<<花守り>>
用事をすませて部屋へ戻る途中の回廊から、何気なく奥庭を眺めたチャトラは降りしきる白いつぶての中、凝と立ち尽くす男の姿を見止めておやと思い傍らへ近寄った。
「ジィさん」
七十の域をとうに超えた庭師が肩まで真っ白に雪で染めながら、立ち尽くしている背中へ彼女は声をかけた。
坊か、と頷いた男は彼女が近付いてくる音を聞きとっていたのだろう。しかし振り向くこともなく目前の花壇の一点を見つめている。
「風邪ひいちまうぜ」
「うむ」
「なにしてんの」
気難しいと下働きのものどもの間で評判の庭師だった。
最初こそ彼女が男の仕事に首を突っ込むことへよい顔を見せなかったが、チャトラの好奇心と言うものが、男自身へのおかしな親切心や態のよい手伝ってやったという偽善ではなくただ純粋なものであるということに気がついたあたりから、煙たがることをやめたようだ。
寡黙な男で、ほとんど、大事な言葉ですら口にすることは稀であったけれど、その空気がチャトラは好きだ。側にいて庭師の手つきを眺めていたり、男一人ではまかなえない仕事を手伝ったりすることも好きだった。
特に男から話しかけることもない。静かな空気を壊すことを嫌ってチャトラもほとんど口を開かない。黙々と二人並んで花網を繕うすがたはまるで祖父と孫のようだと、傍から眺めたものどもに言われた。
それもまた面映ゆいものだった。
家族と言うものをチャトラは持たない。側にいた人間は常に血のつながりのない他人で、そのぬくもりさえ早い時期に失った。
そうしてもうずっと長い間、皇帝が彼女を拾い上げるまで彼女はひとりで生きてきたし、ひとりで生きてゆく以外の術を忘れていた。
ひとりが気楽でいいと嘯いた。
餓えかつえた内心から目を逸らし日々を生きてゆくことに懸命になった、だから自身がこれほど他人との触れ合いを渇望していたのだとチャトラはひとと触れ合う生活に戻って初めて気づかされたのだ。
擬似でもいい。実際血のつながりは大した問題ではないのだと。
側にいて、毎日を共に暮らしてゆける存在であるならそれは、祖父のようなものであろうと、母のようなものであろうと、兄のようなものであろうと、
「……薔薇?」
老庭師の視線をたどってチャトラは呟く。
彼が雪に降られながら眺めていたのは、もうすっかり葉を落とし立ち枯れて、たったひと蕾最後に残して果てた薔薇の木だ。
うんと頷きながら男が節くれた指で蕾の表面に張り付いた氷を拭い取ってやる。葡萄酒の赤と暁光の橙を足して二で割ったような蕾は、ほんの少しだけほころび、そのまま花弁の先が茶に変色していた。
霜にやられたァなァと男は言う。
「うん」
頷いて返しながらまた黙ってしまった男の肩越し、チャトラは同じように咲ききることなくうなだれた蕾を眺める。
本来ならばはっとするほど目を引く配色であるはずなのに、あたりも枝も白と黒に覆われてその赤はどうにも薄汚く見えてしまうのだ。すこし枯れているからかもしれない、チャトラは思う。
「本腰入れて降られる前に、なんとか咲いてくれやせんかとも思っちょったが」
「うん」
「雪の方が早かったなァ」
「うん」
皇居の内部へ設える花は冬ですら絶えることはない。チャトラに言わせれば、屋敷と言って申し分ない大きさの温室をここは備えている。庭に植えられた花実の木は、だから皇宮を飾る目的というよりは庭を彩る目的のものだ。
寒さがよりひどくなる前に庭のほとんどの樹木には庭師の手で雪囲いがなされていた。彼女もその作業を手伝ったから知っている。
男はあえて蕾をつけた薔薇の木に雪囲いを施さなかった。
「筵で囲っちゃァ花が見えねェ」
言ってひとつだけ残した枝は、降り積もった雪に重くしな垂れている。
本当はな、と凍りついた蕾を眺めながら男は言った。
「うん」
「本当はあのときこいつも囲っちまおうと思っちょった」
「うん」
残したのは自分のわがままだったと、とつとつと言葉少なに庭師は言った。
囲って保護してしまうことはいくらでもできて、枝へのダメージを考えるならば蕾も落としてしまった方がいい。どうせ寒さが訪れてからこんな奥庭まで花を愛でにくるような人間は誰もないのだ。そもそもこの奥庭の存在を皇宮に住む人間のどれほどが知っているだろう。従事する人間は多くいたけれど、彼らは皇宮で働くことを目的としており、花を愛でるのはその上の彼らを雇っている側、つまりは皇帝であったり後宮の寵姫であったりする。時に皇帝は庭を散策したりもするけれど、それはほとんど決まった場所で、こうしてすこし煤けたような場所へ足を踏み入れることはない。嫌っている、というよりは純粋に存在を知らないのだろうと。だから、仮に咲いたとしても咲いた花を愛でる人間は誰もいないことを自分は知っていた、だのに残してしまったと。
「なんで、残した」
「……なんでだろうなァ」
聞かれてしばらく考えを巡らせていた庭師は、やがて摂理と言うものだと思ったのかもしれないなとぼつんと言った。
「摂理」
「蕾をつけたのも自然の意思。蕾を開かせようとするのも意思。先に雪が降ることも寒さでしおれてしまうこともひっくるめて」
それをみたかったのかもしれないと。
見たかった、見たいと思って残してみた、けれどこうして雪をまとわりつかせて凍るさまを見ているとどうにも胸が痛むのだと。
「ここにゃ他に訪れる人間もいねェ。じゃあ儂が看取ってやるほかないかと思ってな」
「……でも枯れるまでこうしてたらジィさん風邪ひいてぶっ倒れちまうぞ」
「それも困るな」
「……」
薄汚れた花をじっと眺め、なァとチャトラは口を開く。
「それ、貰っちゃダメかな」
「これを」
「オレ、それ部屋の机の上に飾っておくよ」
そうしたら皇帝の目にもとまるだろうと言うと、庭師が初めてチャトラへ視線を移した。すこし驚いたような顔をしている。彼女が皇帝の部屋へ寝起きしていることを知っている男は、なるほどそれは考えが及ばなかったと言って蕾へもう一度指を伸ばす。いとおしむように何度か指の腹で花弁を撫で、そうしてばつとあっけなく枝を切り落としチャトラへ差し出した。
「坊が看取ってくれるなら安心だ」
「うん」
ありがとうと呟くと、礼を言うのはこちらの方だと庭師が言った。
「おかげで家へ戻れるわ」
「そっか」
不恰好に大きな蕾の薔薇は、枝ぶりが元気なときであるなら知らず、しかし今こうして枯れかけているときに不用意に持ち上げただけでぼろりと頭を落としてしまいそうなほど不安定だった。両手のひらで大事に抱えてありがとうとチャトラはまた言った。
「ジィさんの宝物だろ」
言うと珍しく気難しい顔を崩して老人はくしゃくしゃと笑った。
エスタッド皇が部屋へ戻るとむずかしい顔をした猫が、床の上へ膝を着き大きな雑記帳がわりの羊皮紙の束を広げて一心に書き綴っていた。普段ならすぐに腹が減った、飯を食いに行こうと言う彼女が、おかえりと顔も上げずにペンを握っている。一体何を真剣に記しているのかと皇帝は興味をふと覚え近付いた。
「――花?」
「うん」
しおれくたびれた花が一輪水を張った皿の上へ横たえられ、床に置かれている。彼女はそれを眺めながら羊皮紙に書き写していたのだ。
「複雑な色をしているね?」
「……うん。咲いたら、きれいだったろうな」
男は花の名を知らない。だからその花が咲ききった形も、色も詳しくは判らない。ただ見るからに花弁は茶に変色し、今日一日の命に見えた。
「オレだけでも覚えておこうと思って」
「覚える――、」
覚えるためにお前は書き記すのかねと男が尋ねると、また忘れるかもしれないからと猫が応えた。
「――」
一瞬口を噤んだ男へ彼女は目をやり、失言に気付いてしまったという顔になる。
彼女の中から一度男は消えた。
「……忘れない。……もう忘れねェって」
言ってペンを置き、身を屈めていた皇帝へチャトラが手を伸ばす。
「――」
「ああもうそんな顔されるとどうしていいか判らなくなるから」
腹立たしい声をだし不意に彼女は抱きつく。抱きつかれながら腹立たしいのはこちらの方だと皇帝は苦笑した。どんな顔をしているというのだろう、まったく好き勝手にやってくれるものじゃあないかと。
「……けど、そうでなくたってオレ頭そんなにかしこくないし、物覚え悪いから、こうして一日あったことを書いておけば忘れないだろ」
「日記ということかな」
鼻先に揺れるくしゃくしゃの頭を撫ぜ、気にしていないと男が言外に示すと彼女はようやく肩の力を抜いた。
「……日記ってほど大したもんじゃねェけどな」
庭師のジィさんからもらったんだよと花をさし示して言うので、そうかと皇帝は頷いた。何度か、庭師の老人の話を彼女から聞いている。寡黙で頑固な男なのだそうだ。その男が彼女へ花を託したということになにか意味はあるのかもしれない。聞き出す気はなかったけれど。
「この紙は今日一日あったこと――?」
暇を見つけては書き足すらしく、雑多な文字はおおきさも形も不揃いで縦書きにあるいは横書きに、花の絵をつけ加えどこか暗号譜のようだと皇帝は思った。うんそう、と頷くチャトラが字が汚いとかそう言うことは受け付けないからなと先に制してくる。
「汚い、」
「読めないとか。暗号だとか。アンタよく言うだろ」
「――『オレが読めればいいんだよ』」
「アンタが言うな」
むっと尖らせかけた猫の唇へ男は顔を近づけ、唐突に啄ばむように己の唇を重ねた。
「な」
何するんだよと言いかける口を封じ、彼女の指からペンをとって日記の空白へさらさらと皇帝は書き込んだ。
一度。
「……はァ?」
男の視線を追いかけ紙へ目をやったチャトラが呆気にとられ、意図を読み取った次の瞬間どうしようもなく呆れた顔になる。
「忘れられると困る」
笑いを含みながら男が飄然と答える。書き残しておけば忘れないのだろう、だったらもう二度と忘れてくれるなとどこかで願うように彼は何度か彼女へ口付けその度に三度、四度、と数字を書き遺す。
口付けるたびにむずかる声を出していたチャトラは、けれどやがて諦めたように男の背名へ腕を伸ばし、もう書かなくていいと囁いて彼女自ら男の頭を引きよせた。
(20120125)
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最終更新:2012年01月25日 21:31