<<愛し>>
「最近アンタ、オレのこと見ないよね」
夕食を終えたあとの、なんの気なしの会話を装って、そんな風に口が動いた。
チャトラがずっと聞きたかったけれど、言い出せなかった一言だった。
言って、テーブルを挟んで斜め向かいに座る相手をじっと見据えた。見つめた、だなんてやさしい見かたはしてやるつもりはない。チャトラの心境的には、睨んだぐらいの意気込みはあったはずだけれど、目の前の相手と違ってあいにく凄みがない。せいぜい見据えた、がいいところだろう。
――そうかな。
相変わらず涼しい顔をして、心の動きを顔に出さないエスタッド皇帝は、頬杖を突いて窓の外へ目をやった。曖昧にうすく頬をくずしたようにも見えたけれど、微笑んだわけではなくて誤魔化しているだけだということをチャトラは知っている。
ああまただ、と思う。
今アンタは目を逸らしたよ。
そうして、いったいどうしたことなのだろうと思った。もしかすると、知らないうちに皇帝の機嫌を損ねるようなことをしているのだろうかと思った。
チャトラは下町生まれの下町育ちだ。お世辞にも「育ちが良い」とは言えない暮らしをしてきたし、自分でもその自覚はある。
であったから、皇宮のいわゆる建前だの、行儀だの、礼儀だのと言った格式ばったことはほとんど知らなかったし、皇宮に来て一年と少し経つけれど、身に付いたとも思っていない。
覚える気もあまりなかった。
それで良いのだと思っている。
もちろん、侍従長であるとか三補佐や評議会の重鎮といった「生まれ育ちの良い」人間が、自分のことを快く思っていないことも承知している。気付けないほど鈍くないし、気付いてそのまま放っておくほどチャトラは無神経でもない。
これでも皇宮に来たての頃は、郷に入ればなんとやらで、形式を一通り覚えようとしたのだ。たとえこれが皇宮で一番質素と言われようと、下町育ちにしては十分すぎるほどに贅沢を尽くした仕事着に着替え、建物の上から下まで目眩がするほどの模様や摸細工に囲まれて過ごし、その上「宮廷礼儀」とやらを習うことは、チャトラにしてみれば半分以上冗談と言おうか苦痛と言おうか、精神修行に近いものではあったけれど、自分の言動が相手に不快を与えるのならば、それはできる範囲で改めるべきだ。
そう思う。
だのに、習おうとしたとたんに皇帝の機嫌が悪くなった。
咎めたわけではない。あからさまに不快を表したわけでもない。ただ、むっとするとしか表現のしようがないような、不機嫌な雰囲気に陥ったことは確かだ。
「意味が判らん」
その時のチャトラの正直な気持ちである。
詳しく尋ねても応えてくれない。いつもの通りである。不満があるならはっきりと口にしたらいいのにと癇癪も起こしかけた。
その中で、のらりくらりとぼやかす皇帝の口振りから、どうも「宮廷礼儀」を自分が身に付けることを歓迎しているようではないと言うことだけは察した。そのままが面白いのだとそんな風に言っていたようにも思う。
であったから、その後は他の誰が渋い顔をしてもチャトラは極力気にしないできたし、それで良いのだとひとまず結論付けた。
だいじなことは言い方や腰の折りかた、頭の角度ではないと思えたからだ。
これが各国の要人、来賓貴賓の類と接する職務であるなら、やはり自分は態度を改めるべきだ。
けれどチャトラは別段エスタッドの公の場に顔を突っ込むつもりもなかった。皇帝自身もそれを望んではいないだろうと思っている。
と言うより、望まれたところで全く役に立たないと思う。
飛びぬけて知恵が働くわけでもない。多くの兵書を読んでいる訳でもない。実戦経験もない。剣を持たされたところで、及び腰で周りの人間の邪魔をするのがせいぜいだろう。
もちろん、武技の才能がなくとも、皇帝の周りに侍る人間はいる。
書の美しいもの。すばらしく見栄えがするもの。おどけた身振り手振りで皇帝の気晴らしを促す背足らずの道化。笛を吹くもの。弦をつま弾くもの。また、その管楽に合わせて即興で詩をうたえるもの。
そのどれもチャトラにはできない。もとより才能だと思っているので、真似ようとしたこともない。
チャトラが自慢できるものはと言えば、せいぜい掏摸の手先の器用さか、泣いた赤ん坊をあやす経験くらいのもので、この場合皇宮で全く必要とされていなかった。
その、皇宮に於いてまったく取り柄のないチャトラを、遠く離れた町から興味本位で連れてきてぽんと投げ入れたのがエスタッド皇である。
「おもしろそうだったから」
というのがその理由だったらしいが、聞いて呆気にとられた自分の気持ちも、せめて誰でもいいので、一人ぐらいには理解してほしいと思うチャトラだ。
タダ飯を食らうことには納得がいかなかった。自分は皇帝に飼われた犬や猫ではない。
「拾った」
そう言う風に皇帝は言うことが多いけれど、掏摸といえどもきちんと一人で生き延びていたわけで、捨てられていない。別に拾ってほしいと頼んだわけでもない。どちらかと言うと、
「無理やり連れてこられた」
が正解だと思う。当の皇帝はそう思っていないようだけれども。
そうして、何か仕事をくれと言ったチャトラに、皇帝の身の回りの世話と言う、聞いて何とはなしに意味合いが通じるものの、その実何をやっているのかと聞かれると説明に困る仕事を言い渡された。
つまり雑用だ。
皇帝は居住区画へ戻ってくると、自分ではほとんど何もしない。着替えの手伝いから浴場での背流し、居室の掃除、身の回りのものの洗濯、紅茶を淹れたり部屋の火を熾したり、一つ一つはたいした量ではなくとも雑用は意外と多い。それでも、寒さに凍える夜を迎えたり、食べるものにも困ってあたりに生えている草を煮て食べるような、そんな暮らしをしたことのあるチャトラにとっては、生ぬるい湯につかっているような生活だ。そのうちふやけるかもしれないと思う。
そんな、ふやけた雰囲気にひたっている間に、自分は皇帝が何か気分を害するようなことをしたのだろうか。
よく判らないな、と思った。なにしろころころと男の気分は変わったので。
けれど思えば、もうしばらくチャトラは皇帝と目を合わせていない。
自分が男を眺める時は、皇帝はどこか違う方向を眺めている。きっと意図的なものだ。
言いたいことがあるならきちんと口に出して言えよ。
皇宮に来てからもう何度目か判らない愚痴を、心の中で呟いて、なぁ、とチャトラは男に呼びかける。
(オレ、アンタになにかした?)
風に髪をなぶらせ、外を眺めている皇帝は何も言わない。
「……つまりどういうことなんだ?」
何の気なしに訪れた衛兵詰め所に知った顔を見つけて、腰を落ち着けることにしたチャトラだ。たまには愚痴りたい気分になることだってある。相手はラズと言う名のまだ若い騎士。一年前にチャトラが冬山で凍りかけた時にたまたま知り合った。年長者の多い皇宮の中では、割と目立つ若さである。
立ち位置で言うなら、皇帝直属の護衛であるディクスの、直下の部下のさらに下に就く。皇宮勤めであるのだから、一定以上の家柄ではあるのだろうが、爵位はそう高くはない。とは言え、「あの」ミルキィユの部隊に加わっていたこともあるのだから、才覚は決して悪くはなかった。鬼将軍とも呼ばれる彼女の行軍についてゆけずに脱落した、親の七光り、勲章、肩書きだけの人間がどれほどいたかという話である。
皇宮勤めにありがちな、裏の裏を読ませないような物言いもなく、真っ直ぐな気性がチャトラと意気投合した理由だろうか。そのあたりはよく判らない。人間同士が「気が合う」のに、理由は必要ないのかもしれない。直感的なものだ。
「あのひと、雰囲気変わったろ」
「皇帝陛下?」
「そう」
「ああ……どうなのかな、俺はあまりお側に寄ることもないから」
困ったように頬を掻いて、飲むか、と温めた麦酒を差し出された。冷える夜にはありがたい。礼を言ってチャトラは受け取った。
衛兵詰所というものが皇宮には東西南北四方の他にもいくつかあって、交代時間であるとか夜勤までまだしばらくの間があるものが、たむろっている。丁度ラズが準夜勤を終えたところに出くわしたのだった。他にも数人、談笑するものもあれば、黙って机に向かい見張りの報告書を仕上げるもの、軽食を急いで詰め込むもの、寝台のある上の階への梯子を上るものもいた。
万が一、皇都決戦ともなれば、彼らも職業軍人である以上武器を取って戦うのではあるけれど、通常の勤務は、皇都や皇宮の見回りであるとか見張り塔へ登っての監視。つまりは治安維持が主な役割で、その点前線に立ち駐屯地で八割野宿の、ダインたち騎士団とはまた少し空気が違う。
殺気だっていない分、とっつきやすいと言えるのかもしれない。
ある程度の緊張感はもちろん大事ではあろうけれど、治安を守る衛兵らが必要以上にぴりぴりと緊張していては、守られる側の都民であるとか皇宮に生活する人間が逆に安心できないというものである。
皇宮のあちこちへちょこちょこ顔を出すチャトラは、衛兵の中ではずいぶん顔なじみで、彼女が椅子に腰かけラズと壁にもたれて座っていても、対して誰も目にとめない。こうした雑多な雰囲気と、自分を特別視しない衛兵たちであるとか下働きの女たちがチャトラは好きだった。
好きと言うよりは、肩の力が抜けるというのかもしれない。
「たまに、回廊の辺りを散策されているのを拝見することはあるけど、そうそう近くに寄れないな」
「そっか」
麦酒をすすって膝を抱えるチャトラに、重ねてラズが尋ねる。
「どんなふうに変わったと思うんだ」
「……なんだろうな。見た目って言うより、なんか雰囲気が」
「雰囲気な」
「前からぼんやりしてて何考えてるのかよく判んねェ時があったけど、そのぼんやりしている時間が長いって言うか。なんか、オレのこと見てるけど見てないって言うか」
「見ていない?」
公務全部ブン投げて、お前と一緒に二日間一緒にいたのに?
不思議そうに言われて逆にチャトラが目を剝いた。どういう意味だと問う。
「チャトラがこっち戻ってきた日」
「祭りのあった日だよな」
「そう。生誕祭な。あの日、陛下、続きの式典だとか祝宴だとか、次の日の公務とか全部放棄して、部屋にお前と閉じこもってたって聞いたぞ」
ああ、やっぱりブン投げていたのか。
あの時ちらとだけ思った考えが当たっていたことが判ってチャトラは小さく溜息を吐いた。式典も宴も放り投げられて、担当者の涙目の姿が目に浮かぶ。くたびれていた自分は、何も考えず二日間眠ってしまったけれど、やっぱり外では大変なことになっていたらしい。
というか、目覚めてからしばらくも、もしかすると本気で二日間、扉の外も含めて廊下に人の気配がしなかった。来るなとかなりきつく言いつけたのかもしれない。
「よっぽど水入らずで過ごされたいのだなと、若くてヒマな俺は、若干あらぬ邪推をしたわけで」
一瞬好奇の入り混じった目で眺められて、は、とチャトラの喉から息が漏れた。
「ちょっとまて。邪推って何だよ?」
「そりゃお前、男と女が同じ部屋で二人きり、『きのうはお楽しみのようでしたね』ってヤツだろ」
「いや、ない」
ニヤニヤと意味深に笑われて否定した。
ラズは、皇帝が必要以上にチャトラを気に入っていることを知っていたし、チャトラ自身が皇帝を悪く思っていないことも知っている。実は皇宮の中でも、チャトラが皇帝の居室に寝起きしていることを知っている人間は、ごく一部に限られた。これは警護のためであるとか、チャトラの身の回りに危険が及ばないようにすると言った判断ではなくて、単にセヴィニア補佐官による、
「聞こえが悪い」
の一言で緘口されていたにすぎないのだけれど。
「オレ、ねてただけだし」
「寝てたって、」
「本気で、普通に、睡眠の方の。二日間」
「それだけ?」
「それだけ」
うん、と頷くと本当の本当に?と尚もラズが尋ねてくる。
「ご期待にそえなくて残念だけど、本当の本当になんもヤらかしてねェよ」
ああそうだ、と話しながらチャトラは思う。あの時から皇帝は少しおかしかった。彼女に触れるのを恐れるように手前で指をおろし、視線を逸らした。
そうして二日間、眠っている自分を見ていたのだと言った。
消えてしまうかもしれないと。
消えてしまうと言うのは一体どう言う意味なんだろうと思う。目の前から姿を消すと言った意味の?それとも、文字通り掻き消えるとでも思っているのだろうか。
幽霊や幻でもあるまいし、そう思ってからもしかすると皇帝はまさに「そう言う」目で自分を見ているのではないかと言うことにチャトラは気が付いた。
……生きてるって思ってないんだ。
「そういえば、お前、こんなところでアブラ売ってて平気なの」
一息に麦酒を飲み干したラズが、膝を抱えたまま、ぼんやりと床を眺めているチャトラをちらと眺めて、そう言う。
「迷惑だった?」
「いや。俺はもう宿舎に帰って寝るだけだし、明日は半日非番だから、いくら夜更かししたってかまわないけどさ。この時間だと皇帝陛下が部屋にお戻りになられているんじゃあないのか」
部屋にいなくて平気なのかと、心配してくれたらしい。チャトラはあいまいに笑った。
「……しばらく、いない」
「え?」
「皇帝。一週間前の夜に発作起こして倒れて、医務室に運ばれたまま帰ってこない」
笑ったはずの頬が、明らかにこわばる感触が自分でもよく判った。
隣に座ったラズが、体を起こして覗き込んでくるのが判る。ニヤついた顔を引き締めてチャトラ、と彼女の名を呼んだ。
「よろしく、ないのか?」
「……わかんない。でも、ちょっと調子悪いだけだったら、自分の部屋でグダグダしてるから、運ばれたってことはあんまりよくないんだと思う」
言いながら指先が冷えてくるのが判った。
「そんなに顔色悪いようなカンジじゃなかったんだよ。メシはほとんど食べてなかったけど、別に珍しいことじゃないし、だけど部屋に戻る途中でいきなり倒れて」
皇帝よりも数歩先を進んでいたチャトラは、少し遅れて気が付いた。振り向いても、一瞬何が起こったのか判らなかった。皇帝の側へ膝を着き、呼びかけ様子を窺う護衛の騎士の姿を眺めて、ああ男は倒れたのだなと理解した。
床の上にうずくまる男を目にして、ぞっとする背筋の感覚と共に慌てて駆け寄り、息を呑む。
小刻みに震わせた体。喉を詰まらせたような吃音に似ている呼吸。上着を握った手の甲にまでびっしりと脂汗が浮いていて、触れるどころか声をかけることすら躊躇われた。
おろおろとし、騎士と同じように皇帝の傍らに膝を着きかけ、ここでは彼らの邪魔になるのではないかと立ち上り、やがて駆けつけた医師団が手早く処置を施してゆくのを壁際に下がって眺めながら、一言も声を発することなくただ黙ってチャトラは眺めていた。
皇帝の体は抱え上げられ、こわれものを取り扱うようにひどく丁寧に数人がかりで運ばれ、それも黙ってチャトラは見送った。
まだ皇宮に残って仕事をしていたらしいアウグスタ三補佐官が急ぎ足にやって来て、護衛していた騎士と何人かの従者、それとチャトラに向かって、今のことは公表するまで他言無用、と言い置いて、きた時と同じように去って行った。
黙りこくって見送った。
故意に黙っていたと言うよりは、言葉が出なかったと言う方が正しかったのだけれど、
「ああ……『たごんむよう』って、誰にも言っちゃいけないんだっけ。まずいな、オレ今アンタに言っちゃった」
「チャトラ」
「殴られるかな。アウグスタのオッサンだったら見逃してくれそうだけど、ラズ誰にも言わないでくれると助かるな」
「チャトラ」
この莫迦。怒ったようにラズが呟いて、それから乱暴にチャトラの両肩をごしごしと両手で擦る。
「お前、なんで最初にそっちを言わないんだ」
「……いやだって『たごんむよう』ってそういうことだろ」
「あのなぁ。一人で部屋にいるのが怖いから、お前ここに来たんだろ。陛下の雰囲気が変わったとかどうのじゃあなくて、不安でどうしていいのか判らないって、なんで言わない」
「だってよ」
もう一度無理に笑おうとした頬は、上手く上がってくれなかった。俯いた鼻の奥がつんと痛くなる。ごしごしと擦られた肩が、そこだけ温かかった。
「オレ、すげぇ心配だったけど、どうしていいか判らなくて」
「ああ」
「具合悪いのは知ってたけど、一緒にいるときでそこまでひどい発作起こしたの見たことなくて」
「ああ」
「大丈夫なのかって聞きたかったけど、聞いてもし良くないって言われたらって思ったら、どうしても聞けなくて」
「ああ」
「姉ちゃんみたいに、……姉ちゃんみたいに、動かなくて冷たくなっちゃったらどうし、」
さらに俯く。それ以上は言葉が出なかった。声を出したら、みっともない泣き声になってしまう。
それは嫌だった。
空を眺める。
チャトラの仕事である、「皇帝の身の回りの世話」の世話する当の本人がいなくても、昼間は探せばいくらでも仕事はあった。手伝いに奔走し、くたくたに疲れてそれでも目が冴えて眠れない。
広い寝台で何度も寝返りを打って、どうしても眠れないのであきらめた。
起き上がり部屋を出る。
扉の外に常駐する護衛も、今はその守る主がいないので、空席だ。皇帝が不在なだけで、居住区画はどうにも空ろな感じがする。
部屋を出て皇宮内の落ち着ける場所を探してうろついた。
裏庭の檜に上ったけれど落ち着かない。居住区から後宮へつながる、通路の大きな壺の後ろもいけなかった。厨房横の、木箱の間に座り込んでも駄目。馬房の藁の上も、洗濯場の衣類の山の中も、植物園の温室も尻座りが悪い。どこも、皇宮で見つけたチャトラの気にいった場所だったはずなのに、すうすうと空っ風が通っているような気がするのだ。
中央の見張り塔に上ってみたかったけれど、あいにくあの場所は、皇帝の許可がなければ塔へ通じる扉は開かない。
どこへ行っても落ち着かないのであれば、もうどこでもよいような気がして、半分ふてくされた気分で練兵場へ転がった。練兵場は砂地だ。特に何を敷いた訳でもなく寝転がったのだから、細かな砂粒の感触と共にごつ、と頭が地面にぶつかった。
砂は夜気にすっかり凍っている。
見上げれば満天の星で、よく目を凝らすと冬の空気に薄くぼんやりとした赤や白や青の星が、ちらちらとまたたいている。
チャトラの呼気が真っ白になって空へ上った。
つられて仰け反った瞼に、遠くの皇宮の明かりがしみる。夜は必要以上にあちらこちらで松明が焚かれた。一体どのくらいの油を使っているものか、それこそ燈火の芯を細く紙縒って節約するような暮らしをしていたチャトラにとって、火種ひとつだけでも十分に贅沢である。
大の字に転がる練兵場に訪れるものは誰もいなくて、時折巡回の衛兵の影がちらちらと松明に揺れるばかりだ。
とても静かだった。
「オレ、なんかしたのかなー……」
ここは誰も聞かない。誰にも聞こえない。だからそっとぼやいてみる。
星はたくさん見えたけれど、月は見えなかった。もうすぐつごもりであるから、見えても明け方になってしまうのだろうけれど。
そう言えば、よく空を見たなとチャトラは思った。
皇都から離れていた間の町の暮らしのことである。
皇都から離れて見る空は、どういうわけかやっぱり広くて、しばらくはその広さが嬉しくて日に何度も空を見上げた。
そのうち、広い空にも慣れて、ただぼんやりと過ごしたいときに空を眺めるようになった。
ぼんやりとするうちに、もしかしたら男もこの空を眺めていないかと思うようになった。同じ空を見ていたらいいのにな。
離れていたことに変わりはないけれど。
どうでもいいことを思い出しながら星を眺めていると、寒さで視界がぼやけた。冷えた眼球を守るために涙が滲んだだけ。自己防衛の生理機能。だというのに、チャトラは急いで目を擦った。自分が、泣きぐずっているように思えたので。
男が見たかった。
こんなに胸が痛くなるような気持は知らない。一方通行の片思いでもあるまいし、どうして空を眺めて涙目にならなければいけないのだろうかと悔しく思う。
あらぬ邪推をしたのだとラズが言った。そうだろう。自分だって、好きあっているらしい男女がひとつの部屋から出てこなければ、同じような妄想をする。ニヤニヤしながら「お楽しみのようですね」の一言も言いたくなるだろう。
(アンタ、どうしてオレのこと見ないの)
すっかり冷たくなった腰を上げてぱんぱんと尻を叩き、それから唐突に皇帝に会いに行こうとチャトラは思った。
こんな真夜中で、面会の約束の一つも取り付けていない状況で、会わせてもらえないことは十分判っていたけれど。
皇宮内から行くのは端から諦めた。あちらは、「正式な」許可の取り付けがなければ、何ひとつ自由にならない場所だ。チャトラが頼めるとすれば三補佐官か侍従長のどちらかになるが、夜中である。どちらも休んでいる。朝まで待っても良かったけれど、今見たいと思った。
練兵場から、皇帝が運び込まれていった医務室までは割と近い。窓から少し離れて、枝ぶりの丁度良い木が生えていたような気もする。
登れば、部屋の中が覗けるかもしれない。
きっともう眠っているだろうけれど、それでもいいと思った。
近付いた窓は上から見下ろすよりも下から見上げる方が高い。手ごろな木があったはずだとチャトラは辺りを見回した。
植えられていた木は思っていたよりも窓から遠かった。もっと近くに植えられていたような気がしたけれど、中から眺めた光景とずいぶんこれも違う。もっとも、医務室に連れ込まれたのは、破落戸(ごろつき)の棍棒で頭を割られかけた一度きりで、記憶と違うのも仕様がないことなのかもしれない。
昼寝をするのにちょうどいい高さの木は、今は冬枯れによって葉を全て落としていて、ごつごつとした木肌の感触だけが生々しい。とっかかりにつま先を入れながら器用に上って、どきどきとしながらチャトラは部屋の中を覗き込もうとした。
「何をしている」
だのに、覗き込みかけたチャトラの背後から聞こえた声は容赦なく冷徹で、ざっと神経の高ぶりが醒めるとともに、次いでうんざりとした気分が襲ってきた。
どうしてこんなタイミングでコイツがでてくるのだろう。絶妙と言うなら絶妙すぎる。最悪だった。
「射殺されたくなければすぐに降りろ。待たぬぞ」
「……なんでアンタがここにいるんだよ……」
「それは私の方が聞きたいが。何故こんな真夜中にここにいる」
部屋でおとなしく休むことすらできないのか、軽蔑された口調は相変わらずで、しぶしぶチャトラは木からずり落ちた。
補佐官の一人セヴィニアである。チャトラとの相性は絶望的である。言葉の齟齬だとか見解の相違などではなくて、根本的にウマがあわないのだ。
どうしたって目に入るだけでイラつく人種、というものも世の中にはいるのだ。
「娘」
「なんだよ」
「死にたくないなら、次からは無用心に窓から中を覗く行為はやめることだ。衛兵が見咎めたら問答無用で射るぞ」
「……悪かったよ」
反論する気力も今はない。ただ男の顔が見たいと思っただけなのに、見られないどころかこうして最悪な相手と対面して説教を食らっている。言っていることはいちいちごもともだけれど、なんだか悲しくなった。
「……部屋に戻るよ。それでいいんだろ」
「できれば部屋に戻らず、そのまま皇宮を出て行ってくれるとありがたいが」
「容赦なく最低だなアンタ」
「お前に手加減したところで何の恩得もあるまい」
ついてこい、と言外に促され、どこへ向かうか判らないが仕方なくチャトラはセヴィニアの後を追った。逆らえばきっと容赦なく平手の一発も飛んでくる。相手を殴ることにためらいを感じていない人種。
そう言う人間もいるのだ。
「アンタ、こんな時間まで仕事してたのか?」
黙って彼の後ろを付いて行ってもよかったのだけれど、黙っていると落ち込んだ気分がますます落ち込んでいきそうだった。ウマの合わない人間と、話をしたところで頭に来るだけだと言うことはチャトラにも十分判っていたけれど、黙っているよりはマシだと思った。
怒りの方が原動力にもなる。
「……答える義理もないが。緊急事態であるからな。皇帝補佐官とはもともとそうしたものだ」
「アウグスタのオッサンも?」
「アウグスタ公とは、交代で陛下の御部屋に詰めている。一人欠けて……手間も増えた。煩わしい」
「……ノイエさんって、どうなったの」
「聞いていないのか」
ちら、と肩越しに初めてセヴィニアがチャトラを振り返った。うん、と素直に頷くとでは語ることは何もないと返される。
「なんだよそれ」
「陛下が仰られておらぬことを、私の口から告げる訳にもゆくまい」
「聞いても教えてくれねェし。さぁとか忘れたとか」
「……莫迦なことをしたものだ」
吐き棄てるように呟いて、セヴィニアはまた前を向く。その莫迦なことをしたと言う言葉が、自分にではなくノイエに向けてはなったのだと言うことに気が付いて、おやと思った。セヴィニアは存外ノイエを気に入っていたのかもしれない。
いつも穏やかに微笑みながら、どこか寂しそうだったひと。
自分のことを好きだと抱きしめてきたひと。
脅すつもりはなかったのだと言葉と矛盾した刃をかざしながら、すまないと謝ったひと。
「補佐の地位は剥奪されておらぬ。無事に生きている。ただ、都へ戻るのは遠い先になると思うが」
「そっか。……生きてんのか。だったらよかった」
「殺されかけたのだろうに」
詳しい安否を教えてくれる気はないらしい。それでも生きていると聞いただけでどこかほっとした。無事に、と付け足したことがセヴィニアの最大限の親切心かもしれない。
ほっとしたチャトラが気になったのか、不審そうな声音でセヴィニアが尋ねた。
「うん、まぁ、そうなんだけどな」
言われてみればそうかもしれない。
「でも嫌いじゃなかった」
どこかで元気でいてくれるといいと思った。
「陛下に関してもそうだろう。……もしかして、お前は我々の常識から大きく外れた性癖か何かを持しているのか?」
「は?」
「なぜ逃げぬ」
「なんでってどういう、」
言われた意味が判らなくてチャトラは数度まじろいだ。
何しろセヴィニアの言葉は、皇宮特有の「まわりくどい」言い方が多くて、何を指し示して言われているのか、判らないことがある。
「……ダイン卿がお前を引き取った時に事情はあらかた聞いた」
本気で首を捻ったチャトラを見て、またぽつりと肩越しにセヴィニアは言葉を漏らす。
「服毒し、死にかけたお前が皇都を去るのは当然の流れだと思えた。止める気もなかったが、再び戻ってくる神経が理解できん」
「……ああ、まぁ、たしかに……そうだよな……」
苦しいことも痛いこともチャトラは嫌いだ。縛られ、刺されて、明らかにおかしかった人間をただじっと見ていることしかできなかった、自分のみじめさは忘れない。
あの時と同じように皇帝が変貌していってしまったらやはり怖いし、本音を言えば逃げたい。
「そんなに陛下の気を惹きたいのなら」
「え?」
「そんなに陛下の気を惹きたいのならば、紅の一つでも挿せ。しなを作り、後宮に居を構え、媚を売ると良い」
「アンタ、オレが口紅塗ってヒラヒラした服着て色っぽいポーズとって、それ似合うと本気で思ってんの」
「おぞましいな」
「じゃあ言うなよクソ」
からかわれたわけではなく割と本気でぞっとしたらしい。頭を振ったセヴィニアにむっとして、チャトラは舌打ちをする。
舌打ちしたまま、不意に足を止めたセヴィニアの背に、鼻からぶつかりそうになって慌ててつんのめった。
「……っきなり止まんなよ!」
「喋るな。動くな。いっさいの音を立てるな。できることなら呼吸もするな」
腹を立てかけたチャトラへ一切の反論を許さない確固とした口調で、セヴィニアが指を突き立てる。
先を制されて一瞬ひるんだチャトラをそのまま目でさらに押さえて、そうして空気を揺らすことすら怖れるように、セヴィニアは細く扉を開けた。
「なん」
なんなんだよ。
言いかけたチャトラはひょいと開かれた扉の隙間から中を覗き込み、そのまま声を失う。
細く開けられた扉の隙間から見えた、部屋の内部。
明り取りのために炎を絞られて設えられた燭台の僅かな明かりに照らされて、エスタッド皇の姿が垣間見えた。
やわらかな羽枕に埋もれて目を閉じ、死んだように動かない。けれど息を殺してじっと見ているチャトラは、男の胸板が静かに上下していることを見止めた。
(アンタ、いた)
細く開けられた扉は、開けたセヴィニアの手によって同じように手早く閉じられて、それ以上中を伺うことはできなかったけれど、
「二日前に容体が落ち着かれた」
「……うん」
「まだしばらく部屋にお戻りにはなられないとは思うが、このまま安定されるだろうと言うのが医師団の意見だ」
「……うん」
「十分だろう。見たのならとっとと部屋へ戻れ。余計な場所へ顔を出すな」
「……うん。ありがと」
熱くなった瞼をチャトラはこする。
仕事を増やすな。
決して親切心から皇帝を見せたわけではないだろう。釘を刺して去っていくセヴィニア相手に、出来れば何か気の利いた憎まれ口の一つでも叩ければ上等だったのだけれど、それ以上言葉は出なかった。
言われた通り真っ直ぐ部屋へ戻る。
戻った皇帝の居室に、いつも男が付けている練り香水のにおいがした。嗅いでチャトラはなんだか胸がいっぱいになった。
(20111006)
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最終更新:2011年10月06日 11:15