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<<寒天質(アガーチナアス)の虚数>>


 エスタッド皇国は、皇宮を中心として大きなドーナツ型を書いていると以前にも述べた。
 東西南北、四方に開かれたエスタッド皇国の大手門は、通常ならば官庁から発行される手形が必要で、この手形がなければ十五尋ある城壁の中へ立ち入ることはできない。もちろん商売も通行も許されなかった。
 であったから、壁の内外の区分けと言うものはかなりはっきりとされており、壁の内側を「皇民」、内に居住権を持たないものを「外民」と、誰が最初に呼んだのかは知らないけれど、そう呼ばれることが多い。選民思想につながる恐れもあると、皇都役人の中には渋い顔をする者もいたけれど、止める手段はなかった。規制する明確な相手がいない。
 ともあれ、そうした厳重な警戒を持つ都への出入りも、年に数度は例外と言うものもあるもので、例えばそれが夏と冬の二回行われる大祭。それからエスタッド現皇帝の生誕日。あと半月もすれば新年を迎えるとあって、町では生誕祭の飾り付けと、新年を迎えるための準備とで、大変なにぎわいを見せていた。
 とくに、生誕祭当日とあっては、大通りは日頃より着飾る人々でごった返していて、まるでそぐわない風体で飛び込んだチャトラである。
 自分でもそうだろうなと思うほどに周囲から浮いていた。擦れ違う通行人が、触れるのを嫌がるようにさりげなく遠目に避けて歩いて過ぎ去る。都に居住権を持つとはいえ、日々の生活に追われる暮らしは内も外も大して変わりはしなかったから、とっておきの一張羅を汚されたくない気持ちはチャトラにもよく判った。
 一言で言うと、相当小汚いのだ。
 人目を避けるように早足で歩いて、いくつもの裏通りを抜け、幾重にも巻かれた階層を突っ切る。中央塔を目指しながら、このにぎわいでは知った顔を見つけるのも難しいと眉が曇った。
 いくつか候補に挙がる彼女の知っている顔はみな皇宮の務め人であり、それなりな職に就くものどもであったから、生誕祭当日ともなればてんてこ舞いに業務に追われていることは目に見えている。華やかな見かけに反して、舞台裏で動く人間の多いことをチャトラは皇宮に連れて行かれて初めて知った。
 考えている時間はあまりない。
 朝には都の外壁が見え、もう少し早く都に辿り着けるとタカをくくっていたのだけれど、実際ごった返す混雑に大手門はどこも行列を成していた。今日一日は手形が不必要とは言え、常より多い警備兵がそれぞれの門で立ちかまえており、通行人はその警備兵の前を通ってゆかねばならない。人の波を押し分けて無理に先に進もうとひと悶着を起こしては、逆に入る時間が遅くなるとも限らず、じりじりしながらチャトラは列に並んだ。
 壁の内に入れたのは、だから正午を過ぎたあたりだったのだ。
 我慢の限界崖っぷちだった。祭りにさんざめく周囲の人間を見ながら、ひとり喚き出したい気持ちでいっぱいだった。
 こわかった。
 去年と同じ流れであるなら、既にエスタッド皇は午前の一度と、二度目の参賀を終えている。チャトラが盗み見たノイエへの書き付けには、四度目の後、とは書かれていたけれど、いつ何時計画が変更になるかは判らない。
 よし通れと言われてすぐに、中央広場へ向かって駆け出していた。息が切れるまでがむしゃらに駆けた。それでも都は大きくて、いくらも行きつかないうちに足がもつれ目がくらんだ。よろよろと壁に縋るように前へ前へとチャトラは進んだ。実際前へ進むことだけしか頭にはなかったし、それ以上考える余裕はどこにもない。
 街角のあちらこちらに開かれた屋台から鼻の奥を刺すほどに香ばしく良い香りが流れてきて、つと嗅いでしまった彼女の目に、生理的な涙が滲んだ。食いしばったへの字口が、無様に歪んでしまいそうだった。
 腹が減った。へたり込んでしまいそうなほど減っていた。
 最後に食べ物を口にしたのがいつだったのか思い出せない。
 細かな震えが全身を襲っていて、それがぜんたい、寒いせいなのか、腹が減ったせいなのか、疲れのせいなのかもう何もわからないのだ。
 機械仕掛けのように左右交互に踏みしめる足が、少しでも気を抜くとおかしな方向に捻じってしまいそうで、ただ皇宮へ向けてチャトラは進んだ。

                   *

 少し眠っていたようだ。
 陛下、と控えめに声をかけられた気がしてエスタッド皇帝は目を開ける。
 窓際の椅子に腰かけて、頬杖を突いたまま外を眺めていたはずなのだけれど、いつの間にか気をどこかへやっていたらしい。ああもう時間かとふと視線を上げ、見上げた空は重たい色に覆われていた。
 うんざりとしたため息が出た。
 これはいただけないなと思う。
 去年も誰かにぼやいた気もするけれど、自分の「誕生」した日がめでたいのかはともかく、せめて暖かな日であってもらえるとありがたかった。生まれる日も時間も、人間は自身では選ぶことができないので仕方がないと言えばそうなのだろうけれど、真昼とは言え冬の外気は芯まで刺すようで、もともと低体温の皇帝は寒さに弱い。
 弱いというよりはきっと寒さに無自覚だ。
 元来自身の体にかなり無頓着なことに輪をかけて、体が冷えていることほとんど気が付かず、あとからひどい目を見る。これが、四方を囲まれた部屋であるならば、下のものが部屋を暖めるだの一枚多く毛を着せるだのといった気を利かせることもあったけれど、あいにくの外だ。式典用の礼服に身を包み、薄物数枚で平気でしばらく立っている。
 寒いのは平気だ。けれどその後しばらく寝床から起き上がれなくなるのは、どうにかならないものかと思う。寝ようと思えば、最近はいくらでも眠れるのだけが救いだけれど。
「もう――行かねばならないのかな」
「まだ少しお時間がございます」
「そう」
 傍らに控えたディクスが、さらに後ろに控えた数名と何か小声で打ち合わせてそれから皇帝へ向かった。
「何かございますか」
 聞かれてそうだね、と男は一人語散、それから、
「――塔へ」
 そう呟いた。
「は、」
 意味を図りかねたのか一瞬言葉に詰まったディクスへちらりと視線を流して、皇帝は物憂げに口を開いた。
「少し風に当たりたいのだが。塔の上まで上がる時間はあるだろうか」
「……」
 再びディクスが控えた数名と言葉を交わし、向き直ると頷いた。
「護衛いたします」
 本日に数度設定されている、都民への顔を見せる時間、それより前に外の空気が吸っておきたかった。理由はない。強いて言うならなんとなく、だ。頭が重い。胸の内が澱んでただれてゆくような気がする。まるで空と同じような重たい色だな、ふと男はそう思い、自分の考えに嗤った。いっそ雪と同じような白色でもぶちまけて消し去ってしまえればよいのに。
 ゆっくりと歩を進める皇帝の後ろに律儀に付き従って、ディクスが無言で付いてくる。そう言えば一年前の今日、彼は不在だった。それは待望の、
「ディクス」
「はい」
「和子は健やかにあるのかね」
「は、」
 皇帝が、まさか自分自身の話を振って来るとは思わなかったのだろう。常の無感情を少し崩して驚いた風のディクスが、遅れて小さく頷いた。
「おかげさまで」
「もう――ひとつ年を経るか。早いものだ」
「はい」
 次の応えは本音だったのだろう。しみじみと頷いた中に父になった男だけが感じる生活臭が漂って、だから皇帝は小さく笑った。
「夜泣きされると眠れなくなりました」
「力強いことだね」
 頷きながらしまったなと思った。
 日々の皇宮の、繰り返される同じような生活すら目まぐるしくてついていけないというのに、皇宮の「外」の生活は、だから皇帝にとってはほとんど未踏の地も同じだった。各国の情報は入ってくる。情報とは呼べないような下世話な噂話も入ってくる。文献も目にする。報告書も許可証も、都だけではなくもっと遠い地の戦況も刻々と変化しその全てが報せられる。
 しかしそれらはすべて、色や臭いの取っ払われた、男にとっては現実のものであろうとよくできた物語であろうと、そう大差のない物語でしかなかった。違いは、判断を下すかどうかということだけ。その、少し離れた場所から読み聞かされるような「現実」は、だからこうしてディクスが口にするような生活臭を伴うと、急に生々しい。皇帝が思わず一歩退いてしまうほどに現実味を帯びる。
 ささくれた体にその生々しさはすこし灰汁が強い。
 溜息を吐きながら、その後は口を噤んでしまった主を気遣うように、ディクスも黙って後ろに従った。
 螺旋回廊を上がりながらとつとつと考える。
 思えばもう相当長い間、この黒甲冑の男は第一線を退き皇帝直属の護衛に徹している。大したものだと思った。そうして、あとどれくらいこの部下は自分の護衛をするものなのかと思い、それから自分が消えたらこの部下は次に何の職に就くのだろうかとも思った。腕は良いからどこでも引く手数多ではあろうけれど。
 後継者か、とふと皇帝は心の中で呟き、後ろを歩く男にはあるもので、自分にはないものなのだなと思った。普通に子を成せるかどうかも判らない。成すつもりもなかったけれど。唯一血のつながると言えば言える義妹に、その責務を押し付けるつもりも毛頭ない。
 施政者として失格だなと我ながら強く思った。
 上層部へ上がると意外に風が強い。着せかけられた毛皮を、胸元の前できつく寄せて男は見晴らし窓へ立った。まだこうして皇国が大きくない時代、そもそもは見張り櫓の目的でつくられた建物なのだという。装飾と言うよりは無骨な、動線の考えられた、機能重視のある建築だった。余計な修飾がされていないところを、男は気に入っている。柵がある訳でも、縄の一本も張っていない際は、だからもし男が気を変じて瞬間一歩前に進んだとしたら、そのまま地上にぶち当たるまで何の障害もなく往けることだろうと思う。
 そこから見下ろす都の景色が何となく気に入っていた。
 この町を守ってやっているのだとかいう気概はない。遠くの山を見て国土を広げた満足感もない。いつかは大陸全土を手に入れてやろうと言う征服欲もない。
 ただ、空ろに山の稜線だとかその上を渡る鳥だとか、ぽつぽつと滲む灯りだとか。そんなものを何も考えることなく眺めることが好きだったのだ。
 神さまの視点みたいだ。
 そういった誰かがいたような気がする。
 発想すらしたことがなくてどういう意味なのかと聞いた覚えもある気がした。
「――ディクス」
「はい」
「万物をつくられし主神は、天高き場所におわして我々を見下ろしているのだそうだよ」
 それが一体どの程度の高さからなのか判らないが。
「教義替えでもなされますか」
「それも良いかもしれないね」
 男の意図を読めなかった部下が、おずおずと尋ねるところへ手を払って答えた。払った拍子に風が吹き抜け、勢い上掛けが飛ばされる。ああ、と追うでもなくそれを見やって、あの毛皮と同じように不意に宙へ身を躍らせたら、いっそ何もかもが軽くなるだろうかと出来もしない幻想を皇帝は思った。

                   *

 去年は確か雪が降ったんだった。

 足元を見続けていた顔を上げてチャトラは空を見た。
 同じように曇天。今にも降り出しそうな空模様であることには変わりがなかったけれど、雪の前特有の妙な冷え込みは無かったからきっとみぞれまじりの雨になるだろう。
 雪になるならばいっそ雪になってしまった方が、濡れなくて済む分、路上暮らしにはありがたいことが多かった。そんなことも思い出す。
 冷えるというのならばどちらにしても随分と冷えこんだから、どうせ冬の夜はろくに眠れない。なるべく体温を逃がさないように、じっと膝を抱えてまんじりともせず遅い日の出を待ち焦がれていたことを、昨日のように思いだす。きっと、どんな場所で眠るようになっても、あの厳しい寒さとじわじわと光を投げながらのぼる、赤い陽を忘れないだろうと思った。あの光は何よりも強烈だ。朝が来ることに何の真新しさも感慨もないはずなのに、あの頃はいつも朝を待っていた。
 そう言えば、四葉を探したのだったな。
 姉をなくしてから誕生日を祝うだとかいう余裕もなくしていた。そもそも一緒に暮らす人間がいなかったのだ。祝う誰かはもちろん、自分の誕生日を自分ですら知らなかったのだから、祝ってくれる相手がいるはずもない。
 ――お前の誕生日はいつなのかな。
 耳元で男の声が聞こえた気がして、チャトラは口の端を上げる。
 ――オレ、親に捨てられてたし、きちんとした日なんてわかんねェんだよ。
 ――何かほしいものはあるかね?
 ほしいもの。自分のほしいものなんて漠然としすぎて、いつも喉元から上にでてくることなんてないのだ。そんなこと、とっくに判っていただろうに。
 逆に男にほしいものはないのかと聞いても、はぐらかして決して口に上らせないのだ。同じじゃないか。そう思う。アンタだってほしいものはとっくに判っていたのに言葉に出来なかった。
 人にばっかり言わせて逃げていたんだろ?

 チャトラが次にふと我に返ったのは、皇宮に近付きざわめきが耳に飛び込んできたからだ。
 人の流れに沿うようにして参賀の行われるバルコニーを見上げる広場へ足を踏み入れかけ、それではどうにもならないのだとそこで初めて足を止めた。
 広場からは、見上げることしかできない。
 自分がしたいことはエスタッド皇帝の身辺に危険が迫っていると伝えたいことで、参賀に集まった群衆が上げる歓声にかき消されてしまっては意味がない。
 ひとりがどんなに大きな声を上げても多には消されてしまう。
 ここではいけない。
 反転しながら自分はなんて無力なのだろうと思った。何がしか突出した能力を持っているか、もしくはたいへんに機転が効くような、そんな人間であったらよかったのに。
 人の流れは次々に広場に流れ込んでいて、逆流するように進むチャトラはひどく迷惑な視線を送られた。オレだって本意じゃないんだよ、そんな風に当り散らしたい。
 四度目の、とどこからか声が聞こえてぎくりとして振り向いた。
 擦れ違った誰かが、連れの人間と話をしていたのだった。

「もうすぐ四度目の参賀が始まるらしい」
「いや、それにしてもたいした人数だ。人に酔う」
「なかなかお目にかかれない皇帝さまを拝むチャンスだものな」
「一目千金か」
「違いない」

 始まってしまう。
 堪えきれない苦鳴を喰いしばった唇から漏らして、無理矢理人の波をかき分けてチャトラはもがいた。まるで祭りに浮かれた雰囲気と異なる、必死な形相の彼女を、怪訝な顔でよけながらすれ違うどの顔もさんざめいている。
 こんな時小柄な体は不利だ。
 どっと押し寄せ、うねる力に呆気なく転がされて、ひざをすりむき上げた頭の前には、無数の人間の足しかなかった。
 無情に同じ方向へ進もうとする、彼女を同じ方向へ押し戻そうとする、足。足。足。
 故意ではなかったのだろう。けれど足元にうずくまった体は簡単にかき消されて、チャトラはもみくちゃにされ、小突かれ蹴り飛ばされた。立ち上ろうにも膝に力が入らない。頭を抱えた彼女に、群衆の誰かが気付いて小さく悲鳴を上げる。女の悲鳴が驚くほど高く辺りに響いた。なにごとだ。どうした。聞きつけた衛兵が二人走りよって牽制の声を上げる。
 うずくまりへたばった首根っこを掴まれ、無理矢理引き上げられてぐらぐらする視界でチャトラは顔を上げた。
 大丈夫か、と言う気遣いの声と、なんだずいぶん小汚いガキだな助けて損をしたというボヤきが、いっぺんに衛兵どもから発せられた。こんなところに自分のような薄汚れた人間が混じっていては迷惑だろうなと思った。まったくだ。
「……すけてくれ」
「え?」
「たすけてくれ」
 いっそもう誰でも良かった。嘆願が口を衝いて出る。必死な形相にぎょっとしたのか、衛兵どもが聞き返した。
 誰かが皇帝を止めてくれれば、
「皇帝が、危ない。あのひと、参賀の後に、」
「……おまえ、」
「皇帝が。皇帝が殺される」
 押し殺した悲鳴がチャトラの口から訴えるように迸ったけれど、対面した衛兵二人は面食らった顔を向けるばかりだ。だめだ。つかえない。舌打ちをして気ばかり焦る。
「……おまえ、何を言っているんだ?」
「いるんだ。こういうガキが。祭りに浮かれて毎年何人かな。……おい、騒ぎを起こすのが目的か?騒ぎを起こして懐でも狙うつもりか?」
「オレ、そんなつもりじゃ」
「わかってる。あっちで話は聞いてやる」
「……放せよ……ッ」
 場違いに笑った衛兵の腕から逃れようとした彼女のその耳が、一斉にあげられた歓呼の声に一瞬機能を失う。
 歓声を上げる人々の視線はおおよそ一点に集中していて、愕然としながら振り向いたチャトラも同じように視線の集まる一点を追った。

 ……ああ。

 体が震えた。
 ここからは遠くてよく見えない。どころか人の頭と上げる腕の林立で、合間から覗くことも一苦労だ。見えたかどうかはっきりしない。
 はっきりしないはずだったのに、チャトラの目にはバルコニーの縁に立ち、風に金糸をなぶらせながら借りてきた猫を被って微笑むエスタッド皇帝の姿が見えた。少しだけ前屈みの姿勢で、完璧な仮面で騙し果す男の顔。その礼服に一つ一つ縫い付けた飾り付けまで見えたと思った。
 たすけて。
 無茶苦茶にもがいて、衛兵の腕から抜け出し、地面に足が付いた途端に駆けだす。隙を突かれたのか、あ、と声を上げた衛兵らはけれどそれ以上チャトラを追いかけては来なかった。広場の整理が彼らの割り当てで、それ以外はどうでも良かったのだろう。
 そのまま生きてきてここまで力任せに走ったことはないと思えるほどに走った。誰かとぶつかったとか、何度か転んだとか、その度に踏まれてまた跳ね起きたとか、もう何も感じていなかった。
 広場も、表門も、衛兵が何人も立っている。それらすべてに話を通している時間もないし、信じてもらえるとも思わなかった。
 辿り着くには遠すぎる。
 それでは間に合わない。
 裏手通りに回り、いくつか覚えていたはずの自分専用の「抜け道」へ走り寄った。覚えている限りの板戸の隙間であるとか植木の茂み、鉄格子のぐらついた場所はすべて新しい補修がなされていた。ノイエはチャトラが書きつけを読んだことを知っている。屋敷に閉じ込めた彼女が、もしかすると抜け出すことも皇都へ向かうことも、幾重にも輪をかけて読み先手を打ったに違いない。完璧だ。
 そうして、表からは入れないチャトラが、裏口あたりをうろつくだろうことも。
「何をしている」
 鉄格子に八つ当たったチャトラを目ざとく見つけて、見回りの兵士が誰何の声を上げた。随分と仕事熱心じゃあないか。皮肉にそう思う。
 足止めを食らう訳にはいかなかった。身を翻して大通りに戻り、後ろを振り返る。追いかけてくる気はなかったようだ。そうしてあちらこちらを見回したチャトラの目は、きっと血走っていたに違いない。
 助けてくれそうな誰も映っていなかった。
 こんな時にたとえば物語の一場面であったなら、有力者が彼女を見つける。駆けつける。どうしたのだと声をかけ、事の一部始終を知り、一言一句疑うことなく即座に信じ、間一髪で皇帝の許へと報せが走るのだ。
「ちくしょう」
 悔し涙。
 バルコニーに面した広場からはまだ歓声が聞こえていて、だのにチャトラの耳にはそれが喜びの声には聞こえないのだ。この歓声が途切れたら。知っているのに、自分だけはあの男の危険を確かに知っているのに、
「ちくしょう」
 涙でぼやけた視界を追い払おうと上を向いた彼女の目に、だからそれが飛び込んだのは偶然だったのだ。
 思い付きが走ったという、その僅かな間もなかった。見えた瞬間体が動いていた。できるだとかできないだとか、そんな計算は既に意識外だった。気が付いた時にはチャトラは広場の一本の木、毎年、生誕祭の飾り付けがなされる大きな一本の木の半分辺りまで駆け寄っていた。
 下から見上げて相当に高い、あたりの二階建ての屋敷からのぞく煙突ほどもある高さの木、そこから見えた飾り付けのモールの行き先。
 金糸銀糸のちぢれた糸が巻きつくそれは、てっぺんから皇宮の内に伸びていたのだ。
 人の行き来する広場だったのだけれど、幸い彼女の動きを注視する者は誰もいなくて、その上登り始めて直ぐにしな垂れた緑葉が、彼女の小さな体を隠してくれたのもありがたかった。
 四方八方に突き出した、まるで螺旋階段のようにも見える枝を次々に掴んで駆け上り、とうとうくくりつけられたモールに辿り着く。二度三度、引いて強度を確かめた。それから、モールを右手と左手で挟みこんで指を組む。丈夫な綱でもあればよかったけれど、都合よく近くにそんなものはなかった。いろいろ後から厄介なことになるだろうなとは思ったけれど、瞬間諦めた。
 反動を付けて木の幹を蹴る。モールを伝ってあっと言う間に鉄格子を超え、丁度良く芝の上に転がった。
 数度転がりその勢いを利用して立ち上る。
 無意識に砂埃を叩いた手のひらから、じくじくとしたものが数滴垂れ流れたような気がしたけれど、どうでも良いことだと腿になすりつけて思った。そう。どうでもよいことだ。
 辺りを見回し、ここがどこに当たるのか確認する。
 ……中庭。
 見上げた二階の窓は、エスタッド皇の執務室だ。
『部屋に戻る途中で』
 そんな風に書き付けにはあったけれど、一体どこの部屋に戻る予定なのだろうとはたと気づいた。自室か。今見える執務室か。それとも式典用の控室もあるのかもしれなくて、急に飛び込んだチャトラには判らない。それらの部屋に通じる通路はさらに幾本もあって、どれを使うのかもチャトラは知らない。しらみつぶすにも余暇はない。
 たたらを踏みかけ、けれどじっとしてはいられなくてチャトラはぱっと走り出した。とにかくここから一番近い道順でバルコニーへ向かおうと思った。
 走り出した場違いな恰好の自分を、見咎めた巡回の兵士がいる。おい、と声をかけられた。背に聞く。立ち止まりもしない自分へたちまち不審を抱いたのだろうと思う。ただでさえ式典の今日は警戒が厳しいのだ。
 呼子が鳴ってあちらこちらで声が湧いた。
 止まれと怒鳴られ背後が俄かに殺気立つ。肩越しに振り返って、抜刀した数人が自分を真っ直ぐに追っているのだと判った。これは下手をすると問答無用で殺されるなと半ば麻痺した頭で思った。皇宮に忍び込むというのはそう言うことだ。
 目の前の角からも一人、立ちはだかるように飛び出されて、反転したチャトラはそのまま手近な部屋へと転げ込んだ。中にいた女中の悲鳴が上がり、余計に人の気配が増す。捕まる訳にはいかないと思った。ここで、こんな近くまで来て、何もできずに殺されるなんてまっぴらだ。
 牽制の声を背に、部屋を突っ切って回廊へ飛び出す。
 もう一度向かいの部屋へ飛び込んで、窓から飛び降り、花壇の土を踏みしだいてチャトラは走った。いくつもの角を曲がるたびに追う人間の数は増えて、頬をかすめて一度小刀が飛んだ。威嚇ではなくはっきりと殺意だと思った。
 足を止めたら二度と恐怖で進めない。


 死に物狂いで階段を駆け上り、駆け下り、途中の硬直した侍従を突き飛ばす。
 徐々に、後ろと間合いを詰められながらもバルコニーへと向かうチャトラの焦った視界に、確かに何かが引っかかった。顔を向け焦点を合わせ、それが何事かと騒ぎに目をやった一群だと知る。警護と言うには割にはたった数人の、先頭に見えた黒い甲冑。
 エスタッド皇帝警護の随一の男の姿も、
 ディクスの後ろに護られる位置に立つ皇帝の姿も、
 控えた侍従長の姿も、
 意識からはすぐに消し飛んだ。チャトラが睨みつけたのは、最後尾に立つ補佐官の男ただひとりだ。
 自分の姿を目にして困ったように首を傾げ、いつものように微笑んだノイエが、袖に隠した鈍い光。気付いたのは自分たったひとりだ。
 視界が染まる。
 やめろ、だとか待て、だとかそんな風に言いたかったのに、言っても詮のないことは知っていた。彼は実行に移す。意味を成さない声を上げながら、チャトラは皇帝の許へと走る。背後に迫る衛兵の足音に、てめェら全員刃を向ける先がお門違いだと怒鳴りたかった。
 油断なく身構え、腰を落としたディクスが、即座に抜刀し彼女に真っ直ぐと刃を向ける。その忠犬へ奔る静かな制止の声。
 常ならディクスは迷わない。たとえそれが妻子の歩みであっても、必要に迫られたのなら彼は迷いなく切り捨てて見せるだろう。職務と情を取捨の秤にかけて、彼は間違いなく職務を選ぶ。けれど、唯一逆らえない主からの声に、切っ先が一瞬揺れたそのわずかな間。
 空間にほんの少し、躊躇の隙が開いた。
 走りながらチャトラは駄目だなと思った。これは駄目だ。
 ノイエが狙っていたのは、きっとこのまじろぎの間なのだ。
 もしかすると自分がノイエの懐を冗談か本気か、狙うことも判ってやったのだろうかと思った。――金入れからはみ出した書き付けを彼女に読ませるために。
 あんなものを、慎重な彼がうっかり残すとは思えなかった。チャトラ自身ですら、読み終わったらすぐに処分するだろうと思う。それだけが妙に引っかかっていた。今頃気付く。
 気付いても、もう遅い。
 計画的な人間が尻尾を掴ませるとしたら、それは意図的なものだ。
 読んだチャトラは必ず止めようとするだろう。けれど、相談するにも身近に適した人間はいない。皇都に出てきたところで頼る人間がいない。ひとりでノイエを止めようと奔走することも、何が何でも皇宮に潜り込むことも、こうして追い詰められた状況で、皇帝に駆け寄ることも、予測していたのではないか。
 皇帝の側には忠犬が控えている。彼の隙を衝かなければ計画は成功しない。ディクスは隙がない。もうずっと――ただし、その動きを主の皇帝から待てと咎められたとしたら。
 己に駆け寄ってくるチャトラを見た皇帝が何を思うか。目の前で無下にディクスに切り捨てを命じるか。それとも。
 計算はきっとノイエなりの賭けだったろう。そうして彼はその賭けに勝った。
 ノイエが袖口に忍ばせた刃を静かに引く。弾みをつけ、皇帝の背中から突く気なのだ。その動きはあまりにも小さくて誰も気づかない。最後尾の男の動きは誰にも気づかれない。
 そう思っていたのに、刃を引いた前に立つエスタッド皇が、ちらと背後を窺う気配があった。視線が揺れた。気を惹かれた。決して目立たない些細な動きだったのだけれど、チャトラは瞬時に理解する。アンタ。気付いたな。
 だのに避ける気配がない。
 俯いた皇帝がひそやかに笑った。ノイエが浮かべた笑みと同種の、やさしい絶望。

 やめろ。

 まだだいぶ彼らとは距離があったのだけれど、その笑みを目にした刹那、咄嗟にチャトラは踏み切って飛んだ。
 許さないと思った。
 報せに来た自分の目の前で、間一髪自ら避ければ間に合うかもしれない状況下で、甘んじて背後の刃にかかる。知っていながら殺される。死にたがり。
 そんな笑いを浮かべて殺されてゆくのを見ているなんて、

 やめろ。

 突き刺す刃を止める力は自分にはない。うまい具合に逸らす術も知らない。
 だから、チャトラは皇帝とノイエの間に体を突っ込んだ。もんどりうって頭から突っ込んだ。ディクスが手にするような長剣ならまだしも、ノイエの獲物では人間二人の体を一時にしとめるのは無理だろうと思った。
 だったら自分が盾になろう。
 エスタッド皇を守りたいだとか、そんな理屈はどこにもない。道理もない。ただ目の前で、そんなきれいな顔をしたまま、チャトラが何をしに来たのか承知の上で、殺されてゆくのは許さないと思った。
 だったらアンタの代わりにオレが刺されてやるよ。
 そう思う。

 そんで、冷たくなって動かないオレを見て愕然とするといい。自分がしようとしたことを思い知るといい。
 死んだオレを見て、やってしまった、やっぱりあの時避ければよかっただなんて後悔したって遅いんだ。
 ざまぁ見ろ。

 そうしてそれはだいぶひねくれた思考だなと思った。
 思い知れだとか、そんな気持ちは自分の中の今この瞬間には何もなくて、目の前の人間一人を死なせては駄目だ、ただそれだけではないか。
 自分がたいせつだと思うひと、思っていたひと、これからも思うだろうひとを死なせたくない。本当のところはその辺りだけなのではないか。
 そうも思った。

 その突っ込んだチャトラの腕を、ぐいと掴んだ手のひらがある。恐怖に引き攣った顔がえ、と違う意味での驚きに色塗られたのを彼女は自覚した。突っ込んだ勢いをそのまま受け流して、上手く誰かに引き寄せられる。衝突した胸の内、鼻の奥を刺す、知っている練り香水。
 チャトラが突っ込んでくるのすら読んでいたとでも言うのだろうか。覚えのある片腕にぎゅと背を抱かれて、頭が真っ白になった。
 引き寄せた男の体は無防備にノイエに呈されていて、首筋であろうと肋骨の間であろうとどこでも狙うことができるだろう。はなせ。やめろ。
 押し付けられた胸にもがいて、チャトラは思わず叫んだ。こんなにかたく抱きしめられていたら身動きができない。今にも男の体からどん、と刃の突き立つ衝撃が伝わりそうで、そうして見る間にぬくもりが失せていくのだ。いやだ。それだけは嫌だ。
 腹の底から絶叫をした気になっていたのに、実際に絞り出された声はかすれた悲鳴で、その音が耳に届いて不意に我に返る。がくがくと震える彼女の体を、いつの間にか力の抜けた腕が、とんとやさしく叩いていた。
「猫」
 押さえたテノール。
「――終わっている」
 僅かにかすれた声で囁かれた耳元から、音が急速に広がる。戻る。
 いつかどこかで聞いた言葉だと思った。
「怖いことは何もない。もう終わっている」
 言われて顔を上げる。終わった、と言うのは。
 みょうにぎくしゃくとした動きで、皇帝の肩越しにチャトラは恐る恐るノイエを見た。
 見たと同時にからんと甲高い音を立てて、ノイエの指から短剣がこぼれた。どこか呆然と、きっと心底驚いたのだろう視線が、剣を伸ばして彼の切っ先を食い止めたディクスを辿り、それからゆっくりとチャトラに向けられた。
 強張って神妙なノイエの顔を、チャトラは初めて見たと思った。
 ノイエさん。
 声もなく呟いたチャトラの声を、たぶん彼は聞き取ったのだろうと思う。じっと見つめた剣呑さをたたえた黒い瞳が、汗と涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔に気付いて、みるみるやさしい色に染まった。掛け値なしにおだやかな、すべてを諦めた笑い。
「困ったな」
 どうぞ、と状況をまだ半分理解していないながらも、慌てて縛り付ける取り巻きの兵士に両手を差し出して、ノイエが笑った。
「予想以上だった」
「……ノイエさん」
 二度目に呟いた声もやはり喉に絡んで、チャトラは上手く発音できなかった。色々聞きたいことがあったはずで、言いたいこともあったはずで、殴ってやろうとも思っていた。だのに彼の顔を見た瞬間その何もかもが消し飛んで、ただチャトラは莫迦のように名前を繰り返すことしかできないのだ。
 ごめんねとノイエは言った。
「怖がらせたかった訳じゃあないんだ」
 ……ごめんね。
 そうして促され、駆けつけた警護のまとめ役に綱の先は手渡されて、ゆっくりと、まるで場違いな、そぞろ歩きでもしている足取りで何人かに囲まれて彼は去ってゆく。
 何と言ったものか、言葉を失ってチャトラはその背を追い、しばらく放心する。
 それから、はたと気が付いて傍らに立つディクスに移し、まだ自分を抱きかかえたままの男に改めて目を止めた。

「うわ」

 情緒のない声が出て、慌てて皇帝から飛び退った。
「ご、ごめんなさい」
 触れた男の着衣の胸元一面、チャトラの汗なのか涙なのか鼻汁なのか、茶色と黒のまじりあった汚れ染みが大きく広がってついていて、普段着でもきっと居たたまれない気分になるだろうに、これって礼服なんじゃあないか、と気付いて余計に青ざめた。
 礼服を汚したらどうなるんだろう。替えとか、あるんだろうか。拭いたって落ちないよな。よく洗ったら落ちるかもしれないけど、ごしごし擦ったら薄い部分が破れそうだ。それに乾くには時間がかかる。夜に会食だとかあったような気がする。
 わぁどうしよう。
 おろおろと服の染みを眺めていたチャトラは、だからもう一度男がじっと自分を見つめた後、おもむろに腕を伸ばしたことに気付くのが一瞬遅れる。
「ちょ、」
 そのまま容赦なく首根っこを掴み、半分引き立てるようにしながら、皇帝はつかつかと回廊を進んだ。はなせよ、だとか何考えているんだ、だとかそんな風に喚いてもいい状況に見えたけれど、男が自分をどこへ連れて行くつもりなのかそちらの方が気になって、結局黙って従ってしまった。
 見覚えのある回廊の天井画を眺めながら、そう言えば式典は大丈夫なのだろうかとチャトラは気付いた。参賀が日に何度あるのか正確な回数も自分は知らないけれど、こんな風に勝手な行動が許されるのだろうか。皇帝だから、偉いから許されるのか。それとも上に立つ人間としては不良な行動なのか。
 どちらにせよ、自分が皇宮に突っ込んだと知ったら、セヴィニアはいい顔をしないだろうなとも思った。いい顔をしないどころでは済まないかもしれないけれど。
 いい顔をされないと言えば、自分は一体どういう扱いになるのだろうとも思う。
 一応、皇帝の危険を回避したような気はする。回避したことでプラス1。けれど、許可されているもの以外、足を踏み入れてはならない場所に無断で踏み込んだわけで、その点マイナス1。止まれと言われて止まりもしなかったし、侍従の抱えた荷物もぶつかった拍子にぶちまけた覚えがうっすらある。マイナス1。しかも皇帝の礼服を思い切り汚してしまった。さらにマイナス1。差引マイナス2で罰せられるに一票。
 ……できれば痛くない罰か、さっさと終わる罰が良いな。
 そんなことを思ううちに、いつの間にか皇帝が足を止めていた。目的地に着いたようだった。ここはどこだろうとチャトラが首を巡らせる前に、思い切り突き飛ばされた。
 つんのめった足の下に踏みしめられるはずの床は無くて、
「え」
 ぎょっとしたチャトラが足元を見たと同時に、無数の泡と共にどぶんと沈んだ。焦って両腕を振り回した辺りで、圧迫感を覚えてここがぬるい水の中なのだと気付く。服を着たまま放り込むだなんて何を考えているんだ、喚こうとした口から盛大に水が入った。
 ああ、オレが汚いからフロできれいにしろってことなのかな。
 それならそれで、しょうがないかもしれない。なにしろ走り通した六日間、一度も、たとえばせせらぎで顔すら拭っていない。きっと相当臭う。納得して縁に近付き、手をかけた。
 皇帝専用の浴場はばかみたいに深く広くて、だからチャトラの背丈では足が底に届かない。何度か放り込まれてよく知っていた。
 水上へ顔をだし、咳き込みながら這い上がろうと勢いを付けたところで、ぐいと襟元を掴まれもう一度水中に引き戻された。
「わぶ」
 二度目も無防備で、背中から引っくり返る。いつの間にか同じ水の中に皇帝が浸かっていた。しこたまに水を飲んでようよう引き上げられたところへ、男の片腕でもみくちゃにされる。意味が判らず、さすがに勝手気ままにひっくり返されることに腹が立った。と言うか苦しい。死ぬ。
 ひどくくたびれていた。忍耐力も限界だった。一息ついて飯でも食い、何も考えずにこんこんと眠ってしまいたかった。こんな、水の中でこねくり回されるのは御免だと思う。いやむしろこの男は、彼女の足が水底に付いていないことを知っているのか。
 溺死させられかけ、怒りと言うよりはもう助けてくれと哀願の声を上げかけたその時、うまい具合に引き上げられて、タイミングを逃してしまう。これが計算づくでやっていることなら大した計算だと思う。感心すると同時に若干の怒りが抜けて、すると男が今度は大きく広げた乾布を頭から被せてくる。ごしごしと擦られて、また少し黙りこくっていたチャトラから怒りが抜けた。
(……あー)
 もしかしたら今の水中での半殺しは、俗に言う「洗ってやっている」というやつではないのか。思い切り身勝手な洗い方で、相手のことを全く考えておらず、拷問と言うなら半分拷問に近いような、手加減も何もないそんな洗い方ではあったけれど。本気で死ぬと思ったけれど。
 そう思うと、次にチャトラは先程から皇帝が全くの無言であることが気になった。見上げると怒っている訳でもないらしい。上機嫌かどうかは判らない。
 もう終わった、怖いことは何もない。その言葉を最後に、男はチャトラに対して一言も発していない。そう思うと急に居心地が悪くなった。
 そもそも危機を報せた、何とか間に合ったと思っているのはノイエ補佐官の書付を読み、事情を知っているチャトラの方で、皇帝からしたらたぶん不意に現れた珍客でしかない。薄汚れた格好で大勢の衛兵に追いかけられながら目の前に飛び出た自分を、何と思うのだろう。
 もう会わない、そんな風に直に告げられたわけではないけれど、行動は概して自分を拒絶しており、だからダインの屋敷で気が付いたあともチャトラは皇宮へ行くことができなかった。面と向かってどこかへ行けと言われるくらいなら、察して姿を消す方がずっといい。ようやく自分の生活を取り戻し始めたというのに、またはっきり告げられてしまったら、割としばらく立ち直れる自信がない。
「えっと、あのオレ」
 もう行くよ、と言いかけたチャトラは、自分を乱暴に拭いていた男もまた頭からぐっしょりと濡れていることに気が付いた。うわ、と改めて思う。コイツ、礼服着たままフロに飛び込みやがった。
「……拭くよ」
 今更拭ったところでちりちりと不恰好に縮んでしまった羽飾りであるとか、くすんだ刺繍がどうにかなるようにも思えなかったけれど、自分を擦っていた乾布を奪って今度はチャトラが皇帝を頭から拭きはじめた。もうここまで行ったら服はどうでもいいかもしれない。風邪を引かせない方向へ転換した方が思考は楽だ。
 拭い始めた自分を皇帝はどう思ったのか、それすら無言で、けれどじっと膝を着き、屈みこんで大人しくしていた。
 通常男が浴場へ入った場合、濡れた体を拭き取る係だの、髪を梳く係だの、服を着せる係だのが数人控えていることが多くて、だから二人だけの浴場はがらんとして広い。掃除のときならともかく、使用中にこうも人気がないことは、初めてではないかと思う。
 男が入って来るなと命じたのかもしれないなとチャトラは思った。それとも式典の準備とやらで人手が足りないのかも。
 黙々と気まずいままにチャトラは男をあらかた拭って、そうして途方に暮れる。
 お邪魔しました、だとか告げて去ったらいいのだろうか。
 夢見がちの乙女でもあるまいし、もろ手を挙げて皇帝が自分を歓迎するとも思えず、何をしに来たのかと聞かれたら何と答えて良いものやら判らない。
「あの」
 だのに意を決して言いかけたチャトラをまた男は遮って、無言で腕を強くつかみ引き立てる。次はどこに連れて行かれるのだろうと思うと、振り払う訳にもいかず、とうとう今度も黙ってチャトラは従った。外で控えていた護衛はディクスひとりで、ディクスもまた何も喋りはしなかったから、三者黙ったまま回廊を歩いた。
 途中不思議と誰とも擦れ違わなかった。男が命じたのかもしれない。

 連れて行かれたのは男の居室だった。
 とても見覚えのある厚みのある扉。取手の細工も記憶と同じように細やかで、その取手を無造作に掴むときだけ男はチャトラから手を離した。そうしてまた上腕を掴まれ、中へ連れ込まれる。深く腰を折ったディクスが扉を閉め、重圧を感辞させる開閉音が響いたあと、しんと静かになった。室内には二人きりだ。
「あの」
 室内を見回して、それからチャトラはおずおずと腕を掴む男を見上げた。男は視線を合わせようともしない。ああやっぱり怒っているのかな。そう思う。来るなと言うところにオレがくるから。
 そのまま、男が進んだのは寝台だった。まだ生乾きの礼服を適当に脱ぎ捨てると、薄物一枚羽織って大きな敷布の上へ無造作に横になる。腕は掴んだままである。必然的にチャトラも引っ張られて、前のめりに手を突いた。どうしようか少し迷った末に、寝台へ腰を下ろす。さすがに寝転ぶ気にはなれなくて、端の方へちょんと座った。
 無言。
 相当気まずい。
 男の手のひらから力が抜けて、ようやく腕を放される。捕まれていた部分を何気なく見やると指の痕が付いていた。どれだけ強い力で掴んでいたんだよ、だとか思う。逃げ出すように見えたのだろうか。実際チャトラは逃げ出そうと思っていたけれど。
 上掛けのひと目ひと目さしこまれた細かい刺繍をしばらくじっと睨んで、それから天蓋から垂れるレースの模様を黙って眺めた。それでも男が無言なことに、とうとうチャトラは我慢を切らした。
 何か言え。
 不満を散らしかけた口の動きは、寝転がった男の顔に止まってそのまま唖然と言葉が引っ込む。
 男は目を閉じていつの間にか眠っていた。


 ひとのことを部屋に連れ込んでおいて、何も言わずに勝手に眠る男をありえない、とまじまじと眺めてチャトラは思う。
 ついでに、相手は目を閉じているので見放題だ。遠慮なく存分に眺めた。
 頬のあたりやむき出しの肩が随分痩せたなと思った。元から薄い体つきなのに、ひとまわり頼りない。力を込めて押したら、チャトラの力でもぼきんと折ってしまうことができそうだと思った。
 そうして、痩せたことよりなにより、どこか男の雰囲気が変わってしまっていたことが怖かった。怖い、という感情とは少し違うのかもしれない。憐れんだわけでも切なくなったわけでもなく、驚いたとも少し違う。ただ男の顔を見た時に少なからず衝撃を受けたことは確かだ。
 ずん、と腹の底あたりに響くような衝撃だった。
 人相が変わったというのは大げさだけれど、荒んでいたことは確かで、一瞬チャトラはよく似た人違いの人間を皇宮で見つけてしまったのかなと思ったほどだった。あの時は、ノイエの方に気を取られてそれ以上考える余裕はなかったけれど。
 どこがどう、と説明はできない。ただ全体的になにか諦めてしまったようだと思った。何を諦めたのかまでは判らない。
 どうしちゃったのかな。
 無言でこの部屋まで連れ込んだ男を思う。
 そうして改めて眺めると、どうにも部屋の中に違和感があった。違和感のない違和感、と言った方が正しいのかもしれない。チャトラがこの部屋から去ってから一年ほど時が経っているはずで、だから内部の様子も相応に変わっていて当然だと思う。
 だのに部屋の様子が、チャトラが最後に眺めた記憶にあるものとほとんど同じで、例えば床に転がっている引きちぎられた飾り紐や、鈴さえ記憶と一致しているのだ。片付ける人間はどうしたのだろうと、思う。一体この部屋で男はどんな生活をしていたのだろうか。
 オレの。
 かなりの時間じっとしていたのだけれど、そのまま鈴が床の上に無造作に転がっていることがどうにも気になった。寝台から足を降ろし、鈴を拾いに行こうとした体が、くんと背後からの引力を感じて振り返る。いつの間にか片目を薄く開けていた男が、チャトラの服の裾を握っていたのだった。
 では、眠っているふりをしていただけなのだろうか。
「……別にどこかに行くわけじゃねェよ」
 ぼそぼそと呟くと、疑心の色を滲ませたまま、やはり無言で男が指の力を緩める。起き上がる気はないようだった。床に降り立ち、チャトラは鈴を拾い上げる。ちりりと微かに澄んだ音が部屋に響く。飾り紐は千切られて使い物にならなさそうに見えたので、とりあえず懐にどちらも突っ込んだ。
「あとオレすげェ腹へってるんだけど」
 本気で疲れた時、睡眠欲と食欲と一体人間はどちらが勝るのかは知らないが、少なくともチャトラは後者だったらしい。ぶっ倒れそうなほど眠かった。しかし腹も減っていた。とりあえず何か満たされなければ、落ち着いて眠れないと思った。
 寝台の横に立って、横になったままの男にそう言うと、視線で一角を指し示された。つられて目をやる。部屋の暖炉前の書き物机の上に、焼き菓子と籠に盛られた果物があった。できれば温かい汁物であるとか、もう少しきちんとした食事がしたかったのだけれど、用意する気が男に見えなかったので、仕方なく書き物机の椅子に座り、チャトラはもそもそと菓子と果物を水差しの水と一緒に流し込んだ。それでも腰を落ち着けて食べる行為そのものが久しぶりで、食べている内に随分満足した気になった。
 菓子と果物を半分ほど平らげ、人心地がついて溜息を吐く。そんなチャトラを、皇帝はうとうとしたり起きたりを繰り返し、眺めるでもなく眺めており、食べ終わった彼女をしばらくして手招いた。
「なんだよ」
 近付くとぽん、と寝台を軽く叩かれる。ここに寝ろと言っているのだろうなと言うことは判る。判るけれど、
「……なんか言えよ」
 寝台横でさんざん迷った末に、先程と同じようにまたチャトラは腰掛けた。ちらとチャトラが男を見やると、また目を閉じて寝息を立てていた。
 どうして何も言わないんだろう。
 言葉を失ったのではないだろうに、黙ったままというのはどうなのだろうと思う。
 男が何も言わずに寝てしまったので、仕方なくチャトラはしばらく男をまた眺めた。しかし眺めると言っても限度と言うものがある訳で、腹もくちくなった彼女もいい加減に眠い。出来れば寝てしまいたかったけれど、ここで寝るのはかなり躊躇いがあった。
 暖炉脇の椅子の上にでも行こうかと腰を上げると、異常なほどに眠りの浅い男はすぐに目を覚まして、裾を引かれる羽目になった。これでは動けない。
「あー……あのよ」
 そう言えば皇帝は時々視界を失っていることがあった。聞くと、臓器からくる血液循環の不全だとかなんとか、難しい言葉を並べたてられて彼女はさっぱり判らなかったけれど、つまりはたまに見えなくなる、その認識だ。
「耳、聞こえない訳じゃないんだよな」
 もしかするとこの無言もその一環なのかと思う。小さな声で尋ねると、男が薄く目を開ける。つんぼであったならこの反応はないなと気付いて、だったらただ男は口を噤んでいるだけかと思った。
 気まぐれをまともに取り合ったら、取り合った方の神経が持たない。それを皇帝と過ごすうちにチャトラはよーく知っていた。
「オレ、とりあえずここにいて平気なのかな」
 今度は小さく頷く気配があった。やはり、聞こえてはいるのだ。
「アンタ、生誕祭の続きとか行かなくていいのか?」
 また首肯。
「あ、そう」
 それ以上詳しくは応えてもらえなさそうだったので、諦めて小さくチャトラは息を吐く。それから非常に気まずい気分で、とりあえず寝台の端ぎりぎりに寄って横になった。疲労はとっくに限界突破していたので、そのあたりでとうとう最後の緊張が途切れた。横に皇帝が寝ているとか、寝ている間に誰かが部屋に入ってくるかもしれないだとかいう考えは霧がかかる頭の中でたちまち消え失せて、ぶつんと糸が切れるように数日分の眠りの底へ、チャトラは即座に落ちて行った。


 次に意識が浮上したのは、だいぶ眠った後だったのだ。
 腹が減って目が覚めた。
 寝ている間に、端に寄っていた体は寝台の真ん中に引き寄せられていて、後ろから誰かに軽く抱きしめられていた。乗せられた片腕の重さが心地よいと思った。まとわりつく髪も嫌いじゃない。ぼんやりとそんなことを思って、それから唐突にここがどこか、今何をしているのかに気が付いて跳ね起きる。
「のわ」
 背後から、力任せに引き戻された。
 羽毛枕に沈む。
「なにしやがんだてめェ……」
「――威勢が良い」
 起き抜けのかすれた声が耳元に囁かれる。
「――よく寝ていた」
「はなせよ」
 もがくと、おそらく意地になって固く抱きしめてくるだろうと思った腕が、つと退けられてあれ、と思った。こう素直に放されては、拍子抜ける。
「今、何時」
 何となく居心地が悪くなって、ずりずりと起き上がりながらチャトラは尋ねる。そう言えば男は無言でいることを止めたらしい。
「夜明け前なのではないかな」
「午後からずっと寝ちまったのか。……腹減ったな」
「ああ――二日ほど寝ていたから」
「二日か……。そっか」
 何気ない口調で男が応えるのでなんだそうかとチャトラも納得しかけ、
「……二日?」
 ぎょっとなって肩肘を突いて起き上がる。
「二日ァ?」
 素っ頓狂な声が出た。
「二日ではなかったかな――三日?どうだろう、よく判らない」
「オレ、二日も寝てたの?」
 ふわぁ、だとか思い切りおかしな声が出た。二日寝るとか。あり得ない。人生初体験である。そうして腹が減るのも当たり前だと思った。
「人間の体ってすげェ」
 妙な感慨が湧く。気付くと急激に喉が渇いて、とりあえず枕元の水差しへ手を伸ばして、チャトラは水を口に含んだ。
 そんな自分をじっと眺めている栗色の瞳とぶつかる。
「アンタは」
「――うん、……?」
「アンタも二日間爆睡してたのか」
「いや、」
 寝ているお前を見ていた。
 冗談を交えない真面目な顔で男に告げられて、飲み下した喉が奇妙な音を立てた。
「……オレ?」
「よく――寝ていた」
「ずっと寝ないで見てたってこと?」
「寝てしまうのは勿体ないと思ったのでね」
「勿体ない……」
 ずっと寝ていないと言うことに対して、皇帝は否定しなかった。だからきっと本気で寝ていないのだろうなと思った。しかしそれはともかく、言っている意味が判らない。眉間に皺を寄せながらどういうことだよ、とチャトラは尋ねる。
「にらめっこ一人大会開催してたわけでもないんだろ」
「――消えてしまうかもしれないと思った」
「は?……オレが?」
 オレ、消えないよ。
 男がどう言った思考でそこへ辿り着いたものか、さっぱり読めなくて、まずチャトラは笑った。面白い発想をする。皇帝が寝ぼけているのではないかとも思った。
 それから、真面目に見つめてくる皇帝の顔を見て、やっぱり男が寝ている間に逃げるとでも思われたのだろうか、と思った。逃げるも逃げないも、疲れ切っていたので考える余裕もなかったのだけれど。
「――お前は」
「うん」
 しばらく黙ってチャトラを眺めていた男がぽつりと呟く。
「また――夢に」
「は?」
 伸ばされた男の手のひらが、チャトラの頬の間近で触れることなくひたりと止まり、やがて静かに下ろされた。
 触れないのか、と思う。
「アンタ、」
「縊り殺そうと思っていた」
 ぽつりと呟かれた異様な言葉に、チャトラは思わず息を呑む。
 こうして近付いている今でさえ、やはりあの一年前のことを持ち出されると体が強張った。おかしくなってゆく男を止められなかった。もしかすると自分の存在が、男をおかしくしていった。男はそうして薬を手にして、自分に飲ませて――何もかも終わりにしようとした。つい先ほどのことのように思いだす。過ぎたことだと片付けるには、室内の設えはあまりにあの日のままで、記憶にするには生々しかった。
 床に転がったままの薬瓶。
 けれど、とつとつと呟く男の目にあの日の狂気の色は見えない。熱に浮かされた様子もない。諦めた様子で何かをなぞるばかりだ。
「お前が笑っているだろうかと思っていた。幸せでいるだろうかと思っていた。お前を手放し、安寧を願うと嘯きながら、お前を閉じ込め、その首に手をかけて締め殺し、臓器を全てえぐり出し、一つ一つ手に取って弄って、私だけのものにしてしまえば良かったと思っていた」
 何と言う欺瞞。言って男はうっすらと笑う。
 その笑いを目にしてチャトラの胸底が冷える。
 こわかったからではなく、自分は結局間に合わなかったと歯噛みするような悔しさ。皇宮へ飛び込み、皇帝を初めて目に入れた時と同じ既視感。ノイエと同じ諦めた微笑み。
 どうしたんだよ。
 夢を見ているのだと思っているのだろうか。
 今皇帝は自分を見ているけれど、決して自分そのものを見ていない。自分がいつか消えてしまうものだと思っている。泡のようなものだ。
 それきり口を噤んでしまった男の真正面にチャトラは改めて座り直し、
「あのさ」
 視線をまともに受けながら、ひたと男の両頬に手を当て、下から覗き込んだ。どうかこの掌の熱が、相手に伝わるといいと思った。
「かまけてんじゃねェ」
視線に力があるというのなら、今この瞬間刺し貫いてしまえば良いと願う。
「オレ、まぼろしとかじゃないよ」
「――」
 夢だというのなら、自分よりずっと夢を見ているような虚ろな皇帝の眼差し。
「あと、オレの幸せがどうだとかアンタの都合で決めんな。アンタの本音を聞いたらオレが逃げるとか思ってんの」
 思われているとしたら莫迦にするなと思った。自慢したくもないけれど、世間の水とやらとたっぷりと飲んで生きてきた。多少つつかれた程度で根を上げるような、そんな人間に思われていたのかと思うとがっかりする。
 舐めるな。
 言われた男が、素を突かれて不思議そうな顔になった。
「アンタのことスろうと思ったら捕まって、なんでか都に連れてこられて。その間も縛るわ突くわ、ヒゲの野郎には殴られるわ。凍死しかけて、生き埋めなりかけて、殴り殺されかけて、波乱万丈すぎる体験をまあたっぷりと体験して。……今更アンタが普通よりちょっとズレてる程度で、オレがビビると思ってんの」
 もしかすると「ちょっとズレている」程度でもないのかもしれないが、
「オレ、アンタと離れている間いろいろ考えた」
 皇帝は黙ってチャトラを見下ろしている。
「アンタ、なんであんなことしたのかなとか。他のやり方なかったのかなとか。でも、そんなの考えても、結局どうしようもないんだなって思った」
 幸せであるように。手紙で男はそう書いた。きれいな字では書けなくて、走り書きになってしまった付箋。あれは急いで書き散らした訳ではなくて、震える筆先を誤魔化すためではなかったか。
 お前の上にたくさんの幸せが降り注ぐように。
 それだけが男の願いだったのだ。
「――」
「オレ、痛いの好きじゃないし。できれば苦しい思いをするとかごめんだけど」
 寒天質にくるまれた、亡とする男の意識の奥底までこの声が届くといいと思う。これは夢ではないんだよと目を覚まさせてやりたかったから。
「アンタなら、いいよ」
 お世辞でもその場しのぎの言葉でもない。
 心底そう思えたのでチャトラはじっと皇帝を見つめ、そう言った。
「……アンタがオレのこと本当にそうしたいのなら、オレ、もう、それでもいいかなって思うんだよ」
 そう告げた瞬間の男の顔を、チャトラはきっと忘れられないと思う。
 言われて皇帝は一瞬目を見開き、それから考えるように視線を右に左に迷わせ、次に去年の生誕祭の日に、四葉を受け取った時よりもずっと神妙な顔になった。しんとした視線でチャトラを見つめる。
 深みのある栗色。そのやさしい色がチャトラは悪くないと思っている。

「――嫌なのだろうな」

 しばらく黙りこくったあとに、やがて男は口を開いた。
「好きなように縊ることは魅力的なことではあるけれど」
「うん」
「失くしてしまうとその後が退屈だ」
「うん」
「退屈なのは好きではなくてね」
「うん」
 口調とは裏腹に怯えるように持ち上げられた指先が、微かにチャトラの頬に触れた。
「だが言わぬよ」
 薄く笑った男が、そこで急に楽しそうな顔になった。え、とチャトラがまたたくと意地の悪い笑みを浮かべた男が言わぬよ、ともう一度繰り返す。
「居りたいのなら側に居ればよい。去りたいのならば去ればよい。だが私からは何も言わぬよ」
 チャトラの反応を窺って、目がキラキラと好奇心にきらめいている。側にいてほしいとか大切に思っているとか。死んでも口にしない。言外に囁かれ、むっとなってチャトラも自分を取り戻す。
「アンタ、……この……。ドひねくれもの」
「ひねくれもので結構だ」
「普通こういうときぐらい素直になるだろ。可愛いくねェな」
「何とでも言うといい」
「らしいっちゃらしいけどさァ……ありえねぇぇえええ」
 そもそも再会してから未だに、一度も名前で呼ばれていない。自分の名前を覚えられないような男だ。もしかするとチャトラの名前も忘れているのかもしれない。
 皇帝らしいと思って安心したのか、名前ひとつ呼ばれないあたりにさびしい気持ちが湧いたのか、自分の鼻の奥が痛くなって、堪えきれない涙がぼたんとこぼれるのが判った。どうして涙が出たかだなんて理由は知らない。たゆたう視界で眺めた皇帝はぼやけてしまってよく見えない。水の中を歩いているようだと思った。おかしいな。フロできちんと洗われたはずなのにね。
 ばーか、と悪態をついたはずの口元が歪んで、ぐずぐずに泣き笑うチャトラを、皇帝が面白そうに眺めていた。

                    *

「本日は以上でございます」
 滞りなく今日一日の執務を終え、最後の書類にサインを施して、エスタッド皇は片眼鏡を外しながらやれやれと首を回した。年末のせわしなさを超え、年が明けてしばらくは休めるかと思えば忙しさは増すばかりだ。皇国は皇帝を頂点とする半ば独裁政治であったから、多くの裁可判断が皇帝の許へ送り込まれてくることは仕方がないと言えば仕方がないことなのだろう。そう言う仕組みに男がした。
 この場合、皇帝の許へ裁可待ちの書類が増えることは良いことか悪いことかどちらか。そんな風に思いながら立ち上がり、執務室を後にする。
 冬至を過ぎて、少しずつ日が長くなっているとは言え、気温で言うのなら冷え込みは真冬の厳しさのそれで、春にまだ少し遠かった。
 回廊の明かりが疲れた目に沁みる。
「でも少しずつ木の芽が大きくなってるだろ」
 誰かにそう言われた気がして、そう言うものなのかなと男は一人語散た。
「木の芽は揚げて食うとうまいんだ」
 暑いか寒いか、その程度の季節に認識しかないまま生きてきた男にとって、花のつぼみが膨らんだだの、雲の形が変わっただの、風の流れが昨日からちがうだの、日常のささやかな発見を報告されることは興味深いものだ。仮令聞いて頷くだけで、自分自身ではまったく発見する気がなかったとしても。
 ゆっくりとした足取りでいくつか回廊を通り、執務区から居住区へ踏み込みかけた男へ陛下、と小さく呼びかける声がした。頭を巡らせ、遠目に声の主の姿を目の端に入れる。ゆらと不意に威嚇の殺気を発した背後のディクスを手のひらを振って制し、そのまま、特に言葉を交わすこともなく、男はまた歩み始めた。
 回廊の明かりを少し避けた形で庭に佇んでいたノイエ補佐官が、深く腰を折ったような気がした。
「律儀なことだ」
 誰に言うでもなくくつくつと低くしのび笑う。応じるでもなく殺気を収めたディクスがまた黙って後ろに付き従った。

 そのまま大した会話もなく、自室の扉へと戻った皇帝は、ふと耳をそばだてた。
 一枚板の分厚い扉は、中の音をほとんど漏らしはしなかったけれど、癖のようなものだ。開く手前で中の気配を窺ってしまう。
 開けて、また誰もいなかったら。
「うわー!」
 扉脇に控えた侍従が扉を開けた瞬間に、慌てた声が一瞬飛び出し、そのすぐ後にはじけるような、心底楽しそうな笑いが部屋の中から聞こえて、男は目を眇めた。
「あ」
 部屋の中に、他に誰かがいた気配もなく、とするとチャトラがひとりで驚いて、爆笑したらしい。何があったのかと目で問う男に、おかえりと出迎えたチャトラは目尻の端の涙を拭いながら、
「いやもう本当に、くっだらねェことなんだけど」
 まだ小さく肩を揺らし、笑いを堪えながら答えた。
「部屋がホコリっぽかったから今少し風通してて、ついでに羽根布団も窓枠に引っ掛けたんだよ」
「――ほう」
「留めなくてもまぁ平気だろって思ったら、割と風が強くて、今そっちの戸が開いた瞬間ぶわって吹っ飛んで」
「ふむ」
「布団が吹っ飛ぶとかシャレじゃねェんだし、ありえねェって。いや落ちたんだけど。落ちるとか拾いに行くの面倒いんだけどでも布団が」
 駄目だ、だとか面倒くせェ、だとか呟いて、また笑いの発作に見舞われたらしいチャトラを、笑いのツボがまったく理解できなかった男はぼんやりと眺めてしまった。何がおかしいのかはさっぱり判らなかったけれど、楽しそうで何よりだと思う。
「あーもうとりあえず拾ってくる」
 汚れてなけりゃいいけど。ぼやきながら未だくすくすと笑い、窓枠に手を突いてチャトラが身を乗り出した。
「ああ――うん」
「拾ってきたらメシ食いにいこうぜ」
 言って中二階を猫は飛び下りる。相変わらず身軽なものだなと男はなんとなく感心した。
 感心ついでに窓枠に近付き、開け放しの出窓から下を見る。
 ぴんぴんとあちらこちらにはねた癖毛の頭を眺めていると、通路の布団を拾い上げ、ふと振り向いたチャトラが、見下ろしている男の視線に気が付いて何が嬉しいのかにっと笑って手を振った。


(20110907)
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最終更新:2011年09月08日 12:52