<<へっくしゅん>>
仕事途中に立ち寄った夕方少し前の大通りで、知った顔を見て戸惑うよりも先にふと不審が湧いた。見てはいけないものを見てしまったような気がする。
チャトラである。
思わず露店の屋根下に入り、売り物を見ている素振りで窺った。こんなことをしなくても普通に声を掛ければ済む話なのかもしれないけれど、何となく、というやつである。窺いながら、彼は一体何をしているんだろうとふと思った。世間話や噂話をしている姿が、彼に関してはまるで想像できない。
一旦身をひそませてしまうと改めて何気ない風を装って出ていく、と言うのも妙に難しいもので、結局チャトラはしばらく様子を窺ってから再び通りへ出た。
そうして見知った顔へ近付く。
彼は、話し込んでいた人間の後姿をどこか悄然とした態で眺めていたようで、結果チャトラは彼の背後から声を掛けることになった。
「よーーーーっす」
不意に声を掛けると、驚いた顔で振り返った彼がチャトラの姿を見止めて視線を和ませた。ふんわりと笑う、という表現がとてもよく合うとつくづくチャトラは思う。
「こんにちはノイエさん」
「さん付けじゃあなくていいのに」
驚いていたのは一瞬で、すぐに警戒心を解いた様子でノイエがチャトラへ向き直った。久しぶりだねと呟いている。
「悪ィ、取り込み中だったかな」
「平気だよ。……君は仕事中なのかい」
「うん。でも、もう店に戻るところ」
ちらとチャトラの身なりを窺ったノイエが、
「丁度君を訪ねようと思っていたんだ。ここで会えてうれしいよ」
そう言ってまた笑った。
「部屋に来る?お茶くらいしか出ないけど」
「いいね」
夕食と言うには少し早いような気もしたけれど、折角会えたことだし、そう言ったノイエと並んでチャトラは店へ戻ることにした。
物心ついた時から、チャトラの生業は掏摸だった。
ひとつの町で仕事をして、正体を見透かされる前に次の町へ流れた。町に留まる期間はせいぜいひと月がいいところだ。それ以上の長逗留は、顔を覚えられる危険があるし、住みついている破落戸(ごろつき)どももうるさくなる。今住みついているこの町へ最初に立ち寄ったのも、そうして流れたついでというものだった。
すぐに立ち去るつもりだった町に居ついて早五か月だ。ひょんなところに出会いと言うものは落ちているものらしい。
「仕事にはもう慣れたかい」
「ノイエさん、こないだもそれ聞いた」
おかしくなってチャトラは笑う。
仕事、とノイエが言ったのは生業の掏摸のことではなくて、この町で初めて始めた、根のある暮らしのことだ。
この町に来る街道の途中、ぬかるみにハマり立ち往生している男と馬車を見かけた。一頭曳きの商用の車で、どうしたのかと聞けば隣町から帰る途中だという。
事情まで聞いておきながら、オレには関係がないと素知らぬ顔で通り過ぎる訳にもいかず、そもそも生来の節介焼き根性も動員して、汗みずく泥まみれになって一緒に馬車を引き上げた。礼替わりにこの町まで乗せてくれると言うので、遠慮なく甘えた。
道中でいくつか会話を交わし、町へ向かう途中なのだと答えると、泊まるあてはあるのか、働き口は決まっているのかと尋ねられた。自分の人となりを気に入ったのだという。今ちょうど人手不足で困っている、大した部屋もないが住み込みでうちに来ないか、と持ちかけられ、チャトラは頷いていた。
男は乾物商家の番頭だったのだ。
成り行きで、ついて行った。
チャトラはこれでも、面した相手に邪心があるかどうかは判るつもりである。相応の暮らしを体験してきた自負もある。面通しされた乾物屋の働き人からはそうした良くないものは感じ取れなかったし、感じた通り、主夫婦も人の好い商人だった。
あてがわれた部屋は蔵を改造した中二階で、一階部分には煮炊きの出来る竈もついている。姉と過ごした部屋に似ていると思った。ひと目見て気に入り、そうして働かせてもらうことに決めた。
屋根と壁のある場所で眠ることができ、月々の割り当ても貰えた。見習いと言うことを考えれば十分な額である。食事は主夫婦と通いのものと一緒で、昼と夜の二回出る。何の不満もない。
不満もないどころか、これで不満を言っては雷にでも打たれてしまいそうだとチャトラは思う。
彼女の割り当てられた仕事は、御用聞きだ。
乾物と言っても、店先に買いに来る客の数は知れていて、だったから馴染みの家の戸口まで出向き、必要なものを聞いて回る。そのチャトラの帳面を見て、配達の男があとから荷車を引いて各家々を回る。
時には配達の仕事も手伝いはしたけれど、小柄なチャトラは自分と同程度か、それ以上の重さの小麦や大麦、茶葉の入った袋を持ち上げることができない。せいぜいが車を後ろから押す程度で、あの袋を一人で持ち上げることができるようになりたいと、ひそかに特訓中である。
そこまでしなくても、と主夫婦などは言うのだが。
働かざるもの食うべからず。小さい頃に姉からしっかりと教え込まれた教訓は、チャトラの体に染みついている。
「人それぞれ、動ける範囲は違うでしょう。だから、人並みだとか、人以上にだとか、くらべるものは何もないの。ただ、あんたができる範囲で、一生懸命働きなさい」
幼いチャトラに姉はそう言った。
であったから毎食の片付けや、台所の床掃除を一緒になって手伝っているのもチャトラにとっては無心だったのだけれど、主夫妻はえらく気に入ってくれているようだ。最近では子のない夫婦の養子にならないか、だとか言う話も冗談交じりに持ちかけられることがあって、その度にやんわりと断った。五か月で養子の決断をするなんて、人が良すぎるにもほどがある。もし自分が悪心を持った人間だったらどうするのか。
言うと夫婦は笑う。
お前が私たちを悪い人間でないと思うように、私たちもお前を信用しているんだよと。
それを聞くと、何となく気恥ずかしいような、尻座りの悪いような心持になった。姉と暮らしていたときのような、血のつながった家族では決してない、けれど互いに結びつきあい大切にする関係。
そういうぬくもりに飢えていたのだと最近になって気が付いた。
暮らし始めてしばらくした時に、偶然ノイエを町で見たのだった。
声を掛けると向こうも驚いた顔になった。エスタッドから配属されている比較的大きな部隊が隣町に駐屯しているので、その監察なのだと言った。
隣町は、今チャトラが暮らす街よりもずっと大きい。
大きくて、だのに行政がまるで成り立っていない。
アルカナ王国の城下町であった。ただし、「元」が頭に付くが。
数年前に、皇国エスタッドが攻め込んでアルカナは王国としての形を終えた。その後吸収合併される形で、エスタッドの役人がそこここに配置されてはいるらしいのだが、元アルカナ軍であった敗残兵が、徒党を組んで何がしかの国に取り入っては数年に一度は悪さをしている。大きな流れを作ることはもうないだろうと言うのが、おおかたの一般市民の意見であるようだが、元アルカナ残兵のお偉方は未だ再建の夢を見ているらしい。
ご苦労なことだと思う。
ただ、その壮大な夢とやらに一般市民を巻き込むなとも思う。
できればもう、平穏な生活を壊されたくない。
だから、己の欲望のために多勢の生き死にを巻き込む無神経さは、チャトラには理解できない。
理解したくもなかったけれど。
それにしても、皇宮や皇都の仕事に上乗せしてこうして僻地の観察にまで出かけてくるのだから、三補佐と言うのは本当に難儀なものだ。ある程度年を経たアウグスタやセヴィニアはまだ判るとしても、そこまで強い権限もツテもない若年の彼は相当苦労しているのだろうなと、並んで歩きながらチャトラは思った。
店に戻り、御用聞きの帳面を渡す。ついでに知り合いが来ているからと一言断りを入れると、気を利かせた夫人が茶菓子を渡してくれた。ありがとうと礼を言い、部屋へ戻る。
中二階へ続く梯子をチャトラが上ると、先に椅子に腰掛け、くつろいだ様子のノイエが何故か自分を見てうれしそうに笑った。
「なに」
「や、すっかり元気そうだと思ってね」
「元気だよ」
盆に載せた茶と茶菓子を差し出すと、同じように手にしていた露店の紙包みをノイエも開く。焦げた香辛料の香りが部屋に広がって、腹が鳴った。
「ノイエさん、監察くるたびにいつもこんなの食べてんの」
「今日は特別だよ。いつもはもうちょっと……、」
「豪華?」
「もうちょっと質素」
「うわ」
町にとは言え、野営ではないとは言え、平時とは異なる駐屯地で一体どんなものを口にしているのか。聞くと割と普通だと答えが返る。
「普通って」
「定食も三日食べていると飽きるんだよね。自分で材料持ち込んで、厨房借りて作ったりするんだよ」
「ノイエさんが?作るの?」
「作るよ?」
はー、と感嘆しながらチャトラは向かいに座る男を見上げた。どう想像力を働かせても、この涼しげな風情の男が厨房に立つ姿が想像できない。
「意外?」
「うん。意外」
「今度ご馳走しようか」
「いいの?」
「いいよ。今度隣町までおいで」
隣町までなら、乗合馬車で一日の距離だ。もう少し長く休みがもらえるようになったら、顔を出そうと思った。
ノイエを見かけてチャトラが声を掛けてからというもの、皇都を離れこちらに監察の仕事があると、必ず彼はチャトラの様子を見にやって来ているようだ。皇都を出る前に彼の屋敷で働かせてくれるというありがたい申し出を、チャトラは丁寧に断ったのだけれど、気を悪くするでもなくノイエは以前と同じような対応の仕方で彼女を訪れてくる。妹のように思えるんだよと、聞くとノイエはそう言った。見過ごせないんだ。
その自分へ傾ける誠意を、他の女性に向けたならばすぐに相手が見つかるのだろうにとチャトラは自分勝手に思っている。見た目が悪い訳ではなく、紳士的で地位もあり、財もある。皇宮における有望株と言うのならば、かなり上位に当たるだろう。
思うけれどさすがにそれは口に出さなかった。そう思うならば、ノイエの誠意に応えてやればいいとチャトラの別の部分が囁くからだ。
いい人。それがチャトラの彼に対する評価だ。
それから、二人で半時ばかり話した。
もうしばらく離れている皇都の様子だとか、駐屯地の様子をノイエは語った。
チャトラは代わりに、この間ノイエと会ってから、ふた月ほどの間の取り留めのない話をした。
得意先の家の赤ん坊がなついただとか。
小麦粉に最近種類があることに気が付いただとか。手を突っ込みぎゅっと握ると、固まるものと固まらないものがあることに最近ようやくチャトラは気付いた。種類によって色や香りがまるで違うのだなと思った。
彼は楽しそうに相槌を打ち、いちいち驚いた。人の好い男だと思う。
「どうしたの」
「いやちょっと余計な考え事」
目を逸らしたチャトラを心配するようにして、それからノイエは窓の外を見る。いつの間にか陽が沈んで、夜の気配がする。
「ああ、もうこんな時間だ」
そろそろお暇するよと言って彼は腰を浮かせた。
「隣町に戻るの?」
「視察は終わったからね。皇都に戻るよ。次にこちらに来るのは年が明けてからかなぁ」
また来ると言って彼は剣を腰に佩いた。
見送ろうと戸口に立ったチャトラにああ、と思いだした風で懐に手をやる。
「なに?」
「預かり物があったんだ」
「預かりもの?」
「セヴィニア補佐官殿から」
「……うぇ」
カエルの潰れたような声が出た。
ヒゲが、オレに。渡すものがあるとかありえない。
心の中で舌を出したチャトラは、目の前の男がおかしな顔をしていることに気が付く。おかしな、というよりは困った、困ったというよりは悩んだ顔だった。懐に手をやったまま、首を捻っている。
「ノイエさん?」
「うん」
もしかして、見せられるだけで嫌な気分になるような、そんな代物なのだろうか。どう引っくり返ってもセヴィニアからチャトラへ、好意的な預かりものがあるようにも思えない。あの補佐官と彼女の相性は確実に最悪だ。
ひそかに怯えるチャトラの前で、躊躇いながらノイエは懐から封筒を取り出した。
「なに?」
「どうしようかとも思ったんだけれどね」
言って封筒を差し出す。受け取ったそれに、宛先は書かれていなかった。
「結構考えたんだけど、やっぱり君が持っているべきだと思って」
裏を返すとびっちりと封蝋。
その封蝋の押し印に見覚えがあった。ぎゅっと肝を掴まれたような気がする。
「これ」
「あー……僕が、セヴィニア補佐官から預かっていたんだけど、補佐官が書いた訳じゃあない」
「あのひとの印だね」
封蝋に深々と刻印されているそれは、エスタッド皇が常に身に付けている右中指の指輪痕だ。皇帝直々の封蝋の印。
「ああ……やっぱり判るかな」
「そりゃ近くでみてたし、判るよ」
封蝋、などというものも皇宮に行って初めてチャトラは目にしたものだ。そもそもそれまでの生活に、手紙を書く習慣もなければその手紙を厳重にしまいこまなければならない重要性もない。
物珍しくて、皇帝の横から何度も覗いた。
「陛下が」
しかし、自分で言ったものの、他人の口から男の話が漏れるとそれはそれで心臓に悪い。うん、と頷きながらチャトラは封筒を凝視した。何も書いていない表のあて先を。
「ずっと前にセヴィニア補佐官に渡したのだそうだよ」
「……」
「僕がこちらへ監察に向かうのを知って、補佐官から預かっていた。彼からは、その」
一旦ノイエは言いよどみ、
「……。……陛下が逝去された場合、君に渡せと言われていたんだけれどね。返す当てのない手紙を受け取って君は納得するのだろうかと僕は思った」
これは僕の勝手なお節介だからもしかすると余計なものなのかもしれない。
そう言ってノイエが苦みを噛んだ顔になる。
「いつ渡したらいいものか、今渡してもいいのか悩んだのだけれど……、受け取ってもらえるだろうか」
彼なりに迷った結果だったのだろう。黙ったままチャトラは頷き、それからしばらく経って口を開いた。
「なぁ」
「うん?」
「今読んだらいいの?」
「君に任せるよ。僕は補佐官から君に渡すようにと言づけられてはいたけれど、読ませろとは言われていない」
「捨てるかもしれない」
「それも君の自由だ」
「そっか」
判った、と答えてチャトラは封筒を懐の隠しにしまった。
その様子をじっと見終え、じゃあ行くね。ようやく笑ったノイエがふと、そう言えば君の本業だけれど、と口を開いた。
「もうあちらの仕事はまるでしていないのかい」
「掏摸のこと?」
「本業と言ったら失礼かな」
「別に気にしない。今はここに住んでるし、まったくやってないかな」
「そう」
前の町までは別として、少なくともこの半年ばかりというものチャトラは他人の懐を狙ったことはない。住込みの仕事で十分に食べてゆけたし、それ以上に望むものは彼女にはなかったからだ。
「こないだ、たまたま会ったダインのオッサンにも同じようなこと聞かれたけど……取締りの強化でもすんのか」
「そうできれば良いのだけれど、逆に治安が悪くなっていてね」
元アルカナ王国の残党が騒ぎ始めそうなのだと彼は言った。あらぬ疑いを掛けられても心配なのだと。
「アンタは本当に気が効くというかなんというか」
「そうかな」
言ったノイエにの肩に、小さな綿埃が付いているのに気が付いて、チャトラは指を伸ばしそれを払った。ありがとうと微笑まれ、いちいち優雅な男だと思った。
「なァ。オレからも聞いてもいい?」
「何かな」
「アンタ、もしかしてこれ渡すために毎度ここにきてた?」
「あー……」
聞かれて彼は口ごもる。それで判ってしまった。
そうか。この封筒を渡すために彼は機を伺い、何度も自分を訪れて、いつ渡すべきか迷っていたのか。
「ノイエさん」
「うん」
「苦労人だね」
だから、思わず労いが口を衝いた。年下から労われた彼が、聞いた瞬間情けない顔になったのはこの際おいておこうと思う。
手を振りながら去るノイエの後ろ姿を見送り、どうしたもんかとチャトラは空を見上げる。片手を懐に入れて引き出す。
妙に平たい金入れは、彼の懐から抜き取ったものだ。
通りを並んで歩いている途中で、隙を見て抜き取った金入れは、彼が帰る際にでも未だ腕は衰えていないのだと、冗談交じりに返すつもりだった。それを制するように「本業」はしていないのかと尋ねられ、していないと言った手前思わず返しそびれてしまった。
やはり呼び止めて返した方が良かっただろうか。
その場合、気を悪くしないだろうか。知り合いの懐を狙うなんてと憤慨されてしまうだろうか。
チャトラに、金入れの中身を使う気はさっぱりなかったとしても、掏り取ってしまったことは事実で、やはり謝って返すべきだろうと思った。謝るなら早い方がいい。
しかし、天下の皇都エスタッドの三補佐の一人と言うには軽い財布だな。
今ならまだその辺りにいるだろうと、追い始める手前、何気なしに手にしたそれを眺めた。はずみか、硬貨が一枚かちんと床に落ちる。拾い上げ、小銭を戻した目の端に、ふと見知った綴りを見たような気がした。
金入れの中に紙幣はなく、代わりに無造作に折りたたまれた紙片が意識に引っかかったのだ。何だろうと疑問に思い、二度見直した。
エスタッド皇を、
(……え?)
その文字の意味を頭が理解しぎくりとする。悪い予感と言うよりははっきりと直感だった。いけないと思う前に金入れから紙片を引き出していた。皺だらけのそれを開く。
ああ。
震える指で辿った先には、いくつかの指示が書きしめされていた。
皇都。
生誕祭。
バルコニーから部屋へと戻る道。
四度目の参賀の後。
機会は一度しかないとも。
そして最後にアルカナ王国の刻印。皇都で覚えたいくつかの紋様の一つだった。覚えるつもりもなかったけれど、蛇ののたくるエスタッド皇国と、似たり寄ったりの複雑な紋様をしているなと言う感想を抱いた覚えがある。判を彫る人間は大変だなとも。
その判が押してある。誰が書いたかは判らない。けれど受け取ったのがノイエであることだけは判っていた。
(だってアンタ、アイツからこれを受け取ってた)
通りで見かけた一瞬に、チャトラがノイエに対して最初に感じた不審がこれだ。
ノイエが話し込んでいた男は、子分を従えて大きな顔をしている、町でも嫌われ者だった。酔うと、自分は元王国軍の名のある将だと、ひと声かければ数百はすぐに兵士が集まると胴間声で自慢するのが常だった。界隈のものは誰も気にしていない。また始まったかと顔を背け、見えない、聞こえないふりをする。係わるべからず。下手に絡んで暴力沙汰になっても損をするだけだ。
まだこの町に住みついて半年足らずのチャトラでさえ、どうしようもない男なのだという認識があるほど悪評高い男。贔屓目に見ても、エスタッドの三補佐官が話し込むような身柄には思えない。
だから、何をしているのだろうと気になった。
どうしようもない嫌われ者が、身なりの良いノイエに目を付けて絡んでいるのだろうかと思った。押しの強い相手の言葉に困っているのではないかと。
懐から出した金入れからごっそりと紙幣を掴んだときはああやっぱりと思った。思いたかった。
だのにどうしても絡まれているように見えなかったのは、怯えておとなしく金を差し出しているはずのノイエが、あいかわらずにこにことやさしい顔で笑っていたからだった。
脅されている人間が、あんな顔で笑えるだろうか。
辺りを伺い、小声で何か呟く様は、お互いが顔見知りのそれだ。そうして何か、聞かせられない相談事をしているように見える。賭けてもいい。あれが今夜の晩御飯の内容だとかそんな世間話だったとしたら、自分はひと月の手当てを投げ出してもいい。
固い顔で、頷き合い、指示しているように見えた。けれど、何の。
どうしてノイエが町の破落戸とかかわるような真似をしているのか。
何度か確認するように彼へ指を突きつけていた嫌われものは、やがて引き寄せていた肩を放して対面する。軒下から覗いていたチャトラの丁度正面に当たった。
男の唇が短い言葉に動く。
とても短い言葉だったので、音が聞こえなくとも何を示していたのか、よく見えた彼女には読めてしまったのだ。
「殺せ」
男はそう言った。対したノイエがどんな顔でそれに応じたか、幸いチャトラには判らない。ノイエは彼女に背を向けていたからだ。
『あいつのすがたを、今日繁華街で見たよ。メシを一緒に食った。あんなところで珍しいこともあるもんだ』
『通常ならば陛下直々にお目通りが叶うことは難しい……が。我々三補佐誰の許可も通さずの謁見が行われていることに、『遅れて』報告されて気付いた。我々の目を盗んで何者が許可したのか、画策したのかは、』
『後宮……こんな場所にいるということは、それなりに位のある役職か、あるいは兵士なのだろうか。
男の陰には隠れるように女が添っていて、……侍女と立ち話をしていたようには見えない』
今までどこか気持ちにささくれ立っていた。ちょっとした違和感。きっと彼の穏やかな笑顔に騙されてよく見えていなかった。
「……チャトラ」
不意にぞっとするほどやさしい声で、背後から呼びかけられて飛び上がった。反射的に振り向くと、困ったように首を傾げたノイエが懐に手を入れ、しょうがない子だね、と呟いている。
「僕の財布を返してくれないか」
「……」
黙ったまま差し出す。左手に広げていた紙片も一緒にノイエは受け取った。金入れから出されているのだから、彼女が中身を読んでしまったことは判っていることで、
「困ったな」
恐怖に強張るチャトラを覗き込んで相変わらずの顔で彼は笑った。悪意のない心底楽しそうな、
「君を怖がらせたい訳じゃあないんだけど……。チャトラ」
やさしい容貌は、取り繕って言っている訳ではないのだろう。本気でそう思っている。だからこそチャトラは怖かった。この状況で、穏やかに笑えるノイエが理解出来なくて怖かった。
「中、見ちゃったよね」
「……」
黙りこくったまま頷く。どちらにしろ、間近にノイエが立っている以上逃げる選択はない。彼が丸腰であったならまだ、それこそ急所でも思い切り蹴りあげて逃げることもできるのかもしれないけれど、抜刀の範囲に入ってしまっている以上、剣術及び防衛術においてまるで知識を持たない自分は不利だ。仮に逃げるとして、背に向けて投刀されてしまってはそれこそ避ける術を持たない訳で、
「チャトラ」
そっと腕を伸ばして男は彼女を引き寄せる。
「申し訳ないけれど、何日か監禁させてもらう。君に危害を加えるつもりはないから安心して」
「……安心してと言われて安心できると思うのか?」
「……できないよね」
ごめんね。
どこかさびしそうにノイエは微笑んだ。ふと目を奪われたチャトラは、不意に口元にあてがわれた布きれにぎょっとし、次の瞬間にはつんと鼻の奥を突くような刺激臭を感じたと同時に天地の平衡を失って男の腕の中に倒れ込んでいた。
ごめんね、ともう一度呟かれたような気がする。
(20110813)
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最終更新:2011年08月18日 21:30