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<<Larvandad>>


 こらえようとして一瞬口の中でためるようにひと呼吸おいたものの、結局こらえきれずへくち、とつぶれた音のくしゃみが出た。
 コロカントである。
 一週間ぶりの風呂の最中だ。
「申し訳ありません」
 寒いですかと聞きかけて、寒いだろうことは十分承知しているラルヴァンダードが、困った顔で彼女の頭へ粉石鹼をふりかけた。大丈夫ですと掌をまぶたにあてがいながら少女は返す。日頃よりも多くの薪をくべて、部屋をがんがんと贅沢にあたためていることは知っていたからだ。
 夏季はともかく冬季の風呂は寒い。
 とんでもなく寒い。
 風呂と呼んでさしつかえがないものかどうかも判らない。
 おおがかりな浴場のある施設はその限りではないかもしれないが、たとえば彼女が生まれたシビラ程度の小さな国だと、領主ですら室内にたらいを置き、沸かした湯をため、その中に浸かるという、彼女が今現在行っている湯浴みをしていたはずだ。
 きちんとした『浴室』の概念が現れ始めるのはもうすこし後世の話で、それも一部の特権階級の人間にかぎられた。
 ほとんどの人間は、部屋の温度をあたためておくことがせいぜいで、鳥肌をたたせ、震えながら体を洗った。
 公衆浴場と言う考えが生まれてくるのもさらに時代を下っての話で、当時はまだ『人間が集まって暮らす村や町』と言う意味と、『要塞』は同意義だった。だから、生活の利便性よりも部落に必要だったものは、門が頑丈であること。壁が厚いこと。堀が行き届いていること。
 そうしたところが重視された。
 衣食住でいうところのどれにも、視線がいきとどかなかった頃の話だ。
 実際、部屋をあたためておくことすら贅沢なのだった。
 余分な薪を使う余裕のないものは、冬の間でも水場へゆき凍りかけた水で体をながす。
 毎日はかたく絞った手拭いで体を拭う。こうしてたらいに湯を張るのは、せいぜい週に一、二度のことだった。
 あまりの寒さに汗をかかない。冬季はこれで十分なのだ。
「夏でしたら、川へゆけますのに」
 ぽつと愚痴に似たひとりごとがこぼれた。
 夏場にもなれば、毎日近くをながれる川へ手拭いを持参して水を浴びる。ついでに馬も連れてゆき、水を飲ませてやった。馬が水を飲むさまは豪快である。ながながと飲み続ける馬を彼女は思い出した。
 その川も今は厚い氷が張り、雪に覆われている。
 まれに顔をのぞかせる太陽の機嫌のよい日をのぞいて、雪のちらつくおおかたの日は家の中にこもりきりであった。おとなしく糸紡ぎや編み物や繕いものをして春をじっと待つしかない。退屈ではなかったけれど、やはりどこか気鬱になる。
 それでも、どんなに寒くとも、外は嵐が吹き荒れていても、こうして頭から足の先までさっぱりと洗い上げられることはやはり気持ちがよいものだった。
 泡を洗いながしおえると、かたかたとふるえる彼女の体を、男が急いで暖炉の炎であたためたリンネルで包む、それから頭のてっぺんからやや強い力で拭きはじめた。
 こうして拭かれているとき、なんとなく彼女は自分が馬になっているような心もちになる。おかしくなった。
「さっぱりしました」
「それはよかった」
 彼女が笑うと、男も同じようにほほえんだ。それだけのことでコロカントはなんとなく嬉しくなってしまう。
「前髪も伸びてきましたね」
 言われて上目で前髪を見る。
 たっぷりとした髪を、普段は無造作にふたつに分けて結っている。短い方が彼女にとって都合よいのだけれど、『式典』で長い髪が必要だとかなんとかで、そのあたりの詳しい事情は分からない。
 前髪は目に入るすこし前に男が小鋏でざくざくと揃えて切った。
 修繕であるとか、編み物縫い物、手作りの罠にいたるまでほとんどのことを器用にこなす男だったが、どうしてか彼女の前髪を切り揃えるときだけは妙に不器用で、いつもまっすぐに切り揃わないのだ。
 おかげで右がやけに上がっていたり、波打っていたり、切りすぎたりする。
「レヴ、あとで床屋さんしてくださいませんか」
「自分ですか」
「はい」
 しかし、と己の腕前を判っているラルヴァンダードが、しぶった。がしがしと髪を拭かれている最中だったから彼の顔は見えないのだけれど、顔をしかめているのだろうなと思わせる声だ。
「今度ホゥルが来た時に、切ってもらうというのはどうです」
「ホゥルですか」
「彼の方が器用ですよ」
「そうですね――」
 言われてコロカントは考え込む。そうして、
「床屋さんをたのむとレヴは迷惑しますか」
 聞いてみた。
「そんなことはありません!」
 慌ててラルヴァンダードが否定した。声を張り上げる。
「自分は、姫の頼みを迷惑なんて思ったこともありません」
「では、床屋さんをしてください」
「自分でいいのですか」
「レヴがいいんです」
 言うとわかりましたと男は言った。
 あとで切り揃えましょう。
 言いながら、どうにかまっすぐに切れる方法はないものかと男が思案しているのがコロカントには判ってしまった。おかしくなって声をたてて笑う。
 それから、たらいと、横の組み桶にまだ湯が残るのを見た。
「お湯がありますね」
「そうですね」
「レヴの背中もながしちゃいましょう」
 せっかく湯気の立てているものを、冷ましてしまうのはもったいないと思う。
「いや、自分は、」
 流す気満々で、腕まくりをするコロカントを見た男が困ったような顔をした。姫にそんなことはさせられませんと言う。
「どうしてです」
「自分は水で十分ですので」
「水は冷たいです。お湯、残ってます」
 いつものように、男は水で体をぬぐうつもりだったのだろうと思う。しかしいくら部屋をあたためていても、雪を溶かした水は、身震いするほど温度が低いことに変わりはない。
「冷めたらもったいないですよ」
「しかし、」
「今日はとくべつ寒いです。水浴びをしては風邪をひきます」
「そこまでヤワじゃあないですよ」
「でも昨日咳き込んでいましたもの」
 言い返すとむ、と男が唸った。
 それほど長引いたものではない。けれど男の声が、二、三日少しかすれていたことをコロカントは知っている。
 軽く風邪でも引いたのだろうと思う。
「なおりかけが、かんよう」
「しかし」
「レヴがおしえてくれた言葉です」
「しかし」
 なおも彼がしぶり続ける。
 こういうところが律儀と言うか、仰々しいというか、つまり「固い」のだろうなと彼女は思う。彼女の父親にラルヴァンダードは仕えていたのだそうだ。しかし、仕えたのは父親であって、彼女に、ではない。そうしてこんな森の奥で、一体彼女がどんな生まれだろうと誰が気にするというのだ。
 まったく、固い。
 強硬手段とコロカントは手拭いを手に取り、粉石鹼をふりかけて泡立てはじめた。
「レヴ」
 呼ぶと、ようやく観念したのだろう、服を脱ぎ下履き一枚になった男がたらいに屈み背をむけた。彼女のあきれた視線に気が付いたのかもしれない。
 中肉中背といったラルヴァンダードは、けれどコロカントにしてみれば十分大きな体に思えて、
「レヴの背中はおおきいですねェ」
 感心しながら力をこめごしごしと擦りたてる。
 剣や鍬をふるう彼の両肩から肩甲骨にかけては筋肉がついていて、がっしりと力強い。たとえば稽古を毎日続けたら、彼のような筋肉がつくだろうか。ついたらもうすこし、仕事を手伝うことができるだろうか。
「ハナの背中みたいです」
「……自分はハナと一緒ですか」
 こするだけで息が上がった。
 馬の背をブラシでこすることを日課にしている彼女は、この幅広のあたたかな背中はなにかに似ているなとまず思い、それからああそうだ、馬に似ているのだと思い当たる。
 聞いた男が苦笑した。
「ふたりとも、大きくてがっしりしてます」
「そうですね」
「……傷もたくさんあります」
 こすりあげた目の前に、右から左に流れた茶色の傷痕がある。もっと細かなものはそれこそ無数にあった。大きな傷はぶつぶつと中途で途切れ、ところどころ盛り上がり、ところどころえぐれている。
「ぎざぎざです」
 大きな傷を指でなぞるとああ、と男が頭を掻いた。
「適当に縫ったら、みっともない痕になりました」
「……縫う?」
 縫う、という意味が理解できなくてコロカントはぽかんとした。
 布は縫うものだと知っている。
 袋を作ったり、ほつれを繕ったり、ときには男がわらぐるみを作ってくれたりする。
 けれど、傷口を縫うというのは、
「背中を……縫う、んですか」
「大きなものは縫って処置することもあるのですよ」
「それは」
 痛くはないのだろうか。一瞬納得しかけてから、そんなはずはない、彼女は思いなおした。
 繕いものをしようとして指先を刺しただけで飛びあがるほど痛いのだ。ぷうとふくれる赤い血玉を舐め、指先をそのままくわえてしまうほど、針は刺さると痛いのだ。
「どうして、そんな」
「戦場に何度も出ましたから」
「……戦場」
 戦場。何度も聞いたことのある言葉だ。
 騎士は主を守り、戦場に出ることが仕事なのだと。
「たくさんの人間同士がたたかう場所のこと……ですね」
「そうです」
「ホゥルも、ガシュもたたかうのですか」
 ホゥル、ガシュというのはふた月に一度森の奥の彼らのもとへやってくる、ここ以外の場所に住む「外」からの訪問者だ。
 ラルヴァンダードの知人なのだという。
「ホゥルは楽士ですから、戦場へはまいりますが直接には戦いません。ガシュは自分と肩を並べてよく遣り合いました」
「楽士、というのは」
「笛を吹いたり、太鼓をたたいたりする役割のものです」
「ガシュは騎士なのですね」
「ガシュは騎士です」
「……そうですか」
 言われてすこし考え込んだ。
 では、忘れたころにひょいとおとずれる彼らの背中にも、同じように傷があるのだろうか。
 それはやはり肉がめくれあがり、ぎざぎざとしているのだろうか。
 いたましく思う。
「わたしもそのうち戦場へゆけるでしょうか」
 役に立てるならばどんなことでも役には立ちたい。立ちたいけれど、できれば痛い思いはしたくない。絶対にいやだ。
 おもいながらおそるおそる彼女がたずねると、慌てたように男が首をふった。
「とんでもない。姫が戦場へゆかれる必要はありません」
「役に立ちませんか」
「とんでもないです」
 同じ言葉を違った意味でラルヴァンダードが呟いて、それから、
「その。なんと言いますか、戦場は姫に見ていただきたくはない部分もあるのです」
 言った。
「見てはいけない、」
「いけないということはないのです、ただ……、戦うと言うことは、人間と人間が殺し合う……いのちを奪い合うということです。それは、人が生きてゆくために動物の命を奪って食う行為とは、似ているようでまったくの別のものです。実にむごい。できれば自分は、そんな光景を姫に見ていただきたくはないです」
 むごい、という言葉が、そのままラルヴァンダードの背中に思えてコロカントはうつむく。もう一度、男の背中に散らばるいくつもの傷痕を見た。
 背中だけではない。
 後ろから眺めるだけでも、首筋にも肩にも腕にも、今は塞がり褐色に変色してしまっているような傷痕ではあったけれど、ひとつひとつにむごさがひそむ。
 男は血を流したのだ。
 こんなに、たくさん。
 胸が塞がる思いがした。
「痛かったでしょう」
 守るということは、己の身を呈して別のものを庇うということだ。
 彼のからだを見ることは今日がはじめてではない。今まで何度も傷痕を目にしていたとは思う。けれど、どうして彼のからだはこんなに傷だらけなのだろうと、不思議に思っただけだ。
 今はすこし違う。
 忘れてしまいましたと男は低く笑って応えた。
「その時は必死だったのでしょうが」
 その笑いには凄惨さも血腥さもない。おだやかに笑う男が、一方でこんなにも体中に傷をもっている。
 同じ人間なのだろうか。不可解だと思った。
「……痒いところはないですか」
 なんと返してよいものか判らなくなったので、強引にコロカントは話を元へ戻す。
「大人になったら、背中あらい屋さんになりたいです」
「姫が、背中を」
「はい。ただこするだけじゃ駄目なんですよ。こうして、」
 体のやわらかい人間でも自身で後ろを洗うとなると、なかなかどうして力の籠もらない場所と言うものはあるのだ、背骨の上のあたり、肩甲骨のあいだを下から上へ手拭いを押し上げて少女は言った。
「ハナで練習しているんです」
 話題が変わることをどこか喜んだ節があって、男もそれ以上傷跡のことに触れようとはしない。なるほどと明るい声で応えてくれる。
 公衆浴場があらわれるのはもうすこし後世だと先に述べた。であるから、このときコロカントが口にした職業にあたる呼称はない。のちの「三助」の発想のはしりを、このとき彼女は抱いていたということだろう。
「しかし、姫はいずれ首座に戻られる身です」
「あ」
 統治の仕事はどうなさいますかと聞かれて、考えていませんでしたとコロカントは本心を言った。
「というより、忘れていました」
「困りましたね……、」
「……」
 ふたり同時に黙り、
「では」
 男の背中を湯桶で流しながら、コロカントは提案する。
「一日をふたつに分けて、半分で『とうち』を、半分で背中洗いをします」
 聞いた男がくつくつと笑った。
 微笑ましくあったのだろう。おさない彼女に正確な時間の概念はまだない。
「そのときは、レヴの背中も流しますからね」
 はりきって胸をたたくと、男が笑いを治め、かんがえる素振りを見せた。想像したのだろう。
 おそれ多いですよとボヤいた意味を、コロカントはまだ理解できない。



(20120814:Re)
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最終更新:2012年08月14日 22:05