<<時間の糸>>


 不老不死の薬、というものをもらった。
 信じたわけじゃない。

 ボクの名前はレイディという。十七歳。花もほころぶ、青春って本当に青い春って書くんだねっていう、そんなまっただなかです。
 サンジェット教会というところに、ボクは見習いとして働いていて、そこで月々のお給金を頂いている。教会と言ってもボクの「見習い」は、神に祈る生活というのじゃあないんだ。もちろん教会なんだから、週に一度の礼拝もする。その手伝いもボクはする。だけどメインの仕事は、どちらかというと日常生活に自分の手には余るような怪異が起きたとか、つまり悪霊にトリ憑かれて困っているんですだとか、畑の作物をどうも普通の獣じゃあない魔物ってやつが荒らしているから追い払ってほしいだとか、そういう困りごとを解決する仕事をしている。
 しているというか、そう言う仕事をしている上司の下で働いている。
 退魔士、って言うんだ。
 聖書を持って聖水をバラまいたり、チョークで床に魔法陣を書いたり、薬草を燃やして赤だの青だの黄色だの煙を出したり、なんかそうしたうさんくさい職業だって思ってくれるといいと思う。ボクもよく理解していないし。
 その、説明しろっていわれるとまったくもってうまく説明できないうさんくさい仕事の、ボクの上司のネイサム司教は、退魔士のなかでもトップクラスの腕のよさなんだそうだ。
 どのあたりで腕がいいだとかわるいだとか比べるのか判らないけど、サンジェット教会のある王都カスターズグラッドの住民だけじゃなくて、遠い町からもときに依頼ごとを抱えてやってくるひと達がいる。他の教会じゃあ手に負えないからここにやってきました、とかいう言葉を聞くたびに、見た目はともかくウラの陰険さではかなりなもののうちの上司はやっぱりすごかったんだなぁと思ったりもする。すぐにその「他の教会じゃ手に負えない」はずの仕事がなんでだかボクに回ってきたりして、即効その考えは裏返るんだけど。
 いや、確かに、丸投げじゃなくてああしろこうしろって指示は出してくれるよ?くれるけど、結局現場に一緒に来てくれないわ、とくに体力勝負の徹夜で畑を見張るだとかそういったたぐいは確実にこっちに回してくるとか、嫌がらせもいいところです。司教に言わせると何事も経験、なんだそうだけど、ぜったい面倒くさい仕事選んでボクに投げてますよね。
 まぁそれでも上司からの言いつけじゃあ逆らえないし、逆らおうったって無駄に弁の立つネイサム司教にハナから勝てる気がしないってのが現状だ。
「できません」
 って言って、
「できないじゃない。考えてなんとかしろ」
 って、無茶もいいところだと思うんだけど。
 ボク涙目。
 だけど、二年前くらいにサンジェット教会で働き始めて、そのころから比べると、確かに経験だけはついたというか、経験と言うより当たって砕けろ的な度胸の気がしなくもないけど、少しは役に立ってるのかなと思うと無下に断ることもできない。
 なんだかんだ言ったって、人のお役に立てるのってうれしいことだしね。
 それに、ネイサム司教の性格はともかく、相談ごとを持ち込むひと達が困っているって言うのはその通りのことで、ボクの信条としたら困っている人をほうっておいちゃダメだろってのもある。

 とか、そんなわけで、ボクはネイサム司教のところに持ち込まれ、なぜかボクにまわされた相談ごとを解決すべく、雨がしっとりと降る畑にうつぶせになって一晩じっと監視役をしていたのだった。

 毎晩夜中に、畑の作物を食べていってしまう「なにか」がいるんだって。
 それも丁度熟れて出荷間近の実だけを大量に選んで喰っていくらしい。
 最初は悪質なイタズラか、それとも野生の動物かっていうんで、農家のオジさんたちが一週間、畑で張って待ち構えていたんだって。喰われる量が尋常じゃないから、とにかく大きな群れか、集団の人間に違いないって。
 一週間張ったけど、畑の作物を荒らす不届きモノは結局一度も姿を現さなかった。
 ここまでは普通だ。
 だけど、現さなかったのに、畑からは毎晩ごっそりと熟れごろの実がなくなってしまい続けたんだそうだ。
 数人で一晩中おきててあちこち見張ってて、なにも見えない。
 だのに朝、畑を見回ると黄色く熟した実はすっかり食い荒らされている。
 気味が悪い。
 もしかすると「普通の」生き物じゃないかもしれないって言うんで、近くの教会の司祭サマにお払いをお願いしたそうだ。いわく、魔物であるならば私の出番です任せなさいとドンと胸をたたき張り切ってでかけた司祭サマは、次の日の朝いなくなっていた。
 畑にも、教会にも姿がない。もしかすると逃げたのかもしれないけれど荷物はなくなっていない。
 ますます気味が悪い。
 万一司祭サマになにかあったならこのままほうっておいちゃならないだろうし、なにしろそんなこんなしているうちにも夜中に作物は喰われつづけていたから、ほとほと困って彼らは「退魔士として腕がいいらしい」ネイサム司教のところまで遠路はるばるおねがいに来たのだった。
 親切丁寧に対応したネイサム司教は、オジさんたちが帰るやいなや、
「タマゴ」
 とボクを呼びつけ、
「部屋にいたのだから今の話を一部始終聞いていたねでは私から説明補足することはなにもあるまいねだったら明日の朝所定の場所へ向かい彼らの言う怪異の正体を突き止めてきなさい可能であるなら退魔も含めて一週間でかたづけてくるとよいよ」
 とか、ノンブレスで一気に畳み掛けられたのだった。ぐうの音も出ません。
 こうなったら何を言ってもしょうがないので、ボクはいわれた場所まで行くことにしたんだけど、どうしたってひとりで不寝番は嫌だった。
 ……だって司祭サマ失踪してるんだよ?
 自分が取り立てて観察眼があるとは思わないし、何かあったときに落ち着いてすばやく対応できる自信もない。どころかテンパることは目に見えていて、そうなると無闇やたらに落ち着いている誰かを連れて行くほうがいい。絶対いい。
「シラスちょっといいかな」
「あー?」
「話があるんだ」
「いーまーはーむーりー」
 ネイサム司教に言いつけられた仕事をこなすのに付いて来てほしいんだけど、って話題に入る前にボクはきっぱりフラれてしまったのだった。
 昼間じゃないんだよ夜だよ、キミが嫌いなお日様はもう沈んでるし夜目がきくからうってつけなんだよ、そもそも司祭サマがひとり行方不明になっている場所にボクを派遣するとかキミは心配にならないのかいってボクはしつこく尋ねたけど、忙しいから無理、の一点張りで聞く耳を持ってくれない。
 なんでもものすごくめずらしい古文書がもちこまれて、あの辞書が服着て歩いているようなシラスでさえ、ほとんど目にしたことのない文明の書物だとかなんとか。
 文字自体の読み取りはできても、それを読むのに引っくり返したり上下逆にしたり裏読みして別の意味に解釈したりしないと、最終的に解読できないのだそうで、その、解読できそうな糸口が別の書物にようやく見つかって、今から数日かけてその暗号を解くための暗号を解く作業に取り掛かるんだとか。
 一点集中のシラスって言うのも結構、というかかなりお目にかかれないシロモノで、部屋に引きこもって日がな一日、あっちの本を読みこっちの本を引っくり返ししているシラスへ、それ以上なにがなんでも付いてきてよ、というのもなんだかボクは気が引けた。頼まれた仕事とは言え、熱心に調べ物してるところに水をさすっていうのも悪い気がしたからだ。
 だけどだからと言ってやっぱりひとりでいくというのは怖い。正直言って本気で怖い。正体がわかってる相手なら自衛のしようもあるけど、姿も見せない、なんだかわからん相手なのだ。
 誰かについてきてもらいたい。でもみんな家庭や仕事を持っているわけで、一週間泊り込みで出かけるなんて、急に対応できる人間は多くない。
 そこまで思い返してへぶしゅ、とくしゃみが出た。
 雨に濡れても大丈夫なように雨具は着ていたし、雨具の下に防寒着を着込んでいたけれど、それでもしっとしとしっとしと降る滴はなんとなく体全体をシケらせて冷えたらしい。
 寒いの、とボクの横から声がした。
 目をやると、雨具もなしに頭のてっぺんから足の先までしっぽりと濡れそぼっている相手がいる。見てるこっちが身震いしそうだ。
「ナナシさんこそ寒そうなんだけど」
「俺は寒くないよ」
 雨は嫌いじゃないしね。言って魔物は空を仰いだ。
 そう。
 誰かについてきてもらいたいけど手っ取り早くそんな相手がいなかったボクは、半日通りのボクん家の隣にいつの間にか引っ越してきていたナナシを誘って、畑荒らしの犯人を捕まえにやって来たのだった。
 このひと、魔物です。
 なんで彼がここにいるかって言うと、話せば長くなるんだけどボクが彼と契約を結んだのが発端らしい。
 いや、らしいっていうのはもうね、まったくもってボクにとっては不本意で、いや別にナナシが嫌いとか不快だとか言う意味ではなくて、でもボクは契約を結ぶつもりはなかったって言うか、なんかたまたま――そう、たまたまって言葉が多分一番シックリ来る――結ぶことになってしまったのだった。
 なってしまったというか事後というか。
 でもって契約を結ぶと、魔物と言う種族がおもに住む階層と、こちらのボクらが住んでる階層の行き来が楽にできる仕様になるそうで、それまでほとんど魔物の住む階層からでたことがなかったナナシは、にぎやかな階層に興味を覚えてこっちへ移り住むことにした。
 らしい。
 なんだかそのあたり曖昧なんだよね。たぶんなんとなく来た、っていうのが一番合ってるんだろう。
 明確な目的だとかはっきりとした意志、みたいなものがナナシからボクは感じ取れない。
 風に吹かれて流れていると言うか。
 流れっぱなしと言うか。
 生き物で言うならクラゲみたいなかんじかもしれない。
 その、クラゲみたいな魔物は、だからボクが畑荒らしの犯人を捕まえにいくので付き合ってくださいとお願いしたときも、考える素振りも逆に面倒くさそうな素振りもなく、
「いいよ」
 って即答して付いて来てくれることになったのだった。まぁボクとしてはどんな相手でも、この際そばに一緒にいてくれるってだけでありがたいです。これでまたシラスみたいに、条件はのむけど食わせろだとかそう言う話になってくると、食わせる食わせないの押し問答になるし、ややこしいことこの上ないんだけど、今のところボクはナナシから生気を食わせろと迫られたことがない。
 食べないのって聞いたら、まぶしいんだよとよく判らない答えが返ってきた。
「食べられないわけじゃあないんだけど、強すぎるんだよね」
 ボクにはさっぱりの理屈なんだけど、今のところそんなわけで彼がボクを食う危険性ってのは低いようだ。
 ただ、じゃあ他の人間を喰らうとかそっち方面に話が進むと、つまり王都に魔物がふらつくということで、そうなるとさすがに退魔士であるボクの上司も黙っちゃいないので、王都で「食事」するのはやめてねってことになっている。
 とりあえず自我が薄いというか自己主張があまりないナナシは、それに関してもとくに反論はないらしい。判ったと頷いただけだった。
 そうしてぐだぐだとボクん家の隣で暮らしている。
 しかしなんだね。
 魔物と言うのはこう、ソファだのカウチでぐだぐだするのが好きな種族なのだろうかね。
 しゃきっと立って身なりを正せば、ナナシもそれなりに見られる格好をしているのに、フワフワしていると言うか頼りないと言うか、家着だか寝巻きなんだかわからない格好で(すっぱだかよりはもちろんずっとマシだけど)それいったい何日着てますか。他の生き物にたとえろって言われたら、まったくクラゲです。クラゲと言ったんじゃクラゲに失礼かもしれない。綿ぼこり。
 綿ぼこりの魔物は、見た目に反して暑さ寒さを感じないといった。
 雨に濡れてもまったく寒くないんだって。
 魔物ってそう言うものかとも思ったけど、たしかシラスは暑さでヘバっていた記憶があるので、たぶん魔物の中にもいろんな種類がいるっていうことなんだろうと思う。
 ぱたぱたと髪の先から滴を振り落としながら、ナナシがボクの隣に腹ばいになる。
 面白い音がするねぇ、だなんて呟いていた。
「え?」
 最初それは、雨が畑の苗に当たってはじける音のことを言っているんだろうと思った。
「音?」
「独特の鳴き交わしだ。あれは音波なのかな」
 あなたには聞こえないの。
 聞かれてボクはもう一度えって聞き返した。
「ボクには何も聞こえない」
「ああ……俺にしか聞こえないのか。とても、さわがしい」
「さわがしい……生き物?」
 何を言っているのか判らなくてボクがさらに聞き返すとうん、とナナシがどこか畑の向こうのほうへ目を向ける。
「生き物なのかな。数匹――数十匹はいる気がするけれど」
「いる……どこに?」
 そこでようやくボクはナナシが言っていることの重要性を理解してぎょっとする。
「ナナシさん、見えるの」
「そうだね――」
 言ってナナシはぼんやりと考える素振りで指を口に当て何か小さく呟いて、それからこっちへ手を伸ばして親指をボクの額に押し付けた。右から左に一筆刷くようにして、指の腹で撫ぜる。
「これでどうかな」
 言われてボクはナナシがさっき目をやっていたほうへ何気なく視線をやって、思わず悲鳴を上げかけた。隠れて見張っていたんだってことを思い出して慌てて口を押さえる。
「ああ――、」
 まいりました。
 ……これは精神的にきついです。
 大きさから言うと大人の人間のふくらはぎくらいの太さと長さだろうか。
 今まで何もないように見えた畑には一面、そのふくらはぎサイズの白くてぶよぶよとした芋虫的なヤツらが、丁度熟した実を探してうごめき、のたうっていたのだった。
 しかも真っ白ならまだしも、なんだか背中のほうにおかしな顔がついていて、それがどうにも人間が苦しんでいるような模様に見えるのだ。
 いかん。これは夢に出る。
 ワジカムはともかく、割とボクは芋虫は平気なほうなんだけど、いかん。これはいかん。
 生理的な嫌悪感になんか鳥肌通りこして失神しそうだ。
「なに、これ」
 何か口にしていないと気が遠くなりそうで、ボクは無理矢理頭の片隅から言葉を引っ張り出して誰に言うともなしに呟いた。まぁこの場合、ナナシしかそばにいないので聞いてくれるのも彼しかいないわけなんだけど。
「なんだろうねぇ。俺もはじめて見るなあ」
 とかなんとかいってるうちに、うぞうぞとボクらの近くに一匹が這い寄ってきて、ひえええと言う声とともにボクは思わず飛びのいたんだけど、ナナシはまったく平気なようだった。へえ、だとか言いながらその白い芋虫的物体をつついている。
 やめてくれないかなとボクは思わず哀れな声で懇願した。
「……なに?」
「なんか、つついたらいきなり汁が出たりハジけたりしそうでイヤだ」
「ああ――……すすったらおいしそうだよね?」
「は?」
 なんか今すごいこと聞いちゃったかもしんない。
 聞き返すのが正解とも思えなかったんだけど、なんでもいいのでボクは現実逃避がしたかった。というか正直言うと、ネイサム司教から言いつかった仕事は一旦放り出して、ダッシュでこの場所から逃げたかった。
 逃げなかったのは何が何でも任務をこなさないとという義務感でも、立ち上がったりしたら畑荒らしの犯人が逃げるからという心配からでもなく、ただ単に逃げ道がないほど芋虫的ヤツらが這いずっていて、ダッシュなんかしたら確実に何匹か踏みかねないからだった。
 それこそボクは失神する。
「食べてみようか」
 だのに同行者は、ボクの卒倒寸前の状態を慮ってくれることもなく突いていた一匹をそのままてのひらの上に転がして眺めちゃったりしているのだ。
「あの!」
「うん――?」
「あのですねナナシさん取り急ぎお願いがあるのですが!」
「うん、?」
「ヒトの食事にボクはできるだけ難癖をつけたくないし、そりゃ好き好きもあるかとは思うんだけど!けど、今ボクの目の前で『食事』されたら!ボクは!正気を保っていられるか自信がないです……!」
「ああ――そう」
 お願いすると、どこまで理解してくれてるのかわからないけどとりあえずナナシは転がしていた芋虫的ヤツを、畑の向こう側へほうってくれたのでボクは一安心をした。
 ……いや。してない。
「あわわわ」
「……」
「どどどどどどどどどうしよう」
「うーん」
 あたり一面ヤツらがいるのは変らないわけで、まぁいきなり襲ってくることも無さそうではあるんだけど、このまま朝まで修行モードっていうのもなかなかキツいもんがある。
 今さら寝そべってもいられなくなったので、ボクは起き上がりなんとなくナナシににじりよった。いきなりこっちにヤツらが行進してきたら彼の上によじ登ろうと思う。
「あなたの仕事は何をしたら完了なのだっけ」
「え?……え?」
 あっちこっちを眺めていたナナシがしばらくしてボクへそう尋ねてきて、
「し、し、仕事?」
「原因を突き止めたらそれで帰れるのかな?」
 あんまりにも落ち着いているというか、慌てている要素が見つからないと言うか、ボクがこんなにゾゾ毛を立たせているのが間違っているんじゃないかってくらい普段と変わりがなかったので、ボクはようやく言われてきた仕事を思い出したのだった。
「解決してこいって言われてるんだよね……行方不明の司祭サマとやらも見つけないといけないし」
「そう」
 じゃあとりあえず行方不明の人間を探そうか。
 言ってナナシはもう一度手近の一匹をむんずと掴んで左手に持ち、右手の親指で右の小指へ爪を立て腹を傷つけ血を滲ませる。ここでハジけたらトラウマだぞってボクがはらはらとして眺めているうちに、その滲んだ血を芋虫の背中になすりつけ、地面にもどした。
「いったい、何を」
「ほら、案内してくれるよ」


 魔法と言うものが存在するこの世界で、ボクは魔法と言うものが使えない。
 魔法と言っても大小さまざまだし、ケガをなおすものから火をおこすものまでいろんな種類があるんだけど、そのどれもが使えない。
 魔法と言うもの自体がもともと体質と言うか、生まれつきの持っているかどうかの要素がとても大きいものらしくて、あとから訓練したり勉強したからってわりとどうなるもんでもない。知識はもちろん増えるけど、実践できないと言うか。
 まあ、ボクがオチコボレというよりは、使えないひとと言うのがほとんどで、むしろ使えるひとの方が少ない。
 王都カスターズグラッドにだって、魔法介護士と呼ばれる花形職業のひと達がいるけど、せいぜい十人くらいのもんだ。実際「力」として使えるひとと言うのは、一万人どころか十万人にひとりの割合だそうで、とても希少価値なんである。
 魔法にも簡単なもの、ちょっとむずかしいもの、とてもむずかしいものとあって、ケガを治す魔法は、魔法と呼ばれる中でもかなり初歩のものらしい。別に奇跡を起すわけじゃあなくて、相手の中にある治癒能力を高めるだけなんだそうだ。これは魔法介護士でもある、ボクの友達のミヨちゃんの談。
 他にもいろいろあるんだけど、とてもむずかしいもの、の中に、「相手を操る魔法」というものがあるらしい。自分の思うように操ったり、寝ているあいだだけ操ったり、一定の行動だけを禁止したりするんだって。一応区分はあるらしいけれど、どれもとてもむずかしいものだって。
 とくに、無機物はともかくとして、有機物……つまりは生きているものを自分の支配下に置くというのは、魔法を使えるひとが研鑽を積んでもなかなかうまくいかないそうで、
「……それを軽々やっちゃうんだもんなあ」
 魔力がぎゅっぎゅと固まると出来上がるらしい魔物と言う種族。恐るべし。
 そうして、無駄にボクがナナシを見直しているあいだに、彼に操られた芋虫はうぞうぞと這いずりやがて畑を抜けて林の中へと入っていった。
 しかし所詮芋虫、操ったとしても動きは他のものと変らないわけで、そりゃもちろん大きさが大きさなんでストロークは普通のサイズより大きいわけだけど、それでもずいぶんと遅い。ヤツらは大きさはともかく移動の仕方は普通の芋虫を同じだ。
 つまりこう、体をぬっと伸ばして前足で固定し、次に体の真ん中をくの字に折り曲げて下半身を引っ張り、そうしてまた前足をぬっと伸ばす……ぬっ――くっ――ぬっ――くっ……そんな繰り返しである。
 ボクらの一歩がヤツらの三ぬっ位になるわけで、結果かなりのんびりとボクらは後を付いてゆくことになった。
 当然手持ち無沙汰になる。
「この芋虫的ヤツらは、魔物なんだよね」
「たぶんね」
 何とはなしにボクはナナシに話しかけていた。
 最初ボクには見えもせず聞こえもしなかったのだから、こっちの世界に普通に生息している生き物じゃあ無さそうだ。
 あと大きさとか。見た目とか。
 普通に生息してたら困ります。
 仮に、寝ようとして布団をめくったときにこんなんが一匹ベッドの中に転がっていたら、ボクは裸足で路地裏を駆け出していく自信がある。
「ナナシさんも知らないような珍しい種類なのかな」
「……というより、俺がほとんど他を知らないんだよね」
「あ、そうなんだ」
 毎度、魔物に遭遇するたびに、その種の名前だとか行動だとか逐一教えてくれるシラスが一緒にいたもので、魔物同士って言うのはわりとお互いに認識しあっているものかとも思ったけど違うみたいだった。
 というより、同じような形をしていて言葉も通じて、だからシラスとナナシも同一の種族なのかと思ってボクが口にすると、どうかなと返されてしまった。
「随分違う気がする」
「そうなの?」
「俺はどちらかというと生気を食わない種類だしね」
 食えないわけじゃあないんだけど。そう言う。
 ああ、だからさっき芋虫見つめておいしそうとか言ってたんだろうか。思い出して申し訳ないけどまた鳥肌が立った。たしかにシラスは、ああした虫を見ても食いたいと言ったことはないように思う。
 たぶん。
 ……いやこっそり隠れて食べていたんだろうか。
 人間とは違う独自の生き物なんだから、ボクがとやかく言う筋合いじゃあないのは判ってるけど、でもひとつ屋根の下で暮らす身としては芋虫すすったりしたらやっぱり……やっぱり、やっぱりなぁ。
 むむ。今度聞いてみよう。
「共食いというのかな」
 とナナシは言った。俺は、自分と似たような味をするものが好きなんだ。
 えっとその論理でいくと、芋虫はナナシとイコールですか。
「でも、長生きしてきたんでしょう?」
 ボクは言った。
 そこはシラスと一緒なんだと思うと不思議な感じがする。
「どうかな……朽ちなかっただけで」
 そろそろ朽ちてもいいかと思っていた。初めて会ったときそんな風に言っていたことを思い出す。もう飽きたから。
「朽ちることに労力を割くのも面倒くさかったんだよね」
 ボクには到底その感覚が判りそうにない。
「でもさぁ。……不老不死って、人間は憧れると思うけどなあ」
「へえ――」
 あなたも不老不死になりたいのかな。後ろを歩くナナシに尋ねられて、そのぼんやりとしているのに静かな声にボクは振り向いた。どうだろう。まじめに考えたことがない。
 林の闇の中で、ナナシの水色の目がすこしだけ光ってとてもきれいだった。
「いつまでも生きていられるってすごいことだと思うけど」
 だってやりたいことが何でもできる。歯が抜けたり、腰を悪くしたり、体が弱ったりすることもなくて、若く元気なままでいられる。
「それに、」
 それに。きっと誰かをひとりにしてゆくこともない。
 言いながらボクは「誰か」じゃあなくて、シラスのことを考えている自分に気が付いた。

 ボクはそのうちアレをおいていく。

 ボクはまだ十七で、事故ならともかく、年をとると死んでしまうということが、どうにも他人事のようにしか思えない。そのうち来るんだろうな、と言う感覚で、まったく実感がない。
 だけど、ボクが十七年生きていく中でシラスはまったく年をとらなかった。
 十年一日、毛の先ほども変らないでそのまま、ボクが歩き始めておしめがとれ、学校に通ってハルアと仲良くなり、泣いたり笑ったり、ちょっと年上のケーキ屋のお兄さんにミヨちゃんと一緒にときめいたりし、魔法介護士の勉強をして退魔士見習いを始めても、シラスは何も変らなかった。
 あと十年ボクが年をとっても、シラスは何も変らない。五十年経っても変らないだろう。
 そうしていつかボクがいなくなってひとりになっても、やっぱり何も変らずシラスはそこに「いる」んだ。
 二千何年生きてきたんだよってボクは聞いて驚いたことがある。
 長寿の大木だとかみたことあるけど、それだってせいぜい千年だ。ヤツはその倍ある。
 最初の千年は人間を観察することが面白かったんだと、シラスは言った。
 次の千年は最初の千年と同じことを繰り返す人間を眺めていたと、シラスは言った。
 ……そうして次の千年は。
 彼はいつでも一人ぼっちだ。
「もし、不老不死になれる薬があるとしたら、あなたはそれを飲む?」
「え?」
 聞かれてボクは再度戸惑った。わからない。だってそんな薬は見たことも聞いたこともないし、あると思えないから。
 曖昧に返事をしながら、ああ、そういえばナナシもひとりだったんだなってボクは思った。ひとりだとか、ひとりはさみしいだとかそう言う感覚はないのかもしれないけど、でもボクにとっちゃ気が遠くなるようなながいながーい時間を淡々とひとりで過していくっていったいどういう感覚なんだろうって思った。
 やっぱり、理解できない。
「レイディ」
「あ……え?」
 いつの間にか横に並んでいたナナシがボクを見下ろしている気配がして(だって真っ暗でほとんど見えない)、それから彼はボクの片手をとった。
「あげる」
「なに……?」
 てのひらにぽとんぽとんと落とされたのはなんだかまるい感触で、ボクは最初あめ玉でもくれたのかな、と思った。
 てのひらを鼻に近づけてくんくんとにおいを嗅いでみたけど、何のにおいもしない。
「これ、なに」
「タネなんだよね」
「タネ?」
「タネ。人間が食べると死なない体になれるよ」
「は?」
 え、なんかさっきの芋虫食べちゃおうかな発言に続いてさらっとすごいこと言っていませんか。
 ナナシってシラスと違ってあんまり表情がない。もしかするとボクを化かしているだけかもしれないけど、感情の起伏があまりないのでからかわれているのかよく判らない。
「そ、それって、不老不死の薬ってこと?」
 死なない体になれるらしいよ、って不確定な言い方じゃなかったですよね。なれるよって言い切りましたよね。
「ああ、うん、食べて死ななくなった人間を見たことがあるし」
「えええ?いつ?どこで?」
「いつだったかな……もうずっと前」
 えらく適当な答えが返ってきた。
 年齢だとか時間だとか、とにかく魔物って種族は自分にも自分以外にも興味がないので、たいがい聞いたって曖昧な答えしか返ってこない。
「そのひと、男?女?」
「男のひとだったんじゃないかな。たぶん。遠くから見かけただけだから」
「そのひと、どうなったの?」
「朽ちることがなくなっていたよ」
 水色の目がボクから外れて、足元少し先を行く芋虫にむけられる。
「長生きって、こと、だよね……」
「いつまでも変らないままだった。俺と同じように」
 でも、そのひと。
 そこまで聞いて、ナナシが言うその不老不死の人間の話って、過去形だってことにボクは気付く。じゃあその不老不死は嘘っぱちでやっぱりそのひとは死んでしまったんだろうか。
 聞こうとボクが口を開きかけたときに、ああ、とナナシが小さく呟く。
「弱っている人間がいるね」
「え?」
 一瞬何を言われているのか判らなくて、それから次の呼吸後ここに何をしに来たのかを思い出す。芋虫的ヤツを追いかけてきたのは、畑荒らしの手がかりを得るためだってこと。
 どこ、とボクは聞き返す。
 失踪した司祭サマじゃないかと思ったからだ。
「わからない?」
「真っ暗で、ボクには見えないんだよ」
「そっか」
 くいと袖を引かれて、彼が先に立って歩き出す。
「すごいなぁ。人間は暗いと見えないのか」
「……すごいのかな」
 おかしな感心をしながら、そのままがさがさとボクらは藪をかき分ける。人間のボクに言わせりゃ、闇の中で目が見えてすごいです。
 もらったタネは、ひとまずポケットにしまっておくことにする。
 そうして、人がいると彼が言ってからそう遠くない場所で、誰かが転がって呻いていた。オジさんたちも畑周りは探しただろうけど、林の中までは来なかったんだろうな。
 ランタンをかざして近付く。照らされた姿は、オジさんたちから聞かされていた背格好によく似ていた。司祭服も着ているし、これは行方不明だった村の司祭サマとみて間違いはないだろうと思う。
「も……もしもーし」
 ざっと見た感じ、どこかに大きな怪我があるようには思えなかったんだけど、呼びかけても反応がない。弱っている割には呻く声は大きいし、でも呼んでも揺さぶっても目をさます気配がなかった。
 うまく表現できないけど、とにかくどうも普通の状態じゃあないような気がする。それに司祭サマは全身雨でびっしょりと濡れていた。芋虫のヤツらはあいかわらずうにうにと先を進んでいるようだったけど、追いかけるよりも先に、村へ連れて帰るほうが良さそうだとボクは判断した。ありゃきっと明日の晩も来るだろう。
 とりあえず原因究明より人命救助が先だよね。
 それからボクは同じように覗き込んでいるナナシをちらと見る。
 ……彼と二人で運ぶことを考えないわけでもないんだけど、風が吹いたらどこかに飛んでいきそうに頼りないナナシとえっちらおっちら運ぶより、たぶん人手を頼んだほうが早そうです。
 かくして、ボクとナナシは一旦村へ行き、ボクらに任せたとはいえ不寝番をしていた数人のオジさんたちとともに戸板を担いで現場へ戻り、意識のない司祭サマを回収したのだった。
 しかし。
「どうしようかな……」
 意識のない司祭サマから濡れた司祭服を脱がし、寝台へ寝かせてもう一度全身をあらためて、ボクは唸った。
 さっきまで苦しそうに呻いていた司祭サマは、今は昏々と眠り続けている。眠っているっていうか……いや確かに起きてないんだけど、なんとなぁく、寝方が違うんだよね。ヘンだ。
 裸にした体を調べてみたけど、手当てが必要だと思える外傷はやっぱり見つからなくて、ただ、服を脱がさなけりゃ判らなかったんだけど、首筋に丸くて赤いあざがひとつあるだけだった。ちなみに赤いあざとかいうとキスマークうふふ、みたいに聞こえるかもしれないけど、実際の大きさはボクのてのひらサイズなので、エロもへったくれもないです。
 しかし村人はもちろん、ボクはなおさら、司祭サマが普段から首にあざを持っていたかどうかだなんて知る由もないので、じゃあこれが原因だ、と言い切ることもできなかったし、仮に原因だったとしてもボクは対処方法を知らない。
「ナナシさんって、こういう場合の治療とか知ってる?」
「俺?」
 知ってると思う?逆に聞かれて、
「知らない、よね」
「うーん。――……ごめんね?」
 謝られてしまった。ごめんねと言うのはこっちです。
 というか、なんの得もないのにここまで不満ひとつ言わないで付き合ってくれてるわけで、考えてみればボクのほうこそ本当にごめんね、だ。
「困ったねえ」
「うーん。……ボクだけじゃどうにもならないし、一度戻って相談してくる」
 芋虫的なアレらは、何とか対策を講じるとしても、こっちの司祭サマのほうは下手に動かさないほうがいいかもしれない。畑はなんとかしてこい、といわれたけど、司祭サマのほうはさすがにネイサム司教でも、症状を話したら何か助言はくれるだろうと思う。
 思う。
 思う。
 だといいな……。
 希望的観測を胸に、そのまま朝になったので、ボクは一旦戻りますと村のオジさんたちに告げ、司祭サマの看護を頼み、乗合馬車の発着場にいくことした。
 王都カスターズグラッドまではだいたい馬車で、半日の距離。
 いつの間にか雨は上がっていて、雲の隙間からうっすらと光が差していた。
「俺はここに残ろうかな」
 発着場に着くと、てっきり一緒に戻ると思ってたナナシにそういわれて、
「ナナシさん、なにかまだ用事があるの」
 他意はなかったんだけどボクはなんとなく尋ねる。聞くと考えるように彼は首をかくんと傾げ、
「うん、まあ、用事と言うか」
 言った。一瞬困っていると言うか、迷っているような感じがなんだか珍しいなって思う。
「えーと。ボクがいないあいだにこの状況をそっと改善するべく行動する……わけないよね」
「その考えはなかったな――」
 ですね。ボクも言っててそれはないだろうなって思いました。
 何をするつもりなのかもう少し詳しく聞こうとしたところに、始発の馬車がやって来た。
 朝一の馬車は、遠くへ出かける行商のオバさんなんかが、大きな荷物を背負ってひしめいていて、かなり気合を入れて乗らないとハジかれそうだ。僅かな隙間にボクは何とか体を押し込む。
 数時間の辛抱だ、しょうがない。
 ばいばい、とナナシに手をひらひらと振られ、司祭サマをよろしくねと何気なくボクも振りかえしながら、そういえばこうして別れ際に手を振る、だとかそういうのもこっちに来てから覚えた行動なんだろうなと思った。
 見た目ぼうっとしてるけど、あのひと、わりと順応力あるのかもしれない。


 でもって数時間、行商のオバさんのドデカい荷物とおしくらまんじゅうをくりひろげ、いい加減勝負にギブギブギブギブになり、だもんで昼過ぎにようやく王都が見えたとき、ボクは心底ほっとした。
 ああ帰ってきたんだなーって出張から戻って王都の外周壁を目にするたび思う。
 生まれたところではないけれど、七つのころからもうずっと住んでいる場所だし、古巣と言ってもいいよね。
 その、古巣である都の入り口の大きな門の前に、見知った姿を見つけて、いや見知ってっていうか見慣れてるんだけど、ボクは意外すぎてビックリした。
「シラス?」
 太陽がでているのに自主的に外に出てるとか雪でも降るんじゃないだろうか。やれまぶしいだの、頭が痛くなるだの、気持ちが悪くなるだの言ってなかなか外に出ようとしないヤツなのに。
 しかも、こう、ちょっと眠くなるようなけぶる春の午後、影を切り取ってきたみたいに黒いです。
 怪しいほど真っ黒です。
 そりゃ黒って割と地味な色だけど、頭が黒い上に着ているものまで黒ずくめ、全身黒いのでなんというか石炭が手足つけて歩いているような、そんな感じがある。門に寄りかかり、腕組みをしている姿はばっちり、はっきり目立ってた。なんなんだろうね、王都のセンスってなんだろうね、だとか後ろのほうでオバさんが呟いている。
 ですよね。黒いですよね。
 目立つのは参るなぁと思いながら、街が近付いてゆっくりとすすむ馬車からボクは飛び降り、小走りにシラスの近くまで走り寄った。どう考えてもボクを待っているよりほかここで待つ理由が無さそうだったからだ。
 近付きながら手を振ったけど、シラスは無言だった。
 走り寄り終わったボクを上から下までじろじろと眺めなめまわして、やっぱり無言。ええっとおかえりとかも言わないですか。
「ただいま?」
「……」
 らちが明かないのでボクのほうから挨拶してみたけど、じろりと眺めるばっかりで、おかえりと言ってくれそうな素振りはなかった。
 いったいなんだろうねと思い始めたあたりで、急に手を伸ばし、ボクの腕をぐいと掴んでシラスは背を向け歩き出す。
「ちょ、ちょ」
「……」
 王都に戻ったらそのままサンジェット教会へ直行しようと思っていたのに、ぐいぐいと引っ張られたボクは、やがてもう朝の市場の活気も終わった市場通りを通り抜け、中央公園に入るとあんまり誰も来ないような端のほうの芝の上に、乱暴に放り出されたのだった。
 ぐき、とか突いた手首が言ったんですが。
 いやこの際痛いとか捻ったとかどうでもいい。
「……なんな、」
 説明もなしに不機嫌に引っ張ってつれてこられて、しかも無言ってなんの嫌がらせだ。なんなんだよって怒鳴ろうと半分までだしかけたボクの言葉は、だけど全部を言いきる前にどこかへ吹っ飛んでしまった。
「――」
 芝の上にボクを放り出しただけじゃ飽きたらず、いきなりシラスがボクの上に覆いかぶさってきたからだ。ちょっと待ってください。朝からいったいなんですか。被さっただけならまだしも首筋に顔を寄せて有無を言わさず噛みつきやがった。
「や、め」
「レイディ」
 ようやく口を開いたかと思ったら、返された声はぶっきらぼうというよりはなんだかドスがきいていて、ほんとうに怖いんですけど。ていうか、
「なにしてんだよ……!」
 急に今何をされているのか気がついて、かっと頭に血が上る。問答無用で喰らいつくなんてことシラスがするはずないって思ってた。だってボクはシラスと契約を結んでいて、ボクが嫌がることは彼はしないって約束で。約束通り、ボクが心底嫌がるそぶりを見せたら、彼はそれ以上嫌なことをしてこなかった。
 いきなりがっつくとかされたこともなくて、ボクは本気で混乱する。
 いたいからやめろって両手で顔を押しのけようとしているのに、彼の力は怖いくらいに強い。噛みつかれた首も押さえつけられた手首も痛かった。
「放せよ!」
 めちゃくちゃに暴れようとして、押し込まれた体がボクの意思じゃほとんど動かせないことに気がついてびっくりする。え、って、なんでって思う。そうして、今まで普通に打ったり、叩いたり、蹴ったりしていたことが本当はまるでできなかったんだということにボクは突然気がついてしまった。今までそれができたのは、シラスが手加減をしてただけなんだって。
 噛みつかれた首筋がじくじくものすごく痛くて、シラスの記憶が流れてくるとかどうとかそんなこともボクには判らなかった。ああコイツが本気をだしたら、こんな風にボクのこと押さえつけて好き勝手にできるんだ。だけどだったら主従の契約とかいったい何なんだよって思う。これじゃそっちが主体でボクはやっぱり食われるだけのエサじゃないですか。
 ――キミがイヤなうちは俺は絶対に食わないから。
 前に彼がそう言ったことを思い出す。なんて白々しい嘘なんだろうって思った。絶対に、とか言って全然守れてない。
 だってボクは嫌だった。今までも食わせろって迫られたことはたくさんあって、イヤだだとかあとでだとかそういう風に答えてなだめたりすかして逃げたりしたけど、それでも今ほど嫌だと思ったことはなかった。
 だのに圧し掛かるシラスの体はがんとして動かなくて、ボクは初めて彼を怖いと思った。シラスは人間じゃない、魔物って言う人間とは別の種族だっていうのは判っていた。判ってると思ってた。でも、自分にだけは手加減してくれる、どこかで甘やかしてくれてるって思っていたのに、その薄っぺらい信用をぐちゃぐちゃにつぶされた気分だった。
 どうしようって思う。無力だって思い知らされることが悔しかった。みっともなく震えているのを抑えたくて、ボクは奥歯を力をこめて噛んだ。ぎり、ってこめかみのあたりで音がする。その音に気付いたのか、シラスが首筋から顔を上げてボクをのぞきこんで、すごくびっくりした顔になる。なんだよってまた腹が立つ。びっくりしてるのはこっちの方で、ボクはもうそれしかできることがないんだから、最後の表情まで持っていかないでほしいんですけど。
 そうしたらいきなり手を伸ばされて、視界を覆われそうになる。体の動きを封じるだけじゃ物足りませんか。頭を振ってその手から逃れようとしたらそうじゃないって、苛立たしそうな声で耳元に囁かれた。
「なに」
「……レイディ、」
 言いかけたシラスの顔が唐突に遠のいて、ボクは誰かがボクからシラスの体をものすごい力で引きはがしたのだと遅れて知った。解放されて空気が一気に飛び込んできて少し噎せる。そうして呆気にとられているボクの前で、その誰かは拳を作ると迷うことなく彼をブン殴る。
 力任せに一発いれてそのまま救出人はボクの方を振り向く。
「タマゴ」
 静かな顔だった。
 厳しかったけれど、静かでやさしい顔だと思った。
「おいで」
 ネイサム司教は手を差し伸べ、ボクを立たせてくれた。唖然となったままボクは引かれて立ち上り、怪我はないかという問いに言葉もないまま頷く。そのまま、付いてきなさいとうながされ、だけどボクはブン殴られたまま芝生の上でうつむいて動かないシラスがやっぱり気になって振り返る。
 どう考えてもいつものシラスじゃなかった。
 どうしちゃったの。
 ちらとそんなボクを振り返った司教は付いてきなさいとボクにもう一度言った。シラスは動かない。どうしたものかと一瞬迷ったけど、今は司教に付いて行った方がいいような気がして、ボクはシラスを振り返りながめながら、司教の後を追うことにする。
「あ、あの」
 公園を出たあたりで一旦司教が足をとめ、ボクへむかって懐から手拭いを差し出した。意味が判らない。噛み付かれた首に手を当ててみたけど、痛かった割に血がにじんだ気配もない。差し出されたそれを凝視すると、使いなさいと言ってボクの手に握らせて、
「文が届いていたのでね」
 言った。
 そう。朝、村から馬車へ向かう前に、伝書鳩を王都カスターズグラッドにむかって飛ばしておいたんだ。目を覚まさない司祭サマの容体はもしかしたら一刻を争うかもしれないし、ボクが教会に着くまでに司教に事前に知っておいてもらった方が、説明して理解してもらう手間が省けると思ったから。
 まさかこんなふうに迎えに来てくれるとは思わなかったけど。
 気まずくて俯いた拍子にぽったんと何か水滴が落ちて、
「……あれ」
 ボクはそこではじめて自分が泣いていたことに気がついたのだった。慌てて差し出された手拭いで拭う。
 ああ、もしかしてさっきシラスがボクを見てびっくりしたのって、ボクが泣いていたからだったんだろうか。だったら自業自得ですよね。不本意だったけど怖いようなことしたんだから、泣くのは当然だろって思う。


 教会に着くと、ボクはいつもの執務室へいざなわれ、
「治療の道具は揃えてある。できれば私が行きたいところだが、神殿との緊急会議があって手が離せそうになくてね」
「はい」
 そうして司教からふくらんだ鞄を手渡された。
「そう難しい処置ではないし、手順は道具と一緒に鞄の中へ入れてある」
「やっぱりなにか、目を覚まさない原因があるんですね」
「大きな芋虫と言ったね」
 ボクが尋ねると、司教は足をとめこっちをじっと見た。まるでボクの頭の上辺りにボクが見たあの畑の記憶があって、それを見ているようなすこし目をすがめた顔で、
「白い」
「……ああ、はい。白い」
「人間の腕より太くて」
「はい、……ものすごく大きかったです」
「おそらく付近に成虫がいると思われる」
「え」
 言われた言葉にボクは目を剝いて聞き返す。聞き返しながらああでもそうかもしれないって思っていた。芋虫って言うのは、サイズは違えどなにかの幼虫で、てことはアレが羽化した成体がいるってことだ。想像したくないけど。
「あの、ネイサム司教」
「うん」
「司祭サマを治すだけじゃなくて、……やっぱり、……ボクが、それ退魔してくるって……はなし、なん、で、す、よね……」
 言っていたらなんか気が滅入ってきた。声が小さくなる。魔物が怖いってのももちろんあったんだけど、それよりあのゴンぶとサイズの大人の虫ってどんなのなんだよって思ったからだ。
「厄介な相手ではないよ」
 少なくとも、お前が相手をしてきた今までの相手よりは。しょぼくれたボクにそんな風に司教は言った。慰めですか。そりゃグレイスだのムドゥブだのバズスーだのに比べたら……っていうか、比べる基準が間違ってる。アイツらが強力すぎるだろ。常識的に考えて。
「それに連れがいるのだろう」
「います。ひとりじゃちょっと自信なかったので」
 言いながらボクは、村に置いてきたナナシさんは今ごろ何をしているのかなって思った。なにか用事があるような素振りだったけど、詳しく聞けなかった。それから次にシラスのことを思いだす。たしか魔物って言うのは月の満ち欠けに敏感で、だからもしかするとさっきシラスがヘンだったのって、満月が近いとかそう言うのなのかな。新月付近はとくべつげんなりしてるとか、満月の夜はそわそわ散歩に行くとかはあったけど、ああいう風に狂暴になったのって初めてだった。でももしかしたら、今まで我慢してただけなのかもしれない。本当はああした性質なのかも。
 行きなさいとうながされ、退出するついでに部屋のなかの日めくりカレンダーに何気なく目をやったボクに、
「タマゴ」
「は、」
 急に司教が話を振った。
「あれは妬みだ」
 え、ってボクは司教に聞き返そうとしたんだけど、ひらひらと手を振られてそれ以上司教は答えてくれる気はないようだった。ボクは司教の今までの従者の中で、一番長続きしている。こうなったらいくら聞いても答えてくれないって言うのも判っていた。だから、無駄口をたたかないで黙って部屋をでた。

 治療道具の入ったかばんをひらいて、中に司教の指示の書かれた封筒もあることを確認すると、ボクは取り急ぎ乗合馬車の発着場へ向かおうとした。
 だけど、向かう途中の広場の日時計が、午後の最終馬車が出てしまう時間までまだずいぶん時間があることを示していて、ボクははたと足をとめる。
 どうしよう。
 家に帰って一息ついてもいいんだけど、シラスがどうなっちゃってるのか考えると怖い。家にいるとは限らないけど、もし家にいて、またがっぷりと組み合うことになって、結局寄り切って彼の勝ち、とかだとボクはどうしようもできないし。
 困る。
 だけど、乗り場で待つには結構時間あったし、教会に戻って時間をつぶそうかとも思ったんだけど、やっぱりあのちょっとヘンなシラスが気になった。馬車に乗って王都を離れたら、また二、三日帰れない。それまで気になったまま放置っていうのもどうなのって思う。


 迷ったあげく、結局ボクは自分ん家の玄関のドアの前にいた。いつ見ても土蜘蛛の巣みたいな、傾きかけた入口だ。そのうち、もっときちんとお給金を貰えるようになったら、南向きの出窓のあるおうちを借りたいと思う。そんで、出窓に植木鉢置くんだ。あと、地下室もないといけないな。自然にそう思って、もしボクが新しい家を借りたとしても、シラスと一緒に住もうとしている自分に思い当たった。
 怖い、けど。
 怖いんだけど、けど、ドアを開けないと始まらないよね。
 馬車の時間もあるし。
 割と意を決して、ボクはドアノブに手をかけぎゅうと右へ回す。とくに抵抗もなく開いたということは、鍵がかかってないということで、つまりシラスが家にいるっていうことだ。
 なんか心臓が痛いぐらいにどきどきしていて、早鐘を打つって表現は、ほんとうにそのまんまなんだなとかどうでもいいような感心をした。ちょっとだけお祭りのときに度胸試しで入った、お化け屋敷とかに似ているかもしれない。怖い、でも見たい、でも怖い、的ななにか。
 おそるおそる自分ん家の中を覗いて、ああやっぱりどこか別の場所で時間をツブして、馬車に乗って出かけてしまおうかって思った。たいして広くもない家の中がすごいことになってます。っていうか、こんな惨状の我が家をボクは初めて見ました。
 玄関入ってすぐに狭い居間と台所なんだけど、そのテーブルの上といい、床といい、書き散らかした羊皮紙やらなんか煎じ薬の材料やら破れた(破った?)本やらでぐっちゃぐちゃになっている。その上を、超超高級ワインの瓶がざっと見ただけで十本以上、空になって転がっていて、少しだけ残った中の赤色がたれてますますものすごい演出になっていた。
 なんていうか、よく、ヒステリーを起こした、みたいな描写で演劇なんかで奥方サマが手当たり次第に小物を投げつけるとかそう言う演出あるけど、実際にそうなった現場ってものを見たことはない。あれは過剰演出ってヤツで、実際なかなかないと思うし、それをやるときって言うのはよっぽど、よっぽどなんだと思う。人間そこまで追い詰められるときってなかなかない。ボク自身もやったことないし。そもそも後の片づけを考えただけで余計欝になりそうなので、散らかして八つ当たりはしない。
 うわあーこれってどういうことなの。
 最初見たとき、もしかするとこれはボクやシラスのいない間にだれか、例えば物盗りだとかそういう物騒な人が入ったのじゃないかって思った。で、散らかして出て行ったのかもしれないって。
 ちがうんだろうなと思ったのは、部屋のなかに散乱している小物と言うかゴミというか残骸が、何ひとつボクのものは含まれていないってことに気付いたからだ。泥棒だったらわざわざ区別するようなことしないですね。
 ここまでぐちゃぐちゃになった家の中を見て、ついでにさっきの公園でのことを思い出して、それでもボクが中に足を踏み入れたのは、なんというか、ボクのものは一切ひどいことになっていないってあたりにちょっとだけ笑ってしまったからだった。
 笑ったというと語弊があるかも。なんというか、安心した、までは行ってないんだけど、ああ、なんとなく大丈夫なんじゃないかって思ったからだ。
「あの」
 狭い家の中で、隠れるところなんてどこにもないし、そもそも彼に隠れる気なんてなかったんだろうと思う。だったら地下室に籠っていればいいのに、こうして今のソファの上に寝そべっているあたり、
「シラス」
 きっと口に出したら彼は怒るだろうからボクは絶対言わないけど、なんだか可愛いヤツだな、とか思ってしまった。まぁでも怖いんですけど。
 真っ黒黒の魔物は、丸めて放り投げられた皺だらけの羊皮紙と同じように、なんだかしおれてソファの上にいた。うつ伏せになってじっと床を見つめたまま動かない。玄関からは暗い部屋のなかは彼の表情まではよく見えなくて、もしかして寝てるのかも、だとかしばらく後ろ手に閉めたドアの前から眺めて、しびれをきらしたころに少しだけ身じろいだのが見えた。ああ起きてるんだなって思う。じゃあボクの声も聞こえてますよね。なにか返事してください。
「シラス」
「……」
「シラスってば」
「あ?」
 低く不機嫌に返された声はボクがしつこいから渋々出したって感じで、声自体は相当不穏だったんだけど、あれってボクは思った。呂律が回ってないです。けど、ボクは今までシラスが酔っ払ったのなんて見たことがない。超超高級ワインを飲んだって、火が点くような強い度数の飲んだって、平然としてまるで変わりがなかった。酔ってない風にとりつくろってる、とかそういう無理している感じではなくて、本当に強い、強いというよりはアルコール自体が作用してないって感じだった。だからたぶん、彼にとってのお酒と言うものは酔うためのものではなくて、ボクらが口にするジュースやお茶のような感覚にちがいない。
 だからシラスがおぼつかない口調になってるなんて初めてのことで、もうなんか、えー、どうしようって感じだった。次から次へと初めてのことが起きすぎます。一日にひとつくらいにしてほしいです。
 それに、酔うとか、どう見ても愉快な酔い方じゃないところが気になった。ヤケ酒ってヤツですよね。ボクにも経験があるからわかるけど、頭が痛くなるばっかりでまったくおいしくないし楽しくもないからそれってやめた方がいいです。
 この片づけは誰がやるんだろうなあとか思いながら、ボクはゆっくりとソファに寝そべるシラスへ近寄る。近付きながらなんだか門のところにつながれてる大型犬の横を、どうしても通らないといけない状況に似てるなって思った。届け物とか。どうしても時間内に届けないといけないのに、絶対噛みそうな顔をしたでっかいのがつながれてて、嫌がらせかって。でもどうも寝てるみたいだから、そうっと横を通ったら起きないで通してくれるんじゃないだろうかとか。見つからなかったら平気じゃないだろうかとか。
 そうしていつも見つかるんだけど。
 そろそろと近付いたボクを胡乱な目で見上げて、それからシラスはなんで来たんだよと言った。なんでって、脅されても困る。ここ、ボクの家です。自分の家に帰ることっておかしいですか。
 言うとそうじゃないって言われた。俺が怖いんだろって言う。怖いか、怖くないか、二択しかないのなら当然、
「怖くないって言えば嘘になる、けど」
 力で叶わない相手と二人きりになる状況というのは怖い。ましてや相手が自分に危害を、
「――ぃぅ」
 急にシラスが手を伸ばしてボクの体を引きよせた。喉から思わずひいとか言う声が出そうになって、さすがにそれは相手に悪いと無理矢理飲み込む。飲みこんだつもりなんだけど言葉の切れ端が鼻から漏れてなんだか情けない音になった。
 強い力で引きよせられたボクはつんのめって、ソファ横の床に体勢を崩して膝を着く。こうするとソファの上にいるシラスの方が高位を占めていてよけい怖い。ノラ猫のケンカで、なるべく相手より高い塀とか屋根の上に行こうって言うのが判る気がする。
 何をされるのか判らない相手から見下ろされるのって怖いんだ。
 見上げると、濃いブランディ色の目がじっとボクを見ていた。日に透けたり、怒ったりすると若干色が薄くなるってことをボクは知っている。見つめられると動けない。視線に圧力があるんだってことを、ボクは改めて思い知った。
 そのままこっちをじっと見ていたシラスが、怖いくらい真面目な顔のまま、視線をボクの左手に移す。そこには赤いアザのような契約の印があって、
「い――づッ」
 左手を持ち上げゆっくりと顔に近付けたシラスに、いったい何をする気なのかとボクが聞こうかとした瞬間、手の甲の辺りにいきなり歯を立てられてボクはもう一度悲鳴を噛み殺した。ていうか、
「い――痛い!痛い!痛いってば!」
 思わず腕を引こうとして、頑として動かない腕にぎゃあとか思う。そう言えば猛獣に噛まれた時って無理に引こうとすると余計に傷がひどくなるとか。一度押し返すと力が緩むからその隙に逃げるんだって。思いだしながらじゃあシラスは猛獣並みかよだとか自分にツッコミが入った。猛獣よりタチが悪いかもしれない。
 皮が破けるほどには強く噛まれてないので、手加減されてるとは思うものの、でも痛いものは痛いです。なにするんだよって自由になる右手で彼の体を押し返そうとすると、今度はそっちの右手を取られてべろりと舐められる。本当ならボクはそこでキレるべきだったのかもしれない。いい加減にしろって怒鳴り散らすべきだったのかも。
 でも、舐めあげるその仕草がすごくエロいです。自分の頬に血が上ったのがわかった。
 そんなボクの顔を見て、得たり、みたいな顔をシラスがする。キミは俺のものだろって呟いた。えっと、キミがボクのものじゃなかったですか。順番が逆ですね。だけどその彼の声を聞いて、さっきネイサム司教が言ってた言葉が突然すとんと腑に落ちてしまった。
 ああなんだって思う。別に満月だとか、凶暴な性格だとかそんなんじゃなくて。
 妬みだ、って司教は言った。それってつまり焼きもち焼いてるってことだよね。
 誰が、誰に。
「ナナシさんと」
 言うとシラスがびくりと反応するのが見えた。判りやすくて助かります。
「ボクがナナシさんと出かけるのが気に入らなかった?」
「べつに」
 ぶっきらぼうに吐き棄てたシラスの息が酒臭い。どんだけ飲んだんだよって思った。
 それから莫迦だなぁって思う。
 そんなに嫉妬するんだったら、はじめから付いてきてくれればいいのに。泰然としてるのが今までのキミだった。教会の誰と出かけたって、近所の誰と出かけたって、気にしてる素振りなんて見せたことがない。だのに、なんで急に独占欲丸出しにするのか説明つかないですよね。
「とられると思ってる?」
「はあ?」
 同じ魔物って言うのが気になるんだろうか。
 顔を背けながらキミは動揺している。ボクはずっとキミといたいんだよって、今まで何度も言ってきたと思っていた本音を、コイツはまるきり信じていないんだって思った。思うとなんだか腹が立つ。どうせ右から左に聞き流してたんだろって。
「信じてくれてないって知るとなんか頭に来るね」
「なにが」
「ボクの言葉は信じられない?」
「だからなにが」
 苛々しながらシラスが目にかかった前髪をかき上げる。邪魔なら切っちゃえばいいのにって思った。そうして無駄なものをキミはたくさん周りにまき散らして、ボクがそれ以上近付かないように牽制している。だったら徹頭徹尾その態度を貫けよって。
「これ、シラス知ってる?」
 ふと思いだしてボクは自分のポケットから、ナナシさんにもらったタネを取り出した。知ってる?って聞きながら、きっと彼は知ってるだろうなって思う。百科事典が服を着て歩いているようなヤツだし。そうしてその知識だとか言う多くのものも、彼を取り巻く無駄なもののひとつなんだなって気がついた。崩れないようにそうして周りを固めて、息苦しくはないですか。
「……おい、」
「不老不死になれるんだって」
 さっと顔色を変えたシラスを見てなんだかざまあ見ろって思った。ナナシさんがくれたやつだけど、あのひとの言い方というか話しぶりから、割とロクでもないものなんだろうなって言うのだけはうすうすとボクにもわかった。あのひと、あんまり先のこと考えてないというか。それを人間に渡して仮に飲んだとして、それから飲んだ人間が一体どうなるのかとか、そういうのにきっと興味がないんだ。
「よこせ」
「いやだ」
 手を伸ばして奪おうとしてきたので、ボクは急いでシラスから離れた。離れながら、ああ、やっぱり馬車の待合所にいってればよかったって思う。
「これを飲んで、ボクが死ななくなったら、シラスはボクが言っていること少しは信じてくれるのかな」
「そうじゃない」
 言いながら余計苛々としてる様子が見てとれた。だったらさっきみたいに力任せに奪えよって思う。ぎりぎりのところで止めないのって、飲んでも仕様がないって思っているんですか。結局今のままのボクは、信じられないって彼に言われているのと同じだった。
「もう行くね」
「……待てよ」
 自分のしたことにようやく気付いたのか、シラスが顔をしかめて舌打ちをする。でも、今更取り繕おうとしたって遅いんだよって思った。
 治療道具の入った鞄を手にして、足早に家を出る。後ろからおいとかまた呼ばれたけど、今度は無視をした。
 玄関の鍵は閉めようかどうしようか迷ったけど、中に彼がいるのにボクががちゃがちゃと閉めていくのは、なんだか冷たい感じがしたのでやめておく。
 歩きながら半日通りを眺める。狭い路地に家がひしめきあって並んでいて、まるでさみしいからみんなで寄って固まっているようだと思った。個々はとけ合えないけどくっついてたらとけ合っている気分になれるんだなって。
 乗合馬車に向かいながら、ボクはまだ歯形が残っている左手を眺めて、その上から同じように噛んでみた。人通りがなくてよかったと思う。路地を自分の手を噛みながら泣いてる人間とか、ちょっと危ないとしか思えなかった。


 村へ向かう乗合馬車は、王都へ戻ったときと真逆にすごく空いていて、というかボクと、もう一人、村へ戻るというお兄さんとの専用貸切みたいになっていた。込み合っていると特に気にもならないのに、御者のオジさんとボクとお兄さんとの三人だと妙に気まずい。
 最初は天気の話だとか、このところようやくあたたかくなってきたとか、そうした当たりさわりのない話をしていたのだけれど、それもいい加減尽きてしまって無言になる。一度黙ってしまうと次に口を開くのが億劫になってしまって、それでお互いに黙ったまま、それぞれの思考の中に沈んでいる感じだった。
 馬車の後ろに陣取り、なんとなしに空を見上げると、日も暮れかけた中夕焼けが綺麗だった。それでしばらくぼんやりと空を眺めていた。上を向いてれば涙がこぼれないとか、どっかの歌詞みたいだなって思う。むなしいというか、脱力して何もかも放り投げたいような気分だったけど、自分の瞳は乾いていて潤みひとつない。泣きたいときに泣けると便利なんだけど。
 それから、夕焼けの中に一点、ぼつんと真っ赤な雲を見つけてあれって思う。夕焼けだったし、うす紅色だの橙色だのに染みわたる空は見なれたものだったけれど、その中で赤だけが異様だった。
 しばらくじっと見て、雲にしてはずいぶんまとまってるんじゃないか、というよりあれ動いてないかって気がつく。赤色のかたまりは、呆気にとられているボクの視界の中でみるみる大きくなって、
「う……わ」
 前言撤回。
 雲にしては小さく見えたそれも、馬車の真上に迫ってみるとシャレにならない巨大さだった。深朱の羽虫の群れだ。羽音がすごいことになっている。
 羽虫の雲が、馬車を襲ってきたのだった。
 御者のオジさんがなにかを喚いている。
 たぶんなんだこれは、とかやばいぞ、といったたぐいの。手綱を持った馬が音に怯えて立ち上りかけてて、それを抑えるのに必死なようだった。
 村へ戻ると言ったお兄さんも引き攣った顔で固まっている。見回せば辺り一面赤い渦で、これがとんでもない数の羽虫だと考えただけで気が遠くなりそうだった。
 野生の生物かもって思ったけど、野生の生き物ってこんな風に狂った動きをするんだろうか。
 それからこれがもし魔獣と呼ばれる魔物の一種なんだとしたら、やっぱり生気を吸うのだろうかって思った。それとも体に卵を産み付けるとか、そういう嬉しくない生態を持つ生き物だろうか。ああやっぱりボクはもっと勉強すべきだと思う。できれば歩く百科事典になれるくらいの。そうでないと魔物にであっても、退魔士としてどういう対処をしたらいいのか判断もできない。
 とうとう馬がパニックを抑えきれなくなって、馬車の速度が徐々にマズいことになっている。制御不能になるのが目にみえていて、その中でオジさんがなんとか馬をなだめようと声を張り上げていた。
 わけが判らなくなりながら、ボクは治療道具の入った鞄の口を開ける。さっき中を確認した時に、聖水の入った小瓶が目についたからだ。魔物だったら、聖水で勢いをおさえられるかもって思った。
 夢中で小瓶をとりだし、口をゆるめて数滴を手に受ける。難しい退魔の仕方はしらないけど、基礎的なお祓いのやり方くらいは司教について何度も行っていたし、ボクだってわかってる。
 だけど、馬車の上へお祓いの印を書こうとしたとき、いきなり羽虫が束になって馬の頭に突っ込んだ。高い悲鳴を上げて馬が立ち上がり、そのせいで荷台がひどくはねた。御者台の縁へ捕まっていたオジさんとお兄さんは揺れを必死でこらえていたけど、
「あ、」
 何にも捕まっていなかったボクは、バウンドした荷台の上から見事に空中に放り出された。ここがだだっぴろい荒野でよかったと思う。崖っぷちの道だったりしたらシャレにならなかったに違いない。とりあえず、どこかに落下死する危険はなさそうだった。
 でも、一撃で死傷する可能性はなかったにしろ放物線を描いたボクはすぐにぐんぐんと地表に近付いて、その丁度落下地点に岩肌が見えて、ああまずいなって思った。思うだけの余裕があったってよりは、走馬灯、までは言わないけどなんか視界がゆっくりって言うか、コマ送りのように岩肌が迫ってくるのが判った。頭から落ちてるし、これ結構ひどいことになるんじゃないだろうか。
 頭からって言うのが心底いただけないんですけど。
 衝撃に備えてせめて腕で頭を覆う。ああでも割とだめかも。ひどいことになる覚悟を決めたときに、いきなりぐいと引っ張られる感触があって、次の瞬間立ち眩みとともにボクは地面に立たされていた。
 えって声が出る前に、ボクの目の前に黒いつむじ風が巻き起こって、思わず目を閉じる。閉じながら懐かしいにおいがした。懐かしいというか慣れたにおい、いつも近くにあったにおい。
 つむじ風はそのまま暴走する馬車へなだれるように纏わりついて、離れていたボクは、馬車を取り巻く赤い羽虫の群れの、さらに上から覆う黒い風を見た。水に油を放り込んだように、黒い風に覆われた赤い雲はちりぢりになる。眺めているボクはええー、とか感心するしかなくて、だから遠くの方で風がたちまち形をつくって見なれたシラスになってもあまり驚かなかった。というか、驚きはもうこの半日で出尽くした気がするんです。
 そうしてこっちへ向かって近付くシラスの顔を見る。どうしてここに、だとかそう言う疑問は出なかった。普段やらないだけで、彼が神出鬼没できるってことは判ってた。
 近付いてくるシラスの顔は、びっくりするぐらい強張っていて真っ青で、なんだか今にも倒れてしまいそうだった。怯えているという表現がぴったりで、でもボクは今まで彼のそんな顔を見たことがなかった。思ってから、いきなりああそうかって気付く。
 ボクの言っていることがシラスは信じられないとかそう言うのじゃなくて、ただ怖いんだ。
 ボクが、いきなり死んで、目の前からなくなってしまうのが怖いんだ。
「そんなにヤワじゃないよ」
 だからボクは、近付いてきたシラスにそう言う。はあ?って顔をされて、ああもう何なんだよ、とか言って彼が目の前でしゃがみ込む。脱力したみたいだった。立っていられないっていうなら危機一髪だったボクの方が震えて当然なんだけど、顔を覆っているのは彼の方だった。
 こうやってボクが毎回ポカするたびに、もしかすると今までだって胃に穴でもあけていたのかもしれない。平気そうな顔をしてたけど判ったものじゃないと思う。
 しゃがんだシラスの横に一緒になってしゃがんで、下から彼の顔をのぞきこんでみた。
「よく馬車とめたね」
「あ?」
「知らないふりしてるかと思った」
「キミが絶対、とめろって言うだろ」
「うん」
 それはきっと言うんだけれど。
「とめてくれてありがとうね」
 遠くの方に見える馬車の上で、オジさんとお兄さんは驚きのあまり放心して、ヘバってるみたいだったけど、ケガはないようだった。
 ありがとうとボクが言うと、怒ったような顔をして別に、と彼は言う。照れているんだって判って、なんだかニヤけてしまった。助けてほしいときに助けてもらえるとか。ポイント高いじゃないか。こいつめ。
 それからどこか向こうの方を向いて、謝らないからなって急にシラスが言った。え、て返すと横目でちらとこっちを見てくる。それで、昼のことを言ってるんだなってわかった。
「うん」
「でも」
「うん?」
「でも悪かった」
「……それって」
 結局謝ってることになるんじゃないんですか。謝らないからって言ったすぐ後に言うセリフじゃないよね。呆れて笑ってしまうといきなり腕を伸ばされて、しゃがんだままきつく抱きしめられてしまった。わりと痛いです。苦しいよって言いたかったけど、それくらいは我慢するべきかもしれない思ってちょっとだけ我慢をした。


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最終更新:2012年04月13日 08:55