<<luv letter>>
……報せなきゃ。
目が覚めた瞬間に最初に思ったことがそれだった。というよりも、朦朧と浮き沈みした意識の中で、ひたすらにそれだけを念じていたような気がする。
チャトラである。
飛び起きてすぐに壁に掛けた日付表が目に入って、ぎゅっと心臓が掴まれる思いがした。まったくこのところ体に悪いことばっかりだ。
……それとも、ぬるま湯の生活に慣れ過ぎていたのかも。
一体あれからどのくらい時間が経ったのだろう。そう長い時間眠っていた訳ではないと思うけれど、楽観はできない。なにしろ、エスタッド皇の生誕祭は一週間後に迫っていた。
時間がない。落ち込む時間も惜しい。
見回した部屋に自分以外に人の気配はなくて、ひとまず息を吐く。次いで、はやる心をじっと押さえて床の上、胡坐を掻いて落ち着けと自分に言い聞かせた。
時間がない。だから、迷いは許されない。
自分にできることは何かと思い、とにかく皇都の誰かに報せることが一手だと思った。
この町に人好きのする人間は多くいるけれど、どれもがいわゆる「庶民」であって、皇都への通じ手を持たない。乾物商の夫婦は信頼に足る人物であるとは思うけれど、エスタッド皇が、だとか三補佐が、だとかチャトラが言いだしたら、面食らうばかりに違いない。
駐屯している役人に訴え出たところで、気がふれていると一蹴されるのも目に見えていた。当たり前だ。チャトラ自身も、もし他から同じようなことを相談されたら、相手の正気をまず疑う。
皇都に行って、知った顔に会えるのか、会って信じてもらえるのかよく判らないけれど、たぶんここにいるよりはずっといい。
思ってもう一度部屋の中を見回した。
窓際に近付いてみる。
窓には、これはおそらく自衛のための格子が嵌まっていて、今の場合中から外に出る邪魔をしていた。捩じ切るような怪力も持たず、力任せに押したり引いたりしたところで黒光りのする鋼鉄はびくともしないだろう。
外はもうすぐ暁の気配で、とするとチャトラが朦朧としていた時間は、昨夜宵の口から一晩ということになるのだろうか。
予想よりも長く眠ってしまったなと思った。
(窓はダメ)
戸口に近付き、外の様子を窺う。
ここが誰の屋敷なのかチャトラには判らない。屋敷の中はしんとしていて、あまり人の気はないようだ。戸口外に見張りが立っている気配もしなかったけれど、ためしに捻った取手はがっちりと固定されていて、ここも同じくびくともしない。
こんこんと扉を叩き、板の厚さにげんなりする。重い音だった。例えば木賃宿のような、あってもなくても大して変わらない、蹴り破れるような扉でもないらしい。
さすが貴族だね、だとかどうでもいい感心の仕方をした。
(扉もダメ)
見過ごせないほどのなにか、例えばボヤでも出して大騒ぎをし、駆けつけた屋敷の人間の隙を見て逃げ出す手も考えないでもなかったけれど、この人気のなさを思うと、うっかりボヤでも出した日には、屋敷の人間が駆けつける前にチャトラが燻されてしまいそうだ。
(騒ぎもダメ)
でも甘いね、とチャトラは呟いた。
なれた、と言ってしまってはどうにも遠い目になりそうだけれど、皇宮の人間とかかわってからチャトラは閉じ込められることに割と慣れた。エスタッド皇の懐を狙ったあと、つかまってからはしばらく閉じ込められていたし、皇宮に着いてからもセヴィニアにやはり閉じ込められていた。
だから、自分をどうしても閉じ込めておきたいのだったら、手足を縛りつけ転がすまでされないとどうにかなってしまうことも判っていた。
(アンタは甘いよ)
縛り付けて転がすこともできたろう。と言うよりは、万全を期すなら縛り付けておかなければいけなかった。そうしなかったのは、ノイエの読みが甘いか、それとも自分に手加減をしたのか、
「君に危害は加えない」
そう言ったノイエの顔を思い出す。
だからアンタは三補佐の中でも目を付けられちまうんだよ。
その甘さが悲しいと思う。
部屋を見回した時に真っ先に目に入った暖炉にチャトラは近付いた。今は冬で、暖炉と言うものはまさしく暖を取るために使うものであったから、夏場ならともかくこの寒い時期に煙突を使用できない状態にしておくことはない訳で、
(オレは上品なそこいらの貴族の皆さまとは違うんだよ)
ひょいと暖炉に踏み込み、下から覗き込んで、ぱんぱんと手を軽く叩いた。そうして、腕を伸ばし煙突の煉瓦の継ぎ目のとっかかりに足を踏ん張り、爪先を漆喰に捻じり込んで、細い空洞の上を目指す。
そう言えば最初に皇帝に連れて行かれた屋敷でも、煙突から逃げ出そうとして大騒ぎになったことがあった。あのときは捕まった後、数人がかりで風呂に押し込まれ洗われてひどい目にあった。
正直屋敷の人間は、汚れて狭い煙突から自分が逃げ出そうとするということを予測すらしていなかったようで、懲りずに逃げようとした行為そのものよりも、逃走しようとした手段が信じられない、といった視線を送ってきたような気がする。
そんなことが少し懐かしくて小さくチャトラは笑った。
笑っていないと泣いてしまいそうだった。
殺せ、とあの破落戸(ごろつき)はノイエに言った。生誕祭の四度目の参賀の後に。
あのひとが死ぬ。考えただけで叫びだしてしまいそうなほどに怖い。
漆喰に差し込んだ爪が、がりりと一片剥がれたけれど、痛みは感じなかった。
煙突の排気口から左右にぐりぐりと捻じり出して、ノイエはどうしたものかと思う。恐らく屋敷にはもういない。生誕祭の準備もあるし、他の補佐官から不審を抱かれる前に皇都へ戻ったことだろう。今頃彼がどのあたりにいるのか、チャトラには判らない。探していたら間に合わない。チャトラ自身、もしかすると今から皇都へ向けて出立しても間に合わないかもしれないのだ。
乗合馬車の朝一番の馬車で向かおうか。でもそれまでどうしよう。
気ばかり急いて、とりあえずわななく腕でぎゅ、と自分自身を両腕で抱きしめる。
チャトラには、馬を借りる金もないし乗れる技量もない。どうしよう。
店に戻れば給金をいくらか溜めたものが残っているけれど、戻って良いものだろうか。部屋にチャトラがいないと気付かれるまでに、どのくらいの時間があるものなのだろうか。
すこし考えて、結局手ぶらのまま皇都を目指すことにした。なんとかなるだろう。なんとかなってくれないと困る。
どうやっても、走り続けても行くしかないと思う。
自分が、ノイエを止められるとは思えなかった。
説得して止められるものならば、誰かが説得してとっくに終わっていることだろう。止められないから今の状況になっている訳で。
(アンタも、もう、そうするしかなかったんだな)
そうすることしかなかったのなら、そうするしかないんだよ。
以前ダインに言った言葉を思い出す。
煤けた姿のまま屋根から滑り落ち、走り出したチャトラの目に、将軍と呼ばれている男がふと見えた。明るみ始めた空の下、遅い店じまいを始めた酒場から、千鳥足で出てきたようだ。
見た瞬間に腹が立った。
将軍男は己の才覚でノイエに近づいた訳ではなく、十中八九、誰かに踊らされているだけなのだろうということは判る。判るが、判っていることと納得がいくと言うことは別の話である。
走り過ぎる時についチャトラは足を捻り、将軍男のほうへよろけ、どんと肩をぶつけた。悪ィ。ぶっきら棒に謝った背後でなんだこの野郎、と喚く声がする。
最近のガキはなってねェな。謝り方ひとつ知らんのか。
酔いどれた喚き声を聞き流しながらそのまま、チャトラは皇都へ向かって駆け出したのだった。
ぽんぽんと叩いた懐には、分厚い札束の入った将軍男の金入れ。
*
まったくひどい行程だった。
町から町までの街道を走る乗合の馬車に、乗り継ぎに次いで乗り継いで、なんだか始終頭の中まで揺られているようだった。乗り物酔いを通り越している。
それでもまだ馬車がある時はマシだった。皇都からかなり離れた町から、直通の馬車はない。良くて日に数便、だいたいは一日にひと便、下手をすると二日にひと便の、村から村への本数の少ない馬車は、後半日は待たないと馬車は来ないぞと何度も告げられ、聞いた瞬間矢も楯もなくチャトラは次の村まで走った。待つ時間は惜しかった。
惜しいというよりは怖かった。目の前に迫ったエスタッド皇の命の期限、自分はまた何もできずに、手をこまねいているだけだったのではないかと言う無力感、間に合わなかったらどうなってしまうのか、間に合ったところでどうにかなるのだろうかと言う不安。
汗まみれのまま走り、崩れるように脇の草地に腰を下ろし、それでもすぐにまた立ち上りよろよろと進んだ。休むことも怖かった。ほんのすこしと思ってこうして休んだ間、手を伸ばした指先ひとつ分、間に合わなかったとしたら?
容赦なく吹きすさぶ北風に背を丸め肩を凍えさせ、ほとんど飲まず食わずの状態で、ぎらぎらと光だけは白い日差しの中、眉を顰めながら煤けた顔のままチャトラは走った。たいがい無茶なことをしていると自分でも思った。馬で駆けて数日かかる距離を、乗合馬車と徒歩で何とか間に合わせようとしている。たった六日。間に合うのだろうか?本当に?
それでも何かに急き立てられるようにして、進む足を止められなかった。
だって、殺されてしまう。
エスタッド皇ともう二度と会えることはないと思っていたし、今でも思っている。男とチャトラの間に横たわる世界は、どう足掻いても歩み寄れる代物ではないし、きっとそもそも次元が違う。
皇都の中央に建築された、そびえ立つ高い氷柱の頂に立って辺りを眺める男の目に、地を這うチャトラの姿は映ることはない。そんなことは判っている、でも。
どうしたらよいのだろう。自分の存在はあまりにちっぽけで、無力だ。これが何がしかの権力や財力、その他大きな力を持っている者ならば、機転を利かせて物事を収めることもできるのだろうけれど。
途方に暮れかけ、いきなり潤み始めた視界を乱暴に擦って、駄目だとチャトラは低く呟く。泣きべそをかいている場合じゃない。こんなところで弱気になっている場合じゃないだろうと叱咤した。やることがある。やれることがあるのならば、先にそれをしなければいけない。嘆くのはその後でいい。
アンタが死ぬのはオレがいやだ。
報せなければとそれだけを思う。誰に報せたらいいかだとかそんなことは、皇都に着いてから考えてもいい。今はとにかく向かわなければ。
朦朧とした意識の中、偶然通りかかった郵便馬に拾われて、鞍の後ろに乗せてもらうことができた。隣町まで乗せてやる、落ちないようにつかまっていろと言われ、捕まっているつもりだったのに不甲斐なくチャトラは転げ落ちた。気絶するように眠っていたのだった。
落ちた衝撃で初めて目を覚ました彼女を見て仕方がないと思ったのか、鞍に縄で括られた。申し訳ないと思いながら押し寄せる睡魔には勝てず、上下に揺られながらうつらうつらとチャトラは眠った。
ほとんど目覚めているような浅い眠りの中、何度もチャトラは怖い夢を見た。手を伸ばしたその先で、間に合わなかったエスタッド皇帝が刺され血を飛沫き、倒れてゆく夢だった。
小さな悲鳴を上げて目を覚ますと馬の上だった。ああ夢かと安堵し、うつうつと眠ってまた悲鳴を上げて飛び起きた。冷たい、嫌な汗をかいた。
全身が細かく震えて仕方がなかった。
どうしようどうしようとその言葉ばかりが頭を回る。自分はこんなに弱い人間だったろうか。
もっとどっしりと構えた、何事にも動じない性格だと自分で思っていた。機転を利かせて、場を乗り切ることにも長けていると思っていた。
失うことはこんなにも怖いものだった。
そう思ってふと皇帝も、もしかするとこんな思いを抱えていたのだろうかと思った。手に入らないものは何もなかったくせに、大事なものをなにひとつ持っていなかった男。
失う未来を恐れて手放したくないと駄々をこね、こねそこねた男を。
送ってもらった次の町から皇都への最終の乗合馬車は既に出た後で、受付台で仕事の片づけをしながらチャトラに対応した男は、彼女の様子を見ながら、事情は知らないが一晩休んではどうだねと言った。
言われて見下ろす。まったく何て恰好だと、苦笑いが浮かんだ。
五日、走り続けて汗ばんだシャツは、埃と土に汚れている。顔を拭った袖は真っ黒だ。布靴は破けて指が見えていて、その足指はまめがつぶれて血がにじんでいる。貧民窟に寝起きしていたときの自分でも、ここまでひどい恰好をしていたものかどうか。
苦笑しながらありがとうと男へ返し、ようやく近付いた皇都へ向けて街道を走る。さすがに体はぼろぼろで、走っているのは気持ちだけで歩いている速度と大差ない。
荷駄にわらを積んだ農夫の馬車を見つけ、乗せてくれるように頼む。方向が同じ地点まででいいなら、とひとしきりチャトラの風体をじろじろと眺めた後に、農夫が小さく頷いた。
礼を言って遠慮なく荷馬車に乗り込む。わらに背を預け、ようやくため息が漏れた。
あと一日だった。
明日の朝には、エスタッド皇生誕の祝賀式典が行われるはずだ。
午前中に聖堂で礼拝とやらを済ませ、昼を挟んで皇帝はバルコニーへ向かって、広場に押し掛けた都民へ顔を出す。その、四度目が終わった後だと書いてあった。
間に合う。
足が痛いだとか疲れただとか、腹が空いた喉が渇いた。全部まとめて皇都に着くまで泣き言は言うまいと思っていたけれど、ずいぶんと草臥れたようだ。
このままわらに埋もれて泥のように眠りたかったけれど、眠ってしまったら起き上がれないことも判っている。
全く自分はとんだお人よしだと思った。
実にも金にもならないようなことに進んで首を突っ込んで、結果騒ぎに巻き込まれてこのざまだ。何も言わずに乾物屋を出てきてしまった。主夫婦は怒っているだろうか。都で誰かに報せることが出来たら、すぐにでも店に戻ってまずは謝りたいと思っているけれど、許してもらえるだろうか。
(居心地良かったんだけどな)
仕事をクビにされることは覚悟していたし仕様のないことだと思っているけれど、まずは謝りたいと思う。きっと心配している。
肩を落とし、膝の間に頭を垂れたチャトラの耳に、かさついた何かが落ちる音がした。足の間を見下ろす。
あ、と息が漏れた。
懐から落ちたのは、ノイエから受け取ったままになっていた、エスタッド皇からの封蝋の捺された手紙だった。懐にしまったまま忘れ切っていたけれど、思いだして急にどきどきとする。
汗染みと土埃の付いた宛名のない表を急いで払う。汚れた指で払った封筒はますます滲んで、まだら模様を作った。
この手紙。
読まずに捨ててしまおうかとも思う。
読みたくない訳ではない。しかし、読みたいかと聞かれるとよく判らない。ノイエも複雑な顔をしていたし、皇帝が死んだら渡してくれだとか、セヴィニア補佐官も大概ひどいことを言っていると思った。
死んでもないのに先に手紙を渡されて、お前の判断に任せるというのは、ノイエも言うところの丸投げというものではないかとやっぱり思った。
しっかりと封をされた封筒を眺めて、裏と表にひっくり返す。透かす。
ああ、でもこのタイミングで見てしまおうか。
あまり持っていると、今のように落として、そのうち失くしてしまうかもしれない。持っていることを忘れるくらいになって、ゴミと一緒に捨ててしまうかもしれない。自分に言い聞かせて、それが全部言い訳で、結局チャトラは男からの手紙を読んでみたかったのだと気付いた。
(往生際が悪いね)
何を言づけたのだろうと思った。
封を切ると便箋が見える。綺麗に漂白されて一枚、とても丁寧に折りたたまれて中に入っていた。
汚してしまうのはもったいなくて、チャトラは上着の裾で指を拭い、それから便箋を引っ張り出した。
広げながら、皇帝の字を見るのも実に一年近く久しいと気付く。男の性格そのままに、几帳面で神経質な、まるで乱れのない字面。
宛名もなしに、いきなり数行。
「言い忘れたことがあったので、記しておく。
セヴィニア補佐官に鍵を渡してある。
私個人の持ち家の一つで、権利書その他の名義を書き換えておいた。
住むもよし、内部の調度品もそれなりに売れるだろうから、人間一人が食べてゆくのに困ることはないだろう。好きにすると良い。
いくばくかの持ち合わせも鍵と共に彼に預けてある。必要となったら使いなさい。
以上だ。」
相変わらず読み書きはそう得意ではない。指で辿りながら、チャトラは時間をかけてゆっくりと読んだ。便箋の下の空白が目立って、笑った。書くことが他に思いつかなかったのだなと思った。
せめて元気ですか、とか、
こちらは良い天気です、お変わりありませんか、
程度の時候の挨拶もないのかと思い、それから屋敷を丸ごと譲るというのはどういう発想なんだよと毒づいた。下町暮らしのチャトラには想像もつかない。
「……事務的過ぎるだろ」
毒づき、ふと皇帝はこうした個人にあてた手紙と言うものを、誰かに書いたことがあるのだろうかと思った。少なくともチャトラは見たことがない。いつも男が手にしていた紙の束はすべて仕事の類で、あの感情の薄い顔を赤く染めて今度お食事でもいかがか、などと書いていたらそれはそれでどうなのだろうと思う。
(……らしくねェな)
何度か繰り返し読んでみたけれど、便箋からは書かれた以上のことは読み取れず、諦めて折りたたみなおす。男が自分に何を言づけたのか、知りたくて開いたのだけれど、こんなことなら開かない方がマシだったのかもしれない。それこそ、補佐官の誰かに口で告げれば良いだけの話だ。わざわざ言づける意味が判らない。
封筒に戻しかけて、チャトラはもう一枚、細い付箋が中に入っていることに気が付いた。
おやと呟いてつまみ出す。書かれた文字はひどく急いていて、皇帝が書いたにしては珍しい、乱れた走り書きだった。まるで、ついでに付けくわえたような。
こんな崩れた文字を見たのはチャトラは初めてだ。何とはなしにぎくりとする。事務的なものもいただけないと今し方思ったけれど、前例のない手紙の方がよほど心臓に悪い。
どきどきとしながら読み下した。
「どこかで、大事にしてくれる誰かのもとで、お前が笑っていると良いと希う。
どうか幸せであるように。お前の上にたくさんの幸せが降り注ぐように。」
たった二行。
(ああもう)
何が言いたいんだよとチャトラは頭を掻きむしり呻いた。
アンタ一体何がしたかったんだよ。
(こんな付け加えたような手紙いらねェよ)
ここに来て、自分の口で言えよ。
綺麗に折りたたまれた一枚の便箋。ひどく乱れた走り書き。
どちらもあの男を表していると思った。まったくどこまでも素直でない。
思って、チャトラは二枚とも封筒に戻して封をし直した。封蝋をなぞりながら冷たくてきれいだった、男の顔を思いだそうとするけれど、何故かうまくできない。
一方的な願い。
「どうか」と祈られた言葉。
死んだら渡してくれと判断したのはセヴィニアではない。男が自身で望んだのだなと気が付いた。男は何を思って封筒を渡したのだろう。
どんな顔をして書いたのだろう。
「ばか」
あざ笑ってやろうと思う。たかだか十三、四しか生きていない小娘に、勝手に掻き回されておかしくなってしまった哀れな男を。
笑おうとした唇が、への字に歪んだ。
――たくさんの幸せが、
覚えていたのだなと思った。
男の誕生日に、チャトラが四葉のクローバと共に贈ったまじない。ほんの気持ちのつもりだった。探すのに少し時間がかかってしまったけれど、何でも持っている皇帝へ、他に贈るものを思いつけなかった。だから四葉にした。ただそれだけだったのに。
だのに皇帝は神妙な顔をして受け取ったのだ。そうしてすぐに食べてしまったのだと言った。失くしてしまうと困るから、どこに置いても失くさないとは限らないから、いっそ腹に収めてしまおうと思ったのだと言った。
どんな奇想天外思考なんだよとあの時チャトラは笑った。
……アンタ、もしかしてきちんと「受け取った」のはあれが初めてですか。
飄々と流してその場を片付けた。天邪鬼。そんなに大事に思ってくれていたと気付けなかった。
目の前が急速にぼやける。
慌てて拭おうとした拳より先に、ぼたんと涙が足の間に落ちて、板に染みて消えた。
鼻をすすったチャトラを、農夫は見ないことにしたようだ。ありがたかった。
そうしてうなだれ、わらの山にもたれたまま、どうして男を好きになったのだろうとチャトラは初めて考えた。封筒ごと握りしめた甲を瞼に当て、どうして男は最後にあんな顔をしたのだろうと考えた。歯を喰いしばりそれでも堪えきれない嗚咽を漏らしながら、どうしていつまでも一緒にいられなかったのかと考えた。
(20110821)
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最終更新:2011年08月21日 17:16