「えーと」
 あのあと、まだ少し放心状態にあったんだけど、それでも自分の仕事と言うものを思い出して体が勝手に動いたのか、御者のオジさんが馬の首を巡らせてボクらを荷台にのっけてくれて、無事村へ辿り着いた。職人根性?根性でもないのか、でも気が動転してたっ仕事をこなせちゃうくらい体が覚えてるって、すごいと思う。
 迎えに来てくれたナナシさんに司祭サマの容体はどうかと聞いてみると、あいかわらず眠り続けてるようだった。ついでに、芋虫たちの巣が判ったよって言う。いない間に調べてくれたらしかった。
 正直、ナナシさんが何かしてくれるとか、期待していなかったので、そんな親切行動もできるんだってちょっと意外です。失礼かもしれないけれど。
 ナナシさんを見たときに、若干シラスが威嚇するような目つきをしたけど、あからさまに態度でどうこうする気はないらしく、黙ってボクに並んで歩いている。そういえば、魔物同士ってケンカとかするんだろうか。基本的に相手に興味がないから交流はないって前に聞いたことあるけど、交流するのと、諍いを起こすのじゃ別だよね。縄張り争い的な。聞いてみたい気もしたけど、わざわざシラスの不愉快度数をあげるのは得策じゃないと思う。あとでこっそりナナシさんに聞いてみようと思った。
 寝かせてある司祭サマの部屋に戻って、治療道具のはいった鞄から道具を出して机の上に並べる。それからネイサム司教のメモを開いて、司祭サマの中に巣食った親虫の卵とやらを取り除く作業に入った。馬車の上でおさらいしてきたので、大体の手順は頭に入っている。
 上司曰く、つまり司祭サマは、幼虫らの親に卵を産み付けられて、そのせいで昏睡状態になっているとのことらしかった。孵化するには結構時間がかかって、二十日から三週間ってところらしいので、すぐに手当てをすれば手遅れになるようなことはないらしい。虫がどうこうってよりも、どちらかというと孵化するまで寝たまま、食べることも水を飲むこともできず、衰弱していくのが危険なんだそうだ。
 村のオジさんたちの話からすると、司祭サマは卵を産み付けられてから二、三日経過していると考えられるってメモにはあった。だから、意識さえ取り戻せればあとは自力で回復できるだろうって。
 しかし親虫の姿とかまだ見てないけど、産卵シーンはできれば一生見たくないと思う。どうやって、どこにうみつけるだとか、想像したくないです。わりとトラウマになりそうです。
 シラスは一緒に部屋のなかに入って来て、でも率先して手伝う気はないらしく壁際の椅子に座って腕を組んで居眠りしはじめた。
 側でぼんやり立っていたナナシさんに手伝ってもらって、司祭サマをうつ伏せに寝かせなおした。それから両手首と両足首に、指定された香辛料を聖水で溶いたものを数回塗りつけ、その上からまた別の香辛料を塗ったくった湿布を貼る。こうしてまず体の中の卵を固定するのだって。
 塗っている途中で何気なく顔を上げると、向かいにいたナナシさんがちょっと眉をひそめているのに気がついた。
「ナナシさん、気分悪いの」
「……ああ、ううん、ごめんね」
 ひそめているって言うのとは違うのかもしれない。
 なんていうか、例えば、あんまりおいしくない食べ物を口に入れたけどごっくんしなきゃいけない時、みたいな。これとてもおいしいのよ、とかすすめられて、好きじゃないんだけど食べられない訳でもなく、あーおいしいですよねーって愛想振りまかなきゃいけない時にする顔というか。
 聞くとナナシさんは、香辛料の配合具合が自分はあまり好きじゃあないって答えた。ああそうか。魔物なんだものね。
 部屋を出てていいよと言うと、もう一度ごめんねーって謝りながらナナシさんは少し離れた。見てるつもりらしい。出ていく気はないらしかった。完全にダメじゃないんだけど、まぁ好きじゃない、できれば離れてたい、くらいのところなんだろうか。ボクは残念なことに人間なので、この湿布のにおいを嗅いでも鼻の奥がすぅっとするようないいにおいだなぁとしか思えないので、その嫌悪感の度合いが判りません。
「えーと」
 次に、手首から肩口まで、足首からひざ裏まで、香油でしごきあげるようにマッサージしろって書いてあった。香油のにおいも結構独特のものだ。たらたらと掌に香油を受けて、それから腕まくりをしたボクは司祭サマの腕と脚をすこし強めの力で押し上げた。こうして胴体に卵を集めるらしい。皮膚の下に卵、とか考えるとちょっと力が抜けていきそうなので、とりあえず自分が何をしているのかあまり深く考えないようにしながら作業に集中する。
 そうしてしばらく腕と足をマッサージしたあとに、
「えーと」
 今度は体を仰向けにして、煎じ薬を飲ませろとあった。油まみれの手を拭いて司祭サマの体に手をかけたんだけど、意識のない人間の体ってめちゃくちゃ重い。しかもぐにゃぐにゃしてて、肩を持ったら腰が落ちるし、腰をひっくり返そうとすると足が捩じれてしまいそうだしで、
「シラス」
 離れているナナシさんに頼むのも何となく気が引けて、ボクは壁際にいるヤツに声をかけた。同じように苦手なんだとしても、ヤツの方が頼みやすい、というかボクの気が楽です。
 手伝ってほしいと言うと、あーとかダルそうな声を出しながら、シラスが近くに寄ってきた。あらためて何をしているのか、司祭サマとネイサム司教のメモを見比べている。
「あおむけに寝かせたいんだけど」
 ふーん、ととくに嫌がる様子もなく、シラスが司祭サマの体に手をかける。べたべただなぁとか言いながら、器用に体をひっくり返してくれた。男のひとの力って、こういう時さすがだって思う。
「シラス」
「ん?」
「いやじゃないの」
「……なにが?」
「香油とか、あとこのスパイシーな湿布のにおい」
「まあ、かなり独特だよな」
 薬草を持ち上げてふーん、ともう一度唸っている。きっとあまり好きじゃないにおいだったら、俺は嫌だって言って、なかなか手伝ってくれない気もしたので、苦手じゃないのかも。魔物でも人それぞれなのかな。
 やっぱり謎だと思う。
 そんなことを思いながら、司祭サマに煎じ薬を飲ませようとしたボクははたと困った。
「薬飲めないね……」
 困った。
 昏睡っていうのはつまり意識がない状態ってことで、そんな相手に液体状のものを飲ませるっていうのが無理がある。どうやったって誤嚥しますよね。
 鼻をつまんで口移しとかよくいうけど、やっぱり気管に入るんじゃなかろうか。ためしに口に水含んで仰向けに寝転がって水を飲んでみるといいです。鼻水だしながら咳き込むことになると思う、大概の場合。
 意識があったってむせるのに、だから意識がない場合どうなるのかよく判らなかった。無責任に飲ませることはできないし、でも飲ませないと虫の卵が下せない。
「シラス、司祭サマ起こせる?」
「体?」
「体じゃなくて意識の方」
「意識、」
 虫下しを飲ませないといけないんだと手にしたカップを示してボクは言った。
「……まぁ、意識が無かったら飲めねェよな」
「うん」
「親叩いた方が早いように思うが」
 親って何の親、聞きなおそうとして、ボクはシラスが言っている「親」が、卵さんたちやあの太い幼虫の親であることに気がついた。
「叩くって……、厄介じゃないの」
「叩くこと自体はそう難しいことじゃないけどな」
「けど?」
 聞きながらボクは、シラスがこっちの方をじっと見ていることに気がついた。いや、じっとっていうか、じっとりって言った方がいいような目つきです。こんなときなのに、コイツ、普段他の人をこんな目で見てないだろうかってふと不安になった。事情を知ってるボクは百歩譲るけど、事情知らない人がこんな粘着質な視線送られたら確実に通報しそうなレヴェルです。
「な、なによ?」
「タダではやりたくねェな」
「ぐぬぬ」
 つまりそれって、取引きをしないかってことですよね。
 ボクはうなる。
 なんだかんだ言って、ボクはこの視線に弱い。
 ちなみに毎度言っている気もするけど、痛いのは嫌いだ。大っ嫌いだ。
 だけど、それとは別にボクは食べることがとても好きで、三食座って食べられるだけでああしあわせだなあって思うし、誰かと一緒だったらなおおいしい。なかなか手にも口にも入らないけど、ラヴェリーローズルの特製ケーキとか食べたら本気で二、三日、ウチの上司のイビりがハンパなくても頑張れる。
 話がケーキにそれたけど、つまり、お腹を空かせて我慢しているシラスが気の毒といえば気の毒と言うか、食べたいのを我慢するってストレスたまるよね。
 それは可哀想だって心底思う。でもそれが例えばボクがご飯を作ることで解決するような問題なんだったら、ボクはきっと率先して彼にご飯を食べさせてやっただろうけど、
「無痛なら、無痛なら……。せめて無痛ならな……」
「なにブツブツ言ってるんだよ」
「切実な問題なんだよ」
 痛いって言うのともちょっと違うような気がするけど、生気を奪われる感覚って言うのは何というか独特だ。吸われるうちに手足の先からなんだか冷たくなってきて、自分の体の中に満ちていたものがなくなっていくのが何となく判る。それでも彼はずいぶん手加減してくれてるんだろうってのは判るんだけど。容赦なく食われたら、たぶんボクは文字通り抜け殻になるだろうと思う。
 実際、アンデッドのみなさんなんかはよく遠慮なく吸い尽くそうと追っかけてきたりするし。
 そうして、スカスカになったところに、無理矢理相手の一部が食い込んでくる。
 食い込んでくる独特な感覚はとても苦手だ。ボクがボクでなくなってしまう気がするから。いっそなくなってしまうならさっさとなくなってしまえばいいのに、ボクが自分を失うのはほんの少しのことで、結局スカスカな体の中にボクは戻される。
 足りない。そんな風にいつも思う。さっきまで満ちていたものが失い。それは絶対的な喪失感だ。
「ぐぬぬ」
 けれどもここでごちゃごちゃと躊躇しまくっていては、いつまで経っても司祭サマは目を覚まさないし、ボクに言いつけられている仕事も完了にはならない。
 まぁでも、仕事でなくたって意識がない司祭サマを放ってはおけないって言うのが真情だよね。
 それに、ラヴェリーローズルのケーキ最近とんと食べてないってこともついでに思いだしたし。
「……判った、取引しよう」
 魔物と取引とか考えたらぞっとしないけど。
 観念してボクはうなだれる。
「ただし」
 え、マジで、と不満そうな顔を一転、素直で嬉しそうになったシラスにボクもタダじゃいやだと言い添えた。
「後払いでいいなら」
「……後払いってなんだよ?」
「この村の事件が全部終わったらってこと」
「む」
 ここだけは譲れないよねって思って断固とした態度を取るボクに、彼は嬉しそうな顔をたちまちくもらせる。そう言えば割と無愛想に思えるけど、結構ころころと表情が変わりますよね。それってボクとの生活の影響ですか。
「あと、ケーキ食べたい」
「ケーキって……あのいつものどえらい行列にまじって延々待つところのか?」
「シェフおすすめの季節限定のやつね」
「ぐぬぬ」
 今度はシラスが唸って渋い顔になった。でもそれくらい交換条件で提示したっていいよねって思う。痛いし。痛いの嫌だし。
「俺の要求がひとつに対して、キミの要求が複数な気がするんだが」
「気のせいだよ」
 気にしたら負けだよって言うと、しばらく迷っていたようだったけど食欲に負けたのか、それとも何か理論みたいなものが頭の中で完結したのか、どっちにしろ彼は頷いた。
「わかった」
 しょうがねぇなって少し呆れたように笑いますね。それってボクのことなにかオコサマ扱いしたりしたりしてないだろうか。
「親虫を退治する。キミを食う。王都に戻って菓子屋に並ぶ」
 それでいいんだな?聞かれたのでいいよって今度はボクは頷いた。三つの願い、とかそんなような小話があったよねってふと思う。あれって叶えると悪魔は魂を持っていくのだっけ。
「じゃあ善は急げってヤツだ」
 言っていきなりシラスは踵を返し、ほら早くついてこいよとボクに向かって言った。善は急げってこういう時に使うことばじゃないような気がするんですけど。むしろ急いては事を仕損じるとかそういったたぐいじゃないですか。
 そう思ったけど、とにかく司祭サマをなるべく早く治療したい思いはボクにもあったので、うんと頷いてシラスの後を付いて部屋を出ることにした。
 それから、部屋にもう一人いたことを思い出して、
「ナナシさん、この部屋にいてもニオイ平気?」
 ボクは彼に尋ねる。
「……うん?」
「やっぱりこのニオイはキツいから隣の部屋にいようかなとか、そういうの、ある」
「別に大丈夫だよ?」
「お留守番頼んでもいい?」
「いいよ?」
 即答だった。本当に嫌だとかそれはちょっととか言わない人ですね。こちらとしてはありがたいけど、そこまで自主性がないのもどうかと思う。
「何もないと思うけど……何かあったら連絡頂戴」
「わかった」
 こっくりとうなずいて、今度は彼がさっきまでシラスが座っていた椅子に腰かける。よろしくねともう一度お願いして、ボクはシラスの背中を追って建物を出た。しかし契約を結んでいるガワとして、シラスにだけ交換条件があって同じように手伝ってくれてるナナシさんに何もないって言うのはやっぱり悪いだろうか。ちょっとだけそう思った。あのひと気にしてない確率の方がが高いけど。
 でも、生気はともかくとしても、なにかしてあげられることがあったらした方がいいのかもしれない。


 建物を出るとまたいつの間にかしとしとと雨が降り出していて、それほど気温は下がってなかったけどああまた濡れながら行くのかってちょっとだけ憂鬱になった。雨具着ても結局蒸れて結構濡れるんだよね。うーとか唸りながら空を見てると、同じように空を眺めていたらしいシラスが、行くぞと声をかけてきた。待っててくれたみたいだった。
「ああ、うん」
 今からまた部屋に雨具取りに行くのも手間だし、まあ濡れても風邪ひくくらいで大したことにはならないだろって濡れる覚悟を決めて、ボクは屋根の下から歩き出す。そうしたら足をとめてこっちを見ていた彼が、おら、とか言って外套を広げてボクをうながした。
「え、」
「濡れるだろーが」
「いや、そうなんだけど」
「風邪でもひかれると厄介だからさっさと入りなさい」
 早く、と急かされてボクはええーとか内心思いながら、それでもシラスに従って外套の下にお邪魔することにした。どう言った仕立て方をしているのか知らないけど、彼の外套はある程度の雨風をしのげる造りになっている。しかも蒸れない。それってきっとお高いんでしょうって思う。
 肌寒いと思わなかったんだけど、それでも温もった外套の中は気持ちが良くて、自分の体が意識してるより冷えているんだなってわかった。
「腫れたか」
 言って歩き出したシラスが、いきなりボクの首筋に触れてくる。うわーって思って硬直するこっちの身にもなっていただきたいです。
「え、え、なに」
「固まるなよ」
 苦笑されてしまった。でも、昼からあんなことやこんなことされてて、また痛いことされるのかって思わない方がどうかしている。なるべく、普通通りに接したいって思うけど、体が強張るのはどうにもならないです。
「は、腫れてる?」
「……ちょっとな」
 どうも昼間に無理矢理噛みついた痕を見て言ってるらしかった。そう言えばあの時は呆然としててそのままスルーしてしまったけど、ネイサム司教に思いっきり殴られてたっけ。ブン殴られた彼の方が腫れてそうな気がしたけど、肩越しに見上げた顔は憎らしいほどきれいなままだった。
「シラスまだお酒臭いね」
 親指の腹ですりと撫でられて、くすぐったくてぞくぞくしたので、そんなことを言って誤魔化す。言うと気分悪いんだからそれ以上その話題に触れんなって言われた。魔物でも飲みすぎると悪酔いするのか。このままだと二日酔いコースですね。だけど、気持ち悪いのに考えないようにして気を紛らわせるとか、それってまんま逃避って言わないだろうか。
 戻ったら二日酔いに聞くお茶でも淹れてあげるといいのかも。そんなことを思った。
「そういえばさ」
「ん」
「シラスは雨に濡れても寒くないの」
「は?」
 濡れたら寒いだろ何言ってるんだって、とても当然のように返されてしまった。
「……そっか、シラスは寒いのかー」
「キミは寒くないのか?」
「や、ボクは寒くなるけど」
 もう片方の魔物さんがねっていうと、シラスがちょっと渋い顔をした。イヤな顔ではなかったし、気に食わないって言うのともちょっと違って、じゃあどんなのって言うと説明に困るんだけど。
「……ね、」
「ん」
 しばらく黙ったままシラスに促されるまま歩く。そうして林の中に来たあたりで今回の仕事内容についていろいろ自分が考えたことを思い出し、ふと浮かんだ疑問をボクは口にしていた。
「ボクが、長年の夢を変更したら、キミは怒る?」
「あー?」
 夢ってなんだよって聞かれて、魔法介護士のことだよって返した。
「……介護士な」
「なんて言うか……、向き不向きって言うのがあるのかなって言うかさ。試験勉強をしても、魔法の素質がないボクはいつまでたってもなれないんじゃないかなって」
 それは、やすやすと魔法を使ってしまうシラスやナナシさんを見ていて思ったことだったり、甲斐甲斐しく働く親友のミヨちゃんを見ていて思ったことだ。
 みんな、力んで頑張ったり、無理して魔法を発動させてるわけじゃない。ボクが息を吸ったり吐いたりするようにそれはとても自然な動作で、だからこそそんな彼らを眺めてボクは腹に落ちてしまう。ああ、これは才能なんだって。
 ボクがなんでか知らないけどやたら魔物に好かれるのと同じことで、本人が望む望まないに関係なく、生まれつきの要素って言うやつは確かにあるんだって。
「でも、なりたかったんだろ?」
 そう。ボクはどうしてもどうしてもどうしても、あの白くてフワフワした魔法介護士の仕事着が着たくて着たくて、それでシラスに無理いってダダこねて、山奥の村から王都カスターズグラッドへ引っ越してきたのだった。
 ついでに諦めきれなくて、連続十回だか試験にオチまくったって記録も作ってしまった。
「なあ」
 ぽん、と頭に手を置かれて慰めるように掻き回され、ああもしかしてボクがまた妙なことでへこんで、もう魔法介護士やめるとか言ってるって思ってるのかなって思った。
「シラス」
「ん」
「ボク、落ち込んでいるわけじゃないんだよ」
「む」
「スネたり、ヒガんだりしてるわけでもないんだ」
「――」
「たださ。こうして、司教のに来た依頼を半分肩代わりしたりしてるとさ、退魔の仕事をするならするで……、もっと本腰入れてやったらいいのかなって最近思ったりして。お手伝いとか中途半端な気持ちじゃなくて、きちんと一人前の退魔士としてひとり立ちできるように、もっともっとまじめにボクは勉強しないといけないなって思って……。教えてくれようとしてるネイサム司教にも、働かせてくれてる教会にも、今のままじゃ失礼かなって思うし、……それに、いつまでもキミにおんぶにだっこじゃいけないでしょ?」
「――」
 ひとり立ちしないとねぇってもう一度言いながら、ボクはたぶん目的地らしいちいさな洞穴の入り口を見つけて、シラスの懐からぱっと飛びだすと、濡れないうちに急いで土の屋根の下へ小走る。
 ――……に俺は……ままでも構わ……んだけどな。
 奔る途中で背後からそんな声が聞こえた気がしてえ、といって振り向くと彼はとても渋い顔をしてこちらを見ていた。渋いって言うのとも違うんだろうか。なんでそんな顔をするんだろう。意味が判らない。
 そんな腑に落ちない顔をしているボクの隣に滑り込み、洞穴に彼はそのままずんずんと入る。洞穴は、ぽっかりと口を開けている入口に比べて中はすぐにドン詰まりで、なんていうのかな、壺を横にした形みたいな。魔物でなくても、なにか動物が巣を作りそうな、動物でなければ子供が秘密基地作りそうな、そんな形をしていた。
 そこで唐突にシラスは地面にしゃがんで、何かを数えはじめている。
「なにしてるの」
「虫の数をだな」
「おしえて」
 勉強しないとね、といったすぐ側から任せきりはよろしくない。いったい彼が地面のなにを数えているのか知りたくて、同じように横に並んで地面に膝を着いた。
「畑の作物が食い荒らされ始めてから一週間って言ってたよな」
「うん、オジさんたちそう言ってた」
「一週間じゃ、幼虫はまだ蛹にはならない。てことはもともと成虫のかたちをとっているヤツがここに棲みついて最初の卵を産み、孵化したヤツらが畑に行った。……ここまではいいか?」
「えーと、確か卵が孵化するまでに二十日以上かかるんだよね」
「そう」
「てことは畑が荒らされるよりずっと前に、既にここに魔物が棲みついてたってこと」
「そういうこと。もしかすると寄生された動物が辿り着いて卵が孵化したのかとも思ったが……、上を見る限りそう言う訳でもなさそうだな」
 上。
 指し示されて何気なくボクは洞穴の天井を振り仰ぎ、シラスが飛ばした鬼火に照らされた粘糸まみれのそこをみて、思わず腰が抜けかけた。
 手を伸ばせば今にもぼったんぼったん降ってきそうな幼虫の群れが、粘糸にしがみついて半繭状の巣を作っていたからだ。
「なななななななにぬぬぬぬ」
 あれが降ってきたら、ボクはとりあえず当初の目的を忘れてもいいように思う。
「活動時間にはまだ少しあるから、危害はないと思うぜ」
 いや、そういうことを言っているんじゃないんです。
 シラスの方へ心なしかにじり寄ったボクを、不安を感じたからだと勘違いした彼がそんな風なことを言った。いかん、上は見ないことにしようっていうか忘れよう。ボクは何も見なかった。いま地面の何かを数えてるんだった。
「で、地面のなにを数えているんだったっけ」
「這いずった跡で、おおよその孵化した数が判れば、親虫が何匹いるか判ると思ったんだが……」
「……が?」
「うーん」
 難しい顔をして地面の跡と天井をシラスは見比べている。何かおかしいことでもあるんだろうか。できれば上は見たくないんだけど。おそるおそるチラ見して、いったい彼が何を不審に思っているのかボクは尋ねた。
「アレがいくらか始末したのか……?」
「アレって、その」
「うっかり契約の片方な」
 ああ、そう言えば、巣が判ったよって村に戻ってきたときに確かにナナシさんはそう言っていた。司祭サマの手当てをしているうちについ聞きそびれていたけど、だったらシラスが代わりに聞いたんだろうか。聞くと、そんなもの誰かに聞かなくても判るだろって信じられない目付きでこっちを見られた。信じられないのはボクの方です。
「別に探索の魔法だとかそんなもん使ったワケじゃねェぞ」
「む」
「人間にはない独特の嗅覚とかでさぐりあてた訳でもないからな」
「むむ」
 考えていたことをことごとく先に制されて、唸るボクをジト目でシラスは見る。
 じゃあどうして判ったんだよって聞くと、生態系を知っていれば簡単なことなんだよって当たり前のように返された。ちくしょう歩く百科事典め。
「魔物に限らず、動物でも植物でも。それがどんな行動、営巣形態を取るかしっていりゃ、おおよその見当はつくだろ」
 ですよね。
 やっぱりボクは猛勉強しないとダメなようです。
 うなだれたボクを見ながら、でもおかしいんだよなってシラスがひとりごちた。
「え?」
「畑を荒らされた規模と、いま上で休んでいる幼虫の数がどうにもあわない」
 どう考えても少ないんだってボヤくので、ボクは覚悟を決めてもう一度天井を見据えた。びっしり天井を埋めるごんぶとの彼らの夢をしばらく見る羽目になりそうです。
「あー」
 なるべく個々のかたちは認識しないように無駄な努力をしながら、でもボクにもシラスの言っていることは理解できた。というか、この天井を埋めている彼らの数は確かにすごいものがあるけれど、畑で見たときより随分と目減りしてる気がする。言うとやっぱりそうかってシラスが難しい顔をした。
「巣を見つけたって言ってたし、ナナシさんがここにきて、邪魔なヤツを追い払ったとか、そんなんじゃないのかな」
「ふーむ」
 まぁいなくなったヤツは今はいいか。
 大した問題じゃあなかったのか、呟いてそれからシラスは立ちあがり、
「で、どうする」
 言った。
「どうする、って」
「手っ取り早い方法は、巣に火をつけて駆除する」
「それって殺すってこと」
「まぁな」
 言われてすぐに、うんじゃあそうしようとはとても言えなくてボクは口ごもった。多分、依頼主の村のオジさんたちからすれば、大切に育てた作物を荒らした犯人は燃えてしかるべき、なのかもしれないし、彼が今言っていた「手っ取り早い」方法なんだろうから、一番スムーズで手間のかからない方法なんだろう。それはよく判る。燃やした巣穴の跡を見せればきっとオジさんたちは安心するだろう。不気味な魔物がいなくなってよかったって喜ぶだろう。
 だけど、偽善と言われようと欺瞞と言われようと、こっちにとって特にならないことをした相手だから、じゃあ燃やしていいよねって言う風にやっぱりボクは思えなかった。それが自分にとってあまり好きな見目形じゃあないとしても、それとこれとは別の問題だって思った。幼虫らは人間に悪さをするために畑に行ったんじゃない。餌を探しに行っただけだって。
「村の司祭サマは確かに親虫に襲われたけどさ……」
 性善説を唱えたいわけじゃない。ネイサム司教の下で働いているうちに、いろんな退魔の仕事があるんだって知っただけだ。ちょっとだけ悪さをする魔物もいれば、中には人間の肉に味を占めてしまった魔物もいて、そうしたものたちは魔階へ戻してもまた戻ってきてしまう。だけどネイサム司教はできるだけ、魔物に危害を加えないかたちで彼らをむこう側へ戻す努力をしていた。大概はどんな形であれ、生活を脅かさなくなったことに依頼主は感謝して、
「時々は怒鳴られたりしてたけどさ……」
 アンタのやり方は甘っちょろい、そんなんじゃヤツらを増長させるだけだぞって言われて。そのたびに黙ってその場を去るネイサム司教を見て、どうしてこのひとは説明しないんだろうってボクは思っていた。説明するのが面倒臭いからなのかなとも思っていた。
 説明しないんじゃない。どう言ったところでそれはきれいごとにしかならないから、説明できることじゃなかったんだ。
「……」
 黙ったボクを見おろしてシラスが小さく息を吐く。俺としたら気分が悪いからさっさと終わらせて部屋へ戻りてェなって言われてしまった。
「そうだよね」
 付き合ってくれてる彼には気の毒だ。でもだったらせめてやり方だけでも聞いて、彼には先に帰ってもらって残ったボクで、何とか、できるだけのことはしたいと思ってそう言うと、もう一度溜息を吐かれた。
「……成虫は人間の体に卵を産み付けることを覚えた。これは駆除するぞ」
「え、」
 ざかざかと足の裏で地面を平らにならしながら、シラスが言った。それからボクが返事をする前に、均した地面の上に落ちていた木の枝で子供の落書きみたいな円陣を書く。ひっくり返した右手首を自分の口にあてがって、
「わあ」
 どうしてそう簡単に自分の皮膚食い破ったりできるんだろう。痛くないんだろうか。痛いのに慣れてるんだろうか。それとも痛いことにある種の快感を覚えちゃったりするんだろうか。
 土埃をあげる円陣の上へ、シラスは自分の血をぱたぱた数滴たらし、すると耳鳴りに似たような高くつんざいたキン、という音が洞穴の内部に反響した。適当に書いたみたいだった地面の文字が、ひとつひとつ蠢いてぼんやりと発光しはじめている。
 うわ、と目を見張ったボクに、血のしみ出す手首を円陣に向けたまま、早く投げ入れろってシラスが言った。
「は?」
 投げ入れろって、何をですか。
 くいと顎で天井をさし示されてつられて見上げて、それからボクは心底後悔した。
 えっと。
「あっち側へ返すんだろ」
 いやそうなんだけれども。
 シラスが書き散らしたものは、白くて大きい芋虫の魔物を魔階とよばれるガワへ強制送還する転移魔方陣らしかった。いや、魔法陣なのはいいんです。魔法使えてすごいですねってなるだけなんだけど。
「早くしないと、そろそろ活動時間になって動き出すぜ」
「ぃいいいい」
 昨晩の畑で見た壮絶な光景を思い出してボクはそそけだつ。逃げ場のないほど、足の踏み場も文字通りないほど、ひしめく芋虫の群れが意思をもって動き出してしまったら、ボクにはどうもできない。
「こ、こ、これ掴んでそこになげろ、て、て、ててて」
「早くしないと俺が失血死するんだが」
 面倒くさそうな声になってシラスがボクへそう言った。あの程度の出血で失血死するなんて実に大げさな表現だとは思ったけど、それとは別にお酒を飲みすぎて悪酔いして、だけど律儀にこうしてボクの希望に付き合ってくれてるんだから、こっちだって誠意ってものを見せないといけないって思う。まっすぐ立ってるつもりなのかもしれないけど、体がゆらゆら揺れていたし、声色も心なしか覇気がない。
「う、ぃ、いぇあああああ」
 駆除したくないって言った手前、掴めないのでムリですだなんて言えない。今更言えない。ここまで付き合わせておいて、やーん大きくて太くて気味が悪いからさわれなーい、だとかブリっこいい加減にしろって感じです。自分で言ったとしてもブン殴りたいところだ。
 それに人間死ぬ気になれば何でもできるって、どっかのえらい人が言ってた。
 根性論を振りかざしてボクは覚悟を決める。
 立ち上がり、手を伸ばして繭のような巣の中でもぞもぞと蠢く一匹をまずがしっと掴んで、
 掴んで、
 掴んで、
 ヒャッハー芋虫は転送だー。
 ふんにゃりと外殻も骨もないやわらかな感触を手のひらに感じた瞬間、なんだか頭が真っ白になって、それからしばらくボクの自我は吹っ飛んだのだった。吹っ飛んだけど体だけはきちんと右に左に動いていたらしいので、それだけは自分自身に評価したい。
 したい。

 ……終わったら、ボクはちょっとだけ泣いてもいいと思う。


 自分の魂もまとめてあっち側へ強制送還した気がする。
 巣穴にひしめいていた全部の芋虫を、円陣に向かってかたはしから掴んでは投げ入れ掴んでは投げ入れ、終わった頃には夜中だった。
「……。……。……。」
 終わった。
 ようやくここ最近のなかじゃ一番に苦行だった作業が終わった。
 気力も体力も真っ白に燃えつきながら、ボクは先導するシラスの鬼火に続いてふらふらと空になった洞穴を後にする。終わったら思う存分わめいてやるんだ、とか祝杯を挙げてやるだとか、修行の開始した一、二秒くらいまでは思っていたんだけど、その全部がどこかへ散っていった感じだった。
 もういい。なんにもなくていい。とにかく部屋に戻ってベッドに入って眠ってすべてを忘れたい。
 だからボクは、親虫はどこに行ったんだろうだとか考える余裕もなかったし、後ろでボクに向かってあとは親探しだなって言ったシラスの言葉が全く耳にも入っていなかった。
 だけど。
 抜け殻のようになったボクへ、林の中から黒い影がものすごい勢いで飛びだしてきてぶつかった。有無を言わさず両肩を掴んで地面へ引き倒す。抵抗どころか声を上げる暇もなかった。
 どっさと倒れ込んだボクの体のうえにすかさず黒い影は馬乗りになって、
「……ッ」
 鬼火の薄あかりに照らされた恐ろしい顔は、村の司祭サマの顔だった。白目を剝いた、どう見たって正気の顔じゃあない。歯茎までむき出し、よだれをだらだらと垂らしながら、ボクの喉笛を食いちぎろうと体を伏せ、
「――レ、」
 刹那ボクは仰け反った視界の中に、驚愕に引き攣ったシラスを見た。相変わらず具合がよろしくないみたいで、それでワンテンポ反応が遅れたんだなってボクは頭の片隅で思った。それから、目を見開いた表情をしていても、馬乗りになっている司祭サマと違ってやっぱりなんとも憎らしいまでにきれいな顔だなって思った。
 そうして間に合わない、シラスがそこから腕を伸ばしても司祭サマがボクを食いちぎる方が早いって理解する。同じような発想を彼が浮かべたのが判った。顔が歪んだから。絶望って本当にいきなりやって来るものなんだって思う。
 その次の瞬間、真っ白な何かがボクと、ボクをかみ砕こうとした司祭サマの間に割って入って、
 間一髪だね。
 そんな含み笑いに似た嘲りがボクの耳を打つ。思わずボクは瞬いて、世界がいきなり動き出す。
「ナ」
「……」
「ナナシさ」
「うん」
 ボクの喉の代わりに食いちぎられた腕から鮮血がふき出す。さっき、シラスが魔法陣を書くために手首を噛んでいたけど、それとは比べ物にならないほどの出血量だった。痛いってもんじゃないだろうに顔をしかめもしない。
「腕!」
 ボクは悲鳴を上げてナナシさんに飛びつく。なんとかして傷口を押さえなきゃって、頭の中はそれだけだった。とっさに肩から掛けていた鞄から手拭いを出すと細く捻じり、腕のつけ根にきりきりと縛り付ける。
「ああもうどうしよう、どうしよう」
「……ごめんね?」
「なんでナナシさんが謝るんだよ!」
 半泣きになりながらボクは彼に八つ当たりした。ごめんねって言うのはボクの方だ。
「親があやつってるな」
 巣穴を荒らされたことを怒ってやがる。声がしたのでボクはシラスを振り向く。暴れる司祭サマの体をシラスが押さえて気絶させ、検分していたらしかった。
「あああもー……手間ばっかり増やしやがって」
「近くに来ているね」
 俺本当に早く帰りたいんですけど。シラスがゆらりと立ち上がり、そいつのこと見てろよ、ってナナシさんへ向けて言って、たちまち林の中の闇へ消えていった。ちょっと待ってとボクは呼びとめようとしたけど、シラスの周りを流れる怒りのオーラといおうか不穏な空気がハンパなかったので、つい制止の声が引っ込んでしまう。
 ていうかキレてますよね。
 本気でキレたシラスはとてもじゃないけどボクには止められない。
「注意していたつもりだったんだけど」
 縛り付けたものとは別の手拭いをもう一枚鞄から取り出して、ボクは次々と新しい血がしみ出す傷口に押し当て上からぐるぐると巻いた。村に戻ったら縫った方がいいかもしれない。どうしようどうしようって相変わらず頭の中はそればっかりで、巻いているボクの手つきを見おろしながら、ナナシさんがぽつりと言った。
「目を離した隙に抜け出されていて」
「うん」
「ごめんね。俺の不注意であなたを危ない目に合わせてしまった」
「でも庇ってくれたじゃないか!」
「ぎりぎりだったよね」
 間に合わなかったら俺いろんな意味で死んでいるな。言って困ったような顔でナナシさんが笑った。水色の目が細くなる。眺めてボクは、彼の表情がいつもうすらぼんやりとしている原因の一つに思い当たる。このひと、白目がないんだって思った。今更気がつくボクもたいがいなんですけど。
 そんなボクの横でいきなりギャアッと鋭い声が聞こえて、茂みががさがさと揺れ、割って赤黒い何かが転がり出してくる。思わず飛び上がった。ゴツゴツとしていてスジっぽいというか節っぽくて、ちょっと組み立て式の棒人形みたいだな、とか思ってしまった。それにしては節が多い上に逆関節で曲がったりしていて、人間の形は成してないんだけど。
 転がり出したそれは二つあった。しばらくばたばたと暴れて、やがて静かになる。
「うわ、なにこれ」
「『親』だ」
 息を切らせたシラスが同じように茂みを揺らして続いて出てきて、それから地面の上で動かなくなって横たわったそれを見おろしてくそ、と吐き棄てた。
「一匹逃した」
「おびき寄せてみようか」
 同じように親虫を眺めていたナナシさんが、そう言って何か動作をしかけ、ふと思いだしたみたいにこっちを見る。
「うーん」
 よくないかもしれないなぁ。
「な、なに」
「――レイディ」
 ぼそぼそと口の中でひとり問答していたナナシさんが、うん、となにやら納得し、ボクの方へ手を伸ばして、その伸ばしたてのひらで視界を覆うようなしぐさをした。
「ちょっと目をつぶっていてね」
「え?」
「早くしないと逃げちゃうよ」
 なんで、だとか、何を見ちゃいけないの、だとか疑問は色々ふきでてきたんだけど、ここはきっと大人しく言う通りに従った方がいいように思った。ボクの疑問なんかより、とにかく逃げた親虫を捕まえる方が先だと思うし。
 言われた通りボクはいそいで目をつぶり、手をまぶたにあてていいよって言った。
 それから、何も見えない真っ暗な中で、そう言えばこんなにアクティブなナナシさんってはじめて見るかもって思う。自分からあんまり何か行動を起こすような人には思えなかった。でも、それもただのボクの思い込みなのかもしれない。
 目が見えない分なんとなく耳をそばだててしまう。周りの空気がやけにぞぞぞ、って重ったるく肌にまとわりついているような感じもした。冷たくない靄が渦巻いてるみたいな。でも目が見えない分敏感になっているだけで、本当は何もないのかな。手を外して何をしているのか見たい気持ちもあったけど、なんだかわからないけど見られたら困るんだろうなって思ったのでじっとボクは待った。
 そのうち、遠くの方からぎゃあぎゃあと甲高い鳴き声が聞こえてきた。うわ本当に寄せられるんですね。信じてなかった訳じゃないけど、こんなに当たり前のように引き寄せるとかすごい特技だと思う。
 ふと人が動く気配がして、それがシラスが動いた風の流れだってボクは気がついた。捕獲範囲に親が来たんだろう。ばき、とかごき、とかぐしゃ、とかちょっと異様な形容しがたい音が何度かして、それからまた唐突に静かになる。
 しんとした静けさって耳に痛い。
「……もういい?」
「いいよ」
 見ちゃだめだと言われるとなんだか見たくなるのに、もういいよって言われると逆に目を開けるのが怖くなる。ナナシさんの声におそるおそる当てた手の平を外して、ゆっくりと瞼を開けた。
「あ、あの」
 目を開けて見回すと、あっちとこっちにそれぞれしゃがみ込んでいるシラスとナナシさんの姿があって、えーちょっとどうしていきなりこんな引き分け展開みたいな、満身創痍になってるのとか思った。格上とか格下って言うランクがあるとしたら、どう見ても親虫は練習相手にもならなさそうな強さで、そこまで彼らと壮絶な死闘を演じたって言う風には思えなかったからだ。
「悪い。俺、ちょっともう限界」
 悲惨な顔をしたシラスがよろよろと立ち上り、出る、いろいろ出る、とか言いながら林の中に消えていった。あ、あっちは二日酔いコースでした。介抱しようか、それとも放っておかれた方が本人としては楽かも。
 どうしたものか。
 判断に迷ってもう片方の魔物にも目をやると、うずくまっていたナナシさんは少しだけ顔をボクの方へ持ち上げて、
「俺も限界かも」
 言って困った顔をした。
 元から青白いんだけど、なんだか真っ白な顔色の気がして、出血がひどいのだろうか、さっき傷口押さえたけどエラいことになっちゃったろうかって、ボクが慌てて傍らにしゃがみ込んで検めようとすると、そっちは平気だよって首を振られる。
「どこか、他にもケガした?」
「してないよ」
 そうじゃないんだって説明しづらそうに口ごもられる。そうして無理にとってしらべた片腕は、完全に傷が塞がっていた。
 えって、そりゃ魔物とボクらは体の構造が違うんだからそうなのかもしれないけどやっぱりボクはびっくりして、目を見張っているとレイディ、とナナシさんに呼ばれて我に返る。
「もう安全だと思うけど。村まで一人で帰れる」
「え、うん、そう遠くないしランタンも鬼火もあるし、帰れるけど。でも、司祭サマとか背負って行けって言われるとちょっと」
「彼は朝になったら俺が連れて行く」
「うん、けど、ナナシさんも具合、わるいの」
「悪くはないよ」
 具合は悪くないから平気だよと重ねて言われたけど、でもどう見ても普通じゃないです。二日酔いの方は原因が判ってるから放っておいてもよさそうだけど、原因が判らないナナシさんを放っておけないってボクは言った。
「かたちを、」
 ますますだるそうに体勢を崩しながら、切れ切れに彼は答える。かたち。
「力の加減間違って、今ちょっとこの、俺のかたちを保っているのが難しくて、ね」
 だから先に帰ってと彼は言った。
「たぶん、気持ちのいいものじゃないから」
 言った彼の肩口が一瞬ずるっと剝けた気がして、ぎょっとしてボクは立ちあがった。しばたたくとそこは普通通りに肩だったんだけど。
 放っておいていいものだろうか。けど本人がそうしてほしいと言っているんだから尊重すべきなのかも。
 それに、見られたくないものを無理やり見るっていうのもどうなのかって思って、ボクは頷いてじゃあ先に帰るよと声をかけた。
「……朝までは誰も辺りに近付かない方がいい」
 珍しくはっきりとした要望の言葉だったから、うん判ったと答えてボクは振り返らないで歩き出すことにした。振り返って色々はっちゃけた形になってたら、それはそれでボクは対応に困ると思ったから。
 それにしても、同じような形に見えて本当にシラスもナナシさんも実が違うんだなぁと歩きながらボクはおかしなところで感心した。シラスってわりと見た目が無害というか、黒い霧の塊みたいなものだから、あんまり素性見せても気味は悪くないけれど。
 比べてナナシさんはなんとなーくだけど、ちょっと、こう、アウトな気がしないでもない。湿り気があるというか。なんというか。裏庭の石をひっくり返したらわってわいて出てくる細かい虫、的な。
 あんまり深く考えるのはよそうと思った。そうでなくてもボクは精神的ダメージを負ったんだった。次々とハプニングすぎて覚えきれないけれども。
「いつもよりちょっとキミも元気ないねえ」
 ふよふよ、と隣をついてきてくれる鬼火をつつくと明かりが点滅する。本体は林に消えて行ったけど、今頃グロッギーになっているにちがいない。

               *

 次の日の朝、ボクが起きると司祭サマは村に戻って来ていた。ナナシさんに付き添われて、でも自力で歩いて戻ったらしい。二日と半何も口にしなかったので軽い脱水症状になっていたけど、症状としてはそれだけで、他に悪いところはなさそうだ。
 ひとまず安静にしてもらって、水分を補給しながら様子を見ていたんだけど、どうやら他に悪いところもなく大丈夫そうだった。
 後処理のようなものをしながら半日様子をうかがって、平気かなって判断する。
 けれど、そういえば司祭サマの体内に産み付けられた卵はどうなったのか、虫下しは飲んだのかといきなりボクは気がついて、そうしたら気が気じゃなくなった。司祭サマ自身は自分の体に産卵されたことなんてきっと知らない。そこに虫に卵産みつけられていたんですよ、虫下し飲みましたでしょうか、だなんて聞けるはずもなかった。それってパニックにしかならないだろ。
 でも放っておいていい問題でもない。
 こっそり物陰から司祭サマを睨むように観察していると、取り除いたよってうしろから声がした。じろじろ見ていたのを見られてたらしい。
「ナナシさん」
「おはよう?」
 もう昼過ぎです。
 首をかしげて挨拶する彼は、最後に別れたときよりもずっと顔色が良くて、そうしていつものようにぼんやりしていて、ついでにきちんとひとのかたちを取っていたので、ボクは安心する。相手がだれでも、やっぱり具合が悪いよりは元気な方がいい。
 あと、非物体よりは有体の方がいい。
「そういや、シラスどうしたろ」
 具合が悪いと言えばあのあと彼は一向に宿代わりに借りていた部屋に戻ってくる気配を見せず、ことここにいたってまだ姿がない。林の中で野タレてるかもしれない。
 どうしたものかなって相談するでもなくナナシさんに呟いたら、そのうち気分がよくなったら戻ってくるんじゃないかなって当たり前の返事をされてしまった。その通りだと思います。ボクが心配しすぎなんだろうな。
 畑荒らしの犯人は突き止めたわけだし、司祭サマは無事に意識を取り戻したし、ボクが依頼された仕事は全部こなせたと思う。半分どころか九割見ていただけともいうけど。
 それはおいおい、自力でこなせるように努力するしかない。
 今から出発すれば、夜中までに家に戻れそうだった。もう一泊したってよかったんだけど、そういや荒らしっぱなしの我が家の中はどうなったんだろうって思ったら気になって、帰ることにした。片付けるかどうかはともかく確認しないといけないって思う。
 荷物をまとめて王都に戻る旨をオジさんたちに伝えると、ありがとうありがとうと感謝され、おまけにいろいろ野菜を頂いてしまった。鞄に入りきらなくて、ボクとナナシさんと二人で、両手で抱える大きさの麻袋を抱えて王都帰還です。行商できそうです。なんか当分根菜類にはこまらなそうです。こんなにたくさんありがとうございます。
 午後の遅い馬車を待ってナナシさんと二人で袋を抱えて乗り込む。結構重い。
 よいしょ、と気合と一緒に馬車の荷台に麻袋を引き上げ、それから幌の下に座り込んでひと息ついた。
 乗ってしまえば数時間、揺られているだけで何もない。
 昨日みたいに何かある方が困るんだけれど。
 ぬけるような晴天、だとよかったんだけどあいにくと薄曇りで、しかしまあ、こう、気圧の谷間っていうのはどうしていくら寝ても寝たりないんだろうね。
 荷物に寄りかかり、上下に揺れる馬車の上で次第にうとうとと眠くなる。昼寝って完全に眠り込むより、この寝るか寝ないかの微妙な狭間にいるときが一番気持ちが良いような気がする。ソファで本を読みながらもう半分以上寝てて実際読んでないんだけど、無理矢理開いて文字の上に視線を滑らせながら、バラララってページが顔に当たるとか。おとなしくベッドにいけばいいんだろうけど、ベッドで本格的に寝るのとは違う、何とも言えない退廃的な快楽。大げさだろうか。でもグダグダ感がけっこう好きだ。
 ボクだけかもしれないけど。
 その、一番気持ちが良い、今まさにスゥって睡眠にシフトチェンジしますよってところで、なんだ八百屋でも始めるのかとか耳元であきれた声がして、唐突にうつつに戻される。戻されながらああ勿体ないって、今一番気持ち良かったのにって恨めしくなりながら目を開いた。
 いつの間にか乗車していたシラスが、何食わぬ顔でボクの横にいる。
「どんだけ貰ったんだ」
「ありがたいよね」
 どうやって追いついたのかとか今さら驚いても仕方がない。いきなり馬車の中に一人増えたことに、少人数ながらも他の人たちが驚かないでいるってことも、取り合っても仕方がない。いまさらです。
 食費が浮いてよかったなって言いながら、不意にシラスがボクの片腕を取ってくんくんとにおいを嗅ぐ仕草をした。
「なに……?」
 寝る前に体を拭いたけど、汗臭いのかな。
 少し眠くてぼんやりしたまま、ボクは腕を取る彼を見上げた。
 まだそう汗をかく季節でもないんだけど。でも暑くてかいた訳じゃなくても、昨日は脂汗的な、冷や汗的な、とにかく大量にいやああな汗をたっぷり垂らした自覚はあったから、部屋に戻ってから一応全身拭いたんだけど。
 そうしたら食ってもいい?とかこっちを見つめて聞かれて、ばっちり目が覚める。はあって、こんなところでなに寝ぼけたこと言ってるんですかっていう。
「村の事件を片付けたら食ってもいいって話だったよな」
 いや言いました。確かにボクはそう言いました。
 けど、なんというか時と場合を考えた方がいいんじゃないだろうか。人目もあるし、そもそも、
「気持ち悪いのはどうしたんだよ」
「丸一日転がっててようやくマシになった」
 そういえば昨晩遅くから軽く一日経過しているんだった。
 林の中でそれこそ芋虫のように転がっていたんだろうシラスの姿を想像して、ボクはついつい笑ってしまう。
 ヤケ酒した後のとんでもない事態とか、自分のことだと本気で地獄だけど他人がしてるとアホだなーって冷静な目で見れてしまうというか。
「食いたい」
「いや、でも、王都着いてからとかさ」
「今食いたい」
 あだめだこのひと聞く耳持たない。
 真摯な目でじっと見つめられて、しようがないって諦めた。約束は約束だ。魔物退治を手伝ってほしいって望んだのはボクで、彼は確かにその望みに応えてくれたんだし。
「でも、人目に付くような食べ方はちょっとやだな……」
 いくら少人数とは言え、他人もいる乗合馬車の中でうなじだの首筋に顔埋めるとか、事情を知らない人から見たらどうみてもエロスです。さすがにボクはそのあたりのツラの皮はまだ薄くありたいと思う。
 ふーんって言いながらじゃあこうならいいだろって、シラスがさり気ない動作で芋の袋の上に寝そべり、ボクの片手を取って人差し指の関節辺りをかるく噛んだ。まあなんだ、袋に隠れて一応他人からは見えないし、そう大きい動作じゃなかったから、許容範囲に入れてもいいように思う。一応譲歩してくれてるみたいだし。
 やれやれとためいきを吐いてボクももう一度袋に寄りかかり目を閉じると、少ししてひりつくような感触が指からもたらされた。ちりちりとしたわずかな痛みだったし、騒ぐほどのことじゃない。吸ってるんだろうなって何とはなしに目をやると、うっとりとしか表現できないような表情で、目を細めて一心に人差し指を舐めしゃぶる魔物の姿が見えた。
 見た瞬間横っ面を叩かれたような衝撃がある。
 ……神さま。
 これは視覚への暴力です。
 あっちはどうなのか知らないけど、ボクは恥ずかしい。そんな無心に食われるとなんだか身の置き所がない。
 慌ててぎゅっと目をつぶり、顔を背けて今見たことはちょっと無かったことにしたいって思ってしまった。どうでもいい別のこと考えよう。歴代市長の名前とか。
 しかし誰かが言ってたけど、食事をする姿ってエロティックなんだそうで、口の粘膜が他の粘膜と触れ合う態というのは、性交以外ではなかなか見かけないんだとかなんとかあああなんでボクはこんなことを今思いだすんでしょうね。
「いいなぁ」
 おいしそうだなぁって、唯一角度的に見えていたらしいナナシさんが小さく呟く声がして、なんでもいいから現状から気を逸らしてくれる救いにならないかとボクは目を開けてそっちを見る。
 片膝を着いてその膝に顎を乗せながら、彼はじっとこちらを見ていた。泣き笑いしてるみたいに眉が下がっていて、その顔を見ながら彼にまで食べたいとか言われたらどうしようかって思った。一日に二人はキツそうだと思う。さすがに。
 体力的にもそうだし、こんな視覚の暴力、日に二度も見せられたらボクは穴を掘りたい。どこでもいいから穴を掘ってその穴に全身埋まりたい。
 その気持ちが顔に出たのか、窺うような視線をボクの顔に走らせたナナシさんに、俺は食わないから安心してねって言われてしまった。先読みありがとうございます。でもボクってそんなに読みやすいですか。
「そういえばナナシさんて、こっち側にきてからきちんとご飯食べてる?」
 ふと前から気になってたことをボクは聞いた。
 お隣さんだから、最初の頃はオスソワケっていって多めに作った煮物とか持っていったんだけど、俺ほとんど人間の食べ物食べられないんだよねって謝られてしまった。そのあと彼がどういうものを食べていたのかよく判らない。だって断られるまで、魔物ってシラスと同じようにそんなに必要じゃないけどたいがいのものは口にできるって思ってたし。
 でも生き物なんだから、何かは食べていないと生きていけないと思う。生気を狙って王都で「食事」しないでねってクギは刺しておいたけど、だったら何を食べていたんだろうって思った。
「うん、昨日食べたよ」
「へえー……食べたの」
 実はずっと何も食べてないって答えが返ってくるものとばっかりボクは思っていたので、食べたと答えられて俄然興味が湧いた。たしか魔階にいったときに、いいにおいのするモヤのようなものを呷っていたし、花の蜜的な、仙人で言うところの霞みたいなものを食べたのかなと何の気なしに尋ねた。とりあえず現段階で生気を吸っている真っ黒黒スケから気を逸らせる話題なら何でもいいから食いつきたいっていうのも、ちょっとはある。
 アレかね、魔物で言うところのベジタリアンとかそういうことだろうか。
 でもそう言えば一昨日あたり、生気は食べないけど共食いみたいなカンジの嗜好だって聞いたような気がするあれちょっと待てよ。
「……昨日?」
「虫と卵」
 おいしかったよ?腹が満ちて満足した猫科の動物がするような表情でぺろりと舌なめずりをし、にっこりと彼は笑う。反してボクはぎょっとなって荷台から若干飛び上がり、つられて会話が耳に入っていたっぽいシラスも身を起こした。
 さすがに口が指から離れている。
 ああ――食べたんですか。
 思わず遠い目で空を眺めながら、ボクはますます現実逃避をしたくなった。
 そうして後悔した。
 何の気なしに尋ねてしまったことを心の底から後悔した。
 ……そう言えば畑で見たときからおいしそうって言ってましたよね。
 ボクが村に戻ってきたときに、芋虫たちの巣穴を突き止めたって彼は確かに言った。そう言ったけど、でも何をしてきたかまでは言わなかった。退治したとか目印付けてきたとか、そう言う口振りじゃなかった。
 ボクはただ、ナナシさんが自発的に動くってことが珍しくてそっちの方に気を取られていたし、だから巣穴に実際行って、シラスから幼虫の数が少ないって言われたときも、なんでだろうねって深く考えることはなかったけど、
「まだあるけど、食べる」
 え、って聞き返す前にナナシさんは懐を探り、いきなり目の前に握った拳をさしだして開いた。今度こそ、人目もはばからずぎゃああって叫んでボクはシラスを盾にして後ろに隠れる。
「おま、ちょ」
「無理無理無理無理ボクちょっと無理」
 ナナシさんのてのひらの上にはびっしりと産み付けられた白いツブツブが並んでいて、そのいくつかが蠢いている様子まで見たくもないのにボクは見てしまった。荷台の前の方にいたオジさんたちが一体なんだろうって顔でこっちを見ていたけど、お騒がせして申し訳ないですでももう許容範囲いっぱいです。
 盾にされ、卵と接近させられたシラスが、げ、とか呟きながらボクの前から退こうとしたけど、渾身の力をこめてホールドしたままボクはいいから早くしまってとナナシさんにお願いした。
「そっか」
 残念だねって言いながらナナシさんは卵をしまった。あんなもの懐に隠してたのか。
「でもよ、食わず嫌いってよくないぜ」
「キミが代理で食べなさい」
 食べたら、当分近くに寄りたくないけれど。
 半泣きのボクを肩越しに振り返ってシラスがそんなことを言うので、ボクはきっぱりと言い返してやった。村でもらったお野菜でボクは十分です。

               *

「そんなわけで、解決してきました」
「ご苦労さまだった」
 ついでにこれお土産です。
 あくる日、サンジェット教会にボクは出勤し、上司のネイサム司教に村の出来事をかいつまんで報告しながら、村のオジさんたちからいただいた野菜を司教に差し出した。おや、とか呟いて司教の片眉が上がる。
「見事な芋だ」
「シスターが喜んでました。しばらく困らないって」
 いただいた野菜はとてもウチで消費できる量じゃあなかった。とりあえず半日通りのご近所さんにオスソワケして、それでもまだ大量にあったので、教会に麻袋ごと、これ仕事先でもらいましたと調理場へ運びシスターにとても感謝されたのだった。
 笑顔がとても綺麗なシスターは、相変わらずボクの心のオアシスです。
 そうか、と慇懃に頷いた上司は、ところでお前が帰ってくるのを待っていたのだよと机の引き出しをごそごそとさぐりながら言った。
「タマゴ」
「はい」
「お前が、本腰を入れて、司祭の仕事を覚えたいということで私は大変うれしい」
「そ、そうなんですか」
 司教がそこまで言ってくれるとは思わなかった。感情のよく判らない人だし、正直部下として自分自身が使えるのか使えないのか、ボク自身では判断できなかったからだ。
 思わず照れて頭を掻いたところに、
「と言うわけで僧侶のタマゴとして、以下の退魔をこなしてきなさい」
「は、」
 ……ああ、司教が手放しでボクのことを褒めてくれるとかちょっとでも思ったボクが間違っていました。
 引き攣りながら上司が差し出した数枚の羊皮紙を受けとる。読んで見なさいと言われて、恐る恐る開いてひとつずつ確認したボクは、読み進めるうち、自分の頬が次第に強張っていくのを感じてしまった。
「あの……」
「それにしても実に見事な芋だね」
「あの司教!」
「なにかな」
 渡された数枚の依頼書には、場所は違えど同じ魔物の種と思われる、と書かれた事務所からの付箋も貼ってあって、
「これボクが片付けてきた魔物と同じヤツじゃないですか!」
「その通りだよ?」
 思わず悲鳴になりかけたボクに視線を一瞬投げかけて、それから司教はまた手元の書類の山に目をむける。
「依頼を見事にこなしてきた優秀なお前のことだ。同じ手立てを反復することで、この魔種においてプロフェッショナルになれること間違いない」
 いやそうです。そうなんです。仰ってることは全くその通りで、司教は何も間違ったことを言っていないし、次々と新しいことを覚えるよりも、ひとつずつ確実に実践を重ねて体得していくって言うのは重要だってことも理解してるんです。
 でも。
「……しばらくアレはもう目にしたくなかったのにな……」
 昨日の夜盛大に夢の中でうなされた。
「何か問題は?」
「ないです!」
 やけくそになってボクは涙目で言いきった。どうせグチったところで耳を傾けてくれるような親切な人柄でもない。
「そうか。では心して依頼をこなしてきなさい」
「……はい……」
 がっくりと肩を落とし、でもそれ以上何も言うこともなく、ボクはそっとドアを閉めるとネイサム司教の部屋を退出した。
 用意する道具も手順も判ってる。
 問題は、最低ラインにまで落ち込んだ自分のテンションをどうやってあげるか、それだけだって思う。
 ヤケ酒でも飲むべきか。
 ボクは天井を見上げて溜息をついた。


 翌日、指定された場所へと向かう乗合馬車の上にボクと、シラスと、ナナシさんはいた。
 また退魔の仕事だから一緒に来てって言ったボクと、いつものようにタダじゃやらないと答えたシラスは、激しいミリ単位の交渉の末、今回食べ損ねているラヴェリーローズルの季節限定のケーキを三回買ってくるってことで一応の決着がついた。
 もちろん今回も、彼のゴハンは後払いです。
 それと一応伺いを立ててみたナナシさんは、こちらもいつものように自己主張ナシでいくよと頷いたけど、きっとこっちも、食欲に動かされてのことなんだろうなってことは今のボクにも判っている。
 もういい。ある程度悟りが開けた。いろんな人間がいる。食べないでとはボクは言わないです。
 でも、お願いだから、見えないところで食べてください。
 そんなことを思いながらボクはふと膨らんだ自分のポケットに気がつく。中身が何だったか、ああこっちの問題もあったんだったって思いだした。
「ねぇ?」
「あー?」
 隣で外套を頭からかぶって、まぶしい不愉快だ俺は寝るって不貞寝を決め込んだシラスを突いて、
「そういえばこれって、本当に食べたら不老不死になるの」
 言って彼からもらった「種」を取り出した。
 種を見てシラスがあ、とかまた顔をしかめる。
「なると思うよ?」
「なるんだ」
「いや、ちょっと待てよ、たしかに不老不死になるかもしれないが」
 向かいにいたナナシさんが差し出した種に目をやり頷いて、聞いたシラスが咎める声を出す。
「キミ、そんなもん食ったら」
「なってほしくない?」
「――え?」
「ボクが不老不死になったら、キミは困る?」
 ボクは真っ直ぐにシラスの顔を見て聞いてやった。聞かれた彼がわずかに狼狽えて目が泳ぐのが判る。ああこないだの光景と同じだって思った。彼は、うわべ的にはボクが普通に生活することを望んでいて、なるべく魔法であるとか魔物であるとか、そうした部分をボクの前から隠そうとする。知らないでいいことだって思ってる。
 でもそれで全部かって言うとそれだけじゃなくて、たぶんどこかで自分と同じような生き物になることを望んでいるんじゃないかって思う。魔物でなくてもいいけど、同じように年を取らない、死なない、彼の前から姿を消さない生き物。
 親虫にあやつられた司祭サマが林の中でボクを襲ったときのことを思い出す。
 馬車から転がり飛んで、岩肌にぶつかりそうになったときのことを思い出す。
 あの時のキミの顔。
 やめてくれどうにもならないでくれって、恐怖に引き攣った表情を浮かべていたことを思いだす。
 もしこれを食べたらキミは安心できますか。
 てのひらの上の種をじっと見て、だったら食べてもいいんじゃないかってボクは思った。正直、不老とか不死とか、どれほどたいそうなことか想像もできないけど、でも彼がボクが食べることで二度とあんな顔をしなくてもいいのだったら、それはそれでいいんじゃないかって思ってしまった。
 それから、ナナシさんからこの種を貰ったときは話半分しか信じてなかったのに、頭からすっかり信じてしまっている自分がいることに気がついた。
 ぎゅっと。
 てのひらので転がして種を見つめていたボクの手を包むように、いきなり隣からシラスの手が伸ばされて、
「そんなんじゃない」
 そう言った。
 そんなんじゃないって一体なんだよって思いながら顔をあげると、とてもまじめな顔をして、シラスがボクをのぞきこんでいた。握られた手に力が入ってちょっと痛い。でもそんなこと言えそうな雰囲気じゃないほどじっと見られていた。
 アホの子みたいにぽかんと口を開けて見返しながら、ボクはこの濃いブランディ色の瞳が細まるところは悪くないなって思う。
「俺は」
 そんなボクに考える素振りを見せながら、ひとことひとこと区切るように、
「俺は今のままのキミがいい」
 シラスはそう言った。
「今のままって」
「弱くて、やわくて、見ていないと気が気じゃないキミがいい」
「……でも」
 顔をしかめてボクは彼に包まれた手をもう一度眺める。てのひらから口元までの距離なんて、本当に些細なもので、ちょっと力をこめてぽいと投げ込んだら届いてしまう距離だ。
 でも永遠みたいなものだよね思った。
 距離は絶対だ。
 それから、急にボクは莫迦だなって彼に言った。
「え?」
「今なら食べたかもしれないのに」
 逃げた魚は大きいんだよってボクは言った。今のまま成長していってしまうんだよって言った。シラスの気が変わって今度食べろって言われたって、食べてやらないからなって。
 言いながら自分の手の中にあった種を、シラスの手に握らせる。あげるって言った。
 本当は、格好よくそのあたりに投げてしまえば良かったのかもしれないけど、向こう側のものなんだって思うと、こっちの階でどんな悪さヤラかすか判らないし、勝手に投げて失くしてしまうのもどうなのって思う。
 食べないんだねって見ていたナナシさんがいうので、うんまだいいんだってボクは答えた。もしかすると、どうしても食べたくなるようなときが来たらまた考えるかもしれないけれど。
「せっかくくれたのにごめんね」
「俺は別にかまわないよ」
 でも少しだけ残念だな。そんな風に彼は言った。悪いことをしたかなって思う。でも今のボクには必要がないものだからしょうがないよねって思った。だって今のままのボクがいいって言う人がいるんだから。
 種を押し付けたシラスへ目をやる。驚いた顔を一瞬した彼はそれからこっちを見て、安心したように、これでよかったのかと迷うように、笑った。


(20120415)
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最終更新:2012年04月21日 09:43