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<<飛ぶ夢をしばらく見ない>>


  雑踏の中をでかい図体で歩くのは骨が折れる。
  こそこそと歩くよりはいっそ図々しく肩を怒らせて風を切り、チンピラ然としてしまえばそれはそれで割と格好もつくのかもしれないが、向かいから女子供が来るともういけない。どうしたってなるべく当たらないよう、邪魔にならないよう、体を縮めて避けようとするので余計に気疲れする。
  かといってこの飯時の掻き入れ時、皇都のどの道を歩こうと混雑して避けようがない。どこか一か所でじっとしていればそれで良いのかもしれないが、生憎腹は空いていた。飯にはありつきたい、そうしてできれば歩きたくない、けれど黙って座っていたところで昼飯が目の前に揃えて出てくるようなたいそうな立場の人間でもない。葛藤を抱えながら苦い顔をして歩いている。
  ダインだ。
  早く馴染んだ戦場へ戻りたいと願う。呼吸するように慣れ親しんだ、あの血生臭い場所へ。思えばもう随分長い間荒んだ世界に身を投じているものだ。よく死ななかったものだなと少しだけ得意に思った。
  それにしても市内は混んでいる。
  そろそろ夏至祭が近いことも関係あるのだろうかと思った。
  皇都エスタッドでは生誕祭に次いで、夏と冬に行われる大祭に大変な盛り上がりを見せる。その二つのうちの一つ、夏至祭と言われる夏の大祭まで、もう一月を切っていた。ただでさえ各国からの行き来が最近は激しいというのに、輪をかけて増えるのである。また従来の戦場ではなく、警備の仕事に駆り出されるのかもしれないなと思って少しげんなりとした。
  人好きされる性格である自負はあるが、人付き合いは苦手だ。
  しかも相手の腹を探り合うような人付き合いは。
  それにしても行きつけの店はどの店も盛況、通りの外まで人が溢れている状況で、待たずに手早くしかも腰を下ろすことはどうやら諦めなければいけないようだった。屋台で買い入れて適当にそのあたりで済ませてしまうことにする。目に付いた出店にブラブラと近付き、物色していると隣に並ばれた人影にあれ、と声を掛けられた。
 「やあ。奇遇だね」
 「……補佐官殿じゃねェか」
 「こんにちは」
  にっこりと笑って隣に立ったノイエが腰を折った。仮に、手に紙で無造作に包まれた串焼きが握られていたとしても。そこだけ空気が違うようにやけに優雅である。
  専制君主政におけるエスタッドにおいて、それでも割に皇帝へ対し、発言力を持つ三補佐官の一人である。残り二人の補佐と比べると格段に若い。
 「アンタ、何でこんなところにいるんだ」
 「卿とだいたい同じ目的だと思うけれど」
  ダインの素朴な疑問に、首を傾げてノイエは応える。いくら他の都市に比べてエスタッドの治安が良いにしても、護衛一人つけずこうして市中をぶらつくのはいささか無用心ではないかと思うダインだ。これで、見た目に反してやたら腕が立つだとか、必中の技であるとか、何某かの防衛法を持っているというのならば話は別だけれど、
 「補佐官殿がこんな下町で昼飯を食う、ってか?」
  人並みに訓練はしたとはいえ、ノイエ補佐官の剣術の腕前は中の下程度とダインは見ている。自衛のための腕前はそれで十分だろうが、悪意を持つ多人数に万一囲まれては持つまい。
 「官職に夢を見過ぎだよ。補佐だろうが何だろうが腹は空くからね」
  告げると苦笑と共に返された。言っていることはそうなのだろうが、わざわざ一人で屋台に並ぶ意味が判らない。
 「仕事はどうしたんだ」
 「今日は午後からなんだよ」
  ここであったのも何かの縁だし、じゃあ卿に護衛を頼んでも良いかな。やわらかな言葉でそう頼まれた。
 「別に、構わないが」
  頷く。
  何しろダインに時間だけはある。たっぷりとあった。


 「……謹慎してからもうすぐひと月になるのかな」

  適当に屋台で見繕い、適当にそのあたりの緑地に腰を下ろし、食べ終えてしまって手持無沙汰になったので、適当に話題を選ぼうとしたところへ、先にノイエに制された。そうだな、と返す。
  頷きながらもうひと月になるのかと改めて思った。

  出来れば思い出したくもないあの日。
  たまたま訪れた皇宮で異様なエスタッド皇を見かけ、ダインは驚いてノイエの私室へ押しかけた。驚いた、と言うよりも嫌な予感を抱えたと言った方が正しいのかもしれない。鬼気迫ると言おうか焦燥していると言おうか、明らかにどこかおかしい皇帝の様子をノイエに尋ねるつもりだった。陛下から目を離さない方が良いのかもしれない、と直前に交わしたディクスとの会話も後押ししている。三補佐の中でノイエを選んだのは、ほか二人の補佐官には若干聞くに聞けない雰囲気であったというのと、ダインよりもノイエは年下であるので強引な態度で押せる、それだけの理由だった。
  あの様子は何だ、一体何があったんだと尋ねているところへ、皇帝の私室付きの護衛が飛び込んできた。
  慌てているというよりも狼狽えているという表現がよく合うと思った。
 「陛下が」
  と護衛の兵士は言った。
  その一言で立ち上がる。
  判っていた。嫌な予感は最初からしていた。
  できればこの嫌な予感とやらが当たらなければいいが、しかしきっと当たってしまうのだろうなと言う確信にも似た予感。
  背後で制止するノイエの声を振り切ってダインは駆け出していた。出来れば見たくない、辿り着きたくもない、こうして自分がどうにも貧乏くじを引いてしまったようなどうしようもない怒りのやり場に唸りながら、謁見の間の扉を叩きつけるように開け放つ。

 「……アンタ、」

  広間にはエスタッド皇と、猫と呼ばれた娘の二人だけ。
  勢い開いた扉を見たのはエスタッド皇だけで、くずおれた小さな体は玉座から半ばはみ出していた。無言でつかつかと近付いて、ダインはチャトラの体を検める。
  ひどい状態だった。呼吸が浅く、脈も不規則だ。だらりと舌がはみ出し呼びかけにも一向に反応せず、意識もない。素人目にも早く医師に見せるべきだと言うことだけは判った。
  振り向きざま、後ろにぼうと佇んでいた皇帝の顔めがけて、ダインは拳を叩きこむ。思い切り打ん殴った。加減はしなかった。してはいけないと思った。
 「アンタ何してんだ!」
  怒りの半分は自分へ向けてのものだ。しばらく皇都を離れていたとは言え、こうなってしまう前に何かできたのではないか。もっと早くに気付くことはできなかったのか。
  ディクスと立ち話をし、対策を講じようとした矢先とは言え、後手に出た自分が恨めしい。ノイエに確かめるような手間をかけず、いっそ今のようにこうして皇帝のところへ殴り込みをかけてしまえば良かったのだ。手順を踏んだ自分の完全な失敗である。
  腹立たしい。
  殴られた勢いでよろめいた皇帝は、それでもどこか夢を見ているような虚ろな視線でそうだね、と静かに呟いた。口の端を切ったものか、血が滴る。けれどダインも殴られた皇帝ですら、それに構うことはない。
  遅れて辿り着いたノイエが一瞬広間の雰囲気に息を呑み、けれどさすがに若くして補佐を務めているだけはある。瞬く間に我に返って後ろにいた兵士に素早く指示を出す。陛下をどこか一室へお連れしろ。それから直ぐに医務室の手配を。は、と短く応答し駆けだした兵士の足音を聞きながら、ダインは痙攣するチャトラの体を抱え上げた。
 「連れて行くぜ」
  告げる。
 「――ああ――うん」
 「アンタ少し頭冷やした方がいい」
 「――そうだろうね」
  声は狼狽えも焦りもせず、ただ淡々と鸚鵡返す。ぼうと心ここに在らずの状態で、埒があかない。舌打ちをしてチャトラを抱え、ダインは広間を出た。

  医務室に結局、寝泊まることになった。
  噂好きの侍従あたりにチャトラの世話を任せる訳にもいかず、かと言って誰か女手に託したくても気心の知れた女中は皇宮にはいない。体調を崩したので看病を頼むと何も知らない誰かに任せるには、体のあちらこちらに残された痣や痕があからさまに過ぎた。事情を知るノイエには三補佐の日常業務がある。
  一連を見聞きした兵士へひとまずの口止めをし、二、三日屋敷には戻らないとミルキィユへ向けてダインは使いを出した。
  詳細は話していない。話せない。
  自分の実の兄が関わる良くないことを知る必要もないと思う。知ったところでどうしようもない。どうこうできる問題でもないと思った。
  知らせを受けた鬼将軍はただそうか、と呟いたそうだ。
  そのまま軍務処理を続けたと聞く。相変わらずだな、と思った。勘のよい彼女のことであるから、恐らく説明されずともだいたいのことを察してしまっていたのだろうし、察したからこそ口出し無用と思ったのだろう。
  治療を施され、それでもなお数日意識が混濁したまま、うわ言を呟くチャトラを眺めてダインは過ごした。ある程度容体が落ち着き、動かしても良いと医師の許しが出たところで自分の屋敷へ連れて帰る。
  皇宮に置いてはおけなかった。
  別の部屋へ連れて行かれた皇帝は、恐ろしいほどに何もなく静かで、医務室はおろか、ダインが皇宮からチャトラを連れ出す時ですら姿を見せなかった。勝手だとは思うけれどそれも腹が立つ。
  もう少し、ここまで行き過ぎた執着があるのならば、何がしかの行動を起こしてしかるべきだと思った。引き止めるだとか。心底改心して謝罪するだとか。
  そう思いながら、もしそうして皇帝が顔を見せたとしたら、やっぱり自分は不愉快になるのだろうなと思った。どちらにしろ苛立たしいことには変わりがないのだ。
  エスタッド皇は人として何かが欠けている。
  非人情であるとか冷淡だとか貶すことはいくらでもできるけれど、きっとそう言うことではなくて、説明できない何か、つまり「欠けている」ということなのだろうと思う。皇帝にもともと足りない部分。あたたかみを感じさせない、どこか上辺だけの空ろさ。
  その欠けた部分を補う何かが隣に立てば良いと思ったこともある。今は反省している。いつくしみ、たいせつにするという感情が希薄な人間にそれを求めることが、土台間違っている話なのかもしれない。
  だったから。
  連れて行った自分の屋敷で、一週間ほど過ぎた後にぽかりと目を覚ましたチャトラに、ダインは言うべき言葉を持たなかった。ただ皇宮からここへ連れてきたのだと説明しただけだ。
  そうして取り乱すかと思ったチャトラは、恐ろしく静かだった。判っていたのだろうと思う。きっとこの娘が一番皇帝を理解していた。
  救えなかったけれど。

 「怒らねェの」

  第一声がそれだった。なんでだとダインは尋ねた。
 「オッサンらしくないと思って」
 「俺らしいってどういうのだよ」
 「もっと俺を頼れ、とか。なんでお前は周りに相談しないんだ、とか」
 「言うと思うか?」
 「思う」
 「じゃあ、いわねぇよ」
  苦笑いが出た。読まれている。
 「どっか、苦しい所はないか」
 「腹減った」
 「その元気があるなら平気だな」
  意識もなく数日水しか口にしてなかった状態で、もともと薄い体が一回り小さくなったように感じる。栄養を付けてやらないといけないなと妙な使命感が湧く。もともと女子供や、小さな生きものに甘い方だ。保護してやらないといけないと思っている。
  ほら、と差し出した汁椀を受け取る両腕に包帯が巻かれていた。赤黒い縄目の付いた首にも白い布。何度も穿られた足の刺し傷は痛ましい状態で、まさしく満身創痍と言う表現がぴったりだと思った。そうしてここまで我慢強いチャトラに、自分勝手だと知りながらダインはやはり腹が立つ。
 「あのひとのこと、殴ったんだって?」
  思い出したくもないことを不意に聞かれ、ぎょっとしてダインはチャトラを見た。
  その彼を見て苦笑いと言おうか、諦めと言おうか、複雑な笑いが彼女の口の端に漂っている。
 「なんで知ってんだ」
 「さっき、ミルキィユさんきてた」
 「お嬢が?見舞いに?」
 「うん。今から現場に戻るって。先に行くから、謹慎解けたらさっさと戻って来いって」
  チャトラへ言づけて、さっさと戦場へ戻ってしまったらしい。擦れ違わなかった。もしかすると避けられたのかもしれないと思う。
  少し残念な気もしたけれど、それでいいと思った。会ってしまえば現状を説明せざるを得ないし、そうした場合どういう顔をして会ったらいいのかダインにもよく判らない。
 「他に何か言ってたか?」
 「どうかな。オレ、ぼうっとしてたしよく覚えてなくて……、えっと、黙って頭撫でられて、あとどこか痛いところはないかって聞かれたかな……。それから、アンタがあのひとのこと殴ったって、しょうがない奴だなって言ったんだ」
 「そうか」
 「なぁ」
 「おう」
 「オレ、アンタの謹慎に対して、ありがとうとかごめんって言った方がいい?」
  上目使いにチャトラがダインを覗いている。目の前の娘が、呆気らかんと見えてその実えらく相手に気を使う性格だとダインは知っていたから、要らんよと一言答えた。
 「立派なことは何一つしてねェ」
 「そっか」
 「俺が、俺のルールで許せなかったから殴っただけだ。お前は関係ない」
 「そっか」
  そのまま手元の汁椀に目をやり、しばらく黙って何か考え込んでいたチャトラが、
 「……オレね」
  いい加減食わんと冷めるぞとダインが口を挟もうとしたところで、呟いた。
 「ちょっと自惚れてるところあった」
 「自惚れ」
 「うん。オレ、あのひとに対して自惚れてた」
 「……自惚れ」
 「うん」

 「ダイン卿?」
  繰り返し問われて、日向と日陰のほんの隙間、意識に沈んでいたダインはふと顔を上げた。ノイエが気遣わしげに覗き込んできている。
 「どうかしたのかな」
  ここは自分の屋敷ではなくて皇都の中央部の庭園で、あの時の時雨れたような空気はまるでない。目に染みるほど日光が降り注ぐ真昼間だと言うのに、どうしてかダインはそのぬかるみから足を引き抜くことができない。
 「……自分はダンナに対して自惚れてたって、チャトラは言っててな」
  記憶を引き摺るように口にしていた。
 「うぬ、ぼれ」
  あの時聞き返したダインと同じように、ノイエもまた口の中で数度その言葉を転がして考え込んだ。微笑が消えて、少しだけ真面目な顔をしていた。
 「意味が判るか?」
 「あの子のどこか自惚れていたのか、僕にはさっぱり判らない」
 「だよなぁ」
  がりがりと頭を掻いてダインは苦笑う。笑い飛ばすしかないと思う。
  そうでなければどうにもやるせない今の状況をさらっと流せそうにない。勢いを付けて立ち上ったついでに、その勢いを借りて背中越しにダインは尋ねてみることにした。
 「なぁ、聞いてもいいか」
 「うん、何だろう」
 「アンタは、俺が部屋に押し掛けた時にも、皇帝のダンナの気持ちが判るようなことを言っていたな。俺には想像もつかなかった。アンタも、ダンナと似たような経験があるのか」
  尋ねられたノイエがいつもの柔和な面差しから、珍しく面食らった様子になった。不意打ちを食らって、吃驚した犬のような顔をしている。
 「どうしてそう思うのかな」
 「カンだよ。ただの傭兵のカンだ」
 「ダイン卿は怖いね」
  すぐに苦笑し普段の顔を取り戻して、そうだね、とノイエは言った。
 「卿は、至極まっとうな生き方をしてきたんだと思うな」
 「……十五年近く戦場で人斬り続けてる人間に、言う台詞じゃねェと思うが」
 「そうかもしれない。でもきっと、卿はは人並みに相手と出会い、人並みに家庭を築いて、人並みに生まれた子供を慈しむことができる人間なんだと思う」
 「アンタはそうじゃないって口振りだな」
 「どうかな」
  僕が人並みかどうかは僕には判断が付かないよ、そう言ってまたノイエは笑った。
 「アンタはよく笑うな」
 「不自然に見える?」
 「……いや。ダンナのアレとは違ってそれこそ至極まっとうな笑いに見えるが。もし、それも計算されたもんだとしたら、大したもんだと思ってな」
  一瞬の不意打ちは先程のことだけだったらしい。ダインの言葉に顔色一つ変えずに、
 「計算していると言ったら君は驚くかい?」
  ノイエは微笑した。
 「どうだろうな。三補佐なんてもんは、並大抵の努力と才能だけでは、なれるもんじゃないと思うからな」
  笑いは相手の闘争心を掻き立てないからね。
  静かな声で呟いてノイエは手元の雑草を引き千切った。
 「心の底から楽しそうに笑う人間を卿は殺せるかい」
 「ああ……そうか。命の取り合いをしている状況じゃ、笑う人間なんていねェな」
 「そう。笑いは、相手の警戒心を緩ませて、付け入る隙を与える。殺意を奪う。だけど、作り笑いじゃ見抜かれてしまうんだ。真剣勝負だよ」
 「アンタは楽しくて笑ってるのか?」
  だとすると、この補佐官の喜怒哀楽の怒りや悲しみの部分はどこへ行くと言うのか、ふと疑問になってダインが口にすると、楽しいよ、と返される。
 「僕はもう生きていることが楽しい」
 「……そういうもんかね」
 「笑うことしか残されていなかったら、人は笑うしかないんだ」
 「はー、」
  同じような言葉をどこかで聞いた気がして首を捻る。そう言えば屋敷のチャトラが、ある日の午後、似たようなことを言っていたのだと気が付いた。

  ひとりだったよね、とチャトラは言っていた。

  あのひとずっとひとりだった。

  死にかけた娘は、静かな目でダインをじっと見つめてくる。瞳の緑青色が綺麗だと思った。人種さまざま入り乱れる皇都エスタッドに置いても、なかなか見かけない。
 「あのな。お前さん、死にかけたんだ」
 「うん」
 「手当が何とか間に合ったから良かったものの、あの野郎とんでもないもん飲ませやがった」
 「うん」
 「死ぬところだったんだぞ」
 「うん」
  言いながらダインは自分が嫌になる、何て説教じみた言葉だろうと思う。
  何もかも判ったような顔で頷きやがって。悟ったような顔しやがって。チャトラに腹が立つとともに、そう言うものなのかもしれないと諦める自分もいる。
 「こんなこと言ったら、オッサンは怒るのかもしれないけど、でももうたぶんあのひと、そうするしかなかったんだ」
 「なかったって言ったっておめェ、」
 「そうするしかなくなっちゃったら、もう、そうするしかないんだよ」

  皇宮と言うものはやっぱり理解できない。内心呟きながらなんとか顔には出さずに、ダインはなぁ、と声を掛ける。
 「まだお勤めまでには若干時間があるだろ。昼間から不埒な大人の行動をしねェか」
  なんとなくこのまま素面で別れるのも気まずい気がする。ぐい、と酒瓶を呷る動作を示すと、ノイエがいいねと笑って答えた。
 「汚れた補佐官の僕でよければ、お付き合いしようか」
 「よく言うぜ」
  汚れているのはお互い様だろ。言いながら、先程は諦めた昼食時の混雑の中へ身を投じる覚悟を決めて、ダインはやれやれと首を回したのだった。

                 *

 「お前、これからどうするんだ」
  そろそろ謹慎も解けると言う知らせが届いた午後、そうたいして広くもない庭に出て口を開けて空を眺めていたチャトラに、並ぶようにしてダインは声を掛けた。ふた月経って随分と彼女は回復したように思う。表向きの傷は塞がり、一番に酷かった足の刺傷もほとんど治って、小走りに駆けても痛みはほぼないようだった。
  うん、と頷いて相変わらずチャトラは空を眺めている。
 「実はさ」
 「おう」
 「明日にでもここを出ようと思ってたんだ」
 「明日ァ?」
  言うに事欠いていきなりすぎるだろうと、ダインは素っ頓狂な声を上げて隣を眺めた。回復した彼女が、ひとところにじっとしていられる性格ではないことは承知だったけれど、
 「行くアテあるのか」
 「ないよ」
  即答してチャトラはおかしそうに笑った。
  そう、良く笑うようになったのと思う。皇宮から連れ出して最初の頃は、どこか腑抜けた虚ろな顔をしていることが多かったし、笑うにしても無理に取り繕ったような痛々しさがあった。
  起き上がれるようになったあたりから次第に元気を取り戻したようだ。まだじっとしていろと言うダインの目を盗んでは、屋敷のあちらこちら、日頃戦場に出ずっぱりで留守にしがちな屋敷の立てつけを修繕していたようだった。多くの下働きを雇えるほど経済的に余裕はないし、年間の半分以上を戦場で過ごすダインにとって、屋敷はそこに建っていれば良い程度のものだった。多少雨漏りしたところで、不便に思う家の者がいないのだからどうとでもいい。
  そんなことをしなくてもいい、寝てろと咎めたダインに、これぐらいしかできることはないから、とチャトラは言った。
 「働かざるもの食うべからずって言うんだよ」
 「よく知ってんな」
 「姉ちゃんが言ってた」
 「姉ちゃんか」
  休養している間に、ダインは何度もその名前を聞いた。血は繋がっていないと言ってもいたようだが、大切な姉だったのだろうなと思う。姉ちゃんと口にする度に、そっと転がすように、やさしい表情になっていることをチャトラ本人はきっと知らない。
 「アテがなくて、一体どこに行くつもりだったんだ」
 「どうだろう。あんまり考えてなかった」
 「ノイエのところにはいかないのか」
 「ノイエさん?」
  不意に出た名前に、聞かれたチャトラの方が不思議そうな顔になっている。
 「なんでそこでノイエさん?」
 「屋敷に来いとか言われたんだろ」
 「……ああ」
  ダインの言葉を聞いて、眉根が寄せられて少し困った顔にチャトラがなった。そうだな、とまた空を眺めている。
 「行かないと思う」
 「そうか」
 「あの人、すごく優しいし、親切だし、礼儀正しいし、それなりに男前だし、百点中で言ったら九十点以上だと思うんだけど」
 「ほー」
  ダインはもう三十路を過ぎた男である。ノイエがその自分より五、六歳下であったと記憶している。成程、十代から見ると年上の男とはそういう風に見えるものなのかと少し感心した。
 「じゃあ、アレだな?お前にとっての俺も、優しくて親切で礼儀正しい男前ってことだ」
 「はァ?」
  オッサン頭でも煮えてんの、呆れたように目を剥かれる。三十路過ぎの男は少しむくれた。
 「いいですよどうせ俺は」
 「何が聞きたいのか判んねェよ」
  茶化されたことに気付いたチャトラがまた少し笑う。
 「ノイエさんの申し出はすげェありがたいと思うよ。……屋敷で働かせてもらって、明日のメシの心配をしなくて良くて、腹空かせてぶっ倒れたり寒くて寝られない夜がなくて、それだけでも十分御の字だとは思う。思うけど、でも行けないよね」
 「行けんか」
 「……だって、いい人だとは思うけど、オレそれ以上の気持ちノイエさんにないもんよ。屋敷に行くって、そういう事だろ」
 「利用しようとは思わねェか」
 「甘い汁だけ吸いに行けってか?」
 「おうよ。少なくとも衣食住の心配はないだろ。なんだったら、俺は大概屋敷にいない訳だし、お前さんはここに居座ることだってできる訳だ」
  ノイエに屋敷に行きにくいのであれば、そう言ってふとした思い付きを口にするとそちらの方がよほど現実的に思える。そもそもダインはほとんど皇都にいないのだ。このふた月のように、建付けを修繕しながら、誰に気兼ねをすることなく、屋敷を自由に使って良い訳だし、住込みの管理人は必要ないとも思っていたけれど、チャトラ一人雇う程度の収入はダインにもある。
  なぁそうしろ、と思いつきに妙に嬉しくなり勢い込んだダインに、空を眺めたままチャトラはぽつりとありがとう、と言った。
 「前言撤回する。オッサンも優しい」
 「親切で礼儀正しくて男前だろう」
  それはどうかな。からかうような笑みを浮かべ、だけど、とチャトラは言った。
 「だけどオレは町に戻るよ」
 「そうか」
 「うん。皇都を離れようと思うんだ」
 「ここを」
 「うん」
  無造作に伸ばしていた足を引き戻し胸の前で抱えてオレね、とチャトラが呟いた。
 「オレ、昨日オッサンいない時に、皇宮に行った」
 「は?」
 「行った、って言うか大通りから門とか、城壁とか眺めただけなんだけど」
  皇宮と聞いて自分が一瞬険しい顔をしたのだろう。急いでそう付け加えてアンタは本当に過保護だね、とチャトラは笑った。ほっとしてダインは肩の力を抜く。それから、
 「皇宮は大きいねェ」
  しみじみと彼女が呟いた。
 「大きいか」
 「中央塔はえらく尖ってるし、壁は高いし、門は大きいし、警備は物々しくてな。少し離れて見てたけど、それ以上なんだか近づけなかった。あの中にオレはいたんだよなって思ったけど、もう中に入る用事はないんだなって思った」
 「……」
 「中にいる時に、出ることは簡単だけど入るのが難しいってよく聞いてたけど、本当だなって思った。もちろん、オレルートとかたぶんまだ探せばあったとは思うんだけど、なんか足がすくんで動けなかった」
 「……」
 「中にいる時にね。何度かあの中央塔に上って、てっぺんから都見たりした。なんか神さまみてェな気分になるよなって最初思ってたんだけど、でも何度か通ううちに、あそこから見た都は、オモチャみたいに小っちゃくてゴチャゴチャしてるってことに気付いた。あれだけ高い塔に上ったんなら、空がずっと近くなるはずだと思うのに、なんだか空は遠くて狭かった」
 「……」
 「あのひとはこんな狭い空しか知らないのかなって思った。こんな切り取った狭い空と、オモチャ箱みたいな街しかなかったのかなって」
 「……」
  オレね。
  それまでの明るい表情を少し潜めて、空を相変わらず眺めたまま、
 「どこまでも広い空とか、手を伸ばしたら落ちてきそうな星とか。そう言うのをあのひとに教えてあげたいなって思ってたんだ」
 「自惚れていた、とか前にお前は言ってたよな」
 「うん。そうだね。……自惚れてたんだよね。あんまり誰も近寄らせないあのひとが、オレのことは邪魔に思わないみたいだとか。今まで三日と同じ人間が保ったことがなかったのに、珍しく飽きないだとか。読み書き教えてくれたり、一緒にメシ食ってくれたり、一緒に寝たり」
  あまりに声が淡々と静かだったので、もしかして泣いているのではないかとダインは恐る恐る彼女を伺う。
  頬は乾いていた。
 「ずっと一緒にいてもいいんだって思ってた」
  でも、それは。
  何と返していいか答えあぐねたダインの方を向いて、チャトラは困った顔になる。
 「なんでオッサンがそんな複雑そうな顔してるんだよ」
 「いや、だって、オメェそりゃ」
 「この屋敷の空もまだちょっと狭いね」
 「……」
 「オレはオレの、元いた場所へ戻るよ」
  さっぱりとした様子のチャトラへ、引き止める言葉をダインは持たない。引き止めたところで聞かないだろうなと思った。彼女の中でもう決めたことなのだ。
  だからそうか、と短く答えた。



(20110701)
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最終更新:2011年07月01日 10:16