ボクはシラスに育てられたのだけれど、当然シラスから生まれたわけじゃあない。
 まぁ当たり前なんだけど。
 人間の父さんと母さんから生まれたわけなんだけども、その父さんと母さんは、流しの行商人だったのかただの旅行者だったのか、それとも別のなにかだったのか、よくわからない。
 馬車が壊されてたって言うから、どこかへ移動していたのだろうけど、どういう目的で何をしていたのかまでは知らない。シラスが現場に駆けつけたときはもう全部終わっていたって言ってたから。
 魔物に襲われたんじゃないかってシラスは言った。
 野盗や山賊にしては、金目のものに一切手をつけていなかったからって。
 そうして、死んでしまった父さんと母さんの荷物の片隅に埋もれるようにして、まだハイハイするかしないかくらいのボクが寝ていたそうで、それを見つけたシラスがどうしてボクを拾おうと思ったのか、ボクは聞いたことがある。
 そもそも、なんで人間階にきてたのかって言うと、単に魔階にいるのは飽きたから、人間階にきていたらしい。人間の生活に興味があったわけでもなく、勿論人間とほとんど接触することもなく、でも人間の文化ちゅーもんには興味があったんだって。
 長生きって言ってもせいぜい八十年、めちゃくちゃ頑張っても百年しか生きられない人間が、生きた証を遺そうと記す行為に興味があったんだそうな。
「こんなに想像力やら文章力の豊かなのは魔物にはいない」
 だとか、へーとしか言いようのない熱弁していたことがある。
 人間と違って、生きようと思ったら千年も万年も生きられるらしいシラスは、だからムダに知識を詰め込んで歩く辞書のように物知りになった。大陸のえらい学者さんたちは学術都市と呼ばれるシアンフェスタっていう町に集まって、古文書とか石碑とか解読しているんだけど、たぶんそこの誰より物知りで、誰よりもたくさんの文字を読めると思う。
 でも、それだけなのだ。
 知った知識でなにかを成そうとか、役立てようとか、そういうのは一切ないらしい。
 ただ詰め込むだけ。ただ覚えるだけ。
 それって楽しいのって聞いたボクに、楽しいということがよくわからないとシラスは言った。
 わからなかったって。
 楽しいことが判らなかったシラスは、なぜかボクを拾って、でもってどこか人間の村に置いてくるとか預けるとかそういうこともせず、自分で育てようって決心した。
 ボクが笑ったからだって言った。
 荷物に埋もれていた赤ん坊を、シラスが見つけた瞬間、その赤ん坊が自分に向かって笑ったからだって言った。
 楽しいだとか嬉しいって感情を自分は知らない。でも目の前の赤ん坊は、まだ何ヶ月かしか生きていないだろうに、笑った。実に楽しそうに笑った。一体何が楽しいんだろう、判らない。だったらこの赤ん坊を拾ったら、自分も本に書いてあったような楽しいだとか嬉しいって感情を理解することが出来るだろうか。

 そうしてシラスは赤ん坊を拾って、山を降りた。

 きっかけなんて、案外なんでも些細なもんだ。
 でもって、感情が理解できないとか言い切ったシラスを、ボクはそっちの方が理解できないと思う。
 だってボクとあの半日横丁で暮らしていて、ヤツは、スネたり怒ったりダダをこねたり、実に感情豊かに生活しているように見える。あれが全部演技だったらよほどの役者だね。
 それとも、シラスもボクと同じように、十七年の間で「育った」んだろうか。
 ただの力を持った空っぽの入れ物が、最初の千年で知識を詰め込んで、次の千年で人間を観察して。
 だとかいうことを、少し離れた丘の上で寝転がるシラスに近づきながらボクは思った。
 ネイサム司教から貰った十日間の休みを使い切って、最後の一日だった。
 ここで見つかっても見つからなくても、明日からは仕事だ。向こうの階層に戻らないといけない。だから、半分どころか九割方念じるような気持ちでボクはここにきた。
 魔階のうす明るい太陽に照らされて、昼寝でもしているように転がるシラスを見つけてボクは何だか胸がいっぱいになって泣きたくなった。
 ああいたなって思う。
 よかったって。
 この丘は、村から散歩で歩いてくるには丁度良い距離だ。シラスはちっちゃかったボクをよく村からここまでブラブラ歩いて連れ出した。子供の足には片道一時間の距離は結構あって、それでもお弁当を持ってあっちこっちで道草を食いながらやってきていた。
 あっちでは、お日様がさんさんと照っていたし、ボクはともかくシラスは相当イヤだったと思う。日中は家の中でも嫌がるくらいなんだし。
 憂鬱な顔をしながら、でもボクと向かい合ってお弁当を食べたり、昼寝をしたり、花が咲いている時期は花を摘んで、冠を作ったりした。子供特有の不器用さでボクは満足にかぶれる花冠を作ることが出来なかったけど、キミは実に器用に美しいくらいの丸を作って、ボクにかぶせてくれたっけね。
 そんなことを思う。
 時にはでっかいムカデがどこからともなく這ってて、気付いたら足首の辺りがまだらに腫れたりしてて。ビックリして泣き出したボクをひったくるように抱えて、村まで戻ったりしてたよね。
 そんなことも思う。
 アリオンが羊のことを言ってたけど、本当にボクは、まだボク自身が気付く前からキミに大切に大切にされていて、
「小さい頃の夢は、キミのお嫁さんになることだった」
 ぎょっとしたように頭を上げたシラスにやあと挨拶をして、何となくこわばった頬でぎこちなくボクは笑った。
「な、ちょ、まっ、なっ、キミ……、」
 飛び起きたシラスが物凄い勢いで立ち上がり、ボクの肩に両手をかけてガクガクと揺さぶる。脳みそが揺れるので程ほどでお願いします。
 でもって、人間驚くと結構本気で言葉にならないんだなって思った。
 なんでだよ?ちょっとまてよ、なんでキミが。
 だろうな、今の妙な鳴き声は。
「……何しにきてんだよ!」
 あ、ようやく出ました。
「何ってキミを探しにきました」
「ちょ、待てよ。ここに?キミ一人で?」
「うん」
「キミ一人で王都から来たのか?」
「うん」
 正確に言うと、王都からシュトランゼ古墳経由でここなんだけど、まぁ、似たようなもんだろう。
「何で来ようと思ったんだよ」
「だから、キミを探しに」
「何かあったらどうするつもりだったんだよ」
「でも、何もなかったよ」
「当たり前だ!何かあってからじゃ遅いだろうが!」
 バカか、頭ごなしに真面目に怒鳴られた。なんか怒鳴られるのって結構久しぶりの気がする。というより、ハルアが遊びに来てから仕事が忙しかったのもあってあんまりシラスと話してなかったし、そう思うとむっとする前に感慨深く思ってしまったボクもボクだ。
 そうしていきなりシラスにぎゅうっと痛いぐらいに抱きしめられた。
「何考えてんだよ……!」
 何考えているんだろうなってボクも思う。全く知らないところに一人でキミを探しに来るとか、本気で無茶ぶりもいいところだ。ぎゅっとされて何だか肩の力が抜けた。
 本当は怖かったのかもしれないなって今改めて思う。
 キミが赤縛に罹ったときと一緒。
 不安だったのも忘れるくらい、ボクはキミを失うことのほうが怖いんだよって。
 ごめんなさいってボクは言った。
「え?」
「ボクはキミを傷つけました。本当にごめんね」
 目を見て話をしないのは卑怯な気がして、押しつけられていた胸から少し顔を離してボクはシラスを見上げた。
 まんまるになっている金の瞳がなんだか猫みたいだなって思った。
「ボク、キミに謝りたくてここまで来たんだよ」
 きちんと謝っておかないと、自分の性格上話題をべつに飛ばしてうやむやにしてしまいそうな気がしたので、ボクはもう一度ごめんなさいと言った。
 ごめんなさいと言いながら、ああ許してほしくてここまで来た訳じゃないのかもしれないなって思った。
 許すとか許さないとかは関係ないんだ。
 できればボクは相手に怒りを解いてほしいと思っているけれど、それはボクが決めることじゃあない。聞いた相手が、考えることだ。
 でもボクは、自分の勝手な言い分や想像でシラスを傷つけてしまったことを、とにかくちゃんと謝りたかったのだった。
 何度かまたたいて考えているようだったシラスが、ぽんとボクの頭に手を置いて、それから、何に対して謝っているんだって小さく言った。
「この間、ボクがキミの部屋で言ったこと」
「……」
「キミの今までの好意をめちゃくちゃにしたこと」
 好意って言いながらそれは好意なんて言葉じゃくくれないほどの愛情なんじゃないかってふとボクは思った。愛情なんていうと、クサくて、なんだかこっ恥ずかしくて、アナ掘って埋まりたいような気持になってくるけれど、でも、何の見返りもなしに赤ん坊をここまで育ててくれたこの人は、底抜けの愛情を注いでくれたんだなって。
「……怒っていると思った?」
 しばらく考えているようだったシラスがまたぽつりとボクに聞いた。
「怒っていて、俺がここに来てると思った?」
「わからない。……でもボクは、キミへひどいことを言った」
「……ひどいことならもうずいぶん前からそれこそ耐性が付くほど言われてるだろうが」
 そう言われちゃうとなんというかぐうの音もでないのですけれど。
「まぁ、そうだな。……ここに来たのはちょっと頭を冷やそうと思った」
 そう言ってシラスは丘を見回す。丘は、薄いむらさき色の小さな花がたくさん咲いていて、絨毯みたいになっている。その中でシラスは寝転がっていたのだ。
「冷やす?」
「……キミもそろそろひとり立ちができる年になったんじゃないかとか。もうあまり俺が世話を焼かなくてもいいんじゃないかとか。仮にも僧侶見習いの周りで、俺がウロウロしているのはどうなのかとか。そういうことを考えてた」
「……」
 それって、ボクから離れるよってことを言っているんだろうか。気付いて急に胸が苦しくなる。
「小っちゃかったキミとここで暮らしていたよな」
「……」
「いろいろわがまま言われたなぁとか、風邪ひいてすげぇ熱が出たとき焦ったなとか、そう言うこと思い出してた」
「キミと一緒になってから俺は楽しかったし、今も楽しい。なんというか……こっちじゃよく判らなかった心地良さってもんを少し理解できた気がする」
「……」
 だけど、とシラスは言う。
「俺がいない方がキミは平穏に暮らせるんじゃないかと思った」
 このままいきなり相手の姿が消えたりしたら、ボクは割と立ち直れなさそうだ。消えないようにシラスの服をぎゅっと握ると、気付いた彼が見下ろしてちょっと笑った。
「消える気はねぇよ。安心しろ」
 姿を見たらやっぱりダメだってシラスが言った。
「ここまで一人で来たとか、もうほんっと危なっかしくて放っておけねぇよ」
「ボクは」
 金色の目を見ながら、ネイサム司教にうだうだとクダを巻いたことを思い出す。自分自身に言い訳じみた、あのなさけない愚痴。
「ボクはキミと一緒にいたいよ」
「……」
 言うと今度はシラスが黙った。
 言葉の続きをうながされているような気がして、嫌だよ、とボクは言った。
「もういい。お腹いっぱいですってなるまで、一緒にいてください」
 お腹いっぱいになる日が来そうにないのが困りものだけど、だったらずっと一緒にいたらいいって思う。
「……離れられると思ってる?」
 やがてシラスがなんというのかな、嬉しそうというよりは少しニヤァァァとした悪いことを企んでいるような顔になって笑った。
「え?」
「それほど弱い契約を交わした覚えはないぜ」
 言ってボクの左手を掬い上げて、甲を撫ぜる。いつもはうすく、ほとんど見えない契約の印が、シラスが撫ぜるとぽうと赤く浮き上がってそこへ彼は口を寄せた。
 ちゅ、とかわざと音たててボクの反応を試してますよね。まんまとハマって赤くなるのでやめてほしいです。
 ボクは慌てて顔を背けた。


「ところで、ここまでどうやってきたんだよ」
「え?……シュトランゼ古墳のあの穴に落っこちてやってきたわけなんだけど」
 それしかボクはこことあっちとのつながりがある場所を知らないしね。
 答えるととそうか、と頷いたシラスが、
「ちなみに参考までに拝聴したいが、どうやって帰るつもりだったんだ?」
 聞いた。
「え?……シラスを見つけたら何とかなると思って」
 今度は盛大に溜息を吐かれてしまった。
 見つからなかったらどうするつもりだったんだよ、と言われる。
「……どうしたろ」
 なんとなく会えるって言う確信があった。なんにもよりどころなんて無かったんだけど、会えないはずはないって思ってた。思っているなら絶対会えるって。
 だから正直、会えなかったらどうするとかあんまり考えていませんでした。
「魔物に食われちまうぞ」
「危なくなったらキミが助けてくれるでしょ?」
 だとか言うのはちょっとばかりクサいだろうか。でもそう思ってたんだからしようがない。
「まぁ、」
 戻るか。
 一瞬顔をしかめたシラスが、ぐいとボクを引きよせた。もしかすると照れ隠しだったのかもしれない。ポーカーフェイスがやたらとうまい彼の本心は、今一つ判らない。
 あの太陽はイヤだなぁ、だとかぶつくさ言いながらシラスは手の平をボクの瞼に当てた。もしかして移動中っていうのはなにか見ちゃいけないのだろうか。見るとたたられる、とかなんとか。
 尋ねるとと酔うかもしれないぜ、と返された。
「景色が流れるしな」
 見るなと言われると見たくなるのが好奇心ってもんです。
 あてがわれていた手を外して、周りを見ると、ものすごい勢いでいろんな色が後方へ向かって流れていって……、そうだな、板の上に色水を十五色くらい垂らして、勢いよく垂直にたてたような感じ、とでも言ったらいいのかもしれない。
 その色をかき分けるようにして、ぐいと一歩シラスがどこかへ踏み出す気配がして、
「――おかえりなさいませ、だ」
「うぇぇぇえ」
 画面酔いしました。
 さんさんと陽光が降り注ぐ人間階へボクとシラスは一気に戻っていたのだった。なにか流暢に魔法を唱えるだとか、結界を張るとか、光に包まれてその光の粒子がボクの体のひと粒ひと粒と合致して、だとかそう言った大掛かりな演出を期待していたボクは若干拍子抜けする。
 あー……帰ってきた、んだな。
 王都カスターズグラッドから少し離れた林の中。
 まだ少し眩暈のする視界できょろきょろと辺りを見回し、あの、向こう側で感じていたぶわぶわとした質感が全くないことを確認する。
 ぶわぶわとしていないからじゃあここは人間階なのかって言われるとボクには断定できないんだけど、シラスがそうだっていうんだからここは人間階なんだろう。
「……ああ、そうだ」
 もう一つ謝らなければいけないことがあったんだった。
「シラス」
「……あ?」
 少し後ろをついて歩いているシラスが何だと答える。
「シラスの部屋に会ったきれいなガラスの髪飾り」
「……ああ、なんかいつの間にか失くしたと思っていたな、アレ」
「あれ、ボク割っちゃいました」
「あ?」
「修理はお願いしてあったんだけど。……大事なものだったのならごめんなさい」
「あー……割ったのか」
 ぼりぼりと頭を掻いて少し言葉を探すようだったシラスが、プレゼントのつもりだったんだよ、と結局ぶっきらぼうに言った。
「え?」
「キミの誕生日プレゼントに選んだ奴だったんだが」
「ボクの?」
 言われて初めてボクはこのシラスがいない間に、ひとつ年をとったことに気がついた。まずい、ケーキを食べ損ねた。
「そうか、割ったか」
「ごめんね……」
 なおるよと職人のオジさんはいってくれたけど、ボクはシラスの好意まで折ってしまったろうか。
 小さくなって謝ると、いいよとシラスが言った。
「まぁ似合うかどうかもよく判らなかったしな。新しいの買いに行くか」
「ええ?」
 ガラスってだけで十分高価だってことをボクは知っている。翻訳業でがっぽり儲けているとは言え、それをひとつ買って、しかも割れちゃったからじゃあもう一個買うとか、目の玉が飛びだしてどこかへ転げていきそうだと思った。
「いい。いい。あれ直して使うからいい」
「いやしかしプレゼントに割れたやつって言うのも」
「ボクにはもうその気持ちだけでいっぱいです」
 恐れ多くてバチが当たりそうだ。
 そうしてどうでもいいような雑談をぼつぼつと話しながら、ボクはシラスと我が家へ帰った。
 ひとまずめでたし。

 ……のはずだったんだけど。

「――ターマーゴー?」
「ははははははははい?」
 半日横丁の我が家へ近付くと、なぜかすごく珍しいことに玄関の前にネイサム司教が立っていた。司教が我が家にわざわざ自分からくるとか、初めてなんじゃないだろうか。いつも呼びつけられてばっかりだったし、じゃあここまで司教が来る用事ってなんだろうと思う。司教と約束した日にちはまだ過ぎていなかったし、だとするとハルア関連しかボクは思いつかなくて、ハルアに何かあったのかってどきどきとした。
 しかしそのボクの不安感をさっさと払拭してくれちゃった司教は、ボクの目の前に聖書を突きだす。なにかと瞬きしている間に、こめかみに拳を当てられて遠慮なくグリグリグリグリとされた。いやもうホント気が遠くなるってこういうこと言うんだね。
「あだだだだだだ」
「この未熟者が」
「え、え、え」
「お前の後ろにいるしもべ一匹使いこなせていないのに、どおおうして仕事を増やすか」
「え、……え?」
 意味がさっぱり判らない。挙動不審になるボクを見かねたのか、基本司教相手には無言でいるシラスが、睨んでいるだけでは済まなくなったらしくずい、とボクと司教の会話に割り込んだ。
「暴力はやめろよクソ聖職者」
「失せたままでいればそのまま見逃したものを、わざわざ退魔されたくて戻ったか。ところでこれは暴力ではなく制裁と言うもので、お前の後ろで間抜け面さらしているその粗忽ものが増やした仕事が原因だ」
「……レイディ」
「え?なに、え?どういうこと?」
 ボク、本気で何が起こっているのか判らないんですが。
「……魔物と暮らしているぐらいだから、契約の仕組み程度理解していると思った私が愚かだった」
 肩を落として白々しく嘆いて見せて、ネイサム司教は聖句の書かれた半紙を一枚、ボクの背後へ丸めて投げつけた。
 そのままぽとんと路地裏に落ちるはずだった半紙がこつ、と何かに当たる音がして、
「いたた」
 乱暴だなぁといきなり誰もいなかった壁に、ひとのかたちが現れる。
 あれって思ってボクは目をこする。
 どこかでお会いしましたね。
「……ナナシさん?」
「やあ」
 ひらひらとナナシがボクへ向かって手を振ってこたえる。数日ぶりですね。だけど、魔階にいるはずのナナシがどうしてこんなところにいるんだろうって思った。
「……レイディ」
 ネイサム司教とボクとナナシを見比べていたシラスが、なんというか腹の底から、と表現したいような低い声を出した。アドグを威嚇したときの声より怖いってどういうことですか。
「キミ、魔階で何をした」
「何もしてないよ!」
 ネイサム司教からはいきなり叱られるし、なんだかシラスは怒っているみたいだし、ボクは意味が判らないし、
「ああ、やっぱり。……無用心に近付いてくるから何も知らないのだろうなとは思ったんだけど」
 涙目のボクを差し置いて、ひとり合点しているようなナナシが丸められた半紙を拾い上げ、手の平の上で転がしながらにっこりと笑った。
「つながりができたおかげでこちらに来ることができたんだよ」
 つながりって何でしょう。
「……魔物との契約の一番簡単な方法をタマゴ。言ってみなさい」
「え?」
 ナナシに噛みつきそうな顔になっている険悪なシラスを制して、ネイサム司教が淡々とした、だけど厳しい声でボクへ言った。
「勉強しておくように言っただろう」
「あ、……しましたよ。たしか、……己の名を告げ、相手に名を与え、えっと……互いの一部を分け与え、って……えっと。……えっと」
 言いながら、だんだん尻すぼみに声が小さくなることをボクは抑えられなかった。別に続きが言えなかった訳じゃなくて。
 あれちょっとまてよ、だとか言っている頭の中の別のボクがいる。
 魔階へ行って馬宿に泊まろうとした。中でだべっているナナシの姿を見て、ボクはこんにちはって言った。はじめまして、って挨拶をしてボクは自分の名前を言った。初対面の礼儀だって思ったからだ。
 相手はなんて言った?
「……えっと……」
「それから?」
 俺に名前はないよ。言って名無しの魔物が少しさびしそうに笑ったように見えたから、ボクはじゃあ便宜上なにもないのも話しにくいと思ってナナシ、と呼んだのだ。
「……いいにおいのするお酒っぽいものを貰いました。液体が入ってるのかと思ったけど、モヤのようないいにおいのする空気だけで……。ボクには飲めなかったけど、魔物にはお酒に見えているのかもしれないなって思って……」
 それから。
「ナナシさんが赤縛病になってたから、ボクは急いでもっていたムドゥブの煎じ薬を飲ませて……」
 互いの一部を分け与え。
「え……ええっと」
 言いながらボクはじりじりと後退した。ああ、目の前に我が家があって、あと数歩進めば十日間の旅の疲れを癒せるというのに、そこには仁王様が立っている。
 後退したボクの背中がとん、と誰かに触れて、見上げると伸ばしたシラスの腕だ。
 こちらも負けず劣らずのこわい顔をしていて、「前門の虎、後門の狼」って本当に状況的にあるもんなんだなってこんな時だというのにボクは思わず感心した。
 そして、逃げられない。
 だって。だってだってだって。
 あれって契約に入るんですか。契約ってそんなうっかりできちゃうものなんですか。契約って言うのは、「これから契約はじめるよー」って、よく知らないけど蝋燭とか鶏の血とか黒ひつじとか、準備して結界書いたりしてするもんなんじゃないんですか。
「安心して。俺はあなたに取り憑く気はないよ」
「何を安心しろって言うんだよ」
「全く安心材料になっていないな」
 微笑んだナナシにシラスと司教の声が覆いかぶさって、

「まぁなんだ、そこへ直れ」

 半日横丁の玄関前で、ボクはシラスと司教の二人から数時間、しこたま説教を食らい、最後には三つ指を突いてごめんなさいごめんなさいと泣いて反省するハメになった。
 自業自得?そんな言葉は燃えてなくなってしまえ。


(20111224)
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最終更新:2011年12月24日 11:30