とりあえず、どこに行ったらいいのか迷ったので、ボクはカスターズグラッドの我が家……が「あっち側」だったらある場所……を目指した。シュトランゼ古墳から王都までは歩いて半日ちょいの距離だ。昼過ぎに古墳を出発し、途中で休憩を入れながら歩いて、王都に着いたのは次の日の朝だった。
 そういやよく、家探しのチラシに「中央市場まで歩いて15分!」とかいううたい文句があるけど、あれ、かなりの割引きと言うか割増ししているとしか思えない。どうやったってその時間で歩くの物理的に無理だろって言う距離が、サラっと短時間で表示されてる。
 あのチラシのコピーを作った人は、驚異的に足が速いか、部分的に瞬間移動が使えるか、毎回死ぬ気で歩いているかのどれかだと思います。
 もしかしたらボクも、死ぬ気で歩いたらもっと早くカスターズグラッドにつけていたのだろうけど、いちおうここは人間が住んでいる土地ではないのだし。人間階とは違う独特の生きものとかいるかもしれないし。
 ていうかいるんだろうな。
 人間階に人間が住んでいるんだから、魔階っていうのには魔物が住む場所なんだろう。
「魔物が好む百万人に一人の生気」だかを持っているらしいボクは、だもんで、ひょっとすると魔階に来た途端にハーレム状態になるんじゃないかとか若干心配してたんだけど、そんなこともないようだった。
 あ、別にがっかりしてないです。「こっち側」で逃げ場所もよく判らないのに、耐久追いつかれたら吸われるよリアル鬼ごっことか勘弁してほしいです。


 魔階側のカスターズグラッドに辿り着いて思ったんだけど、なんというか、まったく同じって訳でもないんだな。
 ネイサム司教が「階層が違うだけで本質は同じ」だとかなんとか言ってたけど、確かに建物があるところに建物があることには変わりはない。だけど、こう、質感っていうの?同じ石でできている建物のはずなのに、魔階のこっち側で見る建物はちょっと影が薄いと言うか、ぼんやりとしていると言うか……うまく表現できないんだけど、ピンボケした映写機のフィルムみたいな感じだ。
 質量がどうのとか司教が昔言ってた……かな?
 肉と骨でできている人間と違って、魔物の体構造は割に適当にできているらしい。
 シラスも、風の吹き溜まりに吹いて溜まった魔力がそのうち塊になった、とか聞いたことがある。ワタボコリじゃないんだし、風が吹いて固まったからってどうやってそれがワタボコリじゃなくて生き物になるのかボクにはよく判らないけど、
「そーいうものなんだからしょうがないじゃん」
 らしい。説明しようがきっとないのだ。
 生命の神秘。
 で、神秘はともかく王都は閑散としていて……いや、閑散とは少し違うのかな。
 通りのあちこちに黒いかげぼうしがたくさんうごめいていた。
 最初、アドグみたいな魔物かと思ってぎょっとしたし遠くから眺めていたんだけど、どうも黒いかげぼうしは魔物ではなくて、つまり「人間」らしい。
 何層か、何十層か知らないけど、影の薄くなった建物と一緒で、人間は魔階ではそう見えるようだった。
 なんというか、今日一日で人生観と言うか常識感がえらく変わっているような気がする。
 驚くことばっかりなんだけど、多すぎていちいち驚いていられないと言うか。もう「ここはそんなもん」って割り切っていかないと、シラスを見つけるって目的も忘れちゃいそうだ。

 とくに考えもなしにとりあえず我が家に行ったのがよくなかったのか、ウチは魔階ボンヤリ補正がかかってもやっぱりボロ家で、そのボロの中にシラスはいなかった。
 ハルアとアドグの黒いモヤモヤも見えるかと思ったけど、出かけているようで家の中には何もない。
 どうしたもんか。
 勢い込んでネイサム司教からもぎ取ったのはいいけど、実際問題、魔階に来る方がボクにとって優先事項になっちゃっていて、きてからシラスをどうやって探すか、だなんて考えていなかったのだった。
 くれば適当に見つかるかとか思ったけど、世の中早々うまくできてないらしい。
 ネイサム司教からもらった休みは10日で、魔界の我が家に来るまでにもう二日使ってしまった。残りは8日で、当てもなく探すには大陸は広すぎる。
「できるかなー……」
 我が家の床に、手の平サイズの布袋に詰めた黄色い粉を指でつまんでぱらぱらと落とす。それから、別の袋をとっとる。中には黒い色の粉が入っていた。材料は、企業秘密です。
 黄色い粉で描いた円形の中に矢印状に黒い粉を落として、縫い針を人差し指に近付けた。
 何度か深呼吸をして、それから覚悟を決めてぶっすりと縫い針を人差し指に刺す。覚悟してたこととはいえ、一瞬背中に脂汗が出た。痛いか痛くないかと言われたら痛い一択なんだけど、痛い以前になんかイヤな気分になる。
 親指でぎゅっと人差し指の腹を押すと、滲んだ血液は赤い丸の粒になって、一滴ぽたんと床の上に落ちた。
「探し物の神さま、探し物の神さま、シラスの居場所はどこですか」
 ここでドカンと立派な魔法の一つでも使ってアイツを探すコンパスでも作れば、すごく楽だし手間もないのだろうけど、あいにくボクには魔法の才能がない。
 どれくらいないかというと、八年連続魔法介護士の試験で、回復魔法の実習テストで落ちるくらい才能がない。
 人間が使える魔法なんてたかが知れているんだけど、それでも才能のあるなしはあるようで、しかも生まれつきって場合がとても多いらしい。
 そうするとボクはあと何年試験におっこちて涙目になっても、介護士にはなれないってことで、それはそれで認めたくないんだけど、最近は別の仕事を探すべきなのかなぁ、なんて思ったりもする。
 司教みたいな退魔士とかいいんじゃないの、とか教会の人たちは無責任に勧めてくれる。せっかく見習いで勉強してるんだからって。
 でも、ゾンビや骨がボクは大の苦手なので、そんなんで退魔士がつとまるのか、とかそう言う問題もある。努力だけじゃどうにもならないってこともあるんだってこと、最近ようやく実感しました。
 とりあえず、おまじない程度でもやっておくのと置かないのでは気分がずいぶん違うので、そうして何度か「探し物の神さま」にお願いをしてボクはじっと黄色で書いた円の中の黒の矢印を見た。
「北……うーん。北……。北西……かなぁ」
 半分どころか八割以上、気休めと言えば気休めだったんだけど、それでもゼロよりマシだ。
 王都から北と言うと、ボクが最初にアイツと過ごしていた村のある場所あたりかなとも思う。行き方は判っているんだけど、村までは結構距離があって、向かうとすると他の場所の探索は諦めないといけなくなる。
 かといって他の場所に心当たりがある訳でもないし、正直このぼんやりとした世界はやっぱりボクには異様だったから、それなら少しでも知っている場所に向かった方がまだ安心だった。
 向かうと決めたなら、ここに長居は無用だ。
 行くか、とボクは呟いて、徒歩で小さい頃に育った山の奥の村を目指すことにした。

                   *

 しかし本当になにもありません。
 前にも言ったかもしれないけど、ボクは魔物さんたちに失礼ながら、魔階っていうのはもっとドロドロとしていて、ウネウネとしていて、モヤモヤゴチャゴチャしているものと思っていました。
 街道を歩いていても、時々向こうの方に魔獣らしい姿はチラチラ見えるし、空は明らかに鳥と形が違うものが、高い所を飛んでいたりするんだけど、それだけ。不気味な声が聞こえる訳でも襲い掛かってくるわけでもなくて、これだったらもしかすると人間階の方が物騒かもしれない。あっち、野盗とか追はぎとか、いるところにはいるし。ボクはまだ直接の被害があったことはないけれど、
「どこそこの伯爵さまが別荘までの道中、野盗に集団で襲われて身ぐるみはがされた」
 とか、そう言う話も結構とまでは行かないけど、年に一、二回は聞く。
 あと、魔獣結構襲ってくるし。

 正午を過ぎても、見晴らしは良くならなかった。夕暮れ時位の明るさで、これでも光が苦手な魔物には強いくらいなのかもしれない。お日様が沈んだ直ぐ後、位かな。
 それでも、薄暗くてイヤな雰囲気と言うのはなくて、ただ静かで穏やかで、ひどくボクは拍子抜けしたのだった。
 何度か休みを挟んで、気が付くともう夕方だった。ああまた一日が過ぎちゃったんだなって思いながら、向こうの方に明かりが見えて、ボクはそこまで歩くことにする。一応野宿の用意はしてきたけど、できたら建物があった方がありがたい。夜になって魔物がいきなり活性化した、とかだったらイヤだし。
 近付くとそれは、馬宿のようだった。
「ようだった」というのは、人間階のほうで建てられた、馬宿ってことだ。
 こっちで馬なんていそうな気がしないし、そもそも群れて生活したり他人と極端に接触を嫌う魔物の生態系からすると、ここに何かが住んでいるとは思えない。
 ただ質量が人間階からハミだして、こっちでも形を留めている、その程度の建物。
「ごめんくださーい」
 いちおうノックをして、なんとなくもよもよと頼りない感触にも思えるノブを握って、ボクは建物の戸を開けた。中を覗くと、暖炉の火に照らされてぼんやりとした黒い影が二つ。これは元いた方の階の人間なんだろうな。触れても、突き抜けてしまう。
「えーと、一晩お邪魔しますねー」
 この場合無断侵入したってことになるのかな。宿賃置いた方がいいんだろうか。
 一階部分が食堂兼酒場になっていて、二階へ上がる階段が左手に見える。上がベッドなんだろうな。
「置かなくていいんじゃないかな」
 どうせ見えないし。
 カウンターの上へお金を置くかどうか迷っていたボクは、後ろから掛けられた声に飛び上がった。いやもう本当に文字通り飛び上がった。
 心臓ツブれるかと思う。
「ななななななななな」
 ここに至るまで、魔物は確かに見かけたけどそれは全部言葉をしゃべらないような生き物ばっかりだった。正直、人型の魔物の存在なんてボクはすっかり忘れていたと言うか、いないんだろうなとタカをくくってた訳で。
 酒樽の間にうずくまるようにして、顔色の悪いひと(?……ひと?)がひとり、ボクを見てああ、と頭を振った。
「何か被ってくれるとうれしい」
「あ、え、は、は?はい」
 さっぱりイミが判らなかったし、ぎょっとした体はまだ強張っていたけど、とにかく言葉が通じる誰かと話すのが久しぶりだったので、言われた通りボクはカバンからフードつきのマントを出して被った。暖炉の火があるここじゃちょっと暑いけど、被って、って言われたし。
 ブ厚いウール生地のマントは、野宿の際には毛布にもなる優れものだ。
「あの」
「ん?」
「ちょっとお話ししたいんですが」
「はあ」
「そっち行っても平気ですか?」
「ああ……どうぞ」
 だるそうに頭を振りながら、その顔色の悪いひとはボクをあらためて上から下まで眺めるような目つきになった。たぶん男のひと……魔物だとすると、男とか女とか言う区分けがないのかもしれないけど……だと思う。
「こんにちは。こんばんは……か。あの、ボク、レイディって言います」
「名前、ってヤツか」
 ふうん、と感慨深そうな顔で目の前の男のひとが、レイディ、と口の中で転がした。ああ、そういえばシラスに昔、魔物は基本的に名前がないんだって聞いたことがある。ボクやシラスやハルアのように、個人名もなければ、そもそも種族を指し示す言葉もないらしい。アドグ、だとかバブーン、だとかグレイス、だとか名前を付けたのは人間なんだって。人間って言うのは書き残したがる性癖があるから、便宜上すぐなんにでも名前を付けたがるんだって、そう言った。
「魔物には『自分』と『自分以外のもの』の概念しかない」
 基本的に交わることがないからそれでいいんだそうだ。
 だから、「シラス」、という名前になったのは、シラスが人間と交わる必要が出来てから……つまりはボクを拾ってから後ってことになるんだろう。
「こんばんは。俺に名前はないよ」
 ですよねー。
 優雅に会釈を返されて、改めてボクは目の前の顔色の悪いひとが、割かし整った顔立ちをしていることに気が付いた。見惚れる美形、ていうよりは、親しみやすい顔って言うのが正しいのかもしれない。人間で言うと二十前後。結構若いんじゃないか?
 まぁたぶん、シラスの例に漏れず、ン百年とかン千年生きているに違いない。
「あと、ここは別に俺の巣でもなんでもないので、不法滞在と言う意味ではあなたと並列だ。俺にかしこまる必要はないよ」
「あ、はい。えーと」
「話すのに不便ならあなたが好きにつけるといい」
「え?ボク?あなたの名前を?」
 そう言われましても、いきなり初対面の相手に命名する度胸は、
「じゃあ、名前がないのでナナシさん」
 すいませんありました。
「ナナシ」
 ふーん、とボクの名前と同じように何度かナナシ、とナナシが呟いて、それから初めて笑った。笑ったって言うか、鼻先で息を漏らしたと言うか。
「まぁ悪くない」
 それからまぁ座れと向かいの席を指してボクにカップを突きつける。
「飲むか?」
「飲む……?何を?」
 差し出されたカップを覗き込むと、飲むか、と言われたにもかかわらず、液体はそこに入っていなかった。ただ、ぼんやりとした靄のようなものが見えたような、
「あなたには見えないかもしれないな」
「あ、でもいい匂い」
 甘いのに爽やかな、なんだろう、ちょっとサクランボ酒とかそういうのに似ている気がする。くんくんとナナシから渡されたカップを嗅いでいると、急にぐうとお腹が鳴った。そう言えば歩きづめでお昼から何も食べていないんだった。
「あなた人間なんだろう」
「うん、そうです」
 この宿がナナシの家でないんだとしたら、目の前でご飯食べ始めてもそんなに失礼にならないだろう。そもそも、一階部分は酒場と食堂なワケだし。
 ちょっと失礼して、とごそごそとカバンの中からパンとチーズとソーセージを引っ張り出す。ナイフで薄くスライスしてパンの上に乗せていると、面白そうに眺めていたナナシがそう聞いてきた。
「人間の食事は初めて見る」
「見てすぐにボクが人間って判りますか」
「においがね」
 いい匂いがするんだよ、とナナシが言った。ちょっとだけどきりとして、ボクはそう言った相手を窺う。そういや相手は魔物でボクは人間で、たしかボクは百万人に一人のおいしそうな生気を持った人間とかそういうので、それってつまり、
「食べるつもりないから大丈夫だよ」
 見抜かれていた。カップをまたぐいと呷って、ナナシが疲れたように笑う。そう言えばこの人なんか顔色悪いんだった。
「俺にはあなたの光は強すぎる」
「光?」
 光だとかにおいだとか、あまりにも抽象的で、はっきりとは分からないんだけど、でもそれって多分うまく言葉では説明できないような、感覚的なものかもしれないなって思う。
「他のなにかと契約しているね」
 じっと片目を閉じてボクを眺めていたナナシが、ふと眉を顰めた。
 いや、しかめたって言うよりはっきりと苦痛の表情だ。
「ナナシさん?」
「……いや、」
「見せてください!」
 息苦しいのか胸元を掴んだ腕に見覚えのある模様が見えて、ボクは相手と初対面だとか魔物だとか忘れて、パンを放り出して飛びついた。
 忘れもしない、赤い蛇の鱗のような鎖模様。
 赤縛。
 背筋がぞっとして、ボクはナナシを見上げた。
 まだ。まだ平気だ。すごく怠そうで眠そうで顔色も真っ青だけど、熱も出てないし意識がはっきりしてる。
「ちょっと待ってて」
 ボクにとって、シラスが死にかけた時ほど、怖い時はなかった。それまでにも不死生物に追いかけられたりとか、魔物に追いかけられたりとか、グレイスに襲われたりだとか、怖いことはいっぱいあったけど。
 でも、自分の知っている人がいなくなってしまう、自分の生活の一部がぽっかりなくなっちゃう、自分の力ではどうにもできない、そんな失くしてしまう恐怖を覚えたのはあれが初めてだった。
 赤縛の特効薬は、ムドゥブと言う魔物の卵の殻だ。死に物狂いで取ってきたそれを、あの時からボクは肌身離さず持っている。煎じて粉にしたものを、小さなロケットに入れて首からかけていた。
 こうしていたら、怖いことがひとつ減るような気がして。
 ボクは皮袋に入れていた水を手鍋に移し、暖炉の炎で温めて、そこに煎じ薬を小さじ一杯分溶いた。カップに入れ替え、ナナシに差し出す。
「飲んで」
「……これは」
「ムドゥブの卵殻です。赤縛のお薬なんです。ナナシさん赤縛に罹ってる。飲まないと死んじゃいます」
 ぼんやりと見上げたナナシは、いらないって意味だったのか二、三度頭を横に振ったけど、ボクはぐいと目の前に差し出して押し切った。しぶしぶ受け取ったナナシが、顔をしかめながら飲み下す。
 良薬だろうと何だろうと、もともとがあんなブヨブヨとしたカラだったんだし、不味いんだろうなぁと思う。
「よかった」
 ムドゥブの卵殻で、赤縛はほとんど治せると確かネイサム司教は言っていた。それも、初期状態ならほとんど100%だって。良かった、と言ったボクをいぶかしそうに見て、ナナシがまたいいにおいのする液体のカップを呷った。
 僕には色も形も見えないけど、魔物にとっての酒みたいなものかなって思う。

「俺はね。ここで死のうと思ってた」
「……え?」
 死のうと思ったとか、なんつー物騒なこと言うんだ。
「何という名前なのか知らないけどね。……赤縛?病に罹ったことは判っていたし、別にそろそろ朽ちてもいいかなと思っていたし」
「朽ちるって」
「うん。生きているのに飽きたんだよね」
 飽きる。十七のボクには、その「生きるのに飽きる」という感覚が全く判らない。
 百年も千年も生きたら、判るんだろうか。もう死にたいって言うようになっちゃうんだろうか。
「でも、朽ちそこねた」
「えっと。その……ごめんなさい?」
 この場合謝るのがスジなのかさっぱり判らなかったけれど、相手の希望を切ってしまったような気もするのでボクは取りあえず頭を下げた。ボクはボクのしたいようにしたまでで、悪いことをしたと思ってはいないけど、
「いや。痛いのには辟易してたんだよね。助かった……助けられた、というのかな」
 そこまで言って、ナナシはじっとボクの顔を見た。顔色が悪いことばかり気になってそれまで気づいていなかったんだけど、ナナシがとてもきれいな水色の目をしていることにボクは気が付いた。
 魔物の目って、別に全部金色ってワケでもないんだな。
「こういう時、人間はなんていうのだったっけ」
「え?」
「感謝?だったかな」
「あ。お礼?ありがとう……とか?」
「ああ。そう。ありがとう」
「いえどういたしまして」
 ぺこりと頭を下げられて、ボクも急いで頭を下げ返す。少しぼうっとしているようなところがある魔物だけど、そんなに悪いヤツじゃないのかも。
 とりあえず、「食用」としてはボクのことを見ていないようなので、今のところ安心していいのかもしれない。今のところ。
 ようやく腰を落ち着けて、ボクは夕飯を再開する。

 ぼうとテーブルに肩肘を突いて、暖炉の炎を眺めていたナナシがふと呟いた。
「レイディ」
「うん」
「あなたがさっき言った言葉はなんて意味なんだろう」
「え?どれ?どういたしまして?」
「もうちょっと前」
「もうちょっと前……ボク何か言ったっけ」
「俺が朽ちそこねた、と言った時に」
「ああ。ごめんなさい?」
 そうそれ、と頷かれる。ボクなにか珍しいことを言ったのかな。
 とりあえず謝ろうと思って呟いた言葉は、ナナシは知らないらしい。
「どういう意味?」
「えーと。謝る言葉……かな」
「謝る……」
「うーんと。相手に悪いことしたなぁとか。相手を傷付けちゃったなぁとか。本当はそういうことをしたかった訳じゃないのに、やってしまった。あなたの気分を害してしまったなら許してほしい。……そうして、できれば今のことはなるべくなかったことにして、気を取り直してまた自分と話をしてほしい。……とかそう言う意味……かなあ」
「許す、って言うのは」
「そうだな……ごめんなさいって言われた相手が、言った人の気持ちを汲んで、いいよって、なかったことにするよって言うこと……うーん。もっときちんと勉強してればよかったな」
 言いながらボクはああそうだったって思う。
 ボクはシラスに謝りにここにきたんだって。
 シラスが許してくれるかどうかなんて判らないんだけど、それでもボクは謝りに来たんだなって思った。
 シラスのことを考えて、ボクが神妙な顔をしてしまったのか、どうしたのってナナシが聞いた。だからボクは、シラスを傷付けてしまったんだってことをぽつぽつと話した。ナナシにはまったく関係ないってことは判ってるんだけど、まだ寝るには少し早かったし、こっちに来てから話す相手は久しぶりで、何でもいいから話したい気分だったんだ。
 うん、ととたまに相槌をいれながらほとんど黙って、半分ボクのグチみたいなものをナナシは聞いた。

「じゃああなたは、シラスにごめんなさいを言うためだけにこちらへ来たんだね」
「うん」
「シラスがどこにいるのか知っているの」
「知らないからほとんど目盲滅法手さぐりなんだ」
「どこにいるのか判らないのにあなたは来たの?」
「うん」
「そう」
 シラスと言う人はよほどあなたの大切な人なんだね。
 カップの縁を噛みながら、いいなぁと静かにナナシが言った。
「そうして探してもらえたら、どんな気分なんだろうな」
「……怒るんじゃないかな。こんなところまできやがって、とかそんなところかなってボクは思ってるんだけど」
「そうかな」
 首を傾げて、そうかな、ともう一度ナナシは呟いてそれから、
「さあ、もう寝るといいよ」
 二階へ続く階段を指した。
「あ……うん」
 ぽつぽつ話している内に結構いい時間になっていたし、そうでなくてもボクは明日も明後日も歩くわけで、早めに寝ておくに越したことはない。
 おやすみなさい、とボクは言ってテーブルから立ち上がる。
「ありがとう?」
「……え?」
 階段を上りかけたところで後ろから呟かれて、何の意味なんだろうってボクは振り返った。
 相変わらず壁にもたれるようにして酒樽の間にうずくまっているナナシは、ボクを見ている。
「今日は痛みもなく眠れそうで嬉しい」
「うん。おやすみなさい」
 何でも常備しておくもんだなぁってボクは改めて思いながら、階段をまた昇り始めた。


 次の日、目が覚めて下へ降りると、ナナシはどこにもいなかった。もしかするとボクが勝手に見てた夢の中の出来事だったのかなって思うくらい、きれいに。
 でも夢じゃないって証に、煎じ薬が少し減っている。


(20111015)
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最終更新:2011年10月15日 23:30