<<Blind>>


 頼まれもしないのに、外回りの回廊へ吹き込む落ち葉が気になり、借りた熊手で掻きよせていた。
 この時期は、詮のない鬼ごっこと言おうか堂々巡りと言おうか、庭木の枝がすっかり葉を落とすまではまるで何かの修行のように落ちる、葉を掻く、落ちる、葉を掻く、の繰り帰しである。
 園丁の中にはそうした終わりの見えない毎日の仕事を愚痴るものもいるようだったが、存外この矛盾にも見える葉を掻く仕事が嫌いではないチャトラだ。
 だだっ広い皇宮の庭は、秋口は特に手が足りない。
 年に二度花をつける薔薇の手入れが最もたるもので、一日放置すればそれだけで色があせてしまうのだと教えてもらった。節くれだち、まるで立ち枯れた木のような指をした老園丁が言ったのである。
 彼の仕事をちょくちょくチャトラは手伝った。ヒマだから、と言うのも勿論あったけれど、むつむつと仕事をする老人の姿や、休憩時間に話してくれる花や木の仕組みを聞くのが好きだったからだ。
 花の手入れが忙しいからと言って他の場所を疎かにしていいという言い訳は立たないのだが、それにしても落ち葉搔きまで手が回らないだろうとチャトラは思った。こなして怒られる類の仕事ではないので、手の空いた時間を作っては率先して手伝っている。
 頑固で偏屈だと有名な老人だった。当初こそ彼の方も、手伝うと近付くチャトラを煙たがっている節が見られたものの、どんな心境の変化か、今では彼女が顔を出すと嬉しそうに頬を緩ませるようになった。
 あいかわらずむっつりとしたまま、であったけれど。
 そんなことをぼんやりと考えながら、チャトラは庭の隅の方に、こんもりと落ち葉を掻きよせ積み上げた。息を吐き、腰に手を当て眺める。落ち葉焚きをしたら、さぞうまそうな芋が焼けるだろうと思った。
 思ったらあのいい具合に焦げた芋を是が非でも食べたくなって、芋を分けてもらいに行こうと熊手を片付け、小走りに厨房へと向かう。
 事情を話すと、気前のいい調理長が一抱え籠に持たせてくれて、礼を言って厨房を後にする。
 戻る途中に少し前をゆっくりと歩く男の姿を見た。面識のない背中だと思った。
 厨房につながる回廊は、エスタッド皇の居住空間の他に、貴賓来賓の接客間につながる道でもあったから、他国から訪れた使者のひとりなのだろうとそのまま脇を通り抜けようとして、
 ……あ。
 チャトラは驚き、思わず足を止める。
 追い抜きかけた使者の手には、使い込まれた盲人用の杖が握られていたからだ。
 思い当たって顔を辿ると、双眸のある辺りに白布がきっちりと巻かれてあって、男が盲目であることを示していた。
「――小さな侍従さん」
 私に何かご用ですか。
 足を止めた気配に男も気づいたのだろう。歩む足をあちらもふと止めて、見えない目をチャトラの方へと向けてくる。小さい、だとか足音ひとつで見抜いたのかと内心驚きながらあの、とチャトラは口を開いた。
「オレ、チャトラって言うん……あー……チャトラって言います。えーっと、もし必要ならアンタ……じゃない、えっとあなたの介抱……ちがうか、介助……介添え?」
「――」
「……ああもう。つまり、どっか向かうなら、オレ案内しようか?」
 チャトラの育ての親である「姉」は、躾には厳しかった。
 自分よりも弱いもの、力のないもの、不自由なものには親切にしなさいと叩き込まれてチャトラは育った。それが偽善だとかそんなことはどうでもいいの。偽善だと言ってバカにしている人間より、手を差し伸べる人間の方が、百倍マシよ。
「御親切にありがとうございます」
 申し出に何事かと一瞬片眉を上げた男は、やわらかく笑って腰を折る。
「私室まで向かっていたのですが――今日は落葉の音が賑やかしくて」
 すこし難儀していたのですよと男は言った。
「……葉っぱの音」
「ここが不自由なものでしてね」
 ここが、と言って男は杖を手にしていない方の手を白布の上に当てた。
「代わりに聴覚が鋭くなりました。鋭くなったのは良いのですが、不慣れな場所ですと物音がいっぺんに聞こえてきて少々弱るのです」
「葉っぱの音がアンタには聞こえるんだ」
「はい。一葉一葉。枝から離れた音から綺麗に聞こえてまいりますよ」
「すごいね」
 感心してチャトラは男の横に立ち、見上げた。こうして見ると、長身の皇帝とほとんど大差ないような気がする。
「不慣れな場所ってことは、アンタ、ここに住んでるワケじゃあないんだな。えっと……お客さま?」
「出身はトルエにございます」
「……トルエ」
 口の中で復唱してついでに大陸地図を頭に思い浮かべ、
「北方――地図で言うと上の辺りですね」
 続いた言葉に二度仰天した。
 チャトラの頭の中を、男が見事に言い当てたからである。
「アンタ、オレの考えてることが判るの」
「さて。読心術など習っては下りませぬ故、ただのハッタリでございますよ」
「ハッタリ……、」
「トルエと聞いた瞬間に、此方さまの宙の上の方を睨んだ気配がございました。ですので、これは八割方頭の中に地図を思い浮かべているのではないかと、カマをかけた次第で」
「すごいね」
 はー、と嘆息して心底感心した。感心と言うより感嘆に近いかもしれない。
 自分に持ちえない能力のものへ、チャトラは素直に尊敬する。重ねられた言葉に、男が困ったように首を傾げるのが見えた。褒められることに慣れていないように見えた。
「あのさ。えーと、」
「エンと申します」
「エンさん」
「はい」
「焼き芋、好き?」
「はい?」
 続いた言葉は、さすがに男の想像の範疇外だったのだろう。素の声で聞き返されてしまった。
「芋――、ですか」
「芋です」
「芋と言うのは、あの食用の芋ですね」
「食べるための芋です」
「好きか嫌いかというのは……」
 眉根を寄せて考えている様子が、先ほどまでの老成した雰囲気とは異なって年相応の顔に見えた。エスタッド皇と同じくらいの年だろうかと見上げてチャトラは思う。
「あー。つまりね。オレ、今から落ち葉焚きやるんだけど、ついでに芋も焼くつもりで……、もしアンタも暇だったら、一緒にどうかなって」
「落ち葉焚き――、芋を、枯れ葉と一緒に焼くのですか」
「したことない?」
 ない、と首を振るエンへ、説明するより焼いてみせる方が早いとチャトラは思う。しかしこの場合見せる、かどうかは判らない。
「もしアンタが良ければなんだけど、一緒に焼き芋食わない?」
「芋ですか」
「芋です」
 初対面の北方からの客人に対して、これは失礼にあたるのだろうかと頷きながらチャトラはふと思った。また、セヴィニアあたりに見咎められたらあとでこっぴどく説教を食らうかもしれない。見つからないようにこっそりと焼こうと思う。狼煙代わりに煙が上がるので、こっそりもなにもバレバレだろうとは思ったけれど。
「忙しいかな」
 皇宮の人間に対していつもよく言えば気さく、悪く言えばなれなれしいと自分でも思っているチャトラだ。下働きの人間はともかく、来賓国賓と呼ばれる待遇の人間とどう接したらよいものかよく判らない。だったから話を持ちかけながら、もしかするとこれはやっぱり失礼な部類なのかもしれないと思った。素通りしてしまうのが一番良いのだろうけれど、話を切り出してしまった以上「今のナシ」にするのもどうかと思い、トルエの国の人間の様子を窺う。
 そうでなくとも外交だとかの建前と本音は、下町育ちのチャトラには理解できない。顔で笑っておいて、腹の中でコイツをあとで懲らしめてやろう程度のことは、チャトラも勿論考えたことがあるし、その程度は理解できる。けれど、それのレヴェルが上がって命を切った張ったのやりとりになるというのが判らない。
 笑顔で互いにやり取りしながら、足元を掬って殺してやろうだとかどれだけ悪人だよ、と思う。
 様子を窺っているチャトラを、雰囲気で感じ取ったのだろう。寄せていた眉を開いて、エンが小さく笑ってご相伴しましょう、と答えた。
「楽しそうです」
 ありがとうと何となくいうと、どういたしましてと返された。育ちが良いのだろうなと思った。連想してなんとなく、皇都にいない三補佐のひとりを思い出した。

                   *

 面白いことになったなと言うのが、成り行きで流されたエンの正直な感想だ。
 午後の仕事が予想以上に早く片付いた。仕事机に座っていても他にすることもなく、散策するには皇宮は少しおぼつかない。これが馴染んだトルエ公国の館であるならば、ほとんどの場所の段差の位置まで言い当てられる自信があるけれど、さすがに皇宮は広かった。杖を突きながら用事もない人間がうろつき回っては、見回りの衛兵も気になるし迷惑だろうと思う。
 であったから早々に部屋へ戻ろうとしたときに、呼び止められたのだった。
 足音の軽さや話しぶりからしてすぐに、皇帝が寵愛している側仕えの侍従の娘だなと気付いていた。直接話したことはなかったけれど、毛色の変わったのを一匹飼っているのだと、皇帝自ら何かの折に語っていた覚えがある。いつだったかまでは覚えていない。
 落ち葉焚きそのものや、芋を焼くという行為にあまりエンは興味がなかったけれど、丁度ヒマであったことと、相手が皇帝の寵愛している侍従、と言うところにふと魅かれた。「あの」皇帝が、興味を示している相手だ。知るのも悪くはない。うまく行けばいくつかつついて、皇帝の弱味の一つでも握れるとありがたい。
 チャトラと名乗った相手はきっと、裏表なく自分を誘ってくれたのだろうと思う。それをトルエとエスタッドの外交の一部に利用させてもらおうという発想が、我ながら腹黒いと思った。公女あたりなら、腹黒いのは元からだと切って捨てたかもしれない。

 落ち葉焚きと言っても、落ち葉は既に一か所にかき集められている訳で、芋を突っ込み着火すると、あとは焼けるのを待つばかりである。
 回廊の段差に並んで腰かけて、エンはチャトラと共に立ち上る煙を見るともなしに眺めていた。
 互いに改めて自己紹介をした後、話題がなくなったので、何とはなしにどうしてエンが皇宮にいるのかの身の上話になった。
「――ですので、秋から春にかけてはこちらにご厄介になっているのでございます」
 片肺をおかしくしたので、北方の寒さには耐えられないのだと説明する。だから、知恵を提供する代わりに半年皇国に留まらせてもらうのだと。皇帝の相談役みたいなもんか、とチャトラが聞きながら位置付たので頷いて応えた。
「そのようなものございましょう」
「ここで寒さ、マシなんだ」
「大陸の端にトルエは位置しておりますので」
「よっぽど寒いんだなぁ」
 そうでございますね。
 応えてつと先月出立してきたばかりの公国が懐かしくなった。エスタッドはまだ秋の気配であるけれど、ひと月は冬の訪れが早い公国はきっともう雪に埋もれているだろう。何もかもが凍徹した厳しさに覆われる半年強、人間もけだものもじっと春の息吹を待つしかない。
 豊かではないというよりはっきりと貧しい公国は、それでもエンにとっては生まれ故郷だった。育った場所のほとんどはトルエでないにもかかわらず。
「トルエは遠いの?」
「どうですか。馬で半月強と言ったところでございましょうか」
「半月……遠いな」
 馬で移動する人間の感覚はどう言ったものかよく判らない、とチャトラは言った。町から町へのその日暮らしを続けてきたけれど、移動手段のほとんどは徒歩で、峠を越えるだとか河を超えるという実感はあまりないらしい。
「此方さまのご生地は」
「あ、ちょい待ち」
 言いかけたエンの言葉を遮って、チャトラが急いで手を上げる気配がする。
「言い方待ち。それ。体がかゆくなる」
「言い方……、?」
「何とかさまとか。『ご』だの『お』だの、頭に付く言葉とか。オレ、そんなたいそうな『ご出身』じゃないから……もうざっくばらんに普通でいいよ」
 言われても困る。思わず首を捻った。確かこの娘、「名目上は」セヴィニア補佐官の遠縁であるのだという話であったけれど、
「此方さまの言う普通とはどういうものですか」
「『お前の出身はどこだよ』、くらいのノリでいいかと思う」
「お前――」
 面食らって何度か口の中で呟いていたエンは、やがて難しいですね、と苦笑いした。
「私はそうした言葉遣いをしたことがないので」
「ある意味すげェな」
 出自の尊卑は、割合実直に言葉や態度に出るとエンは思う。
 補佐官の遠縁の娘であるならば、田舎貴族とするにしても皇宮に上がる際、ある程度の教養は身に付けさせられているはずで、けれど話した手ごたえとしてどうにもこの相手は、下働きの女中の親しみやすさに似ていると思った。
「では――チャトラさまの」
「さまナシでお願いします」
「チャトラ……さんの」
「呼び捨てでお願いします」
「――チャトラ、の出身はどこなのですか」
 なるべく砕けた言い方にしようと、頭の中でこねくり回してエンは言い直した。それがおかしかったのか、けらけらと声を立ててチャトラは笑う。
「オレ、生まれたところも親の顔も判んないんだよね。育ててくれた人はいたけど、なんかいろいろあって、ガキのころからスリしながらあっちこっちの町ブラついてた。さすがにトルエまでは行ったことないけど」
「スリ、ですか」
「んで。皇帝の懐狙ったらとっ捕まった」
 隠されもせずぶっちゃけられて、一瞬言葉に詰まる。
 もしこれが自分を騙すため、チャトラのでっちあげた話であるとしたなら、エンは動揺を見せないで軽く受け流すということが正解に当たるだろう。そうでなくて本当の身の上話であるのだとしたら、かなり凄惨な内容をさらっと言われてしまった訳で、中途半端な慰めの言葉は口にできない。
 しかしどうにもチャトラの人物像を察するに、前者であるような気がしない。だとすると老婆心、そういうことは迂闊に口に出してはいけないだとか言うべきなのだろうかと悩んだ。政治ではすぐに足元を掬われる。しかし余計な世話だ。
 結局なんと答えたものか、エンが言葉を探している内に、焼き加減を見るためにチャトラは立ち上がり、小枝を手に取りたき火をつついていた。
「焼けたっぽい」
 落ち葉をかきよせる音がして、それからどうぞ、と目の前に熱を持った者が差し出された。
 受け取ろうと手を出した瞬間、あ、だとか声がして、慌てて芋がひっこめられる。
「目が見えないんだった」
 それからごそごそと細工している気配があって、すぐにまたはい、と芋が差し出される。受け取ったそれは、手拭いが巻かれていた。火傷しないように配慮してくれたものらしい。
 息を数回吹きかける。その程度で粗熱が取れるはずもないのだけれど、癖のようなものだ。
 受け取ったことを見届けたチャトラが、またいくつかを、今はほとんど燃え尽き燻っている灰の中から転がし出す。もう一枚、広げた手拭いで手ごろな大きさの芋をいくつか包んでいるようだった。
「チャトラ」
「ん?」
「落ち葉焚きも焼き芋も、私はしたことがありません。焼けた芋は持ち帰ったらよいのですか」
「いや、ここで食うよ。食うけど、これは別取り」
「別取り……、」
「芋わけてくれた調理長さんにおすそ分けと、あと皇帝の分」
「皇帝陛下は焼いた芋がお好きなのですか」
 厨房から芋を分けてもらったのだろうから、調理長に、というのはエンにも理解できる。けれど、どうにもエスタッド皇が芋にかじりつく姿は想像ができない。思わず尋ねていた。
「……どうかな」
 聞かれたチャトラが笑う。同じようにかじりつく姿を想像したのだろう。
「好きかどうかは知らないけど。皇帝、今日はどっかの貴族の人と夕飯一緒にしてくるって言ってたんだよな。外で食ってくるときって、あのひとほとんど食わないで帰ってくるし、そのくせ一食抜いて平然としてるから、芋でも食わせとこうかなって」
「夜会なのですね」
「そうなのかな?よく判んねェんだけど、そんなこと言ってたかも」
「チャトラは、いつも陛下と一緒に食事されるのですか」
「うん。放っておくとあのひとまともに食わないからな。メシが目の前にでてくるのに食わないとか、バチあたり以外のなにものでもねェよ、オレ的に」
 割と真剣に熱弁された。ああこの娘は本気で、食べるものにも困る生活を送っていたのだとエンは思った。彼女の言葉は実感だ。
 それから、そう言えば西国の大使が娘を連れて訪都していると聞いた覚えがあると思った。皇帝はその歓待に駆り出されたのだろうと思う。食事と言う名目の、腹の読み合いでしかない。言葉尻を間違えれば争いにつながる。
「まぁあと、誰かと一緒に食うメシはうまいだろ」
 手に持った芋をふうふうと冷ましながら、隣に座っていたチャトラがぽつんと呟いた。それもまた実感がこもっている。
「一緒に……、でございますか」
「あんなアホみたいにだだっ広いテーブルの端の方に、一人で座って食うとか、オレ最初本気でイヤがらせされてんのかと思ったよ。食い切ってないのにさっさと皿さげられるしな」
「嫌がらせ……」
「あー」
 不思議そうな声を思わず出してしまったのだろう。こちらに目をやった彼女が、納得している。
「アンタも、あんまり誰かと食ったことがないって顔してるな」
「……そうですね」
 エン自身の食事は適当に済ませてしまうことが多かった。公女はどうだったろう。
 トルエの広い黒曜石のテーブルに、一人で座って食事をしていたような気がする。
「今度食ってみろって。絶対三倍はうまいから」
 言われてそう言うものかと思った。試してみるのも悪くないかもしれない。
 もしかすると、こうした心持ちを感じることが楽しいからこそ、エスタッド皇は彼女を手許に置いているのかもしれない。
 思うと急に試してみたい気持ちが湧いた。
 三十路を超えた男が、十代半ばの娘に悪戯をしかけるのも相当大人気ないとは思うけれど、
「今夜の夜会は、西国の大使の娘と対面するためのいわば口実として設けられたものにございましょう」
「あ?」
「気がかりには、なられませんか」
「へ?」
 聞かれた意味が判らなかったのだろう。二度聞き返された。
「気がかりって、何の?」
「陛下におかれましては未だ独身であらせられ、相手のご婦人も妙齢でございましょう」
「……あ、メシ食ったりしながらいい雰囲気になっちゃったり、勢いで押し倒したりして一発、とか、そういうこと?」
 言われて一瞬なんと答えたものかエンは言いよどんだ。それにしても本当に歯に衣着せない物言いだ。いっそ爽快ですらある。
 しかしエンが指した事柄はそうした行為のことではあったけれど、皇帝がその行為をどうこうするというよりは、どちらかと言うと興味があったのはチャトラの方で、
「どうなんだろなー。デキちゃったらデキちゃったで、三補佐のオッサンなんかは大喜びなんじゃないのか。子作りのいい口実になるだろ」
 確かにセヴィニア補佐官やアウグスタ補佐官や議会は、これ幸いと事態を進めてしまうだろう。
 苦笑いし同意する。それからもう一度気がかりではないかと尋ねた。
「……気がかりって?」
「皇帝陛下の御興味が他に移ってしまうという類の……」
「え?皇帝が?ごめん、さっぱりイミ判んねェ」
 本気で言っているらしい様子に、尋ねたエンの方が驚かされる。詳細までは知らないけれど、寵愛というよりは妄執に近い執着を持って、エスタッド皇は娘を皇宮に据え置いたと聞いた。確か最初に耳にしたのは、皇都でなくトルエであったと思う。聞いた時はなるほどエスタッド皇も人の子か、周りの勧めに折れてようやく妃を迎える気になったのかと納得したものだ。
 その娘が、後宮待遇ではないこと、皇帝の居室に寝起きしながら妃ではないこと、どころか侍従と同じしつらえの服を着て、こま鼠のようによく働いているとやがて知って、聞き間違いではないかと思ったのだった。
 一体どう言う経緯でそうなったのか全く意味が判らない。
「つまり、ですね」
「うん」
「……妃殿下を迎えられることになりましたら、妃殿下は皇帝陛下の御許へ参りましょうな」
「うん」
「起居されますのも、皇帝陛下とご同室になりましょう」
「なるよな」
「つまり」
「――つまりお前が要らなくなって、私がぽんと投げ捨てたらお前はどうするかと、そう聞かれているのだろうよ」

「皇帝陛下」

 聞かれていた。
 一瞬にして自分の全身から冷や汗がふき出して、硬直するのが判る。皇帝の弱味の一つでもチャトラから聞き出せればと思っていたのが、これでは自分の弱味を一つ握られてしまいそうだ。
「あれ、アンタご会食とやらは」
「先方が失踪してしまってね。延期だ」
 物騒な内容をさらと流して、そうしてよいにおいだね、と皇帝が呟く。ところへ、チャトラが布包みを差し出している気配があった。
「これ、アンタの」
「ほう」
「アンタどうせメシくってこないだろうから、夜中に食わせようと思ってた」
「夜中に芋はどうにも胸焼けしてしまいそうであるが」
 鋭く尖っていた気配が、そこでやや和らいだ。微かに笑ったらしい。
「さっきそこで焼いたんだぜ」
 言いながら、チャトラは燃え切った灰を辺りに広げて水をかけている。じゅんと燻る最後の音がして、蒸気が上った。
「――で」
 エスタッド皇は柱にもたれ、芋をつまみ口に運びながら、これは一体どうしたことだねと言った。
「国賓を巻き込むとはお前らしい」
「落ち葉かいてたら、無性に焼き芋が食いたくなって……、途中でエンさん巻き込んだ」
「参謀殿も難儀なことだ」
「……いえ」
 難儀なのはどちらかと言うと、焼き芋に付き合ったことよりも今この現状だ。エスタッド皇、己のあることないことの噂話を立てられることに慣れているとは思うけれど、実際背後で聞かれているとなると少し話が違う。
「気がかり――ね」
 なぞられた。
 どのあたりから聞いていたのかは知らないけれど、エンがチャトラをからかおうとしたくだりはしっかり聞かれていたらしい。エン自身目が見えない以上に、聴覚や嗅覚が鋭敏になった自覚はあるのだけれど、うまい具合に気配を隠したものだ。
「なんでアンタまで気がかり気がかり言ってんだよ。皇宮の流行かよ。それに捨てるって何だよ。意味わかんねェよ」
 急にむっとして、エンの隣からチャトラが立ち上がる。機嫌を損ねたらしい。
「オレ、アンタと一緒にいるけど、別にアンタが『置いてやってる』からいる訳じゃない」
 えらい剣幕で言いたてるチャトラと正反対に、皇帝は静かに佇んでいる。どうやら楽しんでいるらしい。その「楽しんでいる」雰囲気が余計火に油を注いだようだった。
「そもそも、アンタが誰を好きになろうとそれはアンタの自由だろ。誰かと部屋でイチャつくのにオレのこと邪魔になったんなら、邪魔になったって、はっきり言ったらいいだけじゃねェか」
「邪魔だと私は言ったろうか」
「じゃあなんで遠回しのイヤがらせっぽいこと言ってニヤニヤして面白がってるんだよ。シュミ悪ぃよ。アンタのそういうとこ、オレ理解できねェよ。理解するつもりもないけど」
「――けれど?」
「とりあえず芋喉に詰まらせて死ねばか」
 捨て台詞一つ吐いて、さっさとチャトラは去って行った。一体どうして怒りのスイッチが入ったものかエンには今一つ判らないけれど、どうやら今この状況で急に、と言うよりは何か常日頃の鬱憤も混じっているらしい。
 そうして、自分も皇帝と同じように彼女をからかうつもりだったのだと気が付いた。同罪である。ついでに、怒らせたきっかけを作ったのは結果論とは言えエン自身だ。
「……」
 溜息を吐き、手の中の芋を眺める。
 背後の皇帝と芋と、どうしたものか。
 ただ落ち葉焚きを体験しに来ただけのはずだったのに、政治外交の場面よりよほど緊張を強いられることになるとは思わなかった。

                   *

 どうしてそういうことを言うのかな。
 イミわっかんねェ。
 憤りに任せて回廊を大股に歩きながら、チャトラは何度も舌打ちをした。部屋に戻るのは嫌だった。どうせ戻ってきた皇帝と顔を突き合わせることになる。
 そのまま、まっすぐに裏庭の檜によじ登る。辺りを落ち葉で彩る植樹の中で、一本もりもりと葉を残して泰然としている。枝ぶりが、四方八方に突きでているのもいい。勢いで中腹あたり、下からは茂った葉で見えないだろうと思われる高さでようやく手を止めた。
 息を吐く。
 ああいった態度の皇帝は嫌いだ。
 自分を試すような、わざとすげない未来をちらつかせ、お前はどうするのだと推し量られるような、そんな言い方はごめんだった。
 一緒にいたいなら、一緒にいたいと言えばいい。いたくないのなら、いたくないと言えばいい。
 ――妙齢のご婦人とよろしくな状況になったら、って、なったら、たいへん結構なことじゃねェか。
 大切にする、だいじにするという感覚が、今一つ判らないのだと皇帝は言ったことがある。だとすると、だいじにしたい相手ができたのだとすると、それは喜ばしいことだ。心底チャトラはそう思う。
 そこまで考えてゆっくり頭が冷えてくる。そうするとだんだん悲しくなって、枝の上でチャトラは膝を抱えた。
 もともと、皇帝の気まぐれで拾われて皇宮へやってきた。そのあと一度は皇都を離れたりもしたけれど、結局自分は皇帝のことが気になって、放っておけなくて、つまりは好きなのだと思う。皇帝は屁理屈ばかりこねて、大事なことは何も口には出さなかったけれど、皇宮から去れとも言われなかった。だからいても良いのだと思っている。
 それでいいとチャトラは思ったし、あやふやな部分をあえて明瞭にしたいとも思っていない。男に誠実さを求めることがきっと間違っている。
 ――それくらいは判っているけどさ。
 けれど、試されることは嫌だ。自分は安全な足場にいて、遠くから枝でつつかれることは我慢がならないと思った。
 しばらくして、先ほどの捨て台詞は言いすぎだったろうかと不安になる。
 ばかだの死ねだの言われて、男が怒るとは思っていなかったけれど、芋を喉に詰まらせて死なれたら困る。喉に詰まらせて苦しめ、くらいでよかったのではないか。死ねと言われて死ぬような、安直な人生には思えなかったけれど、口に出して初めて願いも呪いも形になるとどこかで聞いたことだし、
「あーやっぱナシ。さっきのナシ。死ぬのはナシ」
 今更どうにもなる問題でもなさそうだったけれど。
 悲しい気分もぐちゃぐちゃになって、最終的に投げやりになった。
 もうこのまま木の上で暮らそうか、と出来もしないことを考える。調理長に渡そうと思った芋があるので、一日程度は食べるものに困らないなだとか。水はどうしようだとか。夜になったら随分冷えこみそうだけれど、我慢できるだろうかだとか。
 そのまま幹にもたれて、枝葉をくぐる風の音を何とはなしに聞いていると、日が傾くにつれてじんわりと寒さが襲ってきた。
 一晩ここで明かすのは無理そうだ。両腕を抱え、体をさすり、けれど男の居室に戻りたくはないなと悩んでいるところへ、誰かの足音がした。
 さくさくと裏庭の冬枯れた芝を踏んで近付く音。
「ああ……、探しました」
 ほっとした様子で頬をほころばせるエンを見下ろして、チャトラは仰天する。自分が木に上るところは衛兵の誰かが見ていたのだろうけれど、皇宮中を探し回り、その目撃した人間を探し当て、話を聞いてここを当たったのだとすると、結構な苦労だ。
 目の見える人間でもそう思う。勝手知ったるとは言えない皇宮内を、杖を突いて回ったならなおのこと、
「アンタ、ずっと探してたのかよ」
 意地を張るのも忘れて、急いでチャトラは飛び降りた。それから、話の流れで行くと探しに来るべき人間は他にもいるだろうことに気が付く。周りを見渡しても皇帝の姿はなかった。部屋に戻ったのかと少し気落ちする。
 ――放っておいたらそのうち戻ってくるとか、タカくくられてるのかな。
「チャトラに謝りたいと思って」
「……オレ?」
 何が、と尋ねるチャトラの前で、エンが頭を下げてごめんなさいと言った。
「もともと、此方さまを試してみたくて話を振ったのは私です。失礼なことをいたしました」
「……いや、いいし。もう別に怒ってないし。なんかもうどうでも良くなったし。っていうかアンタに頭下げられるとオレすごく困ります」
 勝手に癇癪を起こした自分を気遣って、自分を探し回っていたのだとすると、相当人が良すぎると思う。おかしな汗が出た。
「困りますか」
「困る。困るし、すっげェ気まずくなるので止めてください」
 そうですか、そう言ってエンが顔を上げる。そうして、
「もうひとつ、皇帝陛下の方が先に、此方さまを探しに行こうとなされてました」
 私はいわば代理です。
 告げられてえ、と巣の声がチャトラの喉から漏れた。
「部屋に引っ込んだんじゃねェの」
「探されかけた時に、急に別口のご会食のご予定が入ったと」
「補佐官に引っ張られていったのか」
「そうですね」
 不機嫌になりながら黙って行動する皇帝の姿が目に見えるようだった。こと政務に関してだけは、いくら不服だろうと男は滅多にすっぽかさない。
「そっか。……じゃあ、いいや」
 何が良いのか判らなかったけれど、先ほどのささくれたような気持はすっかり解れて、それなら部屋に戻っても良いかと思う。
「ところで」
「うん?」
 檜の木を離れ、皇宮へ戻りかけたチャトラの横に立ち、まだ少し考え込んでいた風のエンが、
「先の質問で少し考えておりました。単刀直入にお尋ねしてもよろしいですか」
 そう尋ねた。
「うん?……どうぞ?」
「此方さまは妬まれないのですか」
 言われて一瞬考える。何が、何に対して。
「……妬むって言うのは……、オレが、だよな」
「会食であるとか夜会であるとか、事あるごとに陛下はご婦人淑女とご一緒なられる訳でございましょう」
「うん」
「私は、好意を抱く相手が仮令仕事の場であったとしても、殿方と二人きりになられることに、恥ずかしながら悋気を抱くことがございます」
「でも、だって、もともと仕事だしなぁ。オレがあのひとを知るずっと前から、あのひとは皇帝やってて、そういう仕事もやってた訳だし……ああ、でも」
 皇帝が、女性と二人きりになる事態そのものにチャトラはあまり嫉妬を覚えないけれど、
「嫉妬するひとはいるよ」
「おられますのか」
「補佐官とか。ディクスさんとか。……エンさんもかな」
「……私、にですか」
 言われてエンが面食らった顔をした。想像していなかったのだろう。
「うん。補佐官のオッサンも、ディクスさんも、エンさんも、なにかしら人より飛び出た特技があって、皇帝の役に立ってるだろ。みんな普通にしてるけど、それってすげェ才能だよな。……オレ、あのひとの役に立ちたいと思ったりもするけど、人並み以上の能力なんて何もないし。スリの腕は、まぁ、自慢できるけど、皇宮でやると補佐官のオッサンに怒られるし」
 誰かの役に立ってありがとうと言われることがえらく嬉しいことなのだと、チャトラは皇宮に来て初めて知った。何か仕事を手伝うたびにありがとうと、助かるよと言われて嬉しかった。誰に言われても嬉しい。だったら、皇帝に言われたらもっと嬉しいかもしれないのに、
「役に立てたらなぁ」
「……それは少し、悋気の相手が違うのではございませんか」
 たっぷり沈黙した後に、エンがやがてそう言った。そう言うものなのだろうか。首を捻りながらチャトラは曖昧に笑った。

                   *

 而して、翌日。
 執務室を訪れたエンは、机の上に積み上げられた書類の量を付き人から聞かされて思わず絶句する。倍どころではない。昨日は早く仕上がったとはいえ、普段の三倍、もしかすると四倍の量がある。
 急にどうしたのか。担当の誰かが倒れたのか。尋ねると、言いにくそうに皇帝の命なのだと答えられた。しばらく量を増やせと言い遣ったのだと。
 唖然とし、しばらくしてから呆れた笑いがこみ上げた。なるほど。何とかは盲目、とはよく言ったものではないか。目が見えないのはお互いさま、杖がある分こちらが有利なのかもしれない。
 やれやれ、と読み上げる書状を聞き流しながら、とばっちりを食らったけれど仕方ないかと思った。昨日の失言はこれで帳消しにしてくれるようだし、安いものだと思った。しばらくは血反吐を吐くかもしれないが。
 どうも、藪蛇をつついてしまったらしい。


(20110915)
----------------------------------------------------------
最終更新:2011年09月14日 23:47