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<<Coloquinte>>


 ご無事ですか。
 突き刺すような外気をつれて、ラルヴァンダードが入口の扉をこじ叩き開けた。
 文字通り叩き開けた、のだ。
 戸口の周りはびっちりと凍結しており、大のおとなの力をもってしても容易に開くしろものではなかった。
 子供ならなおさらだろう。
 内と外の温度差にたちまち彼の眼鏡は真っ白になり、ああ、と舌打ちをして男はくもったそれを外す。これでは見えない。
 息せき切り、
「姫……!」
 せわしなく室内を見回し、目当ての相手をさがそうとする男の視線が、やぎの横でちいさくまるくなり、数枚重ねた毛布にうずもれていたコロカントを見止める。彼の声にもぞもぞと頭を出し、はいとこたえた頬が青白い。
 ふるえている。
 寒いのだ。
 石壁があるおかげで、骨身から容赦なく一皮ひきはがすような寒風はさすがに吹き込んではこなかったが、室温は内も外もほとんど変わりがなかった。
 火がなかったのだ。
 少女へ大股に近付いたラルヴァンダードは、飼い葉桶に張ったうすごおりを目にし、くそといまいましげに嘆息して、それからかじかんだ腕を伸ばした少女を抱き上げ、胸の内へとよせた。
 防寒の上着を着込んでいても、外気は体の芯まで刺した。
 その中を半日ちかく馬に乗っていた彼は凍りつくように冷え切っていたはずで、だのにひきよせた体は彼よりもなお固く冷たい。
「姫」
 生きていた、生きていてくれたと安堵ばかりが先に立ち、しかしなかなか彼女の体はあたたまってくれない、残り少ない己の熱をできるだけ彼女にうつすことができればよいのにと思いながら、口早に呟き男は彼女をかきいだく。
「二日も足止めを食らうとは思わなくて」
「……レヴ」
 ほとんど変わりないこわばった体を寄せ合い、けれど触れた相手は心地良さそうに目を閉じ、ふ、と小さく溜息をついた。
 安堵だったのだ。
「姫」
「……心配したんです。レヴが無事に戻ってこれてよかった」
「姫」
 こわばった頬ではうまく笑えないのか、ぎこちないそれを浮かべてコロカントは言った。手袋をはずした彼の掌に頬をすりよせる。よせた頬もえらく冷たくて、申し訳ありませんと男は言葉を重ねた。
「どうしてレヴがあやまるのですか」
「……どんなことをしてでも帰って来るべきでした」
「レヴ」
 悔恨を眉間にあらわす男を見咎めて、
「無茶はだめです。あの吹雪で外を歩いたら、レヴが寒くて死んでしまいます」
 少女が顔をしかめる。
「しかし、」

 ひどい白魔だったのだ。

 後にも先にも、これほどひどいものを男は知らない。
 最初に雷が鳴った。
 雪起こしとこの地方では言われる独特の鳴り方で、しまったなと見上げた空はみるみるどす黒い雲に覆われた。はたと降り落ちた雪片は視界いっぱいに溢れ、みるみるうちに世界を覆い、途切れることなく丸二日間氷雪は吹き荒れ、大気は狂った。
 少女に留守居を頼み、住居から離れていたラルヴァンダードは、足止めを余儀なくされたのだ。
 最寄りに、そうした悪天候になった際使用する狩人や炭焼きの人間の建てた避難小屋があったため、彼自身が凍死する危地はとりあえず脱した。
 何度も駆り出された戦場では、これよりひどい状況で夜を明かしたこともある。雨風さえしのげる場所があれば、彼には十分だ。
 しかしそれよりも心に咎めたのは、主である少女がひとりで家に残されてしまっているということだった。
 うなる風の音やうずまく白いつぶてに彼女が怯えてはいまいかだとか、そうしたある程度余裕のある気づかいではなく、もっとせっぱつまった、つまりは生死の憂である。
 ここまでとは思いもしなかったので、薪の備蓄を半日程度しか残してきていなかったのだ。ああもうすぐ足りなくなるからまた割らないと、戻ったらまずその仕事から手を付けようと出がけに思い、出てきたまま戻るに戻れなくなっている。
 まずいな。
 秋口までに住居の裏に積み上げた丸太や大ぶりの枝は、そのものの太さでは使えない。単純な話でまず大きすぎて暖炉にはいらないし、入ったところで芯に炎が到達するまえに燻ってしまうのである。手ごろな大きさと太さに割ってやらねばならないのだ。
 最近彼の仕事を何かと手伝うようになってくれている少女ではあったけれど、さすがに薪を割ることはできまいと思った。
 まず鉈や手斧が振り上げられない。
 ああしたものは勢いや力任せで割るのではなく、獲物自体の重量で振りおろすことがほとんどであったから、いくら小器用になったとはいえ、子供の力では足りない。
 しかし、薪がつくれないということは火が熾せないということだ。
 いくら家の中とはいっても火のない室内は風がないだけで、ほとんど外気と変わらなくなってしまうだろうと男は思った。思い、歯噛みする。
 どうして出かける前にいくらかでも作っておかなかったかと、しかし歯噛みするばかりで男には何も手立てがなく、そうして避難小屋の戸口からじりじりとした思いで空を見上げ、彼は二日間すごしたのだった。
 火がなければパン種を焼くこともできないし雪を溶かして水にすることもできない。
 大人である自分は平気だろう、多少体の調子はくずすかもしれないが最悪できる限りの防寒着を被って藁にでも潜ってしまえば死ぬことはない。けれど、体の要領も小さく、手段を思いつくかもわからない彼女ひとりでは凍え死ぬか、飢えて死ぬか、どちらにせよあまり時間はない。
 二日目の今日、とうとうたまらなくなってまだ小降りと言うには早いつぶての中、強硬手段を打ってでた。
 人の足では到底無理だったろうと思う。
 高齢であっても、四足の馬と言うものが雪をかき進めることにこれほど感謝したことはない。
 馬を追い、急かし、雪だまりを避けるために何度も遠回りをしながら、ようよう男は己の家へ辿り着いたのだった。
「大丈夫です」
 憤った内心が顔に出たか、見上げたコロカントが腕を伸ばして無精ひげの伸びた男の頬に触れた。
 もう一度繰り返して、心配性ですねレヴはと笑う。
「わたしは大丈夫です。チチとくっついていればあたたかかったもの」
「……」
 呼ばれたやぎへ目をやり、そうして男は体熱を放つ生き物が彼女以外にこの部屋にいたことに心底感謝した。
 身を寄せ合い、毛布を数枚かぶってしのぎきれたのも、家畜がいてこそだったろう。
 ひとりであったなら早晩彼女は死んでいた。
 外界へ通じる扉は凍り張り付いていた。
 薪がきれようときれなかろうと、どちらにせよ、彼女は外にすら出ることができなかったのだ。
「……とにかく、火を」
 体をはなし自身の防寒着を脱いで彼女に被せると、急いで男は裏へ回った。薪をつくるためだ。あたたかいものを早く食べさせてやろうと思った。


 そんなことがあったと聞かされながら、ホルミスダスは暖炉の前へ凍えた足を投げ出し、火であぶりながらそうかと頷いた。
 ぞんざいな応答であることは自覚している。
 できることなら誠意をこめて聞いてやりたい。しかし、こうしてあたたかな室内へ転がり込み、光源と言えば暖炉の炎くらいしかないある意味うっとおしい空間で、眠くならない方がおかしい話だ。
 ホルミスダスが半目で頷いて見せると、彼女よりもその後ろにいたラルヴァンダードが、何だその話のきき方は、と咎めた。
「そう言われましてもね――」
 くしゃみあくびしゃっくりに咳、腫物出物は意にそいませんよと屁理屈を言うと、男が渋い顔をした。
「失礼だと思わないか」
「いまさらでしょうに……」
 赤毛を掻き上げたホルミスダスとラルヴァンダードの応酬に、手にした菓子鉢をさしだし、どうぞ、と少女が言った。
 笑っている。
 気にしていないのだろうと思った。
 ともに来たグシュナサフは、横で黙って火にあたっている。
 差し出された鉢をホルミスダスはのぞく。鶏卵を使った焼き菓子のようだった。
 町ではありふれた一品かもしれないが、ここで鶏卵を使った菓子というものが、どれほど貴重なものであるかということはさすがに彼も理解している。
 グシュナサフが運び入れた鶏が、二日に一度、卵をひとつ産むと以前に聞いたことがある。二日にひとつ。四日でふたつ。焼き菓子に使うために、ここ一週ばかりコロカントは卵を使った料理を口にしていないのだと、ホルミスダスは気付く。
 自分ほどの年にもなれば、口に入れば食べるものにこだわりはないが成長期の彼女は別だ、良質の蛋白質が必要だと言い張ったのはラルヴァンダードである。ホルミスダスが見ると、やれやれと言った調子で茶葉を薬缶に放り込んでいた。
 それからもう一度、彼は鉢へ目を戻す。素朴だけれど何よりのもてなし。
 いくつ使ったのですかとたずねると、四つだという。
 律儀にひとつひとつ卵を数える姿を思い浮かべて、ホルミスダスの頬がほころんだ。
 礼を述べて一枚つまみ口に放り込む。糖蜜の甘さが冷えた体にしみた。じいと見上げていた黒い瞳にうまいですよと返すと、ぱっと花が咲くように少女が笑った。
 ああ、この邪気のない顔はよいなと彼は思う。
「とてもうまいです。姫はきっとよい嫁になれましょうな」
「嫁……、ですか……」
 言われた意味をじっくりと噛みしめるように、彼女は真面目な顔になって、
「お菓子を上手に焼けるといいお嫁さんになれますか」
 そう尋ねた。
「なれます。俺のところに来ますか」
「ホゥルの」
 それもいいですねと彼の主が頷く前に、やらんぞと低い声で牽制が聞こえた。
 誰の発声かはもちろんわかっている。
 というより室内には四人しかおらず、そのうちグシュナサフは常に寡黙だ。もうひとりは目の前で首をかしげている。
 発言したラルヴァンダードをちらと見ると、実に苦い顔をしていた。

 ホルミスダスの目の前にいる彼女は、ただの少女に見えて少女ではない。その肩に、シビラの復興を負っている。
「負わされている」
 そう言った方が良いのかもしれない。
 本人の自覚よりも、担ぎあげようとする周りの人間の期待が上回っていただろう。
 ラルヴァンダードがコロカントの後見人という形になっている。
 体裁を整えることがばかばかしいと誰かが言う。名より実をとれと。
 しかし、「建前」をとかく気にする人間もいるのだ。
 逆心で両親を失ったコロカントの強みは血統と名目。
 周囲は蠢動した。
 なにしろ、彼女の後見ともなれば莫大な財も手に入ったからだ。
 しかし財をねらう人間は、信用がならないのもまた事実で、これは早晩適宜な人物を選出してしまうに限る。曰く、ある程度の荘園を持ち、臨機応変に動くことができ、勇にすぐれ、亡国シビラに忠を尽くすことのできる人物。
 半ば隠遁し、一線から退いていたラルヴァンダードへ、幼児をかかえ燃える館を逃げ延びた護衛がコロカントを託したのもうなずける、男はたしかに義に篤い。
 ただし本人はそう思っていないのが問題だ。
 いちおうは彼女の身柄を受けたものの、後見人となれば話は別である、自分には分を過ぎたことだと辞退し続ける彼を、お前が引き取らねば誰が引き取るのだと、ハブレストの黒刃にかかってもよいのかと周囲が三日三晩滔々と説き伏せ、終には、
「では、己よりふさわしい人物が見つかるまで」
 期限を決めた無期限の承諾を示させた。
 固いのだ。
 それも三年も前のことになる。
 コロカントは数えで七つ。あと二、三年もすれば、「建前上の結婚」が持ちかけられる年頃になる。
「俺と、グシュナサフと、ラルヴァンダードと、三人のうち、嫁になるなら姫はだれが良いですか」
「ホゥルと、ガシュと、レヴ」
 言ったホルミスダスの背後から、選択幅が狭いなと言う声が聞こえた。
 彼がふりむくと、グシュナサフがさえない顔でこちらを眺めている。指折り数えた主の姿をそれとなく眺めていたらしい。
「後見に婚姻は関係ない」
 鹿爪らしい顔をして、やはり彼を眺めていたラルヴァンダードが呟いた。
 冗談ですよと呟き、本当に固いなとホルミスダスは苦笑する。思い、それからまぁそれがこの男のよいところかと、思い正した。
「後見人」
 というもの、一般的に、財であったり血筋であったり、政治的ななにがしかの影響力があるような、女子供にたいして用いられる。
 寡婦になるだとか、親を亡くすだとか、状況はさまざまだった。
 名目上は、
「本人がひとりだちできるまでの後ろ盾」
 であるのだが、その実おんなこどもを傀儡とし、権力を掌中におさめたいというのが、おおよその立候補者の本意だ。
 後見人ともなれば毎月毎年の荘園からの収入が、黙っていてもやってくるのだから、できるだけ手許においておきたい。
 できれば手放したくない。
 であるから、寡婦であるならば次の嫁ぎ先が、幼児赤子であるなら成人を迎えることが事実上は後見の人間の勤めを終えるとき、なのだろうが、結局のところ寡婦は己がものに、こどもは養子として一族へ組み込むことがほとんどである。
 しかしラルヴァンダードがコロカントの後見を不承不承引き受けると頷いたとき、通例を良しとしなかった。
 代わりに出した条件が、彼女がもっと大きな勢力の保護下に入れるとき、もしくは、成人した暁には自分はさっさと身を退くというもので、欲がないと言えばそれまでだがこの男の本心はどこにあったろうかと時折ホルミスダスは思う。
 もしかするとそう小難しい理屈はなくて、世俗にまみれることが面倒臭いだとかそうした単純なものであったのかもしれぬ。
「自分はあくまで一時的なもの」
 言い張って聞かない。結局それでよいことになった。

「……よわりました」
 ラルヴァンダードの言葉を聞いていたのかいなかったのか、頬に手を当てたまま、割と生真面目に悩んでいたコロカントが、よわりましたともう一度繰り返した。
「何がです、」
「一人に決められません」
「……」
「三人とも、みんな好きですもの」
 面食らった顔をしたのだろう、一瞬ホルミスダスを見やったラルヴァンダードとグシュナサフが、互いに視線をからませ、くつくつと低く笑った。
「……ふられたな」
 グシュナサフが言う。
「つれないですよ、姫」
「ごめんなさい」
 なさけない顔になったホルミスダスへ、少女が謝った。
「……でも、本当なのです。ホゥルは歌を歌ってくださるし、いろんな国の話をしてくださいます。ガシュはいつも野菜の種や実を、持ってきてくださいます。レヴは」
 言いかけたところにどん、と扉が何か重量のあるもので叩かれた音がした。耳ざとく聞きつけて、彼女があ、と立ち上る。
「訪問者……?」
「ハナです。お散歩から戻ったのでしょう」
 身構えたホルミスダスとグシュナサフを視線で制し、大丈夫だとラルヴァンダードが小さく言った。
 主を預かったことで人一倍警戒の強い彼がそう言うなら、平気なのだろうと彼らは緊張を解く。
 ラルヴァンダードが言った通り、扉を開くとのっそりと大きな体をした農耕馬が、雪中の散歩を満喫し、鼻を鳴らし部屋のなかへ入ってきた。
 吹き込んだ雪ですぐに扉の前のマットは真っ白になる。
 ここでは冬の間は一日中、家畜を小屋の中へ入れている。盗難防止と言うよりは、単純に森をうろつく獣のえさにならないようにしているのだ。
 一階の居間の横は納屋だった。
 下げた馬の鼻面に、おかえりなさいと頬を擦りつける少女を眺めながら、しかしこれは仮に国を立ち上げ戻ったとしても、その暮らしに慣れるのにずいぶん時間がかかるだろうとホルミスダスは思った。


「今日は一緒に寝ましょうね」
 寝間着を着コロカントが、枕を抱えてホルミスダスへ向かって言う、そのやわらかな体を抱えて眠ることは吝かではないので、嬉しくなってはいと彼が頷くと、お前は床だと背後からひくい声でラルヴァンダードが釘を刺した。
 冗談だろう。
 しかし冗談の割には目が笑っていない。
 怖い後見人だとホルミスダスが肩をすくめた。
「俺は床ですか……」
「屋根があるだけありがたいと思え」
「……レヴ。ホゥルに、新しいお話を聞かせてくださいとわたしがお願いしたのです」
 少女の言葉にラルヴァンダードがむ、と唸った。
 彼女が言うのならばいたしかたなし、と言い聞かせているのかもしれない。
 ふた月に一度。
 訪れるたびに、ホルミスダスは彼女へ寝物語代わりに各国で見聞きした風景や光景を話して聞かせる。森から出たことのない彼女にとって、語るすべてが途方もないほど夢物語に聞こえるらしい。暇を見つけては、もっとおしえてくださいとせがんでみせるのだった。
 布団に潜り込んだ彼女の横に添う。
 ざらついた麻の敷布からも、少女からも、藁の香りがした。
 おおきな枕に頭を沈めた彼女が、針目もふぞろいのぬいぐるみを横に並べてこちらを眺めている。
 コロカントが針仕事に慣れるために、初めて製作したものなのだろうと彼は勝手に解釈していたが、実はいかめしい後見人殿がちくちくと縫い上げたしろものらしいと知って仰天した経緯がある。
 日ごと夜なべした姿を想像するといじましい。涙が出る。
 しかし元来器用な男で、ちょっとした日用品やらのがたつきは修繕してしまうようなところがあるというのに、彼女に関する限定で不器用になるというのも面白い話だ。
 確実に睨まれるので、ホルミスダスは決して口には出さないが。
 そうして彼はコロカントへ、年越えの大祭や、冬の大市場の風景、旧シビラやセイゼル、ハブレストの領民の暮らし、さらには南下した国での雪のない冬の生活を話して聞かせた。
 冬でも赤や黄色の花が咲くこと。
 それらが窓辺に飾られてとてもはなやかであること。
 町の路上は石畳で整備されていること。
 軒並ぶ屋台のあきないものが実に色とりどりで、見ているだけで飽きないこと。
 相槌を打っていた彼女の声が次第に不明瞭になり、やがてうつろに途切れた。
 眠ってしまったのだ。
 好奇心より睡魔が勝ったらしい。
 寝息を立てた彼女の額を男は撫ぜる。吸いつくようなやさしい皮膚の感触に、うっかり目が細まった。
 眠りを邪魔しないように身を起こし、もう一度振り向く。寝入ったことを確認し、それからホルミスダスは、階下で構えていたラルヴァンダードとグシュナサフの着いた席へ、同じように腰を下ろした。

「で」

 開口一番、静かであるが物騒な目つきで向かいのラルヴァンダードがホルミスダスを見やった。
 片肘を突いて茶をすすっていたグシュナサフが、俺の報告は終わったと低く告げる。
「ああ」
 そうだな、と口に手を当て一瞬彼は言いよどんだ。
 なにから伝えたものかと迷ったせいだ。
 シビラの遺児コロカントをラルヴァンダードが保守し、グシュナサフが旧臣と連絡を取り、ホルミスダスが各国へおもむき政情をうかがう。
 三年前に彼が少女を受けとったときから、そんな役割分担が出来上がった。
 宮廷楽士であったホルミスダスに、剣や矛を取れ、取って戦えと言われても土台無理な話だ。彼はそう謙遜する。
 仮令かたちだけ真似をしたところで所詮は付け焼刃、見苦しいことこの上ないですと。しかし、口ではそうは言ってもこの時代、無力では生き残れるはずもない。彼が比べている、
「剣を使える」
 基準がとんでもなく高いだけだ。
「セイゼルがハブレストに交渉を持ちかけているというのは、本当のことか」
「……どちらかというと、ハブレストがセイゼルに、と言った方が正しいかもしれませんがね」
 肩をすくめてホルミスダスは答えた。
 前後がどちらでも同じようで、意味合いはまるで異なる。
「セイゼルが、こちらに同情的かどうかはともかくとして、ハブレストがこれ以上領域を侵犯することを、快くは思っていないことに変わりはありません。――ただ、セイゼルの中でも新党が最近台頭してきましてね。セイゼルを改革云々、というよりはハブレストの息のかかった一派であるのですが。彼らが力をつけはじめていることは確かです」
 単純な話、いままでセイゼルはこれ以上ハブレストが肥大することを面白く思わないことで一致していた。
 三国協定が破られた今、力を付けたハブレストが次に狙うのはセイゼルだ。それは周囲の国との関係や国力の比重から言ってもほぼ間違いはない。
 であるから、表向きは協定をおろそかにしたハブレストを糾弾するという名目で、シビラを擁立し、ともに手をたずさえハブレストを懲らしめてやろうではないかと白々しい条約が出来上がる。
 保身である。
 卑怯だと糾弾する気概は誰にもない。
 この鉄なべの上で煎った豆のように、ばらばらと踊る国々の中で生きながらえるためには、他人はどうであれ、己の足元をまず固めることは必要不可欠であったし、常識である。
 ただ、彼らは亡国シビラの生き残りであり、生き残った人間をかき集めて、何とかもう一度シビラを復興させ、ゆくはセイゼルもハブレストもたいらげてしまえればという含みがあるだけだ。
 愛国心かと聞かれるとどうであろうかと首を捻る。
 生まれた国以外の国がのしあがってゆくさまを、ただ眺めていることが面白くなかっただけなのかもしれぬ。
 陣取り合戦は生き物の性のようなものだ。
 時間がないとラルヴァンダードが低く呻き、同意するようにグシュナサフが頷いた。
 重い首肯だった。
「姫をセイゼルに」
 移すわけにはいきませんかと言いかけたところに、まだ早いとラルヴァンダードが遮った。
「それに、どうして移る」
「うまく、隠れていただくわけには……、」
「巡検が厳しくなっている中でか」
「それは、」
 言われて返せず、ホルミスダスは詰まった。
 シビラからセイゼルへとつながる国境は、びっちりとハブレストの兵士が固めている。農民であろうと行商人、はては同じハブレストの領民であっても、通行手形を表さなければ通ることは許されず、持ち込む荷物に厳しい点検が入った。
 しかし通行人がおしなべて手形をもっているということもなく、密入国と言うほどにはおおげさではない、おそらくは運試し半分にセイゼルへ入ろうと企んだ人間が巻き藁の中に隠れ、槍衾にあった例も数知れない。
 彼らの大半は、ひとり国外へ締め出され、生き別れてしまった家族へ会いたいだとか、セイゼルを通過しさらにその向こうの国へ戻りたいだとか、そうしたささやかなねがいであったろう。
 そのささやかさを握りつぶされ磔にされ、みせしめられて腐敗してゆく死骸の悲しさ。
 あのぼろぼろに千切れたむくろのひとつのように、コロカントをのざらすわけにはいかなかった。
「森の外周に大量の蹄の跡を見つけた」
 ひどくむずかしい顔をしながらラルヴァンダードが言った。
「等間隔に東から西へ進んでいた。商隊であるとか狩猟の跡ではありえない。……ただの移動であるならよいのだがな」
「ここに感付いた……?」
「どうだろうな」
 こつこつと額へ拳を当てながら、彼は瞑目する。
「時間がない。その一語に尽きる」
「はい、」
 落ち着いているようにみえる彼が、内心ひどく焦っているのだということが言葉の端から見てとれた。
 そうして貴重だとも思う。
 彼女の前で、彼は決してこのような顔をすまい。
 しばらくしてゆっくりと目を開いたラルヴァンダードが、では、と提案した今後の動きに耳を傾けるべく、ホルミスダスとグシュナサフは卓の上に身を乗りだした。
 提案する彼の瞳には迷いはない。
 そのいさぎよさが彼そのものだと言ったら、照れ隠しにやはり渋い顔をするだろうか。


(20120822:Re)
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最終更新:2012年08月22日 23:52