*
皇宮で起こった小さな変化を遅れて知ったダインが血相を変えて部屋に飛び込んできたときに、皇帝は相変わらず部屋でひとりぼんやりと暖炉の炎を眺めていた。
自分が部屋にいる時間帯をきちんと狙ってきたのだろう。そうでなければわざわざ静まった回廊を蹴たてて走ることもあるまい。すれちがった皇宮に起居する数人がおそらく眉をひそめただろうなと思いながら、ゆっくりと扉へ目をむける。ひと月ぶりに眺める義弟は戦場焼けしていて、浅黒い肌がなめしたようだと思った。実際いくさばでは他に類なく獅子奮迅の活躍をしているのだそうだから、獣そのものなのだなと思う。
「アンタ、」
開口一番、飛び込んできた勢いとはうって変わって困った顔でダインは言った。
「アンタ、平気なのか」
「――まずは腰を落ち着けたらどうかな」
「落ちつけられるかよ!」
こんなときに。むっとされてしまって首を傾げる。ようやく皇都へ戻り旅装を解いてまずはひと息吐きたいだろうに、ここまで足を運ぶだとかお人好しもたいがいだと皇帝は思った。
そうして平気なのかと言った。平気なのか。事情を知るだれもかれもがそう言う。平気だと答えるのにもいい加減飽きると言うものだ。いっそ平気ではないからどうにかしてくれと訴えたら、相手はどんな顔をするのだろうと思った。
助けるすべもないくせに。
「君に教えたのは誰だったのかな」
「ノイエんとこから速達が入ってて、なんだと開けたら仰天だ」
「ノイエ公」
当の本人はまだ皇宮へ戻って来ていない。来週あたりに出立すると連絡が入ったばかりだ。だのに戻ってもいない彼が実に情報に通じている。両補佐官も見習うべきだな。男は苦笑する
「ダンナを心配してたぜ」
「――私を?」
どういう意味での「心配」だろうか。
「また」狂うと思われたなら心外だと思う。
あのときほど、強い執着心も、喪失感もないだけだ。年を経た分丸くなったと言えたらずいぶんとよいのだけれど、結局自分は今ひとつ現実を認識していないだけなのかもしれない。どこかでまだこれは夢だと思っている。覚めない夢。
いつまでも覚めない夢を、ひとは悪夢と呼ぶのではなかったか。
「グチる相手もいなくてひとりで頑張ってるんじゃねェかな、とか」
近くへ招くと既視感を覚える様子で、ダインがグラスと酒瓶を手にした。差し出されるのを断る気にもなれず、受け取る。
受け取ったグラスからほのかな葡萄のよい香りがした。
「――それもノイエ公が?」
「いや。これは俺の心配」
「ほう」
アンタほんとうに大丈夫か?
探るような目つきになってダインがこちらを見やった。
「この場合、何と答えるのが妥当なのだろうね」
「俺ァアンタの忠実な腹心でもないし、長年仕えた側近でもないから役立つこともアンタが喜ぶようなことも何ひとつ言えやしないが。まぁ、グチをこぼせる相手ってのはあんまりいないんじゃないかと思ってな」
腰を据える様子を見せたダインを見やって皇帝が顔をあげる。既に彼が入室した時からある程度察し、手配していたのだろう。壁に控えた遣いの人間がかすかに頷き、廊下へ顔を出して酒肴運ぶ。引き寄せたテーブルへ並べた。
気がきくな、と小さく驚くダインへ君は来たらかならず飲むからねと皇帝は返す。
「そりゃ悪いな」
自覚がなかったらしいダインが眉尻を下げて頭を掻いた。
それから控え目に部屋の中を見回し、お嬢ちゃんはと言った。
「後宮で休んでいる」
「後宮?」
そりゃ、また。
目をむくダインに、皇宮ではあそこほど安全な場所はないからねと皇帝は応えた。
「一番奥まりにあり、立ち入る者も少ない。建物の造りはしっかりしているし、行き来する者も限られている」
「後宮で大人しくおままごとしてるようなタマにゃ思えないが」
「シュイリェの姫君と仲良くなったようだ」
「姫君」
女の気がふれたことはもとより、その原因も暗黙の裡に察しているダインははぁ、と呆れた声を出した。
「豪胆と言うか、がさつと言うか……まぁダンナにゃダンナの考えがあるんだろうが」
「昼間はこちらの部屋の片づけを頼んでいる」
「アンタの?」
「体で覚えたことはなかなか忘れないのだそうだよ。成程自分で言うように、見ているとなかなか手際が良い。頭で考えるより先に体が動いていると言うのは、ああいう様子を言うのだろうと思うよ」
「……」
訝しむ顔になってダインは黙り込んだ。男へ何と声をかけたものか考えあぐねているようにも見えた。
「ここ二、三日は休んでいるのだがね」
「……なんだ?腹でも壊したか」
「月のものが来たのだそうだよ」
「……」
ますます苦虫を噛み潰した顔になってダインは今度こそ言葉に詰まる。男である彼にこんなことを言っても詮方ないし、困るだけなのは知っていたのだけれど。同じようにグラスを呷って、酒を飲み下した。
それが初潮であることをさすがにダインは知るまい。
言うつもりもなかった。
病ではないのだし、痛みがある訳でも、出血がひどい訳でもなくべつだん普通に働けると言い張ったチャトラに、けれど今日は休みなさいと言ってその日は返した。おそらくシュイリェの女が張り切って世話を焼いたろう。悪意はないようなので任せても大丈夫だと思った。
六年の記憶が彼女にはない。だから、これが初めてだと言うことも彼女には判らない。忘れたいつかに既に女になっていて、その日の出血も毎月の出来事なのだと納得している節がある。
抱かないの。
そんな風に聞かれた過去を思い出す。
アンタ、オレのこと抱かないの。
女になったら迷わずに抱くよと自分は応えた。聞いた彼女は嬉しいような不安なような複雑な顔でそうかと応えたきりだったけれど、
「――記憶と言うものは厄介なものだね」
相変わらず難しい顔をしたままグラスを乾すダインに手ずから注いでやりながら、皇帝は呟いた。愚痴を聞きにきたと言った。ならば聞かせてやろうと思う。
「君が言ったように、体の良し悪しは関係がなかったようだ」
「……そりゃ、どういう、」
「君も知っているように、私はあまり健康な体ではない。年も離れている。どう考えても先にゆくのは私で、あれがあとに残されるものなのだと勝手に思い込んでいた」
「……」
「おいてゆかれたあれがどうするだろうかだとか。……悲しむだろうとか。要らぬ世話を焼いたりもした。手放すだとか、側に置いておくだとか――しかし、自身が残された立場になるものとは、まるで思ってもみなかった」
「……」
「皮肉に思う。私の中のあれの記憶が、日ごと現実を否定する」
「……」
「そうして好機ではないかと思っている。彼女の中がまっさらな状態であるのだ。このまま無理に過去を打ち消すことなく、新しいものを上書きしてやれば自ずと幸せになれよう。あやまちを繰り返す必要はない。……判っている。だのに手元に置いて過去をなぞらえる己がいる。……――あれと同じ声をし、あれと同じ姿かたちで、なのに決してあれではないのに、だ。気がふれるものならふれてしまった方がいっそ楽になるだろうにと思うけれど」
「……」
「私は――」
言いかけてそこで酒に焼けた喉がかすれた。
チャトラの中に皇帝はいない。
うつむいた男に泣けよ、とダインは言った。
アンタ我慢ばかり溜めこんじまうとそのうち破裂すんぜ?
聞いて男の唇が歪む。自嘲のかたちだった。泣く?誰が?
言われなくとも泣けるものなら泣いていたにちがいないのだ。涙は疾うに枯れ果てた。生理的なものが滲むことはあったけれど、感情が高ぶるとどう涙腺に影響するものか理解ができない。
泣けない私の代わりにお前が泣いていたな。そんな風に思う。
自分の前であまり見せようとはしなかったけれど、まなこを涙でいっぱいにして、そんなに泣いてしまったら体がしおれるのではないかと男が不思議に思うくらいぼろぼろとよく泣いた。
羨ましかった。お前が。
いつまでもそうして見ていたかった。
「……希望的観測ってヤツだけどよ。一緒にいたらどうにかなるんじゃねェの」
困惑しながらダインは言った。無責任なのは承知だったのだと思う。
どうにか。
「人間が人間に惹かれるってのは……理屈じゃねェだろ。直感みたいなもんで、たとえ忘れたって何度でも同じように惹かれるんじゃないかね」
「惹かれると思うかね?」
「惹かれるんじゃないか。俺はお嬢と百回同じ出会いをしたとしたら、百回同じようにホレると思うが。……側において、大事にしてやって……、」
「――あれに懐を狙えと、そう言うのか」
苛立った声が出た。できるはずがない。たわんでいると言うのならもう充分たわんでいて、その枝がもとに戻った。それだけだ。
「懐を狙わせて、無理矢理につれてきて、束縛し監禁し」
おかしなふるまいをしていた。自覚はある。怖かったろうと思う。
逃げ出してもおかしくない状況だった。憎まれて当然だった。だのに彼女は最終的にすべてをゆるした。
何度となく彼女を傷付け追い詰めながら、許されるたびに安堵した。自分にはまだすがる蜘蛛の糸が残っているのだと。
わずかな苛立ちはすぐに霧散した。
もう幕の時間なのだ。判っていた。こんな現実はいやだと駄々をこねているのは自分だけだ。周りはうまく、または何とか対応していて皇帝一人が置き去りにされている。
「いびつな出会いだったのだろうよ」
諦めるのかとダインは言った。
「アンタ……、……。ホレてたんだろ」
愛していたよ。髪のひと筋。骨の一辺。爪先にいたるまで。
鋭く聞かれたひとことに、皇帝は首を傾げて考え、
「――この酒は美味いね」
聞こえないふりをした。そうだ。仕方ないけれど諦めるのだ。
無言のうちにわかってほしいが、斟酌してはくれまいか。
声に出すには少し辛い。
しばらく険しい顔をしたまま、睨むように皇帝の顔を眺めていたダインは、ふうと息を吐き顔を背けると椅子にもたれ小さく舌打ちをした。
くそったれ、だとか呟いたようにも思う。
それからまた少し黙る。暖炉の炎が爆ぜる音が何度か響き、男がそれへ耳を傾けていると、
「じゃあ、飲めよ」
吹っ切ったらしいダインが酒瓶を差し出して力なく笑った。
飲めと言われて男は数度まじろいだ。体に悪い。飲むな。また飲んでいる。いい加減にしないととりかえしがつかなくなるぞ。
咎める言葉は何度も聞いたけれど、飲めと言われたことは初めてだ。飲めと言ったのだろうか。何か聞き間違いをしたのではないか。
のめ?静かに皇帝が繰り返すと、飲むしかなかろうがよとダインはぶっきらぼうに言う。
「珍しいことを言われたものだ。明日は雪が降るかな」
「俺が言ったなら槍だろうさ」
「なるほど」
それは物騒な雨が降るな。聞いて皇帝はうっすら笑った。
「……飲んで。飲みつぶれちまえよ。そんで、ちっとでもいい、しばらくぜんぶ忘れちまえ」
「――忘れられるとよいが」
「飲みつぶれて寝ちまえば、少しはマシな夢が見れるさ」
皇帝は黙ってグラスに口を付けた。
忘れたくはないのだとは言えなかった。
自分が忘れてしまったら彼女を知る人間がいなくなってしまう。ほんとうに消えて、なかったことになってしまう。
どんな顔で笑うだとか。どんな顔で怒って、どんな声で男を呼んだかとか。
(少しはましな夢の中に、お前は現れるだろうか)
だとしたらもう一度だけ笑ってほしいと願う。
「……まったく時間の流れが速すぎてついてゆけないよ」
並んで歩くダインへ困ったように肩をすくめてみせ、ノイエがかぶりを振った。
遠方地から戻ってきて次の日の、報告を兼ねた簡単な夜会。簡単に、と聞いてたいした礼服は着てこなかったと言うのに実際皇宮へ来てみるとたいそうな飾り付けがなされており、ダインはおののいた。
帰ろうかなと回れ右をしたところで夜会の主役に目を付けられ、僕も今来たんだ一緒にどうだいと声をかけられ、帰りそびれた。今では後悔している。無理にでも帰ってしまえばよかった。
だいたい、垢まみれた傭兵出身の自分が、貴族の気取った舞踏会に出席すると言うのが根っこの部分から間違っているのだ。
護衛の仕事ならいい。まだいい。よくはないが我慢する。
しかし貴族の集まりと言うものは、うつろな蜉蝣のようなもので、褒めちぎっている目の前の相手に対して次の瞬間には冷徹に陥れていたりするのだから、「まっとうな」神経を持ったダインにはとても理解の及ばない世界だ。
理解したいとも思っていない。
なくなってほしいとまでは言わないので、できたら自分のしらない遠くの方で存在していてもらえると助かる。大いに助かる。そんな風に思う。
「ついていけねェか」
開会の主な理由のひとつは、旧アルカナ王国残党軍と大きな戦いに発展させることなく休戦協定を結び、いさかいを収束させた。その功労をたたえて皇都への呼び戻し。新たな所領地。
集まらせた議席の前でねぎらい、表彰し、
「アンタは今日の主役なんだよな?」
「僕の役目は終わったからもういいんだよ」
夕食をいただくのに飾りは必要かい。
持ち前のかすれた声で聞かれて、まぁ必要はないわなとダインは応えた。
「向こうでも卿となんども顔を合わせていたから、久しぶりの気がしないね」
「女じゃあるまいし、冴えねェ顔でちょうどいいんだよ。……久しぶりの宮廷とやらはどうだ」
「戻ってみたら今浦島だよ。みんなとても美しく着飾っているし、僕の知っていた流行りだなんてものはまるで古臭くて誰もが知らないんだ。実際、皇都へ戻るまえから今日まで僕がしたことと言えば、今日のための準備なんだよ。靴を採寸するとか。上着を作り直したりだとか。装飾のかたちを変えるだとか」
「気ぜわしいもんだな」
「まったくね。貴婦人ならともかく独身の僕が、何が悲しくて爪を整えたり髪を梳いたりするんだって話なんだけど」
もう一度肩をすくめてノイエが苦笑した。
人混みは煩わしいと避けて、園内の外れの方へ二人向かい歩く。賑わいから離れるにつれて篝火はまばらになり、あたりは割と静かだ。何とはなしに見回したダインの目に、円柱の陰からのぞく影が映った。
影はぴんぴんとはねる癖っ毛の頭のかたちをしていた。
広間を覗きにでもきたのかね、と内心呟くところへ、その小さな体に音もなく近付くふたつの影がある。明らかに不審な動きである。
眉をひそめおい、とドスのきいた声をダインが発するより先に、
「……何をしているのかな」
やわらかいけれど鋭い切っ先。刃がひたりとうなじに当てられたように、ふたつが固まった。
薄暗いがじゅうぶんに相手の顔を認識できる程度には光量があった。振り向いた男二人の顔にダインは見覚えがあるなと呟く。名前はいまひとつ思いだせないが、なんとか練兵長、だか軍務長、だかそんな名前がついていたような気もする。ダインはその程度しか思いだせなかったが、隣で頭の出来のよろしい補佐官殿が、きちんと二人の名前をしわがれ声で呼んでいた。
名前を呼ばれて我に返ったのだろう。酒でゆるんだ顔がいきなり現れた補佐官の姿にこわばり、チャトラの腕を取りかけたまま、え、だのあの、だのどもった声を発していた。
「彼女は僕の友人なんだ。手を離してもらえると嬉しいが」
「ああ、はい、その」
「広間でそろそろ催し物が始まる時間みたいだ。見逃してはもったいないよ」
不問にすると言外ににおわせ、早くこの場を去りなさいと彼は手を振る。慌てて下心をしまった男ふたりは、急ぎ足で去って行った。また別の場所で侍女に手を出すのかもしれないが。
「君。大丈夫かい」
「ああ……すいませ、……オレびっくりして」
なんだったんですかあれ。あのひとら、何しようとしたんですか。
目をまん丸にしたまま、チャトラは意味がよく判っていなかったのだろう。抑え込まれかけたのだと説明されると二度びっくりした顔になった。
「だって、ここ、皇宮なんだろ」
「皇宮がどうしたのかな」
「ドヤ街だったら判るけど、えらいひとたちの集まりなんだろ。そんなことするんですか」
やり取りを聞きながら、前にも一度説明したら目玉をヒン剥かれたなとダインは思った。貴族も結局ヤることは同じか、だとか忌々しそうに呟いていたような気もする。
「じゃあオレ助けられたんですね。えっと……、」
「ノイエです。初めましてだね」
「初めまして。……ありがとう、ノイエさん」
ようやく安心した顔になってチャトラが笑い、おずおずとノイエとダインを見比べた。……初めましてねェ。ちらとノイエに視線を走らせると、察した彼が同じようにダインを一瞬横目で制して、黙っていろと言った。
余計なことは言うなと。
確かに彼の場合初めての方が何かと都合がいいのかもしれないなと思った。チャトラへ刃を突きつけ脅したことも。追い詰めたことも何もかも白紙になっている。
「アンタは、ダインさんだよな」
「……俺を知ってるのか」
「姫が教えてくれた。すげェ強い騎士なんだって。誰もかなわねェんだって」
そりゃ買いかぶりすぎだな。褒められ妙にかゆくなって、ダインはぼりぼりと頭を掻いた。戦場で生き残る程度の腕はあると自負しているが、強い、だとか勇ましい、だとかそんな言葉とは無縁だと思っている。場を読むことに長けていただけだ。言ってみれば逃げ足が早かっただけなのだと。
「お前、こんなところで何してたんだ」
照れ隠しにそんなことを聞いた。ぶっきらぼうな声になったかもしれない。
「なんか今日、宴会あるとか聞いて」
「……まァ、宴会だわな」
品よく取り繕っているだけで、酒場で仲間うち、祝杯を挙げて莫迦騒ぎしているのと実際のところそう大差ない。首をそろえる人間がただ貴族の肩書を持っているだけのことだ。
おかしくなってダインは頬を歪めた。ノイエもくすくすと笑っている。
彼の場合はたいがい微笑んでいるけれど。
「きれいに着替えた女の人とか、すげェ高さに積み上げた食いものとか、あと珍しい鳥?とか芸をするのが見れるって聞いて……、いったいどんなところかなってちょっと気になったんだけど、近付いちゃさすがにまずいだろうと思って」
だからこんなに離れた陰から眺めていたのか。
なるほどなと頷いた横で、それでとノイエが尋ねた。
「見れたかい」
「え?」
「きれいな女の人や食べものや動物は見れたのかな」
「……それが、ちょっとここからじゃあんまりよく見えなくて」
「近くに行ってみようか」
「え、あの、でも」
近くにいったら怒られるって聞きましたうわちょっとオレその困ります。
慌てて後ずさったチャトラに大丈夫だよとノイエは笑う。
「見つからないようにそうっと近付いて見ればいいんだ」
「……そんなん、できるかな」
「できるよ」
にこにこと笑いながら手をたずさえ、ノイエは中庭を広間に向かって歩き出した。呆れた顔のダインは置き去りである。
(見つからないように、だとかよく言うぜ……)
庭から近付いても、配置された衛兵らは歩いているのが見知ったノイエ補佐官であったので、見て見ぬふりをする。世辞のひとつでも言おうと近付きかけた貴族どもには黙ってこちらへ来るなと彼は首を振ってこたえ、制した。
ほど良く近付いて、刈り込まれた低木の影にしゃがみ込み、チャトラが顔を出し広間の中を見る。おそらく「隠れて」いるつもりなのだろう。広間からはともかく、ダインが立つ庭からは丸見えなのだが。
並んでノイエも膝を着き覗いていた。折よく、広間では呼び集めた道化どもが、極彩色の羽の鳥を肩に頭に止まらせながら宙返りだの側転だのを見せては拍手喝采を受けていて、目にしたチャトラがえらく嬉しそうな顔になった。
すげェな。ああまた飛んだ。あれ、なに?鳥?どこの鳥?
飽きもせずしばらく目を輝かせて眺める。ノイエもそれに付き合っていたので、手持無沙汰になったダインはどうせならタダ酒でも呷るかと、酌まれ並べられたグラスのテーブルへと足を運ぶ。
二杯三杯一気に飲みほす。ついでにトレーごと抱えてどこか庭の隅で一人宴会でもしゃれ込もうかとしたところに、広間の壁際に立つ細身の姿に気がついた。着飾った婦人たちの中心に立ち、伏し目がちに静かに受け答えする姿。女どもの誰よりも端麗ですれ違った人間が思わず見返る、
(……ダンナ、)
一瞬中庭の暗がりへと無造作に視線を流し、植木の陰で目を止める。それから皇帝はうつむき微かに嗤った。頬を上げたかどうか判らないほど微かな、周りの誰もが気付かない小さな動き。
離れて眺めていたダインには見えてしまった。
なんて悲しい嗤いなのだと思った。
希いを絶った人間が微笑むとこんな嗤いになるのだと初めて知った。いっそノイエへ瞋恚を燃やしてくれていた方がまだましだと思った。慰めも同情も必要がない。
奇跡とやらがあるなら今すぐにでも起こって、植木の陰に隠れている彼女を直撃するといいと思った。失ったものを取り戻す。本来いたはずの彼女に戻る。
けれどそんなことは起こらない。
戻らないことを皇帝は知っている。失ったものに打ちのめされそうになって、けれど失ったものがあまりに大きくて打ちのめされることすらできない。
そうしてただ莫迦のように眺めているだけで、ダインは何もできないのだ。
遺された人間が思い出をたどる。
皺だらけの羊皮紙を丁寧に指でなめすように、静かに。
「つぎはこのほんをよんでくださいませ」
いそいそと嬉しそうに棚から一冊引き出して、シュイリェの女が皇帝へねだった。結構ですよと小さく頷き男は差し出された本を手に取った。
深更過ぎに及んだ補佐官功労の夜会のから数日、調子を崩して皇帝は寝起きを繰り返していた。
最初の三日あたりは言われた通り殊勝に寝床に臥せっていたが、いい加減腰も痛い。横になっても疲れていない体では眠ることもできず、同じ部屋にいるのも飽きた。
といって執務区画をうろついていては、仕事もできない体で何をしているかと三補佐から小言を食らうことは目に見えている。後宮へくるつもりもなかったけれど、消去法でこの場しか残らなかったと言うのが正しい。
目の奥が痛い。
だましだまし、ゆっくりと渡り廊下を進んでいる時から男の姿に気付いていたのだろう。
どの部屋をおとなうかと悩む間もあればこそ、廊下へ顔を出し、へいかこちらへいらしてくださいとほころんだ顔で招かれてしまった。否定する理由も見当たらなかったので、そのまま部屋でくだを巻いている。
口さびしさを紛らわすため放せなくなった酒瓶を傍らに立てかけていたが、咎める者もここにはいない。好都合だと思う。
ほつれた細い髪の毛がからまっていたので、手櫛で梳きながら絵本を開く。ぱっと目につく彩色でかざられたそれは、皇帝が何度も読みきかせた覚えのあるものだった。
「これは何度も読んだでしょう」
「でもわたくし、このおはなしがいちばんすきなのです」
諳んじれるくらいに覚えているのに、男に読んでほしいと言う。わたくし、へいかのおこえがとてもすきなのです。てらいもなく口にする姿にそう、と穏やかに男は頷いた。
こうした関係も悪くないのかもしれないなと思った。
相手に必要以上に執着を持たない。一緒にいて苦痛ではない。なるほどまともに眺めてしまえばうつろな関係かもしれないが、それでもどこか弥次郎兵衛のようにうまいぐあいにバランスを保って崩れずにいる。
一口酒瓶の中身を呷って、それから皇帝は最初の一頁目から読み始めた。
それは、どこかの国のむかしばなしだ。
あるところにへそ曲がりな王子がいて、庭師の娘を愛していた。王子は口には出さないが、娘はきちんとわかっていて、その不器用な表現しかできない若者の愛を受け入れてやる。
ところがある日へそ曲がりが災いして王子は魔法にかけられ、蛙に姿を変えてしまう。娘は気が付かない。
蛙の王子は何度も何度も、娘の愛してくれた人間は自分なのだと判ってもらおうとするけれど、蛙の言葉は娘には通じない。
娘は急にあらわれた蛙を王子だとは気付かなかったけれど、懸命に傍を離れない小さな生きものをいじましく思い、寝床を作り、服を着せ、名前を付けて可愛がってやる。
数年がたつ。
年頃になった娘のところへ、町の若者が求婚にやってくる。娘を愛していた蛙の王子は驚き、その結婚をなんとか食い止めようとする。蛙一匹の力では人間に及ばないが、同じ蛙や蛇や蜘蛛やむかでの力を借りて結婚式を無茶苦茶にしてやろうとするのだ。おもいしれ。王子はほくそ笑む。
そうして明日が結婚式と言う日の晩、準備万端を確認した蛙の王子は、娘は今頃どうしているのかと部屋の中をのぞき見るのだ。
そこには、
「あら」
皇帝の脇へ寝そべって頬杖を突き、めくられる頁を眺めていたシュイリェの女の手から、ころころとうすべに色の果実が転がった。齧るとしたたるほどに果汁の多いそれは、あれも好きなものだったな。腹いっぱいにむさぼっては、満足そうに舌なめずりをした顔を思い出す。
拾い上げて女へ渡してやると、ありがとうございますと受け取った女が、そういえばと辺りを見回した。
「ちゃとらが、まだもどってこないわ」
「どこかへ出かけているのかね」
もしくは、また誰かの手伝いをしているか。言うと女はそれが、と言った。
「のいえと、おひるをいっしょするのだと、いっていました」
ずるいわ。頬を膨らませる。
「――補佐官と」
「のいえは、やさしいでしょう。わたくしもごいっしょしたいといったのに。のいえが、きょうはふたりだけなのですよといったものだから」
「ほう」
そうかとだけ皇帝は思った。他に何の感情も湧かない。
そうか。仲良くやっているのだな。
「でもそのおかげで、こうして、へいかをひとりじめできているから、おあいこなのかもしれませんわね」
「ひとり占め」
首を傾げるとええ、と女は笑った。片腕を抱きしめ、顔をすり寄せる。
「へいかは、ちゃとらのことを、おきにかけておいででしょう?」
わかっていますのよと告げられて、すうと皇帝は小さく息を吸っていた。頑是ない顔をして、しかし女だ。そんなところはよく見ている。
――大事なものを先に作った方が負け。
過去に女はそう言った。
言った人間が自分であることを女はもう理解していないけれど、時に思いだすこともあるようだ。恐ろしい事件がございましたとまるで他人事のように口にする。
そう、他人事。みんな他人事なのだ。
「わたくしも、へいかのことがすきです。だから、ないしょのひみつばなしをおしえてさしあげるわ」
秘密?尋ねるとちゃとらの、と返された。ふたりだけのひみつですわ。聞き流そうとして、耳を傾けてしまう自分が何と愚かなことだろうと思った。
「わたくし、よる、ゆめをみるのがいやなので、ちゃとらといっしょによくねますの。ちゃとらといっしょだと、ゆめをみてもこわくないのです」
「――ほう」
「よるねて……、あさ、めをさましますでしょう。めをさますとちゃとらはおきあがって、しばらくぼんやりしながら、かならずまわりをさがしますの」
「――探す」
「なにかをさがしているようすで、ほんにんはおぼえていないのです。きいてもくびをひねります。でも、あれは、だれかをきっとさがしているのですわ」
誰かを。
意識の端にもかからないと言うのにそれでも体が反応している。探される目に見えない相手は、なんて幸せな人間だろうと思った。
酔いでごまかしていた痛みが不意にぶり返して、男は小刻みに震える掌で顔を覆う。視界がぶれた。
へいか、と驚いた女の声が、付き人を慌てて呼んでいた。取り乱した泣き声。だれか。だれかはやくきてください。
泣いているのかなと自身で思い、その割には渇いた頬に吐き気がした。ひとしずくたりとも溢れない自分は、やはり人間としてどこかに欠陥があるのだ。
大丈夫すぐに治まりますよと微笑みかけた顔が、抑えきれない痛みに歪む。
ずるずると床に崩れながら、またこれでしばらく寝床をはなれられないかなと男はふと思った。
“しめしめ、うまくいったぞ。”
蛙の王子は、ずいぶんといじわるな心持ちになって、ひとりほくそ笑みました。
“わたしをわすれて、ほかの男と結婚しようとするのがいけないんだ。”
わすれられた王子は、じぶんでは気がつきませんでしたけれど、ほんとうは、かなしかったのです。人間だったころのむかしの自分も、蛙になった今の自分も、まるごといなくなってしまうようで、かなしかったのです。
あしたはきっとたいへんな騒ぎになってしまうでしょう。今からようすが目に浮かぶようでした。なにせ、天井から蜘蛛がぶらさがり、ぶんぶんと羽音をさせた蜂がそこいらじゅうをとびまわり、螻蛄がはね、蛇とむかでが床をはうのですから。しょうたいきゃくはおどろいて、きっと飛びだしていってしまうことでしょう。
“いい、きみだ。”
にまにまと王子は笑いました。それからふいに、むすめは今ごろ何をしているのだろうと思いました。
夜もふけています。もしかするともう眠ってしまっているかもしれません。
ちょんちょんと蛙の王子はとびはね、むすめの部屋のまどをのぞきました。
“――ああ。”
部屋のなかには、あしたのはなよめいしょうを胸にだきしめ、笑うむすめがおりました。
今まで見たなかでいっとうこうふくそうに、むすめは笑っておりました。
そのむすめの顔を見た蛙の王子のおおきな目から、おおきななみだがぼろん、つづいてまたぼろん、とこぼれました。
とてもしあわせそうだと。
じぶんはぜんたい、なにをしようとしていたのだろうと蛙の王子は思いました。目にみえるうつろなものをおいかける自分が、ひどくおろかに思えました。
“あした、きみはもっと、うつくしく笑うのだ。”
じぶんのまちがいに気がついた蛙の王子は、むすめとそのはなむこを、しゅくふくしようと思いました。
むすめのこうふくを、王子はこころの底からはじめてねがったのです。
(20111202)
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最終更新:2011年12月02日 08:31