*
「ちなみに聞くけど、どれがアンタのお目当て?」
がたがたと安定のない丸テーブルの向かい側からチャトラが身を乗りだし、尋ねた。興味と言うよりはすっかり好奇心、正直なところ出歯亀むきだしである。きしきしと歯をむき出して笑うところへ、あの娘、とラズは視線で示した。
「どれ?」
「おさげの」
「おさげのコ?」
「いや。その隣の」
あのちょっとぷっくりした娘か。
「こっちむかねェかな」
そう呟いたところへ丁度くるりと注文を取るために示した娘がふり向き、おお、とチャトラが品のない声を上げた。
一応声はひそめている。
「面食い」
「面食いか?」
「めちゃくちゃ可愛いコちゃんじゃね?」
隅に置けないなと肘でつつかれ、仏頂面になった。照れただけなのだが素直にてらうのもいただけないと思う。
ラズが非番の時間に、意気投合したチャトラと連れ立って街へ繰り出したのだった。夕飯も兼ねている。
チャトラはもちろんラズのことをまるまる忘れていた。意見が今ひとつかみ合わないなと内心首を傾げ、問い詰めたうえでの真相だった。
聞いたときには、もちろんショックではあったけれど、以心伝心とでも言おうか。もともとの人好きのするラズの性格と、人懐こいチャトラの性格の歯車がうまいぐあいに合ったのだろう。すぐにまた仲良くなった。
今日は、ラズが現在ぞっこん狙い中の酒場の娘を二人で眺めに来たのだ。
ちなみに洋菓子店の娘とは、ふたつき前にあえなく終わった。実にあっけない最後だった。
「いくらアタシが忙しいから会えないって言ったからって、本当に会いに来ないってどういうことなの」
洋菓子店の娘はぶりぶりと怒った。
「せめて連絡のひとつくらい寄越したっていいでしょう」
自分からは連絡ひとつ寄越さなかったくせに、なんて言い分だとちらと思いはしたけれど、元来ラズは押しが弱い。すまなかったと謝った。
会いに行かなかったことは確かだ。それは謝る。しかし自分は君に、実は言付けを頼んでいたのだ。会えないと言われたけれど、ヒマを見つけて会いに行くよと手紙を書いた。ところがその手紙を託した人間が、言づける前に事故にあってしまった。事故にあって、しかも記憶を失ってしまったんだ。悪気はなかったんだが。
「莫迦にしないで」
ひととおりラズの弁解を聞くうちにますます眉を逆立てた娘は、平手を一発叩き込んで莫迦にしないでよ、と繰り返した。
「言い訳にしたってもうちょっとうまい理由思い付けないの」
そうしてぽかんと口を開けたラズの前から去っていった。次の日には別の男とよろしくやっていたようだ。
終わった。
ひと晩しくしくと泣きながら、ラズは浴びるように酒を飲んだ。
よくよく思えば自分の美しさを鼻にかけるいけ好かない娘だった。他の男に色目を使っていたのもいただけない。尻軽だからやめろと周りからとめられていたじゃないか。会うたびあれが欲しいこれを買ってとねだられて懐もさびしかった。彼女は俺とは釣り合わない娘だったんだ。しょうがない。
それを世間一般では負け台詞、というのだけれどそんなことはどうでもいい。
明け方あたりから丸一日地獄を見たこともどうでもいい。
立ち直りも割と早かった彼はすっぱりと過去は諦めた。尾は引いていない。
そうしてたまたま寄った酒場の娘に一目ぼれをした。
同じ轍を踏む、という言葉も今のところラズの辞書にはない。
「念のために確認するけどさ」
目の前でチャトラが大きなマグをぐいと傾けてから口を開いた。中身は大の男でもひっくり返りそうに強いものだ。寒さをしのぐためになるべく強い度数のものを冬はよく飲んだのだとチャトラは言った。
この年から将来が恐ろしいなと見ながらラズは思う。
「アンタの好みは何だっていってたっけ」
夕飯後に勤務のあるラズは、同じマグでもかなり軽い食前酒を飲んでいる。
「家庭的で、控えめで、大人しくて、料理が上手なコ」
指折り数える目の前でチャトラが目をむく。
「……あのな」
たっぷり数呼吸黙った後で、おずおずと彼女が尋ねた。
「さらに念のために聞くけど、それ、シャレで言ってるんじゃないよな?」
「割と本気だぞ」
「あのね……」
呆れた顔になり、白目をむいてチャトラが背もたれに倒れた。
「オレの目には相当方向ぶっ違いにしか見えないんだけど」
「そうか?」
「家庭的で、控えめで、大人しくて、料理が上手なコは、こんな時間こんな場所で働いてないと思うんだよね」
「そうか?」
「……」
応えると胡乱な目を向けられてしまった。ややあってぼそりとオレ、アンタがなんでフラれるのか判るような気がする、と呟いている。
言い返そうとしたところへ丁度料理が運ばれてきてしまい、たちまち両名の頭からしばらく娘のことは飛んだ。
「そういやさ」
肉汁のしたたる串焼きを食べながら、ラズが尋ねる。
「ん?」
「なんか、前のこと思いだしたりとかしてんのか?」
「前のことなァ」
首を捻って一瞬チャトラが複雑な顔をした。目にしてしまったなとラズは思う。あまり触れられたくない話だったかもしれない。
「いや、お前が言いたくないなら俺聞く気はないし」
「……もう一度どこか角に頭ぶつけて、都合よく全部思いだせたら便利なのにな、とかは思う」
「思いだしたいか」
「……どうかな……。まるっきり昔のことなにもでてこない、ってんなら必死になって思いだそうとするのかもしれないんだけどさ。前の記憶はあるだろ。途中ぬけてて妙にスカスカ気持ち悪ィけど……、でもまァ、思いだせないってことはそんなに大事なことじゃあなかったのかな」
聞いて一瞬ラズの胸が詰まった。大事なことじゃあない。お前は今そう言ったのか。
「皇宮にいたときのこととか、ちょっとずつ教えてもらってるしな」
「陛下に?」
「へいか?……いや、洗濯場のオバさんたちとかさ。厨房の調理のオッサンたちとか……あと庭師のジィさんも結構いろいろ教えてくれる」
「なんて」
「なんてって……お前と一緒にこの木を剪定したんだぞ、とか。なんかなるべく忘れてるってバラすなって言われてるから、知ったかな顔して頷いてるだけなんだけど。けど、ああそうか、オレこの枝の剪定手伝ったのかとか、まぁとりつくろってても判るだろ」
「……」
チャトラは最初、ラズにもそうして取り繕おうとした。かみ合わないなとラズが気がついたのは、娘への手紙を渡してくれたのかと聞いたからだ。
「オレが忘れてること知ってるのってごく一部の人たちだけで……、へいかだろ。あと三補佐のひとと……ダインさん。侍従長と……部屋に出入りしてるひとたちもちょっと知ってるかな。あんまり三補佐のひとたちとかダインさんとは会わないし。侍従長のオッサンからは、いろいろ『れいぎ』ってヤツを言われたかな。あとは、なんか本棚の整理の仕方とか、そういうのは教わりなおしたけど……、ああ、へいかが言ってたんだよ」
「……なんて」
「だから、無理に思いださなくたっていい、みたいなことをさ」
忘れると言うことは、忘れるだけの理由があるのだろうよ。
そう言われたのだと彼女は言った。
「結構なぐさめみたいなこと言ってくれるんだよね」
「……慰めか……」
それは本当に慰めなのだろうか。俯きそうになった顔をマグを呷ることでごまかして無理に笑った。そうして皇帝自身が己に言い聞かせているのではないか。
「ああ、あとノイエさん」
補佐官つながりで思いだしたのだろう。あのひと、と言うところへああ、とラズも頷いて見せる。
「一緒に出かけてるらしいな」
「出かけるって……。そりゃたしかに一緒にメシ何回か食いに行ったけど、その程度だぜ?アンタとこうしてメシ食ってるのとなんも変わらない」
でも、と一瞬食べる手を止めて、チャトラが宙を睨んだ。
「あのひと、オレと会ったとき初めましてって言ったんだけど」
「うん」
「初めてじゃないような気がする」
「……それは、」
「思いだしたとかそんなのはないんだ。けど。なんつぅの?勘?なんかこのひと知ってたっぽいなぁって、でもじゃあなんでこのひとオレに初めましてって言ったのかなとか。あんまり聞けないよね」
「……」
どうしてだろうな、と言ってラズはあいまいに笑った。真情を打ち明けてはノイエに闇討ちされそうだ。
「あとな、ダインさんもそんな感じ……へいかも、ちょっと」
「陛下」
「ここみつき、毎日顔合わせてるんだし、はじめてに思えるも思えないもないんだけどな。そもそも六年雇ってもらってたみたいだし。目が覚えてて当然なんだろうけど」
「……ああ、」
「知っているって言うか……なんかな」
においが、とチャトラが呟く。におい?聞き返すと説明に困ったのか、彼女がううんと腕を組んだ。。
「懐かしいようなにおいなんだよね」
言っている意味判る?視線を合わされて、思わずラズは逸らしてしまった。直球で聞かれても自分には答えようがないのだ。他人が口を出す問題ではない。皇帝が伝えないと判断したのなら、その結果も皇帝に任せるべきだ。
だからよく判らないなとラズは言った。
「俺は、皇宮でも遠くからお姿を見るだけだから」
「そっか」
なんだかねェ、と首を捻りながらチャトラが苦笑いする。
「今いる相手に向かって懐かしいとか……変な感じだよな?でも、なんていうか、姉ちゃんと同じようなにおいなんだ」
においといってもきっと彼女の言っていることは、嗅覚ではなくもっと別の感覚なのだろうと思う。
「けどへいかって、すごくいいひとだよね」
「……いいひと?」
言われた意味が今一つ理解出来なくてラズは訝しんだ。以前の彼女は、そんな表現をしたろうか。
「だってさ。縁もゆかりもないような、そこいらの馬の骨のオレを、いきなりたいそうな屋敷で雇ってくれてるわけだろ」
「そうだな」
「オレ、へいかに雇ってもらえてよかったと思うよ」
感謝してると微笑まれて、いきなり涙がこぼれそうになり、ラズはとうとう俯いた。自分が何を望んでいたのかよく判らないけれど、そんな言葉を聞きたかった訳じゃない。
もしかすると感謝の言葉をかけられて、皇帝も諦めたのではないか。
ラズ?と向かいから不審そうに聞かれて、やっぱり振られた彼女のことを思い出した、とラズは答えた。本当のことは言えない。それでも涙の理由は誤魔化せるだろうと思う。
あなたはなんて嘘つきなんだとラズは心の中で主君を罵った。
嘘をついていることを自分で痛いほど理解している確信犯の嘘つき。
ついこの間まで年が明けるだの生誕祭だの年末期末の書類整理だの、てんやわんやだった気がするのに、雪の合間に枝葉のつぼみが膨らみ始めている。
そろそろ春のきざしだ。
それでもまだまだ暖かさがやって来るには時間がかかるようで、体にも顕著に表れている。年末、続けてノイエの功労会のあと、そうして発作を起こして倒れてから、ずっと体のぐあいは芳しくなくて、ぐずぐずと引きずったまま少し無理を押して執務をしては数日寝込む、と言ったどうしようもない日々を皇帝は送っていた。
どうしようもない。皇帝本人が早く起き上がりたいと願っても意のままにならないのだから、本当にどうしようもない。
その皇帝が寝込んだ部屋へ、見舞いと称してシュイリェの女がチャトラを伴って顔を出していた。見舞いと言うよりはこのところ続くみぞれ交じりの雪の日々に、外に遊びにも出られない退屈を皇帝のところで紛らわそうとしている魂胆である。
同じように退屈していたにもかかわらず、部屋を抜け出すこともままならなかった男は、割と訪れを歓迎した。気がまぎれることは助かる。
「いつものようにごほんをよんでくださいませ」
見なれた絵本を差し出して女がねだった。
「ちゃとらは、よんでくれませんの」
言われて首をすくめるチャトラと、皇帝は一瞬目を合わせた。無理、と口が動いている。
「へいかが読むように読んでくれって姫さん言うんだもんよ」
それは確かに難しいかもしれない。仕方がないねと絵本を受け取りながら、字の練習になるだろうからお前も一緒に覚えなさいと皇帝は言った。頷き、体を起こした男の寝台の横に座り込むシュイリェの女の、さらに横にチャトラも陣取る。
その間近さに眩暈がした。
既視感、という名前だった気もしたけれど。
視線を落としてそのどうしようもない感覚を追い払い、むかしむかし、と皇帝は最初の頁から読み進める。時折ぱちんと暖炉の薪が爆ぜる音の他は午後の皇宮はとても静かだった。
「……すてきなおはなしですわ」
裏表紙をはた、と少し芝居がかって閉じると、うっとりと聞き入っていた女がほうと溜息を吐いた。
「わたくし、やっぱりこのおはなしがいちばんにすき」
「……オレ、なァ」
ちゃとらもそうでしょう?同意を求められて困った顔になったチャトラは、すぐには頷かないで唸った。
「しっくりこねェんだよな」
「どのあたりが?」
「だってこの話、途中でブッ千切れてるよな?……蛙の王子が窓から部屋を覗き込んで、泣いて、好きだった娘の幸福を祈りました。おしまい。……それは判るけど、その後がないってのが……なんか納得いかないって言うかさ。魔法が解けたって書かれてるわけでもないし、娘が王子に気付いたのかどうかも判らないし」
へいかはそう思いませんか、とたらいまわしに今度は皇帝がチャトラから同意を求められ、
「――各々の裁量に任せる、と言ったところではないかな」
絵本の縁をなぞりながら答えた。
「わたくしはきっと、まほうはとけたとおもいますわ」
シュイリェの女が言った。
「そうでなければかなしいですもの。まほうがとけたおうじに、むすめはきっときづくはずです」
「……でもそうなったら、王子と娘と花婿と三つ巴になんね?」
チャトラが唸る。
「娘が困るような気がする」
「――魔法が解けない方が幸せなこともあるかもしれぬよ」
皇帝は呟く。
「うつつが必ず正しいとも、幸福であるとも限らぬ」
まぁなぁ。しっくりこないまま頷きかけるチャトラへ、それでも、と女は言い募った。
「それでもわたくし、おうじはきっとしあわせになれるとおもいます」
「魔法ねェ」
テーブルの上の水差しと盛られた果物かごへ目をやって、
「使えたら便利だよな」
籠からひとつ、よく熟れた赤い実を取り出してくるくると指の上で回す。
「こうして、杖振って呪文唱えるだけで、何でもできるんだろ。腹減ったときに食い物出てきたり、喉が乾いたら冷たい水が出てきたり、寒い時に上着出てきたりするんだぜ」
「ちゃとらはゆめがないわ」
頬を膨らませてシュイリェの女が言った。
「どうせ、まほうをつかえるなら、にんげんにはできなさそうなことを、おねがいしたほうがいいわ」
「……どんな?」
「わたくしは、まっしろくておおきなとりになって、そらをたくさんとびたいのです」
うっとりと夢を見たままのような表情で女は言った。とおいくににもいけるのよ。
その中に、自分の祖国も含まれているのだろうか。聞き流しながら皇帝はふと思った。恐らくもう二度とは踏めない生まれた土地へ、戻りたいと思っているだろうか。
「へいかは、いかがなさいますか」
見やっていると、不意に我に返ったような顔になって、女が言った。
「私ですか」
そうだな。
くだらない、魔法なんてありませんよと答えるか、笑って誤魔化すか。してしまっても良かったのだけれど、なぜか男は女の問いに乗ってやろうと言う気になった。なにより切って捨ててしまっては、大人気ない。絵本の縁を相変わらずなぞりながら、男はしばし考える。
もし自分に魔法がつかえたなら、
「そうだね」
――お前の笑顔がもう一度見たいけれど。
ほつれた糸のようにふと本音が出た。女の横に座る彼女へ、伏せていた目を上げて真っ直ぐに射抜いてやる。王子は娘の幸せを祈って自ら姿を消すだろう。幸福な花婿と、花婿以上に幸福な花嫁のためにきっとどこかへいってしまうだろう。
けれど、と男は思う。
せめて姿を消す前にもう一度だけ、陰からで良い、あのあけすけな笑顔を見ることは許されないだろうか。
視線をまともに受けたチャトラが神妙な顔をして、笑顔、と口の中で噛み砕いて何度も繰り返した。えがお。
……そう、仕方がないね。
しばらくまじまじと彼女を眺めたあとに、男は苦笑し手元へ視線を戻す。戯言でしかない。おとぎ話のように呪いは解けない。
魔法の言葉はお前に通じないから。
塔の上から町並みを見下ろす。
深呼吸をすると、突き刺すほどに冷たい空気が肺に入りこんで気持ちが良い。なまぬるく温められた部屋のなかはいい加減にいやだった。
こうして見ると皇都をぐるりと守り背負い込むように建てられた柵壁も、その向こうに見える湿原も、さらに向こうの青い山並みも実にまがいもののように見える。実際にその場を訪れる機会も、触れる機会もないようなものだったから、自分にとっては書き割りでも似たようなものだ。
ヘコむとアンタはここにくるよな。
そんなことを言われたような気もする。住み慣れた場所での人間の行動などというものは、そんなに変わり映えのするものではなくて、割と読まれてしまうものらしい。とくに自分はお前のように、木に登ったりシーツに潜り込んだり壺の裏に隠れたりできないから。言いかけてずいぶん音が遠いことに気がついた。
水の中を歩いているようだなと思う。
おかしい、そう言えば本当に向こうに見える景色が、滲んで平面に浮き重なっているように見える。絵画の世界のようだ。吸い込んでいる空気が徐々になまぬるいものにもどっていって、常と変らぬ緞帳の気配。自分の寝室だった。なんだ、夢を見ていたのか。
うんざりした。部屋にいる。
今はいったいなんどきなのだろう。
そこまで思って、そっと額に当てられた掌を感じる。知らぬ間に汗をかいていた皇帝にはとても乾いたものに感じた。目を開けるより前に腕が上がって、その小さなてのひらを握る。
きゅ、と握り返される感触。
皇帝とちいさく耳元で呼ばれた。
呼ばれたなと思った次の瞬間、ぎょっとして男ははね起きた。急激に起き上がった体はぎしぎしと軋み、かたはの体は引き攣り悲鳴を上げていたけれど、そのとき男に痛覚はなかった。
掌の持ち主を凝視する。
いきなり起き上がった男に驚き、目を丸くして口を開けていたチャトラがややしてアンタ、と少しずつ強張った肩を落としながら言った。
「アンタいきなり起きあがるなよ。こっちが驚くじゃねェか」
「――お前、は、」
すこし怒ったような照れたような、だのにどこか端の方で笑っているような声音。遠慮会釈なく真っ直ぐに見返してくる川の澱み色。
続く言葉は声にならなかった。おののき、かすれてしまう。
どうせ落胆するなら、最初から期待しない方がずっとましだ。だが今お前は皇帝とよんだな。へいか、ではなく皇帝と。
どうしてここにいる。お前は誰だ。
誰だと聞かれてチャトラは困った顔をした。
何と答えて良いものか考えているようにも見えた。それからそっと握っていた男の手に頬を寄せる。寄せてオレだよ、とぽつんと呟いた。
「他になんて言ったらいいのか判らない」
答えられて心拍が上がる。眩暈がする。息が詰まって皇帝は小さく喘いだ。
どうしたらいいものか。こんなことは都合のいい夢でしか起こりえないにちがいないのだ。
ああそうかこれは夢だ。だったらそろそろ覚めてくれ。長引けば長引くほどにえぐる傷みはいや増すから。
困惑する皇帝の前で、オレだよとチャトラはもう一度言った。
「オレなんだけど。オレじゃない」
オレじゃないんだけど。でもちょっとだけオレ、で。
言葉にうまくできなくて唸る彼女を見つめ、それから握った掌へ目をやってときに、と男は言った。
「ん?」
「話を聞く前にまず触れても良いだろうか」
「……なんで確認するんだよ」
むつけたように呟いて、チャトラの方から手を伸ばす。ぎゅと首に腕を回されて、いったいどうしたことかと男は思った。
「私に触れても怖くはないのか」
ややしてためらったのちに皇帝は尋ねた。そうだと言われることは無言の拒絶よりも怖かった。
「こわくないよ」
くぐもった声でチャトラが応える。
「私が触れても――怖くはないか」
「こわくないって」
息で小さく彼女は笑った。苦笑いのようにも見えた。
「でも悪ィ。オレだけど、オレじゃないんだ」
さっきも言ったな。どういう意味かと男がかすれた声で尋ねると、ほとんど思いだせてないのだとチャトラは答えた。
「なんか、ほんとうにちょっと。ぶつ切りである感じで」
「――少し、」
「……アンタ、昼間にオレに言ったよね」
男の胸に顔をすりつけながらチャトラは言った。
昼間確かにお前の笑顔が見たいと、真っ直ぐに彼女の深淵を覗き込んで男は言った。覚えがある。
「あのあと部屋に戻ってから、なんか、……手紙って思った」
「――手紙――?」
「オレ、どっかに大事な手紙かくしたって。どんなのだったかとか、どこに隠したのかとかぜんぜん判らなかったんだけど、たしかにどこかに隠した気がするって思って。記憶飛ばす前、ラズから言付けたのまれてて、もしかしたらラズの手紙かなっても思ったんだけど、でも。でもラズのじゃなくてオレの手紙、あった気がして」
つっかえ、つっかえ、
「前のオレのこと、今のオレは忘れちゃってるけど、でもオレはオレなんだから、隠し場所とかそういうの、絶対どこかかぶってるんじゃないかって思って。……あっちこっち掘ったりひっくり返したり、登ったりとか……おかげで今まで時間かかっちゃったんだけど」
明け方だよ。自分自身に呆れたようにチャトラが笑う。無駄なことをしているかもしれないと思った。隠した場所が判らない。気のせいかもしれない。何となく気になる、それだけでここまで必死に探す理由が思いつかない。
だのに部屋へ戻っても眠れなかったのだと言った。
どうしても探さなければいけない気がしたのだと。この脅迫のような切羽詰まった思いは一体何なのかと、怯えながらそれでも夜中の皇宮をうろついた。
「後宮の奥庭の沼っ端に、木箱が埋めてあった」
ごそと懐から一通の薄汚れた封筒を取り出して、チャトラが言った。
「きれいな木の実とか、切れた飾り紐とか、押し花とかと一緒に、……これでてきた。……オレがアンタからもらったよね、」
取り出された書き付けに皇帝は見覚えがあった。
自分の傲慢ゆえに彼女を傷付け、一度彼女を手の届かない遠くへ追いやったことがある。
名前しか知らない町で無事に暮らしていると報告を受けたとき、そうかと答えた。思わず書き綴っていた。離れてしまった彼女へ、あのときから伝えたい一言があった。
もう二度と会えないと思っていた彼女へ、今と変わらずに伝えたい一言があった。
「オレ、なんでこの手紙をアンタからもらったのか記憶にないけど」
「――」
「でもこれオレのだって見た瞬間思った。……アンタがオレにあてて書いた手紙だって」
乱れた文字で走り書いた付箋。どうかお前が幸せであるようにと籠めた祈り。あのときから何と己の進化しないことか。
苦笑し、受け取ろうとした皇帝の指を避けてだめ、とチャトラはまた懐へ手紙をしまった。
「これ、オレの」
「――」
「オレのなんだよ」
言いながら男を見上げたまなこにみるみる涙が揺蕩う。すぐに溢れて涙はつうつうと頬にこぼれた。
笑おうとして失敗し、無様な笑顔になっている。ごめんといってチャトラは顔を拳でぬぐった。
「オレ、アンタがオレのこと、どれくらいたいせつにしてくれてたかって忘れてる。たぶんたくさん、抱え切れないくらい、あったかいもやさしいも貰ってたのに、全部忘れてる」
悔しいと言って彼女は泣いた。
その彼女を抱き寄せる。
そんな些細なことはどうでもいい。男は耳元へ吹き込んだ。
細かく震える彼女がどうしようもなく愛おしい。腕に力を籠めながら、やはり片腕は不便だなと思った。安心させてやれるほど強く抱きしめてやれないと言うものは。
抱きしめた彼女の体から、土埃のにおいがした。どれだけ探し回ったのかと思う。
「すごく悔しくて……、本当はすっかり思いだしてアンタに会いたかった。作り話であるような、こう、一気に思いだすとかなんでオレにはないんだって思って……オレの頭のつくりが悪いから、出てこないのかなとか思って」
しかしこうしてお前は腕の中に戻ってきたじゃあないか。男は思う。これ以上何を望むと言うのだろう。
「ごめん。……ごめんな。……アンタのこと忘れててごめんな」
しゃくりあげる頬に手を当てて、男は彼女の顔を覗き込んだ。
「なぜお前が泣く」
「……だって。アンタはきっとすげェ我慢したんだろうなって思った。悲しいとか、思いだせとか言えばいいのに、一言も言わないで我慢してたんだろうなって思った。オレがもしアンタに忘れられたら、とても悲しいよ」
手放せないぬくもり。
繰り返し繰り返し男は吹き込む。
「お前がこうして腕から逃げぬ。――それ以外のことはもうどうでもよい」
目を閉じ皇帝は長く静かに息を吐いた。腕の中の猫はじっと聞いている。安堵のため息だなと思った。
そのまま皇帝はチャトラとたがいの鼓動を聞くように、呼吸すら恐れて静かに身を寄せ合っていた。半刻。もしくは一刻はゆうに経っていたのかもしれない。
それでもまだ暁てまえの闇は濃くひそやかで、皇宮は一帯しんと寝静まっている。
月も既に傾いたか、窓から見える空は墨を流したように黒かった。上下も判らないような黒の中、自分の腕の中にあるぬくもりだけが息づいている。軽く数度言葉を交わしたかもしれない。寒くはないか、だとか。眠いのなら寝ても良い、だとか。
あんまりに腕の中の彼女が大人しくじっとしていたので、寝てしまったものかと覗き込んでまじろいでいる瞳を見止めた。考え事をしていたようだった。なに、と小さく尋ねてくるのへ、眠ってしまったかと思ったと男は応えた。
「寝てないよ」
囁くようにチャトラが言った。
「なんか思いだせないかって考えてた」
「よいと言っているのに」
「……そうだけど。けど、やっぱ思いだした方がいいか悪いかって言ったら、思いだした方がいいだろ」
「あまり思いだされると私が困る」
良いことばかりでもあるまいにと思いながら、皇帝は言った。
「……困る?」
「たくさん泣かせた」
赤く腫れぼったい瞼に唇を当て、皇帝はしのび笑った。すべて思いだして逃げられてしまうかもしれないじゃあないか。
「オレが?」
今更なんじゃねェの?からかう喉元に口付ける。上へゆき顎と頬へふれて、鼻先へとうつし、なんだよいきなり、と不満げな声を出された。
「品の良い言葉で言うなら、『がっついている』のだ」
言って唇を重ねる。具合悪いのにありえないだろ普通、と文句を吐く唇は塞いでしまうに限る。あらがうかと思ったチャトラは、困った顔をしながら受け入れようとして、
「うわ、ちょ……ッ」
裾から差し込まれた男の冷えた指に小さく声を上げた。ここまで来て今さらだろうと男は不自由な体で彼女を抑え込む。女になったら抱くと言った。都合よく彼女は忘れてしまったかもしれないが、あいにくこちらは覚えているのだ。
釦を器用にはずし、シャツの袖を抜きながら相手の顔を窺った。本気で嫌がっているならやめようと思う。随分苦労すると思うが。
先と変わらず困った様子は見せていたものの、いやだやめろと言う声はない。拒まぬのなら奪ってしまうよ。もう待てそうにない、囁いてやるとますます困った顔になってチャトラはうつむいた。だってアンタ、だとか具合が、だとかぶつぶつ呟いている。
「――私が?」
「熱……でてんじゃねェか」
「冷たいよりはましだとは思わないか」
「そもそも具合悪くて今日も一日寝てたんだろ……!」
「本調子ではないけれど、そんなにやわではないよ」
言いながら自分でどうだかと思った。虚言癖もたいがいだ。しかし、仮にながらえにながらえ、蝋燭の炎が未練がましく白煙を上げながらなお最後の輝きをともすような命だとしたら、いっそ最後に派手に散らして腹上死も悪くはないと思った。
言うと呆れて目をすがめられてしまった。ばかじゃないのと断言される。
「アンタはいいかもしれないけど、上で死なれる相手はたまったもんじゃないだろ」
「――では加減するとしよう」
「解決になってねェ!」
喚く唇をもう一度塞ぐ。塞ぎながらゆっくりと彼女の体を寝台の上へ押し倒した。おい、と男の体を押しかけた拳が中途で諦め、袖口を握る。口調とはうらはらに、拳が細かく震えていることに気がついて、彼女がひどく怯えていることに気がついた。
怖いかと男は尋ねた。離した唇から白く糸が引いて、ごしごしと拭った慣れない様子にぞくりとする。怖くない。彼女は言った。普段の大人びて気を張った彼女からは考えられないほど、かすかな湿りを帯びた声だった。
オレ、アンタがすることだったら、なにも怖くないんだ。
ことんと呟いた本音なのだろう言葉に、素直に煽られる。男を知らない体でそれだけの殺し文句が言えれば上等じゃないかね?しのびやかに笑って、むき出した鎖骨へ齧りついた。赤い噛み痕を残しながら、自分がこれだけ女と言うものを大事に抱きたいと思ったことが、ついぞあったろうかと皇帝はふと思った。
生まれついた環境と己の境遇で、幼い頃から女と言うものに苦労した覚えが皇帝にはない。むしろ逆だった。興味を失うほど周りに傅く女どもは多くいて、その彼女たちがこちらが望むより前から手取り足取り「指南」してくれた。なるほど確かに覚えた当初はその快楽に夢中になりもした。女に乗り上げ、または身を任せ、つかの間のうたかたに酔いもした。
けれどそれは一過性、顧みるとえらく虚しいものばかりで、やがて時折訪れる後宮以外で皇帝は女へ手を出さなくなっていた。左半身を失ったことも大きい。単純に生殖活動の欲求よりも、己ひとりをまかなうだけで体は精いっぱいだったのだ。
その自分が。内心語散ってやれやれと首を振る。二十歳前後の娘にこうまで煽られる。
重症だな。
噛み痕を次第に下へずらしながら若木のような肢体を撫でさする。熟柿にはほど遠い、若木のような体。しかしいずれはこれも成長し、立派な女になって、たゆとう船となろう。その前に自分がすべて頂いてゆこうと思った。
吸いつくようなといいたくなる肌触りが心地良くて、何度もつかず離れず、角度を変えて唇をなぶりながらまだほとんどふくらみのない胸をまさぐった。頂をひねり押しつぶし指ではじいていると小さく猫が喘いだ。伸びやかに腕の中で背を反らす。その背へ掌をやり、背の骨をたどって尾骨をなじる。ひくんと鳥肌をはしらせるのへ、たまらず吐息が男の唇の端からこぼれた。
股のあわいに手をすべらせると、あ、と小さな声が上がって、すがるように男の手首へチャトラの手が伸びた。とどめようとし、また堪え、とどめようと思い直す、恥じらいが前後する態を眺めながら、男は伸ばされた指のひとつひとつに口付けた。それから手首をたどり、肘の後ろへ舌を這わして肩口から喉元を通り、小さく開いた口許へ唇を重ねる。
舌を吸いなぶってやるとたちまち彼女の意識は上部へ戻って、そのあいだに男は湿りを帯びる陰唇へと指をなすった。しばらくかき撫ぜていると、くちくちと水音が寝台をかこむ緞帳内に響き、下唇をいつの間にか噛んでいたチャトラがふ、と息をはく。
初めての女が相当に面倒くさいことは皇帝も承知で、痛みや不快を伴うのであれば十分にほぐれた相手であるほうがよほど楽だ。手間もいらない。
だのにいま無性にお前を抱きたいと思うのは、ぜんたいどうした心持ちだろう。
まとわりつく己の夜着は無造作に脱ぎ捨てていた。膝まで降ろした彼女の下着も唇で食んでさらにずり下ろす。
すべらかな肢体に頬ずりする。食ってしまいたいと言う表現が、今まで皇帝は理解できなかったけれど、いざ目のあたりにしてみると、食ってしまいたいとしか言い表せないものだなと思った。
倒した体のうえに圧し掛かり、己の下腹部をゆるゆると彼女の太腿へ擦りつけた。十分にきざしていたそこを感じ取ったチャトラが焦れた息を漏らす。違和感はあるだろう。きっと痛いと思う。囁くと困ったように彼女が笑った。
苦笑だったのかもしれない。いまさらだろうと言うたぐいの。
視界にとらえ、男は彼女の片足を押し上げて静かに陰茎を数度滑らす。ぬるとした感触にまたしばし躊躇うと、伸ばされた彼女の手がおずおずと男のそれへふれた。
入れろよと彼女は言った。
ここまで来て焦らすなと。
指で扱かなくともかちかちに張りつめている己を握り、ふっくらと開いた猫の陰唇へ、かしらをゆっくりと潜り込ませる。ひくんと一瞬肩を張った彼女が、様子を窺っているとゆると力を抜く。静かに呼吸するそれへ、合わせるようにゆっくりと男は腰を進めた。未通な上に小柄な体は男の侵入を感じ取ってきゅうきゅうに拒み、ただでさえ押し入れることが困難なところを余計に締め付ける。
痛いか。男は言った。中途までいれて今更な気もしたが、気がかりなことはしょうがない。
「……うん、」
しばらく顔をしかめ考える様子を見せていたチャトラが、極力体を緊張させないように気を配りながら答えた。
「べつにそんなに痛くは」
そこまで答えてふあ、と背を逸らす。男が不意に腰をひらめかせたからだ。恥骨が彼女の尻に当たり、突き立てた男の芯がずくりと疼いた。
全部入ったよと男は言った。
「……うん」
いつの間にかきつく瞑っていた瞼を開き、指をすべらせ男が狭間に食い込んでいることを彼女自身が確認する。本当だ、とまた仕方なさそうに笑った。
「動いてもいけそう、」
促すところへ、腰をゆるやかに前後させる。あう、と押し上げられた呼気がふいて、しかし彼女にたいして快楽はないだろうなと男は思った。慣れの問題だ。よほど自慰に耽っていた人間ならいざ知らず、最初から「狂ったように身悶える」ほうが難しいように思えた。皇帝が思うに、九割九分それは男という単純なものを喜ばせるための女の演技だ。
そこまで屁理屈が頭に並べたてられているのに、それでも自身を抜き差しし駆り立てられるようにチャトラの体へ耽ることを皇帝はやめられなかった。まるで青年期のようではないかと思う。こうまで飢えていた覚えもないのだけれど。
男の動きに添ってのけぞっていたチャトラが、ふと目玉を動かし男の顔を真正面に覗き込んだ。恥ずかしそうに視線を逸らしかけ、また覗き込む。
緑青の瞳孔に、情欲に猛った自分がいることに皇帝は気がついた。彼女からは言ったどんな様子に見えているのだろうと内心嗤いながら、魅入られるように彼女の瞳孔の中の自分を睨みつけた。
ふき出すような悦びの波が下腹部から背筋を走り、うなじあたりでちりちりと焼け付く。よじれるように二波、三波が襲いかかって、耐えすごし、呻きながら男は突きあげる角度を変えた。
どうしようもなく残されたただ一本の腕が、チャトラの体を這う。どこまで撫ぜても飽きのこぬ肌触りに、おののいて男は深く己を突き刺した。
ああ、と深く充足のため息をチャトラが吐いた。簡易に引きよせられる快感は彼女の体にきざしてはいなかったけれど、奥底のところで満ちた呼吸だった。そうしていいよ、と彼女は言った。我慢しなくていい。無茶苦茶にしてもいい。
つながりが解けることを恐れるように、皇帝は深いところに差し入れたまま彼女へ唇を寄せ、それではお前が苦しいだろうにと言った。
「へいき」
濡れた唇がつややかだ。
「アンタが入ってるってだけで、気持ちが良い、」
……降参だと。
この猫は、どこまで自分にしゃっぽを脱がせれば気が済むのだろうと男は思った。計算尽くではあるまいね?
体を抱え直し、あらがえずがつがつと腰を打ち付けながら、男は上り詰めることに一心になった。気をゆるめればすぐにでも持っていかれそうな締め付けに、まだだ、まだもう少しと啜りあげ、舐めまわした。転がるように汗がふきだし、下になるチャトラの体へはたはたと散った。そうして水滴を散らし濡れる肌の態にますます煽られた。
ぐっと彼女へ屈みこんだ拍子にとうとう抑えがきかなくなって、ふ、と知らず唇から呻吟がこぼれる。なお揺らめく腰に震えがはしり、皇帝は自制を手放した。
数度に分けて己の精が、彼女の最奥へ脈打つのが判る。
鼓膜のさらに奥のところでどくどくと血流が走り、鼓動まで聞こえる。手綱の取れない荒い呼吸に翻弄されて、倒れ込むように寝台へ沈んだ。それでも彼女を押しつぶさないようにと、片腕に力を込めることだけは忘れない。
腹上死はできなかったな、だとかどうでも良いことを思った。
遠くでよだかの鳴声がする。
徐々に呼気が静まるそのうち、いたわるように背中を撫ぜられる動きに男は気がついた。ああ、と汗のしたたる顔で見下ろすと、見上げる彼女が口を尖らせる。
「――どうした」
「アンタ無駄に気を使いすぎ」
こんなときくらいのっかかっていいんだぜ。
言って彼女は足を上げ、男の腰に絡めてぎゅうと引きよせた。
「――チャトラ」
「ん?」
大人しく寄せられたまま邪魔な髪をかき上げ、男は彼女の瞳をのぞきこむ。なに、と尋ねる額へ唇を付けて、
「ありがとう」
皇帝は言った。
「……」
しんと真面目な目になってチャトラが皇帝を見返す。見返した彼女がなにか言いたそうに思えたので、しばらく言葉がまとまるのを待っていると、やがてどういうこと、と小さく聞かれた。
「お前がいてよかったと思う」
「……」
胸に発した言葉をそのまま伝えることの難しさ。
言いながら唇がわなないた。見られたくなくて彼女の肩口へうずめた鼻先に、懐かしいにおいがする。うん、と遅れてチャトラが頷いた。
「オレも、アンタがいてよかった」
聞き流してしまうにはあまりに惜しくて、かき分け出した耳朶へ口を寄せる。もう一度、と男は言った。同じ言葉を繰り返してはくれないか。
アンタが好きだよ。チャトラは繰り返した。それだけは忘れたくないんだ。
聞きながら、おさめていた陰茎を彼女のうちからすると抜いて皇帝は横になる。拍子に割り開けたはざまからつと白濁がたれて、彼女が少し赤面した。いまになって恥ずかしさ一気に襲ってきたらしい。
痛みはないかと男は聞いた。うん、とチャトラが頷きながらもみくちゃになっていた毛布へもぐりこむ。
「……なんかまだはさまってるような感じはある、けど」
毛布に隠れた痩せぎすの体を、そのまま引きよせる。そうしてなおもう一度、と皇帝はねだった。
「え」
「飽きるまでお前の声が聞きたい」
……アンタが好きだよ。
胸に繰り返す彼女の体を抱きしめ、そうだな、と皇帝は小さく呟き返していた。手放す機会をまた失った。周りはまたかと呆れるだろうか。しかしこの囁きがあまりにも心地良くて、自分は金輪際彼女を遠ざけようとは思えないだろう。
もうそれでもいいかと思う。悪いがこのぬくもりだけは死守してしまうことにした。
そうして、ずっとお前は私の側にいろ。
(20111206)
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最終更新:2011年12月08日 09:30