<<prayer>>


 今日はまたきれいに月が上ってきたもんだな。
 背後から声が聞こえて、皇帝はゆっくりと振り向いた。声をかけられる前からちりちりと澄んだ鈴の音は聞こえていたから、彼女が近付いてくるのは判っている。
 一通りの仕事を終えて、風呂上りなのか、ふかふかとチャトラの体から湯気が上がっている。洗い髪もざっと拭っただけなのだろう。濡れていて、そのまま乾くよりも先に湯冷めしてしまうだろうにと男は思う。
 おいで、と手招くと一瞬怪訝な顔をした後にすぐ彼女は隣に座って、
「アンタ何見てたの」
 そう言った。
「うん、?」
「星でも見てたのかと思ったけどそう言う訳でもなさそうだから」
「なんとなく、雲を」
 最近どうも視力の低下が著しい。月はともかく星はほとんど見えない。目に入っているのだろうけれど、光を確認できないのだから、ないのと同じことだ。
 月の形も、朧に輪郭が滲んで広がって、きっと本来の姿からすると八割増し程度ぼやけて見えているのだろうと思う。けれど遠見でもなければ鳥撃ちでもないので、手元の日常の所作が出来れば十分だと自分では思っている。
 言うとおそらくチャトラが動揺するので口にはしないけれど。
 以前よりは幾分不自由になったかもしれない。
 そんな風に思っている。
「そういやこないだ本で読んだんだけど、雲って湯気でできてるんだってな」
 ふと、上を眺めながらそんなことをチャトラが言った。うん、と皇帝は頷く。
「じゃあ、オレのこの湯気も上に昇って行って雲になるかな」
「かもしれぬ」
 どうでもいい話だ。けれど相槌を打ってやりながら、男はついなると良いなと願った。
「お前の雲は丸い形になるであろうよ」
「……オレ、なんで丸?」
「美味そうだ」
 はー、と曖昧に首肯して、そうして他に何も思いつかなかったのか、チャトラは黙って空を見ている。
 皇帝も黙って空を眺めていたので、しばらく無言の時間が流れた。
 気遣いもなく気疲れもしない、この距離が心地良いと思う。
 そのうち、ろくな上着も羽織らずに風呂上りでやはり冷えてきたのかチャトラがぶるりと肩を震わせた。風邪をひくだろうか。ひいたらしばらく部屋でじっとするだろう。そのあいだ、自分だけのものになるだろうから、それもいいかもしれないな。
 何しろ彼女は忙しそうに部屋を開けていることが多いので。
 皇帝自身も日中はほとんど皇宮のいわゆる「表」部分に出張っているので、チャトラが部屋にいようといまいとほとんど関係がないのだが、それでも不愉快なものは不愉快なのだ。
 ちらとそんなことを思ってから、けれどやはり熱を出したり腹を下すことは気の毒に思えたので、自分の上掛けの留め具を解いて、半分彼女の肩にかけてやる。あったけェ。ほっとしたような声がチャトラから漏れた。
「なァ」
「うん」
「アンタ、オレがいない時も空見てた?」
 どうだったろうか。
 聞かれて皇帝は首を傾げる。見ていたかもしれない。見ていなかったかもしれない。彼女がいない間の自分の記憶は擦れ、断片的にしか覚えていない。毎日歩いた回廊がやけに眩しかっただとか。蜜蝋を合わせた灯りのにおいだとか。
「――風は冷たかったように思う」
「……は?」
 ああそう言えば、と思いだしたように口にすると、何言ってんの、だとか胡乱な目で見返された。
「空の話してんだよオレ」
「空――どうだったかな」
「オレ、みてた」
 ぽつんと呟いたチャトラの声が少しだけ空虚で、男は右隣に座る彼女を見下ろす。
「そんで、アンタもおんなじ月見てるといいなって思ってた」
「――今は」
「え?」
「今はこうして同じ月を眺めている」
 不意に沸き起こった行き場のない感情に胸を衝かれた。これは、ぜんたい、何だろう。ついでに腕を伸ばし、チャトラの生乾きの髪をぐしゃぐしゃと撫ぜる。
「ああ」
 目を細めた彼女が小さく笑った。
「アンタといれてよかった」
 石鹸の良い香りが空気中に散った。


(20111111)
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最終更新:2011年11月11日 08:20