変わられましたな。
そう言われて頭をもたげ、声の主へ目をやった。
「何が――、どう」
どうしてこうも放っておいてくれないのか、まだ何がしかの働きを自分に期待しているのか、期待されているのだとしたら己はそれに応えねばなるまいと思う。
それは何か特別な任務感や使命感ではなくて、ただ単純に生まれ居ついた環境が、皇帝をそう言った具合に育てたのだろうけれど。
皇帝自身に自覚はない。息を吐くようにそれは自然なものだった。
「変わられたと言うよりは、元に戻られたと言う方が正しい」
「――」
「自分が初めてお会いした頃の陛下は、そのような御様子であられた」
ならばきっとそれは矯正されて正常だ。
「君は相変わらず変わりがないね」
セヴィニア補佐官、そう呼ぶと片眉を上げられる。
「生活習慣を諌めに来たのだとしたら、私はまるきり聞く耳を持たないが」
「無駄なことはしない主義です」
「ほう」
慇懃は決して崩さずに、しかし遠慮会釈のない物言いも相変わらずだと思った。
補佐職を受ける際、皇帝に対する態度も仕事に対する態度も、今までどおり一貫して変えないが良いかと念を押したと聞く。
立身出世することだけに腐心し、飛蝗のように腰を折り頭を下げて揉み手で愛想を振りまく輩には不遜な行いに感じると見え、陳情されたことも一度や二度では済まない。その手腕は時に傍若無人にも見えて、口さがない一部のものは見えないところで、血も涙もない鬼と罵っていることも知っていた。
皇帝も、セヴィニア自身もまったく意に介してはいなかったけれども。
その口汚い罵声を聞いてなお、顔色一つ変えないふてぶてしさがこの補佐官にはある。
「以下の書類に陛下の署名を頂きたい」
「――ふむ」
受け取り、感覚のほとんどない指先で皇帝は羊皮紙を捲った。
市内の各所の補修工事、灌漑事業の奨励、それと軍備の補充。
脇に控えた侍従から墨を含ませたペンを受け取り、男は書類の空いた欄へ認め印を書きこんでゆく。
何とはなしに眺めながら、もうすぐ生誕祭がございますなとセヴィニアが言った。
「ああ――そう」
男自身ですらよく覚えていない、めでたくもないたかが一年の一日に、皇都を挙げて祝うまつりごとの一つだった。
「陛下の御容態がどうあれ、一般参賀は通年通り行うつもりでございまして」
「殺す気だね」
「そのつもりです」
うっすらと笑いがこみ上げた。悪くはない気分だ。そうか、殺す気なのだとしたらそれは仕方のないことだ。
「――夜会の淑女どもの相手まで含めて、どうせ私に拒否権はないのだろう」
「御理解いただけて説明する手間が省けますな」
「よく言う」
難儀な一日になりそうだと愚痴を一つこぼし、では、と続けて男は言った。
「物事には順序や貸し借りと言ったものがあるね?」
「……と、申しますのは」
「大人しく、魔物どもの餌食になる腹を決めた殊勝な私を慮って、物事に動じない君にひとつ頼まれごとを受けてほしいが」
そうして男はペンを走らせる手を一旦止めて、懐に忍ばせていた封筒を二通セヴィニアへ差し出した。
「これは、」
固く封蝋をした一通のあて先は未記入である。封のなされていないもう一通を取り開き、珍しくセヴィニアが眉を動かした。
動揺であったのかとも思ったが、聞くのは億劫だ。
「陛下」
「破棄するも自由だ――どうするかは、君の判断に任せよう」
「……」
「よしなに頼む」
有無を言わさない口調で押し切ると、しばらく考え込む様子を見せたあと、セヴィニアは仕方ない様子で黙って頷いた。
これで肩の荷が下りたなと思う。
自分にやれそうなことはこれ位しかない。しかしこの方法でよかったのだろうか。
考えても仕様のない自問が沸き起こり、打ち消して男は再び書類へ目を落とす。
そうして己の中にもう何も残されていないことを知る。からっぽだった。
本当に何もかも失ってしまったなと思った。
*
「アンタ、誕生日に何か欲しいものある?」
聞かれておやと瞼を開ける。懐かしいと感じる声が聞こえた気がしたからだ。
いつの間にか男は自室の暖炉の前の安楽椅子にいて、その少し離れた床の上でいつものように本を目の前に何冊も広げ、猫がこちらを見上げていた。
拙い手で書かれた、空白の奇形文字。書きこまれている専門書は、猫のものではなく男が気に入って部屋に取り揃えていたものだったけれど、
「――また」
「そう。アンタの誕生日」
去年と同じような、めでたくないから何もいらない、はやめろよ。
言いかけた言葉を先んじられて口を閉じる。苦笑した。そうして、ほしいものが何かあったかと思いを巡らせる。
すぐに思い当たるようなものは何もなかった。
そう言うとそっか、と目下の顔の眉尻が下がり、猫が少し困った顔になる。
「アンタたいがい何でももってるから、なかなか難しいんだよな」
「もらえるものなら何でも構わないが――」
「よく言うよ。そう言って毎年毎年、使わない部屋にいろんな相手からの贈り物、リボンもとかずに放り込んであるだろうが」
顔をしかめられ、言外に非情と言われている気がした。そうだね、と頷く。
確かに勿体ない。だから今年からもう何も受け取らないと良い。そんなことができないことは百も承知なのだけれど。
「絶対そのうちバチが当たるぜ」
「冷たい人間だろう」
「何を今さら。驚くことでもなんでもねェよ」
当たり前のように鼻で笑われて、何故だか心持ちがすっとした。そうか。今更だった。自分はぬくもりのない人間だったな。
「では」
薄く微笑んで男は言った。
「折角だから、私からお前に何かを贈ると言うのはどうだろう」
言われて猫がきょとんとした顔になる。予想外だったらしい。
「アンタの誕生日なのに?オレがもらうの?」
「そう。たまには逆もいいだろう」
「……。そう言うもんかな」
「好きなものを言いなさい。大概のものならば揃えてやれると思うけれど」
「……そうだなあ」
笑った男をちらりと伺い、猫が一旦は手元の本に目を落とし、天井を向いて考えて、やがて神妙な顔で言った。
「アンタのさ」
「うん?」
「アンタの大事なものって、なんなの」
「――大事なもの――」
言われて、答えに詰まった。思わず真面目に考える。
例えば歴代のエスタッド皇が身に付けていた宝冠であるとか、王族の証である飾り。肌触りの良いやわらかな絹。そうした金品の価値の話のことではないのだろうなと思った。他より卓越した知能がある訳でも、力自慢でもなく、武技にも拙い。道化になれるだけの機転もない。
では他に、自分は何をもっているだろう。
先に作った方が負け。陛下は、わたくしより先に大事なものをお作りになられました。
いつかどこかで言われた声が蘇る。
大事なもの。作ったと言うのならばきっと自分は持っているに違いない。持っていたのだろうか。それにしてはあまりにも心当たりがなくて、
「アンタのいちばん大事なものが見たいな」
くれとは言わない。でもせめて見せてほしい。言われて男は困惑する。
そう言われても、自分のいちばん大事なものとやらに、心当たりがまるでないのだ。周りがある、と言うのだから多分あるには違いないのだけれど、
「……自分が何でも持っているって、勘違いしてるんだろ」
そんなことを思い出したと部屋を訪れた守銭奴傭兵に告げると、露骨に嫌な顔で返された。苦虫を噛んだような顔を取り繕いもしない。
だから、そんなに見るのも嫌なのなら、会いに来なければいいと思うのに、戦場から皇都へ戻るたびに律儀にダインは顔を出す。今回も謹慎が解け、ようやく準備を整え戦場へ勇んで出て行ったと言うのに、来週に迫る生誕祭の警護の一人に駆り出されたらしい。
「去年の皇帝の護衛を難なく成し遂げた功績」
だと補佐官の誰かがしれっとした顔で言っていたけれど、それは建前で本音は何かと使い勝手の具合良い人種だからだろうと思う。妙なところでツテを作ると後々苦労するものだなと思った。
ただし今回は皇帝直近の護衛ではなく、会場の整備とやらで、去年に比べると随分と気楽だと本人は言った。
男の顔を見たところで、ダインはもう、変わったなともどうしたんだとも口にしなかった。前よりもいくらかマシになったじゃあねぇか。そう言ったぐらいだ。
そう、いくらかましになったのかもしれない。
前と同じように世界はくすんで、墓石のように灰色だったけれど、機械的に一日を過ごすには何の支障もない。生誕祭までは生きていてもらわないとこちらとしても困ると、堂々と三補佐に言い渡されて、片端から調合した薬を飲まされた。そのうちのどれかが効いたのだろう。
何しろ食前食後に目の前のテーブルへ薬包紙をずらりと並べられた。
茶だの緑だの黒だの赤色だのといった、男にとっては何の効果か名前かも判らない、汚い色とりどりの物体を順繰りに飲まされた。並べられた煎じ薬の山を見て、これではまるで錬金術か何かの儀式のようだと思ったけれど、口には出さずに男は黙って飲んだ。
もうどうでもよかったのだ。
体調は相変わらず最悪なことに変わりはなかったけれど、いくらかは夜に眠れるようになった。余計なことをあまり考えなくなった。考えなくなった、と言うよりは考えられなくなったと言うのが正しいのかもしれないけれど。
少しずつ少しずつ、自分がおかしくなっていくのを止めることができない。
その自分が今できることは何だろうと思い、ではせめて何も考えずに周りの望むような政務者たることではなかろうかと思った。
朝目覚め、執務机に座り、目の前に並べられた今日一日分の書類へ目を通す。裁可を下し、時には三補佐の意見も取り入れて、時計の歯車の一つのようにただ機械仕掛けに働いた。
これでよかったのだろうかという不安は、薬を飲んでしまえば忘れることができる。
そうして眠った。
眠りの中で何度もあれに会い、あれと話し、あれが笑った。もうそれだけで良いような気がしたし、ずっと夢から醒めなければ良いなと最近は思う。いつまでも眠り続けることが出来たら、それは幸せなことなのだけれど。
「……スリは休業してんだぜ」
会話の糸口をどう探したものかと悩んでいるように見えたダインが、急にそんなことを言った。言われた意味がすぐには判らなくて、まじろぐ。
「住み込みで仕事が見つかったって」
沈黙をどう受け取ったものか、たまたま配置先と場所が重なったものだから、と言い訳するように重ねて彼が言った。
そうか。あれと会ったのか。
知らず呼吸を止めていたことに気付き、男は目を閉じ背もたれに体を預けると、深く息を吐いた。
ではあれはまだ生きているのだなと思い、いいや、自分は何を言っているのだろうと続けて思った。
生きているだろう。現に毎晩自分の前に現れるじゃあないか。それを幻だとか夢だとか名づけて片付けてしまうことは簡単だけれど、放っておいてほしいと願う。誰に迷惑をかけている訳でもない。別にいいのではないか。
男がそのまま黙っていたので、何か聞きたいことはないのかと、気まずそうにダインが言った。
「聞きたい、こと」
繰り返して口の中で転がし、
「何故そんなことを聞くのだろうか」
皇帝は尋ねた。
「どうしてって……聞きたくはねェ、か?」
「君がそう言うとは思わなかった」
あれを皇宮から連れ出したのは君だろう。
面白くなって目を開ける。見やるとそれはそうなんだがと口ごもり、返された。
「気が変わった?」
「……いや。俺ァアンタがやったことを間違っていたと思うし、それについちゃあ許すつもりも、認めるつもりもないって前にいったろ」
「そうだったね」
……そうだったねぇ。
嘲笑の形に頬を歪ませ、皇帝は顔を上げる。
連続して飲まされている薬のせいか、昨日より前の記憶は曖昧模糊としていることが多いのだけれど、同じように許すつもりはないよと吐き棄てた、半年以上前のダインの渋い顔だけは見覚えがあると思った。
「でも、まァ、なんつーか」
ぼそぼそと俯いてダインは言う。歯切れが悪く、声がくぐもっていて、耳をよくよく傾けないと聞き逃してしまいそうだった。
「ここに来る前、皇都一うまいと言われてるメシ屋でメシを食って、酒を飲んだ」
脈絡が感じられなくて、それで、と視線で男はダインの言葉の先を促す。
「あー……。つまり、俺は今割と酔っ払っていて、いい気分で、うっかり口を滑らせてもいい状態にあると思うんだが」
「ほう」
「何か聞きたいことはねェか」
なかった。
ダインの意図は判っても、男に聞きたい言葉は見つからない。頭を傾げて視線を避ける。静けさは男の好むところであったけれど、詰問されるような沈黙は嫌だ。
であったので、例えば、と男は逆に尋ねた。
「あ?」
「たとえばどんなことを尋ねたらよいのだろうか」
「……例えば……、そうだな。例えば、その、元気でいたのか、……だとかよ」
「元気だったのだろう?」
「え?」
肯定してやると面食らった顔をしている。おかしくなった。
「――仮に、何か問題がある状態であるのならば、きっと君は会ったことを口にしないし、いらぬ節介を焼いて手を打っているはずだと思うのだよ」
「それは」
そうなんだろうけどな。
がりがりと頭を掻いてダインは唸った。
「だからなんか、ねェのかよ」
ぶっきら棒に言い捨てる。放っておけないのは性分らしい。
「――そうだね」
何度も問われて、男は少し考え込む。聞いても詮かた無いことだと思い、上手く言葉が見つからない。
手持無沙汰につついていた水差しがつい力をあやまり倒れて、まだ中に半分ほど残っていた水が、みるみる卓上へ広がった。やがて文机から絨毯へとぼつぼつと染みを作ったけれど、拭き取ることも思いつかずぼんやりと皇帝は眺める。
「……アンタのさ」
「――うん?」
同じように黙りこくって床の染みを見やっていたダインが、やるせなさそうに口を開く。
「アンタの世界を動かすにはどうしたらいい」
「――」
世界?
誰のことを言われているのか判らなかった。
だから皇帝はただ垂れ落ちる水滴を眺め、それから眺めることに飽きるとまた手元の書類へ目を落とす。
鮮烈な、一瞬の白昼夢のようなものだと思った。見たと確かに思ったのに次の瞬間にはもうなにも覚えてはいないのだ。
「笑って――いただろうか」
そういえば、よくけらけらと声を立て笑っていたような気がする。もう顔も確かには思い出せないが。
「ああ」
「そう」
笑っていたならそれでいいと思う。
淡々と仕事を再開した皇帝にもう横槍を入れる意思が無くなったのか、しばらく男を眺めた後にじゃあまたな、と言い置いてダインが部屋を出て行った。振り向きもせず、かしこまった挨拶も抜きで、さっさと出て行くのが彼らしいと皇帝は思う。
ダインが出て行くと、壁際まで下がり控えていた侍従が音もなく近寄って、こぼれた水差しを起こし、それから黙って濡れた文机と床を拭いた。
視界の端で侍従の動きを眺めながら笑っていたか、と男は反芻し、咀嚼する。もしかすると真っ先に聞きたかったことだったのかもしれないと思った。そうして、他にはまるでなかったと言うことも。
笑っていただろうか。
その願いは、男をおそらく必要としない。
意識が途切れ跡切れに再生されてゆく。
あれはもうだめだと突き放した誰かが、そこかしこで囁いていた。生ある者の声であるのかどうか、もはや朧ろだ。
縋るようにして、壁伝いに中央塔へ登った。
理由はない。ただ空が見たかった。
途中何度もひどい目眩に酸吐いた。差し出される腕を払いのけて、まるで何かに腹を立てているように、頑なに一人で歩けると言い張る。相手と言うよりは、きっと自分自身に言い聞かせているのだなと、頭の片隅で皇帝は思った。
緩いらせん状に続く中央塔の上り坂は、消耗した体をいちいち律儀に引き捻じる。止めを刺してくれるのか。親切なことだと思い、笑えた。
早く死ね。
壁に掛けられた歴代のエスタッド皇の面々が、無情に見下ろしてそう呟いている。そうだなと返すと、それらはひどく喜々としてニタニタと笑うのだ。
早く死ね、そうしてこの永劫らせんに続く醜状の一部にともになれ。
毛も肉も削げ落ちた、骸骨の眼窩から男を嘲笑い罵っている。綺麗に着飾ったところで、所詮皮一枚剝ければどれも同じようなものなのだなと思う。
ふと、見知った顔があった気がして顔を上げると、父の肖像画だった。
毒杯を呷り血反吐を吐いて死んでいたそいつも、壁から抜け出し眼前に立ち塞がっている。怨嗟の顔はひどいものだ。人間はなんてみにくいいきものに生まれてきたのだろう。
お前だ。お前が殺したのだ。
呪詛の声に、そうだなとまた皇帝は返した。
実際問題、殺すか、殺されるかの二択しかなくなっていて、足元をどちらが先に救われるかの違いでしかなくなっていたのだ。殺されるだけの隙を見せたそちらが悪い。
そう言えば、父がまき散らした反吐は結局玉座の敷物に染み込み、何度洗っても取れなかったので、捨てざるをえなかったと後で聞いた。最後まで厄介ごとを作って去るとは、父らしいと聞いた時に男は思った。
そうして人に迷惑をかけて死んでいくのだ、――わたしは。
死に方はどんなものでも構わないと嘯き、できれば迷惑を掛けない方法でくたばりたいものだと思い、しかし父のような無様な死に方はまっぴらごめんだと思い、だのに同じように周りに負をまき散らして絶えようとしている。
最低の人間だな。
自分の尻拭いひとつできないのか。
笑ったつもりが咳き込んで、見兼ねたディクスに支えられる。
一度手を借りてしまうともういけない。萎えた足に力は入らなくなっていた。
――ただ空が、見たかっただけなのだが。
咳き込みのたうちながら、男の視界は暗転した。
気が付くと皇帝はやわらかな寝台に寝かされていて、目の前にかいがいしく世話を焼く数人の侍女の姿が見えた。羽枕をいくつか頭の下に当てがい、額の脂汗を拭う。暖炉の炎をかき熾し、蝋燭の炎を弱める。
薄掛けをそっと広げて男の上に掛けかけたところで、手を上げて遮った。
男が目を覚ましていたことに気が付かなかったようで、小さな驚きの声を上げて侍女は飛び退る。申し訳ございません、失礼いたしましたと早口に謝り、目配せをして女どもは一礼しそそくさと部屋を出て行った。
しんと静かになった。
ひどい頭痛だった。脈と共に、目の前が赤黒く染まる気がする。呻きつつ寝返りをうった。
眠ってしまうのが一番いいのだろうけれど、ほとんど利かない薄暗がりの視界のくせに、妙に目が冴えてしまった。ふと懐かしいにおいがした気がして、指を伸ばして顔近くの敷布をなぞる。
あれのにおい。
若い男でもあるまいし、もともとほとんど体臭のない相手だ。けれど、くしゃくしゃと頭を掻き混ぜた時の、乾いた太陽のにおい。目を閉じて顔をうずめた。
いないと言うことは承知していたけれど、目を閉じていると傍らにもうひとつ、小さな体が寝転がっているような気がする。抱き寄せたくて思わず手を伸ばし、冷えきった敷布に目を薄く開いた。
滑稽だなと思い、それでもいいかとも思った。どうせ誰も見てはいない。
身動きするたびに自分があれのにおいを上書きしていく。消えてしまう。腹立たしかった。ああ。こうして、あれの寄す処を消してしまうのが嫌だったから、居室を封じていたのに。子供の宝箱のように、貴重なものを詰め込んだはずのそれは、開けてしまえばがらくたに過ぎないのだ。
判っている。
判っているけれど、開ける寸前までは誰の中でも、きっと宝の偶像のままでいられると言うのに。
判っていて、どうして手を出してしまうのだろう。
他にあれの残したものはないかと思いついて、苦労して男は身を起こした。寝台から床へ足を着くと、眩暈がして踉(よろめ)く。
踉いたままに無様に膝から崩れて、思わず着いた手の近くに、引き千切れた組み紐を見つけた。
男自身ですら今まで自室を避けていたのだから、部屋に入るものは他になくて、であったから部屋の状態はほとんどあの日そのままだった。
片付けられもせず引き千切れたままのそれ。
紺と銀の糸の複雑に絡みあった幾何学模様のそれ。
拾い上げ、眺めた。
ぴんぴんと跳ねた、たんぽぽ色の頭にきっと似合うだろうなと思って手に取り、細い首に鈴を通して結んだ。ありがとうな。大事にする。
はにかんだような視線を向けてぶっきら棒に、言葉。
あの時の緑青石は、確かに自分に向けられていると思っていたのに。
拾い上げた紐の近くの絨毯が変色していて、呆として男はそれを見つめた。何だろう。よく見知っている色のような気がするけれど。
しばらくぼんやり眺めて、それからそれが変色した血染みだと気が付いた。
気が付き、急にどきどきと鼓動が早まる。あの日からこの部屋には誰も入れず、己も入らず、そうして自分がこの部屋で傷つき血を流した覚えもない。だとするとこれは、あれが残していったものだ。
――ここにも。
指でごわごわと毛足の固まった染みを撫ぜる。身を屈ませ、鼻を寄せた。鉄錆の香りはない。さすがに飛んでしまったようだ。
舌を伸ばして舐める。
ざらざらとした砂の感触以外何も感じ取れなかったけれど、代わりにひどく高揚した。これは、私だけのものだ。誰にも手は出せない。私だけの。
舐めしゃぶりそれから嬉しくなって、男はくつくつと喉奥で笑った。
どうしよう。切り取ってしまいこんでしまおうか。身を起こし懐へ手をやり、あいにく小刀を仕込んでいなかったことに気が付く。何か近くに変わりになるようなものはないかと見回した視線の先に、果物の盛られた籠が見えた。脇に果物ナイフが添えられているだろうと立ち上がり、予想通りにそれはあって、机の上へ手を伸ばす。ナイフを手にし、振り返り床を見る。
ああ。
唐突に絶望し男はナイフを指から落とした。ナイフは耳障りな音を立てて机の上を数回跳ね、床へ転げる。その音すらまるで耳に入らず、男は片手で顔を覆った。
ちがう。
あの染みはただの染みで、あれそのものでは決してない。そんなことは判っていたはずなのに、では自分は一体何をしているのだろう。
何を。
「……何って」
聞き覚えのある声が間近で不意に聞こえて、凝固する。のろのろと顔を上げる前に、その声の持ち主の姿が誰だか予想が付いて、男は名前を呟いた。
他の名前はほとんど忘れてしまっているけれど、
「なんだよ」
忘れようがない、忘れたくはないと思う。
応えはすぐに帰ってきて、それから小さな影が傍らにしゃがみ込む気配がする。いつの間にか男は膝を着いていたようだった。
「アンタ、真っ青だけど大丈夫?」
覗き込まれて視線を動かした。相変わらず癖毛が跳ねている黄色の頭。真っ直ぐに見上げてくる緑青の石。
久しいね、と男は言呟いていた。
「久しい?何が?」
何って。
しばらく見ていなかっただろう?
「昨日会ったろ?」
ああ――そうだったかな。
「そうだよ」
そうか。
頷いてぼんやりと納得した男の顔を、覗き込んでいた眉がしかめられて、アンタちょっと寝た方がいいよと強い口調で告げられた。
眠くはないのだが。
「寝られるだろ」
眠れるだろうか。
「寝たら、会えるよ」
誰に?
誰だったろう。だが会えるのならいいか。会えるのだったら眠るのもそう悪いものではない。寝台までは少し遠くて、這いずってもゆけそうにないから、ここで寝てしまっても構わないだろうか。
「風邪ひくかも」
けれどお前はそうして寝ていただろうに。
「それでオレ熱だしたじゃねェか」
そうだったな。
「寝台で寝た方がいいと思うけど」
そうなのかもしれない。けれどどうにも体がうまく動かないのだ。
ちりちりと耳元で鈴が小さな音を立てる。指でまさぐって何度か転がした。上体はまだ起こせていたように思っていたのだけれど、頬を毛足がなぶる。床に横になっているらしい。
ゆっくり目を閉じた。闇に沈んでしまおうと思う。
沈んで、またお前に会いに行こう。
(20110721)
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最終更新:2011年08月11日 17:35