<<悦びに咲く花>>
朝から一日さっぱりしない天気で、今年一番の冷え込みだなと立ち話をする相手がみな言っていた。夜半には、雪になるかもしれない、だとか。
そうか、寒くなるのか。だったら一枚毛布を余計にあのひとに被せたらいいかな。
そんなことを思いながら頼まれた雑用をこなしチャトラが部屋に戻ると、珍しく部屋の主が夕刻前に部屋に戻って来ている。
だいたい年末年始は目の回るように忙しいことが多い。それは上に立つものでも下で働くものでもたいした違いはなく、単純に気ぜわしい。これはもう仕方のないことで言ってみればそういう季節なのだ。
たしかに日常のひとつひとつを手に取ると、皇帝の生誕祭であるとか年越しの祝宴、年明けの諸外国からの祝辞が軒並み控えていることは確かなのだ。けれど、だからといって一人一人に割り当てられた仕事量が増えるわけでもなく、とくに下で働く人間にとっては、普段と同じように汚れた衣類を洗う仕事であったりとか、庭の雑木を整える、温室の花に水をやる、回廊を掃く、欠けた煉瓦の修繕をするといった、日頃自分が担当している仕事ばかりなのである。
だのにわりとせかせかした心持ちになるというのは、やはり新年を迎える前にひと仕事終わらせておきたいだとか、そういった「休むために休みなしで働く」心理が働いているせいなのかもしれない。
そんなことを、割と一年を通して忙しい皇帝を見ながらふとチャトラは思った。
「早いね」
「――明日は早くから引きずり回されるのでね」
やれやれと落ちた眼鏡をかけなおし頭を振る皇帝の返事にああ、とチャトラは頷く。そう言えば生誕祭の儀式とかいう、皇宮に来るまで彼女にはまったく想像できなかったような、おごそかと言えば聞こえはよいがつまるところやたらと仰々しい誕生日祝いが行われるのだ。
ひとりの人間の誕生日に、わざわざ年の瀬も押し迫ったこのくそ忙しい時期、祝いと称して各国から使者がやって来るのである。
ご苦労なことだ。心底感心する。
ちなみに、皇帝の生誕祭で祝いを述べる人間とその僅か十数日後の年明けの祝いを述べる人間は別のものがやって来る。いっしょくたにまとめてしまえばひとり分の旅費も経費も浮くだろうにと常々思うチャトラである。お役所仕事というものはどこの国も同じらしい。
相変わらずすぐれない顔色をしている男の斜め隣りあたりにチャトラは座った。
手を伸ばして青白い腕に触れてみる。
触れたそこは石のようにえらくつめたくて、自分で触ったくせに彼女はぎょっとなった。
そのぎょっとした様子の彼女をちらと見やって、皇帝がかすかに表情をゆるめた。笑ったらしい。
「――ああ。そうだ」
少し笑ったのちに、忘れていたと言って男はテーブルの上、茶器やら花瓶やら水差しやらの少しむこうをさし示す。言われて目をやるとちょうど両手のひらを向い合せて丸くしたほどの大きさのクーヘンが、赤やら黒やらの木苺と生クリーム、それに花をかたどった砂糖菓子で飾り付けされてちょんと白い皿の上に乗せられていた。チャトラは食べることが好きだ。うわ、と目を輝かすのへ、
「少し知りたいことがあって作らせてみた」
食べるとよいと男は言った。
勧められなくとも食べる気になっている。
丁度小腹も空いていたところで、今これをたらふく食べたらもしかすると夕食までに腹が空かないかもしれないなという懸念が一瞬頭をよぎりはしたが、それはそれ、これはこれ。おやつは別腹。
今は目の前の好物に集中することにした。
「これ、ほんとうにオレ食べてもいいの」
「よいよ」
「アンタは?」
「私は見ているだけで十分だ」
においだけで胸がいっぱいになると言って男は茶碗へ口を付ける。そう言うことなら遠慮なくいただこうと、チャトラはフォークを片手に、まずくんくんと鼻を近づけにおいをかいだ。癖である。
「……めちゃくちゃいいにおい」
新鮮な乳の香りと木の実の酸味の香りに生唾がわいて、クーヘンを正面に据えた。妙に嬉しくなってにたにたと笑った。ああしあわせだな、と思う。
それから砂糖菓子を一つ摘まみあげ、口の中へ放り込みうん、と頷いて本体へとりかかった。
「どうかな」
「すげェ酒がきいてる」
「ああ――、少し香りを消したかったのでね」
強めに入れるように指示したとの声にそうかと返した。さいわい自分は酒に弱い性質でもない。多少強く酒の香りがしたところで、どうということもない。
黙々とクーヘンを食む作業へと埋没する。
先刻中庭を掃いていたときに、こんな寒い日はあたたかな部屋で紅茶と甘い菓子でもつまみたい気分だと思ったばかりだったのだ。うまいぐあいになったものだ。ますますチャトラは嬉しくなった。
しばらく無言でむさぼり、半分ほど攻略して顔をあげると、頬杖を突いて男が手許の書類へ目を落としていた。早めに部屋へ戻って来ても、結局完全に休むということは少なくて、いつもどこかで仕事が頭にあるらしい。明日からどうせまたコキつかわれるのだから少しは放り出せばいいのに、とふとチャトラがぼやくと、視線は手元へ落としたままに落ち着かないのでね、と皇帝が応えた。
「癖のようなものだ」
「後継ぎだって『できた』んだろ」
「彼らは補佐官につけて、それぞれ仕事を覚えるように指示しているよ。……――まぁそれでも使い物になるには数年かかるだろうか」
内内に進められていたとは言え、今年のあたまに皇帝の後継者が認知されたと急遽発表があった。それも二人。いきなり現れた隠し子だった。降ってわいた事態に貴族どもの集まる議会は相当荒れたらしい。
荒れたものの、エスタッド現皇帝が己の血統であると認め、次代は彼らのどちらかに譲る、ときっぱりと言いきってしまったので結局ごり押しが通り、三補佐官もみな同意したので不承不承騒ぎはおさまったらしい。
無理やりそのもの。
道理はどこかへ行ったらしい。
ちなみにチャトラは後継ぎ殿とやらを、遠くから見かけたことしかなかった。
皇帝が後継者であるとは認めたものの、それぞれが立派な成人で皇宮外に居を構えており、執務区域はともかく居住区へ足を踏み入れることはない。彼女とは行動範囲が基本的に重ならないのだ。
言葉を交わしたこともない。眺めた感じ、どちらも思慮深くかしこそうな顔をしているなと、その程度の感想だった。
「……でも、どっちもアンタとは似てないよな」
「似る要素がないのでね」
ほろとこぼれた本音に、それってつまりはうそなのかと驚いて言いかけたチャトラへ、あらためて視線を上げた男はまた小さく笑った。
「――ここだけの話だ」
頬へあてていた手を外し、人差し指を彼女の唇へ当てる。そのまま鼻のあたまへ流れて、付いていると言って男がクリームのかけらを拭った。
「あれ」
「美味いか」
「うん。うまい」
「それは良かった」
言って再び書類へ目を戻す。
つられるようにしてチャトラもクーヘンを腹へおさめる作業へ戻った。どうせ必要以上のことを男は口にしないし、というより必要なことすら彼女の知らないうちに片づけている。知らされていない部分と言うのは、つまりは自分が知らなくてよい部分なのだろうと、そういう風にチャトラは区分けしていた。
まつりごとはよく判らない。
説明されたところでさっぱり理解できないだろう。
食った。
満足した。
じっくりと食べたのでかなりの時間が過ぎた。
あらかたクーヘンを征服し、それから何気なく部屋を見やったチャトラは、妙に床や壁がぶわぶわと膨れたりしぼんだりしているようにみえ、目をこする。
「あれ」
おかしいな、と呟いた。
皇帝が言ったように確かに少しきつめに酒は効かされていたけれど、それでもほとんどは焼き上げる際に飛んでしまうもので、香りはともかく実際の酒量としたらたいしたものではないように思う。
ずいぶん草臥れているときや一気の飲酒は、少々の酒でもそれなりに回ることもあるが、それにしてもこの異常なまぶたの厚ぼったさは何だ。
寒い場所からあたたかい部屋に戻り、腹もくちくなり、単に眠たくなったのかもしれないと姿勢を変えた途端にずく、となんとも言えない体の芯を通った感触に一瞬固まった。
え、といぶかしんで首筋へ手をやる。何が起こった?
己の掌が脈の上をくすぐり、肩口へふれただけで、
「……う、わ」
なにこれ。
表現のしようのない波が、体の表面と言おうか奥底と言おうかその中間、説明に困る皮膚のちょうど裏側あたりをはしりぬけてゆき、正直チャトラは腰が抜けた。
え、とまた声がこぼれる。どういうこと。
ぼんやりと顔を上げると手元の書類を繰ることを止めて、いつの間にか皇帝がじっとこちらを眺めていた。彼女の様態を観察しているのだとすぐに気がつく。
「……えーと」
うまく思考が働かない頭で、それでも部屋へ戻って来てからの男との会話をチャトラは思い返した。
食べるとよいと男は言った。知りたいことがあって作らせた、と。
「……あれちょっとまてよ……」
知りたいことって何だ。
クーヘンを目の前に差し出されて、チャトラはそれだけで頭がいっぱいになった。だから男の言葉を深く考えることもしなかったけれど、
「皇帝、」
「何かな」
「アンタなんか盛った?」
「――」
「少し香りを消したい……、って……なに」
菓子に効かせる酒と言うものは、香りを「つける」ためのものであって、普通は「消す」とは言わない。消すということは何か他の香りを彼女に知られたくなかったということだ。
今更ながら言葉の齟齬に気がついても、遅い。
吐く息が熱かった。
ああうん、と首を傾げながら男が懐から小瓶をつまんで出した。薄い桃色のしずくのはいったそれを、振って見せる。
「材料とともにこれを混入させたのだが」
「……」
「鼻の効くお前のことだから、ひょっとすると感付くかもしれぬと思って少々強く酒を加えるように指示した」
「……」
「後宮に出入りする商人が話の種にと、これを置いて行ってね」
「……」
「南国の宮廷では割と流行しているものらしく、まぁ、つまりは媚薬というものかな」
「……」
「安心しなさい。常用性はないようだったし――毒性もないかは調べた」
「……」
「どの程度効能があるものか、自分自身で試してみようかとも思ったのだが遺憾なことに、私の常用している内服薬とこれは相性が悪いらしく試せなくてね。……かといって他の人間に服してみよ、結果を報せろというのもいささか間が抜けている」
「……で」
たっぷり沈黙した後にチャトラは言った。
「で。オレ?」
「そうなるかな」
「……。……。」
もういうまい。何もいうまい。いってもしょうがない。諦めの境地。
むかっ腹を立てても良かったのだけれど、それよりもあちこちのぼんやりとはじけるような感覚がむずがゆくて、なあとチャトラは言った。
「――ぅん?」
「消す薬とかないの」
「……時とともにうすらいでゆくそうだが――手っ取り早く解消する方法もないこともない」
言って皇帝が伸ばした指先で喉元をくすぐった。触れられた途端に、ふあとおかしな息が漏れて、自分の声に驚きたかったのに、その反射さえうまく体にあらわれない。あちらこちらの皮の下から棘の丸められた針鼠でやわらかに突き上げられているようだ。
「うわーほんとうに何これ」
奥歯を噛み締めてチャトラは呻いた。薬を盛られたことは理解したが、まったく解決になっていない。
テーブルに突っ伏したチャトラへ、書類を脇の文机へ置いた皇帝がくつくつと笑いながら手を伸ばした。
「正直ここまで効くとは思っていなかった」
「……くそ」
悪態をつきたかったのにうまくろれつが回らない。耳朶をさぐられて肌が粟だった。
ときに夜中に、ふと読みかけた本から顔を上げて部屋にひとりだと知ったときの感触、見ているものはなにもないのにどこか斜めうしろ上の方から何かが見ているような感触、そのときぞわと走る背筋の緊張にも似たそんな感触に、これはどこかにている。
あれはそのまま上掛けを数枚かぶって息を殺して寝てしまえば朝になった。
寝てしまえるだろうか。
そもそもまだ日も落ちていない。
耳朶からすべらせた皇帝の指が彼女の首筋や頬を弄っている、その撫でさすっては様子をうかがう指を抑えこむようにつかまえて、皇帝とチャトラは呼んだ。
うんと男が返す。
「何かな」
「なんとかして。……なんとかして。これ」
「――ふむ」
喉奥で低く笑いながら承った、と皇帝が応えた。
犬のようにくんくんとにおいを嗅ぎ、うなじへ滑らせて反対側の首筋にも男は唇を落とす。感心する、しらないうちにタイがほどかれていた。
器用なことだと思う余裕もあればこそ、口付けのひとつひとつに身じろぎ不意に服の上から乳房をまさぐられた刹那チャトラは小さな声を上げてのけぞった。
なに、とまた頭の中で声がする。なにこれ。
チャトラが皇帝と直に触れあうようになってから何月か経っていたけれど、男に触れられてここまでおかしな反応したためしがない。
戸惑いの声だった。
実際男の腕の内に抱かれ、安心し、互いに触れ合う感触が嬉しくてまた抱きしめ返すようなことは何度もあった。
服の上からでは判らない相手の肌の感触を生々しく感じ、髪にくすぐられる喜びもあった。
男がのしかかるたびに相手から求められているという充足感もあった。自分の内部に相手を迎え、男が前後し快感を与えているという充溢。
しかしそれはどこか母が子に乳を与えるように、あたたかでやわらかく高度なこころよさで、だからこんな直情的な体にはしる快感はしらない。
どうしようだとか、いまさらながら生娘のような焦慮がでてきてしまう。
思わず払いのけた男の掌が、また彼女の体に触れる。嫌っている訳ではないと判断したのだと思う。
どうしよう。
結局どうしようもなくて歯を喰いしばり、よすがをもとめてチャトラは体の両端々に流れおちる髪の房を握りこんだ。なだれうつ態がいつかみた藤のようだと思った。
あの、どこまでも茫洋と視界を霞ませるような甘ったるい香りとむらがる虫の羽音、伴う気怠いまどろみ、明けの空をまるごとひっくり返したうすむらさきの雲。
しな垂れおち力のないやわらかな髪の感触を手の内にして、ようやくひとごこちつけたと思う間もない。男の掌が膨らみをもみしだきそれでなくとも片時も肌からはなれない、心底震えてチャトラは相手の肩口へ文字どおり齧りついた。
くくと忍び笑った男はまったく痛がるそぶりを見せない。
あらわにした乳首を舐めあげ、背筋を撫でまわしいつまででも飽きもせず触れていたいと、むしろそうして触れていることが楽しいのだと吹き込まれながら這いずる快感に、いちいち体が反応し右に左に頭を振ってしまう、振られてしまう、ぽっかりと浮いた闇の中に彼女はひとり浮かんでいて、ただ考えられることはと言えばどうにかしてほしいということと、許してほしい、いい加減楽にしてくれという嘆願だけだった。
衒いも恥じらいもどこか彼方へと置き去り遠くはなれていて、だから時間をかけて存分に弄った男が両足を抱え上げたときには、既に思考はとろとろに熔解してまとまりようがなかった。
胎内の熾火がうずいてしかたがなかったのだ。
はやく、と唇が形をつくった。
はやく入れてと。
囁きながら、ほんとうに自分はどうしてしまったのだろうとわずかな思考の残滓をかきあつめてチャトラはおののいた。
花街で育った彼女にとって男女の交わりは常に真横にあった。あったと思っていた。しかしそれは薄い壁板一枚へだてたむこうがわであり、つまりは他人の世界で彼女にとっては身近であってもかかわりあいのないことだったのだ。
かかわりあいのない隣の世界でいくらあられもない艶声をあげようと、ああお盛んだなと思うか、これは演技かそれとも迫真の悦びの声かだとか品のない想像をはたらかせることがせいぜいで、眺めていた隣が自分にこうして一気呵成ばらばらと降りかかってくるとは思いもしなかった。
混乱した頭でゆいいつ感じ取れたのは、男のかたく張りつめた陽物が二、三度おもてを前後してからずずと押し入りその衝撃に自分の背名が弓なりに反ったことだった。
ああと思いがけない声が出た。次いで相手の背に回した指に力が入り、だめだこのまま力を籠めたらこのひとに爪痕がつくとぎゅうと掌を丸めてこらえ、知らず仰のいた喉元に男の唇が触れた。
「こらえずとも良いのに」
つと笑って皇帝が言った。
「だって」
「どうせもう齧ったろう」
きつく瞑っていた目をおずおずと開いてチャトラは目の前のきれいに澄ました顔をにらみつけた。それから肩口に残る歯形を見た。別段力を籠めたおぼえもないのでそこはただ痕のつくだけで皮膚は破れてはいなかったけれど、言い返そうとしてぐっと揺らされた腰に目眩む。
ゆれた視界にきれいに澄ましていると思った瞳の奥に滾る男の欲を見た。
その欲情した皇帝の顔に簡単に煽られた。自分の身の内がどういう具合にか相手をうねり、呑みこもうとするのがわかる。素直に従った男の欲望が肥大し脈打つ。またそれに煽られる。
「……なぁ」
もうだめだとすがりついてチャトラは言った。
動いて。
疼痛すらおぼえる腹の内側、男の食い込んだ入口と臍の裏の丁度半ばあたり。一度だけ的確に突かれてまたしても体がふるえた。もうどうにも自分で制御できそうにない。相手の手の内にまるごと陥るのはなんだか癪ではあった、けれどおもうままに体が動かない。
全身あたためた油脂のようにとろけて、すがりつく男の首筋へ触れているという感触さえ今はない。一瞬もどった意識はすぐにまた宙へなげだされ、知らず知らずのうちに男の動きにあわせて自身の体が快感を追っていることに気がついた、気がついても止まらない。
男が差し入れるタイミングにあわせて腰を深くおしつける、それが実際見たおぼえのある花売りの女たちと同じ動きで自分は今彼女たちと同じような感覚のかたまりにすぎないのだと思った。吐き出す呼気は犬のようだ、ああまるで犬だと、そうか、自分は今ひとではなく犬になっているのだなと快感を追う頭の端っこのほうでうすらぼんやりと思った。
体を返され後ろから挑まれる。
腰を高く上げた姿勢にいよいよもって犬だと思った。
頬に羽枕がおしつけられている感触はあるのに、それが枕であるとか布地であるとかの認識は既にない、喉から押し出される声が、なにかかたちとなって呻吟している気もしたが果たして自分が何を男へ訴えたのかそれすらも耳に届かない。
だのに男にはきちん届いたようでそうかと吹き込まれ、耳を舐めねぶられた。
その男の呼吸がひどく荒ぶっていて、吹き込まれた鼓膜から赫とぜんたい爪先の先端にいたるまで、気恥ずかしさとも嬉しさとも違う、どこか落ちつきのないとらえどころのないいたたまれなさが広がって、混乱している同時に体は男に翻弄される。
胎奥にぐんぐんと高めあげられる一点がある。男はそれを理解している、一度だけ突かれたあとは、かすめられ狙いをわざと外されてもどかしさだけが先に到達して、にぎりしめた手の内に男の薄金の髪があった。いきたかった。いきたいのにいけない。
いやだとチャトラは噎び泣いた。
ちゃんとして、意地悪しないでちゃんとしてとねだり、脇に着かれた男の片手に爪を立てる。今度は遠慮なく立てた。
「――欲しい?」
囁かれる。わかっているはずだと、どうして今になってそんなことを聞く必要があるのだと首を振った。
男から滴った汗が彼女の背中にぱたぱたと落ちる。それすら快感につながってチャトラは身悶えた。
欲しいかともう一度男が尋ねた。しようもなくて欲しいと自分の口が呻くのを、彼女は知った。
そう。
忍び笑って男が腰をひらめかせる。今度は彼女が抉ってほしい場所をこすられて、それでまた目がくらんだ。あふと吐息が漏れて、なだれ落ちる髪に顔をすり寄せる。もっと?聞かれてもっとと答えた。いい。もっと。
くつくつと笑っていた男の声が不意に真剣味をおび、一呼吸無言になったあとに唸りを含んだ突き上げが始まった。ひと突きひと突きが容赦なくチャトラを追い上げ、瞑った瞼の裏に光がはしった。
もうどうにでもなれとある種の投げやりの状態に陥って、純粋に彼女は男が与える快感だけを感じとる。男の突き込む先の感覚器官のひとつになって、相手を締め上げ、誘い込み、もっともっととうわ言を呟きながら、次第高まり無茶苦茶になって、しまいには喚声をひとつあげああと全身を硬直させた。
脳天一括刺し通すような強烈な刺激に彼女の内部がのたうち痙攣し、手近な目の前の体にしがみつく。悦んだ男がさらに突き上げる。そうまだ相手は達していない。この責め苦に似た歓喜がまだのちもつづくのかと絶望のような法悦がこみあげ溢れだして、ぼろぼろと我を失くしてチャトラは泣いた。
涙に気付いた男が見下ろし、覆いかぶさって舐めあげる。
「苦しいか」
皇帝は聞いた。
「――辛いか」
「……もう……もう、よく、わ、かんね……」
しゃくりあげ拳を瞼に当てるところへ無理に外され、眼球へ直に舌を這わせられた。ぬるとしたなまあたたかさすら刺激に変わる。
だからもっとと。
つながったままの腰を自分からくねらせてチャトラは皇帝をうながした。
様子をうかがいつつ男が抽挿を再開する。あらたに与えられはじめた感覚に、すぐ順応しながら向きを変え、チャトラは男の頭を引きよせ唇を重ねた。
でももうぜったい。
「……なんとかしなくてもいい……」
決意をこめてチャトラは呟いた。
精根尽きて寝台にしずみ、落下するようにそのまま眠り入って目が覚めたら夜中を通り越して朝になっていた。クーヘンを食べた時刻が夕刻よりまだ手前のことだった。延々と皇帝にねぶられた感はあるがそれにしても丸ひと晩寝入ったことになる。
信じらんねェ、とチャトラはぼやいた。
緞帳から漏れた光に朝だと気がつきはね起きた。今日はエスタッド皇の生誕祭当日で、朝の沐浴からはじまって男が式に臨むまでに付き添う仕事はいくらでもある。
寝過ごしたと青ざめ、焦って寝台から床に飛び降りてがくんと顔面から崩れた。
腰が立たなかった。
はぁ?だとか意味を問う声がもれた。膝が笑ってまるで用をなさない。
「ちょ……なんだこれ……」
戸惑うよりもどちらかというと心底呆れた声がでて、遅れてくすくすと含み笑った声が頭上から降ってくることに気がついた。目をやると澄ました猫のような顔を若干ほぐして皇帝が彼女を見おろしていた。
猫だ猫だと男は彼女のことを称するけれど、こうしてつんととまったさまはどちらが猫だと言いたくなるほどに整然としすこしつめたくて、いつ見ても知らない人間と対峙しているようでチャトラはどきどきとする。
寝台に手を突き何とか立ち上ると、しどけなく乱れた男の寝姿に顔が赤くなった。この期におよんで赤面するのかとも思ったけれど、素っ裸である自分より服のあわせからさらけ出した相手の素肌が、どうにも艶やかにみえてしようがないのだからどうしようもない。
きっとこの相手は死ぬまでこうして、さきこぼれた椿のように生々しく雪上に赤を散らしてゆくのだろうなとチャトラはふと思った。
女である自分が遠く及ばないというのもどうかと思うが、人種がきっと違うのだ。諦めよう。
おはよう、と笑みこぼれた男にくそと毒づきながら、不貞腐れておはようと返した。
「体の火照りはおさまったろうか」
「……おさまったもなにも、使い物になりそうにねェよ」
「それは困ったね」
わざとらしく眉をひそめながら、男は寝台の上へ起き上がりいや実に眼福であった、と諳んじた。
「え?」
「――私の上で震えるお前の姿と言うものは、」
「わぁあああああッ」
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
寝台の上に丸めこまれた上掛けの上に皇帝を押し倒し、チャトラは相手の口をふさいで言うなもうなにも言うなと懇願した。
「いいな忘れろ昨日のはなんつーか一晩のあやまちみたいなもんだ本意じゃないオレは別にあんな風には」
「――自ら腰を振りながら?」
「ああああうう」
身のおきどころがない。上掛けの中に頭を突っ込んでそのまま突っ込んだ頭を抱える。
自分が散々に乱れたことは理解している。何度も渦中に身を投じそのたびに水音を散らし、最後には声もかすれるほど喘いで、結果が腰の立たなくなったこれだ。たしかに緒がほどけたのは男の齎した誘引薬がきっかけかもしれないが、体のどこかはきちんと熟しこうなることを望んでいて、だから薬は境界を超える半歩でしかなかった。
わかっているから余計にいたたまれない。せめて皇帝が気を利かせて何事にも触れずにいてくれればまだチャトラも平静をたもっていられように、遠慮なく傷口を抉っては舐めとる真似をする。
その彼女の体に腕を伸ばして撫であげ、まあ私は楽しかったが、だとか呑気なことを呟いている男へ、思わずチャトラは呪詛を吐いた。ちくしょうもげろ。もげてしまえ。
「今日は半日寝ていなさい。お前が忙しくなるのは主に午後からだろう」
上掛け越しにくぐもった声が聞こえてえ、とチャトラは顔を出した。いつの間にか入室していた侍従が男の着替えを手伝っており、肩越しに振り向いての男の言葉だった。
「でもオレ」
「休まねば何の役にもたつまい」
……原因をつくったのはどいつだよ。
わめき散らしたい気もしたが、それは墓穴のような気がしたので歯軋りするにとどめる。
「行ってくる」
流した視線が歯軋りした顔を見止め、また笑んだ。手の内で転がされていることがわかって悔しい。おいちょっとまてよ、とドスの効いた声が出た。
「なにかな」
「……誕生日」
「――ぅん、?」
「アンタの誕生日の贈り物。オレ昨日午後から四葉探しに行こうと思っていけなかったんですけど」
「誕生日――ね」
一瞬歩みを留めて皇帝が考える素振りになる。臙脂の唇に指を当てるのが男の癖だ。
ふとその口の端が上がった。
「――もうもらった」
「は……、あ……、え?」
音もなく控えた扉が左右に開きくつくつと肩を揺らしながら皇帝は部屋から出ていった。言われてすぐに意味を解さなかったチャトラが、開いた時と同じようにそそと閉まった扉をぽかんとながめたまま数呼吸、やがて、真っ赤になって誰もいない皇帝の居室の中とうとう誰に当てるともなくわめき散らしはじめた。
(20111219)
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最終更新:2011年12月19日 10:15