<<あなたがわたしにくれたもの>>
皇宮の中を歩いていると、まったく世界が違うのだと毎度驚かされる。
とくに、忙しく働く生活居住空間と、執務区域の切り分けは見事だ。何か見えない線引きでもしているように、ばっさりとある一線からむこうとこちら側、雰囲気どころかにおいまで違うような気がする。告げるとみな不思議そうな顔になり、同意してくれたのは今までまだ一人である。
「――おや」
不意に響いた静かなテノール。
聞き覚えがあるその声に、セゥバは振り向いた。
振り向き、自分の思い描いた人物と同じであることを確認する。ついでにこの間訓練で教えてもらった騎士的挨拶とやらを、頭の中でなぞりながら実行してみる。
面白そうにそんな自分を眺めていた目の前の男は、よくできました、と僅かに口の端を上げた。無感動な訳ではないのだろうけれど、いつでも億劫そうに無表情であることが多いので、この動作を他に置き換えるとおそらく、
「にっこりわらった」
くらいには、大きな動きなのだろうと思う。下げた頭を撫でられてしまった。まったくもって子ども扱いで、不愉快になる。
「子どもあつかいすんなよ」
「子供だろう」
「もう士官学校三年だし」
「十分子供だ」
静かに断言されて畜生、と言葉に詰まった。自分の少ない語彙でこの伯父に勝てないことは十分承知している。
「こんなところで何してんの」
尋ねてそれから、男の後ろに控えた補佐官が、ひどく咎める目付きになっていることに気が付いた。まずいかな、と思い、何しているんですかと言いなおしてみる。
陛下、も付け足した。
そうしたセゥバの動きと、背後の動きを的確に読んでいたのだろう。
面白そうに眺めたままで、しかしエスタッド皇帝は振り向いて補佐に一言二言何かを告げた。おそらくどこかに行っていろ、だとかそう言ったたぐいの。
うやうやしくかしこまり、一礼すると補佐官が下がってゆく。最後に一目、釘を刺していくことも忘れていない。後で見ていろ、的な。するどい視線が鷹の目のようで、なるべく合わないように退出しようと思った。捕まったらしこたま説教を食らうだろう。言っていることはいちいちごもっともでも、うんざりする。
「アンタ、忙しく仕事中?」
「三補佐はいよいよ私に止めを刺す気らしいのでね。だが、――まだ少し時間があるので気にせずともよいよ」
「ああ、そう」
「父君はどうしたね」
「……えっと、なんか打ち合わせがあるから、しばらく庭で遊んでろって部屋追い出されて」
仕事の話が始まると、外で待っていろと言われるのもいつものことだ。むしろ部屋に残って小難しい話を延々聞かされる方が、セゥバにとっては苦痛である。皇宮は時間つぶしをするには十分以上に広いし、小さい頃から連れ込まれているおかげで顔を出していい場所、悪い場所も覚えた。
下働きの者どもが行き来する空間は、基本的に良いとか。後宮はどれだけ自分が子供であっても「男」であるので、顔を出すとあとで周りに良い顔をされないだとか。
ゆっくりと歩を進めるエスタッド皇の横に付き答えながら、セゥバはあちらこちらを眺める。いつみても皇宮は物珍しい。
「――騎士セゥバ」
「あ、え、っと、はい」
騎士、だとか呼ばれてどもった。
足を止めた皇帝に掬い上げるように見つめられて、セゥバは落ち着かなくなる。その迫力のある綺麗さで面と向かわないでほしいと、こっそり心の中でぼやく。
たとえば、なだれ落ち床に着きそうな髪だとか。
たとえば、紅をひいていそうな唇だとか。
たとえば、長い睫毛の下からのぞく薄茶の目だとか。
眉目秀麗だとか、容姿端麗だとか絶貌艶姿だとか、そんな美辞麗句はセゥバには判らなかったので見たまま「きれいだなぁ」としか表現できないけれど、女のようでいて決して女ではない、しかし男らしいかと言うとそうでもない中性的な見た目をしていると思う。
「おいちょっと見るなよ」
「なぜ」
自分の容姿を承知して、脅しをかけてくるのだから始末に悪い。
「――皇宮は、今からどうやら午後の休憩時間だ。君さえ良ければご一緒にいかがかね」
すっと視線を外して、回廊から東屋を指した。どぎまぎしたままセゥバは頷く。
頷いて、見上げた男の口の端に笑みが浮かんでいることに気が付き畜生、と内心呟いた。
これは絶対遊ばれている。
腰を下ろした東屋は中庭の一角にあって、こうした建物が皇宮にはあちらこちらに配置されている。好き勝手に外出することのできない皇宮の主にとっては、息抜きできる場所として必要なのだとセゥバは父から聞いたことがある。
それにしても、生まれた時からここに住んで、死ぬまでほとんど外に出ることができないだとか、自分にはよく理解できない話だ。
それとも、生まれた時から「そう」であると普通になってしまって、息苦しいとか窮屈とか、そう言った感覚も鈍るものなのだろうか。
疑問に思うと黙っていることが出来なくて、そのままセゥバはエスタッド皇に尋ねた。
「――……どうだろうか」
聞かれたことが心外だったらしく、男は首を傾げている。
「外にでたくならないの」
「外の世界を知らないからね」
なるほど、やっぱり籠の鳥なのだなと思う。籠に飼われて大事にされているからこんなに綺麗なのか。
「――学校はどうか」
「ああ……うん。ちゃんと行ってるよ」
そんなことをぼんやりと考えていたら、不意に話を振られて慌てて頷く。おかげで手にした茶碗を落としそうになった。仮にも一国の主が使用するもので、廉価なものはありえないだろう。落としたら絶対あとで怒られるに違いない。ひやりと背筋に嫌な汗が出た。
「二年?」
「三年。あと二年で卒業」
通う士官学校の話である。父のような騎士になることがセゥバの夢だ。
「と言うことはお前はいま十か。――月日の流れは早いね」
こつこつと眉間を指で叩きながら、目まぐるしくてついていけないよとぼやかれて、そうかもしれないなとセゥバは思った。なにしろ目の前の男に対して年相応、だとかいう言葉を思いつけないので。
いつ見ても、男の周りの空気だけひたりと止まっているようだ。夏の暑さ真っ盛りの中でも、涼しい顔をして汗ひとつかいていない。どっと汗をかく体質の自分にしたら、どういう体構造になったら暑さを感じなくなるものかと思う。不思議を通り越して不気味である。
時にしてもそうだ。例えばセゥバの父などは、年に見合った容姿をしていると思う。
若い時分はずいぶんと親父くさいと言われたこともあったらしいが、年くった今は堂々と壮年そのものの域である。
そうして、その親父くさい父がセゥバは好きだった。
目の前の男は、その親父くさい父よりも確か二つ三つ上であるはずだ。だと言うのに、どう見ても二十代後半、見積もっても三十前半にしか見えない。父とはまったくの対極にある。
言ってみれば少し失礼な話かもしれないけれど、「生きている」感が薄いのだ。自分と比べて随分遠い岸辺にいる人だと思っている。と言うのももっともな話で、エスタッド皇帝の体は弱いのだとセゥバは母から教えられた。絶対に驚かせたり、ぶつかったりしてはいけないと何度も言い聞かされていた。並の人間ならば何事もなく終わることが、皇帝にとっては大事で、命に係わるのだと。
ヒビの入った硝子細工より丁寧に接しなさい。
真面目な顔で告げられて、頷くことしかできなかった。からかわれているのではないと判ったからだ。
「好きな娘の一人でもできたかね?」
「えー……あー……うん。いる、……けど」
皇帝から話しかけられてどきどきとした。その、硝子細工のような涼しい顔をしながら、父が酒に酔って絡んできたときと同じような話題を振らないでほしいと思う。壊れる。主に自分の夢が壊れる。
「――ほう」
「いる、けど、相手にされてない……」
がっくりと肩が落ちた。声も小さくなる。
同じクラスにいる、ひとつ年上の娘だった。体格にそう恵まれている訳でもないのに、クラスの中の誰よりも剣術の腕が立ち、体術ともなれば大人すらぶん投げて、まるで歯が立たない。
ならば学科の方で、と勢い込んで勉強しても、試験が終わった後廊下に張り出される上位十名の上の方に必ずその娘の名前があった。
「すげェ強くて頭が良くて、誰も勝てないんだ。今度こそ勝ってやるって思ってもすぐ転がされるし。しかもいっこしか違わないのに、俺のことガキだってバカにするし」
「ほう」
「ケンカ売っても鼻で笑いやがるし。口でも勝てないし。あのオトコオンナ、いいとこなんもねェ」
「けれど、好きなのだろう」
「そう、だけど」
そうだけどさ。
口さがない友人たちは、女だから教官が手加減をしているのだと、贔屓されているのだと陰口をたたく。あいつは女だから。
だがセゥバは、彼女が誰よりも努力していることを知っていた。
「まァ、面倒見がいいとか、いいとこもあるしな」
「――もし彼女がひとりで困っていることがあったら」
「え?」
それで、と話を促していたエスタッド皇が、考える目付きになって静かに呟く。
「もし、彼女がひとりで困っていることがあったら、君が一番に彼女を守ってやりなさい」
「まもって、って……どういう」
「君なりのやり方で良い。大切にしようとする意志が大事なのだろうよ」
「……大切……、」
繰り返してそれから目の前のこの皇帝はどうなのだろうと、ふと興味が湧いた。やさしげな見た目と同じように、手の中で珠を転がすように、大切に大切にするのだろうなと思った。
尋ねると皇帝が僅かに頬を動かした。苦笑のように見える。
「きっと私は――だいじにしてやれなかった」
「え、」
想像もつかない。そうして、皇帝の言葉通りなのだとしたら、その大事にされなかった相手とはうまく行かなかったのだろうかと思った。さすがにそれは聞けない。
セゥバが口ごもると少しだけ沈黙が流れて、その沈黙すら楽しんでいる風情の皇帝はともかく、自分のなんと尻座りの悪いことか。そろそろ行くねと声でもかけて、いっそここから退散してしまおうか。しかし忙しい時間を割いてわざわざ茶に誘ってくれた相手に対して、それは失礼な気もする。それとも失礼だとかなんだとか、そう言う余計な気配りは子供の自分はまだしなくても良いかどうか。
眉を八の字にして困っているところに、ちりちりと小鈴の跳ねる音がした。場の雰囲気を変えるのなら何でもよかった。救われたような気がして顔を音の方向へやったセゥバは、自分より先に目の前の男が音を探して頸を巡らせていることに気が付く。
「……こんなとこで何してんの」
あれ、という声とともに不審そうに鼻に小じわを寄せて、やってきたチャトラがエスタッド皇とセゥバを見比べる。
不審そうな顔は一瞬で、セゥバを見てたちまちニタニタと嬉しそうな顔になった。無表情なエスタッド皇に比べて感情そのままが顔に出るチャトラに、ずいぶんセゥバは親しみを覚える。単純にいうと「判りやすくて助かる」のだ。
皇宮の人間はだれもかれも取り澄まし繕っていて、本音が判らなくて困る。
「こないだより背ェ伸びたんじゃね?」
遠慮なくセゥバの隣に腰かけて覗き込む。警戒心と言うものが皆無だ。
ここまで近くで見ても、最初セゥバはチャトラが女であると言うことに気が付かなかった。気付いたのはついこないだの話で、それまでずっと自分は彼女のことを男だと思っていた。告げたらげらげらと笑われたけれど。
化粧っ気がまったくないと言うこともきっと原因の一つであろうけれど、彼女が着ている服もそれを助長している。間違えた自分も無理はないと言い訳するセゥバだ。
そもそも自分の知る皇宮の女性と言うものは、床にだらりと裾長く尾を引き両脇に女中を従えた後宮の媚(美とは言いたくない。彼の感覚的に)姫か、厨房や洗濯場で忙しく立ち働く女たちのどちらかで、その働く女たちにしても腕まくりや尻まくりをしていたとしても、とりあえずは一応の「女」であると判る恰好をしている。男の侍従と同じ格好をした女はチャトラだけだ。
立ち居振る舞いもぶっきら棒な下男のそれで、なかなかに男勝りだと言われている自分の母と比べてもまだチャトラの方が男らしく見えた。この場合、褒め言葉なのか判らないが。
だからといって特別に見えるかと言えば、男と比べて小柄であることを除けばまるで目立たない。これも褒め言葉になるのか自分には判らなかったが。
セゥバが気付いたのも、チャトラから自分は女であると告白されたからでも誰かが教えてくれたからでもなく、今日と同じように皇宮をブラついていた時分に庭の一角で昼寝をしていた彼女を見たからだ。
暑い日だった。
風通しと枝ぶりの良い木の上で、半分シャツをはだけたチャトラを見かけた。気やすい姿を見つけてうれしくなって自分は近付いた。声を掛けたらきっと、一緒に遊んでくれると思ったからだ。
近付くとぐっすりと眠っていることが窺い知れた。よくあんな枝の上で眠れるものだと感心し、それから邪魔をしないように屋内へ戻ろうとした自分の上から、不意にチャトラが降ってきた。
落ちたのだ。
咄嗟に受け身は取ったものの、ある程度は打ったのだと思う。涙目になっているところを見過ごす訳にもいかなくて、大丈夫かとセゥバは聞いた。
「いてェェェええ」
くそ、だとか悪態吐きながらも、チャトラは平気だと笑って答えた。汗をかいたのだろう。ぼりぼりと胸元から手を入れて掻いたその動きを何気なく目で追って、セゥバはぎょっとし、それから慌てて目を逸らした。
無造作にさらされた胸元には豊満と呼ぶには程遠いものの、決して男のものではない優しいまろみが見えた。
どうしてそんな恰好をしているのかと尋ねたセゥバに、動きやすいから、とチャトラは答えた。単純明快な答えだった。
確かに女がするような恰好では、窓から木に飛び移ったり、屋根によじ登ったり、大股で飛び跳ねて池に飛び込んだりするには動きにくくて仕方がないだろう。
しかし指折り数えると、彼女ももう二十歳を超えている訳で。
世間でいう「年頃」に達しているどころか少々トウが立つと言われ始める年齢な訳で。
このままで嫁の貰い手はあるのだろうかと、他人事ながらセゥバは心配になる。
「ガキの成長は早いなあ」
そう言って嬉しそうに頭を撫ぜてくる。同じようなことを先程皇帝にもされたなと思い、同じようにガキ扱いするなと不満を述べた。
「オッサンと一緒にきたのか?」
「うん。いま、仕事の話してる」
「そっか。……あ、そうだ」
オレ、用事があってここにきたんだった。
そう言って茶請けに出された焼き菓子を頬張りながら、手にした羊皮紙を数枚、チャトラは対面に座って肘を突く皇帝に差し出した。
「アウグスタのオッサンから。会議に出る前にサインしてほしいって。急ぎのものだって押し付けられた」
差し出された皇帝がまじろぐ。
「お前が持ってくるとは珍しいね」
「オレが持ってったら、アンタはきっと逃げないでサインしてくれるだろうからって、イヤミな顔でオッサンの隣にいたヒゲが言ってたぜ」
「――では、期待に応えねばなるまい」
やり取りを眺めつつ、そう言えば皇宮の中でエスタッド皇にたいして普段通りの態度をとる人間は数えるくらいしかいないなと、セゥバは思った。たいがいの人間は恭しく頭を垂れて、美辞麗句を口にした。親族と言う甘えもあって、皇帝が咎めないのをいいことにセゥバも大した礼儀を取っていないが、士官学校で習っていることが正しいのならば、それは文字通り首をはねられてもおかしくない不敬だ。
一緒に差し出したペンを手に取り、皇帝が書類へ目を落とす。その様子を見ていたチャトラが、一瞬眉を顰めて皇帝、と小さく呼んだ。
「――うん?」
「ちょっとこっち見ろ」
何かな、言われるままに顔を上げた皇帝の顔についと指を伸ばして、チャトラが男の瞼をなぞった。なぞっている彼女と、大人しく薄く目を閉じてその手の平に顔を寄せる皇帝を見比べて、セゥバは不思議な気持ちになる。
彼女にだけはひどく心を許しているのだろうかと思った。そうでなければ急所である器官を簡単に差し出すはずがない。
「ほとんど見えてないだろ」
「――判るかな」
「あんまりバレねェとは思うけど……いつから?」
「さぁ」
「さぁ、って。きちんと答えろよ」
「――小さな騎士殿と会った時はまだ見えていたように思うが」
瞼の上を何度も前後させ、それからチャトラはそっと掌を当てて男の視界を覆った。
そういえば皇帝は男で、チャトラは女だ。そう言う関係なのかな、と少しだけセゥバは勘ぐる。しかし、二人の間に流れるものに甘ったるい感傷はまるで感じられなくて、そうすると二人はただの主従で、自分の勘違いだと言うことになる。
実際のところは本人たちにしか判らない。聞いてみたい気もするけれど、それはきっと無粋だ。
「ムリすんなよ」
「しておらぬよ」
応えた皇帝がおや、と耳をそばだて、チャトラも遅れて振り向いた。
「陛下」
控えた補佐と、護衛のものが頭を垂れている。時間ですと告げられて頷き、皇帝は素早く書類を繰った。
「かいぎ?」
「――そう。難儀なことだね」
指し示された部分に急いでサインをしながら男は応え、ばさばさと崩れたままにチャトラへ羊皮紙の束を返す。見えにくい目でサインできるなんて、どれだけ器用なんだと内心セゥバは舌を巻いた。
「いつ終わるんだよ」
「どうだろうね。夕刻過ぎには終わるのではないか」
「いっしょにメシ食おう」
「――」
「皇帝」
溜息と共に立ち上がったエスタッド皇を、介添えするように護衛のディクスが近寄った。彼の腕にすがるようにして皇帝は立ち上る。一瞬揺らめき、こらえた。
それから、ゆっくりして行きなさいとセゥバに向かって告げ、チャトラへは返事をしないままに行きかける。その背に被せて彼女が呼んだ。
肩越しに振り向いて何かと問う男へ、真っ直ぐに視線を向けて待ってる、とチャトラが言った。
「アンタがくるまで食わないで待ってる」
「――遅くなるよ」
「別にいい」
きっぱりと言い切った彼女へ肩をすくめ、しょうがないねと皇帝が少し笑った。傍から眺めていたセゥバは目を剥く。自分が見たこともないようなやさしい笑いに見えたので。
「ではなるべく早めに戻るとしよう」
言い切って今度こそ数人を従え、エスタッド皇は東屋から去って行った。なんとなく黙って見送ってすごいな、とセゥバは口笛を吹く。
「なにが?」
ぼりぼりと焼き菓子を噛みながら、不思議そうな顔でチャトラが見た。
「あの皇帝に向かって、押し切れるチャトラがすごい」
「オレ、押し切ってるかな」
「十分押し切ってるよ」
これでは三補佐その他にさぞや重宝されるだろうなと思った。
「ああでも言わないとあのひと、平気で一食二食抜くからな」
「腹減らないの」
「ニブいんだよ基本的に」
そんで倒れてるんだから始末におえねェよ、だとかぼやいている。
「意外だなぁ」
「なにが?」
「チャトラと皇帝って結構トシ離れてたよね」
「あー……どのくらいだったかな……ふた回り?つか、ひとまわりって十歳?十二?オレが今二十三で……えーとあのひといくつだったかな」
両手の指を不器用に折って数える彼女を見て、やはり不思議な感じがした。
親と子ほど離れていてもおかしくない年齢である。
「チャトラの方が子供で、大人な皇帝が、アンタの面倒見てるんだと思ってた」
「逆。逆。面倒見てんのはオレの方」
あのひとひとりじゃ何にもできないから。
彼女は皇帝付きの世話役と聞いた。手先が器用で気が利く彼女に、ぴったりの役柄だと聞いた時にセゥバは思ったものだ。
そう言えば、生活居住区と執務区のにおいがちがう、自分が言ったことに同意してくれた唯一の人間もチャトラだったことを思い出す。
「なぁ、言いにくかったら答えなくていいけど」
「うん?」
「チャトラってなんでここに来たの」
「あー……オレ掏摸だったんだよ」
「スリ」
指を鉤状に曲げてにやと笑った彼女に驚いてセゥバは目を見張った。掏摸と皇帝が出会う状況と言うものが全く思い描けない。
「あのひとの懐を狙ったらバレて、なんでか皇宮に連れてこられたらしくて」
「うわ、すごい出会いだなぁ」
「気まぐれだったんだと思うぜ」
しみじみと頷いて色々苦労した、と彼女は言った。確かに一介の町の人間がまるで見たこともない世界へ足を踏み入れたのだ。皇宮勤めの父ですら、あそこは窮屈だと愚痴をこぼすことがよくある。彼女の苦労も人一倍だったろう。
「じゃ結構長い付き合い?」
「どうなんだろうな。オレ、そこんところ、とびとびにしか覚えてないから……、セゥバが生まれた時にゃもうここにいたから長いっちゃ……長いのか?まぁ、補佐官とかディクスさんとかの方が倍以上あのひとと付き合ってると思うけどな」
「好きな人とかいた?」
「は?」
聞かれた意味が判らなかったのだろう、ぱちぱちと瞬きを繰り返してチャトラがセゥバを見返した。
「オレの好きな人の話?」
「ああ、いや、それでもいいけどそうじゃなくてあっち、皇帝の」
「皇帝の」
「後宮にきれいな女の人はいっぱいいるし、北方のトルエ国の公女とかも、婚約者だったんだろ?あの見た目してたら放っておかれないだろうと思って、」
「確かに放っておかれちゃないよな」
うんうんと苦労を知るように頷いて、それからなんで、と至極もっともな疑問を彼女は口にした。
「え?」
「好きな人とかなんでいきなりそう言う話になった訳?」
「ああ……さっき、チャトラが来る前に皇帝と話ししてて」
「うん」
「学校で好きな子でもいるのかって聞かれたから、いるって言ったんだ」
「うん」
「そしたら、守ってやれ、やさしくしてやれって言われて」
「あのひと、そんなこと言ったの」
意外だなと今度はチャトラが目を剥いた。
「自分は大事にできなかったからって」
「へェ」
「だから、その大事にできなかった人とはうまく行かなかったのかなとか……でもそんなこと聞けないし」
「どうなんだろうなぁ」
知っていそうな口ぶりで首を捻るものだから、知っているのとセゥバは彼女に詰め寄った。
「なんでおまえ、そんなこと知りたいワケ」
「だって、皇帝が、好きな相手に手紙出すとか、想像できない」
「そりゃそうだ」
素直に答えると、納得した風のチャトラがけらけらと笑う。
「あの澄ましたキレイな顔で『そなたのことを思うと夜も寝られぬ』、とか言ってたら、冗談かと思うな」
「思う」
つられてセゥバも笑った。まったく想像ができない。
しばらく一緒になって笑って、それから笑いすぎて目尻にたまった涙を拭き、冷めた紅茶を飲み干したチャトラがでも、とそこだけ小さな声で呟いた。うっかりすると聞きもらしてしまいそうなほど小さな呟き。
莫迦だなと言ったように聞こえた。
莫迦だな。もう、充分……、……。
え、と聞き返したけれど、いつになく彼女が大人びた顔をしていたので、そのまま口を噤む。知っているけれど踏み込めない、そんな場所があるのかもしれない。
だからセゥバはそれ以上聞かなかった。代わりに、先程聞き逃せなかった彼女の言葉を拾い上げることにする。
「なぁ、チャトラ」
「ん?」
「で、チャトラには好きな人いんの?」
「いるよー」
いないよバカ、とかそんなこと知るかとか、はぐらかされるかもしれないと思っていたので、割と素直に帰ってきた返事に逆に驚いて二度見する。
「なんだよ。悪いかよ」
「あー……意外」
「意外ってなんだよ意外って」
「いやあ、皇帝と違う意味で、『アナタのことを思うと夜も寝られない』って、アンタが言いそうに思えなくって」
「うわ、ひでェ」
グリグリとセゥバの頭を小突き、怒ったふりをしながら、けれど彼女の目が笑っていた。
「まぁ、オレは夜は寝るけどね!」
「寝るのかよ」
「食う・寝るはオレの最優先事項だな」
胸を張ったチャトラを見て、らしいとセゥバは思った。そうしてきっと彼女は好きになった相手を大切にできるだろうなとも。
東屋で座っているのにも飽きると、セゥバはチャトラと毬を蹴って遊んだ。最近学校で流行っている遊びである。数人でチームを組み、相手の陣地へ毬を蹴り入れる。面白いと言うよりは、難しいルールも道具も必要ないのが流行っている一番の理由だろうとは思うが。
足の速さには自信があったし、そうでなくてもそのゲームを経験済みなのだから、自分に有利かと思えば、割とすばしこいチャトラには本気でかからないと何度も毬を取られ、足元を掬われた。その内真剣になり、気が付くととっぷり日が暮れていて、回廊から父が見ていた。
「呼んでるぜ」
顎で示されて息を切らし汗をぬぐう。
「帰る?」
「うん、帰る」
頷いてありがとう、と礼を述べるとこちらこそと返された。
「お前と遊ぶの好きなんだよな」
そう言う。
「ここじゃ、なかなか遊び相手がいなくてヒマなんだ。また来いよ」
「うん」
頷くと、伸ばされた腕でぐしゃぐしゃと頭を撫ぜられる。
「親父に似てきたなー」
「似てきた?」
「似てきた似てきた」
それは素直に嬉しかった。ニヤつくと、同じような顔でチャトラもセゥバを覗き込んでいた。
「そろそろ背も抜かれるな」
小柄なチャトラの背丈程度は早めに抜いておきたいのがセゥバの本心だ。言ったら彼女は怒るだろうか。
「またな」
「うん。チャトラ、ありがとう」
背後から手を振られて、セゥバは父の許へ駆け寄る。片眉を上げて面白そうにそのやり取りを見ていたダインが、帰るぞ、と言った。
「父さん」
「ん?」
「腹減った」
「俺も減った」
今日の飯は何だろうなと仲良く並んで歩き出しながら、父子は歩く。もう一度セゥバは振り返り、あれ、と目を擦る。
夕闇に沈んだ東屋から、こちらへ向かって手を振る小柄な体の側にもう一人、長身の姿が添っているのが見えたからだ。
猫背気味のその影を、セゥバは知っている。
長身がすこし屈んで二言、三言囁き、背後から小柄な体を抱きしめたようにも見えた。うわ、と心の中で呟く。見てはいけないものを見てしまったような気がする。
どきどきしながらセゥバは黙って振り向きなおり、そのまま今自分が見たことはなかったことにして、前を向いて歩き始めた。
(20120102)
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最終更新:2012年01月02日 13:32