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<<羊飼いのうた>>


 お子をたのむ。
 全身べっとりと、返り血と、おのれの血と、汚泥にまみれた男が、ふるえる腕で胸もとに抱えた布のくるみを対したもう一人の男に差し出した。両腕を同じように伸ばし、うやうやしくも受け取りながら相手の地肌いろが見えないすざまじい様子に、思わずかくしから手ぬぐいを取り出し、ラルヴァンダードは、汚れをわずかなりと拭いさってやろうとした。
 無意識の行動だ。
 いらぬ、とがくがくとした動作で気丈にその腕を払いのけて、対し相手はかぶりを振った。
「もういけない、」
「しかし」
 そのあとの言葉は続かなかった。
 己の体が保たないことを、彼自身がなにより判っているのだということに、ラルヴァンダードは気付いたからだ。
 日ごろより沈着な男だったなと思う。とくに親睦を深めた間柄ではなかったが、同僚だった。
「たのむ」
 せっぱつまった色を両眼ににじませて、口から水のように血をはきだす、為すすべなく凝然とラルヴァンダードが見下ろすその先で、たのむたのむと騎士は何度も繰り返した。
「お子だけが最後の……」
「ああ、」
「われらの最後の旗印なれば」
「ああ」
 いよいよ膝を着き上体をささえることもままならなくなり、彼はどうと倒れ、それでもなおたのむとうわ言のように繰り返しながら、いまわのきわの痙攣を体へ走らせた。
 くるみをぐっと胸に抱いて、ラルヴァンダードはこときれる彼を見おろす。
 彼にしてやれることはなにもない。
 もうおおよそはここへいたるまでに苦しみぬいてきたのだろう、たいしてもがくこともなくあっけないほど簡単に目を見開いたまま最後に笛のような音をもらし、騎士は動かなくなった。
 往ったかと。
 呟いていた。忌々しく苦い思いが胸中にひろがる。
 しらず腕に力が入り、くるみがもぞとわずかなむずかり声とともに動いたので、ラルヴァンダードはこときれた騎士から腕の中へ視線を移した。
 最後の力で守り切った男の血指の痕がのこる布に包まれて、まだなにも知らない顔をしたおさな子がぽかんと目を開け、彼を見つめていた。
 寝ていたわけではなかったのだ。
 ついこのあいだ、彼女がふたつになった祝いのうたげを、ささやかながら彼女の父と母が催したばかりだったなと彼は思った。
「姫」
 口に出して呼び、ラルヴァンダードはいとけない、しかしすでにさかしい顔をして己を見つめる腕の中の主君へこうべを垂れた。垂れてはじめて彼女が、泣きもしなければ暴れもせず同僚に抱きかかえられ連れてこられたのだということに気がついた。気づいてそそけだつ。
 まだなにも知らないでは済まされない。
 一声たてたら命はなかった。
「ラルヴァンダードと申します。今後はわたしがお守りいたしますゆえご安心なさいますよう」
「ラル……ラヴァ……。……レ、ヴ?」
 うまく聞き取ることができなかったのか、それとも聞き取れはしたものの口が回らなかったのか、じっと彼を見つめていたおさな子が発音した名前は彼のそれとはすこし違っていたものの、彼を呼んでいたことは確かで、
「はい」
 ほほ笑んでみせた彼と同じように腕の中の彼女もにっこりとほほ笑んだ。
 あどけないとは言いたくない、己の命運とやらを受け入れたまなざしだと思った。
「コロカントといいます。……めいわく、をかけます、が」
 たどたどしい言葉で、おさな子が頭を下げる。
「どうぞよろしくおねがいいたします」
 彼女が頭を下げた瞬間ずくと走った胸の痛みは、何だったろうかと思う。
 ……お子だけが最後の。
 かたちだけではない畏敬の念に自然背筋が伸びた。
「今生かけましても」
 裏表のないラルヴァンダードの芯からの言葉だ。


 皇国エスタッドと呼ばれる国が、全土を平定してゆくことになるその百年ほどむかしの大陸のひとはしに、その小国はある。
 あった、という表しかたが正しいのかもしれなかった。
 今は失い。
 数年前にほろんだ。
 ことになっている。
 少なくとも地図の表記は一新されていたから、ほろんだ、という表現に齟齬はない。
 協定破棄、というかたちでそれはある日突然訪れたのだ。
 大陸史に「暗黒時代」と称される、戦に明け暮れる毎日のさわりの時期のことである。荘園の領主が、そのままひとつひとつの国の主になった。
 そうして国の大きさは、そのまま強さと豊かさに結びついていた。軍略は二の次だ。基本、有する人間の多さがそのまま兵士の量につながったことが大きい。
 数は力だった。
 ゆえに、各国の国王だとか皇帝だとか名前の付いた、ひとの上に立つことに余念のない人種は、競って自国の版図を拡大しようと血まなこになったし、己一筋の力で嶄然頭角をあらわすことのできないなけなしの小国は、周囲の国々の思惑を何とか読みとり生存競争を勝ちのこるために死にものぐるいになった。
 生きるためには隣人どころか、おのが子を棄て親まで売ったのだ。
 その、小国同士が腹をさぐりあうひとつに、シビラ国、セイゼル国、ハブレスト国の三国友好休戦協定がある。
 うちシビラは消失している。
 協定規約を傲然とひるがえし、ハブレストがシビラに侵攻したのだ。
 隙を衝かれた形になったシビラは二日ともたず、ハブレストの強欲の前に陥落した。ごうごうと燃えさかる館は、暗夜をそめまるで昼のようであったと見ていた人間は言う。
 余談であるがハブレスト国主、焦土と化したシビラのあまりの見果てたさまに思わず落涙し、視察に続いた取り巻き一同右にならって悲嘆にくれたとハブレスト国書には記されているが、これはそのすぐあとに狸自らが発令した、
「封鎖シタしびら国内スベテノ幼児ノ殺処分」
 と比してあまりに違いがすぎるので、後世の加飾であるとみるべきであろう。

 シビラの国体かたちそのものは崩れ去った。
 しかし、ハブレストの目にあまる我利我欲の行為に、三国協定のもう片側であるセイゼルとしてはたいへんに面白くなかったようで、
「協定ハ覆ラズ」
 つまり、シビラの血筋を証明できるなにがしかが残っているのであれば、セイゼルはそのままシビラと約をむすんだままであると意を呈したのであったが、これが殺処分の原要因とつなげることは、当時を分析する誰しもが容易であるはずだ。
 シビラの国主及びその第一、第二夫人の遺骸は検分されたものの無残に焼かれきったひと群れの中には、第一夫人とのあいだに成された子が含まれていなかったのである。
 館が落ちるまえの混乱のさなかおちのびたと見える。その一児へむけた、セイゼルのなかばあてこすりの表明文は、しかし直にハブレスト国主を激した。
 シビラの血筋を根絶せよ、と。
 協定は、手慰みにむすんだものではない。
 先に述べたように結局のところ、蠢動する己の国土よりも広大な国へ対する威嚇である。ただそれが、自国ひとつでは圧力にならなかったため、手を組むよりほかなかった、という程度の。
 ひとつひとつは小さくとも、束ねるとこわく強いちからになるのだと最初に説いたのは史略家のだれであったのか、それは時代を重ねても変わることはない。

 シビラを下したハブレストにとってセイゼル一国は己と同程度の国家でしかなかったが、各地へ散ったシビラの残党がセイゼルと手を組みハブレストを脅かすとなると話は変わる。セイゼルと戦端をひらきたいがための、シビラ強襲であった。
 二対一では不利なのだ。
 こうして、ゆくえのしれぬ幼児を探しあぐねたハブレスト軍のとった結果というのが、
「シビラ国内全ての乳幼児をかたはしから虐殺すること」
 だった。
 これは挑発したセイゼルに非があるのか、ここではあえて言及しない。
 ただそのようなことがあった、とばかりにとどめておく。
 血風が吹き、母だったはずの女の嘆きが劈めくばかりの一週間だった。文字通り、ひとり残らず屠られたと大陸史には記されている。
 暗黒大陸時代の初端から、われわれの大陸は血鱠で潤っていたのだ、と。
 難を逃れるすべはどこにも存在しなかったのだ、わが子の首が目の前ではね飛ぶさまを、唐竹にわられるさまを、あるいはひと突きにて心の臓をしとめられたさまを見た母はみな哀絶の狂気に支配され、陰に隠れてはふるえ生きのびようとする他人の子供をおなじように訴えでたから。
 シビラの後胤はひとつであったか、いやもうしっかりと歩いては言葉を操っていたのだからひとつと言うことはない、みっつだろう。
 おおざっぱにくくられ、おおよそ五つまでの乳幼児が歯牙にかけられた。
 無情な敵の手にかかるくらいならばいっそ。そう言って腹を痛めたわが子をおのが手で縊る親まででた始末だ。
 乳を求めては泣く赤ん坊の声が、一時旧シビラ国内から消え失せたというのだから、相当な虐殺であったのだろうと思われる。

「ひとり残らず」、と。

 ……しかし、満身の力をこめようと、すぼめた手のひらからかならず水は漏れゆくもの。
 奇跡という安直な言葉でくくりたくはないが、しかしやはり奇跡的に鈍色の嶄鉄からからくも逃げおちたいのち。
 ひとの営みの輪から外れながらも、すこやかに育まれたたぐいまれなる無垢。
 深い森。
 森の名はワールーン。
 その森の奥に彼女はいた。

                   *

 ああ、と嗄れた低い溜息とともにがさがさと藁の山をかきわける気配がして、コロカントの空間の充足は不意にきえさった。
「……寝ておられたのですか」
 溜息は安堵だ。
 いくぶん彼女をさがしたと見え、掌の主がほっと頬をゆるませ姫、とみじかく呼んだ。
 はいとこたえる。
 くずされたあたたかな秘密基地を残念に思いながら、少女は目をこすり、男を見上げた。
「レヴ」
 乾燥させつみあげた干し草のざくざくとした感触に、思わずすいよせられるようにもぐりこんだままいつの間にかうたた寝入っていたらしい。ぼうとまだよく覚めやらない重いまぶたをあげてもう一度。レヴ。相手の名を呼ぶとまだねぼけておられる、とラルヴァンダードがおかしそうにほほ笑んだ。
 壮年の男だ。
 年はなんども教えてもらったものの、十より上の数がまだあやしいコロカントは正確におぼえていない。おぼえられない。
 四十を過ぎて半ば、五十路にはまだいくぶんか余裕があるとそんな風に応えられても、四十とはどれほどの長さか、五十はどれほどの量か、実感がわかない。
 自分よりもずっと長いこと生きてきた存在なのだなと、そんなふうに片づけた。何しろ少女は数えで七つであったので。
「午後のお仕事の時間ですか」
「午後のお仕事の時間です」
 わかりましたとこっくり頷き、コロカントは昼寝の褥から体を起こした。
 このところすぐに日暮れが迫る。
 夕闇につつまれ本格的に冷え込みのはじまる前に、済ませておかねばならない用事がいくつもあった。
 ばたばたと体についたわら屑を払うと、気付いた男が傍らに膝を着き、彼女の届かない背裏や頭のてっぺんを同じように払ってくれる。彼女の頭をかるくひとつかみできそうなほど、大きな掌。その手にふれられることがうれしくて、コロカントはにっこりとした。
 少女は大きな掌も、掌の持ち主も大好きだったのだ。

 少女は男と二人で暮らしていた。
 森の奥でひっそりと暮らしていた。
 二人で暮らすには十分に広い三階仕立ての円塔状の建物に住んでいる。
 ぐるりと内径をなぞるように螺旋階段がしつらえてあって、外に出ずとも上階までゆけるつくりとなっていた。
 もとは見張り塔であったのだとラルヴァンダードに説明されたことがある。
 有事の際には、起居する少人数でも数日持ちこたえられるような造りになっているのだそうだ。なるほど、住居のつくりもそれとなく重厚であるし、建物周りにもおそらくむかしに人の手で掘られたと思われる堀があった。今はすっかり水草が蔓延りうまいぐあいに干上がることもなく、水位が減る頃に雨が降るという繰り返しだ。
 見張り塔と言っても元来の目的で使用されていたのはずいぶん前の話である。
 最低限にしか人の手の入らないからくりはあちらこちらが傷んでいたし、前記に述べたように大人ひとり子供ひとりのくらしに大掛かりな装置は必要なかったのである。
 たとえば跳ね橋はもうせん上げられたままになっている。錆びついた鎖はもう動くことはないだろう。
 代わりに男が丸太をかけた。二人が日に数度渡るには、これで十分だった。
 吹き抜けの内部も、暖気が逃げないような工夫が要所になされている。
 一階部分を台所兼居間として使っていて、二階が寝室と越冬するために必要な薪や藁やその他保存食料品。三階部分は半ば崩れ、埋まっているので使っていない。
 攻め込まれた際に崩れてしまったのだと男は言ったが、だとするとここに住んでいた人間はどうなったのか。疑問に思ったコロカントはしかし聞くことはできなかった。
 いけなかったのだろうなと幼心に感じたからだ。
 なにがいけなかったのか、そこまではわからなかったけれど。
 二人で暮らしていると述べた。人間は彼ら二人で、ほかにもいくつか生きものはいて、それらの世話で毎日はわりと忙しい。
 背が低く、足の太い馬が一頭。耕作には必要なものだ。
 雌のやぎが一頭と、最近これが産んだ仔が一匹。毎日乳を出す。
 にわとりが一羽。これは一日おきに卵を産む。
 それと堀を渡ってすぐ近くの畑に蒔種した作物の管理に明け暮れていたから、たとえ男と二人の暮らしであっても少女には退屈だとか感じるいとまは全くと言っていいほどなかった。
 というよりも、ものごころついたときからずっとこの状態であったのだ。他を知らない彼女にとって、レヴと呼ぶ男との生活がすべてであり比較対象が存在しないのである。
 午前に放したやぎとその仔とを、暗くなる前に納屋でもある一階部分へ誘導するのも彼女の仕事のひとつである。
 二人しかいない。
 であるから、男が忙しそうにしているときや手の回らないときは彼女が補う。
 そういうふうにコロカントは育ってきたし、去年よりも今年、先月よりも今月、昨日よりも今日、手伝える仕事が増えてゆくということを嬉しいと思う。
 自分も何か役に立つことがあるのだと知ることは嬉しい。
「ああそうだ」
 階段を降りかけたコロカントに、後ろから思いだしたようにレヴが言った
「やぎは家の前にいたので、もう中へ入れておきました」
「はい」
 たとえ家畜であってもそのあたりは聡い。朝、堀の外に出され、冬枯れしながらも僅かに生える青草をむしり食い、夕刻には建物の中で寝るものだと理解している。決して塔よりはなれて遠くへは行かない。
 かしこいですねと少女が感心すると、生きのびるすべと言うものでしょうと男が応えた。
「群れでなければ生きてゆけない生き物です」
「やぎは、群れで生活するのですか」
「野生では群れをつくりますね」
 そうですか、と頷きながら、コロカントはやぎの群れと言うものを、まだ見たことがないので想像もうまくできない。きっと春のおとずれるすこし前に、空を北へ向かって飛んでゆく渡り鳥のように群れるのだろうなとその程度の想像だった。鳥と同じようにうしろのものが前になり、前のものがうしろになりながら整然と粛々と飛んでゆくのだろうか。
 そんなことを思いながら一階へ降りると、彼女の姿を見たやぎの仔がまだつたない動作で近づき、すんすんと鼻づらをこすりつけた。うぇうぇと鳴く。甘えている。
 首のつけ根あたりをかいてやりながら、コロカントは入口に近い床に壁際へ寄せていた干し草を広げてやった。寒さしのぎ、また野犬や狼の餌食になるのを避けるためにこうして夜は塔の中へ入れてやるのだ。
 おとなしく飼い葉を食んでいた足の太い馬が、彼女を見てぶるると鼻を鳴らす。
「ハナ」
 おそれることなく近づいて、広げた手の平で胴をたたく。ハナと名づけたこの高齢の農耕馬が、ひどく聡いことを彼女は知っていた。口がきけないばかりでその実人間よりよほどかしこいのではないかと、ラルヴァンダードも褒めていたことがある。
 力だけならおそらく若駒の三分の一ほどに劣るだろう。持久もかなり下っている。
 だが、かしこい。
 馬鍬をつけ、畑でひかせる際にもっともその利口さを発揮した。
 先導する馬自身が、畝を読む。開墾したばかりの土に踏み入れるときは特に慎重だ。自身が、というより鍬を傷ませることがないように、土の中の頑丈な木の根や石を見つけるとひたりと足をとめ鼻を鳴らす。決して先へ進まない。
 おかげでコロカントひとりでも畑をたがやすことができた。馬が止まったあたりをしらべて、土の中で鍬を邪魔するものをとりのぞけばよいのだ。
 聞けば、市場で殺処分されかかっていたところをたまたま通りがかったラルヴァンダードの知人が安値で買いたたき、農耕馬をさがしていた彼にあたえたのだとそう言う話だったが、そのくだりは彼女は詳しくは知らない。彼女が認識した時に既に馬はいたし、その時点から馬は高齢であることにも変わりはなかったからだ。
 道具入れからブラシをとりだし、毛の流れに沿っておおきな動きで毛づくろいしてやる。馬としては体の小さい種であるとはいえ、コロカントには十分に大物だ。しかもかなりの力がいる。彼女の力だと、擦るほどの勢いと強さでないと梳いていることにはならない。
 撫ぜてやるだけでは不十分なのだ。
 せっせと腕をつけ根から動かしていると、昼寝で少し冷えた体はたちまちぬくもり、額は汗ばんだ。桶を逆さまにしたものを踏み台にして、頭のてっぺんまでしっかりと梳いてやる。
 馬が心地良さそうに目をほそめた。
 それが終わると、今度は貯水桶から小ぶりの手桶に水をうつしいれ、馬とやぎと鶏のための飲み水を足す。次に手桶をよく洗い、やぎの乳を搾る。みっしりと張った乳首からはいきおいよく乳がほとばしった。
 絞りおえた手桶を、夕餉の支度をはじめているラルヴァンダードへ差し出すと、ちらとコロカントへ目をやった男の顔が緩んだ。笑ったらしい。
「姫」
 言ってごつごつと節くれだった指を彼女の頬へのばしはねた乳をぬぐい取る。
「あ」
「ついていました」
 気付かないうちにはね飛んだらしい。ありがとうございますと礼をかえす彼女へ、かすかに嘆息した男がしかしと続けた。
「姫は何もなさらなくともよろしいのですよ」
「……レヴのじゃまになりますか」
 自身はいくぶん手伝い役に立っている気になっていても、実のところ男の手間を増やしているだけなのかもしれない。だとすると役に立っているだとか言う自意識はうぬぼれだ。眉をくもらせたコロカントへ、そうではないのですと慌てて男が言い添えた。
「世が世であるならば、姫がこのようにお手を汚すこともないだろうにと」
「そんなことはありません」
 コロカントにシビラが陥落した際の記憶はない。しかしいつかもう一度シビラの御代をと周囲の者どもが願い、敬い、慕い、自身がその支柱となっていることを彼女はすでに認識していたし、そのようにありたいと願っている。
「役に立てることがわたしは嬉しい」
「……」
 どこか諦めた笑いをラルヴァンダードが浮かべた。この男はやさしいくせに、時折疲れたような諦めたような笑みを浮かべる。なんてさびしそうな笑みなのだろうと見るたびにコロカントは思う。できれば呵々大笑している姿だけを見てみたいとも思うけれど。
 男が疲れているのは生活でも前途でもなくただ己の身のいたらなさ、不甲斐なさを呵責しているゆえだ。幼い子供をひとり抱えて森の奥へ身をひそめ、機をうかがって到来を待つ。それで十分に責をこなしていると思うのに、それでは物足りないのだと彼は言う。
 自虐に限りなく近い自省は徐々にしかし確実に身を侵す。
「あ」
 困った顔で男を眺めていたコロカントは、ばらばらと建物の周りの木立をたたく音に耳をすませ、慌てて身をひるがえした。
「霰」
 不意にかきくもった夕間暮れの通り雨ならぬ通り霰に、洗濯物がまだ干してあったままなことを思い出し、蔓の籠をかかえて彼女は外へ飛び出した。
 急いで走るところびますよと気配る声を背中にうけながら、その憂を裏切ることなく籠をもったまま派手に彼女はつんのめった。


「だいじょうぶですか」
 結局顔から盛大に擦りむき、わっと火が点いたように泣き出してしまったコロカントへ、夕餉の支度を放り出して彼女の汚れを拭ってやっていたラルヴァンダードが声をかけると、まだしばらくぐずぐずと泣きしぶっている彼女が顔をあげた。大きな黒目が濡れている。
「どこか痛いところは」
「ないです」
「それはよかった」
「でも、……くものが、」
「はい……?」
「洗濯物がすっかり濡れてしまいました……」
 ころんだ驚きや痛みではなく、ただ通り霰の勢いに自分が間にあわなかったことが口惜しかったのだと、唇を噛みしめるさまを見て男は唐突に理解した。
「……は、」
 思わずかすれた声が喉元からこぼれる。
「レヴ?」
 笑ってはならないだろう。くく、とつい漏れ出てしまったおかしみを押し殺して、ラルヴァンダードは急いでいかめしい表情をとりつくろおうとして、
「レヴ……!」
 失敗した。


(20120814:Re)
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最終更新:2012年08月14日 15:37