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さいきんはとてもたくさんいらしてくださりますのね。
幼子の顔をした美しい女が、たどたどしい言葉で呟き、紅茶を一口含んで花のように笑った。うれしいと言う。
遠く南方のシュイリェから交渉客としてやってきたという建前で、実際は後宮の一室としてエスタッド国へ捧げられたにすぎない。
本人は事情を知らなかった。画策し手の内に入れたと思っていたらしい。エスタッド皇の手の平で踊らされていただけなのだと知り、絶望したのか数年前に自死をはかった。報告を最初に耳に入れたとき面倒くさいことを起こしてくれたというのが皇帝の素直な感想で、実に己は人非人だと自覚している。
処置が早く一命を取り留めたものの、もともと細かった神経にもさわったのか、大量に服毒した薬の影響で精神のたがが何本か外れた。日常の所作はひとりできるものの、むずかしい話になると判らない。まるで幼児だ。
皮肉なもので、気がふれて以降は皇帝が後宮の彼女の部屋へ足を運ぶ回数が増えた。
素直にそれをうれしいと女は言う。
そうですかと皇帝は慇懃に返した。
「いぜんはこんなにきていただけませんでしたでしょう。わたくし、ごごのおちゃのじかんにひとりはさびしくて」
薄物をしどけなく羽織り、上目使いに男を見つめる目の色の中に、けれど以前に見られた焦れたものはない。
「今は?」
同じように茶碗に口を付け皇帝は薄く微笑んだ。
「いまは、こうしてへいかがきてくださいます。はねのもようがうつくしいとりも、とりかごもいただきました。とてもしあわせですわ」
「幸せですか」
「しあわせです。どうしていぜんはわからなかったのでしょう」
「――どうしてかな」
判るだとか判らないだとかの問題なのだろうか。そう言えば以前はいつでも不満げな瞳をしていたような気もするけれど。
首を傾げるとええ、と女が大きく頷く。
「おおきなゆめをみていたのだとおもいます」
そう言う。
「夢ですか」
「ゆめ……というでのは、すこしごへいがありますでしょうか。やぼうとよぶにはぎらぎらしていなかったきがするのですけれど。ひきが、くうきをすいこんで、はらをふくらませるでしょう。あのようすににていたのだとおもいます」
「蛙」
「おおきく。もっとおおきく。もっとつよくなれるものとおもい、じっさいになれたのだとさっかくしてはれつしただけのことなのだと」
「痛みは」
あったのだろうか。
最後まで尋ねるには気が引けて中途で切ると、察した女が痛くはありませんでしたと真面目な顔をして答え、すぐに笑った。
「みのたけにあったしあわせはいつでもめのまえにあったものを、なにをかんちがいしていたのか、いまではうまくわかりません」
判らなくとも良いのですよと男は言った。
今が幸福であると感じているのならばそのままにしておくべきだ。
そのままどちらが話すでもなく、ぼうと緩んだ空気に身を任せ、女と同じように床に転がされた枕に背もたれて皇帝はしばらくうつうつと少し眠った。
けぶった空気を震わせたのはおずとした調子の女の声だ。
へいかは、と聞こえたような気がして瞼をあげる。
女がいつの間にかまっすぐにこちらを見ていた。
「へいかは、いかがですか」
「如何、」
「くうきをすいこみすぎて、まるくなり、かわがうすくなることはありますか」
「どう――であろうね」
言われて面食らう。そんなことを考えたこともなかったからだ。
さすがに顔にはださずにおいたけれど。
「むりはなされておられませんか」
「していませんよ」
女の言う無理、の意味が正直なところ皇帝にはあまり判らない。無理と言われるならば自身が生きているということ含めて何もかもが無理なような気もする。生きることが難しいと言われた体を押して生きている。どうみても理はあるまい。
片手の平であるというのも無理なことかなと皇帝は思った。
掬うと言っても満足に何も掬えず、砂にしても水にしても指のあいだどころかすぼめた平の両端から零れおちていってしまう。ろくに押しとどめておくことすらできないのかと落胆し、自暴自棄になりなのにどうしても片手の上に残しておきたいよどみがある。
よどみは、緑青色をしていた。
そういえば今朝はたいして言葉を交わさずに終わってしまったな。
昨日見合いの一件でそうとう怒らせていたから、何かこちらから折れるような話をしても良いと思っていたのだけれど、男の身支度を手伝うチャトラは何か言いたげなそぶりをしながらもどこかよそよそしかった。うまいぐあいに話のとっかかりもなく、昨日は済まなかったと言い出すのもおかしな気がしたので、どうしたものかと思っているうちに支度は済んだ。
今日、と部屋を出かけた男に小さな声でチャトラは言った。
「今日あとでちょっと町ブラついてくるよ」
「ふむ」
「夕飯までには戻ってくる」
どこへとは重ねて聞かなかった。おおごとであるなら最初から彼女は趣旨を言うだろうから。気晴らしも兼ねているのかなと思ったけれど口にはださなかった。
小さく頷いて終いにした。どうせ今晩町で見かけたことについて身振り手振り一生懸命に話が聞けると思ったからだ。
それが最後だとは思わなかった。どうして思えたろう。
ふと目を上げると、後宮へつづく回廊のあたりにせわしなく小走る侍従の姿が女の部屋の窓から見えた。なんとはなしに胸騒ぎがした。追い立てられるような動き。目的をもって一直線に向かう、
「御無礼つかまつります」
頭の中で皇帝が数十かぞえたあとに、紗を垂らした部屋の外で声がする。息切れ。
何かな、と応えた皇帝は、続く侍従の言葉を聞くやいなや裾を払って立ち上った。不意の男の動きにまぁ、とシュイリェの女が驚いて口に手を当てる。
立ちくらみがした。
親とはぐれた子供が、大通りを右往左往していた。泣きたかったけれど泣いてしまっては泣きやむすべが判らない。迷子になったのだと知ったそのときから不安と言うよりは恐怖だ。泣けなかった。おののきながら子供はひとり、人波をかいくぐって親を探した。
見はぐれた親をさがそうと見回しても子供の視線の高さではせいぜいがところ大人の腰で、そこに見知った顔はない。
顔どころか、町というものを子供は知らない。
近日行われる月市に出店する遠方の村からやってきたのだった。
うまれたときから二、三十の部落民に慣れている子供の目には、万を超す往来は理解できない津波のようなものであった。人の形には見えない
子供が知っている家のかたちというものは藁か木でできていて、ところがつれてこられた皇都では家の造りがみな石なのだ。
かたくて冷たそうだ、というのが子供が町並みを見たときに初めて見た感想だった。
というよりも、子供の目には「それ」が家なのだという認識はなかった。家は藁か木でつくられるものだ。だから石のかたまりが勢ぞろいしている通りを眺めて、どうしてここに並んでいる石は、みな同じ四角いかたちをしているのだろうと思った。
四角い石は皇都に住む人間の家であり、中では村と同じように家族が暮らしているんだと目を見張り口を開けはなしのままの子供に親が笑いながら言ったが、そうかと頷きながらも理解はできなかった。
石の中に住んでいる人間はどれだけ皮膚が頑丈なのだろうと思っただけだ。
その石造りの家が建ちならぶ大通りは昼時でちょうどごった返しており、しかも子供が迷子になったのは中央市場の近くだ。
朝市の終いをして家に戻ろうとする近隣の農民の男と引いた驢馬、荷車。皇都にきたついでに並ぶ露店を眺める妻たち。あちらこちらに定時の見回りの衛兵。逆流して昼飯にありつこうとする工夫や流れものの目の鋭い傭兵たち。またその懐を狙う不届きなものや日々の糧をせびろうとはびこる物乞い。どうぞお立ち寄りくださいと呼び込む商店の横では、流しの花売りが獲物を見定めする。
その足元を猫。追いかける犬。赤ん坊が喧騒に驚いて癇泣きし、赤子の声に馬がいななく。
いったいここは何なのか、この歩くたびにがつがつと痛い地面にまでどうして石がはめ込まれているのか、狂騒の中に子供はいた。
これが田舎出の大人であるなら、それでも大口を開けすごいもんださすが皇都だと感嘆の言葉一つも吐いたかもしれないが、その余裕もない。
血走った目でただ子供が知っているたったひとつの親の顔を探す。
もうずいぶんと長い時間、探して歩いているような気がした。
奇跡という言葉がこの場合当てはまるのか判らないが、同じように子供を探して半狂乱のようになった親の姿を子供がまず見つけた。
たちまち喜びと言うには強すぎる激情にもみくちゃにされながらまっしぐら、垣間見えた親の許へ駆けだそうと二、三歩踏み出した。
あ、と誰か大人の鋭い悲鳴がした。あぶない。
声のした方向へいったいなんだろうと子供は頭を巡らせる。邪魔をしないでほしい。見つけた親の姿を見失ってしまったらどうするというのだ。
見上げた真上に真っ黒な、自分の頭よりは相当にでかい槌のようなものが見えて、それが馬の蹄鉄のかたちをしていると認識する前より早く、子供は鋭く息を吸った。
「――頭を打った。……、」
一部始終をたまたま目撃していた見回りの兵士の報告を繰り返して、自分に言い聞かせるように打った、と皇帝はもう一度口の中で繰り返した。
皇宮の一室である。
隣室へつづく扉を見据え、報告を受けている。
町へ出かけたチャトラが事故にあったという。
親とはぐれふらふらと市場をうろつき、荷馬に踏み殺されかけた子供に気がついた。考えるより先に手が出たのだろう。皇帝には理解できる。
庇ったというよりは突き飛ばしたと言った方が正しいようだけれど、おかげで子供は無事だった。しかし自分がよけそこね、馬車の車輪止めに頭を強打したのだと言った。
数時間意識は失ったけれど車輪止めが木製であったことが幸いしたか、それとも彼女の頭蓋骨がもともと頑丈だったのかもしれない。裂傷も出血もなかった。大きなこぶができた程度だ。他に目に見える怪我もないと言った。
重畳と皇帝は呟いた。重畳。皮肉にもほどがあると思った。
ただひとつだけ、
つと扉に近付き皇帝は扉を開けた。部屋の中には落ち着かなさげに椅子にかしこまり、縮こまっているチャトラがいて、開けた戸口に立つ皇帝を眺めてあいまいな笑みを浮かべた。
元気そうだなと皇帝は思う。
どの程度だ、と男の背後でアウグスタ補佐官が医師に向かって聞いた。息をするのもはばかられるような小さな声だった。
数年でございます、と同じように囁き声で医師も答えた。おそらくは五、六年でございましょう。
六年。
暗澹たる声色。暗い気持ちになれるだけましだ。思いながら口の端を意識して上げて皇帝はおずおずと立ち上ったチャトラへ数歩近づく。陛下、と背後で気遣うようなシュイリェの女の声がした。
陛下。
誰のことを呼んでいるのだろうと思った。すくなくとも自分のことではないはずだ。
「……へいか?」
目の前の猫が同じように繰り返す言葉が男の耳に入らずに滑る。見下ろした緑青色があまりにまっすぐこちらを見ていたので、男は目をわずかに逸らした。
あなたが、と目の前のしらない娘が口を開いた。
「あなたが皇帝陛下ってひとですか。オレ、チャトラって言います」
ああ。
彼女と同じ顔、同じ声で。
そんな風に真っ直ぐ見つめてくれるなと男は内心呟く。
「ここの屋敷でやとってくれてるって聞いて。えっとあの……すいません、オレちょっとよくわかんなくて。なんか馬にぶつかったとかで」
……記憶を。
記憶を、いくばくか失っているようなのでございます。
後宮でさきほど報告を受けた自分は、数度同じことを尋ねた。理解できなかったからだ。
本当は信じたくなかっただけなのかもしれないけれど。
大きな事故にあった人間が、その事故の前後を覚えていないというのはよくある話だ。高熱や痛みや衝撃でわりと簡単に人間は記憶を飛ばすらしい。
記憶とは異なる経験かもしれないけれど、発作を起こした自分も似たような経験をする。落ち着く様子を見せない心臓にあえぎ、痛みにもがいているうちに、世間では週単位で月日が流れていることが多い。数日寝込んだかと尋ねると、ひと月経ったと告げられて呆れることもしばしばだ。
我に返ったときはいつでも、置き去りにされていた。
しかしそれは前後数時間、ながくとも数日といった具合で、時間のすすみ具合が変わるだけで覚えたことが消えうせる訳ではない。
苦痛は常にそばにあった。
いっそ消えてしまえば良いのにと何度も無駄なことを願い、願うたびに失せないそれに落胆した。
だから、やはり皇帝が告げられた内容は全くの異質なものなのだろう。
五年。もしくは六年。
自分が誰であるとか、どういう生い立ちかだとか。元の部分は判っているようだと医師は言った。
それから、娼婦の姉の許を離れ、一人で掏摸稼業をして生きてきたことも覚えているようだと言った。
つまり大まかに言えば、チャトラは皇都エスタッドにやってきたあたりのくだり、エスタッド皇とでくわしてから今日までの記憶を失っているということで、
なおるのか。
頭を強く打ち付けたと言うことが原因であるなら、ときが経ち、例えば傷が癒えるように徐々に回復に向かうものなのか。
判りませぬ。
医師は答えた。
原因が精神的なものであるならば、治療のほどもございましょうし、経過も辿れましょう。病と同じでございます。しかしこれは、
「案ずることはない」
困ったように首を捻るチャトラへ皇帝は言った。
憎いと思う。
まったく変わることがない己の平静心と言うやつがこれほど憎いものだとは。
「落ち着くまでまずはゆるりと休むとよい。今後のことはそれから考えなさい」
「……しかし困ったことになりました」
皇帝の言葉を受け、アウグスタが思い深げに顎に手を当て唸る。
「陛下の御許に置いてゆくわけにもございますまい」
「――なぜ」
「『このこと』を知る人物は少ない方がよろしいゆえ」
「――」
大概は傍を離れない侍従長ですら知らないのだと言った。こまやかに皇帝の世話を焼く、勝手知ったる侍従長ならばまだ問題はないだろう。けれど、長の口から下の人間に伝えられては。そのまた下働きの人間は。
「セヴィニアが知りましたら喜んで放逐しましょうな」
後ろ盾どころか出身国への建前がどうの、という問題がおこらないだけましだと思った方がいいのかもしれない。チャトラに身寄りはない。流されて困る噂も、困る遠戚もいなかった。
建前上、成り行き任せとは言え、セヴィニア補佐官がチャトラの後見人になっており、だというのに言いだした本人が言いだした当日に後悔したというから、余程セヴィニアはチャトラが気に入らなかったらしい。表立っての糾弾はそれでも避けてはいたものの、ことあるごとに彼は皇帝の後宮入りを勧める。
チャトラが気に入らない、というよりはおそらく一国の主が、名も実もない相手と交接をするということがよろしくないのだとセヴィニアは思っている節があるけれど。
だが、と皇帝は言った。
「報せぬわけにもゆくまい」
「二、三日はずらします」
「――」
「……わたくし」
皇帝の後ろで息を呑んでいたシュイリェの女が、へいか、と控えめに呟き、
「あずからせてくださいませ」
言った。
「わたくしのへやへ、つれていかせてくださいませ」
ここまで付いてきたのかと改めて皇帝は気付き、振り返って女を眺める。がんぜない顔をした女は、懸命な顔でお願いしますと胸の前で手を揉み、言った。
「いけませんか」
「いけない、と言う訳ではないが――」
よろしいとは即答できず皇帝は眉をひそめる。どうしたものかと思案した。
「失礼ながら、なぜ姫君が」
横から口を挟んだアウグスタが、隠しきれない不審を表していた。
正気のあった以前、この女はチャトラを殺そうとした。もしかするとあれは虚勢と言うもので本気ではなかったのかもしれない。けれどチャトラがひどい目にあったのも事実だ。気がふれて無害になったとはいえ、女の本性が変わっていないとしたら、
「おはなしあいてがほしかったのです」
いけませんかと女は言った。
「話し相手――」
「わたくしのへやはひろくて、かのじょがひとりふえるくらい、どうということはないのです」
「しかし」
訝しむ顔をしてアウグスタが女を見る。
「わたくしたち、なかよくなれるとおもいますの」
「――気が荒い。爪も歯もたてます」
気が乗らない返事をして、そう言えば今と同じ答えをいつかどこかで女に向かって放ったことがあるような気がした。笑いだしたい気分になる。あのとき女は不承不承引いたように見せかけたけれど、
「へいきですわ」
おねがいしますと女は言った。
「わたくし、ねこはとてもすきですのよ」
子供特有の頑迷さ。仕方なく皇帝は小さく頷き、しかし、と重ねるアウグスタをよいと目で制した。
今はきつく咎める気分でもなかった。咎める気力がなかった。
皇帝と女とアウグスタの顔を不安そうに見比べているチャトラへシュイリェの女は近付き、いらっしゃいと微笑む。
「おいでなさい。いっしょに、おにんぎょうあそびをしましょう?」
「……えと、」
困惑顔で皇帝とアウグスタへ視線を走らせたチャトラへ、ゆきなさいと皇帝は言った。
「――あとで、迎えを出す」
まだ何か物言いたげな数名をその場へ残し、男はさっさと踵を返して部屋を後にする。今日中に片づけなければならない案件が、まだいくつかあったことを思い出したのだ。
ディクスを伴い、廊下を突き切り回廊を渡って執政区域にはいる。真っ直ぐ執務室へ向かった。用事がなければ入らないようにと他の人間に言い置き、扉を閉めてそこで初めて瞑目する。
忘れたか、と。
「五年か、六年か……。しかし幸いながら自分の名前は覚えているようで」
幸い。額に手を当て医師の報告を思い出し、男は声もなく笑った。
数週間経ってもチャトラの記憶は一向に元に戻らなかった。
戻る、というのもおかしな話なのかもしれない。外傷はほとんどなかったようだったけれど、結局は頭を強く打ちつけているわけで、脳髄のどこかが損傷しているのだ。男の失った半身と同じようなもので、それが単に目に見えないかたちで現れたと言うだけである。
それでももしかしたら、だとかどこか期待していたところがあったのかもしれない。
ある朝目が覚めると今まで通りなにひとつ変わることないかたちに戻っている。一日の仕事を終え、扉を開けた自分の居室に彼女がいて、振り向く。おかえりと言って笑う。
そんな夢想をし、けれど皇帝が執務室から戻り、うやうやしくこうべを下げられたまま扉の向こう側を覗いても、部屋の中には誰もいないのだ。
じゅうぶんにあたたまっているはずの部屋はなぜか寒々しかった。
暖炉の前の安楽椅子に腰かけ、手慰みに本を開く。脇へ無意識に手を伸ばす。
触れるはずの頭がそこにはなくて、だのに腕が何度も空振りそのたびに男は我に返る。
ああそうか、あれはまだ戻ってこないのかと。
まだ戻ってこない、がもう戻らないに日ごとゆっくりと変化してゆき、皇帝は後宮へ足を運んだ。
秘めやかに息をひそめ、男の訪れを待つがらんとひろい建物の一角でくすくすと笑いのこぼれる部屋がある。
「まあ、へいか」
床の上に大きく遊戯盤を広げ、賽をふりかけていたシュイリェの女が紗を透かして様子を眺めていた男に気付いて声を上げた。
「そこはひえましょう」
「邪魔になるかと思ったのですよ」
「へいかを、じゃまにおもうにんげんなどおりませんわ」
言って女は紗を上げた。向こう側でひと一人が座れる場所をあけようと、見なれた小柄な体が散らばった札を片付けている。
「へいかもいっしょに、あそんでくださいまし」
「私は――」
私はよい、気にせず続けなさいとゆるく首を振る男へ、脇からどうぞと控えめに茶碗が差し出された。ああ、と何気に受け取ってそれから差し出した体へ無意識に手をかけていた。引き寄せようとしてはねつけられ、あらためて自分が腕を伸ばした体を見直す。チャトラの仕草だと気が付いた。
一瞬言葉を失った男へ、困惑顔の彼女の瞳がぶつかる。
悪い、と彼女は言った。
「なんか急にびっくりして」
でもアンタ寄せる人間まちがえてるよ。言ってちらとチャトラがシュイリェの女へ目をやった。
「お姫さん、アンタがくるのずっとまってた」
「ああ」
そう、と男は言った。勝手に口が動いていた。
「少しはここの暮らしにも慣れたかね」
思いだしたかとは聞けなかった。聞くだけ愚問だと思った。
「ああ……うん。はい。みんなよくしてくれるし、布団はやわらけェし、メシはうめェし、言うことないです」
野宿にくらべれば天国みたいなところだと嬉しそうにチャトラは言った。
「ただ、タダメシ食らってるのもなんか悪いというか……オレの気が済まないんで、仕事貰えるともっといいんですけど」
「わたくしのおはなしあいてでいればよいといっても、はたらかせてくれのいってんばりですのよ」
側で聞いていた女がくすくすと笑いながら言った。
「はたらかなくともいいといっても、しょうちしないのです」
「――成程」
「そういう風に言われて育ったし、性分なんです。働くと言っても、あんましむずかしいこととか、できないですけど。でも雑用とかそういうのだったら、オレだいたいできると思うんで」
働かざるもの食うべからずっていうんだぜ。
皇宮に来てすぐに、チャトラが皇帝に面と向かって言った言葉だ。
何かさせろと言った彼女へ、では身の回りのことを手伝えと命じたのは自分だった。
「見ての通り、片端なものでね。日常の一通りに支障が生じる」
敷かれた絨毯の幾何学模様をなぞりながら、自分はいったい何をしようとしているのだろうと皇帝は思った。同じように過去をなぞろうとしているのだろうか。
聞いた彼女が一瞬気の毒そうな顔をした。事情は知らないが、何とはなしに察して憐れんだのだろうと思う。
憐れむ。
……お前は決してしなかったな。
「一日のほとんどは執務区域へ詰めているので、その間は問題がないのだが私室で過ごすいくらかの時間、不便が生じるのだよ。私室にいるときの身の回りの世話を手伝ってもらえると良いのだけれど」
「着替えとか、掃除とかそういうことですか」
「そうなるね」
「なら、オレできます」
どんな難しい仕事を言いつけられると思っていたのか、神妙に聞いていたチャトラがおずおずと尋ねた。男が頷くとほっと安心した表情になる。
「今日から手伝ったらいいですか」
「――いや今日は――、」
「だったら明日からいきますね。いろいろ失敗するかもですけど、よろしくお願いします」
ひょこんと頭を下げる横で、じっと皇帝を眺めていたシュイリェの女が、おつかれなのですかと小さく尋ねた。
「くたびれた顔をしているかね」
「しんぱいごとでも、おありなのではないですか。へいかは、たいへんおいそがしいかたでいらっしゃいますから」
「忙しいことは――ないのだけれどね」
「なにかあったのでしょうか」
子供にありがちな無邪気な問い。無邪気と言う言葉がこれほど芯に突き刺さるものだと皇帝は初めて知った。
なにか。
「猫を、飼っていたのですがね」
「ねこ」
話して何になるというのだろう。自嘲に頬が歪む。これではただの愚痴だ。方向性のはっきりしない八つ当たり。いらえのない苛立ち。
「猫を一匹飼っていたのですが、機嫌を損ねてでていったきり戻ってこないのです」
「まあ。……それはとてもしんぱいですわね」
女の中で、皇帝の口にする「猫」と部屋にいる小柄な娘は繋がらない。つなげる力を失ったのだ。
だから預けた。女の中にも過去がない。以前のチャトラを知らないのだから、余計なことを吹き込む心配がない。
でもかわいがっていらしたのでしょう。女は言う。
「かわいがっていらしたのなら、ねこにもつうじているとおもいます。たとえきげんをそこねてなんにちか、もどってこなくてもそのうち」
「――可愛がっていたのだろうか」
知らず、低い声が漏れた。可愛がっていたと言えるのだろうか。
ただ自分が満足なように撫ぜこねくりまわし、餌を与えて閉じ込めた。それは可愛がっていたと言えるのだろうか。実際ダインが口にするまで、男は寝込んでいる間の彼女の行動を知りもしなかったのだ。知ろうともしてこなかった。心配していないはずがないのに、どこかであれは強いからと自分に言い聞かせ納得し、放っておいただけではなかったか。
「幸せにしてやれていると思いあがっていただけなのかもしれぬ」
……知らないうちに、何度ひとりで泣かせていたのだろうか。
苦い思いを茶碗の中身と一緒に飲み下して、
「もう戻るまい」
自分に言い聞かせるように男は言った。
すっぽりとうまいぐあいに抜けてくれたものじゃあないか。皇都に来てから今日までの男とのやり取りも、ここで過ごした時間も、見たこと。聞いたこと。
彼女が発したすべて。
男の中には残っていて彼女の中から消えてしまったもの。
見合いをしてはどうかと呟いた男に、顔色を変えながらどうしてだと彼女は言った。どうしてアンタはそんなセリフが言えるんだ。
オレ、アンタが好きなんだよ。
つっかえつっかえ、つむいだ言葉。けれど仮令つむがなくたって、いつでも彼女は全身で自分に表現してきたじゃあないか。そばにいる、オレだけはそばにいるよと繰り返し繰り返し判ってやれない自分に向かって、声のない声を発し続けていたじゃあないか。
自分はいったいどんな顔をしてそのとき言葉を聞いたろう。うまく返事してやれただろうか。あれが望むような答えを、きちんと、
――夕飯には帰るよ。
あの朝。ぶっきらぼうに告げた彼女に一言、では今日は自分が待っているとどうして返してやれなかったのだろうか。彼女はいつも待っていた。男がどんなに遅くなると言ってもかたくなに一緒に食べるんだと部屋で待ち続けた。オレが一緒に食べないとアンタはへいきで一食抜くから。だから待つんだと言い張って、結局眠い目を擦りながら斜め向かいで飯を頬張るはめになるのだ。
どうせ町をぶらついて機嫌を直して戻ってくるだろうと。いつものことだと思った。
口争いになっても、結局すり寄ってくるのは彼女の方で、だから今日も同じようなことなのだと思った。
見合いを勧めたというのは考えた末での行動であったから、失言というには少し語弊があったけれどそれでも彼女を傷付けた。ひどく傷ついた顔をした。泣き出しそうな顔でアンタは莫迦か勝手にひとりでくたばれと最後には言い捨てて、部屋を飛び出して行った。
また泣かせてしまったのだろうか。
笑っている顔がよいと思うのに、いつも反対のことばかり言って怒らせたり泣かせたりした。そうして怒った顔も悪いものではないなと思ったりする。
「まいごですか……、」
「とても遠くへいってしまった」
どうせなら笑わせてやれば良かった。お前をたいせつに思うとひとこと伝えてやれば良かった。
「それはとてもしんぱいですわね」
ぎゅうと膝がしらを握りしめ、女が囁く。ああそうだねと皇帝は応えた。
二人の会話の邪魔にならないようにと黙って聞いていたチャトラが、口の中で小さく欠伸を噛み殺す。視線をちらと走らせて、皇帝はもう一口茶を飲んだ。
傷ついたまま消えてしまった彼女を思う。
「アルカナ王国との一件が済みましたら」
定例の貴族院の議会も終わり、議場に残ったのは帰りそびれて遠くの方で話し込む数人の貴族議員と、中央の椅子に腰かけるエスタッド皇、両脇にそびえ立つようにセヴィニアとアウグスタの両補佐官。それに侍従が数人と護衛のディクス。
数年にわたる旧アルカナ王国残党兵の鎮圧も、どうやら終息を見せるようだ。無理矢理力で押し切った、というよりも「大人の都合」で派遣することになったノイエ補佐以下官僚数十人の外交手腕が、発揮されたと言う方が正しい。
中心に担ぎあげられていた王族血縁の何某かが、復古を諦めエスタッドの提示する荘園に身を引くことが決まった。なるべくめだたない、なるべく要所ではない、けれど提示する際には多分の脚色ができるような土地を探すところから厄介だった。
本人がなかなか首を縦に振らなかったけれど、うまく周りの人間を補佐官以下数十で懐柔していったようだ。最終的にはエスタッド側へ立つ人間が半数以上を占め、その何某かも承知せざるを得なくなったようである。
五年かかった。長い交渉だったなと思う。
書類を手にまとめ首を回しながら、同じような感慨だったらしいアウグスタが言った。
「そろそろ隠居いたしますかな」
「――君が」
意外な言葉に目をやる。たしかアウグスタは還暦を過ぎてまだ数年だったはずで、いつまでもしがみのさばる貴族議員の中には八十近い亡者もいたから、
「尚早」
聞いていたセヴィニアが短い言葉で切って捨てた。
「やすやすとお役目を離れられると思うな」
半分冗談交じりのアウグスタの言葉だと判っていての発言である。
「なんだ、冷たいな」
「周りが見てこれはもう保たないと判断されるまで死に物狂いで働くものだ」
「死ねと」
「死ねとはいっておらん。……だいたい貴公の図体で倒れたら運ぶだけで厄介だ。自力で寝台の上まで這いずってもらわねば」
やれやれ。
肩をすくめて苦笑いをするアウグスタに、君がいなくなってしまっては後釜を探すのが大変だなと皇帝は呟いた。
おもに治安を統括する彼は、軍や傭兵連にも顔が聞く。大柄な体とそれに見合わない細やかな心遣いが人気のようで、若い衛兵たちから、かたちばかりではない尊敬を受けてもいた。
「……ああ、後釜と聞いて思いだしましたが」
話の流れが呼び水になったのか、セヴィニアが眼を上げた。
「陛下が命じられた『血のつながりのある』成人男子の一件……、再来週には一度会っていただきとうございます」
「さて――。我が子と涙の対面か。感涙を拭う絹布を用意せねばなるまいね」
「つむがせましょう」
慇懃に頷くセヴィニアの向かいでアウグスタが呆れた顔をした。
話に盛り上がる座席の議員どもに目をやり、それはそうと、と続ける。
「陛下の御膝元に置かれておられる『猫』ですが」
「――手放せと言う注進であるなら私は聞く耳を持たないよ」
「徒労は致しません」
頻繁に後宮へ通っておられるようですし、鹿爪らしい顔でセヴィニアが髭を捻った。皇帝がシュイリェの女の部屋へ足を運んでいることも、そこでいくらか言葉を交わして部屋に戻ってしまうことも識っているうえでの発言だ。
「皇宮に必要なことは、陛下が後宮へゆかれているという事実のみでよろしいのです」
「既成でよいということか」
「さて」
澄ました顔をしてあれから何か進展はと尋ねられた。進展。この補佐官がチャトラのことを気遣う言動があまりに意外過ぎて、思わず皇帝はまじろぐ。視線を受けてセヴィニアは咳ばらいをした。
「念を押しておきますが、なおれば良いと願っているわけではございませぬゆえ」
事故の起きた日から数日遅れて報告を受けたことをいまだに根にもっているのだと、言外に匂わせた。
「ただ。国の柱は陛下にございます。ゆめゆめお忘れなきよう」
苦笑しながら皇帝は立ち上る。寒々とした部屋へ戻ろうと思った。
扉を開けると、部屋の中央でしゃがみこみ、むずかしい顔をしたチャトラが床上を眺めていた。男の愛読書を広げ読んでいたものと見え、皇帝の姿を見止めて慌てて立ち上る。男が黙ってじっと見つめると、すいません、と本を閉じ差し出しながら早口であやまった。
「なんか結構言いつけられたこと全部やってもまだ時間あって。……本棚に本がいっぱいあるなとか、いったいどんな本読んでるのかとかちょっと気になったもんで」
怒られるものだと思ったらしい。あるいは勝手に私物を触ってはいけないと侍従あたりに釘でもさされたか。
戻さずともよいと男は応えた。
「気に入ったものがあるなら、部屋へ持って帰って読みなさい」
「ありがとうございます。ああ、……でも。なんか読もうと思ってもへいかの本、どれも難しくてオレにはさっぱり」
「読み下せないかね」
「読めんです。……なんか、皇宮きてからオレ文字ならってたんですかね?姉ちゃん……えっとオレを育ててくれたひとなんですけど。そのひとにも、他にも、ならった覚えはないのに多少は読めて。でも本当にちょっとなんです。姫がオレに本読んでくれっていうんですけど、オレすらすら読めなくて……スネられちゃうんですよ。へいかが次に後宮に来たときは、本読んであげてください」
陛下は本当に博識なんですね。ぱらぱらと手元の本をめくって、遠慮がちにチャトラは笑った。世辞と言うやつなのかもしれない。
「そう思うか」
「なんかあちこちにいろいろ書き込みがあって、すげェ字がきれいだなって……でもなんか皇帝へいかの字にまぎれて、たまに変な落書きとか入ってて。これ、アンタのじゃないですよね?」
「――私のものではないね」
不器用なもち方でペンを持ち、面白くて横から眺める皇帝にこっちを見るなと毛を逆立てて見せた。ずいぶんおかしな文字を書くものだ。それで読めるのかとたずねると、いいんだよオレが書いたんだからオレが読めれば。そう言う。
「あとなんか紙がはさまってて」
言ってチャトラが差し出した羊皮紙を、目にした瞬間奪うように男は手にしていた。これは自分のものだと思った。こればかりは。
驚いて目を見張るチャトラにああ、と嘆息する。
「大事なものなのでね」
皇宮へ来たての頃、物珍しそうに本棚を眺め、背表紙を目で追う彼女に、文字を習いたいかと尋ねた。それまでは比較的距離を置いて警戒していたのに、羊皮紙を広げお前の名前だ練習しなさいと指し示すと、好奇心に目をきらめかせ無防備に近付いて、たどたどしい文字で皇帝の綴りと同じ文字を書いた。
何度も、何度も。
そこに書かれていたのは彼女の名前の綴りなどではなくて、誰もが忘れた皇帝の名前だったのだけれど。
紙一杯に書きつめ、オレの名前が書けたと言って喜ぶ顔へ実はそれはお前の名前ではないのだがと告げると真っ赤になって怒った。からかうのもたいがいにしろと言った。
ぐしゃぐしゃに丸め放り投げたそれの皴を、やっぱり怒ったなと思いながら丁寧に指の腹で男はなめした。
何度も、何度も。
はみ出してしまうほどにたくさんつむがれた男の名前。ひとつひとつが大層へたくそな字で、それが不器用な彼女から呼ばれているような心持ちがした。
今はもう呼ぶ人間もいない。
「……あの」
控え目に声をかけられて皇帝は目をあげる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫――、」
「……なんか、痛そうな顔をしていたから」
「――大事ない」
大事はないよ。
かぶりを振って男は椅子まで足を進めて腰掛ける。今日は一日忙しかったのでねと言い訳て、お前はどうだと水を向けた。
「オレ?」
「仕事はつらくないか。不自由はしていないか」
「平気です。楽すぎて困るくらいで……こんなんでいいのかなって思うくらいで。ここでのルールとか教えられないと判んねェんですけど、体で覚えた方は割と忘れないもんみたいで。頭より先に手が動くって言うか」
「ほう」
「あと、洗濯のオバさんたちとか、オレが『こう』なっちゃったこと知らないらしくて。いつものように頼むよ、だとか言われてちょっと焦ったです。けどやることは敷布干しとかだったんで、そつなくこなせた。お茶とかも呼ばれて、こんな大きなお屋敷に努めてるひとたちだからどんな高貴な会話しながらお茶飲むのかとか興味あったんですけど……、話してることは下町のおかみさんたちとまったく変わりなくておかしかったです」
「なるほど」
「今のところ、あんまボロだしてないと思う。……へいかは前のオレのこととか知っていますか」
尋ねられて口を噤んだ。知っていると言えた義理か。
しばらく考えて、どうかなと答えた。それ以外に返すすべがなかった。
そうして手招き、傍へ寄せる。腕を伸ばして体に触れようとすると、驚いたチャトラが体を震わせるのが判った。
怯えているのかと思った。
体で覚えたことは割と忘れていないと、つい今し方言ったすぐあとで男のことはすっかり忘れてしまっている。
忘れられてしまうような些細な関係であったのかなとも思った。
この手が覚えている、ぬくもりだとかやわらかさだとか。
抱き寄せることは諦めて皇帝はチャトラの手を握った。自分の手の平にすっぽりと隠れてしまう小さなてのひら。
緊張にそれは握りしめられていたけれど。
自分の仕草に彼女はどう思うのだろう。せめてこの程度は許してほしいが。
黙って数呼吸目を閉じ、それから男はやさしい感触を手放す。
もう部屋へ戻りなさいと追い払う皇帝にうんと小さく頷き、扉の手前でチャトラはためらいがちに振り返った。何度か唇を開閉し言葉を選びかね、あの、と言う。
「オレ、前とずいぶん変わっちまってますか」
「――」
「アンタにもよくしてもらってる。迷惑かけたくないし、なるべく怪しまれないように過ごすつもりなんですけど。……その。前のオレと違うところあったら言ってください」
「――お前が気にすることではないよ」
薄く微笑んで男は手元の羊皮紙へ目を落とした。ぺこりと頭を下げてチャトラは部屋を出てゆく。その背に向かって違う、と喚いてやりたかった。口に出して言えば少しは何かが変わっただろうか。
……何もかも違うよ。
(20111128)
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最終更新:2011年11月28日 16:13