アットウィキロゴ
 半月ほどたったある夜、チャトラはおかしな夢を見た。
 最初は確か、あたたかな暖炉の前に座って寝そべりながら菓子をぱくついていると言う、割と平凡ながら幸せな夢を見ていたように思う。
 手持無沙汰に開いた書き取りの教練本を斜め読みしたりだとか、ぱちぱちと暖炉の火種がたまに弾ける音を聞きながらうとうとするだとか、夢の中でも寝かけていた。
 ありきたりと言えばありきたりだけれど、自分はそんなに壮大な幸福を追い求めている訳でもないし、ただ寝食の心配をしなくていい生活であると言うだけで十分だと思っている。
 つまり、自分にとって最大級に幸せな夢だ。
 それが、急に暖炉の火が掻き消えて、ついでに燭台の火もふっと薄暗くなった。
 どうしたことかと顔を上げると、あたたかかったはずの室内がいきなり底冷えするような冷気に覆われている。窓でも空いたのかと見やっても、どんよりとした空がガラス越しに見えるだけできちんと鍵はかかっているようだった。
 うわあ。
 誰もいないはずなのに自分の耳の後ろに氷があてがわれた気がして、情けない声をあげてチャトラは夢から醒める。
「おや」
 首筋に手をやり、いったいなんだと寝台の上で寝返りを打ったチャトラの目の前で、皇帝が手枕に自分を眺めていた。
「起こすつもりはなかったのだけれど――起きてしまった」
「……アンタ、」
 寝ぼけ眼が瞬間どこかへ吹っ飛んで、チャトラは寝台の上へ身を起こす。
「アンタ……、アンタ、なんでここにいるんだよ」
「何故?」
「だってアンタ」
「ここは私の寝室のはずだが――私の寝室に私が寝ていて何かおかしいかね?」
「いやおかしくないけど」
 おかしくはないけれど、自分が寝着くころに部屋には誰もいなかった。ということは、寝入ってから男は部屋へ戻ってきたことになる。
「アンタ、ここにいて平気なのかよ」
「平気とは」
「いやよく判らねェけど、体の具合とか、もう大丈夫なの」
「寝飽きた」
「は、」
 呆れた声が出た。この調子では、おそらく満足に護衛もつけずに部屋に戻ってきたに違いない。
 起き上がったついでに勢いで皇帝の体へ手を伸ばした。
「……おい」
 触ったチャトラがぞくぞくとするほど冷たい。
「あーもう」
 舌打つ。
 ろくに上掛けも羽織っていない男の体へ、チャトラは急いで羽毛布団や薄掛けや毛布、寝台の上にあっただけの掛物と、ついでに椅子の背にかけていた上着も含めてをありったけかぶせて、ぱんぱんと上から叩いた。
「アンタさ、調子悪いのに冷やしたりしちゃだめだよ」
「重いのだが」
「我慢しろ」
「そうか、寒いのか」
「寒いって感覚マヒしてる時点でもう相当ヤバいだろ!」
「――寒い」
 もともと男は血色がよい方ではないけれど、青白い頬が今は唇まで真っ白で、それが不思議そうに薄い茶の瞳でチャトラを見上げる。暖炉の炎に照らされているのだから本当ならば赤く見えるはずなのに、不吉なほど色味がない。
 イライラしながら仕方なくチャトラは掛け膨れた男の隣に滑り込んだ。
「くっそ、ハラ立つぐらい冷てェ」
 チャトラと男の身長は、頭ふたつ半ほど違う。
 大きな体であったら、男を抱えてあたためることもできるだろうけれど、痩せっぽちの自分では全身蜘蛛のように広げて、皇帝にしがみつくのがせいぜいだった。
 傍から見たら滑稽だろうが、割と自分は真剣だ。
「猫」
「なんだよ」
「お前が冷えるだろうに」
「いいんだよオレは。寒さには慣れてる」
 氷のように冷え切った手は、擦っても両手で揉んでもあたたまりそうにない。最後に見た夢の中の氷はこれかと思いながら、苛立って脇の下にはさんだ。
 まだ小さかった時分、よくこうして姉がチャトラをあたためてくれていたことを思い出す。
 娼婦の一晩の稼ぎだ。暖炉の薪どころか子供を抱えて二人、満足に食べることもぎりぎりの暮らしだった。夏場はともかく、冷気というよりは凍気といいたいほどの真冬の空気がぼろ家の隙間から容赦なく吹き込んで、防寒具もない姉とチャトラはたった一枚の毛布を被って身を寄せるしか暖を取る方法がなかった。
 チャトラに食べさせてばかりで、自分はろくに食べていなかったろうに、それでも姉はあたたかかった。
 花を売る姉は、夜のあいだ部屋にいない。
 朝、仕事を終えて部屋へ戻ってくると、一晩寝台の上で丸まって震えていたチャトラをぎゅっと後ろから抱いて、寝入るのが秋から春の間のチャトラと姉の日常だった。
 そこまで思いだして、姉を失ってから一人で寝ることが当たり前になっていたことにチャトラは気付く。
 こうして、誰かの体温を横に感じながら寝転がることが、実に久しぶりだったのだと。
 男に連れられて皇宮にやって来てから、あまりにも自然に自分は人のぬくもりに触れていたのだと。
 しばらく黙ったまま体温を移していると、何を考えていたのかじっと動かずにいた男がぽつりと呟く。
「あたたかい――が」
「……『が』、なんだよ」
「抱き枕がないことが物足りなくて部屋に戻ってきたと言うのに、これでは私が抱かれていまいか」
「んなの知るか!」
 おかしそうな口調にばか、と結構本気で怒鳴り声が出た。
「アンタね。アンタの体はアンタ一人のものじゃないんだから、そこのところよく自覚しろよ」
「三補佐にもよく言われる――」
 チャトラの言葉に、何を思い出したのかふと皮肉な笑みを男が浮かべた。
 それから、尚も言い募ろうとしたチャトラへ手を伸ばし、逆に彼女の体を有無を言わさず胸元に抱き寄せて、
「おい、」
「――」
「おい、」
「――」
「……皇帝?」
 返事がないと思ったら目を閉じている。
 眠ったとは言いたくない唐突な意識の途切れ。男の具合がよくない時に、何度かチャトラも見たことがある。
 医務室からこの部屋へ辿り着くだけで、男にとって精一杯だったのだなと気付いた。
 普段ほとんど見せない寝顔を無防備にさらして、それはそれでまるで知らない人間のようで居心地が悪い。
 それでも、半月ぶりに見る皇帝の顔に、チャトラは遠慮なく間近でまじまじと眺めた。
 医師の許可もそこそこに、自己流の診断を下して勝手に医務室を抜けてきたに違いない。隣室に侍っていた三補佐官のどちらかは恐らく判っていることとは思うけれど、いつものようにあまりにも突拍子なのだ。
「皇帝」
 どうせ男は聞いていないと思う。
 だとしても耳は閉じることはないのだから、いっそそのまま流れこんで、夢の中で自分が男に説教しているといいとチャトラは思った。
「オレが言ってることと、三補佐のオッサンが言ってることは、違うってことアンタ判ってんのかな」
 判っていたのなら、さっきの皮肉な笑みはきっと見せない。
「オレはアンタが皇帝だから自覚しろって言ってるんじゃないんだよ」
 意識のない男の喉元に鼻先を擦りつけて、ばかともう一度呟く。
 意味はずいぶん違っていたけれど。
「オレアンタが好きなんだけど、どうしたら伝わるのかな」
 あいまいな視線のままで、真っ直ぐにチャトラを見ていないことを男自身は気付いているのだろうか。
 強引に抱き寄せたとき、伸ばした腕に一瞬ためらいが走ったことをチャトラは知っている。
 それの原因を知りたいと思った。


 翌朝、慌てて部屋へ駆けつけた医師数人を適当に皇帝があしらう声で、チャトラは目が覚めた。
 困りますと言ういくつかの声と、もう平気だと言い張る皇帝との押し問答になっているらしい。相変わらずだと思う。
 いつも通り強引に押し切った皇帝に、では薬をおいてゆきますと渋々医師は承諾して、
「おいちょっと」
「――うん?」
「なに、これ」
 ずらりと机の上に並びたてて行った薬包紙の数に、起き上がったチャトラは顔をしかめた。おはようと涼しい顔で応える皇帝をちらと窺って、昨晩よりもずっと良い顔色で少し安心する。
「体のために全部飲めと言うことらしい」
「だって、なんでこんなにあるの」
「何故だろうね?」
 薬包紙はみっしりと机の上の面積を全て埋めていて、いくら体が弱いとはいえ、両手の指よりも数の多いのはおかしい。
 少なくともチャトラが知っていた頃は、ここまで服用していなかったはずだ。
「まだ執務に戻らせてくれる気はないらしい。今日も一日安静に、だそうだ。――気鬱になる」
「……って。アンタ、なに飲んでるんだよ……ッ」
 もう一度見直した皇帝が手にした酒瓶に驚いた。朝から酒を呷っている。
「なに考えてんだ!」
 布団を跳ね飛ばし、取り上げた瓶の中身はもう随分と減ってしまっていて、いったいどんなペースで飲んでいたのかと呆れると同時にぞっとした。
 この薬の量も、酒も、皇帝はやはり少しおかしい。
 結構強い力で奪い取るように取り上げたにも関わらず、むっとすることも忘れたように、皇帝はチャトラのつむじあたりを眺めている。おい、その胡乱な瞳にチャトラは呼びかけた。
「うん、」
「なんでこんなことしてるんだよ?」
「――口さびしいと思ってね」
「それで薬の量増やしてちゃまったくイミねェだろうが!」
「そうか」
 チャトラの怒気に対して男は小さく笑う。怒られていると言うのに、その笑い方がどこか安心したように見えた。いいや、と心の中で否定する。
 どこかではなく、明らかにほっとしている風だった。
「アンタの心臓が悪いのは知ってるけどさ」
「うん?」
「心臓を強くするためにこんだけの量が必要なのか?」
「眠るための薬が半分ほど――」
「眠るって、なに」
 いぶかしく思ってチャトラは聞いた。
 男の眠りは確かに浅い。
 もともとそうなのか、チャトラが隣で眠るようになってからなのか、ほんの少しの物音にも目を覚まして聞き耳を立てている。熟睡どころか、ほとんど深い眠りに入っていないようだった。
 そのせいか、日中怠そうにしていることはあったけれど、
「アンタ前にオレのこと見て、夢に、だとか言ってたよな」
「夢――」
「消えちまうかもしれないって言った」
「――」
「寝るのは勿体ないって。寝てる間に消えるからオレのこと見てたって」
「そうだったか」
「今もまだオレのこと消えるとか思ってる?」
「さぁ」
 どうだろう。
 あいまいに視線を外して微笑んだ皇帝を眺めて、ああまだ自分は信用されていないのだなと思った。
 胸の辺りがすうすうと寒い。
「アンタ昨日抱き枕が欲しいとか言ってたろ」
「言ったかな」
「そのあと、すげェ久しぶりにぎゅってしたよね」
「――」
「オレ、嬉しかった」
「――」
「いつもいつもとか、めちゃくちゃベタベタ触られるのは勘弁だけど。でも、たまにならいいなって思った」
 アンタなら、と付け加える。
 付け加えて、それから皇帝が聞いているのかいないのか、ぼんやりと酒瓶を眺めていることに気が付いた。また口に含まれては厄介だ。
 棚に戻そうと思って、少し逡巡する。布団の中に埋め込んでしまおうかとも思ったけれど、男が見ている目の前でやっても隠した意味にはならない。
 しばらく悩んで、それから瓶の栓を取るとひと思いに流し込む。中身は強烈な濃度で、一瞬ガンと首の後ろあたりを殴られたような気がした。
「猫」
 さすがに驚いたのか、皇帝がチャトラを見やる。ああそうだ、と心の中で呟いた。アンタもっときちんとオレを見てよ。
「……まずい」
 べ、と舌を出し顔をしかめた。割と酒には慣れていたはずだけれど、天井を仰いだ視界がふらふらと揺れる。勢いで引っくり返りかけたところに、背を支える腕がある。
「へへ」
 何となく満足して、にやにやとする。そのままチャトラはずるりと床に崩れて、ついでに皇帝の体も巻き添えにした。
 大した抵抗もなく一緒に膝を着く男の髪をひと房ぐいと引いて、顔を近づける。
 そのまま両手で男の頬を挟み、ぐいと自分の顔の方向へ向かせると、酒に濡れた唇で唐突に口付けた。払いのけられるかと思った手は伸びてこなかった。
 たっぷり心の中で十数えてから唇を放す。いつの間にかぎゅっと瞑っていた瞼を開けると、軽く目を見張った男の栗色の目とぶつかった。
「あー……ようやくこっち見たな」
 真っ直ぐに自分を見ている。それだけで嬉しい。泣きたくなるほど胸が痛い。
「オレ、アンタのことなんか怒らせたかなとか結構考えたんだけど」
 猫、と男がチャトラを見つめたまま小さく呼んだ。
「うん」
「私はあまり綺麗な人間ではないよ」
「……なに、それ」
 何かを堪えたように一瞬揺れた男の瞳の奥の色を、チャトラは見逃さない。笑いかけて慌てて頬を引き締めた。男が冗談を言っている訳ではないことに気付いたからだ。
「お前はあまりにも真っ直ぐだ。正直それが息苦しい時がある」
「たまに、邪魔ってこと?」
 であるなら、仕方ないことなのかもしれない。邪魔だと言われたら部屋から出ていた方がいいのかも。だったら別の部屋に移るよと言いかけたチャトラを、男は首を振って制した。
「――邪魔に感じたことはない――だが、私の手はきっとお前をまた傷付ける」
「傷付けるって……なんだよ」
「お前を傷付けて泣かせたいわけではないのに、他の方法が判らないのだよ」
「……なに、それ」
「――泣かせたいわけではないのにね」
 言って頤を掴まれた。
 困ったように僅かに上げられた眉を眺めて、皇帝にも困る時があるのだなと場違いなことを考えていたチャトラは、そのまま深く口付けられて目を白黒とさせる。
 先ほどの仕返しのように角度を変えて口付けられて、自分と皇帝以外誰もいない居室だと言うのに、どうにも落ち着かなくてぞわぞわとした。
「……避けられるぐらいなら、痛い思いをした方がマシかなぁ……」
「うん――?」
 男の気が済むまで何度も啄ばまれて、酔いのせいもあって顔が赤くなる。皇帝が側にいてひどく嬉しいのに、気恥ずかしくて急いでどこかに逃げ出したいような気もする。
「アンタになら何されてもいいよって、オレ言ったような気がしたんだけど」
「忘れた」
 ……この野郎。
 むっとしかけたチャトラの機嫌をなだめるように、指の背で喉元を撫ぜられる。反射的に伸ばした喉元に、ちりりと聞き馴染んだ音がしてチャトラは目を開けた。
「それ……、」
「前の紐は切れてしまったから」
 次はどれが似合うかと考えていた、そう言って男は丁寧に片手でチャトラの喉元に鈴を通した紐を結んだ。
「朱か青か悩んだのだが――やはり、青が良いね」
 引き千切られた前のものよりは、ずっと鮮やかな浅黄。
 結び終えると男はチャトラを少し離して、うん、と満足そうに頷いた。
「この音が聞こえなくて寝ていても退屈だった」
「聞こえるとヒマつぶせるのかよ」
「走り回っているお前が何をしているのかと想像するのは楽しい」
 そう言って皇帝はまたチャトラの体を引き寄せて喉元へ唇を寄せる。……きのうはお楽しみのようでしたね。ラズに言われた言葉が唐突に蘇って、あのよ、とチャトラは尋ねた。
「うん――?」
「アンタオレのこと抱かないの」
 言ってからしまったなと後悔する。直球で聞きすぎただろうか。もう少し、顔を赤らめて、だとか、つっかえつっかえ下を向いた、だとか、その方が可愛気があったろうか。
 男の些細なプライドだとか期待感に添えなくて悪いと思うけれど、何せチャトラにはあまり性に関しての後ろめたさがない。
「抱く?」
「オレがアンタと一緒に寝てるから、みんなそう思ってるって。えーと、寵愛?されてるんだろって」
「寵愛ね――短絡な思考だ」
「頑張りすぎたら最中に女の腹の上で死ねるって前に聞いた気がするけど、別にヤれないってわけでもないんだろ」
「子供を抱く趣味はないのだよ」
「ガキって言いたいのかよ」
「月のものもまだ来ていないような子供は、子供だろう」
「……アンタね。言ってることは全くもってごもっともだけど、さっきからオレにケンカ売ってるわけ?」
 確かにチャトラはまだ月経が訪れていない。これは、年齢と言うよりは彼女の生い立ちに関係することだ。おそらく、成長期にろくに栄養を摂れなかった発育不良が原因なのだろうけれど。
 いよいよかちんと来て、一発ぶん殴ってやろうかと思ったチャトラの頬へ軽く口付けてだからね、と男は言った。
「――早く『女』になると良い」
「……え?」
 そのまま耳を食まれてチャトラはまじろいだ。一瞬男に言われた言葉が理解出来なくて、頭の中が疑問符でいっぱいになる。
「あまり待てない」
 それは、ただの歯の浮く気障な台詞と取っていいのか、それとも現実問題、男自身の体がそう長くは保たないと言った意味で言ったのか、ふとチャトラは尋ねようとしてやめた。
 後者と肯定されるのは怖い。
「……うん」
 だったから素直に頷いて、皇帝を見上げた。
 一年ぶりに会った男はなんだかあちらこちらが壊れていて、くたびれていて、ずいぶん空ろだ。
 この空洞を自分は埋めることができるだろうか。
 先のことを憂うより、今は目の前のこの男の継ぎはぎだらけの部分を、どうにかしたいと思う。
 そこまで考えてふと窓の外からパンの焼ける良い香りが漂ってきた。厨房からは随分離れているのに、風向きだろうか。
 途端にぐうと腹が鳴り、聞こえたらしい男がくつくつと喉奥で笑っている。
 今はまだこれでいい。
 この関係を壊して先へ進むには、少し早くて少し怖い。



(20111013)
-----------------------------------------------
最終更新:2011年10月13日 08:35