<<やさしさの向こう側>>


 勤務時間を終えて兵舎に戻るときの、なんとなくぐだぐだとした時間がラズは好きだ。
 これが前線にほど近い駐屯地ともなれば、休息時間とは言え芯の部分で、気の抜けない、一本糸のように常にぴんと張りつめたなにかが、気持ちのどこかにあるものだけれど、皇都においてそうした緊張はあまり必要ではないようだと最近気がついた。
 攻める意識と守る意識の違い、と言うものなのかもしれないなと思う。
 攻め込むときは高揚していればしているほど良いものだし、戦場全体の士気にもかかわってくる。もちろん高揚していると言うことと、緊張して落ち着きがないと言うことは別物だ。ただ、ある種のいさぎよさは必要で、例えば弓や弩による露払いが飛び交う中げらげらと狂い笑いながら突撃できるくらいの気概がなければ、竦む。
 一瞬の竦みはすぐに怯えに変わり、どんなに体を鍛えた戦士でもあっという間に地に伏すこともある。それをいさぎよさ、と呼ぶには語弊があるだろうが、要は、
「一般意識からは少しネジのとんだ」
 状態が必要とされるのだ。
 その気概で戦地から皇都へ戻ったラズは、だから少しだけ気落ちした。
 平和なのである。
 前線の、ときには地を這い泥水をすすりがりがりと固まったパンを揉みほぐしかじる生活とはまるで無縁の日々だった。
 勤務する皇都衛兵もどこかのんびりと、はっきり言えば間が抜けていて、こんな心持ちで首都の護衛が務まるかといきどおって同僚に愚痴をこぼした。
「じきになれるさ」
 慰め半分、厄介半分の同僚はそう言って苦笑いし、お前はまだ若いんだなと言った。
 若い。
 確かにラズは若い。ついこのあいだ二十一を迎えたばかりだ。前線で所属していた隊の中では同年代は数えるほどしかいなかった。
 ひとつは実力主義である特殊部隊に所属していたこと。
 ひとつは同年代はなるべく過酷な戦地を避け、守備隊であるとか皇宮衛兵に志願していたこと。
「けがをしても馬鹿馬鹿しいじゃないか」
 士官学校で同期だった友人はそう言って国境守備隊に志願した。くにざかいと言っても、一触即発の旧アルカナ王国であるとか、現在キナ臭い南方諸国を除けば、他のほとんどは日がな一日見張りである。寒いのだけが難点だが、それ以外は楽でいいと皇都へ戻ってきた時の酒の席で彼はそう言った。
 そう言うものか、と思った。
 納得はしなかったけれど勢い込んで自分の正義論を語る気もしなかったので、あいまいに頷いて終わった。
 そうした自分も戦地を離れて数年がたつ。
 ささいな怪我ではあったのだが肩を痛めて、皇都勤務へと移動した。ラズ本人は特殊部隊への勤続を望んだのだけれど、彼の上官が首を縦に振ってはくれなかったのだ。
「貴様はたしか母と妹を養っていると言っていただろう」
 傷めて働けなくなっては二人はどうなる。泣かせるな。大事にしろ。
 そうしてまだ若いのだから、と同年代の上官に言われた。
 若い。
 もしかするとそれは年齢いかんの問題ではなくて、自分が青くさい、まだどこか落ちつきのない、そうした甘さを発しているのかもしれないなとも思う。
 そう言えば彼女にもそういう風に言われたのだ。
 彼女、つまりは練兵場の端のほうの青草の上に腰を下ろしてぼんやりと膝を抱えているチャトラである。見つけて、近付く。
 偏屈で、ひと嫌いで有名なエスタッド現皇帝が、唯一傍らに置く人物。皇帝は男でチャトラは女であるのだけれど、おとこだおんなだと言った性別云々ではなくて、奇跡的にウマがあったのだろうなとラズは思っている。理屈では理由づけられない偶然もあるのだ。
 よぉ、と軽く手を上げるとこちらに気付いたチャトラが振り返って小さく笑った。
 ずいぶん元気のないものに見えた。
「どうした」
 言いながら隣に並んで座った。
 夕闇がじわじわと練兵場をおおいかけていて、もうあと少しもすれば、互いの表情も見えなくなるだろうと思う。
「どうしたって、なにが」
「なんか落ち込んでいるように見えるから」
「べつにヘコんでなんか、」
「あるよな?」
 言い切る。しばらく窺うようにこちらを眺めていたチャトラがはぁ、と息を吐き、
「……ラズに嘘ついてもしかたないか」
 そう言った。
「なにかあったのか」
「大したことはなにもないんだけどな」
 かかえた膝に顎をのせて、
「ラズ」
 チャトラが言った。
「あ?」
「なんでオレがヘコんでるとか思った?」
「さいきん、判るようになってきた」
「オレの行動?」
「そう。お前、グチりたいことがあると俺のところに来る」
「……きてる?」
「まぁだいたい来てるんじゃないか」
「あー……そりゃどうも迷惑かけてます」
 ごめんな。
 頭を下げられてどうということはないと返した。
「家に帰りゃお前よかちょっとだけ上の妹がいる。似たようなもんだ」
 自分と五つ違いの元気な妹の顔を思い浮かべながら、ラズは言った。目の前にいるチャトラと、かおかたちはまるで似ていないけれど、困ると素直に顔にあらわす癖だとか、ひとつの仕事にかかりきりになり精をだすところだとか、割と似ているように思う。
「アンタ、仕事あがりだよな?」
「そう」
「早く帰らなくて平気なのか?」
 彼女さんまたせてるんじゃねェの、言外に聞かれて平気だぞとこたえた。
「というか、しばらく会える時間もないといわれた」
「彼女さん?」
「そう。年末だから忙しいって」
「フラれてるんじゃねェの、それって」
「フラれたなら俺が落ち込むなぁ……」
 洋菓子店で働くひとつ下の娘とラズは半年前から交際している。可愛い女性ではあるのだけれど、洋菓子店で売り場に立っているせいか、男性客が多いことが珠に傷だ。やきもきとしてもしようがないと頭では判っていても、面白くない。
 しかたがない。
「まぁフラれたなら俺が甲斐性ナシってことであきらめる」
「あきらめられんの?」
「一晩浴びるように酒を飲んで忘れられるように努力する」
「不毛だなぁ」
 それ。
 ようやく声を立てて笑ったチャトラを見て、ラズの頬もほっと緩んだ。
 ラズの目から見ても、皇宮にいるチャトラはどうにも見ていて不器用と言うか妙に浮いている。育ちの違いというやつで、割とラズにも理解ができる。自分が同じ立場で、ある日いきなり町暮らしからぽんと皇宮暮らしへと投げ込まれたら、やはり浮くように思う。本人も浮いていることに気付いていて、不安そうな様子を見せることがある。
 普段ならばうまく溶け込んで、こまねずみのようにくるくると動き回って発散してしまうところなのだろうけれど、
「まーた陛下とケンカしたのか」
「うん。また。した」
「飽きないよなぁ、ほんとうに」
 尋ねたラズに不意に固い顔になってチャトラが応えた。せいぜいがところ遠目で眺めるのがいいところで、ほとんど皇帝にまみえる機会がないラズであるけれど、チャトラから話だけはよく聞く。おおかたは皇帝が揚げ足をとってからかって、チャトラが腹を立てることの繰り返しだ。喧嘩、というよりはじゃれ合いにも似たようなもので、皇帝もチャトラも掛け合いは判ってやっている節がある。
 だからそうして腹を立てただけのときはチャトラは愚痴をこぼしにやってこない。愚痴にも満たない不満であることを承知しているからだ。
 自分のところにくるときの彼女はもう少し、
「見合いしろって言われた」
「はぁ?」
 自分のつま先を見つめて長々とためいきを吐いたチャトラにラズは目を剝く。
「確認するが、皇帝陛下が誰かと見合いするって話か?」
「いや。あのひとじゃなくて、オレが」
「お前が、……誰と」
「なんかしらない男のひと」
「はぁ」
「こないだ会っただろうとか言われたけどオレ顔も覚えてない」
 一体どう言う経緯でそんな話になったのか、
「どうしてそう言う話になってんだよ」
「オレが聞きたいよ」
 むう、と困ったように顔をしかめて彼女はぐちゃぐちゃと頭をかいた。
「お前、すんの?」
「するかよ……!つか、なんでそんな話にブッ飛んでるのか訳がわかんねェ」
「俺にも判らん」
 頭をかきむしりたい気持ちは判るような気がした。仮に自分がもし交際している洋菓子店の娘に、いきなり別の娘を紹介されたら本気で涙目である。
「飽きたなら、飽きたってはっきり言えばいいんだ」
「……飽きた、なぁ」
 繰り返しながらそれはないだろうなとラズは思った。それほど長い付き合いではないけれど、エスタッド皇が他のなにものにも興味を示さないことは知っていたし噂にもなっていた。なにものにも興味を示さない人間が、独占欲を剝きだしにして抱え込んだ特定のものを、飽きたから手放すことができるのかどうか。
「墓まで持っていきそうな勢いだと思うけどな」
「なにが?」
「お前を」
 真顔で返したのに、冗談を言うなと怒られてしまった。冗談のつもりはなかったのだが。
「オレ、あのひとが『おいてやってる』から、ここにいるつもりはなくて、オレはオレがいたいからいるんだけど」
「ああ」
「なんであのひと、あの手この手でオレのこと試すかな」
「……試す」
「なんかいつも、はなれろはなれろって言われてる気がする」
 ずいぶんな我利我利亡者だ。放れろと告げる裏で、放れるなと念じている。手放したくない。手放せない。
「見合いしたほうがいいのかな」
 腕を組んでぽつんとチャトラが呟いた。驚いてラズは隣の顔を眺める。
「お前、すんの?」
「いやだからしねェって」
 しないけど。言って彼女は複雑な顔になる。
「ときどきあのひとが判らない」
「……それ、今に限ったことじゃないよな」
「ああ、まぁそれもそうか」
 気が付いておかしくなったのか、チャトラが口の端を上げた。
「いっつもわかんねェんだ」
 そこまで言って気が少しは晴れたらしい。見やってラズは、
「その下々のものには判らない皇帝陛下は、さっき塔の方へ向かって歩いてたぜ」
 言った。
「さっき?」
「俺がお前を見つけるちょっと前」
「あー」
 じゃああのひとも何か悩んでいるのかもしれないな。うん、とチャトラはひとつ頷いた。
「ややこしいんだけどな。」
「陛下?」
「うん。あのひと、ヘコむと塔の上から町を眺めてる」
「お前と一緒だな」
「そうかもしんねェ」
 ラズはたいしてなにをした訳でもないけれど、彼女の悩みがわずかでも解決できたのならそれで良いのだろう。そう思うことにした。
「そういや、明日」
「ん?」
「明日、町に出る用事があるんだけどアンタ明日もふつうに仕事だろ」
「朝から晩までみっちり入ってるな」
 次の非番は十日後だ。十日後、洋菓子店の娘と予定があえばよいがとラズは内心一人語散る。
「言付けする?」
「言付け?」
 チャトラの言った意味が判らなくて首を捻った。
「何かあるなら、オレ、彼女さんの店までひとっ走りいくけど」
「ああ……、うん、そうだな」
 忙しいとは言われたけれど、まるで音沙汰なしと言うのもつれない。一言二言言づけた方が、株もついでに上がるだろう。
「お前、明日何時に出かけるんだ」
「えーと。あの人が部屋でていって片づけして……、昼ちょっと前かなぁ」
 あれとこれと、とこなす事がらを指折り数えてチャトラが応える。
「じゃあ行く前に詰所に寄ってくれ。彼女への手紙でも書いて預けておく」
「うわ、恋文」
「熱烈なヤツな」
「ぜったい盗み見るな、オレ」
 くっくっと笑いながらチャトラは立ち上る。部屋へ戻るつもりらしい。同じように立ち上がり、行く手は真逆に背を向けてじゃあなとラズは手を振った。あっさりとしたものである。
 次の非番の日には、妹の顔を見に実家へ戻っても良いと思った。


 ラズがそうしてチャトラと別れた少し前。
 小卓を挟んで向かい合い、手にした書類をなぶる男と手持無沙汰に部屋のあちらこちらに視線を走らせる男の両名がいた。
 エスタッド皇と、ダインである。
 皇都に戻って丁度のところを見計らったように呼び出され、自分は何がしか監視のようなものが常についているのではないかと勘繰りたくもなったと彼は言った。そうかもしれないね。曖昧な返事で冷笑すると、気味が悪そうに皇帝を眺めた後、無言になった。
 苦手意識というものを彼が自分に持っていることを百も承知の皇帝だ。
 それでもどうも使い勝手の良さと、からかったときの反応の面白さでついつい多用してしまう。いけないのだろうなとは思いつつ今日もまた皇宮へ呼び出した。
 折しもチャトラが、くたばれと男へ向かって威勢のいい罵声を残して部屋を飛び出して言った直後だ。扉に手をかけ、開けそこねて気まずそうな視線とうまいぐあいにかち合った。
 呆気にとられたというよりは、たのむから自分を騒動へ巻き込むなよと祈っている節がある。
「ずいぶん怒らせたな」
 つい一言はさんでしまうのはこの男のさがとでもいうもので、それとも奇妙にながれた沈黙を扱いかねただけかもしれない。
「まぁ怒るとは思った」
「はあ、」
 頼むから俺を巻き込むなよ。今度ははっきりと口に出してそう言って、それからダインは勧められもしないのに先に椅子へ腰掛ける。
「何言ったんだ」
「先に君の持ってきた資料を手渡してくれると良いね」
 巻き込むなと言っているのに首を突っ込む。だからいいように利用されるのだ。そんなところは少し猫と似ているかもしれないなと思いながら、皇帝はダインの言葉を制して腕を伸ばした。ああ、と我に返って彼が手にしていた書類の束を男へ向かって差し出す。
「次は」
「うん――、?」
「報告書仕上げてもってこいとかこっちへ出発する一日前に言わんでくれ。もうちょい余裕をもって通達ねがう」
 徹夜で死ぬ気で仕上げた。ぐりぐりと首を回し大きく溜息を吐く彼に、しかし仕上げたのだろうと皇帝は書類へ目を通しながら返す。
「そりゃ、仕上げないと俺の首が飛ぶからです」
「文字通り?」
「文字通りにも、抽象的にもきっとどっちにしろ飛ぶ」
「見ごたえがあるだろうね」
 一瞬ちらと視線を上げて応えると、割と本気で嫌な顔をされてしまった。いじめるつもりはなかったのだが、内心首を傾げて皇帝はまた書類へと目を落とす。
「しかしよくできている」
「そりゃどうも」
 ざっと目を通すつもりがついつい細やかに読み込んでしまい、結局四半時ばかり皇帝はダインの持ってきた報告書とにらみあってしまった。つと目を上げると暇を持て余したダインが、引っくり返って背もたれに頭を預けている。
「で?」
 気配で感じたのだろう。皇帝が顔を上げたほど良いタイミングでダインが口を開いた。
「――で?」
「親切な俺が、アンタの悩みを聞いてやろうっての。また何を言ってお嬢ちゃんを怒らせたんだよ?」
「――そうだね」
 読み終えた資料を脇に控えた侍従長に渡すとうやうやしく捧げもち、部屋を排していった。旧アルカナ王国の残党軍との小競り合いの報告書。次は三補佐が読みまわすのだろうと思った。
「卿は、前ハルジア領の子爵が判るか」
「ハルジアな……あー……、あんまり詳しくは判らねェが。名前は聞いたことがあるな。どこで聞いたんだったか……確か軍籍もあったよな」
「彼との見合いを勧めた」
「……あ?」
 ばち、と音のするように急激にダインは目を開いて勢い向かい合う。驚いたのだろう。黒い瞳孔が真ん丸になっていた。
「見合いって聞こえた気がするんだが」
「そう言ったと思うのだよ」
「は?……は?お嬢ちゃんの?」
「そう」
 ゆっくり頷くと思い切り顔をしかめる。意味がわからん、とうめき声が聞こえた。
「アンタ自分が何を言ってるのか判ってんのか?」
「頭、顔、性格に問題なし。家柄良し。金回り良し。借財と女性関係のもめごとはなし」
「はぁ……、」
「前ハルジア子爵の荘園は、丘陵地帯で空気も良い。穀物も、あれの好きな果物も良く実る。生活に困ることはおそらく」
「ちょい待てって」
 アンタ自分が何を言ってるのか判ってんの?
 じっと探る目付きになってダインが皇帝へ言った。呆れているのだろうか。呆れているというよりはうんざりとしている風にも見えるけれど。
「あのな。今更確認するのもアレだけどな。お嬢ちゃんは皇帝のダンナに惚れてるんだと俺は思っている訳だが」
「そうなのだろうね」
「でもってダンナもお嬢ちゃんのことをだいじに思っていると思っていた」
「――そうなるだろうね」
 遅れて頷いて不審な顔をされる。
「俺の常識ではそれを両想いとか言うもんだと思ってたが。……お互いの気持ちがあって、しかも悪くない関係で、そこでどうしてアンタの口から他の男の名前が出るんだよ」
「あれも同じようなことを言った」
 皇帝がハルジア子爵の名を口にすると、チャトラは最初怪訝な顔になり、それからまじろぎ単位で顔色が変わった。理解と言うものは本当に広がってゆくものなのだなと皇帝は彼女を眺めながらそんなことを思った。
「で、アンタはなんて言ったんだ」
「一度会ってみてはどうかと」
「わからん」
 きっぱりと切って捨てられる。
「アンタの言っている意味が本当にわからん」
「血を吐いた」
 ぼつ、と皇帝が静かに言うと途端に複雑なまなざしになってダインは黙りこくる。何と返したらいいものか悩んだのだろう。特別な話にするつもりもなかったのだけれど自然部屋の空気が重くなる。いつ、としばらく経ってダインが低く尋ねた。
「先月だったか」
「どこで」
「執務室へ向かう途中。であるからあれは知らない」
「起きててその……平気なのか」
「たいした量ではなかった。医師どもにも原因は判らぬらしい。――というよりはどこもかしこもおかしくなっているので、ここだと限定できないというところかな。今は安定しているのでひとまず問題はないよ」
 喉元でなにかが引き攣るなと咳払いしたところへがっと朱が散った。
 とくに激しく噎せたわけでも胸焼けしていたわけでもなく、不意に、という言葉が本当にあったような状況だったから、驚いたというよりはむしろ皇帝は感心が先に立った。これはどこからの出血であろうか、だとか。
 慌てて抱え込まれ、医務室に押し込まれて暗い顔をした医師団に囲まれあちこち検分された。ずいぶんな時間をかけて調べていたようだったのに、結局原因の一つも特定できないまま、夕刻いつものように部屋へ戻った。顔色はいくぶん悪かったかもしれないがあとは日頃と変わりがなかったので、部屋にいたチャトラには判らなかったはずだ。
 報せるなといった。
 無駄に気苦労をかけたくはなかった。
 おかえりと出迎えたチャトラは何も知らずに笑っていた。
 食事をとろうかと広間へ連れ立ち、いつものように遠い向かいの席からからななめ隣の席へ、彼女は椅子をずらして腰を落ち着ける。最近は寒くなってきたので汁物がうまく感じると椀を両手でかかえてしみじみ呟いていた。
 そうかと返したと思う。
 味は判らない。口の中は無理に飲まされた幾種類かの煎じ薬で苦い。
 ただ、すする様子がうまそうだなと皇帝は思った。
 それから不意に、仮に自分が無くなったときこれはひとりになるのだなと思った。
 静かだ。あまりにも音のない静かな切哀だ。
 悲しいというよりは哀れだとそのとき皇帝は思った。
 世の中での出会いの妙と言うものがあるのだとしたら、どう引っくり返ってもたどり着けないような不安定な偶然の果てに落ち着いてしまった自分と猫の関係。もしも自分と出会わなければ同じように数年経て、これはどうしていたことだろうと思う。
 掏摸はそのまま続けていたろう。
 背丈も少しは伸びるだろうか。
 女らしさだとか欠片も見えない、痩せぎすなままけれどひょっとすると彼女をたいせつに守ってくれるような相手と出会えていたのではないか。
 はなやかさも絢爛さもみじんもない素朴で質素な暮らしの中、それでも彼女を最大限愛しんでくれる相手と出会えた可能性もあったのではないか。
 彼女が無理に背伸びをしたり気を張ったりすることなく、身の丈に応じたささやかな毎日の中で常に寄り添い側にいてやれるそんな相手がいたのではないか。
 ともに年を経てゆける、
「食わないの」
 考え込んで手が止まったらしい。訝しそうに眺めてきたので、慌てて魚を一切れ口の中に放り込んだ。
 味はやはりしなかった。
 自分が異質なことは理解していると思う。
 ごく普通の相手と出会い、ごく普通に好きだの嫌いだのとくだらなく騒いで、ごく普通に月日が流れる。なにもかもを奪ったのは自分だ。
 皇帝は好きなだけ飽きるまでもてあそんで、手放したくないと駄々をこね、勝手にくたばって先に往くのだ。
 笑っている顔が良いと思った。
 見ているこっちまで楽しくなってしまうような、心底けらけらとおかしそうに笑う。
 その笑顔をずっと大事に守ってやれる誰かは、
「……そんなの、今更どうしようもないだろう」
 向かい合ったダインががりがりと頭をかきながら唸った。
「もしも、だとか別の時間の流れを考えたって今のはなしです。元へ戻ってくださいってわけにもいかんだろうが。だいたい、アンタちょっと考えすぎなんだよ。アンタが考えたらいいことももちろんあるだろうが、お嬢ちゃんが決めることもあるだろ」
「理屈ではそう思う」
「まー気持ちの部分じゃ納得できないことなんていくらでもあるけどなあ……」
 だけどな、もう一度背もたれにぐんと伸びをしてダインは仰け反り視線を逸らす。
「アンタがどれだけ心配して万全の手を打ったって、アンタが消えたらお嬢ちゃんはやっぱり泣くだろうよ」
「――泣くだろうか」
「無駄あがき、って言うんだぜそれ。……それにアンタ、今更手放せんの?」
「どうであろう」
 かくあれかしと努力はすると思うのだけれど。
「誰かほかのやつがいればいいとか言いながら、アンタはお嬢ちゃんを試してるんだ。目の前にエサをちらつかせてこれならどうだ、これなら食いつくかって試している。だけど実際食いついたら、アンタは全力で手放さないだろうよ」
「そう――」
「重ねるしか、ないんじゃね」
「重ねる」
「アンタとお嬢ちゃんの共通の思い出ってヤツをさ。今日明日の命じゃないんだし、アンタが何をそこまで弱気になっているのか知らないが、アンタが残してゆけるものってのは金だとか地位だとか屋敷だとかじゃなくって、あいつの中のアンタなんじゃないのか」
「あれの中の――」
「お嬢ちゃんと話をすると、あいつの姉ちゃんがよくでてくるよな」
 姉。
 チャトラを拾って育てた、血のつながりのない花売りの娘。
「現実にあいつの姉ちゃんはもう死んじまってこの世にはいないけどさ。あいつの中でずっと姉ちゃんの思い出ってやつは消えてないだろ」
 あたたかくてやさしくて、いいにおいのした、娘。
「アンタも一緒だ。縁起の悪い話は好きじゃねェが、仮にアンタがいなくなったとしてもお嬢ちゃんの中のアンタはなくなりゃしない。お嬢ちゃんが生きてる限り思い出すたびに記憶の中で生き続ける」
「――」
「そんで、寿命ってやつがあるとしたらそいつを全うして、いつかお嬢ちゃんが死ぬとき、アンタはお嬢ちゃんの中のアンタと一緒に往くんだ」
「淋しくは――なかろうか」
「淋しいだろ」
 何を当たり前のこと言ってるんだ。言ってダインは立ち上り、素面は困るなと勝手に棚から酒瓶を手に取り、ついでにグラスも二つ抜き取った。
「淋しく思うのも、淋しさを紛らわすのも、アンタしかできない」
「思い出――」
「それに、その淋しいってやつァその……、愛(かな)しいって言うやつじゃないかと思うんだよ」
「かな、しい」
 その心持ちは少しだけ判るような気がする。皇帝がひとたびチャトラを手放そうと決めたとき。玉座に座らせてとどめを刺そうとした瞬間にまっすぐに男を見つめて漏らした、彼女の言葉にならなかった言葉。
 意味をなすことはなかったけれどそれは確かに自分を呼んでいるのだった。
 突如染み入ったいとおしさの意味。劈く痛みと同居していた。
「俺ァさ。故郷も家族もない傭兵だった。所帯を持つだなんて考えもしなかったし、一人のままどこかの戦場でのたれ死ぬのがちょうどいいと思ってた。思ってたはずなのに、いつの間にか立派な所帯持ちになっておまけに皇国の騎士さまの名前までいただいて、まぁ、人生ってのァ色々な方向に転がってゆくもんだなと感心してるところなんだが」
 ダインの夫人は敵国に鬼と畏れられたミルキィユと言う。
 声高に公表するつもりもなかったけれど、ミルキィユはエスタッド皇の種違い――つまりは異父兄弟であり、皇国の中では皇帝に次ぐ権威の持ち主のはずだった。
 本来なら。
 名を捨てて逃げたのは彼女の母親で、今では皇帝とミルキィユと血縁を証明できる人間はいない。探せばいるのかもしれないが皇帝は探すつもりもなかった。
 そのミルキィユを妻に迎えたということは、形だけで言うならばダインは皇帝と義理の兄弟になったということで、皇帝と皇妹次第では次皇帝候補者に名を連ねることも可能ではあったはずなのだけれど、本人にその気はさらさらないらしい。
 自分は器ではないというのが大まかな理由ではあったのだけれど、実際のところ皇宮づとめはまっぴらだというのが本心だろう。
「死ぬときってのァよ。あんまり年だとか、体のぐあいの良しあしだとか、関係ない気がしてきたんだよな」
「そういうものなのかな」
「俺は戦場暮らしが長いから、割に生き死には真横にあったような気がするけどよ。でもそんな殺伐とした場所でなくたって、馬から転げても矢じりに刺さっても、もっと単純なら芋をのどに詰まらせたって人間死ぬときは死んじまうんだ」
「――」
「運とでもいうのかね。まァ事故にあわずに生き延びたとしてよ。そしたら年食って動けなくなって結局やっぱ死ぬわな」
「だろうね」
「そりゃ別に自分に限ったことじゃなくて、生きてりゃ誰でも同じことだよな」
「――」
「自分の惚れた相手がよ。腰が曲がって歯が抜けて、顔中しわだらけになってよ?よたよた真っ直ぐ歩くことすらできなくなって男だか女だかわかんねェくらい年食ってよ?誰が見ても長生きした、ここでおっ死んでも天寿だだとか思われるくらい生きたって、俺はやっぱり死なれたら悲しいと思うんだよ」
 それを愛(かな)しいと言うのではないか。ダインはそう言う。
「過ごしたときの長さではないのであろうか」
 しばらく考えて皇帝は呟いた。
「長けりゃ長い方がそりゃありがたいんだろうけどな。アンタはとりあえずよけいなことうだうだと考えるより、長生きできるような努力ってのをすべきなんじゃねェの。ばたばた倒れるのが好きで好きでしょうがない、これはシュミなんだから口出しすんなってならともかく」
 アンタ知らないだろうから言っとくけどな。
 ぐいとグラスを傾けてダインは一息に中身を飲みほし、いい酒を飲んでるんだなさすが皇帝だなと妙なところで感心された。
「アンタがぶっ倒れるたびに、お嬢ちゃんが意味もなく皇宮内うろうろしてるのとか知らんだろ」
「あれが?」
「アンタがのんきに寝込んでる医務室の廊下で、むずかしい顔をして扉の模様を延々小一時間眺めてたりだとか」
「――」
「見かねて医者が入れと言っても絶対中に入らないだとか」
「入らない」
「怖いんだそうだがね」
「――怖い――、」
「開けてアンタが苦しんでたら自分はどうしていいか判らんのだと」
 医務室に運ばれるほどでもない軽い発作を起こして部屋へ戻るたびに、途方に暮れたような顔をして、部屋の壁際まで下がるチャトラを皇帝はふと思いだした。おいでと招くまで決して近寄らない。獣が毛を逆立てたようで、怒っているのかとも思っていたけれど、あれは怯えていたのだろうか。
「カラ元気だせとは言わないが、きちんと寝るだとかさ。メシ食うだとか。なんかいろいろ生活ぶりなおせるところはあるだろ。アンタはわりかしなーんも興味ないように見えて、お嬢ちゃんだけは大事にしてると俺は思うよ。思うが、なんつーかもうちょい判りやすい指針示してやれって」
「判りやすい、ね」
「アンタのやさしさってえらく判りにくいんだよ」
 限定一名だがね。半ば本気で言うと一瞬怪訝な顔になり、それから嫌そうにしかめられてしまった。アンタらしい。そう言う。
「ガキはつくらんのか」
「ガキ――子供?」
 何杯目かのグラスを満たして、なぁ、とダインは脇に控えるディクスへ目をやった。数年前に待望の一子を授かって以降、ディクスと夫人の間には二人の子がなされたはずだ。
「実際そう言う立場になるまで思いもしなかったが。ガキはおもしろいぞ。よく騒ぐし、寝るし、転げる。アンタんところの上の。いくつになった」
「五年ですな」
 慇懃にディクスが応えた。
「もう五つか。うちのは三つだ。……なぁダンナ」
「――うん、?」
「見合いって言うならアンタはしないのか」
「私が?」
 聞かれた意味が判らないふりをして流してしまおうかとも思ったのに、食いつくダインは同じように意地が悪い。
「女に乗っかったら死ぬんだったか」
 にやにやと聞かれたので首肯した。もとより興味のない相手に消耗する気もない。
「隠し子は作ったがね」
「は?隠し子?」
「二十歳。にじゅういちだったかな。そのうち表すはずだ」
「隠し子って、アンタの?」
「六、七人候補に挙がっていたはずだったけれど、最終的に二名に絞った気もした」
「隠し子って、アンタの?」
「そう言ったはずだが」
 頷いてグラスを傾ける。
 そうして、この目の前の騎士殿は、隠し子を選ぶようにと告げた相手とはまるで違う反応を示すものなのだなと思った。命じた相手は慣れたもので驚きひとつ表すことなく淡々と頷き、一名でよろしいかと尋ねた。
 二人が良いな。皇帝は答えた。仮に一人だと、「何か」があったときに厄介だから。同じように育てておけば、どちらか片割れが使い物にならなくなったとしても対応できるだろうと思った。
 顔も名前も知らないが、そのうち準備がととのえば命じた本人から報告があるだろう。どうせ騒がれるのは目に見えていたから、いっそ公するときには思いを寄せていた深窓の姫君との心ひそめた恋、とでも色付けして盛大に発表しても面白いと思っている。
「そう言えば、ノイエ補佐官が皇都へ戻ってくるのだよ」
 まだ何か言いたそうなというよりは噛みついてきそうな義理の弟を視線で制し、かわして皇帝は話題を変えた。
「ノイエ?早いな」
 数年前に起きた皇帝暗殺未遂のことの一部始終を知っているものは皇都でも僅かで、その僅かの人間の中にダインも含まれていたから、若干真剣味を帯びた目の色になる。
「俺ァてっきり十年は戻れないとふんでたんだが」
「こなしてほしい仕事が増えてね」
 もとより個人的な恨みはない。許すも許さないも皇帝の中にはない。ただ生かしておいて活かせる駒かどうかが判断のしどころで、ノイエ補佐官はまだ利用するに足る駒だったから生かした。それだけのことだ。
「いつ」
「抱えている会議交渉を一通り終わらせてから戻ってくると連絡があったから――来月末辺りではないか」
「へぇ」
 ノイエが戻ってくるならまた騒がしくなるな。
 かぶりを振ったダインができればその頃自分は前線に戻っていたいが、と呟いている。必ず同席させてやろうと聞いた皇帝は思った。
「しかしだ。ノイエが帰ってくるなら、……なんだその、ハルジアなんたらに任せないでノイエに預けちまえばいいんじゃね?」
「何を」
「お嬢ちゃんを」
 その方がよほど理に適っている気がするがね。
 言われて咄嗟に切り返せなくて言葉に詰まる。家柄だとか地位だとか候補に挙げるふりをして、自分はまったくあれを手放すつもりはなかったのだと男は気が付いた。手放すつもりがあったなら、確かに三補佐の一人である彼に預けたってよかったのだ。
 そのままダインは邪魔をした、また顔を出すと言い置き部屋を辞す。ちょうど交代の人間が現れたディクスも皇帝に簡単な所作をして同じように部屋を出て行った。
 あとには卓に置かれたグラスを睨むようにして考え込む皇帝が残される。
 ノイエがチャトラに懸想していることは知っている。なるほど確かに好きにしろと命じれば、彼は喜んでチャトラを引き取るだろう。
 その際、確実に当の本人が暴れるとは思うけれど。
 ああなんだ、と思った。結局のところ自分はあれを手放したくはないのだ。
 だいじに思う、だとか嘯いておきながら。
 ひとりになるのだなと思った。あれを手放しにぎやかにまとわりつく毛玉がなくなってもとの平穏静謐な日常へと戻る。非日常と言うなら一度は死にかけた彼女が傍らに居続けること自体が非日常だったのだと気が付いた。
 そうして、ひとり。
 いいものを飲んでいるなと言われたグラスの中を呷る。
 味はさっぱり判らなかった。


「楽観視はしない方が良いように思う」
 外の廊下を黙って歩き、皇帝の居室が少し遠く離れたところで少し前を歩いていたディクスがダインに言うともなく低い声でささやいた。え、とダインは返す。
「なにが」
「あの時分俺はいつものように陛下の御傍にいた。大事ないと陛下は繰り返されておられたが、俺の目から見たらあれは『たいした量』の出血だった」
「……」
「ノイエ卿が戻ってこられる」
「ああ、聞いた」
「戻れると言うよりは詮方なく戻すと言った方が正しいのだ。……隠し子の件にしてもな。おそらく陛下はこの数年で足元を固められるおつもりなのだと思う」
 やっぱりそうなんだなとダインは頷いた。急に話題を変えられたので、それ以上触れられたくはないのだなと気付いた。触れたところでそれ以上聞き込めなかっただろうしとくに突っ込みもしなかったが、形ばかりの皇妃を迎えることすら毛嫌っていた皇帝がまた唐突にどうしたものかと思っていたのだ。
「手っ取り早くどこかの馬の骨を認知して、皇国のお飾りに祭り上げる方針か」
「馬の骨と言うな。三補佐のきびしい審議をまず通る。教養も帝王学も学ばれてこられる御方だ」
「……お嬢が巻き込まれないための手立てなんだろう?」
 そうして皇妹の夫である自分との。
 だから深く切りこんで聞けなかった。なぜ血のつながりもない後継者をすえおくのだと言う話になると、結局は次候補である皇妹へと話はうつる。すると皇妹との間に生まれる子供は次々点の後継者ということになる。皇帝には子をなす気がない。正面切って君の子供を後継者として差し出せとさすがに言わないだろうが、突き詰めてゆくとダインには返事のできない話だ。
「内外ともに皇太子の存在が公になればいくらかの措置にはなるだろう」
 これはあくまでも独断でしかないが、つけ加えてディクスが首を振った。
「不器用な方なのだ、あの御方は」
「……一日ぐらい、俺はダンナに体を貸したいと思ったことはあるよ」
「体?」
 言うと怪訝な顔をしてディクスがダインを振り返る。使い倒されたいって意味じゃないからなとダインは念押した。
「生まれたときから一度だって思いっきり走ったり笑ったり泣いたりしたことないんじゃねェの、って」
「ああ」
「皇帝だとか政治だとか、品格も行儀もそんなもん全部投げ払って、町へ繰り出して飲み歩いて、女引っかけて、そこいらのごみ溜まりで寝て、」
「ああ」
「どこまでいっても上に立つものの顔を維持しなきゃなんねェとか、俺なら」
「俺なら気が狂う」
 言葉尻をすくってディクスが制した。ああそうか、とダインも頷く。傍で見ていたってそう思うんだな。
 そうしてだから余計に皇帝はチャトラに惹かれるのだと唐突に気が付いた。どこまでも体一つなのに全身全霊で動くようなかたまりがいるからそれがやけにまぶしく見えて、
「目を細めるって言うのはそう言う意味だからだよな?」
「目?」
 聞き返したディクスに何でもないと返し、がりがりと頭をかいて足早にダインは皇宮を去った。こんな夜は居間で次の日の昼までぐうたら過ごすに限る。


(20111126)
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最終更新:2011年11月26日 21:35