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<<幸福な籠の鳥>>


 地下牢と言うものは、意外にあたたかいものなのだな、というのが放り込まれて一晩過ごし、朝を迎えたノイエの正直な感想である。寝慣れない質素な寝具に身を横たえて、寝れるかどうかと思いながら目を閉じたが、思ったよりくたびれていたらしい。いつの間にかぐっすり寝入っていたようだ。衛兵の何度かの見回りの際にも目を覚まさなかった。目覚めた時にも不思議と気分は落ち着いていた。
 我ながら呑気なものだと思った。
 勿論、あたたかいとは言っても季節は真冬で、暖を取る器具の一つもないのだから、吐く息は白い。石畳にそのまま無造作に敷かれた寝具はじっとりと冷たく湿っており、すえた臭いがした。
 それでも凍りつかないだけマシなのかもしれない。水差しに張った水も氷膜を張らない。これが屋外に吹きさらしのまま一晩放置されたとしたら、立派な凍死体ができあがっているだろう。
 そこまで考え、そうか、地下と言うものは土の中にあるのだから、一定の温度を保たれるのも道理なのだなと気が付いた。
 本当にどうでもいいことではあったのだけれど。
 改めて自身が入れられた小部屋を見回す。
 独房と言うのが正しい呼び方だろう。ひと区画がだいたい縦に三歩、横に三歩。先に述べた質素な寝具と、床上に置かれた水差し、それに縁の欠けた皿が一枚。寝具の横に束ねたわらが少量あって、どうやら用はそこで足せと言うことのようだった。まるで馬房だ。
 馬房だと思って、ふと何かの折に聞いた良い馬の条件と言うものが頭に浮かんだ。
 良馬の一番の条件と言うものは、速く走れる、長く走れるものだけではいけないのだそうだ。狭い馬房の中で、どれだけ精神をすり減らさずにじっと耐えていられるか、いざ開放された場に出された時に、慌てず、騒がず、乗り手の指示に即座に対応できるもの。
 しかしこの牢獄の場合、おおかた開けた場所に出された時が人生の終わりなのだろうし、その時に慌てず騒がず何人の人間が落ち着いていられるか。もしかすると馬の方が賢いのかもしれないとノイエは思った。
 格子で仕切られた向こうは通路になっており、独房の中の人間同士が顔を合わすことができないように、交互に部屋があるようだった。これはプライバシーがどうの、ということではなくて、単に厄介な相談を囚人同士が行わないための工夫であるのだろう。
 その通路を日に何度か、衛兵が巡回にやって来る。
 食事は基本的に一日一回。これが長期的に幽閉監禁するための牢であるならばまた話は違ったのかもしれないが、ここは一時的に罪を犯した人間、または罪を犯した疑いがある人間を放り込んでおく場所だ。留置場に当たる。
 であったから、「まともな」待遇を希望するのが間違っているに違いない。
 時にひたりと天井から落ちる水滴は、地下水が染み出したものか、それともこうした地下に籠る人間の熱気が水滴となって落ちてくるものなのか、ノイエには判らない。
 ただ、この地下牢の饐えた空気はいただけないと思った。
 呼吸をする度に肺腑の隅々まで腐った空気が流れ込む。換気孔だとか言うものがほとんど設置されていないのでしょうがないのだろうけれど。
 座っていることに飽きたので、立ち尽くす。特にすることもないのでぼんやりと壁を眺めていた。
 みっしりと敷かれた石壁と床は、腐食のいちばん少ない石種を使っているのだと聞いたことがある。単に修繕の手間を省くためのものだろう。そんなことをアウグスタと話した覚えがあった。
 こうした牢であるとか警備は、あの大柄な補佐官の担当だ。ノイエ自身は、外交関連を任されることが多かった。これは、彼の柔和な態度が抜擢された訳でも、鋭敏な外交手腕を発揮した訳でもなく、ただ前任者の責務をそのまま受け継いだにすぎない。
 三補佐は名の通り、三名の人間に任命される。基本的に皇国エスタッドは、皇帝による専制君主政治なのだが、人間一人の責務量には限界があった。小国であったうちはまだよかったものの、皇国は日々版図を広げており、皇帝一人ではまかなえない部分、凡そは雑務だとか言う部分を、三補佐が担当している。現代の会社で言うところの、総務であるとか人事の部分に相当した。
 ただし三人。一日の執務時間は常に十二時間以上。皇帝を除くと恐らく皇都でも一、二を争う激務の類に入る。故に、割と早世する者も多かったし、高官の中でも任命を喜ばないものも多い。
「あのエスタッド」の補佐官の名と地位よりも、己の安泰を秤にかけて、命を選択する正常思考の人間が多かったということである。まともな判断と言えるのかもしれない。
 どこかで常軌を逸していなければ、三補佐の地位に就いていられない、と言うのが酒の席で交わされる冗談で、それは八割方当たっているとノイエは思う。何がしか歪んだ人間だけが、上と下からの軋轢に耐えながらうまいこと力を逃がして息をしている。これがまっとうな人間であったら、真面目に力を受けてぽきりと行くのだろう。
 そうして自分がずいぶんと歪んだ人間であることを、ノイエは自覚している。
 三の数字の内のどれかが欠けた場合、大きくぽっかりと空いた席には、急いで別の人間があてがわれ、常に三で形成され、回される。勿論、皇帝の下に三補佐官がいるように、三補佐それぞれの下には直下の人間、その人間の下に更に仕える人間は当然いて、であったから実際に皇宮に詰める人間だけでも五百を超えたろう。
 これは、当時の大陸に於いて、どの国家よりも大規模な政的布陣であった。
 エスタッドは軍事国家をうたった国ではあるが、力任せのどんぶり勘定では人は土地に定着しない。現エスタッド皇帝はそのあたりをよく判っていた。
 忙しい。
 外交を担当していた前任者は、数年前に死んだ。過労による心臓発作であろうというのが、当時の検死医の診断である。
 殺した。
 思えば随分姑息な手段で成功したものだ。手を回し、工作したのは他ならぬノイエ自身だったけれど。
 当時担当していた東方の太守からの献上品のひとつに、「薬酒」を紛れ込ませて三補佐へ献上したのだ。三補佐それぞれへ酒がいきわたるように工夫していたけれど、セヴィニアとアウグスタはどうも気が付いた節がある。
 気が付いたと告げられたわけでも、問い詰められたわけでもない。結果論である。
 死ななかったということは飲まなかったということだ。
 実際、気付かれずにうまく行くとは彼も思っていなかった。どちらかと言うと、発覚することで、東方との関係に歪みが出ればよいと思った程度だ。三補佐の一人が死んだと聞かされて、演技ではなくノイエは驚いた。国の一部を担う高官であるというのに、無用心にもほどがあるだろうと驚いた。
 嫌疑の目はうまい具合にノイエにではなく太守へと向けられて、ノイエが補佐官に任命された数か月後に、別の一件で太守は失脚したけれど、どうでも良いと思った。足元を掬われるということは、掬われるだけの油断や慢心があるからだ。掬われるのが嫌ならば、一時たりとも隙を見せてはならないと思う。
 そこまで考えてひたり、と水滴がひと粒頬に落ちた。
 拭う。
 拭った手の甲を見て、しかし捉えた衛兵は、どうして自分を拘束したままにしておかなかったのだろうと思った。
 牢に放り込まれたとはいえ、手も足も動きは自由で、雁字搦めで四、五日飲まず食わずで転がされることを覚悟していたノイエは、かなり拍子抜けした。
 仮にもエスタッド皇国の現皇帝の命を狙った人間である。自分に判断を課せられたなら、迷わず即座に斬首してしまうか、そうでなくとも身動き一つできないように拘束しておくと思った。
 生かしておいては後々厄介だ。言い訳は後で何とでも利く。
 死人に口なしとはよく言ったもので、自分の都合に合わせて罪状を考えて事後処理を行う方がよほど楽だった。
 ノイエはそうして仕事をこなしてきたし、エスタッド皇自身も同じような判断すると思っている。三補佐の一人が乱心を起こした場合、裁断するのは同じ補佐官のセヴィニアやアウグスタではなくて、恐らく皇帝自身になるのだろうと思う。
 すると、今のノイエの手足が自由な状態は皇帝の指示なのだろうが、正直彼には皇帝が手心を加えるとは思えなかった。諸外国がエスタッド皇によく足元を掬われるのも、皇帝の外見に惑わされることが大きいが、ノイエは皇帝の苛烈さを識っている。
 皇帝は、誰に対しても、誰よりも容赦がない。
 常軌を逸していなければ三補佐が勤め上げられないというのならば、現エスタッド皇はさらにその上を行く。
 性格は人間として、人に安らぎを与える場合にはえらく難儀なものになってしまうけれど、執務決裁を行うにはもってこいの性格だ。
 またそこで先程と同じようにひたりと頬に水滴が落ち、拭った拍子に随分通路が騒がしいことにノイエは気が付いた。
 騒がしいというほど実際は大声や癇声が聞こえる訳でもないが、饐えて澱んだ空気が乱れている。
 食事と呼ぶには申し訳ない、半分以上が黴の生えた黒パンがさきほど投げ込まれて、水差しの水と共にもそもそと飲みこんだばかりだ。あとは巡回の衛兵以外、この地下牢を訪れるものはいない。
 他に考えられることは、ただ一つ、皇帝に依る自分の処遇が決まった場合だ。
 処刑されるのか、自死という形を取らされるのか、それとも事故に見せかけるのか。国の最高官職である自分が皇帝に刃を向けたという事実は、国内外にかなり影響を与えてしまうだろうから、なるべく体裁の良い方法を選ぶのであろうけれど、
「ああ――いたね」
 呆気にとられた。
 たっぷり十数秒、声が出なかったほどだ。まったく昨日から、何度この主人に驚かされてきたのだろうかと思った。
「陛下……皇帝陛下」
「うん」
「……なぜ……、何故このような場所に」
「ここはひどく狭いね」
 僅かに顔をしかめて「良い」においだ、と呟いた皇帝の周囲にディクスの姿はない。どうしたのだとノイエが尋ねると、入り口近くで待たせてあると皇帝は答えた。
「君と二人で話がしてみたかった」
「……」
「邪魔の入らないという意味では、ここは良い場所だ」
「……私がお応えできることなどもう何も、」
「君になくても私にはひとつあるのだよ。そうして君は、私の疑問に答える義務があるはずだ」
 すっと目を細めてエスタッド皇はノイエを見据えた。ああこの目だ、と思いノイエは目を逸らす。
 この、何もかも丸ごと飲み込む視線で、皇帝は皇国を統治してきた。
「黙ったまま墓場に行くわけにはまいりませんか」
「楽に死ねると思うかね?」
「思いません」
 それはそうだろうなと思う。
 皇帝直下の三補佐官の一人が、皇帝に対して刃を向ける。いろんな意味で、ノイエはエスタッド皇どころか皇国そのものに対して泥を塗った。自覚はある。
 それも覚悟の上だった。
「私に……、僕に何を」
「私が知りたいことはひとつだけだ――あの時」
 唇を噛んだノイエへ、歌うように諳んじるように、皇帝は言った。前置いてノイエを窺う様子もない。端的で、いきなり斬り込む話ぶりは相変わらずだと思った。
「あれが飛び込んできた瞬間に、君は刃を引いたね」
「……」
「ずっと考えていた。あのまま勢いを殺さなければ、君は本懐を遂げることができたと言うのに」
(私自身も潰えたというのに、)
「そうしなかったのは――何故かな」
「……陛下は死にたかったのですか」
 遂げてほしかった。そう言う意味にもとれて、ノイエは思わず尋ねていた。
「――さぁ」
 どうかな。一瞬躊躇うように視線が逃げて、ノイエは皇帝が一歩退いたのだと知った。
「……チャトラが止めにやって来ることを僕は知っていました」
 そうして、何故か今なら皇帝に全てをぶちまけても良い気分になった。体面も名も、刃を向けると覚悟した瞬間にとうに投げ捨てていたのだ。
 保ちたいものはもう何もない。
「そうだろうね」
「やって来るように仕向けた。来るとは思っていたんです。ただ正直、限られた日数で彼女が皇都までたどり着けるかどうか、それだけが賭けでした。……賭けだったけれど、おそらく死に物狂いで彼女はやって来ると思っていた」
「まさに死に物狂いであれはやってきたと言う訳だ」
「ディクス卿の隙を衝くのに、他に僕は方法を思いつけなかった。……彼女には申し訳ないことをしました」
「――今は眠っている」
「ああ」
 微かゆらいだ皇帝の気配に釣られて、ノイエも思わず口元を緩めた。喜怒哀楽をはっきりと表現する彼女に惹かれた。今まで接した中で、あんな風に素直に自分の感情を示す人間はいなかった。好きだと思う。偽りばかりの人生の中で、その思いに限って偽りはないけれど、利用したことも事実だ。
 彼女の幸せを願う資格は己にないと思い知っているけれど、彼女だけは傷つかずに済んで良かったと思った。
 けれど、
「巻き込むことは承知でした。チャトラが僕と陛下の間に飛び込んでくることも……僕は判っていたんです」
「――そうだろうね」
 同じように驚くこともなく淡々と皇帝が頷いた。
「あれの考えは単純明快に過ぎる」
「彼女ごと、僕はあなたを殺そうと思っていました」
「――毒を塗っていたのだろう?」
 刃に。
 言外に囁かれてやはりそこまで読まれていたのかと、ノイエは苦笑した。
「僕は、非力ですから。訓練された騎士のように一刀両断の強力も、突き込む機敏さも持ち合わせてはいません」
「致死の毒を塗っていた。仮に刺し通すことができなかったとしても、十分に掠ることはできたはずだ。掠れば私は死んだろうに。――なのに君はそうしなかった。理由は何だね?」
「どうしてでしょうね」
 刺してはいけないと。
 この人は殺してはいけない。
 手段のための目的に過ぎなかった。皇帝に一矢報いることができれば、それで良いのだと思っていた。理由はない。両親を亡くし、妹を亡くし、家屋敷は借金の形に没収されて何もかも失った。引き取った養父母は、凋落した前皇帝の一派で、日ごと耳元、夜ごと枕元で皇帝を弑せ弑せと唱えられてノイエは生きてきた。彼らにとって必要だったのはノイエではなくて、ノイエがたった一つ持っていた、聞こえが良いだけの家名だった。
 誰にも必要とされずに生きてきた。
 必要とされていたのは彼自身ではない。思うように動く駒だ。
 けれど自分が特別哀れな人間だともノイエは思わない。見渡せば、同じように必要とされている以外の何かに踊らされて生きている人間のいかに多いことか。
 虚構の世界。
「僕の存在意義はただ一つ、あなたをこの手にかけるか、かけられずともかけようとしたと言う体裁を整えることだったんです。あなたを殺せと言い続けた養い親は既に死にました。凄まじいものですね。最後まで、僕が三補佐に成り上がった時でさえ、相変わらずあなたに対してうらみつらみを吐いていた。あの執念だけは立派なものだと思います。彼らが往って、僕は自由になったはずだった。けれど、養い親が死んで傀儡の糸が切られたとしても、もう動けないんです。いつの間にか別の糸が絡みついて離れない。初めて僕が皇宮へ足を踏み入れた時から、あなたへ刃を振り上げることは半ば決まっていたことでした」
 愛憎も何もない。どちらかと言えば尊敬している部類だと思う。
 だから機械的に腕を振り上げた。
「もうどうでも良かったんです。本当に、破れかぶれだったんです。アルタナの旧勢力から早くしろと催促は来るし……。あちらこちらで小競り合いを起こせたのが関の山で、皇都にまで及ぶ混乱は僕の力では無理でした。だから、成功するとも思えなかったし、言い逃れることは一層考えもしませんでした。だけど……、だけどあの時あなたはチャトラを庇った」
 覚えていますか。
 尋ねて皇帝が一瞬目を眇めたのが判った。訝しんだのかもしれない。無意識だったのだろうかと思う。
「チャトラが止めに来ることも、彼女が身を挺することも読めていたけれど、あなたが彼女を引き寄せて庇うことだけは予想外でした」
 無理だと。
 皇帝のその動きを目に入れた瞬間、頭で考えるより先に体が諦めたのだ。
「躊躇ってしまったら駄目なんです。ほんの一呼吸分でも躊躇ったら、もう、振り下ろす勢いは出ないんですよ」
 結局その一呼吸の間にディクスが我を取り戻し、守るように伸ばした剣の切っ先で牽制と共に阻まれた。仕方がないと思う。
 最初から、成功できるとは思っていなかった。
「覚悟はできています」
 しばらく沈黙が続いた後に、ノイエは呟いた。
 そうして、もしかするとただ自分は、死に場所が欲しかっただけなのかもしれないと思った。
 むしろ死んでしまえば、以降何も考えることなく眠れるのだと思うと、妙にわくわくとした。これで幕。上手から下手へ遠ざかって消えてなくなれる。三補佐と言う地位も、家柄への責任も、仕事仲間への気遣いも何もかもがなくなって、
「――覚悟」
 じっと壁の水滴の流れを追い、口を噤んでいた皇帝がノイエの言葉を聞いて不思議そうに首を捻る。いいや、それは演技だ。気付いてノイエの熾火の熱が冷める。
 皇帝の口の端が、うっすらとした笑みに象られていた。
 しかも、嘲笑の。
「覚悟ね」
 透明質な長い睫毛に縁どられた男の瞳が細められ、射抜くように真正面からノイエを凝視した。
「エスタッド皇国補佐官ノイエ」
「はい」
「楽に死ねると思うかね?」
 皇帝からつい先ほど同じ言葉を聞いた。
「――君は」
 唯一の明かりとりの松明に映えて、ぎらぎらと乱反射している瞳は、獲物を捕らえ、いたぶり、弄り殺す獣の熱だ。
「君は明後日より旧アルカナ領へ赴き、頭の固い老人どもを相手に外交手腕を揮ってもらうことになる。無論君の権限、所領地、爵位は今までと何一つ変わることはない。三補佐の席もそのまま。執務書類の類は任地へ回されることになろうから、今までどおりに皇宮にいた時と同じ基準で判断してくれて構わない」
「陛下」
「任期は問わぬ。掛かる諸経費も全額国が負担しよう。旧勢力の反乱不穏分子が沈静化するまでとすると、長い仕事になるだろうが、君は若い。経験も豊富だ。必ず終着させてくれると期待しているよ」
「……陛下」
「後顧の憂いも必要ない。セヴィニア、アウグスタ両補佐官に君の皇宮での後始末を付けるよう命じた。ああ、君の『古い付き合い』のある人間から某かの接触があるかもしれないが、そこは君の裁量できっと何とかなるだろう」
「……陛下!」
「楽に死ねると思うな」
 三度。
 嘲笑と共に吐き出された言葉は、ひどく冷えていて、だから余計にノイエの心底に他のどんな慰めより早く染み渡った。
「エスタッド皇国最高官職の補佐官の一人が、現皇帝に叛意を抱き、しかし無念にもその志は遂げられることがなかった。失意のうちに君は厳正なる立法の許に罰を下され、本意であった充足の約束された死を迎える――立派だ。実に筋書き通り、立派な結末ではないかね」
「……」
「恵まれない人間が、よく言う台詞だ。――聞いたことはないかね?『生まれてくる場所も時代も選べなかったのだから、せめて死に場所は自分の思うように』、だとか。――大層な悲劇論で何よりだ。だが私は君の終幕を認めない」
「……」
「判りやすいようにもっと端的に言っても良いよ。君は死ぬまで皇国のために尽くす。文字通り死ぬまで、だ。中途退場は許されない。髪一筋の先までも、君は皇国のものなのだ。公僕とはそうしたものだ。そうしていつか――、使い捨てられ、襤褸切れのようになって惨めに死ね」
 自分より先に満足のうちに死ぬことは許されないと、言外どころか面と向かって皇帝はそう言った。労わりはない。憐みでもない。そこにあるのはただ剝きだしの憎悪と嫉妬だった。自分より先に楽になることは許さない。
 許せない。
 ……ああ。
 じっと聞いていたノイエの瞼にじんわりと滲むものがある。この冷え切った牢獄の中でその一点が妙に熱かった。一体何だろう湯でも垂れてきたろうかと、指で触ったところに滴。
 涙なのだと気が付いた。
 悔し涙だった。
「……あなたはひどい人だ」
 ようやく死ねると思ったのに。
 微笑みながら涙が垂れた。もうとっくに枯れたものだと思っていた滴は、飲み込むと塩辛い。
 せせら笑う皇帝は、それ以上何も言わなかった。


「今なら、まだやれるが」
 鉄格子に近付き、赤さびた鍵穴へ手にした鍵束の中から皇帝がそのうちの一本を差し込む。軋んだ音を立て半開きになった扉に手をかけ、何を言われているのか判らなくてノイエはまじろいだ。
「本懐を」
 遂げたくはないかね?
「死にたいのですか」
「さぁ。どうだろう」
 同じような疑問が口を衝いて出て、同じように返される。けれどノイエには目の前の主人が、誰よりも深く安楽の約束された死を願っているのだと言うことを知っている。
 きっと自分よりも深い。
 獲物になりそうな身のしつらえすべては改められ、ノイエは言うところの「丸腰」ではあったけれど、護衛のディクスすら遠ざけている今、力だけでも皇帝に危害を加えることは可能なはずだった。
「……やりません」
 そうして、皇帝に対して一体自分は何と言う口のきき方をしているのだろうと思った。仮令冗談だとしても、言って良いことと悪いことがある。自分の口にしていることは、常識的に見てもはっきりと異常の部類だ。
「陛下を弑しても何も変わりません」
「ほう」
「それに、陛下に何かあったらあの子が悲しむでしょう」
 ごめんね、とノイエはチャトラに謝った。
 もとより丸い瞳を、怖れと驚きにますます丸くして、だのに自分の顔から視線を外さなかった彼女を忘れられないと思う。
 結局あの瞳を安らぎで埋めることができなかった。実際、乾物屋の中二階を訪れた時、もしかしたらこのまま平穏に過ごせるのではないかと夢を見た。彼女が落ち着くのを気長に待って、それから羽毛でくるむようにだいじに、だいじにしてやったらいつか二人で過ごせるようになるのではないかと思った。できもしないくせに。別のノイエが囁く。最初から彼女を利用しようとしたくせに。
(怖がらせたいわけじゃなかったんだよ)
 自分では無理だった、それが心残りだ。
「直接会って謝りたいのですが、無理なのでしょうね」
「会えると思うかね」
「思いません」
 応えて苦笑する。手放したはずのおもちゃが手許に戻ってきた。皇帝はきっと最大限、誰にも渡さない。
「――ノイエ補佐官」
 独房の通路をまっすぐ歩き、衛兵の詰所への扉へ手をかけたノイエの背へ、今はディスクを従えた皇帝から声が飛ぶ。
「君の働きに皇国は大いに期待しているよ」
 ああ。
 本当にひどい人間だと思った。穏やかに相手を縊り殺す。そうしていかにも皇帝らしいとも思った。望むところだ。棄てるものも守るものも、今は何もない。自然と笑みがこぼれる。
「……チャトラに『どうぞよろしく』、と」
 いつ戻れるかは判らない。だがせいぜい長生きするがいい。年功序列、体の強弱から言って自分は相当に有利だ。
 少しでも隙があるならば、今度こそ自分が奪い去っていく。
 肩越しに優雅に微笑んで、ノイエはそっと詰所の扉を開いた。



(20110926)
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最終更新:2011年09月26日 23:03