<<庭師KING>>
なんてヒデェ顔をしているんだ。
乱暴な足取りと共に、見ちゃいられない、どうにかしろと目の前で堂々とボヤかれて、エスタッド皇はぼんやりと鈍い意識を目の前へ集める努力をする。
靄がかったようにぼやける視界の向こう側で、知っている顔の人間が苦い顔をしてこちらを眺めていた。名前は何であったかと掻き集めた意識をそちらの方向へ向けてみる。
男だ。
男で、自身よりは若い。
男で、自分よりも若くて、誰もが彼の顔色を窺いびくびくと背を丸め、事なかれで通そうと素通りしていく中で、比較的物怖じもせず発言してくる人物、
「――久しいね」
元守銭奴傭兵へ向けて発した声は酒に焼け、しわがれたものだった。咳払う。
名を確かダインと言った。
確か、と曖昧な気持ちになったのは、皇帝にとって相手の名前が何であっても割とどうでも良かったからだ。
「ひと月……?いやもっとだったか――大分経つのだろうか」
「……半日だろうとふた月だろうと三年だろうと、そんなこたァどうでもいいんだよ。アンタ、何してるんだ」
「――何、とは」
ドスの効いた声に聞かれている内容が判らなくて、エスタッド皇は頭を傾げた。そのまま手を振って遠くへ追いやってしまおうかとも思ったのだけれど、それで引く相手でもないことを思い出し、溜息を吐いて向き直る。
「君こそ何の用なのかね?」
探るような視線が不快だ。
一瞬そう感じたけれど、すぐにどうでも良くなって、皇帝は数歩離れて膝を着く相手を眺める。一応は服従の形を取っているけれど、それが建前であることは皇帝は承知の上だったし、その承知の上であると言うことを恐らくダインは理解していた。
「用はあったけどねェよ」
「――ほう」
ぶっきら棒にどうでもいいと返されて、皇帝は興味を持った。相変わらずだなと思ったからだ。
「謹慎処分を食らっていたのだったか」
だったか、と今一つはっきりしないのは、その処置を決めたのが自身ではなかったからだ。正直本当にどうでも良かった。騎士が主の顔を殴るのがどうの、だとか。
エスタッド皇の基準は、何がしかの行為がなされた瞬間に己が快か不快か。それだけが重要なのであって、建前も世間体もどうでも良かったのだ。
そうして、謁見の間で容赦なくダインに打ん殴られた瞬間、彼は腹が立たなかったと言うだけで。
ところが下に付くものは、それでは納得がいかないらしい。処分だの処罰だの仰々しい勿体を付けて、ダインをふた月の謹慎に処したと後で聞いた。災難だったなと言うのが、それを聞いた時の正直な感想だ。
とすると、こうしてダインがここへ顔を出すと言うことは、ふた月が経過していると言うことなのだろう。そうか、時々刻々と動いてしまっているのかと皇帝は初めて意識した。
そこまで思って、手にした酒を一口呷った。眺めていたダインの眉が顰められる。相手も飲みたいのだろうかと差し出すと、奪うようにひったくられる。
「まるで別人だぞ、アンタ」
「――そう」
口を開くのは億劫だったけれど、こうしてダインとの無駄口の掛け合いをすることはあまり嫌いではない。今は気分も良いし、少しは構ってやろうと気が動いた。
「では、影武者の顔形をそろそろ変えないといけないね」
「何があったんだ」
「何が?――何も」
何もないよ。
誤魔化している訳でもなく、本当に何もなかった。ただ諾々と朝が来て昼が過ぎ夜になって闇が訪れまた朝になっていただけだ。
ただ少しだけ世界が色を失っていたと言うだけで。
「必要なだけの責は満たしている。文句を言われる筋合いは――ないよ」
「アンタこんなところで何をしているんだよ」
「何、とは」
もう一度聞かれて男は瞑目しすぐまた目を開く。瞼の裏の闇は不愉快にちかちかと瞬いて、どうにも悪酔いしてしまいそうだと思った。
「自室へ戻る前にこうして東屋で涼んでいることは、咎められる行為だろうか」
自室へ戻って眠る気にもなれなくて、こうして人を払った中庭で一人物思いに耽っていたはずなのだけれど、辺りはすっかり暗くなっている。随分時が経ってしまったようだ。
「そういう事を俺は言っているんじゃねェよ」
改めて姿勢を崩し、目の前の男は胡坐を掻く。まったくもって物怖じしない男だ。少し面白くなって皇帝は身を乗り出した。
「ダイン卿」
「あ?」
「ふた月骨休めが出来たかね」
「なまった」
「そうか――」
ひったくった酒瓶を呷りながらダインがぼやく。その酒瓶をさらに奪い取りながら、好奇心から聞くが、と皇帝は口を開いた。
「ん?」
「私を殴った時」
「……謝れと言ったって謝らねェぞ」
殴られるだけのことをアンタはしたよね。剣呑な光を放ち身構えるダインに、そういう意味で話を振った訳ではないと手を振り否定する。
「そうではなくて」
「あ?」
「殴った瞬間どんなことを考えたのかと思ってね」
「は?」
「罰せられるとは思っていたのだろう?では、例えば私が赫怒し、勢いのまま罪すると言うような――そう言う状況は思い浮かばなかったのかな」
「……アンタが何を聞きたいのか判らねェが」
ぼりぼりと頭を掻いて、ダインは肩をすくめる。
「アンタがそんなことで怒り狂うような小っせェ男だったら、このダイン様はエスタッド皇国に忠誠を誓っていないと思うんだぜ」
「決め台詞のつもりかな」
「うるせェ」
それに、とちらりとダインが背後を伺う。何かあったかと男も同じように視線を流し、少し離れていつものように立ち尽くす護衛に気が付く。ダインはディクスを見たらしい。
「あの場にいたのが俺でなくて、あっちだったとしてもやっぱり殴ってただろ」
だったら後腐れない俺が殴った方が正しかった、そう言う。
「そういうものかな」
「そういうもんなんだよ」
「――なるほど」
また一口酒を呷って、皇帝は浅く頷いた。そう言うものなのだとしたら、そうなのだろう。
「で」
「うん――?」
「アンタは俺の質問にまだ答えていない」
「何をしているのか、と?」
「そう」
「――何をしているのだろうか」
長々と息を吐いて、椅子に深く腰掛けなおす。
何をしているのかと言われても、自分自身よく判っていないのだから聞かれたところで答えようがない。
ここにしてもそうだ。ただ目についたから執務室から立ち寄っただけで、特に意味があった訳ではない。ダインが音を立てるまで接近に気が付かないだとか、摩耗するにもほどがある、と男は他人事のように思う。
もと傭兵の男の身のこなしは軽い。
意図的でなければ、こんな何も障害物がない場所で音を立てるはずもない。皇帝が不用意に他人の接近を嫌う癖を知っていて、彼はきっと故意に音を立てて近付いたに違いない。
そうして、わざと気付かれた。
草臥れていたのでどこかで休みたかったけれど、自室にだけは戻りたくなかった。
あの扉を開けてしまうことが嫌だ。己が為したことを後悔するだとか、そんな殊勝な気持ちはさらさらなかったけれど、
「眠れぬのでね」
扉を開けて、中に誰もいないことを確認することは嫌だった。
あの場所は唯一、男にとって心休まる場所であってほしかった。巣のようなものだ。その場所でだけは警戒を解き、四肢を寛がせて眠りに落ちる。
その場所に、あれがいないことを今更確認することが嫌だった。扉を開けなければあれはそこにいる。きっといるだろう。いてほしいと願い、いるはずはないと自分に言い聞かせている。馬鹿馬鹿しい。
夢まぼろしを信じる年でもあるまいにと嘲笑する自分がいる一方で、だのに扉をあけられない自分がいる。
さびしい妄想だなと思った。
「痩せたな」
酒を呷りながら考えに耽った皇帝と、酒を呷るだけで黙りこくっていたダインの間には、随分な沈黙が横たわっていたと思う。
ようやくダインが男へ言った。
「――そう」
「ちゃんとメシ食ってるのか?」
「倒れない程度には」
応えながら、しかし仮に倒れたところで、まるでダインに支障はないだろうとも思った。もしかするといくらか余波は食らうかもしれないが、実際大したことはないはずだ。
呆れた、と相手が吐き棄てる。
そんなに自分と話すことに苛立つのならばさっさとこの場を去ってしまえば良いのに、なぜそうしないのか皇帝は少し不思議に思う。
「言わせてもらうがアンタ最低だ」
「――」
「俺はアンタのしたことを許さねェし、認めるつもりもねェが」
「ない、――が?」
「……」
腹立たしげに口を噤んで床を拳で軽く何度も叩き、
「……皇帝ってのァ難儀なモンだな。これだけ目茶苦茶な生活をしてても、風呂に入れば洗ってもらえて、髪は梳られ、見た目はきれいに整えられて……人形遊びじゃねェか」
低い声で言った。また別の言葉を選んだらしい。
「まま事ならばいっそよかったのであろうにね」
「部屋に戻らずほとんど寝もせずメシも食わないで酒ばっかり呷って、仕事はこなしているから文句は言うな、だ?」
「他人の口からそう言われてみると随分悲惨な状況に見えてくる」
「笑い事じゃねェよ」
アンタ、死んじまうぞ。
皮肉な笑いを引っ込めて、不意に真面目な顔でダインが言った。頷く。そうだろうなとは思っていた。けれど、人間の体は早々簡単に壊れてくれるものでもないらしい。発作を起こす度に枕元で葬儀の相談をされていた頃に比べると、状況はむしろ悪化している気がするのに、倒れる回数が大して変わらないと言うのも皮肉なものだ。
案外と丈夫なものなのだな。
「アンタどこで寝てるんだよ?」
「どこか――その辺りで適当に――」
煩わしいから構わないでくれと思う。今日も、このままこの東屋で眠れるだけ寝てしまうつもりだった。眠ると言うよりは一瞬気を飛ばす程度の些細なものだったけれど、ないよりはましだと思う。
どうせどこで寝ようと同じなのだ。
「一人でいる時は思わなかったのだが」
「あ?」
「抱き枕がなくなると眠れぬ性質らしい」
冗談交じりに呟くと、そんなもの後宮にいくらでもいるだろうと即答された。それもそうかと思った。
「……後悔、してんのか?」
またしばらく無言が続いて、いっそ目の前の相手を放って寝てしまおうかと皇帝がぼんやり思い始めたところで、ダインが口を開いた。
後悔?
言われた意味が判らなくて視線で先を促した。
「やっぱり手元に置いておけばよかっただとか、そういう事をアンタ思ってる?」
「――いいや?」
予測された返事が怖いのならいっそ聞かなければいいのに、恐る恐る尋ねたダインが、男の返事を聞いてほっと肩の力を抜くのが判る。可笑しかった。
会わないと決めた。
決めたのは己自身で、周りもそれに反対する意思はないようだった。もっとも、周りが反対しようと賛成しようと、男は今までも思い通りに事を進めてきていたのだが。
「もう飽きた」
その声は我ながらあまりに空ろで、嘘臭い。目の前で判ったような顔をして神妙に頷くダインを見て、唐突に腹の底から笑いだしたくなった。笑うには、自分はあまりにも荒んでいたから、思っただけに過ぎなかったけれど。
だのに、
「時にね」
「……あ?」
だからこれは戯言だと前置いて、男は呟く。
「――時に、どうにも尻の青い餓鬼のようなことを考える」
「餓鬼、くさい……」
「そう」
考えることは他愛もない。跳ねる毛糸玉のように元気だったあれのことばかりだ。
仮に、水蜜桃のような優しい口付けをしたらどうなったのかだとか。
押し倒して組み臥し、無理矢理奪ってしまったらどうなったかだとか。
実際に手の内に入れたらまるで意の通りにならない。手の内のあれは強靭なのに酷く脆くて、真っ直ぐ見上げられたときに怖くなった。きっと自分はお前を壊す。そうするには惜しくて手放した。――だのにいつまでもあれはどうしているのだろうかと思う。
口に出すには草臥れていたから、椅子に深く沈み込んだまま酒瓶を黙って傾ける。そんな男を見て、愛していたのか、とダインがぼそりと呟いた。
言われた言葉にやや面食らって、向かいの相手を男は見返す。
愛?
なにが。
なにを。
「……大事にしたいとか自分のものにしたいとか、ダンナは考えてたんじゃねェのか」
「――」
「ホれたハれたに、年齢は関係ないと俺は思うんだがね。誰もがもてあますし狼狽える。心だとか目に見えないモンは、結局そんなもんなんじゃねぇかな」
「愛――ねぇ」
口の中で転がしてみて、男は首を傾げる。あまりに自分に当て嵌まらない気がして思わず失笑した。愛した。自分があれのことを愛したとでも言うのだろうか。
「愛したと言うと何かが変わるのかな」
「わかんねェが……でも理由が付きゃあ納得はできるだろう」
「納得――ね」
「……」
「――……そうか、皇帝はあれのことを愛していたのか。愛していたけれど、けれど大切にする仕方が判らなかったから、無闇に刃を振り回し傷付けた。本当は大事にしたかったのだろうけれど、その意味をどこかで取り違えてしまった。でも愛していたのだよな、だったらもしかすると仕方ないことなのかもしれない。――そう言う風だったら、卿は納得ができる」
「……おおむね、そんなもんかもな」
首の力で頭を支えていることが辛くなってきて、がくりと仰のいて、くつくつと皇帝は喉奥で笑った。それからもう一度、愛した、と口の中で呟く。
自分は確かにあれに執着していたと思う。それは認めよう。
けれど、それを愛だとか言う、ご立派でたいそうな判りやすい呼び方はどうかと思った。もっとずっとちっぽけで、どうしようもなくささくれたものだと思った。
例えば、しなびた四葉のような。
もらった四葉は腹に収めてしまった。あれが残していったものは他に何もない。
ふと目の前に右掌を広げて皇帝はじっと眺めてみる。この手に届く範囲のもので守れるように思ったものが、いつかはあったはずなのだけれど。記憶は茫洋と思い出せない。
思い出そうとも思わなかった。
*
次の数か月は本当に酷かった。
酷かった、と自覚の薄い己ですらそう思うのだから大概だったのだろう。日増しに厳しくなった暑さも、体に良くなかったのかもしれない。寝込んだ、と言うよりは、日常生活を人としてほとんど機能していなかったように思う。
起き上がって歩くたびに眩暈がする。意識が途切れる。どころか気が付くと部屋へ戻されていたりする。何とか執務室に辿り着き、椅子に座ってさぁ仕事をしようとしてもそこから使い物にならない。目の前の書類が読み取れない。視界が霞んでいる訳でもないのに、文字を目玉が読み取らないのだ。
座った姿勢を保つことそれ自体にもえらく体力を使った。半身を起こすと頭が支えきれずにぐらぐらと揺れ、人間の頭と言うものはずいぶん重いものなのだなと思った。注意していてもいつの間にか机の上に伏している。
体がほぼ食べることを受け付けなくなったことも拍車をかけた。
食べる気がないだけだ、人間の体と言うものは消化するものが体内に入れば無理にでも動くものだと、半ば脅され半ば懇願されて、不承不承飲み込んだ食事のその殆んどを吐き戻した。朝に口にしたものが、夜半を過ぎてもそのままの形をまるで残して出てきてしまっていて、ああ、まったく自分の体は機能していないのだなと思った。
仕様もない。
水や茶や酒と言った液体だけはなんとか通るのだからと、同じ理由でさらさらに煮込んだスープを飲まされて、やはり盛大に吐いた。
駄目なのかもしれないなと己が一番自覚していたし、もう放っておいてほしかった。周りが気の毒なような、諌めるような表情を浮かべることも気に食わなかった。
何とかならないものかと困惑されることも気に入らない。腹立たしくて、けれど口に出して追い払うには何もかもが面倒臭いのだ。
髪を指に巻きつけて力任せに引っ張り、その痛みで意識を保つことも覚えた。
時には目眩が痛みを勝り、ぶちぶちと切れたことも一度や二度ではない。中途半端に切れた髪房を見て、この長い髪が好きだと言っていたあれは悲しむだろうかと、ふと思った。
どうでもいい。そう、本当にどうでもいい話だった。
少しお休みくださいそのままでは死んでしまいます。
泣きそうな顔をされて、それでも頑として首を縦に振れないのはなぜだろうと思った。少し前までは、目の前に積み上げられる書類を見る度に、こんなもの無くなってしまえと思ったこともあったと言うのに、今は積み上げられるほどに安心する。
ああ、自分にはまだこれだけのやることがあるのだ、これをやる間は余計なことを考えなくてすむ。
無理矢理に椅子から引きはがされ、どこに行かれますかと聞かれてどこにも行く当てはないと答えた。
自分の居場所はもうどこにもない。
抱え上げられ、とりもあえずと後宮の一角に連れて行かれる。女どもがいる部屋に入りたくはなかったので、空き部屋を頼んだ。それでも宙に漂う爛れた甘い香りに吐き気が収まらない。
気晴らしに水煙管を含んだ。
侍従の一人がおかしな気を利かせて、煙草の葉の中にひとつまみ麻を含ませていった。人として駄目になるなとぼんやりと思いながら、今更かと嘲笑い、深く吸い込んだ。
そのまましばらく気を飛ばしていたように思う。
次に目を覚ますと、難しい顔をしたアウグスタ補佐官が一人、壁に凭れて彼が気付くのを待っていた。
どうしたのかと見上げると、軍議が先程ありました、と事務的に告げられた。そうか、と声もなく頷く。
「東方諸国の小競り合いが、小競り合いでは済まなくなってきている様子で」
「――戦に」
「避けられませんでしょうな」
「そう」
ゆっくりと頷いて他にまだ何か、と退出する気のない大柄な補佐官を視線で促した。
「しばらく、静養されてはいかがですか」
半ば予想できた補佐の言葉に、少しおかしくなって皇帝は薄く笑った。
休む。どこで。どうやって。
「しばらくの政務は我々三補佐で何とかいたします。陛下はその……、」
「役目御免になったかね?」
「……そう言う訳では。ただ」
「こんなところで管を巻いてないでいっそさっさと死ねばいいのにね」
「陛下」
君たちは私の代役をもうどこかに用意している。ずるずると切れ悪く引きずるよりも、きっぱりと幕を下ろした方がきっとせいせいするだろう?
己の墓石に神妙な顔をして立ち並ぶ面々を想像して、笑えた。
口さびしいので酒を含む。
味も香りも飛ばしたようなただ酒精が強いだけのそれは、何も考えずに酔いつぶれてしまいたいときには便利だ。香りを楽しむような余裕があったいつかのあの頃、どうしてこんな不味いものが造られ続けるのだろうかと不思議に思ったことがあったけれど、今は判る気がする。
酔ってしまえるのならば正直何でも構わない。味も、香りもただ煩わしく余計なだけだ。
まだこれでも最初の辺りは飲酒は控えろ、きちんと睡眠をとれと口うるさかった三補佐や侍従も、最近では何も言わない。言いたげな目を向けてくることはあっても、喉元辺りで飲み込んでいるようだ。好都合だと思う。
寝たり起きたりの生活を繰り返している内に、抱えていた仕事からもほとんど外された。男に回されてくるものは、ただ皇帝本人の認印がいるものばかりで、これではいてもいなくても大した違いはない。
皇国を名乗るエスタッドは、皇帝自身を頂点としており、その切っ先が欠けてしまってはうまく立ち回ってゆかぬよう男自身が工夫したはずなのだけれど、それすらいつの間にか書き換えられているようだった。
だったらいっそ、頭を挿げ替えてしまえば良いのにと男は度々思っていた。けれど三補佐にその意思はないらしい。むしろ躍起になってその男の穴を埋めている。不思議に思う。セヴィニアなどその最もたるもので、喜々として男から権限を剥奪するものと思っていたのだけれど。
それが忠義だとか倫理によるものなのだとしたら、生きていく道理というものはひどく厄介だなと思った。
酒を呷る。
喉元を滑り落ちていく焼ける感触に一瞬目を閉じて、それから男はふらふらと裏庭へ足を運んだ。特に行先はなかったけれど、陰鬱とした皇宮の屋根の下にいることが息詰まりに感じたからだ。一番に人の訪れが少ないのは後宮の後庭であったけれど、あそこへ行くには魑魅魍魎の巣を抜けていかねばならない。
それは面倒臭い。
そうしてご苦労なことだ、と呟いていた。
決して訪れることもないことを半ば知りながら、日々手ぐすねを引いて彼自身が後宮へ足を運ぶのを待ちかまえている。あばら屋に張った蜘蛛の巣のようだと思った。
よほど暇なのだろう。暇でなければできないことだ。
自分があの立場であったら一体どうするかと男はぼんやりと考え、意外に同じような立ち居振る舞いをするものかもしれないなと思った。これより行くさきはない。戻る場所もない。ひとりで生きて行く手段も知恵も気概もない。
流され生きているのだとしたら、自分もあの女どもも同じようなものだ。
風が吹いても雨に打たれても、けな気に上を向く雑草の強さを持つ何かを男は知っていた気がするけれど。
思い出しそうになり、また酒精を流し込んだ。
忘れてしまえ、と思う。
覚えているから、まだ何がしかの未練があるから、こうして口さびしく感じる訳で、忘れ切ってしまえばそれもまたなくなるだろうにと思う。そう思いながら、裏庭に向かった足は、秋露に濡れている深い緑の草群れの辺りで立ち止まるのだった。
皇宮にはクローバーがないんだ。
何かがそうボヤいていたことを思い出して、いつだったか男は命じ、裏庭へ数株移植させたのだった。こうしておけば、わざわざ外へ探しに出かけなくてもすぐに見つかるだろう?
だのに、しゃがみ込んで根気よく四葉を探す酔狂な人間は、もういなくなってしまった。
ふと気を惹かれて、露に裾が濡れ滲みるのにも構わず、見様見真似で男はしゃがみ込んでみた。
じっと見下ろしたクローバーは日ごとに冷たくなる夜露にしおれ、葉を閉じかけていて、指で弾いて拭ってやらなくては三つ葉なのか、それとも稀な四つ葉なのかも判らない。指の腹を濡らしながら、こうしてあれも探したのだろうかと思った。
じっくりと腰を据えて、真剣な顔で一つ一つ見定めながら雪の中を。
狂っていたのは半年前か、それとも今か。
あれの望むことであったなら、何でも叶えてやりたいような心持になったことがある。今もまだそうなのだろうかと男は考え、考えても無駄なことだなと思った。
掌に掴んだものは何もない。
もう何も見えない。
(20110708)
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最終更新:2011年07月08日 21:32