いだ姫君の体は、それは酷く引き攣れ歪み切っていたのでございます。
 赤とも茶とも言えぬ、忌まわしくも汚い、呪いの文様にも見えるそれは、
 きっとエスタッド皇国からの、呪詛でございましたのでしょう。
 わたくしは息を呑んでお二人を眺めておりました。
 いいえ、正しくは王子様と魔物の姫をでございます。
 お可哀想な王子様は、白の姫君が魔物とは知らず、婚姻関係を強制的に結ばされてしまったのでしょう。
 お怒りになるのもご尤もな事でございました。
 それなのに、愚かな周りの侍従たちは、どうぞお控えくださいと、王子様をお諌めするのです。
 嘘を吐いたのは白の姫君なのに。
 騙されたのは王子様なのに。
 あのような忌まわしい魔物と比べれば、
 一度とは言え、王子様から光栄にも求められたわたくしの方が、何倍も何十倍も、
 いいえ、きっと何百倍も美しいに違いないのです。
 裸に剥かれた魔物は、泣いているようでした。
 ざまを見ろという気持ちが湧き上がったのは、丁度その表情を目にした瞬間でございます。
 恐れ多いとは思いませんでした。
 何故なら、魔物は、決して天国に住む方々とは同じではないからでございます。
 地の中に棲み、泥を啜る生き物でございます。
 わたくしは、たいそう晴れやかな気持ちになりましてございます。
 あの魔物は女ですらないのです。
 正当なお怒りを湛えた王子様は、そのまま魔物を連れて城内を引き回した末に、
 最後に城門の外、つり橋の上へと投げ落としたのでございます。
 篝火の明かりが赤々と燃え、魔物の肌はいっそうに淫猥で醜悪で、
 それを見たわたくしは、背筋が凍る思いでございました。
 あんな魔物を、王子様は娶らされる寸前だったのです。
 一体、婚姻話を持ち上げた大臣達は、何を考えていたのでしょう。
 王子様は打ちひしがれる魔物を見下ろし、げたげたと高笑いなされながら、
 何事かと城内殆どの者が起き出し見つめる中、
 魔物を、何度も何度も手にした鞭で打ち据えたのでございます。
 わたくしはそれを目にし、ますます晴れやかな気分になったのでございます。
 そして、あんな魔物に、少しの間とは言え、敬意を表していたことを腹立たしく思いました。
 わたくしもまた、騙されていたのでございましょう。
 しばらくの間、王子様は魔物を苛んでいらっしゃいました。
 お可哀想な王子様。
 想像するのも恐れ多いこととは言え、もしわたくしが同じように王子様の立場でございましたら、
 やはり同じように憤ったと思うのでございます。
 それなのに、尚も愚なる周りの侍従たちは、王子様を諌めるのです。
 それどころか、聡明であられるはずの第一王子、第二王子様までもが、何故か魔物を庇いだてして、
 王子様をお叱りなさるのです。
 王子様は、ますます猛り狂われたのでございます。
 そうして、腰に差していた剣を手に取り、鞘を脇へと放り出されました。
 けたたましい鉄の音が、静まり返った城門前に鳴り響いて、
 その、わんわんと言う余韻が消えるか消えないかの寸前に、
 しゅぶっ。
 そんな音を立て、不意にわたくしの視界が真っ赤に染まったのでございます。
 篝火の中で、まるで幻想的な光景でございました。
 何事が起こったのか、わたくしも、そして周りの者どもも、
 理解に至ったのは、数瞬過ぎての事でございました。
 第三王子様の。
 ああ。
 第三王子様の首が、
 ごろごろと音を立てるように、わたくしの足元に向かって転がって参られたのでございます。
 ゆらりと俯き立ち上がった魔物の手には、先まで王子様の御手に握られていた剣がありましてございます。
 不吉に染まる、白と赤の魔物です。
 ――お、お、お、お、おおおおおおおおおおおおおおおおお。
 魔物は不意に天を仰ぎ、知恵のある人間の声とは到底思えない、原始的な声をあげ、
 それから血濡れた剣を真っ直ぐに掲げたまま、走り去って行きました。
 唖然と勢いに飲まれていらっしゃった、第一、第二王子様たちが身動きできるようになられたのは、
 その随分後でございました。
 周りのものもいっせいに身動きし始め、
 突如、辺りは悲鳴と叫喚で溢れかえったのでございます。
 魔物が、アルカナ王国に呪いをかけて去っていったのでございます。
 誰も彼もが戦き、嘆いて、
 ああ、本当にあんな婚姻などなければ、
 第三王子様がきっとその求心力を買われて、次国王になられたはずでございましたのに。
 誰も見向きもしない足元に転がった王子様の首を手に取り、
 わたくしは半目を開く王子様と向かい合わせたのでございます。
 また、わたくしを選んでくださった。
 わたくしは幸福に包まれておりました。
 わたくしの許に、いらしてくださった。
 そして、騒ぐだけの能の無い周りと世界を切り離し、
 わたくしはそっと、王子様の唇に、初めて口付けをしたのでございます。
 最初で最後の口付けでございました。

 血の。
 血の味がいたしました。



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最終更新:2010年10月21日 22:57