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 たのむ、と言われてつまりのところ娘はたいそう動揺したのだった。
 目の前の真剣というには度を超えていて憐みすらかんじる切羽詰まった相手の態に、いっそすぐにでも相手が言うように褥に身を伏せてしまっても良いと思えたが、しかし互いの立場と言うものをぎりぎりの縁で思いだしたのだった。
 でも、と娘は言った。あんたは明日あたしを喰らうのでしょう。
「ああそうだ。そうだとも」
 苦味をかみころした苦痛を満面にあらわし、相手は歯のすきまから呻きを押し出した。
 歯列は小刀のように鋭く尖り、ひとである身にはありえない乱食い歯が二本突きだして天を向いている。
 鬼、とか呼ばれていたのだったか。眺めて娘は思った。
「このところの日照りで池も川も干上がってどうもいけない」
「わかっている」
「あたしは明日、人柱として谷底へなげこまれるの」
「わかっている」
 谷底は鬼の住処だ。
 このあたりの人間はそれを知っている、知っていて明暁日の出とともに娘を谷底へ投げ入れ、雨を乞うのだ。
 娘はようやく十三とななつ。ひとの営みのなんたるかをまだよく知らない。知らないままに露消えようとしている。
 消えるのだなと言う自覚はあったし覚悟もいくぶんか腹に落とした。落ちない分はきっと明日土壇場になってみっともなく泣き喚くのだろうがしかたがない。そう言うものなのだろうと思う。
 逃げようと思わなかったのかと鬼が相変わらず切羽詰まったままに娘に聞いた。逃げる、と娘は笑う。
「どんなして」
「わからない。どこか、村の人間の知らないところ」
「そんな場所はないのよ」
 山に囲まれたこの村に逃げる場所はない。山へ逃げようにも娘は山を知らない。山は、深く入ってはいけない場所なのだと言い聞かされて育ったし、言い聞かされて育った娘は禁を犯そうとしたこともなかった。
 それに、と続けて娘は言う。
「あたしがいなくなったら親兄弟まとめてぜんぶ、谷へぶちこまれるのだわ」
 白羽の矢がたった家は諾々と現実をうけいれねばならない。駄々をこねるのは我が儘というものであり、山奥の村の中で孤立するということはすなわち死を意味した。
 おきてには従わねばならない。
「どっちにしろ、逃げられん」
 足をながめた娘の視線を鬼が追いかけ、少々なさけない顔になった。
 悲しんでくれたのかもしれない。
「膝」
 娘の膝の骨は砕かれていたからだ。
「痛いか」
「さあ」
 聞かれて娘は首をかしげる。痛いのだろうか。もしかしたら転げるほどに痛いままなのかもしれない。数日前までは突っ伏し呻吟していた気もするけれど、今はもうその感覚すら遠い。
 戸のない納戸に放り込まれて幾日過ぎたかはや忘れた。
 ただ身を太らせる月が上るたびに、この月がまんまるになった次の日の朝に自分ははじけて死ぬのだというどうしようもないあけすけの絶望があっただけだ。
 見上げていた相手の顔に苛立ちがはしってあ、と声をあげるいとまもなく娘は広げた萱の上へ乱暴に組み伏せられていた。けろけろと虚ろをうちに抱えた萱が散ってかすかな音を立てる。その音のするほうへ顔を向けて指を伸ばしている間に、一息で体をむき身にした鬼が犬のようなうなりをあげた。
「なしてお前が投げ込まれなければならぬのだ」
「どうしてって」
 寄りあいのあった晩暗い顔をした父が、炉辺仕事をしていた娘の許へ棒切れを片手にやって来るなり力任せに膝の上へ叩き下ろしたのだった。
 ひどい音がした。自分は絶叫したのだと思う。
 次に我に返ったときは格子越しにその日の食い扶持を投げ入れながら、顔も見せない村の誰かがお前は人柱になるのだと言った。
 そうかと思うよりほかなかった。
 いやだおれはいやだと鬼はわめき、むき出しになった乳房へむしゃぶりついた。言っていることとやっていることの相違がおかしくて思わず娘は笑う。笑った吐息に気付いたのか、ますますむきになって鬼は乱暴に下履きをおろした。
 まったく潤いのないところに力任せに突き込まれ、ひどく痛くて視界が歪んだ。ぐうと押し殺した娘の呻きに気付いて鬼が顔を上げる。
 泣いていた。
 すでに流した涙でしとどにほほを濡らしさらにぼどぼどと新しく水滴を振りまいて、鬼は泣いた。
 涙は熱かった。娘の肌へはじけ落ちるたびにじゅっじゅと湯気をたたせその湯気に自ら咽んで鬼はかぶりを振った。
 こうして組み伏せられるのも娘にとって日課になっていた。日課、というのとはすこし違うか。一人語散る。夜なのだから夜課とでもいうのかもしれない。
 いつか土間に忍び込んだ鬼がある日突然せまり、お前のことをもうせん前から好いていたのだというなりいとけなかった娘へ挑んだ。家の人間は畑へでかけていたので誰もいなかった。まだ手のかかるおとうといもうとの世話を娘はいいつかっていたので、こうしておとなしく貪られておれば下の子らに害はないかとそう思っただけだった。
 そうだ、自分が逃げればあのもみじのような小さな手のおとうとやいもうとも残らず叩き殺される。
 それは嫌だった。
 あのやわらかく、真っ赤なほっぺたのおとうといもうとは是非に生きていてほしいと思った。
 おうと呻いていつの間にか勝手に達した相手が一度目の精を放った。放つ中途からがつがつと二度目の腰を使う。情緒がないなと娘は思い、しかたがないか鬼なのだからとあきらめた。
 ひとではないから。
 娘が死ぬことを純にきらっているのであれば、いっそさらってしまえばいい。できるだけの膂力も法力も十二分に持っていて、だのにさらっていなくなってしまう気は鬼にはさらさらないのだ。
 喰らいたいのだと。
 鬼の中では娘を好いているということと、喰らってしまいたいということが同意義のようだった。しかし喰らってしまえば次より娘はいなくなる、そうすると自分はまたあたらしい獲物を探さねばならない、それは億劫だだからお前を生かすと告げられてああ嬉しいと思えるできた人間がどれほどいようか。
 嬉しいと娘は思わなかった。ただおそれも感じなかった。
 かなしい生き物だなとちらと思っただけだ。
 生まれついてよりそういう生き物なのだ。そういう生き物に人間の定義を押し付けて、これこれこういう風に考えることが正しいと説法するほうが気の毒と言うものだ。
 同じ場所にいてなお彼岸の生き物なのだから。
 彼岸、と娘は思い、それから昼中に顔を見せた村の婆を連想した。
 お前は明日仏の子になるであるよと婆は言った。
「安心しろ。あの世には、痛みも苦しみもなぁんもないわ」
 仏はあの世にいるだろうかと聞いて娘は言った。
「いる。六道輪廻からときはなたれてお前は仏の子になろうさ」
 できれば自分は仏の子だとかたいそうな身分よりも、そのあたりで咲いている野花であるとか山の獣になれるとよいと思っていたけれど、婆がそう願っているのなら黙っていることにした。
 まだ四十に届かない身で婆と呼ばれる女のかなしみを、そこに娘は見たような気がしたからだ。
 あの女もきっとなにかからときはなたれたかったに違いない。
 腰を震わせ鬼が二度目の精を放った。勢い娘の肩口に喰らいついて牙を突き立てかけ、ああいけないと刹那我に返ったか己が口を噛みしめる。動きに鬼の牙ががちがちと鳴った。
 お前が好きだ。どうしようもなく好きだ。村祭りの闇にまぎれて山を下りたとき、人間どもの中でお前がいっとううつくしかった。かがやいて見えた。お前はあのとき赤いべべを着ていたな。一張羅を着てしゃんと背筋を伸ばしたお前を、おれはいっぺんに好きになった。喰らってしまいたいという激烈な衝動に心がふるえた。あんな思いをしたことはあとにも先にもまだ一度もないのだ。
 勝手なことを喚きながら、鬼はそうして自分が心底満足するまで何度も何度も娘を突きあげた。
 汗みずくになった鬼からこぼれた一滴とともに、娘のまなこからもころりと一滴なにかが転がり落ちた。なんだったのだろう。
 考えても詮方ないことだった。


「今日」
 うなだれ、黒いつむじ風になって格子の隙間から這いずりでようとした鬼の背中に向かって娘は言った。
「今日きれいに喰らって」
「ああ」
 こみ上げる激情に気付かないふりをして悄然と鬼が応えた。
「安心しろ。谷底へ叩きつけられてぐちゃぐちゃの肉塊になったお前の。骨も血あいもはらわたも、残らずおれがみな喰らってやる」
「あんたが鬼でよかった」
 娘が言うと鬼はとうとう黙りこくり、そのまま無言で出ていった。
 顧み、娘をながめることはもうしなかった。
 眺めてしまえばどうなるかわかっていたようでもあったし、またそれをおそれている風でもあった。
 まじろぎひとつするあいだに姿は消えている。
 しかしまだ未練がましくあたりを彷徨しているかもしれない。呼びかければひょいと顔をのぞかせるかもしれないし、さきの繰り返しのように再び挑まれるのかもしれない。
 月は疾うにしずんだ。
 格子の間から大きく息を吸い込んで、朝の気配がまじりはじめた空気を臓腑に溜めこむ。
 うつくしい朝焼けだと娘は思った。


(20111219)
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最終更新:2011年12月19日 20:59