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<<蛍>>


 相手を「見極め」る。
 これが、簡単そうに見えてなかなか難しい。
 判断基準に、相手の見た目や表情はあまりアテにならない。どちらかというと直感に近いものがあるとチャトラは思うし、そうやって今まで生きてきて、案外と外れたためしがない。
 だから、チャトラは自分の直感には素直に従うことにしている。
 その道理でいくと、目の前にいる男は、明らかに自分の気持ちの一部をざわつかせる何かを発していて、できれば近づかずに素通りしてしまいたいと思った。
 ……うずくまって苦しんでいなければ。


 今日は、自分の誕生日だった。
 日付けのまだ変わっていない時間に、「だった」というのもおかしなものだと思うけれど、待ち合わせの時間はとうに過ぎていて、それでもしばらく自分は、待ち合わせの場所を動くことが出来ず半日近くぼんやりと立っていたのだから、これはもう「だった」と過去形に言い切っても良いと思った。

 一昨日急に、エスタッド皇が二日後の昼過ぎからなら時間が取れる、と言い出した。
 ぜんたい、何の話かときょとんとしたチャトラへ、
「お前の誕生日がまだであったろう」
 薄く笑んで男は言った。
「この春はまだ、祝っていなかったから」
 日々の暮らしは繰り返すうちにわりとあっという間に過ぎ去っていったし、そうでなくてもしばらく男の顔も忘れかけていたチャトラは、言われてはじめてああそうか、誕生日というものがそういえばあったのだったなと思い出したくらいだ。
「さて何がほしい」
 聞かれるたびに毎回悩む問いを今年もまた問われて、眉間にしわを寄せながらチャトラは唸った。
 そもそも、物欲があまりない。
 食欲と睡眠欲が満たされていれば大抵のことは満足できる人生を送ってきた自分は、靴がほしいだとか服がほしいだとか、はたまた飾りがほしいだとかあまり頭に浮かんだことがない。
 我慢しているわけではないと思う。
 清貧は美徳、だとかいうたいそうな理想があるわけでもない。
 たぶん、聞かれるような経験がなかったから、聞かれることに全く慣れていないのだ。
 靴は、水の滲みないものであればいい。服は、暖が取れればいい。
 身を飾ることに興味はなかったし、飾ったところで自分にあまりに合うようにも思えなかったのでそれもほしくない。
 食べたいもの、で考えればもう少し思いつきやすいだろうかとぼんやりと考えてああ、とチャトラは呟いた。
「町の」
「うん、?」
「東外れの通りの、三日にいっぺん出してる露店の串焼きがうまいって聞いて」
「――ほう」
「食べてみたいなって思ってたんだけど、いく機会がなかなかなくて……それは、食べてみたいかな」
 アンタと食べたい、とはっきり言えずに遠回しにチャトラは言った。
 少し卑怯かなとも思ったけれど、エスタッド皇にたいして頼むことではないのかもしれないと思うと自然声は小さくなる。
 そういう自分の希望は、下働きのものや皇宮の外でも自由に動けるものに頼むことであって、仮にも、一国の主に対して一緒に行ってほしいと頼むことは、おかしいのかもしれないと思ったからだ。
 けれどチャトラには他にほしいものもなかったし、実のところそうしたほんの些細な経験の共有こそ、自分は皇帝と重ねて行きたいと願っていたから、
「まぁムリなことは判ってる」
 と言っても願いを通したいとは思っていなかった。
 なにしろ相手は「普通の」男ではないのだから。
「――明後日は、その露店が開く日であろうか」
「は?……ああ、どうなんだろ、あとで調べておこうか?」
「たまには外食も良いだろう」
「ってアンタ行く気、」
 行く気なのかよ、とまではいえなかった。行くと言ったら男は行く。
 ……たとえ、周りがどれほど涙目になろうとお構いない。
「ああどうしよ、ディクスさんとかにまた迷惑かけたんじゃあ、オレ」
「昼に、現地で」
 言ったきり、男の中でその件は決定になってしまったようで、また手元の読みかけのページへ目を落としてしまった。
 何度も確認するというのも、なんとなく無粋な気がして同じように口を噤んで、読み書きの練習に戻ったチャトラだ。
 どうやって皇宮を抜け出して東通りまで来るつもりなのかは、皇帝は口にしなかった。おそらくどこか弱みを握っている誰かに圧力をかけて、首を縦に振らせるに違いない。
 しまったなと思いながら、それでもチャトラは嬉しかった。
 思わず緩んでしまう頬に男は気づいたろうか。
 どうあっても世界観のかけ離れている自分と皇帝の距離が、一瞬でも縮まるような気がして少しだけ嬉しかったのだ。

 でもアンタこなかった。 

 ぽつんと思う。
 意外でも何でもない、男がここへ姿を現さないことのほうが、実際の確率としてはひどく高いことはチャトラにも判っていたことだ。
 けれど、待ってしまった。判っていたのについ待ってしまった。
 もう少ししたらくるかもしれない。あと百数えたらくるかもしれない。かげぼうしがもう少し長くなったら、次に荷馬車が通ったら。次は、次は。
 そうしてずるずると待ち続けた。
 日が傾いたあたりから、どうあっても皇帝が今日はここへこられないことは判ってしまっていた。忙しかったのか、誰かに止められたのか。何にせよ、男は身動きできない。
(夜予定あるって言ってたし)
 けれど、万が一ここを離れてそのすぐ後に男が来たら、そう思うと動けなくなった。
(そんなことはないってこと判ってんだけど)
 言い聞かせる。
 待ってしまった自分はきっと、諦めが悪いのだろう。
 とうとう日が暮れて、露店が店じまいをし、買い物客もいなくなった。
 一日の仕事帰りに一杯ひっかけたほろ酔いの男たちが、石段の隅にしゃがみこんでじっと待っているチャトラを、遠慮なくじろじろと眺めていった。
 物乞いか、スリか。
 推し量る目で見られることは慣れていたし、今更気分を害するものでもなかったので、膝を抱えてただ待ち続けた。
 いや、これは待っていたと言うよりはただその場から動く意志がなかったと言うだけなのかもしれない。
 仕事帰りの男たちも次第に途切れ、あばらの浮いた野良犬が時折小走りに駆けるばかりになり、夜の見回りの衛兵が何度か通りを過ぎたところで、チャトラは重い腰を上げた。
 ようやく帰ろうかという気分になった。
 風はまだ冷たい。
 かじかんだ耳が痛い。
(……こなかったね)
 仕方ない。
 仕方ないということを自分は充分承知していて、なお諦め悪く待ってしまって、恨み言ももうどこかに消えていた。
 そうしてえらく腹が減っていた。
 懐にいくばくかの持ち合わせはあったけれど、皇帝と少し遅めの昼食を食べられたらとチャトラは思っていたので、当然昼から何も食べていない。
 皇宮へ戻って厨房へ顔を出せば、何がしか食べるものにありつけるだろう。
 なければないで、寝てしまっても構わないような気分になった。
 小さくため息を一つ吐いて、とぼとぼとチャトラは歩き出す。
(莫迦みたいだ)
 莫迦なことも判っていた。
 もしかしたらくるかもしれない。
 遅れてきたら男はなんと言い訳をするのだろうか。それとも涼しい顔で何もなかったことにするのだろうか。
 串焼きを食べる男の反応はどんなだろう。護衛が離れてついてくるだろうけれど、町の人間にエスタッドの皇帝だと気付かれはしないだろうか。気付かれたらどうしよう。よく似た他人とでも言って信じてもらえるだろうか。
 ああでも、ほとんど町の人間は間近で男を見たことがないだろうから、大丈夫かな。
 だとか。
 そうして現れたあのひとに自分は何て言おう。
 遅かったな、ずいぶん待ったんだよ。遅れてきたアンタの奢りな。
 それとも、待たされることなんて何でもない振りをしてやろうか。
 だとか。
 一人で浮かれていたことが今更さびしい。
(……アンタと食べたかったな)
 きっかけも理由も、実のところチャトラは何でも良かったのだ。
 誕生日でなくとも良かった。
 エスタッドの統治者だとか雲の上の存在ではなく、ただの少し見栄えがする程度の男と並んで、歩いて、それだけで良かったのだ。
 ささやかに見える自分の願いが、とても自分勝手で思い上がりなことも判っていたけれど。
(でもアンタと食べたかったな……)
 すきっ腹で歩いているとろくな気分になるはずもない。悲しくなってチャトラは鼻をすすった。
 男は遠くて、いつも遠くて、どんなに懸命に腕を伸ばしてもなかなか届かない。
 チャトラには政治であるとか統治であるとか、国と国との関わり合いであるとか、男の「皇帝」である部分の半分については何一つ判らなくて、だから余計に心もとなかった。
 大切にされていることは判っていたけれどそれだけで、その大切にしている部分すら、普段は男は見せようともしない。
(欲張りなのかな)
 欲がないだとか思っているのは自分だけで、もしかしたらとても業突く張りなのかもしれない。
 そう思うと余計に悲しくなってきて、いっそヤケ酒でもしてやろうかと顔をあげたところにうずくまっている人影が見えた。
 これが通りの端であるとか、建物の影に座り込んでいたなら、先ほど自分も同じ目で見られたように、ああ宿のない人間が路上で一晩過ごそうとしているのだなと思うところだったけれど、あいにく通りのど真ん中でうずくまっていた。
 少し近づくとうめき声が聞こえる。
 どこが痛いのか判らなかったが、どうも苦しんでいるらしい。
 ほんのまたたきひとつ分、どうしたもんかとチャトラは迷った。
 愉快か不愉快かで言うならば、説明のしようがないけれど不愉快で、だから余計に不気味だった。
 初対面で、どうして、こんなに、

「……おいアンタ」

 おそるおそる、うずくまり肩をこわばらせる男へ声をかける。身なりは浮浪者と似たり寄ったりで、もしかするとただ飲みすぎた人間が、苦しんでいるだけかもしれない。
 大丈夫か、言いかけた口が途中で凝固した。
 頭が理解するより先に、既視感。
 自分を見上げた男の顔。
「テメェ……、」
 脳天から錐で突き刺すような、鋭い感情が走った。

                    *

「少し……よろしいですかな」
 一日の業務を終え、部屋へ戻ろうかとした皇帝の耳に、三補佐の一人アウグスタ補佐官が声をかける。なにかな、と言いかけて皇帝は相手がちらと横目であたりを窺ったのを感じた。
「アウグスタ補佐官?」
 人目を気にしたのかもしれない。人払いをした方がよいかもしれないなと言う考えがふと頭をよぎったが、特に頼まれもしなかったので気付かなかったことにした。必要ならば本人が追い払うだろう。
 何かともう一度目で問うと、
「本日、陛下はチャトラと会われましたか」
 本題を切り出した。唐突にも思えるが、これは皇帝が遠回しな表現ではなく、単刀直入に本題に入ることを好むのを、アウグスタが知っているからである。
「猫」
 一体何を言っているのだろうかと皇帝は目の前の補佐官を眺めた。会うはずがない。基本的にチャトラは執務区域へは足を踏み入れなかった。特に男が禁じた覚えはないのだけれど、自分の関わる範囲ではないから、そんなことを言っていたような気がする。
「昨晩部屋へ戻ってきていないので、まだ顔を見てはいない――ね、」
 言われて初めて、ここ半日あたりチャトラの顔を見ていないことに皇帝は気が付いた。

 昨日、町で彼女と昼食を共にする約束を交わした。勿論、皇帝自身は行く気であったし、周りが止めようと適当に半日分の仕事を片付けて強行するつもりだったのだけれど、国境から走らせてきた早馬の報せに、そうも言っていられなくなった。
 皇宮は一時緊迫し、急遽軍議を開かざるを得なくなったのだ。
 トルエ公国を囲む北方領が、不穏な動きをしているとの報せであった。
 どんなに弱小であろうと、友好条約を結んでいる以上、彼の国への進行に知らぬふりを決め込むわけにもいかない。また冬の間、門客として迎えているトルエの軍師も自国が責められるとあっては、黙ってはいないだろう。
 様子見をするにしても、無策ではすぐに手が打てない。二重、三重に策を用意しておく必要があり、また一軍を動かすにはそれなりの準備と言うものがある。
 エスタッド皇国は、皇帝を頂点とした独裁政治である。補佐する立場の人間はいくらでもいたけれど直裁する当の皇帝がいなくては、話は進まない。
 結局、三補佐と方針を固め、軍部の士官各位に伝達し、会議室を出た時には日付が変わっていた。
 チャトラとの約束があったなと改めて思いだしたのも部屋を出てからだ。
 ――さすがにもう、待ち合わせの場所で待ってはいないだろうが。
 まちぼうけを食らってぼんやり座り込む猫の姿を想像して、男は微かに口を歪めた。気の毒なことをしたかもしれないなと思った。
 並んで露店を眺めようと約束した。はにかむように頬をほころばせた彼女の顔を見て、何がそんなに嬉しいのかと不思議に思ったが口には出さなかった。
 こんなものでよいのか、とそう思った。
 チャトラは、生みの親の顔を知らないと言う。餓え飢えてふらふらと歩いているところを娼婦の女に拾われたのだと言った。
 姉、と呼んで随分と懐いているようだ。男が面白くない感情を抱くほどに、姉の話をするとき、チャトラはいつも嬉しそうに懐かしそうに話すのだ。
 大切に育てられたのだろうなと思う。
 話を聞くに、豊かな暮らしではなかったのだろうけれど、彼女は姉から、皇帝が決して満たされることのなかったあたたかな感情をたくさん受けて育ったのだろうなと思う。
 うらやましいとさえ思った。
 愛情、というものかもしれない。
 受けた覚えのない自分には、それがぜんたいどんな心持ちなのか、知識としてあっても経験として実感がない。
 その、自分は持ちえない多くのあたたかさを受けて育ったチャトラは、毎年姉と誕生日を祝ったのだと言った。
 生みの親を知らないのだから、実際いつ生まれたのかすらはっきりはしなかったらしいけれど、そのあたりはこの日、と都合を付けていたようだ。
「一番最初に渡り鳥が帰るのを見た次の日とか」
 適当さ加減が面白いと思った。
 そうして、春のあたりのいつか、であるという認識で男はチャトラと三度目の春を迎えた。何気なく眺めた部屋の窓から、鳥が飛んでゆくのが目に入ったのでふと思いだしたのだった。
 何が欲しいかと尋ねた自分に、チャトラはずいぶん唸っていた。
 感心する。
 おしなべて女と言うものは貪欲であると昔から皇帝は思っていたし、その欲する気持ちに限りがないと思っていた。皇帝の周りにいた女は「そうした」女の種類しかいなかった。曰く、やわらかく、花と宝石で着飾って、男に媚び、甘い香りを振りまく。快楽と嬌声の生き物。
 鬱陶しいと感じることがほとんどだったけれど、時にはその擬似の「頼られる」感覚に満足することもあった。
 男である自分には必要なものではあったのだろう。
 満足は一瞬ではあったけれど。
 それが女と言うものだと思っていたし、だからほしいもの、と言われて腕を組んで唸る心持ちが理解できない。
 服だとか。靴だとか。宝石でも髪飾りでもなんでも望めばよいではないかと思う。それを許すだけの財を男は持っていたし、大抵のものを与えられるだけの権力もある。半ば冗談ではあるけれど、国が一つ欲しいと頼まれたとしても、願いは叶えられたろう。
 その男に向かって、東外れの通りの露店の串焼きが食べたいとチャトラは言った。
 一緒に、の言葉を乗せることはなかったけれど、買ってきてほしいと頼まれているのではないなと思った。むしろ、ただ食べに行くならば、猫は一人で皇宮を抜けて出かけていくだろう。
 そんなものでよいのかと思った。
 そんな些細な願いでよいのかと。
 ではいこうかと返した自分に、驚いたような顔をして、それから慌ててチャトラは俯いた。いいのかよとボヤく口元が、緩んでいることに気付いた。嬉しいのか。そう思う。
 くしゃくしゃとした癖っ毛に触れようと思って腕を伸ばしかけ、躊躇った。
 この腕で触れて良いのだろうか。
 自分の底の部分は一年前となんら変わりはなくて、今でも熾火のように燻る独占欲がある。彼女のすべてを独り占めにしたい。誰にも見せたくない。誰にも触らせたくない。これは自分だけのもので、そうあるべきだ。
 それはきっと猫に見せてはならない己の醜く歪んだ部分だ。
 戒めろ。声がする。
 また傷付けるのか。また彼女を縛りつけ、血まみれにして転がして、自分だけのものにしてそれで満足か。それは満足と言えるのか。
 満ちるとはそう言うことか。
 触れることは怖かった。壊してしまう。歪ながらも猫が傍らに戻った。自分を見上げて笑ってくれるようになった。その距離が以前より少しぎこちないものだとしても、これ以上何を望むと言うのだろう。
 壊してしまうことは怖い。

「今朝一番に私のところへ顔を見せたのですが」
 アウグスタの声で男は我に返る。
「皇宮奥から執務区域に私を探してきたのだと言った。真っ青な顔をして、まるで幽霊にでもあったように引き攣って、ただごとではなかった。いったいどうしたのだと尋ねましたが、何も申しませなんだ。そうして、憑かれたような顔で、法律について尋ねました」
「法――、あれが?」
「はい。怖いほど真剣な顔をして、殺人とは何かといったいどんな罰を受けるのかと尋ねた。朝からする話ではないです。そうして穏やかじゃあない。……何か事件に巻き込まれでもしたのかと少し気になったもので」
 尋ねられて首を振った。
 何も知らない。
 顔も見ていないのだ。
 昨晩遅く、戻った自室にはチャトラはいなかった。予想はしていたので意外でもなかったけれど、どこへ行ったのだろうとだけ思った。
 まさか、まだ待ち合わせの場所で待っているのではあるまいね。
 そこまで律儀な性格だとも思えなかったけれど、であるとすればどこへ行ったのか。拗ねてどこかへ籠ってしまったのかもしれない。冷え込む場所でなければいいが、と花冷えの吹き付ける窓を眺めた。闇は暗くて外は見えない。
 朝になれば機嫌を直して部屋へ戻るだろう。戻らなければ探し出して戻してもいい。
 そう思った。
「……陛下は、実にご立派な施政者であらせられる」
 ぼんやりと花瓶の花びらを眺めた男へ、アウグスタが静かに呟く。また唐突に何を言い出すのかと視線を横へずらした。褒めている訳ではないのだろう。褒められている気がしない。
 褒めて簡単に機嫌のとれる性格ではないことは、アウグスタもよく知っているはずだった。
 同じように花瓶を眺めて、美しい花だとアウグスタは言った。
「春の花でしょうかな」
「――さあ」
 皇帝はその花の名前を知らない。
 私は、とアウグスタが言った。
 私は。
「……前任者から仕事を引き継ぎ、補佐官の職を頂いてからもう十三年になります。私も来年で齢六十です。この世に生まれてから六十回の春を見てきたことになるのだと、このところしみじみ思うのです」
「六十の、春」
「はい。この年になると、その六十の数のうち、一体何度春をきちんと愛でたものか、そんな妙なことが気にかかるようになりました。今年はどうだろう。去年はどうだったろうか。一昨年は、またその前は。……気付けば日々の忙しさにかまけて、手の平にすくえる僅かのものを見逃してきたように感じます。花の名前ひとつ、私は知らない」
「――」
 知らないと言われて皇帝は押し黙る。では、自分と同じか。
「補佐の地位に就任してすぐに、妻を失くしました。昔から風邪ひとつひかない丈夫な女でした。出来は悪いが、あれとの間に子も三人儲けた。それが、倒れた朝、少しだけ元気が無いように思えました。ほんの少しどうしたことかと気になる節もあったのですが、それよりも連日続いた仕事がひと段落つきそうなことが頭を占めていた。ようやく隣国と調印にこぎつけたのだから早く出仕せねば、と」
「――」
「補佐官に上り、張り切っていた部分もあったでしょう。私がおらねば業務は進まぬと言う自負もあった。一言、横になってはどうか、少し休んではどうかと妻に声をかけることすらせず、いつもの時間に皇宮へ上がり……、……あれが倒れたと報告を受け、屋敷に戻った時は既に冷たくなっておりました。家人に聞いたが、発見した時は既にこと切れていたらしいです。誰も知らないうちに一人部屋の中で倒れ息を引き取っておったそうです。医者の話では脳髄に血の塊があったとのことでした。大した苦しみもなく呆気なく往ったようだと」
 往ったその日も丁度春でございました。
 花瓶を見つめる補佐官の瞳がふと色濃くなる。
「寿命だったのでしょう。今はそう思う。私が休めと言ったところで、脳髄の血の塊はどうとなるものではないし、冷たくなるのが床の上か、布団の上か、その程度の違いしかなかったのかもしれません。しかしそのあと随分長い間、私は自分自身が許せなかった。どうして一言労わる言葉を投げてやれなかったのかと、それが私の自己満足であろうとなかろうと私はそうすべきであったろうと」
 陛下、とアウグスタは一人語散る。
「余計なことを口走っておるかもしれません。セヴィニアあたりに聞かれたら目玉を食らいそうだ。老婆心、別に聞き流してくださってもよろしいのです。ただ、陛下はすこぉし、施政者としての象りに拘りすぎて足元が見えておられない」
「足元――、」
「灯台下暗しと申します。お嬢ちゃんの側に居られるときは施政者としてではなく、一人の人間の象りが必要なのではないかと、そう申し上げたいわけで」
「一人の人間――」
「はい。自分が大切にしたいものと、自分が大切にしなければいけないもの。これが、よく似ているようで、その実まるで根っこのちがう代物のようでございます」
 アウグスタは苦笑する。これは、皇帝へ向けてと言うよりは自嘲だろう。
「六十回春を数えて、最近ようやくそのあたりの妙が微かに見えてきたような気がいたします。しかし見えてきたと思うと、ではなぜもっと前から気付くことができなかったのかと、今度はそればかり……、これが、仕様もない後悔の日々で。愚かだと思う。去年、愚息が妻を取り、この間孫だとか言う小さくぐにゃぐにゃした肉塊を見せられました。その安定しない肉塊を胸に抱いた時に、妻にもこうして抱かせてやりたかったと。そんなことを願いました」
「何故」
 とつと皇帝は口を挟む。
「何故、それを私に聞かせようと思ったのかな」
「……あの小さなお嬢ちゃんに何かあったのではないかと、私個人が気になっている次第で。そうしてさびしそうだ。娘のようなものです。気になる。陛下はあの子のことを、大切にしなければいけないものとしてきちんと認識しているのであろうかと、いやこれは老人のたわごとで」
 失礼と頭を下げた補佐官に皇帝は苦笑した。成程、と返す。失言だと詫びながら、釘はしっかり刺して行った。そもそも失言だと思ってすらいないだろう。
 年の甲と言うものかなと言い置いて皇帝はその場を後にした。


 成程。
 部屋へ戻りかけた皇帝は、そうして途中の裏庭の練兵場で見知った衛兵の一人に手ほどきを受けているチャトラの姿を見かけ、内心呟いた。
 急に彼女が護衛心に目覚めたと言うなら、その意気込みは全くの無駄骨だと皇帝は言い切れる自信がある。
 刃を振るう人間には適正と言うものがある。
 武技の心得など頭で覚える類のものではなくて、こればかりは天性のものだ。いくらかは努力で補える部分もあろうけれど、体の重心、体重移動のバランス、骨格や関節のしなやかさ。
 そうして、人間一人の命を平然と奪える意志。
 意志、というものとは少し違うかもしれないなとそこで皇帝は自分自身の言葉を否定した。意志の強い、弱いで推し量れるものではない。生まれ育った環境によるものが大きいだろう。
 生まれたときよりどのくらい、身の回りで虫をつぶすように命が失われたかどうか。
 刃を持つとき、その意志を持つのと持たないのとでは、まるで振るい方が違う。
 武器は、道具ではない。木の実をすり潰したり、畑を耕したり、物の長さを測ったり、掃除をするために使うものではない。
 人間が人間を傷付けるために使うものだ。
 人間を傷付ける覚悟がないものが振るう刃はすぐに見抜かれる。これは、護身についても同じことだ。
 ハッタリでは人を慄かせることはできない。刃を向けた相手に、刃をもって対峙するとき、従わせるためには明確な殺意が必要なのである。
 その点、目の前の猫はまるで適性がないと言わざるを得ない。
 真剣ではあるのだろう。
 真面目な顔をして衛兵の一挙一動を眺め、同じように振って見せる。掏摸稼業のせいか、身のこなしは軽いのでそれなりに「見れる」ものにはなっているが、まったくアクがない。
 ようするに、怖くないのだ。
「身辺警護の任務でも請け負ったのかな」
 ラズとか言った衛兵とチャトラのやり取りを、少し離れてしばらく眺めていたけれど、四半時ほど眺めて飽きた。立っているのにも草臥れるので、近付きながら声をかける。こちらを振り返った二人が目を見張り、ラズは慌てて膝を着いた。
「習っておいて損はないだろ」
「身辺に不安を覚えるのならば、護衛を一人配置した方が話が早いと思うのだが」
「別に不安とかそう言うんじゃねェよ。ただ、ヒマだったし何となくね」
 応える猫の声がぶっきらぼうだ。
「何となく――ね」
「……なんだよ」
「何となくの気分で、普段訪れない執政区へ足を踏み入れ、法務官を志し、今度は護衛の真似事をお前はするのだね」
「……何でそんなこと知ってるんだよ」
「アウグスタ補佐官から報告を受けた」
 オッサンか。言ってチャトラがわずかに口を歪める。おや、と思った。基本的に人当たりの良い彼女が、好感を抱いている相手に対して、そうして露骨に嫌悪を表すことは珍しかったので。
「なんでもアンタの耳には入っちまうわけだな」
「皇宮の表部分へお前が来ることは珍しいからね」
「……悪かったよ。ちょっと急いでたんだ。もういかない」
 頭を振って大して悪びれた様子もなく謝るチャトラへ、別に来ても良いのだがと男は言った。
「お前は何故かあちらの区画へは足を踏み入れないね?」
 そんなところも、まるで猫のようだとおかしく思う。線引きしたように行動半径が決まっていて、その範囲から外へ出てゆくことはない。
「前から不思議に思っていたが、私は特に禁じた覚えはない。皇宮内のどこでも自由に動いてよいと許可したはずだ。とすると、誰かに咎められたか、それとも何かお前の中で決まりごとでもあるのかな」
「……あっちは、オレの首を突っ込むところじゃないから」
 ちらと考える素振りになって、それからチャトラは言った。首を突っ込む、と男は繰り返す。
「どういうことかな」
「アンタは、エスタッドって国の、皇帝サマだろ」
「そうなるね」
「皇帝サマは政治が仕事だろ」
「そうだろうね」
「だから、そういうことだよ。アンタは国を治めるのが仕事だ。オレは、アンタの身の回りの世話をするのが仕事。厨房にいる調理人は料理を作るのが仕事で、剣を持って戦うのは軍人だろ。調理人の包丁を戦場にはもっていかないし、庭師のおっちゃんのハサミで野菜は切らない。役割分担ってヤツ」
「なるほど」
「オレはアンタの仕事に首を突っ込まない。アンタはオレの仕事に気を回さない。そうだろ」
「――その例で行くと、お前は身の回りの世話をする以上のことを何故か今日はしようとしていると、そう言う話になるね?」
「……話の揚げ足を取るなよ」
「取っているつもりもないが」
 苛々と髪をかき上げて、チャトラが頭を振った。何にそうまで苛立っているのか、
「昨日は約した場所にゆけなかった」
 指の背で猫の顎を掬い上げる。
 一晩経って、朝になっても彼女は部屋へ戻っては来なかった。だからこうして目にするのは、丸一日ぶりと言うことになる。
「待ったかな」
「別に待ってない」
「――本当に?」
 川の澱み色の瞳とぶつかった。歪んでいる。泣き出しそう……いや。混乱しているのか。

「小さなお嬢ちゃんに何かあったのではないかと」

 アウグスタはそう言った。見解はきっと正しい。
 待ち惚けを食らったから拗ねている、へそを曲げている。そう取れるようでいて、どこか違う気もした。
 そもそも、単純に約束を違えたことで怒っているのだとしたら、回りくどいやり方を猫はしない。真っ直ぐに滾りをそのままぶつけてくるだろうと思った。
 壊してしまうことは怖いと怯みそうになる腕を無理に伸ばして、細い肩を引き寄せる。片腕で抱きしめかけると、気付いた彼女が腕の中でもがいた。
「やめろよアンタ何考えているんだよ……ッ」
「人目が気になる――?」
 気になるだろうなとは思う。実際皇宮で男の周りに別の人間がいないことの方が稀だ。それは施政者として仕方のないことだと思うし、生まれた時から視線に囲まれて生きてきた男にとって、些細な葉擦れのようなものだ。気に掛ける必要はない。
「当たり前だろ!」
「私は気にしない」
「オレは気になるんだよッ」
 暴れてチャトラは男の腕から逃れ出た。アンタと一緒にするな、怒鳴った顔が今にも泣き出しそうだと思う。どうしたのだろう。何があった。聞きたい。
 だのに、親鳥のように羽の下へ迎え入れる方法が判らない。
「……アンタ、あんまりオレにかまうな」
 小刻みに震えてその肩を自身の拳で握りしめ、顔を背けてチャトラは吐き棄てた。え、と尋ね返す皇帝にじり、とまた一歩彼女は男から距離を置く。
「……もうやさしくしなくていい」
 明らかな拒絶に男が思わず言葉を探しあぐね、その隙にくるりと背を向けて彼女は駆け出して行ってしまった。
 どうしたものか。
 その背を見送りながら、男は瞬時に考えをまとめ直し、ラズの名を呼ぶ。膝を着き頭を垂れたままの青年へ向かい、表情を険しくした。
「は、は……ッ」
 緊張にしゃちほこばった若い騎士の首筋あたりを眺めながら、
「君に頼まれて欲しいが」
 頼まれて欲しいと言いながら、否はない。頼みごとではなく直の命令である。
「あれの身辺をしばらく尾行けられるか」
「やります」
 迷う素振りすら見せず、若い騎士は頷いた。即決の応答が気にいった。
 頼もしいねと背後のディクスに同意を求めると、ミルキィユ殿下直属の部隊でございましたと囁かれ、ほうと眉を上げる。
「鬼将軍の部隊は厳しいと聞くが」
「随分と鍛えて頂きました」
 ミルキィユ率いる第五特殊部隊は、行軍ひとつとっても相当なものだと聞いた。と言っても、過分な無茶をするわけではない。必要なときに迅速に動き、待機するときは野生の獣のように地に伏してじっと待つ。それだけのことだ。
 ただ、たいした努力もなく、唯々諾々と士官学校を出た二世、三世にはついてゆけない苛烈さだと言う。
 故に、殆んどの編成を実力勝負の傭兵で賄うことが多い。
「音を上げたかね」
「はい。肩をやりました」
「そう」
 先ほどしばらく眺めた。チャトラへ護身方法を教えるラズの身のこなしに、肩を庇うようなものはなかったから、無理をしなければ表に出ない程度ではあるのだろう。その僅かな瑕疵にも目を止め皇都の護りへと配置する。それが鬼将軍のやさしさであると思う。
 そうして騎士の簡潔な物言いも良い。肩の傷を言い訳するでもなく淡々としている。使える側の人間だなと思った。
「なぜ急に護身術を習うなどとあれは言いだしたのだろうね?」
「……恐れながら」
 言い置いてその、とそこで初めてラズは言いよどんだ。
「何か」
「その……、チャトラは、護身術を習いに来たのではないと自分は思います」
「では、何を」
「『ナイフの持ち方を教えてくれ』と。彼女が自分に言ったのは、そう言う意味合いの言葉でした」
「ナイフの持ち方ね――」
 穏やかではないなと内心呟いた。
 一方で殺人についての法を尋ね、一方で獲物の握り方を覚える。
「人でも殺すつもりなのか」
「まさか」
 つい口を衝いて出た言葉に驚いて、ラズはもとより、背後のディクスがびくりと肩を揺らし反応を示した。
「彼女はできますまい」
「まぁあの及び腰では、ひと一人仕留められないだろうねぇ」
 皮膚を切り裂き、突き立てるには覚悟がいる。
「しかしどちらにせよ、しばらく動向を調査したまえ。あれは自分から厄介ごとを背負い込む癖があるから」
「は」
 改めて姿勢を正したラズに背を向けて、皇帝はゆっくりと部屋へ戻る道を歩きはじめる。
「ディクス」
「はい」
「君はどう思う」
「自分には、混乱しているように見えましたが」
 ディクスもまた、皇帝と同じ感想を抱いたらしい。
「待ち惚けて怒っていると思うかね」
「……怒る」
 聞かれてディクスがわずかに首を傾げる。
「後宮の姫君方なら、そのようですとお答えするでしょうが……」
 腹を立てているのでなければ、なんだと言うのか。
 やれやれと首を振りながら、男は自室へと向かった。
 苦渋の色を滲ませた、アウグスタ補佐官の瞳を思い出す。君は今でも後悔しているのだろうね?
 執務室にあった、花瓶の花の名を知りたいと思う。


 半月ほどして、難しい顔をしたアウグスタ補佐官が休んでいた皇帝へ急ぎ足でやってきた。
 ラズから報告が上がってきたのだと言う。密命を受けていようと、一介の騎士が皇帝自身に謁見を申し込むことは、難しいことであるし目立つことだ。であったから、皇帝は補佐官を通すように手回した。補佐官が皇帝と個別の打ち合わせすることはいくらでもあったし、何とでもいい訳が付く。
 他の雑多な報告書に紛れて事情を知るもの以外には判らないように工作できるようにしたのだ。

 皇帝は、読みかけていた本から顔を上げた。どうせほとんど読めていない。飽いていた。
 自室である。
 このところの疲れが出たのか、霞み目というよりはいっそ目玉を抉って取り出し、洗いたいほどに視界が朧でほとんど識別できない。
 ただ手持無沙汰だったので、頁を繰っては読んでいるふりをして時間をつぶしている。話をしようにも戯言に付き合ってくれそうな相手は、連日どこかへ出払っている。仕事である男の身の回りの世話は、いつものようにこなしているようにも見えたけれど、どこかよそよそしい。
 先日の約束の埋め合わせをしたいがと皇帝が申し出ても、一瞬嬉しそうな顔をしたもののどこか上の空で、もう少し後で、と言う。あとで。
 今、何をしている。
 はじめは何か、皇宮内の下働きのものの仕事を一緒になって請け負っているのかと思った。仕事の役割分担がどうの、だとか言っていたくせに、割とどこにでも遠慮なく彼女は首を突っ込み手を貸し、感謝されている。
 前に、そんなに懸命に働かなくとも誰も責めはせぬよと言った男へ、そう言うんじゃないんだと彼女は言った。
 別に、ここにおいてほしくて頑張って働いている訳じゃないんだ。
 では何を目的にかと尋ねると、ありがとうと言われることが嬉しいからだと言う。
 ありがとう。
 男にはさっぱり理解できない。
 目に見える形で報酬がもらえるわけでもなく、評価されるでもなく、ただ態のいい手伝いに思われているのではないかと聞くと、それでもいいのだと猫は言った。
 オレが満足してるからそれでいいんだよ。
 妙に嬉しそうだったのでそうかと答えて皇帝はそれ以上何も言えなくなった。
 けれど、手伝いではないようだ。
 裏庭あたりから町へ抜け出して行っているようだと初日に報告されて、まさか毎日待ち合わせの場所にいる訳ではないだろうなとまで勘ぐってしまった。ありえない話だとは思うけれど、こと彼女にいたっては自分とまるで感覚が違うので完全否定はできない。
 だったから埋め合わせがしたいと申し出た。
 だのに、後で、と言う。

「何か判ったかね」
「はい。チャトラは毎日、皇都の外れ……正確に言うと壁の外の貧民屈へ出入りしているようです」
「壁の外」
 それはまたずいぶん遠い所だね。
 報告書を受けたアウグスタが読み上げるのへ、男は呟く。
「尾行されている方の男ですが、木賃宿と言うのですか。それも個室ではなく、大部屋に泊まっているようです。宿賃が安いのですね。その雑魚寝しているひとりを、どうもつけ回しているようでして」
「一人?」
「一名のようです。毎日同じ男を尾行していると。まぁ、尾行と言っても、相手の男がそう広い範囲で行動するわけではないようでして、せいぜい近場の酒場であるとか、路地裏の立ちんぼをからかうだとか、露店の品物を盗むだとか。褒められた生活ではないですな」
「顔見知り?」
「かどうかは定かではないようです。チャトラが相手の破落戸(ごろつき)に話しかける素振りも無いようで、ただ見つからないようにじっとつけ回しているのだと」
「ほう」
「そもそもひとところに留まるような生活の男ではないようでして。日銭を物乞いしたり、弱いものを脅して巻き上げたり、あまり人付き合いもないようです。宿に泊まっている幾人かにも尋ねてみたようですが、最近流れてきた顔程度のことしか他のものも知らないようで」
「ふむ――」
「……と、ここまでがおおまかな表の報告でして」
 書類を数枚めくって、アウグスタが一旦言葉を留める。次に上げた視線に物騒な光が宿っていた。

「良からぬ評判のようですな」

 表の報告、というからには気分の良くない報告があるのだろう。僅かに構えた皇帝へ、アウグスタが言った。
「宿に泊まる人間や酒場のものからは聞き出せませんでしたが、男がちょっかいをかける立ちんぼたちから話を聞くことが出来ました。彼女……春を売るものたちですね。それも所属する店を持たない、個人で流している最底辺の女たちですが」
 それは、「姉」と同じだ。
 さらに報告書を読み上げようとしたアウグスタが言葉を切る。扉の外で、何やら人間が問答する押し殺した声が聞こえてきたからだった。
 通せ。今は駄目だ。急ぎの用事なのだ。もうしばらく待て。待てない。
「――通しなさい」
 聞き覚えのある声だと頭が理解した瞬間、口を衝いて許可が出ていた。
 部屋の隅に控えていた侍従が慌てて扉へ行き、外に顔を出す。皇帝の命令が何をおいても最優先される。
 外と短くやり取りをした後、廊下の護衛と揉めていた本人が姿を現した。
 ラズである。
 肩で息をしていた。全力で走ってきたのだろうなと思える格好である。
「大変申し訳ありません。不躾は承知でしたが火急の」
「前置きは良いよ。――本題に入りなさい」
「チャトラが」
 息せき切らせたラズが喘ぎ、声を押し出した。
「チャトラが捕縛されました」
 なに、と周りの人間にざわめきが走る中、しんと構えた皇帝は小指の先ほども動じはしなかった。
 ――ああそうなのだろうな。
 窓の側へ視線をずらし、そう言えば春の花の名前をまだ聞いていなかったことに気が付く。
 ささいな思い付きは日常ごとに埋もれて直ぐに見えなくなってしまう。
「如何いたします、」
「――とりあえずは最後まで君の報告を聞こうか。判断はそれからでも遅くはあるまいよ」
 手をゆるく降ってアウグスタに先を促す。
 まさか、とは思わなかった。意識の外で、うすうすと感付いていたからかもしれない。

                   *

 人を、刺した。
 生まれて初めての経験のすぐ後、チャトラは膝を抱えて牢の中にいた。
 路地裏でナイフを振りかざし、振り下ろした。それは覚えている。
 相手が大仰な叫びを上げた。
 耳にして、しくじったと思う。こんな悲鳴を上げられるようなら、それは致命傷に至っていない。
 瞬間チャトラは逃げようとした。
 覚悟はあった。自分が何をしようとしているのか自覚はあった。
 けれどまだ捕まる訳にはいかないと思った。
 だのに騒ぎを聞きつけた衛兵に囲まれ、槍の背で打たれ、抵抗できなくなったところを縛り上げられた。
 打たれどころが悪かったのか、鼻血がいつまでも止まらずじわじわと染み滴って、辟易する。
 服の袖で乱暴に拭い、手の平をじっと眺める。固く握りしめすぎたナイフの柄の跡が、消えていないような気がしてごしごしと床に擦りつける。消えない。半泣きになった。
 人を、刺した。
 正直には刺した、とは言えないのかもしれない。立ちんぼの女を引き込み、路地裏の奥でよからぬ動きをしている男へナイフを振りかざした。そこまでの手際は頭の中で何度も練習していたけれど、振り下ろす勢いが持てなかった。しくじった。舌打ちをする。
 皇帝の居室から持ち出した果物ナイフは形も小ぶりで、人を殺傷する目的で使うのだとしたら、ずいぶんと能力が低い。けれどチャトラにとっての獲物はそれしかなかったし、他に思いつく武器がなかった。
 調理人の使う包丁や、裁縫女の裁ちばさみや、修繕のやっとこは、武器として使おうと思えば十分に用を成したであろうけれど、それらを使うものにとっては大事な道具であり、彼らから道具を取り上げ、自分の勝手な目的のために人を殺すための道具になり下げたくはなかった。あれはあの人たちのものだ。そう思う。
 かと言って町の鍛冶屋で剣を購入するだけの金はない。
 衛兵の詰所にはいくらでも武器と言えるものはあったけれど、チャトラが使うには盗み出さなければならなかったし、やはり気が引けた。
 結局、部屋にあった常備の果物の横にあるナイフを手に取った。皮をむいたり切り分けることが目的のナイフには、ほとんど刃が付いていない。
 それでも良いと思った。
 突き立てることができれば、用を成すだろう。
 壁際に追い詰めた男に対する殺意は十分自分にはあったはずだ。認める。
 だのに、自分には振り上げた刃を振り下ろすことができなかったのだ。

 こわかった。

 果物ナイフだろうと、鋏だろうと剣であろうと、刃の付いている部分には人の肉を裂き腱を切る力がある。
 強く憎み、アイツを殺してやりたいとどんなに願っても、思いで人は殺せない。
 人を突き刺すには覚悟がいる。
 己の手で、とうとうと流れてきた命をぶち切る壮絶な覚悟。
 殺してやりたかった。
 振り下ろしその喉元に突き刺せ。気道をつぶし、脈を切り、きたない飛沫を上げながら血泡を吹いて絶命するその顔を、
 顔を、
 ……だのに。
 腕が強張る。肩が震える。

「何しに来たんだよ」

 階段の上の方で幾人かの足音と話し声がして、静かになった。それからひとつ、ゆっくりと石段を降りてくる気配がある。明り取りの灯りでは薄暗すぎて何も見えなかったけれど、漂った練り香水に勝手に体が反応した。
「……なんでこんなところ来てんだよ……」
 膝の間にうなだれる。
 見ないでほしかった。
 こんな情けない自分は。
「帰れよ」
「――」
「帰れ」
「――流しの花売りを救った英雄殿の顔を見に来たのだけれど――随分ひどい顔をしているね」
「……救った?」
 は。乾いた笑いを吐き棄てて、チャトラは頭を振った。
「何かカン違いしてるんじゃねェか?オレはただの人殺しだよ」
 未遂だったけどな。心の中で暗く呟く。
「容疑が確定するまでは、まだその名は冠せまい」
「じゃあなんとでも好きなように呼べよ。……得意だろ?適当に名前以外で呼ぶの」
「だから。英雄と呼んでいるのだけれど」
「どこがだよ!」
 かっとなって思わずチャトラは顔を上げ、鉄格子の向こうの涼しい顔をした皇帝を睨みつけた。
「オレの、どこが英雄だよ!オレはただの、路地裏でひと一人を手にかけそこねた情けねェ人殺しだよ!」
「殺すつもりであった」
「そうだよ」
「本当に?」
「八つ裂きにして、内臓全部かき出して、生皮剥いでやるつもりだったよ!」

「では」

 ぎいいとひどく錆軋んだ音を立て、鉄格子の扉が開く。は?行われている意味が判らなくて、チャトラは内へと開いた扉を凝視した。
「何し、」
「――本懐を遂げたいであろう」
 手にした檻の鍵を玩びながら男がぞっとするほど低い声で言った。
「叶えてやっても良いのではないかと思ってね」
 罪を糾弾しないのか。
 背にした灯りのせいなのか、辺りに纏わる男の金糸が細く蜘蛛の糸のようにきらめいて、とても綺麗だ。
 金の魔物が薄く嗤ってさぁどうした、と唆す。
「このところ、お前が挙動不審だったので調べさせた」
「……」
 男が調べたと言っていると言うことは、おそらく相当綿密に調べたと言うことだ。中途半端の報告では男は動かない。
 お前がつけ回していた男、と謳うように皇帝が言った。
「町の流しの娼婦どもには、たいそう評判がよろしくないね?生死のぎりぎりの生活をしている彼女たちは、神経も鋭敏だ。独自の情報網もある。莫迦にできたものではないし、諜報活動に是非とも見習うべきだね。そう思う。その彼女たちの何人かが、見知った顔であると答えたそうだよ。別の町、別の時間にも娼婦街に今日お前が襲った男がいたと」
「……それが、なんだよ」
「彼女たちはたいがい、客の顔を見てその素性が判るそうだよ。好み。性格。気性。日にどれくらいの稼ぎがあるか。好きな酒の銘柄まで当てて見せると豪語したものもいた。――それらが口をそろえて言うのだそうだ。あれはロクなものじゃない。よくない目をしている」
「だから。それと、オレが人殺しなのとは関係がないだろ」
「端的に言おうか。――『姉』の仇なのだろう?」
「……」
 言い切られてチャトラは俯いた。顔が強張る。
「忘れることができないと以前、お前は私に言ったね。偶然だったのかな。町でお前はその顔を見つけた。『姉』を手にかけ、お前に強烈な呪いを残し、去って行った顔。お前がおかしくなった行動を鑑みるに、私と待ちあう約束だったあの日に見つけたのだろうと、そう思うのだけれど」
「……」
「見間違いはない。もしかすると、何かお前の知っている印でも残っていたのかもしれない。たださすがに直結に手は出せなかった。――だから、毎日町へ下ってお前は男の動向を探った。少しでも不審な動きをしたら、次は見逃すまいと、そう思いでもしたのかな」
「……」
「人間の性癖なぞ、そうそう変えられないものだ。花売りの彼女たちにも嫌われていたそうだね?縛めることに、何故かおかしいほどに興奮した様子を見せる男だと」
「……」
「別の町でも何人も情交中に絞殺された女がいたそうだよ。上着だけ身ぎれいにした男が出没すると。狙われるのは決まって、小さな子供を抱える若い――まだ娘にも至っていないほど若い、女だそうだ。金をちらつかせて人気のない路地へ誘い込み、情交中に縊り殺す。紐の長さ、縄目の跡も同じ。情交を最後まで済ませてゆく辺りも同じ。あの男がやったのではないか、あの男が怪しいと勘ぐり訴え出ようとしても、訴え出る場所がない。売春宿が後ろ盾に付くならともかく、居住権も持たない流れの人間の言葉に果たしてどれだけの役人が耳を傾けるか」
「……」
「とすると、泣き寝入りするしか手がない。出来うる限りの対処は仲間内で注意喚起し、危ないと思ったら近付かないことだ。危ない。命が惜しい。――けれど我が身ならともかく、幼子を抱えた女は、子を食わせるために我武者羅に客を取る」
 次はお前だ。
 首を絞められ、舌を突きだし苦悶する姉を組み敷いたまま、竦んだチャトラに振り向いて男は矮悪に笑って見せた。
 姉は死んだ。
 まだ十五をいくつか超えたばかりの、人生の喜びの何たるかを知る前に姉の命は散った。
 ……殺されたんだ。
「付け回していたお前に男は気付いたのかな。それともどうでも良かったのだろうか」
 いつもと同じような時間に姉を殺した男は木賃宿を出た。
 いつもと少しだけ違ったのは、垢染みたシャツの上に厚手の生地の上着を羽織っていたことだ。気付いて恐怖に竦む。目の前がちかちかと点滅してよく見えなくなる。
 ……姉ちゃんを殺した時と、同じ格好をしている。
 懐に忍ばせたナイフを握りしめて、そっとチャトラは男の後を追った。
 許せなかった。
 姉のやさしさに甘えていた自分も、チャトラにとって至上の存在だった姉を殺した男も等しく許せなかった。


 訴え出ようとは思わなかった。


 姉を殺した男を見かけた最初の日、チャトラはアウグスタにエスタッドの法律を尋ねた。三補佐の中では、彼が一番刑法に近い仕事をしていることを以前に聞いて覚えていたからだ。
 人を殺すとどうなるのかと、チャトラは尋ねた。
 ひと一人を殺すと言うことは、いったいどのような罪に問われるのかと尋ねた。
「はりつけにしたり、さらし首にするの」
「いきなり罰することはせんよ」
 物騒な話だな、ぜんたい何かあったのかとやわらかく聞き返しながら、アウグスタが言った。
「そもそも、ああいう『晒す』手段は、刑罰と言うよりは見せしめだ」
「見せしめ」
「そう。例えば盗賊や山賊の親玉とかだな、悪名高く、また女子供でも容赦なく殺して金目のものを根こそぎ奪うような、残虐な行いをした人間は、ああして磔刑や晒首にすることで世間に知らしめてやるわけだ。むごい行いをした人間は必ず罰せられるぞと、憎い人間はこうして絶命したのだから、市井の人間はもう安心して稼業に精を出せと」
「……あれが全員じゃあ、ないんだ」
「そうだな。よほどのことをしない限り、ああはならぬな」
 やわらかな物言いを崩さないまま、茶でも飲んでいくかと勧められた席をチャトラは断った。長居するつもりはなかった。
 代わりに尋ねた。
「じゃあ、普通は?」
「普通?」
「ケンカをして、かっとなって殴り殺したとか」
「……そうだな。まずはどんな理由であれ、人を殺したことに変わりはないから、手を下した本人は拘束される。それから、検分……例えば周りで見ていた人間がいた場合だな。その場合は、見ていた人間に話を聞く。実際使用した凶器が殺された人間の傷と合致するか調べる。それからどうしてそういうことになったのか、さらに話を聞く」
「殺した本人に?」
「本人にも聞くし、周りにも聞く。ケンカのとっかかりは何だったのか。どちらから先に手を出したのか。怨恨はあったのか。金の問題やら、女の問題やら、まぁ色々だな」
「……」
「その全部の状況を合わせてみて、誰にどのくらいの非があったのか、社会的に見てどういう評価をされるのが妥当か、判断しながら容疑者に罰を言い渡す」
「……全部死刑じゃねェのか」
「怖いことをさらっと言うな。まぁ、時には死をもって償ってもらう時もあるな。だが、全部が全部そうなる訳でもない。例えば、何かの拍子に恨みを抱いて、やってやろう、いつかきっと恨みを晴らしてやろうと武器やら状況を用意して犯行に及ぶ場合と、曲がり角で出会いがしらに衝突して頭をカチ割り、一方が死んでしまった場合では状況が異なるからな」
「でも、殺された方の家族には状況とか事情なんて、関係ない」
「そうだな。だが殺した方にも家族がある」
「ああ……」
 それはそうだろう。失念していた。
 憎しと思える相手に例えば赤ん坊がいたとして、その赤ん坊にまで憎しみを抱けるか。
 抱けるとしたら、それはいったいどれほど根深い憎しみなのだろう。
「……罪を犯した人間の家族はみな悪だと一概には言えまい。だから法律と言うものはそう言った、どういう状況でどう決めて行ったらよいのか、照らし合わせながらの指標のようなものだろうな」
「そうか……」
 だったら自分は重罪だ。暗く思う。
 殺してやろうと思った。必ず姉の仇を討とうと思った。けれど、きっかけがなかった。年が及ばなかった。力がなかった。それだけのことだ。
 意志は十分にあった。
 あの時、姉が殺された時、チャトラにもしひと一人の命を絶てる力があれば、
 あれば。

「なあ」

「ん?」
「人を殺した人間が野放しになってたとして、そいつを誰かが訴えたら、そいつは捕まるのか?」
「それも状況だろうな」
 肩をすくめてアウグスタが応える。
「殺したとの証言だけでは拘束し尋問することはできても、罰することはできない。実際の現場を押さえたならまだしも、まずはその疑わしきを証明するための証拠を集めることが先だな」
「現場を見た人間がいたとしても?」
「今の法律では優先順位と言うものがある。例えば、町の巡回の衛兵が殺人の現場を目撃したとしたら、有力な証言になる。これは、個人の性質がどうのと言うよりは、巡回の兵士の職務の中に、市民の日常生活を平穏に保つと言う責任が含まれているからだ。この場合、衛兵が見たと言うだけで状況決定し、罪が確定するときもあるな」
「普通の人間の場合は」
「そうだな。まず二、三人の証言が必要になってくる。何らかの事情で邪魔になった彼奴を陥れてやれと、そう言う口裏合わせもあるだろうから、慎重に調査する必要があるな」
「疑わしいだけでは捕まらない、」
「そうだな」
 自分の証言に力はない。
 だったら姉ちゃんが縊り殺された時と同じじゃあないか。
 ただ図体がいくらか大きくなっただけで、力のないことに変わりはない。
 だったら。

                   *

「――男に声をかけられた彼女が証言したよ。ナイフをかざしたのは確かにお前であるけれど、その前に自分は八割方男に絞め殺されかけていたと。首に紐を巻きつけられ、これがこの客の趣味なのか、それとも危害を加えようとしているのか判断する前に息苦しさに身動きできなくなったと」
 鉄格子のこちら側で、皇帝は静かに告げた。
 目の前には身を固くし、うつむいたチャトラがいる。
「――死ぬ直前の胎内の引き攣れが良いのだと、絞めながら男は呟いたそうだね」
 喉奥から泡がこみ上げる音が聞こえました。目の前が真っ赤になって、とても熱くて、アタシはもう死んじまうんだと思いました。
「様子を窺っていたお前はその声が聞こえたのだろう?」
 苦しくて痛くて、誰でもいいから助けてほしかったんです。でももう声が出なかった。暴れようにも押さえつけられて動けなかったです。ああアタシはここで仕舞いかって。
「懐に隠していたナイフを突きつけて、お前は男に彼女から離れるように言った」
 急に空気が入って来て、逆に苦しくて転がったんです。何が起こったんだろうって。しばらく訳が分からなくて、でもぐちゃぐちゃになった視界の向こう側で、小さな男の子が客だった糞野郎の襟首を掴んで、アタシからはがしたのが判ったんです。
 怖い顔をして男の子が何かを糞野郎に言っていました。耳がまだおかしくなっていたし、何を言っているのかまでは聞き取れませんでした。それからナイフを取り出して、男の子が男に向かって振り上げたんです。オレの手で殺してやるって、それだけは聞こえました。
 だけど。
「お前は――、」
 だけど、殺さなかったです。ナイフを振り上げたまま、すごく苦しそうな顔をして振り下ろすのかどうか迷っているようでした。迷った丁度その時に、向こうの通りから見回りの阿呆どもの声がして、それを聞いた男が、自分からナイフを握った男の子の手ごと掴んで自分に向けて振り下ろしたんです。ぎゃあって叫んで、刺された、殺されるって言って。聞きつけて兵士が走ってきました。でも男の子が刺したんじゃない、あいつが自分から刺されたんです。
 兵士を見て男の子は逃げようとしました。その男の子を囲んで、あいつら、殴ったり蹴ったりしやがりました。アタシ、喉がおかしくなってて声が出ませんでした。けどバカだろって罵りたかった。捕まえなきゃいけないのはその子じゃない。横で、あいつらが庇っている糞野郎の方です。その糞野郎に向かって大丈夫かって。手当てをしてやる、深い傷じゃないからすぐ治るだとか言って。
 男の子はすぐに大人しくなりました。もともと、本気で逃げ出そうと思っていなかったのかもしれない。
 でもアタシは、あの男の子に助けられたんです。あの子が来なかったらアタシは今頃路地裏で一人、冷たく転がってますよ。
 助かったんだって思います。死ななくて済んだんだって。男の子が助けてくれたんだって。ありがたいです。
 そりゃやられ損だし今日一日の稼ぎはないですよ。でも、おかげで、部屋で待ってる子供を置いてゆかずに済みました。まだ六つなんです。アタシが死んだらあの子の世話する人間なんていないんです。すぐ死んじまう。
 ……男の子はどうなるんですか。無事なんですか。えらく殴られていたけど、腫れてやしないだろうか。あの野郎のせいで、人殺しとか言われるんですか。
「確かにひどく殴られたねェ――」
 うつむくチャトラを眺めて皇帝は一人語散た。
 滲む鼻血を乱暴に拭ったのだろう、赤い筋が鼻の下から頬に向かって薄く伸び、拭ききれていない。
 傍らに膝を着いてしゃがみ込み、無理に顔を上げさせて自分の袖で彼女の汚れを拭ってやる。
 煩わしそうにふり払われて、またチャトラは一人膝を抱え込む。
 目を合わせようとしない。
「――仕様のない」
 頑なにしている風のチャトラの腕を掴み、皇帝は立ち上らせた。
「放せ、」
「来なさい」
 言って皇帝はそのまま無理矢理チャトラを引きたてて、階段を上った。扉脇に控えた衛兵のしゃちほこばった敬礼に目をくれることもなく、いくつか扉をくぐり抜ける。有無を言わさず馬車に押し込み、都内でも外れの一角へ走らせるとまた無言でチャトラを車から引きずりおろした。
 その頃にはもう抗う気力もなくなったのか、どこか空ろな表情で彼女は黙って男の後へ付く。
 予想はしていただろうに、開け放たれた取調部屋の入口で、それでも彼女は立ち竦んだ。
「入りなさい」
 後ろから押しいれる。
 周囲を高い鉄格子で囲み、分厚く硬い石でられた四面四角の建物。
 獄舎である。
 そこに、皇帝は一人の人間を放り込むように指示した。
 チャトラがナイフをかざした、チャトラの姉を殺した、
「……許しを乞いにでも来たのかい」
 ふてぶてしい顔をして椅子に斜めに腰掛け、見上げた男が笑った。
「刺された俺が、お役人に訴え出たら勝つから。その前に解決しようと謝りに来たのかい」
 肩には包帯が巻かれている。白布は、他の垢じみた服のどれよりも白くて、だからなのか妙に浮き出て見えた。
 黙りこくってチャトラは男を睨んでいる。
「なあよ。そこのなよっちい兄さんよ。アンタがそいつの保護者かい。アンタがそいつの保釈金を払ったのかい」
 俺に口止め料でも払うつもりなのかい?
「――猫」
 押し込む際に触れた、チャトラの体があたたかい。当てた手の平から伝わる。
「猫」
「……」
「本懐を遂げても」
 よいよ。
 言って皇帝は衛兵から預かった果物ナイフを巻かれた布から解き、出して示した。瞬間彼女の肩が揺れる。
 わななく唇が、どうして、と小さく動いたことに皇帝は気付く。どうして。
 首を傾げた。
「――それがお前の願いなのだろう?」
 どうして。
 それは、向かい合った男の口からも呻きとともに漏れた言葉だった。
 余裕の色を一瞬でなくし、驚愕に顔を引き攣らせ、椅子から転げて背に回る。
「な、な、な」
 怯えた声を上げる男には目もくれない。価値はないと思う。
 それから、自分自身の立場と言うものを理解できていないのだなと思う。
「――お前が最初に『姉』に拾われ、二人で暮らしたと言った町があったね」
 再び彼女へ視線を戻して静かに皇帝は呟いた。チャトラは黙っている。
「その街へ、調査の人間をやった。既にほとんどが代替わりをしているか、町を離れていて当時を知っているもの――、多くはなかったけれどもね。それでも花売りの数人かは、お前と姉のことを覚えていたよ。うらやむほど、とても仲の良い姉妹だったと――」
「……」
「お前の姉が被害にあったことも彼女たちは知っていて、必要ならば証言してくれるそうだ。右肘の裏に、火傷の跡がある男だそうだよ。皇国領は勿論、他国の下町――この者が獲物を物色しそうな治安の行き届いていない場所――にも人をやった。あちらこちらで随分と悪さをしてきたようだね。名もない、無力な女たちが幾人も殺され屍をさらしていた」
「……姉ちゃんだけじゃ、ねェの」
 そこで初めて、獄舎に足を踏み入れてから初めて、チャトラがはっきりと声に出して繰り返した。
「そう。性癖なのだろうよ。特定の状況下でないと興奮を覚えない。――つまり苦悶する人間を見ると高揚するのだね。戦場で働きを見せればそれは勇士であるけれど、町ではただの異常者だ」
「……」
「『姉』を殺したのはこの男だ」
 言って皇帝は背後に控えた牢番に手を振った。無表情の牢番はひとつ頷き、つかつかと近付いて椅子の背にしがみつく男を引きはがす。
 追い込まれたのがチャトラではなく、己自身なのだと男は遅れて理解したのだろう。
 死に物狂いで男は暴れる様子を見せたものの、体格の良い牢番はびくともしなかった。
「あちらこちらに散らばるせいで、調べ上げるのに少し時間がかかってしまった。しかしおかげでこの者の処置は楽に決定できそうだ。極刑になるだろうね。放っておいてもおそらく晒首に処されるであろうけれど――」
 そんな。バカな、どうして。
 喚く男を一瞥し、それから皇帝はチャトラの指にナイフを握らせてやった。
「お前の悪夢に長年かかわり続けた人間だったね」
 固くなった指を一本一本開かせ、握らせ直し、
「これで、お前が悪夢から解放されると言うのなら」
 笑えば良いと思った。
 これで彼女は笑ってくれるだろうか。
 こわばった、ぎこちない、作ったものではなく、心底聞いているこちらまで何故かおかしくなってくる、転がるような笑い声が聞きたいと思った。
 聞いていない。もう半月以上も彼女の頬に笑みはない。
「……テメェ……!こんなことをして、許されると思ってるのか!」
 苦し紛れに男が喚いた。
「善良な市民を殺すとどうなるか、」
「――善良」
 喚く男は、皇帝の素性を知らない。だから仕方のないことだとは思う。許されるだとか許されないだとか。自分には関係のないことだ。
 僅かに首を傾げ、
「――何も、起きぬよ」
 嘯く。
「今からしばらくの間、『ここでは何も起きなかった。』」
 誰もいない。誰も見ていない。誰も聞いていない。
 皇帝がそれを望めば、周囲は合わせて動く。許されると言うのならば、皇帝が状況に許されている。
 握りしめたナイフを見下ろしながら、チャトラが一歩前に出た。固く唇を引き結び、眉が吊り上っている。小さく息を二、三度吐いた。
 人を手にかける人間が発する特有の無表情になる。殺気が立ち上った。それを見て押さえつけられた男が、今度は哀れな悲鳴を上げた。
 やめてくれ。頼む。助けてくれ。アンタのいいようになんでもする。だからどうか、命だけは、
「――殺された女たちも同じように乞うたはずだろうに」
 言って皇帝は薄く嗤った。
 その前でチャトラが、ゆっくりと音がしそうな動きで汗と涙にまみれ歪めて泣き喚く男を見、それから逆手に握ったナイフを見、もう一度男を見て、最後に真っ直ぐにむき出しの腹に視線を合わせた。
 掻き切れば、美しい色をした臓腑がこぼれ落ちるだろうと思う。臓腑がこぼれてもすぐに絶命はしない。苦しみ悶えわななきながらじんわり、じんわりと冷えてゆくだろう。
 殺してやりたいと言っただろう。
 八つ裂きにしてやりたいと言っただろう。
 先ほど口にしていた言葉を思い出し、それから自分はどうかしているのだろうかと皇帝は思った。近頃、彼女の一言一言がどうしようもなく思える時がある。道徳的に見て如何と他に眉を顰められようとも、彼女が願うのならば全力で叶えてやりたいと思ってしまう時がある。
 そうして自分の手元には実現できるだけの力がある。
 盲目なのかもしれないなと思った。――人はそれを何と呼んだのだったか。
 胸元の前で、関節が白く浮き出るほどナイフを握り、チャトラが唇を噛み締めた。ぎり、と音がして、

「……もう……、いい」

 ナイフを握り、振り上げかけた右手を左手で押さえ込み、がくがくとした動作で彼女が呻いた。
「――良いのか」
「……いい」
 一本一本、男が握らせた動作と真逆の動きでチャトラは拳を開き、左手でナイフをつまみ上げ、床に放り投げる。
 石畳に跳ね返る固い金属音に、ひゃああと男が裏返った喚声を上げ、殷々と室内に跳ね返って木霊する。耳障りな音だった。

「姉ちゃんは死んだ」

 殺したってかえってこない。
 顔を背け、吐き棄てる。あらためて握りしめた拳が震えていた。

 半ば失神しかけた男を引きずり立たせた牢番へ、皇帝は目をやる。小さく頷いた牢番は、袋を担ぎ上げるように男を肩に乗せ、部屋を排していった。行き先は独房だ。
 同じように護衛兵が皇帝の合図で扉の外に出た。

 唐突に、しんとする。あまりに静かで、互いの呼吸音が聞こえる気がした。
 部屋に残されたのは皇帝とチャトラの二人だけだ。
 投げ出したナイフの刃が放つ鈍い光を見つめながら、チャトラは背を向けたまま動かない。声をかけあぐね、しばらく口を噤んだ皇帝は、やがて目の前の体が全身小刻みに震えていることに気が付いた。背を向けていたので表情が窺えなかった。だから、気付くのが遅れたのかもしれない。
「――チャトラ」
 衛兵詰所で鼻血を拭った時と同じように、皇帝は彼女の前に回り膝を着いて覗き込む。こうすると互いの視線がほとんど同じ高さになった。覗き込んで、思った。
 今までこうして視線を合わせようとした相手がいたか。
 顔を伏せ、声を押し殺してチャトラは泣いていた。食いしばった歯の間から、畜生と呻きが漏れる。
 許せないのだなと思った。姉を手に掛けた男をひと思いに殺すことのできなかった、自分が。
「だが」
 最初から判っていたことだ。無下に手を下すことのできる人間は、町で見つけたその時に既に行動を起こす。だから彼女は、殺さなかったのではない。殺せなかったのだ。
 やさしさだろうか。甘さだろうか。不甲斐ないと誰かは言うだろうか。
 しかしその弱さは、皇帝にはないものだ。
 畜生畜生と吐き出しながら、チャトラは握り拳で壁を殴る。力任せに数回たたきつけ、がつと聞こえた鈍い音に皇帝はその手を止めた。包む。
 片手ですら包み込んでしまえそうなほど、彼我の大きさは顕著で、こんなに猫は小さかったのだと眉をひそめる。
「困ったね」
 小さな体を固く丸めて縮こまって、
「一人で泣くなと言っているのに」
 押し殺した悲鳴が細く高くチャトラの喉から漏れた。どうにもできない激情が、行き場を見失って彼女の体内を吹き荒れている。
「……オレはッ……本当意気地なしのクズだ……ッ」
 絞り出す。
「なんで右手が動かねェんだよ!なんでオレは姉ちゃんの仇を討てないんだよ!」
「――ああ、」
「オレが……、オレがしないで誰が姉ちゃんの無念を晴らすんだよ……」
「ああ」
 地団太を踏んで喚く。顔を歪めて確かに泣いているのに、怒りのあまり涙もでないのだ。心底殺したかったのだろうと思う。最初に発した殺気は、皇帝が見ても本気だった。
 だのに、一瞬。振り下ろすほんの刹那手前で、チャトラが汗と涙と鼻汁にまみれた男の目を見たことに男は気付いた。無理だろうなと思ったのはその時だ。命ばかりは助けてくれと、こんなところで死にたくないと懇願する必死な男の目を見てためらったのだ。
 逡巡のひび割れに、動揺が入り込み傷口を押し広げた。
 目を見てしまった時点でチャトラにはもう振り下ろすことはできなかったのだ。
 包んだ彼女の手を見た。甲の関節の皮が破れ血がにじんでいる。
 手のひらには食い込んだ爪の跡。
 その手を押し頂くようにして、指先に口付けると引きつけたように彼女の肩が揺れた。
 ひと一人満足に傷付けることもできない、
「――意気地ないお前が、私は好きだよ」
 くぐもった自虐。抱き寄せた胸元でチャトラが腹の底から咆哮した。
 言葉にならない絶叫だった。
 そのチャトラの体を抱きしめ、頭を撫ぜながら、皇帝は飽きるほど同じ言葉を彼女に向かって繰り返す。
 大切にしたいもの。大切にしなければいけないもの。
「弱さを棄てられぬお前が、とても好きだよ」
 腕の中の塊はそのどちらであったろう。

                    *

 ずいぶんと経っただろうなと思った。
 チャトラは頭をもたげて男の顔を見る。
 獄舎の取調室は気密性が高い。中での詰問や拷問の声がなるべく外に漏れない仕組みだ。明り取りの窓ひとつも設えられていないので、外の様子が判らない。
 けれど何度か皇帝が自分の背を叩く手を止めて、扉の外から小さく指示を仰ぐ声に応えていたから、一刻二刻の長さではないのかもしれないなと思った。
 さんざん喚き疲れた。激情が収まったと言うよりは、そのこみ上げ堪える力が保てなくなってくたびれ果てたと言う方が正しい。自分自身が許せないことは相変わらずだったけれど、頭がこんがらがってうまく考えられなかった。何も考えずに寝てしまいたいと思った。
 声を発する元気はなくて、ただ黙ってチャトラは皇帝の肩口に顎を乗せた。自分がこれだけずたぼろなのに、男はなんだか楽しそうだ。けれど、楽しそうだなと思いはしたものの、それ以上の感想は持てなかった。
 頭が重い。
 それからまたしばらく静かに髪を撫ぜていた皇帝が、喉は渇かないかと聞いてきた。何もいらなかった。首を振る。そうか、と頷いて、では腹は空かないかと続けられる。首をもう一度横に振りかけて、自分はともかく男は腹も減っているし喉も乾いているかもしれないなと思った。今がいったい何時か判らないけれど、長時間男が付き合ってくれているのだと理解していたし、
「……少し」
 食欲はまるでなかったけれど、巻きこんでは気の毒だ。そうでなくとも簡単に一食二食抜いてしまう相手だったから、ここは無理してでも食べた方がいいのかもしれない。
 そう、と皇帝は浅く頷くと、少し待っていなさいと言ってチャトラを膝から降ろし、部屋を出て行った。
 途端に空気が数度下がったような気がする。
 春とはいえ、まだ寒い。しかも鉄格子がないだけで、取調室はほとんど監獄と変わりがない。思わず自分の肩を抱いて身震いした。
 壁にもたれて息を吐く。
 思い悩むには相当自分はくたびれていて、何も思い浮かんでこない。ぼんやりと一点を眺めたまま、やがてうとうとと眠っていたようだ。


 やさしい夢を見た。
 記憶の中で一番きれいな姉が、チャトラを向いて立っている。何か言っているようにも思えたけれど、水の中を泳いでいるようでうまく聞こえない。なに、と聞き返した自分の声もくぐもっていた。ああこれでは届かないなと思う。
 それでも良かった。
 姉は笑っていた。
 ころころと、まるで音がしそうな。楽しそうに笑って、自分を見ていたのだ。
 ……姉ちゃん。
 姉がいなくなってからというもの、チャトラの夢に出てきた彼女はいつも最後に見た死に顔だった。青白くこわばった顔で、見ているだけで何もしなかった自分を、怯え町から逃げた自分を、記憶を押し込め忘れた自分を、ぎらぎらと睨みつけ、お前のせいだお前がアタシを殺したのだと言った。
 ごめんなさいと謝りたかったけれど声は出なかった。何故ならいつもチャトラは姉に首を絞められていたからだ。
 軋んだ指を伸ばし、チャトラの首を絞める。死ねと言う。
 ごめんな、ごめんなと繰り返し思い頭の中が真っ黒になって、息苦しさに飛び起きる。
 その姉が、今日はどうしてかこちらを向いて笑うのだ。
 夢なのだなと悟った。それでもいいと思った。
 覚えている限りの中でいっとうやさしい笑顔。ああ姉はこんなに美しいひとだったのだなと思う。
 ……姉ちゃん。


「うん、」
 頭を撫ぜられた気がして目を開ける。布団に押し付けた方の頬があたたかい。
 見上げるとチャトラはまた皇帝の腕の中にいて、男は彼女を抱えたまま床に本を置き、器用に読んでいたようだ。
 あたたかいのは布団ではなくて男の体温だ。いつもは冷たく感じられる体も、こうして寄せていればそれなりなものなのだなと思った。
 おはよう?首を傾げられて、おはようと同じように返した。
「……オレ、寝ちゃってた、」
 かすれた声が出た。ひどい声だ。長らく喚いていたので腫れたらしい。ひりひりする。
 うん、と男が頷いて本を閉じる。
「朝?」
「朝」
 直ぐに自分は寝てしまい、部屋に戻った皇帝は寝た自分を抱えなおして結局一晩過ごしたらしい。
 うわ、と声が出る。毛布にくるまれた自分はともかく、床石の上に一晩中男は腰を下ろしていた訳で、割ととんでもない話だ。
 普段羽毛を何重にもした布団で寝ている人間が、石畳に座り込むと言うだけでありえない話なのに、チャトラを抱えて一晩同じ姿勢だとか、もし自分が逆の立場だったら深更半ばで痺れと寒さで音を上げる。
 寝ぼけ眼で立ち上ろうとした頭が、伸ばされた腕でぐいと掴まれ再び懐に押し付けられ、
「そのままで良い」
 耳元に囁かれた。
「だってオレ」
「どうせもうすぐ皇宮から使いが来る。最後通牒だ。来れば皇宮へ戻らねばならぬし、戻ればこうして微睡んでいることもできまい」
「重くねェ?」
「重くはないよ」
 薄く微笑んですり、と皇帝が額をチャトラに擦りつける。こうしてまじまじと男を眺めるのも実に久しぶりだと思った。
 なんだかこのひと月ばかり、生活していた覚えがない。
「今週、改めて日を開けるから」
「……うん?」
「そうなったら、お前とゆく約束をしていた露店に食べに行こう」
「ああ……うん。でも別にもういいんだ」
 行くか行かないかは大した問題ではない。チャトラが重ねてゆきたかったのは、事柄ではないのだ。
「良いのか」
「うん。もう、いい」
 誕生日ならほしいもの、貰った。
 言うと男が怪訝な顔をして首を捻った。
「――何も与えた覚えはないが」
「アンタは判んねェかもな」
 教える義理もない。口に出すのは小っ恥ずかしい。
 泣き喚くチャトラに向かって、男が何度も繰り返した睦言。好きだと口に出されたのは初めてだろうと思う。無意識なのだとしたら、指摘すると二度と男は口に出してくれそうにないので、言うつもりはないけれど。
 それが動揺する自分への慰めの言葉でも、別にかまわないと思う。自分は確かにその言葉に救われたから。
「なァ」
「うん」
「オレ、そのうち姉ちゃんの墓に行ってくるよ」
 迎えに寄越された馬車に乗り込んで、チャトラは皇帝と共に皇宮へと向かう。
 向かう、と思ってそうではないなと打ち消した。
 向かうんじゃない。帰るんだな。
 その馬車の中で隣に座った皇帝に言うともなしに呟くと、墓参りと聞き返される。
「うん。姉ちゃんが死んですぐに町を出てから、オレ一度も戻ってない」
 自分を待っているだろうと思った。分解され、土と同化しながら飛んできた種を根付かせ、ささやかな花を咲かし、笑いさざめいているだろうと思った。
「同伴しても良いのかな」
「……え?」
「お前の『家族』なのだろう――?」
「……」
 言われてぽかんと口が開く。家族に挨拶をするだとか、一般的には全くおかしい出来事ではないのに、皇帝がその「一般的」な発想をすると思っていなかった。
「それと、乾物店」
「うん。行かなきゃ」
 ノイエが持っていた指示書を盗み見て直ぐに、取るものも取りあえず自分は町を出てしまった。申し訳ないことをしたし、親切にしてもらったと言うのに仇で返す行為だ。一応皇都に落ち着くと、急いで謝罪の手紙を乾物屋の人の良い主人夫婦に宛てて出したものの、実際に面と向かって頭を下げなければならないと思う。自分はひどく裏切ることをしたと思うから。
「……乾物屋にもアンタくるの?」
「いけないかね?」
「いや、ダメって言うか。行くとか行かないとか、だってアンタ仕事、抜けられねェだろ」
「どうとでも言い訳はつく」
「……」
 溜息を吐く。言い切る時の皇帝は梃子でも動かない。三補佐官や護衛がまた泣きを見るなと思って、同じような感想を誕生日云々で抱いたことまで思いだす。仕方がないのかもしれない。人間そうそう変われるものではないし、とするとチャトラと皇帝の関係は同じように続いてゆくのだ。
「……女将さん、アンタみたら腰抜かすかもしれねェなァ……」
 整った顔立ちの男が好きなのだと言って、近隣の劇場の役者に熱を上げていた。姿絵を取り出しては眺めてうっとりし、脇で見ている亭主が面白くない顔をする。
 役者ですらそうなのだ。陶磁器でできた人形のような、まがいものめいた男があいさつに出向く。一体どう言う状況になるものかまるで想像がつかない。
 胸はまだ痛い。姉を殺した男も、男を殺せなかった自分自身も、きっと生涯許せそうにない。エスタッドの法に裁かれて極刑になったとしても、それはそれだ。チャトラの気が収まるかどうかとは無関係である。
 それも仕方ないのかもしれないと思う。自分はまだ上手に処理することができないけれど、年を経たら解決されるものもあるのだろうか。
 隣に座る皇帝を眺めた。窓枠に肘を突き、ぼうと車窓の景色を眺めながら特にそれ以上の言葉を挟んでこない。
 あまりべたべたと始終触れられることは得意ではないけれど、今日ばかりはくっついても良い気になった。
 おずおずと男の肩に凭れ目を閉じる。あたたかかった。皇宮に着くまでの短い時間に、もう一度チャトラは眠りに落ちる。


(20111103)
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最終更新:2011年11月07日 11:26