「感冒ですな」
そういって聴診器をかたづけた医師は、あたたかくしておくようにと寝込んだ本人に告げて、部屋をでていった。
大事などない。本当にただの鼻かぜで、おとなしく寝ていれば一日二日でなおる類のものである。
判っているものの、それでもなんとなしに落ち着かなくて、エスタッド皇は寝入るチャトラの枕元で本をひろげながら息を吐く。空気を動かすことを恐れるように、とても小さな嘆息だった。その吐息に気がついて、鼻を詰まらせたチャトラが目玉だけ動かして皇帝を見上げた。
「うん、」
気がついて男は顔を寄せる。すると猫が眉をしかめて布団に頭までもぐりこんだ。
「アンタ、部屋戻れよ」
くぐもった声で言う。
「今日は休息日なのだよ」
「そうじゃなくてさ」
もごもごと何かつぶやいていたが、くぐもって聞こえない。しばらく眺めていると息苦しかったのだろう、情けない顔をして鼻の下まで布団からチャトラは顔をのぞかせた。
「アンタにうつるとこまる」
そう言う。
「私は一向に構わぬが」
「アンタが困らなくてもオレが困る」
「――なぜ」
三補佐もしくは侍従の誰かにしかられるとでも思っているのか、だとしたら大丈夫といってやろうと口を開きかけて、
「オレはただ寝てるだけでなおるけどさ、アンタ、オレのうつったらまた半月ばかし寝込むだろ」
言われてそのまま口を閉じた。
そんなことはないよと言い切れない自分の脆弱な体が煩わしいと思う。
男は元々心臓が弱い。医師から診断された名称はやたら長くてひねってあったので覚える気もなかったが、要は臓器のどこかに穴があいているとのことだった。
開いていて、そこから汚れた血液が逆流する。
日常生活を平穏に過ごす程度の負担であれば、それでも何とかまかなえているものの、少しでも無理を強いるとすぐに音を上げる。
恨めしい。
走ったり飛んだりといった動きを制限されるのは勿論のこと、他にもチャトラが言ったような「熱」というものにも男は弱い。
体温が上がるということは、それだけ血流が活発になるということだ。運動を行う状態と殆ど変わらないのである。運動であるならば、日頃の所作を抑えるだけである程度手綱が取れようけれど、体温というものは任意になかなか上げ下げ出来るものではない。
それでも以前はもう少し「まし」だったのだ。厄介になってきたのは、左半身を失ってからである。
皇位継承だとか政権復古だとか、題目はとうに忘れた。たぶん、男を殺すことが出来ればなんでもよかったのだ。
幼少から二十歳までは生きまい生きまいと言われつづけた、幼い体はもとより、大人の肢体に充分な血液を送ることは出来まいといわれた。
死ねと。
大きくなった男の体の中で既に悲鳴を上げていた臓器に、左側をもぎとられ、削がれて多量の失血の負担が一瀉千里に加わった。生き延びたのがふしぎだと今でも思う。
何度も何度も虚ろな視界の中で人ではありえない影を見た。俗に言う死神というやつだったのかもしれぬ。
熱に浮かされたあたまで考えたことはといえば、死神は枕元に立つだとか昔から言うが、この影は足元にいるのだなとただそれだけだ。
もう少しまともな事を考えられなかったのか、次にもしそう言う目に合うようなことがあったら益になるようなことを考えよう。
だとか思っている。
「鉄の心臓」という言葉が、世の中にはあるそうだけれど、本当にそんなものがあるのだとしたら、ぜひとも自分の欠陥品と交換してほしいものだ。
いっそ抉りだしてしまえばせいせいとするかもしれない。
そんな風にも思う。
痛いところを突かれて否定するわけにもいかずさてどうしたことかと皇帝は首を捻った。
「お前が眠ったら部屋に戻ろう」
指の背で汗ばんだ彼女の額を撫ぜると、濡れているのに妙にかさついた感触がした。
いいからさっさと出ていけと唸り声を上げていたチャトラは、そのうちくたびれたのか男が撫ぜる目の前でおとなしく目を閉じ眠寝てしまうことにしたようだ。鼻が詰まるようなので口を開いて息をしている。
開いた唇の隙間から桃色の舌がこぼれて見え、衝動に駆られて皇帝は顔を近づけ、舐めた。
感触に飛びはね、まなじりを裂いた猫がばか、と罵声を投げつけながら今度こそ上掛けにもぐりこみ丸くなる。
上掛けは白かったので、羽化する前の繭のようにも見えた。
これを割ったらどんな虫けらが出てくるのだろうと男は夢想する。そんなに複雑な色はしていまいな。単色で鋭く刺すようでいて、だのにやわらかみのある色だろう。瞳と同じ緑青色でも良いけれど、もうすこしあたたかな、
「赤、かな」
思わず言葉に乗せると怪訝な顔をした猫が頭だけのぞかせてこちらを見た。
(20111124)
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最終更新:2011年11月24日 11:05