不穏な空気を感じて即座に足を止めた。
鞍から飛び降り、脇の茂みに馬ごと身を隠す。
満天の星空の下、それまで呑気に鼻歌の一つも奏でていたものを、
瞬時に無感情の瞳にすり替わる。
木石へと身をやつす。殺気は無い。
気を発するものは、未だ素人である。
発してしまえば感づかれる。感づかれてはそれだけ危険は高まる。
であるから、辺りに転がる石の破片の一つにでもなる。
無機物は気を発しない。
静かに鳴いていた野の虫までもが、異様な空気に呑まれたか、
いつのまにか深と、静まり返っている。
辛抱強く潜む。
息を潜めて待つこと十数分、屈む前の道を騎馬数百、駆け抜けていった。
星明りに人の形をした影が煌く。
騎乗の人影が完全武装している証。
穏やかではない。
――まァ、もともと戦場に穏やかもクソもねェか。
一人心中に呟いたのは男である。
騎馬の駆け抜けた後もしばらくはそのままに、じっと気配を窺っていた男であったが、
やがて、馬の方が先に痺れを切らして鼻を鳴らした。
「よしよし」
男はようやく立ち上がり、鼻面を撫でながら再び道に戻る。
首を伸ばしひょいと、駆け去った方角を眺めやった。
時が少し戻る。
夜半。
男が歩いている。
そう広くも無い室内をぐるぐると、もう四半時程腕組みしながら、歩いているのである。
先に届けられた書簡に、どう対処しようかと悩んでいるのである。
男は、トルエ国の将軍最高職に位置する。
トルエ国とは、現在エスタッド皇国と休戦協定並びに同盟を結び、平和的国交を交わしている国である。
建前上は。
そう大きくは無い彼の国は、そうしてエスタッド皇国との争いを上手く避けねばならない。
同じく同程度のアルカナ王国と、どちらが旨い汁が吸えるのか、比較した結果でもある。
その、比較したアルカナ王国が先日、エスタッド皇国の侵略により、歴史に幕を閉じた。
ほんの十数日ほど前のことである。
両国を比較して、アルカナ王国と手を結ばずに良かったという安堵と、
これでますます、エスタッド皇国が肥大してゆくという恐怖を、同時に感じた瞬間でもある。
このままエスタッド皇国との同盟を継続して、旨い汁を吸い続けることが出来るか、どうか。
旧アルカナ領土を支配して、肥大したエスタッド皇国の属国に格下げになるのは、目に見えていた。
しかし強力な後押しも無しに、僅かな国土のトルエ国が、
戦後直ぐとは言え、エスタッド皇国に反旗を翻すのは、無謀を通り越して阿呆と言うことも存分に承知している。
であるから、歯噛みしながら、エスタッド皇国が強大になってゆくのを見守るしかない。
見守るしかない、と思っていた。
半日前までは。
目の前に書簡がある。
密書であった。
トルエ国と同じく、これ以上エスタッド皇国が力を持つ事に異を唱える国からの、書である。
同盟協定を破棄し、新しくわが国と盟約を結ぼうと、甘い呪いが込められた書であった。
エスタッド皇国との同盟を破棄する代わりに、事が成ったあかつきには、
旧アルカナ領土の半分を、トルエ国に譲るとある。
しかし。
簡単に事が成るとは、男も思わない。
どころか、しくじった時の方の被害が大きい。
大きいどころかおそらく、トルエ国の滅亡である。
壮大な愛国心も、確固たる忠誠心も、男は生憎と持ち合わせてはいなかったが、
己の立身出世には果ての無いほどに興味があった。
現在トルエ国の最高将軍職とは言え、たかだかちっぽけな、いずれはエスタッド皇国に飲み込まれる国の最高職。
それに引き換え、もし、旧アルカナ領土の半分を手にし、新しく盟約を結ぶことができれば、
自身に降る栄誉たるや、今の倍以上のものになろう。
しかし、である。
その同盟破棄の踏ん切りが、最期の一押しが、男には付かなかった。
国王に奏するに至らなかったのである。
以前より幾度も書簡を受け取り、その度に悩んでも、最後の最後でいつも躓く。
今回も四半時、一応は悩んでは見たものの、
やはり、最後の背中の一押しには至らず、現状維持のままもう少し、静観しようかと言う考えに落ち着きかけた。
「閣下」
ぐるぐると室内を回るのをやめて、自身の気持ちにまとめを付けかけた男の耳に、
飛び込むように入室してきた部下が、何事かを囁いた。
男の目が見開かれる。
「それは、真か」
「はッ。確かに彼の国の皇妹将軍であるかと」
「そうか」
不意に決心が、付いた。
部下の一言で最後の踏ん切りが付いたのである。
そうして男は、先の書簡を手に取ると、国王に初めて奏請すべく、大きく足音を立てて部屋を後にした。
軍議がこれより慌しく始まろう。
男の背中を敬礼し、見送った部下である。
部下の齎した情報は、旧アルカナ王国より、トルエ国を抜けて、
皇妹ミルキィユ将軍が移動する様子が伺えるとのこと。
質に取るにはこれ以上の質は無い。
腕がもげようと足がもげようと、生きたまま捕手できればそれ以上は何も言うまい。
廊下を早足で歩く男の脳裏にそんな言葉がふと浮かんだ。
要は密書相手と新盟約を酌み交わし、
また、エスタッド皇国との交渉が成立するまで、人質が生きていれば良いのである。
もし、失敗したら。
その言葉はもう浮かんではこなかった。
「陛下……ッ」
毛足の長い絨毯に、くぐもった音を立ててグラスが落下した。
半円を描いて転がる。
その横に、エスタッド皇帝が同じく無言で崩折れていた。
細面が引き攣り、肌の色はまるで白。
掻き毟り、胸倉を強く握り締めた拳もやはり、白。
喰いしばった細い顎に汗が伝い落ちる。
書斎にて気に入りの本を、選別していた最中の出来事であった。
側近のディクスが即座に事態に気付いて、主の身を掬い上げ、
辺りで青ざめ、立ち尽くしていた侍女に、的確な指示を出す。
力無く仰け反った皇帝が、それでもまだ意識を手放さずに、苦しい息の下その薄茶色の瞳を開いた。
「……案ずるな。いつもとそう変わらない」
肉の付かない細い首が激しく上下し、そこにも大粒の汗。
どんなに苦痛を感じても、それを苦とは決して口にしない皇帝の頑迷さをディクスは知っていたから、
「大事を取ってお休み下さい」
そうして書架の横に配置してある長椅子に、主の体を横たえた。
横たえた動作が合図のように、慌しく皇宮付きの医師が数名、早足で入室してくる。
すぐ様、皇帝の腕を取り脈を計り、無音の悲鳴を上げる体内の、処置を手早く施し始めた。
小さく吐息をついて、眺めるディクスである。
それから気付いて、床に落ちたグラスに腕を伸ばし、卓の上に位置を戻した。
注視しないと気付かない、薄い破璃の面に、模様にも似た余りに細やかな皹が、蜘蛛の糸のよう。
思わず眉を顰めたディクスである。
破璃の愛弟子。
――殿下。
皇都より思いが飛ぶ。
馬が竿立つ。
勢い拍子に振り落とされたものも数名。
鐙に足を踏ん張り、手綱を引き絞り、辛うじて堪えたミルキィユである。
「くそ……ッ」
喰いしばった歯の隙間から、絞るように声が漏れ出た。
彼女の細身の体に装着した、その鎧の僅かな隙間を縫って、深々と一本、腹部に矢が突き立っていた。
遅れて焼け貫く痛みが全身に広がる。
小さく震えたミルキィユである。
受け取った書簡を頼りに、任務地に向けて移動を開始し始め、雰囲気に気付いたは、正午少し前。
辺りが異様な気配で満ちていた。寸前に、辺りの地形を見回して、
斥候がまだ帰ってこない。
見晴らしの良い草原にふと不吉な思いを抱いた、次の瞬間のことであった。
視線を隊列の先頭に走らせた、その刹那、
矢雨が降り注ぐ。
「将軍ッ」
傍らの皇軍所属の僅かな部下が、青褪め縋るようにミルキィユを仰ぎ見た。
ミルキィユと同年代の、幼さの残る顔立ち。
少年と青年の半ばに位置するその部下は、
「これは、」
即座に事態を察知した彼女と違い、慌てふためいて判断がつかない。
「してやられた」
ミルキィユが自身に言い聞かせるように低い声で囁いても、
え。
と、やはり理解できてない表情が晴れることは無い。
舌打ちする。
「囲まれている」
大軍に、とは流石に告げられなかった。
告げても少年の混乱を、余計に煽るだけである。
辺りへ目を走らせながら、ミルキィユは胸元の隠しをまさぐると、
皇帝よりの勅命書をもう一度目前へと広げる。
印章を陽に透かす。
ちッ。
今度は大きく、もう一度舌打った。
正式文書に彫り込まれている、透かし模様は確かに国のもの。
例えばエスタッド皇国の紋章である、獅子の頭のたてがみの、その細やかな毛の流れの一つ一つまで正確に表現。
であるので、偽の文書を掴まされた訳ではないらしい。
今当に通るこの道は、皇国と現在同盟を結んでいたはずの、周辺国家の一道。
つまりは同盟協定へ反旗を翻されたのだ。
裏切りである。
迂闊だった。
臍を噛む。
――ここを、切り抜ける算段を考えなくては。
ミルキィユの率いてきた部隊の全体は今回1000。
矢来の数をざっと見て、その五倍は囲んでいるようだった。
辺りの部隊の様子を見回す。
契約を交わした傭兵達は、流石に落ち着いていた。盾を掲げ、矢を防ぐ。黙々と戦闘開始の準備に余念が無い。
百戦錬磨、そんな言葉がミルキィユの頭に浮かぶ。
のも一瞬のことで、拍車を馬の腹に軽く打ち付け、列の先頭方向に向かって頭を巡らせた。
無理だ。
冷静な絶望が遅れてやってくる。
どんなに手練れの傭兵であろうと、この数を突破することは難しい。
単純計算にして一人当たり五人と豪語したとしても、ミルキィユには判っている。
人は、一度に多人数の動きを捉えるようには出来ていない。
せいぜいがところ、二人。
狭い通路に誘い込んで、一対一を五回続けるのとは、訳が違う。
狙い撃ちの中を、隊列を組んで突破することは不可能に近い。
しかし。
それぞれの才覚に任せた各個撃破なら、或いは。
或いは、運の良い数十人は、逃げ延びることが出来るかもしれない。
「散れッ」
痛みを堪え、馬を走らせ叫んでいた。
「己が身は己で守れッ。解散するッ」
「姫さん」
そりゃ無茶だ。
誰かの声が怒鳴り返す。首を向けると、見知った顔。
その男の名は思い出せないものの、以前にダインに招かれて、一緒に酒を交わした仲の一人だ。
「包囲網が完璧に過ぎる。抜け出す隙がねェ」
「しかし、」
このままでは、全滅である。
言いかけてミルキィユはその言葉を飲み込んだ。
上官としての自身が、最後まで口にしてはいけない言葉だということに、気付いたからである。
「ここで最期も一興だろう」
隣のやはり見知った顔が、そんなことを言う。諦観の篭った引き攣る笑顔。
どんなに経験を重ねても、死の足音はやはり怖い。
「ふざけるなッ」
かっとして、思わず我を忘れて怒鳴っていた。
男達の頭上に良く通る、少し高めのアルトの声。
「我武者羅に逃げろッ。諦めるなッ」
そうして力任せに、馬の首を返す。
「どうやってだよ!」
押さえつけていた恐怖に呑まれたか、少し離れたところから誰かが叫んだ。
彼等が、死ぬのがまだ怖いのは、生きたい力が強い証である。
――では、わたしは。
口唇を噛む。腹部に刺さった矢を見下ろした。
――わたしは怖くない。
大剣使いのミルキィユには、そもそも矢来に掲げる盾は無い。
馬の腹を両の膝できつく挟む。
そのまま器用に背に差した大剣を抜き払い、高く掲げて見せた。
動けるうちに動いておかねば。
「敵を引き付ける!隙を見つけて走れッ!」
俄かに突風が吹いて、透明質の髪が靡いた。小さな顔を白い髪が縁取る。
壮絶なまでに美しい顔をしていることに、彼女自身は気付かない。
「ゆけッ」
最後に言い置き、矢の雨の中を縫うようにして、ミルキィユは敵のまとめ役と見られる辺りへ、突撃を開始する。
馬の嘶きが、悲鳴のように耳に木霊した。
「すまないな」
場の空気と矢来に怯えて尚、従順に突進の命を聞く馬の耳元に小さく囁きながら、
「……一緒に逝こう」
――わたしの死に場所は、ここか。
ミルキィユは淋しく微笑んだ。
午前の光に明らかに目立つ、白の髪と黒い皮鎧に、
おそらく相手は気付いたのだろう、いっそうに自身に向かう矢の量が増えた。
馬の背に伏せ避けながら、彼女は手綱を器用に操り、敵武官の目前に立ち塞がる護衛数名を一撃の下に叩き伏せる。
鮮血が飛沫った。
馬の巨体が宙に踊る。
「第五特殊部隊将軍ミルキィユ、推参ッ」
ひぃッ。叫んで、思わず身を屈めた武官に狙いを定め、そのままどうと倒れた馬の背より、地に降り立った。
口から血泡を吹いた馬の前足が、力無く数度地を掻いて、
事切れた。
矢避けの馬具を纏って尚、前身に不恰好に突き立つ百の矢。
ここまで押して走ったのだ。
瞬き一つ分だけ、ミルキィユは瞑目した。
開いた瞬間大剣を構え、辺りの兵士へ闇雲に振り回す。
周り全てが敵である。
当たり所を気にする必要も無かった。
吹き上がった鮮血をまともに浴びて、白髪に真っ赤な花が咲いた。
凄艶。
ゆらりと構えたミルキィユに、向かいの武官が腰を抜かす。
柔らかな栗色の瞳が虚空で満ちていた。
光が無い。
「……姫さん……ッ」
その時聞こえた割れるような大声に、
「な、」
瞳に光が馳せ戻る。
縦にも横にも、常人の倍は憚る巨漢が、彼女の前に割り込んで戦斧を武官に叩き付けた。
「何を馬鹿なことを……ッ」
驚愕が声となって迸る。
「ここに来たら死ぬだけなのだ!そこまで付き合う義理は無い!!
忠誠誓った騎士ならともかく、貴様らは契約傭兵なのだ。早く!早く逃げろ……ッ!」
最後はもはや悲鳴である。
「……キツい冗談言ってるのァ姫さんの方だぜ」
後ろで、右で、左で。
驚いて見回したミルキィユの眼に、見知った顔がそれぞれの獲物を手に、
いつの間にやら追いついて、奮戦している姿が映った。
「何が冗談だッ」
子供のように喚く。
「傭兵だろうが宿無しだろうが、こちとらそんなん知ったこっちゃァねェんだよ。
女に庇われてのうのうと生き延びちゃァ、ナニ付けて生まれてきた意味がねェ」
「俺らが抑えるから。アンタが逃げろ。アンタ殺しちゃ、夢見が悪い」
「姫さん。早く」
口々に言い募りながら、ミルキィユを守り囲んで円陣を組み、男達は獲物を振り下ろす。
あちらこちらで断末魔。
円陣の一角の男が血反吐を吐いて倒れると、補うように誰かが。
そこにまるで当たり前のように滑り込んだ。
「……馬鹿な。無駄死にだ」
喘ぎ、顔を歪めて、ミルキィユが駄々っ子のように首を振る。
辺りは一面鉄錆の臭いで充満して。
「姫さん、」
「ああ……、」
また一人、袈裟掛けに斬られて絶命した男が、目を見開いたまま倒れ伏す。
皮一枚で繋がる首が、所在なさげに転がりかける。
凝視したミルキィユは、思わず剣を取り落としてうろたえた。
「……良いのだ……もう、わたしを守らなくて良いのだ……!」
「姫さん、」
激しい息切れと共に促す声。
少女の体が、瘧にかかったように震えだす。
「守るな!頼む、もうわたしを守るな!」
「姫さんッ」
事切れた男を抱きかかえかけ、叱咤でびくりとミルキィユは立ち上がる。
次々に押し寄せる敵軍が、黒い蟻に見えた。
「……嫌だ!」
金切りの混じる絶叫は、悲痛。
ぶつ。
嫌な音が耳に飛び込んで、歪めた顔のまま、ミルキィユは弾かれたように視線を上げる。
「あ、あ、あ、あああああ、……あ、あ、あ」
戦斧を振るう巨漢が。
これは、夢だ。
霞む視界に、必死で目を凝らしながらミルキィユは自身に言い聞かせた。
夢ならきっと、悪夢だろう。
巨漢の首を深々と貫き留めて、冗談のように先端が飛び出す一本の矢羽。
気付いて眺めれば、腕にも肩にも折れ矢が見える。
――これは。これはもう。
苦痛を感じる暇すらないのか、口の端から水のように鮮血を垂れ流しながら、
それでも巨漢は斧を振るっていた。
「姫さん!」
戦慄く彼女の口唇は、既に言葉を紡ぐことをやめた。
凛とした彼女は今はどこにもいない。
あの顔も。あの顔もあの顔もあの顔もあの顔も……!
見開く栗色の瞳から、涙は流れない。
なみだの流す理由まで、わたしはたどり着くことができませんでした。
なみだの流す理由まで、わたしは。
うおおおおおおおおおお。
辺りの傭兵が一斉に吼える。
声は戦場に木霊し、大地を震撼させる。
「……ダイン」
斜めに傾きかけながら、巨漢が尚も戦斧を手放さず、吐血と共に声を絞り出した。
「ダァァアアアイィィインンンンンッッッ!」
「お嬢ッ」
怯えて立ち尽くすミルキィユの耳に、何故か懐かしいと感じる声が響いて、
瞬間彼女は痛いほどに腕を掴まれ、引き立たせられていた。
黒い髪。黒い瞳。
無骨な指のその持ち主。
「ダイン」
見止めてヤオがにやりと口を歪めた。
「遅ェ」
「悪ィ」
血の塊ごと地面に吐き出した悪友に一つ笑い返して、ダインはミルキィユの腕を引く。
「後でたらふく喰わせるわ」
「……皇都で一番、美味い店で」
「当然」
そうか。聞いたヤオがもう一度嬉しそうに笑うと、それきり二人に背を向ける。
喰い込むほどにミルキィユの腕を掴んだダインは、巨漢に背を向け、辺りの男達を一瞥すると、
それから無言で、彼女を引き摺るように走り出した。
左手に彼女を掴み、右手に長剣を下げて走る。
立ち塞がりかけた幾人かの兵士は、獲物を構える暇も無く、剣走りの光と共に絶命していた。
守銭奴傭兵の剣。
例え刃がその身を削いでも、決して衰えない剣勢。
あちらこちらに手傷を負いながら、走る速度の変わることはない。
演習で自身と相対した時とは、まるで異なる殺気に、他人事のようにミルキィユは視界に入れた。
血でぬめる腕に引き摺られて、ミルキィユもまた、走る。
轟。
いつか聞いた不気味な音がする。
森の向こうの草原が、赤黒くうねっており、それが身の毛もよだつ速度でこちらに向かって奔って来る。
木々が瞬く間に炎に呑み込まれる。
気付いたダインが咄嗟にミルキィユを押し倒し、その上に被った。
ゆっくりと流れるような視界の動きの中で、伸ばした自身の指先だけが、ミルキィユの記憶に残る。
乾燥し、更には油を撒き散らした草原は一瞬後には燃え盛った。
「……あ。」
何もかもが炎に包まれる。人の気配がしなくなる。
瞬時に高温の、辺りの空気に噎せながら、
鼻にかかった幼子の声で、ミルキィユは朱の炎を瞳に映して小さく呟く。
「は……わさま」
母が炎の向こうで燃えている。
熱風で即、上空に舞い上がった木の葉が、黒く焼け焦げてはらはらと舞い落ちてくる。
いけない。下に落ちてはいけない。
根拠の無い言葉が脳裏に浮かんで、跳ね起きたミルキィユは、無我夢中で舞い落ちる木の葉に指を伸ばした。
伸ばしかけ、
「……お嬢?」
小さく咳き込み、ミルキィユは血を吐いた。
深く貫かれた矢羽の先からも、赤い雫が滴っている。
「お嬢ッ」
不思議そうに見下げ、それから真っ直ぐにダインの顔を見つめると、
膝から彼女は、真っ赤に焼けた大地に崩れた。
支えたのは傷付き尚も、力強い腕である。
狂ったように掻き抱かれるその腕と胸板と、
自身の名を呼ぶ男の声に何故か酷く安心して、ミルキィユは意識を手放した。
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最終更新:2011年07月21日 11:03