<<慈雨>>
痛みが和らいだのでございますか。
尋ねられて何の話かと首を捻った。十日に一度、皇帝は医務室を訪れて所謂「健康診断」なるものを受ける。これは本人が希望したと言うよりは、周囲の懇願によるものである。
その診断が一通り済んで、寝台へ腰掛けぼんやりと硝子を伝う雨だれを眺めていた皇帝へ、使用した器具を片付けながら医師が尋ねたのだ。
「痛み――?」
「陛下は以前、雨の前日には必ず痛み止めを御必要なされてございました。左半身が疼くと仰られておりました」
「――ああ」
そうだったか、と男は担当医師へと目をやる。
「それがこのところまるで御所望なさりませぬ。これは、疼痛が以前よりも緩和の経過をたどってきたのではないかとそう診断したのでございますが」
「痛みは依然変わるものではないね――そう言えば」
「は」
では。
面食らった医師へ薄く笑んで男は流した。どうしてだろうね。
そう、以前と変わらず雨や雪の訪れる前日は、失った左腕が痛かった。
男がエスタッド皇に即位して、しばらくしてから企てられた未遂の暗殺。運良くと言おうか運悪くと言おうか、命ばかりは助かったものの左腕を削がれ、死の淵をさまよった。
以来無いはずの左手が痛い。
ずくずくとした痛みは、何をするにも神経をささくれ立たせていっそ寝てしまおうと思っても、眠りは訪れない。
痛み止めの散薬を飲み、効き目の遅さに苛立って酒で紛らわせては無理に寝てしまうような暮らし。もちろん自分の傷んだ心臓に良くないことは、言われなくても判っていたけれど、疼きはどうにもならない。
それが最近必要としなくなっている。言われて初めて男自身も気が付いた。
どうした変化か、と思う。無論堪えているつもりもない。
深更過ぎに目を覚ます。
覚えのある疼きが、じくと奔って眠りを妨げられた。舌打ちし、髪を掻き上げる。目に見える形で残る傷ならばまだ諦めもつくのだ。
腹立たしいのは、全く中身のない空白の袖口の中が痛むからだ。幻聴だとか言うものと同じようなもので、幻肢というものもあるらしい。切り落とした手足がまるであるもののように意識を苛むのだそうで、ひどいものになると発狂するのだと聞く。けれど、気がふれてしまえばいっそ楽になれるのかもしれない。気のふれないぎりぎりの縁のところで、正気をやたらに刺激する疼痛が煩わしいのだ。
痛みを押し塞ぐように左身を下にして寝返りを打った皇帝の耳に、安心しきった寝息が聞こえた。目をやるとぐっすりと眠っているチャトラの寝顔が間近にある。こちらは痛みで目を覚ましたのに、まったく呑気なものだと苦笑が漏れて、頬を突くと眉を顰めた。煩かったのだろう、む、と唸って寝返りを打つ。
それでも眠りから覚める気配はない。しばらく様子を窺っていると、やがてすうすうと呼気が漏れだした。聞いているうちに、浮かんでいた男の苦笑が充足のものへと変わる。やさしい音だなと思った。ぬくもりが傍らで存在する音だ。
残っている右腕を伸ばし、小柄な体を後ろから抱きしめた。
「……ん」
乗せられた重みにまた小さく唸って、それから寝ぼけた声でチャトラが皇帝、と小さく呼んだ。
「――ぅん?」
「……だから……オレ、言ったのに、アンタ……、……、」
それからむにゃむにゃと言葉にならない小言を言って、乗せられた腕を胸の前に抱きしめてすぐにチャトラは寝戻ってしまった。起きたわけではないらしい。朝になって聞いてみても、きっと自分が何の夢を見ていたのか、何を言ったのか覚えていないだろう。
くつくつと男は笑う。それは目の前の体を起こさないように潜めたものだったけれど。
痛みが消えたわけではない。これからも消えることはないだろう。
それでもこうして隣に眠る体がある限り、痛みを紛らわす代用品はもう要らないように思う。
……抱き枕の他に散薬も兼ねているとしたらずいぶんと優良だとは思わないか?
小さく一人語散た男の耳に、控え目に降り出した雨の音が微かに聞こえ、ああとうとう降り出したのだなと思った。
そうしてぬくもりに寄り添い、静かに目を閉じる。
(20111105)
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最終更新:2011年11月16日 08:49