<<4番目のinnocent>>


  執務室から議会場へ向かう午後の回廊で、皇帝は猫とばったり出くわした。上着の裾を目一杯に広げ中に何かをぽんぽんと放り込んで運んでいるようだったので、何をしているのかと尋ねる。随分大事そうに、そうっと運んでいるように見えたからだ。
 「ああ、なんか、クロスグリが」
 「……スグリ?」
  言いながら妙に得意気な顔をしている。狩りの獲物を見せびらかしに来る小さな毛玉のようだ。本当に猫だな、と男はふとおかしくなる。
  そうして『クロスグリ』と言う、聞き馴染みのない単語に興味を覚えて覗き込んでみると、広げた裾の中に一粒一粒がつやつやと輝く爪の先程の黒い宝石のような果実が、放り込まれているのだった。
 「随分と――、」
 「……うん。オレもここまで欲張るつもりはなかったんだよね」
  得意な中にもどこか困ったような顔でチャトラが首を傾げ笑う。聞けば中庭にクロスグリの木を見つけて、最初は二、三粒摘まむつもりで手を伸ばしたらしい。これだけ人がいるのに一本分、完熟した実が丸丸誰も手を出さずに鈴なりになっているのが信じられない、とチャトラは言った。
 「町だったら考えられねェな」
 「――実の出来が悪い?」
 「じゃなくて。ガキはみんなハラ空かしてるから。まだ青くて酸っぱいうちでも取って食べちまうし」
  なるほど、と男は判ったような判らないような顔で頷く。そもそも腹を減らすという感覚が今一つ体感としてないのだから、熟すのを待てずに食べてしまう感覚は一層理解できなかった。
  というより男にとって中庭であるとか花壇、そのほか皇宮のあちらこちらに植えられているさまざまな種類の花や樹木は、涼を取るものであったり目を楽しませるためのものであって、その実を口に入れるという発想すらなかった。果実であるのだから食べられるのだろう。食べられるのだよな、と改めて思う。
 「食ってみる?」
  男の表情を読んだのか、チャトラが下から窺っていた。釣られて頷く。取れよ、と広げられた裾の中から少し迷って、割と小ぶりな粒を一つ摘まんで男は口に入れた。あっと背後で声がして、それから毒見がどうのとか、侍従が焦ってボヤいているような気もするが通常通り無視する。予防はするに越したことはないけれど、過剰な防衛は神経を尖らせ疲弊するだけと思うからだ。恐らく職務怠慢として、付き人は三補佐どもにきつく注意を受けるのかもしれないがそれは自分の知ったことではないと思った。
  摘まんだスグリを口の中にいれて転がす。
 「どう?」
 「甘いが――酸い」
 「まぁ、アンタがいつも食べてる菓子みてェな果物に比べたら、屁みたいなもんだよなぁ」
  そう言うものなのだろうか。このスグリと言うものの甘さの基準が今一つ判らなかった男は、曖昧に首肯した。それから、ここまで欲張るつもりはなかったと言ったチャトラの最初の台詞にふと思い当たり、疑問を口にする。
 「ああ……なんかな、目に付いたからちょっと食おうかと思って摘まんだら割とウマかったんで、アンタにも持っていこうって……こう、せいぜい何粒か、片手に持てるくらい取ろうと思ったんだよね」
 「ふむ」
 「で、どうせ持っていくなら色が綺麗なヤツ持っていこうと思ってさ。丁度いい具合に色づいた枝がちょい高い位置にあったから、踏み台に出来るものなんかないかなって、そしたらたまたまラズ見つけたんだよね。夜勤明けで帰るんだって言ってて。護衛の騎士サマなら皇宮の備品とかしまってある場所知らないかなって聞いたら、面白そうなので俺も取るとか、張り切って立派な梯子持ってきてくれちゃってさ」
 「ほう」
  ラズ、と言う名前に聞き覚えがあって男は片眉を上げる。確か皇宮を警護する騎士の一人で、雪山の山荘にも同行していたように思う。チャトラの失踪に真っ先に気付いた者だとディクスが報告していた気がした。
  生真面目な若者と気さくな猫は気が合うようで、何度か飲みに出かけているようだ。
 「オレが下の方で取っててラズが梯子で取ってて、どのくらい取るんだ、どうせならいっぱい持っていくといい、とか言われてどうしようかなって思って。別にそうたくさんは要らないしって言おうとしたら、園丁のジィさんやら洗濯場のオバさんやら通りがかって何してんのかって聞かれて、スグリ取ってるんだって言ったら、あそこのが黒いとか枝をもっと下へ下ろしたらいいとか色々言い出してくれちゃってさ」
 「ほう」
 「なんかもういらないんです、ちょっとだけでいいんです、ってますます言い出せなくなって、結局取れるだけ取るハメになった」
 「それでこの収穫量?」
 「うん」
 「成程」
  通りがかる面々の重なる節介に困りながら、けれど場の流れに断りきれなかった猫を想像して男は少し笑う。
 「この量を部屋で食べる――?」
 「ああ……、アンタがそうしたいのならそうしたっていいけど」
  張りはあるけれどやわらかな粒は、その自重によって下の方は既に潰されてしまっているようだった。色が上着に染みている。この果実の色はどう揉んで洗ってもまた落ちにくそうな濃紫だと思った。そうしてこの実のやわらかさでは一晩持つまいとも思う。男と猫が二人で精いっぱい頑張って食べたとしても、食べきれそうにはない。
 「傷んでしまうね」
 「平気。これ、そのまま食べてもうまいけど、糖蜜で煮詰めるともっとうまいんだ」
 「ほう」
 「厨房に持ってって、鍋底磨く代わりに、糖蜜漬け作ってもらう約束した」
  においがよくって、甘くって、最高なんだよ、と目尻を緩ませてにやにやと笑う猫を見て、実に嬉しそうだなと男は思った。本当に、食べることが好きなのだ。
  そうして自分は、そのうまそうに食べる猫の姿を見ていることが楽しいと思う。できたら食わしてやるからなと言われて、楽しみにしていようと皇帝は応えた。彼女が薦める甘酸っぱい糖蜜漬けにも興味はあったけれど、それよりも戦利品を目の前にして笑う猫を見てみたいと思った。
 「なぁ」
 「うん――?」

 「ごめん」

  急に謝られて瞬きする。
 「オレ、行くね」
  どきりとする。ごめん?背を向けかけた猫へ、どこへ行くのかと男は尋ねる。
 「どこって?」
 「厨房はそちらの方向では」
 「オレ厨房へ行くだなんて言ってないよ?」
 「――え?」
 「え?」
  今、この裾の中のスグリの糖蜜漬けを作ってもらう約束をしたのだとその口で言ったはずだ。会話の辻褄が合わない。一瞬差し込んだ午後の日差しが強く、立ち眩みを感じて男は目を閉じる。次に開いた視界に猫と補佐官のノイエが寄り添い立つ姿が映った。
 「仕事終わった?」
  いつの間にか猫が見上げているのは自分ではなくてノイエの顔だ。聞かれて補佐官が微笑んだ。
 「うん、今上がるところだよ」
 「じゃあ」
  一緒に帰れるな。
  持った才能の割にどこか朴訥としていて、穏やかな表情をいつも崩さない補佐の姿。
  ノイエに手を握られておずおずと笑った猫の顔は、覚えていたよりも少しだけ大人びていて、ああそうだったか、と男は思った。
  猫は男の手元にいない。
  二人仲良く戻る家があり、並んで食べる食卓がある。そこに男の入る隙間はない。
  ディクスの時と同じだ。自分がそう仕向けたのだ。
  互いに悪く思っていないというのなら、いっそ一緒になってしまってはどうかと勧め、それを二人は受け入れた。立派なお題目の式典は要らないのだと身内だけ、どこかの教会で慎ましく宣誓したと聞く。初めて着飾った猫は綺麗と言うよりは可憐だったと、招かれもしないのに押しかけた誰かがそう報告していたような気もしたがよく覚えていない。男は見ていないからだ。
  食べることが好きな彼女はきっとうまそうな夕飯を用意するのだろうとふと思った。
  身振り手振り交えながら、彼女は今日一日の出来事を話すだろう。裏庭の花壇の花のつぼみが、露に濡れていてとても綺麗だったとか。門番の待機所で茶を馳走になったとか。見たこともない鳥がやって来て枝で囀っていただとか。そう言えば洗濯場の女の一人に孫ができただとか。
  皇宮で食べる時にいつも男の横に並んで話していたような、とりとめもない、けれど今までそうした話をした人間はいなかった。報告でも陳情でもない日常のひとこま。男には見ることのできない色鮮やかな世界。実に楽しそうに嬉しそうに話す姿を見ていることが心地よかった。
  そうだった。
  猫はもういない。
  背を向けノイエと並んで歩きかけた猫が不意に振り返る。午後であったはずなのに、視界は薄暗くて顔はよく見えない。見えなくてよいとも思ったし、いっそはっきりと見えてしまえばよいとも思う。
 「ごめんね」
  と猫は言った。
 「オレ、行くね」
  と猫は言った。
  引き止める言葉を皇帝は持たない。
  ひとりだと思った。
  どこへ姿を隠したのかと辺りを見回し、いつの間にか侍従やら護衛まで姿を消していることに気が付いた。ひとり。回廊に誰の姿も見えず、物音ひとつ聞こえない。
 「――猫?」
  皇宮の中には誰もいないのだ。
  いいや、皇宮どころかこの都にきっともう誰もいないのだ。
  ひとり。
  しんしんと足先から凍える冷たさの中に、ことんと耳障りな音が響いた気がして皇帝は視線を上げた。

  人払いを済ませた謁見の間で男は物思いに耽っている。誰もいないのは当たり前のことで、そう自分が命じたからだ。
  固く冷えた玉座。そこへ深く腰を下ろし、肘当てをなぞった。
  今見ていたものは夢だったのか記憶だったのか、曖昧模糊としてよく判らない。そうして結局どちらでも同じことなのだと思った。部屋に戻っても何もない。戻る理由が思い当たらない。途方に暮れて自分はこうしてがらんどうの広間でひとり、酒を呷っている。

  ――あの時。
  肘当てをなぞりながら男は思う。

  うわ言を呟くチャトラを玉座へそっと座らせた。
  それだけでしっくりと収まった気がして、少し離れて眺め、エスタッド皇は一人で満足する。
  謁見の間である。
  先ほど部屋より連れ出したのだった。
  最初は私室の床の上に転がしたままで、それでいいかとも思ったのだけれど、だんだんに色を失っていくチャトラを見ている内に、どうしてか勿体ないと思った。どこか別の、彼女に相応しい場所があるのではないか。思い当たったのは同じように玉座に座したまま、冷たくなっていた父の姿だ。恐らく自分もそうなるだろう。そうなりたいと願う。
  だから。あの固く、冷たい場所でなくてはならない。
  それは使命感に似ていた。運ぶ間は焦燥に駆り立てられ、やたら胸が騒いだけれど、今はもうそれもない。
  俯き加減になると眼元に落ちるチャトラの前髪を、そっと指で掻き上げてやった。額を出した彼女はあどけない。そう言えば彼女と男は一回りどころか二回り近く年が離れていた訳で、あどけないと言うよりははっきりと幼い、が正しいのだ。
  自分よりもずっと若く猛々しいはずの心音が聞いてみたくなって、男は彼女の痩せた胸へ耳を寄せた。その動きに、もうほとんど感覚もないだろうに、少しくすぐったそうに身を竦ませたチャトラは、潰れた喉から擦れた声を喘ぎ出し、先程から話すことをやめない。
  一生懸命話しているなと思った。言葉にならない音の羅列を。
  それはもう意味として形を成してはいなかったけれど、男には彼女が自分へ向けて何か呟いているのだろうなと判った。ひどく穏やかな顔になってチャトラは吃音を漏らし続ける。
  ああ、もう黙れ。もう良いのだよ。
  満足したはずの胸のあたりが急に虚ろになって、何だろうと男は胸を押さえた。藤を食べたなと思う。あれが凭れでもしたのか、それともチャトラに含ませた毒薬が自分にも効いてきたのだろうかと思った。
  そうだったのなら好都合だと思う。誰もいない謁見室で静かに眠ってしまえるのならば、それでも良い。

  終わりにしようと思った。

  惜しいと思うものを失うぐらいなら、他に取られてしまうぐらいなら、いっそこの手で全てにケリを付けて丸く収めるべきだと思った。囲い込んでしまっておけない。何故なら猫はいつの間にか、抜け道を探して逃げ出してしまうからだ。今以上に、己の器をひたすら広げて行くことも、どうもできそうにない。したいとも思わない。
  奥庭で他の男に抱きすくめられていたチャトラの姿を思い出す。
  何と言ったものか、どうしてよいのか判らない、そんな顔でじっと身を固くして後ろから抱きしめられていた。本当に嫌だったのならすぐに撥ねつけてよさそうなものなのに、困った顔をしていたのに猫はそうしなかった。ただ俯き、ノイエが手を離すまでその腕の中でじっとしていた。
  瞬間、男は己の中で何かが崩壊するのを感じた。と言ってもそれは、けたたましくがたがたと足元が崩れ落ちてゆく類のものではなくて、まるで砂地に水が吸い込まれてゆくような、静かでゆっくりとした、けれど確実な崩壊だった。
  惜しいと初めて思った。取られてしまうのは惜しい。
  だったら、取られてしまう前に失くしてしまえ。そう思う。

  そっと流し込んだ毒薬を、ひどい顔をしてチャトラは飲み込んだ。不味かったのだろう。何とも言えない顔になった彼女を見て、食前酒の薬を飲んだ時も確かこんな顔をしていたなと思いだす。
  懐かしくなった。
  あれはいつのことだったのだろう。
  思い出し、何故だかとてもやさしい気持ちになって、それから男はしばらく体越しに響くチャトラの声をじっと目を閉じて聞いた。
  そう言えば自分は猫の張りのある声が心地良いと思っていた。今はもう、聞こえてくるのは可哀想なぐらい擦れしわがれたものでしかなかったけれど、澄んだ声を聞くのが楽しかった。
  最初から、元気だけはあったのだ、お前は。
  澱み、滞り腐った皇宮の空気を吸って生きていた男の胴体へ、瞬く間に風穴を開けた。その穴はとても大きなもので、吹きぬける風は移ろい、恐らく男はこの先ずっと空洞を抱えて生きていかなければならないのかもしれないけれど、今更どうでも良いと思った。
  胸元から顔を離し、男はチャトラを見上げる。良く見えなくなってきたのかそれとも眠いのか、何度も目を擦りそれでも懸命に視線を合わせてくる緑青色とぶつかった。恐れ気もなく真っ直ぐに男を見つめてくる人間は、今までどこにもいなかった。実の妹ですら目を伏せたのだ。
  だから興味が湧いた。もっと突ついたら、弄ったら、苛めたら。どんな目をしてくるのか知りたくてたまらなかった。
  そうしてやはりこの色はいいなと思った。
  うっすらと笑んだ男を見つめてたどたどしく、つっかえつっかえチャトラは喋る。もういいのだよ。男は静かに呟いた。もう黙れ。もう喋らなくていい。そう言った男へチャトラは豪くやさしい顔をして、それでも口を噤むのを止めない。
  吃音。耳障りな言葉の羅列。
  もう疲れただろう、そう言いかけて男の方こそ口を噤む。果たして疲れたのは彼女だったのかそれとも己か、どちらだろうと思った。
  男は体を起こし、チャトラの頭を撫ぜる。手触りの面白いぴんぴんと撥ねる黄色の毛。撫ぜながら口の端が上がった。それからゆっくりと指を滑らせ、眉、まぶた、目尻、ほほ、唇。なぞりその形を確かめた。覚えておこうと思う。こうしてあたたかな形をもう触ることもできなくなるのだろうから、せめて最後まで指先で記憶しておこうと思う。指でなぞるだけでは物足りなくなって、追うように唇で辿った。瞼に触れた瞬間だけは目を閉じ、男のなすがままに受け入れていた猫は小さくむずかった。
  もどかしそうなままチャトラはどもり続ける。首筋に取り出した短刀を押し当てながら男はもう一度、よくよく耳を傾けた。
  やはり言葉の意味を成さない。抑揚をつけた無意味な音は、どこか調子はずれの歌にも似ていて子守唄だな、と男は思った。
  もういい。もう眠れ。
  押し当てた刃は曇りひとつなくて、手前に引けばすぐにでも血飛沫と共にチャトラのぬくもりが立ち消えてゆくはずだった。感覚をほとんど失った猫に痛みはないはずだ。そうしてぬくもりを浴びて、男はこのどうにも行き場のなくなった感傷を終わりにしようと思っている。
  躊躇いはない。頸動脈を確認するでもなく探り当てる。ぐっと肩に力が入りまさに引く最後の瞬間に男はふとチャトラの顔を見た。教えたつもりのない己の名を、呼ばれたような気がしたからだ。

  ――ああ。

  心細そうな、どこか置いて行かれた子供の顔をして、チャトラが男の視線を探していた。見えないのだ。そうして髪のひと房を握り込んだまま、猫は不安気に小さく啼いた。舌足らずな口調だった。自分を呼んでいるのだと男ははっきりと悟った。
  ずくりと芯が疼いた。

  哀しいと。

  哀しいと思った。

  ……ああ。駄目だな。

  すとんと体から力が抜け、玉座の前にへたり込んで男は思わず呆ける。数呼吸置いてそんな自分に笑いがこみ上げ、己と猫の他は誰もいない広間に声を漏らした。
  自分はおかしい。そんなことは言われるまでもなく判っていることだ。そのおかしい自分がおかしいなりに、この目の前の猫に――チャトラに――対して抱いていたものが一体何であったのか、皇帝は初めて理解した。
  いとおしかったのだ。いつからかは知らない。
 「癪だね――」
  短刀を投げ出ししみじみと呟く。
  この瞬間、この状況になって気が付くと言うのも、皮肉と言うよりは滑稽でしかない。そもそも今更どうしろと言うのだ。針で編まれた敷物があるとして、ひと目ふた目のほつれであるならばそれは繕いようがあるのだろうけれど、既に自分は引き裂き焼き焦がして後戻りのできない地点に到達してしまった。
  壊れたぜんまいをいくら巻いたところで、からくりは動かない。
  近寄ると緊張し、怯え身を固くするものに、今更どの口がいとおしいと言うのだ、馬鹿馬鹿しい。
 「他へやるのは少々癪だ」
  良いものだと思った。周りからの報告を聞くまでもなく良いものだった。
  そう。お前はとても良いものだ。お前は最初から私の許にいてはいけなかった。
  懐を狙って飛び込んできた猫へ、あの時興味を抱いてはいけなかった。
  失うことを今までにも考えなかった訳ではない。これは危険だと警戒し、深入りするのはよくないと理性が告げ、周りからも諌められて理屈ではその通りだと思って、けれど側に見えないと腹が立った。逃げようとするのへ縛り付け、他の人間に懐くのに苛立ち、どうしても手放し難くて、どうしても置いておきたかったから、どんなことをしてでも自分の裡に囲っておきたかったから、
  ――仕様のない。
  そっとチャトラの頬へ指を這わせ、数度撫ぜる。すべらかな頬。あまりにも手触りが良かったので己の頬をすり寄せた。そうして妙に穏やかな気持ちになって、皇帝は静かに微笑んだ。
  こうしていれば、いずれ私はお前を食らい尽くす。だから。
  さようなら、と声にならない呟きが口の端に上る。
  己の掌中から手放そう。
  お前がとても大事でいとおしくなってしまったから。
  お前がいつでも笑っていられるように。お前を手放してやろう。


(20110619)
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最終更新:2011年06月19日 19:24