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<<蛋白石>>


 三月。
 暦の上では啓蟄をしめしていても、病床から見上げる空は、低く重く垂れさがっており、まるで気が晴れない。
 ぬけるように青い空が見たいと思った。
 このところ毎日きまった時間に通う医師は、発音も不明瞭なあいさつを口のなかで呟くばかりだ。今もそそくさと辞した。ではまた明日、だとか言ったのだろうが気にいらぬ。
 そのあいさつも、半笑いを浮かべながらやってくる態度も、気にいらないのだ。
 もう来るなと言いたいのに、男は声がでなかった。
 五十なかばの壮年。
 周りの人間は彼を侯爵、と呼ぶ。父祖の代からの爵位だった。前シビラの領主とは伯父甥の関係に当たる。
 三年前にハブレスト国がシビラ国へ侵攻し、そのままシビラは陥ちたため、事実上の侯爵の地位は失われていたが、それでも領民は彼をそのまま侯爵、と呼びつづけた。
 昔気質の人間で、頑固なところもあるが人気は高い。くわえて旧シビラにおいて発言力があり、統率力もあった。シビラが国体のかたちを失ったときにも、遺憾なくその力を発揮し、手指のあいだからばらばらとこぼれてゆこうとする旧臣一派をまとめ上げたのもこの男だ。
 ラルヴァンダードとの親交も深い。
 辺境伯とおのれを過小評価し、領地に引きこもりがちのラルヴァンダードを引っ張り出し、コロカントの後見人として彼を強く推したこともある。
 男自身は、後見人にはなりえない。表立っては動けない。彼の妻がハブレスト国主の系列に名を連ねるものだったからだ。
 そういえば妻はどうした顔であったかなと男は思った。思いだせぬほど昔の話でもないはずだったのだけれど。
 爵位を持つ身のはずだった。ハブレストと一部通じるものがあるはずだった。だというのに、シビラ陥落のあとの遺児粛清の騒乱を避けることはできず、夫人の目の前で三人の子供は引き裂かれ、惨劇を目の当たりにした夫人は狂った。
 親族のつてをたのみに、夫人と子供を他国へ逃がした中途での出来事だった。
 狂った彼女は奇声を上げ、そのまま谷底へ身を投げたという。遺体はさがしたが獣にでも食われたものか、結局見つからずじまいであった。
 家族というものが一気にいなくなった。亡命先で再開できるものとどういうわけか信じていたので、報告を受けたときにも現実味はなく、ただ、これは悲劇と言うものか喜劇と言うものかどちらかなと頭の片隅で思っただけだ。なるほど、天涯孤独と言うものは突然にやってくるものだと。
 余所に子もなかったので、仕方なく妻の生家から養子を迎えたが、しかしこの息子、

「――父上」
 不意に戸口から聞きたくもない声が響いて、男は起き上がろうと身をよじった。よじろうとしてもがき、失敗する。
 身動きできないよう、寝床にかたくいましめられていたからだ。
 ああ、と戸口から様子をうかがう息子が薄笑う。
「動いては、だいじなお体に障りがあります」
 なにを。唯一男の自由になる目玉が息子を睨む。
「そんなおそろしいお顔をなさいますな」
 轡を噛まされ満足に声も出せない。いつからこうした態になってしまっていたか。思い返そうにも、医師に無理矢理流し込まれた薬の効果か、頭の中が霞がかったようではっきりとしない。このところ、いつもそうなのだ。
 まるで窓から見える空だな。そう思う。

 じきに薬がまわり、男の意識が鈍化する。すると誰かが戸口から近付いてくる。近付いたこの若い男はいったい誰だったか。
 ぼんやりと見上げた。
 わからない。
 話す声が、水の膜を通し一枚ぼやけて向こう側から聞こえはじめる。若い男が羊皮紙の束をさしだし、ここに承認の印をとささやいた。承認。なにに対する承認か。
 ちちうえ。きこえていらっしゃいますか。
 ぼうぼうと耳鳴りがする。違う。これは波の音だ。いやそうじゃない。戦に向かう鎧の軋みだ。
 いくさ。いくさとは何のことだったか。
 男のにごった視線が、ゆっくりと目の前に差しだされた書類を掴む誰かの指先に移動する。誰かの指にはめられた家紋。ついこのあいだまで彼自身の指にはまっていたもの。
 たしか右の中指に長年はめた指輪の跡が残っているはず、思って男は右腕を持ち上げようとしてろくに動かない体に首をかしげる。
 どうしたことだ。
 ちちうえ。
 呼びかけられて父とはどうやら自分のことだと男は理解した。ああ、そうか。急に嬉しくなる。息子は生きていたか。生きている?どうしてそんなことを自分は思うのだろう。息子は生きていた、ずっと生きつづけている。
 なぜなら目の前にいるじゃあないか。
 遅くに授かった彼の血を継ぐ利発な目をした彼の、
「さあ、譲渡書に署名を」
 ――サイン。
 ほどかれた右手に墨の付いた鵞筆を握らされ、ああ、あ、あ、あ。男は言葉にならない呻きをあげた。
 ぬけるような青い空がもう一度見たい。


 同じ曇天の下、森の奥への春の訪れは格段に遅かった。まだ雪がちらつくことが多い。
 しかし、さむいさむいと言いながらも緩慢と春にむかって季節は流れているようで、気付けばしたたるつららの長さが一昨日にくらべ昨日、昨日にくらべ今日といったぐあいに日一日と細く長くなってきている、そんな風に嬉しそうに報告されて脂焼けした目頭をこすり視線を外へ向けた。
 室内に籠もっているとどうにも頭が重い。
 ラルヴァンダードである。
 いわれてみるとそう言うものかもしれない、
 頷きながら声の主に目をやり、それから、その声の主が差し出したてのひらの上へと目をやった。
「これは……?」
「つららの下に落ちていました」
 コロカントのてのひらに乗せられていたものは、意外とちいさなものだった。男の指の先程の氷の塊だ。
 丸いかたちは水滴が地に落ちはねたそのままで凍り付いたらしい。中心がうまいことくぼんでいて、
「レヴ?」
 ふと好奇心に駆られたので、彼は少女のてのひらから氷を取り上げ、くぼんだ真中へ親指と人差し指をはさむようにしてじっと熱を入れて見せた。十ほど適当に数え、手首を伝ってしたたった滴を払い、かたちを変えた氷のつぶをコロカントへ示す。
 指先の熱によって氷のくぼみは溶かされ穴が開いて、丸かったつぶは小さな氷の輪へと変化していた。
 まあ、とコロカントが目を見張るのへ、さきほどの小さなてのひらの裏を返す。彼女の薬指を手に取り、すると妙に恭しい心もちになった。
 その心もちのままに彼女の指を氷の空洞へ差し込む。はかったようにひたりと、コロカントの指は即興で拵えられた透明な指輪におさまった。
 指輪ですね。
 呟いた彼女をラルヴァンダードが見あげると、神妙な顔をして右手の指の腹を見つめている。
「姫」
「とてもきれいです」
 ありがとうございますと丁寧に頭を下げられ、どういたしましてと思わず頭を下げ返した。
 嬉しそうになんどもなんども指を見やりながら、彼女はまた戸外へと出てゆく。その後姿を見送り、着飾ることの無い、どころかおそらく女性が着飾るというところを少女は生まれてこのかた見たことが無いはずなのに、きらきらとしたもの、いろのうつくしいものに惹かれるというのは、女と言う種が本来持つ習性のようなものなのだろうかと彼は思った。
 それから、それがもし女というものの習性なのだとしたら、男である自分の習性というものはいったいどうしたものだろうと彼は思った。
 やれやれと頭を振り、手元の書簡に意識を戻す。
 定期的にホルミスダスとグシュナサフから送られてくる報告が、先ほどやってきたのだ。鳩による書簡は仮令にほかの人間に渡っても支障がないように内容はひどく簡潔で、ほとんどが世間話に近い。あちらの男爵に子供が生まれただとか、こちらは大雨が降って川の増水で大変であったとか。
 その端々に伝えたい言葉を隠す。
 満月。ワールーン。西。人と馬。
 近くハブレストの軍事演習が森の西側の町で行われるため、注意されたし。
 森の西からここまでが七日、最寄りの町から迷い込んでも三日、さすがにやってこないとは思うが、警戒するに越したことはない。
 セイゼルへ移動させるわけにはいきませんかと以前提案されたことを、ラルヴァンダード思い出す。
 そのとき、男は無理だとこたえた。
 故事に、木を隠すなら森の中という。人を隠すなら人の中、たしかに定石に違いない。しかし、顔を隠したとしてもラルヴァンダードはともかくコロカントは悪目立ちするに違いないのだ。
 セイゼルまでの道に、彼女と同じ年のころの子供はいない。
 またもし仮に彼女を木箱であるとか布袋に隠したとしても、隠し通せるものではない。見つかるので動くなと言ったなら、きっと彼女は動かない。隣国まではひと月ばかりかかる。そのあいだ、飲まず食わずで通すわけにもいかない。
 しかしいつまでもこうしてここで燻っているわけにもゆかぬ。
 八方ふさがりだ。次の九方目の手をラルヴァンダードは打ったが、果たしてうまく行くものかどうか。
 考えが堂々巡りにおちいり、いい加減机に向かっていることも嫌になったので眉間を揉みながら男は立ち上がる。
 気が付けば、先ほどコロカントが氷を見せにやってきてから小一時間経っていた。たしか彼女はまた戸外へいったはずで、 出ていったにしては戻ってくるのが遅すぎる。
 今日は珍しく晴れていた。
 しかし、日ごと春に向かっているとは言え気温が急に上がるわけでもなく、あいかわらず吐く息は白い。外に出たきり彼女が何をしているのか判らないが、いずれいい加減冷えてくる頃合だろうと思った。
 扉を開けてぐるりと見回す。開けてすぐの場所に姿はない。
 ことわりもなく、見張り塔から遠いところまで彼女がひとりで行くとも思えず、また行こうとしてもあいかわらず雪は深い。浅い場所でも大人の腰ほど降り積もっていたから、少女の背丈では簡単に埋まってしまう。
 では、裏か。
 一度弛んで、再び凍りついたためにざらざらとした触感となっている雪をざくざくと踏みしめ、男は裏手に向かう。たどる視線の先に小さな足跡が点々と散っている。確かに裏手に廻ったようだ。
 ぐるりと周ると雪中にしゃがみこんだ少女の体が見えて、
「ひ」
 姫と言いかけ、ラルヴァンダードはぎょっとする。
 足音でとっくに気付いていたのだろう、呼びかけられて顔を上げたコロカントのまなこいっぱいに、涙がたゆたっていることに気付いたからだ。
「姫」
 雪をかき散らし駆けよる。
 そう言えばしゃがみ込んでいると言うよりは、どこか悄然としていてうずくまっているといったほうが正しいようだ、では怪我でもしたのか。腹が痛いのか。駆けよるはずみで少女のまなこの縁が決壊して、ぼろんと大きな涙のつぶが頬に転がった。
「どうなさいました」
 傍らに膝をつき、腕を伸ばして彼女の頬へてのひらを当てる。冷たくなっていた頬に涙だけがなまぬるい。ふたつ、みっつと次々と涙を転がしながら指輪、とコロカントがしゃくりあげた。
「え?」
「溶けてしまいました」
 言われてそのまま、彼女が胸の前でかたく握っていたてのひらを広げる。
 ぽたぽたと指のあいだから水がこぼれ、氷のかけらはわずかに残るばかりだ。
 子供特有の高体温なら、なおさらすぐに溶けてしまったろう。
「せっかくレヴに」
 レヴに貰ったのにと、顔を覆いわっと泣き出す彼女に、ひとまず怪我は無かったようだと安心して、それからラルヴァンダードは、頬と同じように冷たくなっていた彼女の肩を、包みこんで温めてやった。
 最後のかけらも見る間に溶けて、雪上に涙とともに散る。
 どうこたえたものかなと男は頭をひねり、それから、
「部屋へ戻りましょう」
 言った。まるで慰めになっていない。
「でも」
「ここは寒い」
「でも」
「なにかあたたかなものでも飲めばずっと気分は良くなります」
「でも」
 でも。溶けてしまったのです。
 寒いなかにいたからと言ってどうなるものでもあるまいに、口の端をゆがめ、こぶしで涙をぬぐう彼女は首を横に振る。こうしてひとりで溶けてゆく氷をじっと眺めていたのだろうか。
 べそをかく姿と、氷のちいさな輪をはめえらくうれしそうに指輪を眺めていた姿と、ラルヴァンダードは重ねくらべた。
 ああしていつでもうれしそうに笑っておればよいのにと彼は思い、ころころと天気のように変る態こそ女の習性だろうか、それとも笑っておればよいとねがう己の心もちが男の習性と言うものだろうか、だとか先の続きをふと考えた。
 よく判らない。ただ、いつも笑っていると良い。
 ラルヴァンダードはコロカントの両手を包み、
「氷はいずれ溶けてしまうものです」
 言った。
「でも、」
「ですから」
 片てのひらに収まってしまう少女のちいさな拳と己の節くれ、剣胼胝のできた無骨な指を眺めながらですからと彼は主の言葉を遮り、
「次は溶けない氷を差し上げますので」
 言った。
 理解した瞬間のほころぶさまは、何にも変えがたいほど良いものだと彼は思う。



(20120824:Re)
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最終更新:2012年08月24日 22:24