<<きのうみた夢>>


 終雪もあちこちに残すばかりとなった。
 息を潜めるようにして、ながい森の冬の中で春の訪れをじっと待ちしのんでいた生きものたちが動きだす。
 芽吹いたやわらかな萌え葉の枝に尾のぴんと張った鳥が数羽、わらわらとかたまりでやってきて、にぎやかにさえずりを交わしている。鳥の言葉を理解できるとも思わないが、うれしくてたまらないといったふうの彼らの弾囀を耳にするたびに、こちらまでなぜか妙に浮ついたこころもちにさせられるのだから、春というものは不思議なものだ。
 冬の間にがちがちに固まってしまった土へ鍬を入れ、ラルヴァンダードは畝間を掘り起こす。
 何度も何度も、霜が降り、降りては溶け、溶けたものが凍り、その繰りかえしを行ううちにやわらかだった黒土はみっしりとひきしまり、鍬先を拒んで撥ねつけるものになる。剣を振るいなれ力はそれなりにあるはずの彼だが、この春先の最初の畑起しが苦手でならない。
 なにしろここに来てすぐのころは、まったく鍬を土へ差し込むことができなかった。
 耕作人が畑を耕す光景は、荘園の主であった彼には馴染みのものであった。農具を振り上げ土へ振り下ろすただそれだけの作業だと高をくくっていたのに、まずもって振り上げるところから上手くいかない。振り下ろす軌道もひょひょろと頼りなく、開墾しながらの土作りはそうでなくとも硬い。石くれと木の根だらけのがさついたそこは手加減のない硬さで、見よう見真似でまあなんとかなるだろうという男の自信をきれいにへし折った。
 両手で持つ剣も斧も扱える。
 あれだけ重量のある鉄のかたまりを持ち上げ武器として使用する勢いも力もあるのだから、こうした農具のひとつ使いこなせないはずはないと自身を叱咤激励してみたところで現実はつめたく、にがく、途方にくれたと彼は後に私に言った。
 泣き言を言うにも相手もおらず、頭で考えても仕方がない、体で覚えるよりないのだと仕様なく振り上げては振り下ろす、賽の河原のいしつみのごとき行為を仕草を繰り返し、繰り返し、繰り返すうちに三年が経った。
 だがどうだ、最初のころよりはずいぶん上達したろうと会うたびに彼は言う。
 農夫の手になってきたなと自戒するつもりが、どこか嬉しそうに呟く彼の姿を知っている。きっと奪うことよりも育てることのほうが好きなのだ。

 その、随分と上達したはずの畑起しを半日ほど黙然と続けてふと手を休め、見上げた空は目がつぶれるほどまぶしく、白かった。
 ともなった馬はすこしはなれた幅広の畷あたりでのんびりと草を食んでいる。
 顔を上げたのはいい加減に腰が背筋が凝り固まってきたからでもあったけれど、それよりもなにかが男の癇に障ったからだ。神経を逆なでするような、危機感知と言うにはあまりにも剣呑な「なにか」。
 馬の様子が気に障ったわけではない。では。
 そのときぴくりと年老いた馬の耳が大気のなにかを聞きつけ、ゆれたことに彼は気がついた。
 まぶしかったのでしかめ面のまま周囲を見渡し、少女が走ってくるのを見止めた。コロカント。森の中へ山草をとりに出ていた彼の主である。
 だがおかしい。駆けかたが、少女にとってなにか楽しい発見をしたときのそれではなく、まろびゆらいだ逼迫したものだということに気が付いて、男のほころびかけた頬はたちまち引き締まった。
「レヴ……!」
 彼をみとめて少女が短く叫び、同時に彼女の背後に群れになって疾駆する猟犬の姿を男は見た。
 群れは、彼女を獲物としていたのだ。
 ざっと頭から冷水を浴びせられたように血の気が引き、けれど長年の経験と言うものが判断力を失わせない。まだ距離はある、瞬時に手にした農具を構えラルヴァンダードはまろぶ主の姿に向かって大またで差を詰めた。
 もぎとるように腕を伸ばし掴んだ体を引きよせる。彼女の体がどんとおのれにぶつかる感触で実に入る。まにあった。安堵する間もなくたちまち数頭の殺気に彼は囲まれる。
「レヴ」
 湯気のたつ熱い呼気をまき散らし、散開した一頭一頭に油断なくみがまえながら、姫、とラルヴァンダードは低く少女を呼んだ。
「はい」
「土に伏せて頭を低くして」
「はい」
「目を覆っていなさい。すぐ終わらせます」
「はい」
 震える声で返事をしコロカントは男の指図に従った。あいまに土を蹴って飛びかかった一頭を男は鍬の柄で掬い上げるように突き飛ばす。極限まで興奮し、血に狂った猟犬らは大人しく引く気はなさそうだ。
 傷めつける程度で諦めてくれるとよかったのだが。
 いたしかたなしと男は両手で柄を握りなおし、あらためて群れと対峙した。


 襲いかかった最初の二頭を打ち殺すと、群れの勢いが鳴りを潜めたことに気がついた。最初のものがリーダー格だったのかもしれない。迷う様子を見せている。唸る様子は見せているものの、今すぐどう、と言うわけでもなさそうだ。
 ラルヴァンダードとしてはできれば無駄な殺生はしたくなかったし、農具が傷むことも気になる。なにしろ人間の在来から隔離されたここでは、修理するにもものがなくてひと苦労するからだ。
 だらりと腕を下ろしてやるとそれが合図になったか、間断なく唸りをあげていた猟犬らはじりじりと包囲の輪を広げ、一頭が背を向けるとやがてそれにつづいて残りのものも逃げ出した。
 喧騒がさり静まりかえる。にぎやかだったはずの森の和らいだ気配は飛び散ってしまっていた。
 残されたのはうちすえたふたつのむくろと、彼と、彼の主だけだ。
「……レヴ」
「終わりましたよ」
 不安いっぱいの声色で尋ねるコロカントを早く安心させたかった。できるだけ息を整え静かな声で男はこたえる。
「もう目を開けても」
 よいのでしょうか。
「どうぞ」
「……まあ」
 おそるおそるといった風で、まなこをひらいたコロカントがだらりと舌を出し昏倒した二頭を見て目を見張る。しまったな。男は内心舌打ちする。目をつぶらせたまま犬は片づけるべきだった。
 お怪我はありませんかと自身のからだで死骸をかくすようにして男はコロカントにたずねた。たずねた彼女はどこか上の空だ。
「わたしよりも、レヴが」
「私が?」
「血が出ています」
「――ああ」
 腕を示されて目をやると、剝きだした牙にでも引っかけたものか一筋血がにじんでいた。どうということはない。軽く脇でぬぐって、かすっただけですよと笑って見せたが、彼女の表情は晴れない。
 そうして、立ちあがろうとしてがくんと膝とてのひらを地に着けたコロカントをラルヴァンダードはあわてて掬い上げた。さきほどの頭から冷水をあびたような感覚が一気によみがえる。やはり気がついていないだけでどこか負傷したのか、噛まれたかそれとも傷めでもしたかと、つかんだ彼女の体は小刻みにふるえていた。
 ――ああ。
 彼は理解する。
「姫」
 こわかったのだ。
 名を呼んで懐に抱きしめてやった。よく見ればこぶしまで血の気がひいていた。
 無理もない。森の中で獰猛な生き物にかこまれかけた恐怖、間髪先に察知し走りはじめた背後からつづく荒い息、獣特有のにおい、己の鈍すぎる速度、うわまわって余りある彼らの殺意。
 むしろよく気付いたものだとよく逃げ切れたものだと、あらためて思い返してみればそちらのほうがよりおそろしい。あと数歩で彼女は襤褸切れになっていた。
 それに気がつくとラルヴァンダードさえも胸が塞がれたように急に息苦しくなる。つい先に訪れたかもしれない喪失感、絶望感、
「……レヴ」
 知らないうちに抱きしめる腕に力がこもってしまったものらしい。苦しいですと身もがかれて我にかえりようやく力をゆるめた。
 彼女を失ってしまったとしたら。
 ゆるめたもののそれでも放す気にはなれなくて、動悸がおさまりさらにはいい加減に飽きるまで、男はしばらく少女を抱きしめたままじっと膝を着いていた。

「いきなりおそってきたんです」
 四半時もしてようやく落ち着きを見せた少女が、腕の中で呟いた。
「どうして、」
「……もとは猟犬であったようですね」
 感付いていた。
 野良犬にしては妙に統制のとれた動きであったし、なにより首の周りの毛が短い。これは首輪の痕だ。
「主がいたのですか……」
「捨てられたようですが」
 いや捨てて行ったの間違いだなと男は心の中で訂正する。よく訓練された猟犬を、群れで野放しにする。考えるととんでもない話だった。
 まず、猟犬と言うものは名の通り、猟を行うときに人間の勢子の代わりに獲物を茂みからおいたてる役割をになう。逃げるものを追う性質というものは元来獣がもっているものでもあるが、狩りをする場合、主体は犬ではなく人間にある。獲物を食っては困るのだ。主である人間の言うことを聞くように長年かけて訓練する。手間がかかる。
 手間をかけるということは、それだけ金がかかるということだったし、そうして猟犬として優秀なものは必然的に貴種になった。これは一種の金持ちの道楽である。
 糧を得るために山に入る猟師とは違った。
 道楽であったから、犬の性格も多分に変質させられて、大人しいものよりは過激なもの、小さなものよりは大きなもの、素直なものよりは獰猛なものがより好まれた。闘犬の一種だったともいえる。
 その狂気に研ぎ澄まされた犬を野に放つ。
 それは、主以外の人間を獲物としてみなす群れが放たれたということである。
「……捨てられたのですか」
 聞いたコロカントが犬の側にしゃがみ込み、白目を剝いて見開いたままだった獣の目を閉じさせてやってその頭を撫ぜた。悲しい顔をしている。
「ひどいことを」
「姫」
 人間の肉に味を占めた獣は放逐しておけない。それは彼女も判っているのだろう。ただ理屈でわかることと感情は別のものだ。
 割れた獣の額からしとしとと粘着質な血液が滑り落ち、畑の黒土に吸い込まれていった。
 埋めてやりましょうと男は言っていた。え、とふり返る少女に、
「こうして表に出しておくのもいけない」
 示すと頷く。
 森深くにそうそう足を踏み入れる物好きはいないとは思ったが、憂いはすこしでも取り除いておきたかった。武技をならった人間であれば、むくろを見て、しとめた相手のおおかたの技量を計ることができてしまう。人の住む形跡を隠すことはできなくても、せめて炭焼きの男であるとかひと嫌いで隠棲した農夫と思われたいものだ。
 彼女が頷いたと同時に立ちあがったラルヴァンダードは、動かなくなったむくろの首根をつかみ森の方へ歩き出す。
 主を失った。
 けものと人間の違いはあれど、その言葉は男のこころもちのどこかをちくりと刺した。哀れだと思う以上に感情が移入するのはなぜだろう。
 どこか大樹の根元にでも埋めてやろうと思った。


 人目のなるべくとまらなさそうな場所へラルヴァンダードは穴を掘り、こと切れた二頭の死骸をほうりこんで土をかぶせる。はたで眺めていたコロカントがあたりで摘んできたものか、盛った土饅頭の上に野花をちらして手をあわせた。どうか、とちいさく唱える祈りの声。
 どうかもう苦しまぬよう。
 膝をおり祈るすがたを後ろで眺めていたラルヴァンダードは、ふと森のさえずりが相変わらずとだえたままであることに気がつき片眉をあげた。群れがさってからずいぶんと経っている。そろそろ鳥や虫が警戒をといてまたにぎやかに歌いだしてもおかしくない頃合いなのだが、
「姫」
 小さな背中に声をかけるとはい、といらえてふり向いた黒スグリの視線とかち合った。そのからだを先刻と同じように引きよせて、
「レヴ?」
「し、」
 静かにと男はささやく。腕のなかで彼女が息をのんだのがわかった。目を丸くし男と同じようにあたりをうかがう仕草になる。群れがまだどこかに潜んでいるものか、それとも別のものが。鼓動がこめかみを打って煩わしいほどだ。
 ふうふうと荒い鼻息がすこし離れた場所からしたので、ひやとしながら音の方向をふり返ると、人間が大小ふたりうずくまって何をしていると思ったものか、それとも別の意図があったか、年老いた馬が彼らの後を追い畑からやって来るのが見えた。ぷうんと静けさの中に羽音をひびかせ仕事に余念のない蜂が横切り、それを皮切りにどこか向こうの方でようやく河鹿が鳴いた。つられてさえずりが始まる。聞いてほうと肩の力を抜き嘆息しかけたコロカントを腕に寄せたまま、そこだ、と
「うわッ」
 農具をもちかえ手にした石つぶてを、ラルヴァンダードは茂みに向かって的確に投げつけた。押し殺した悲鳴が上がり、腕のなかの彼女がふたたび強張る。大丈夫ですよと半ば己に言い聞かせながら、葉擦れする茂みを睨みつけ、
「ハナ」
 その硬直する彼らの脇を後ろから寄ってきた馬が通りゆき、真っ直ぐに茂みへ向かう。
「ハナ!」
「姫」
 警戒もせずに揺れる低木のあいだに馬は鼻づらを突っ込み、制止するコロカントと思わず立ち上がった彼女の体を引きよせ戻しかけるラルヴァンダードの前に、くわえた「なにか」を持ち上げぶらさげたまましめしてみせた。
「は……なせ、よッ」
「あ――」
「……子供?」
 首根っこを食まれ、宙にぶらんとつられた体が暴れる。思わず、先ほどの動かなくなった犬の死骸もそう言えば首根を掴んではこんだのだったなとどうでもよいことを思い返しながら、ラルヴァンダードは目の前に唐突にあらわれた侵入者を鋭く分析していた。
 年のころは十になるか、鼻筋のすっと通ったよい容姿をしている。髪は短くまとめた黒。肌も白く北方の国に籍を置くものだろうと見当をつけ、ラルヴァンダードは眉をひそめた。ここは北の領地からはかなり離れた場所にある、大人であるならばなるほど納得もしようが、子供がひとりどうして、
「……何者だ」
 押さえた低い声がでた。
 油断なく鍬の柄をにぎり、返答次第では野犬とおなじあつかいをも厭わないと殺気を漂わせるところに、傍からそっと制する手がある。
 レヴ、とその手の持ち主はちいさく男を呼んだ。いけませんよと言う。
「……おれを、殺すのかい」
 ぽんと馬になげだされた地面から射抜く眼光でこちらを眺め、声変わりをまだ迎えないおさない声で、少年はそうしてラルヴァンダードに尋ねた。
 咄嗟に応えられる問いではない。

                *

 少年はラルヴァンダードの推察した通り北の国の出だと言った。塔へ伴いかえり、男が詰問する間もなく己から口を割る。拍子抜けた。
「……えらく寒いだけの、ちっぽけで貧乏な国でね。ほこれるものが何もないから、親父はガキだけはたくさん成してあちらこちらに人身御供さ。おれはその二十四番目なんだ」
 ハブレストにおしつけられた態のいい人質なのさ。年に見合わない歪んだ笑みを少年は浮かべる。軟禁された田舎の所領地から、ゆきたくもない狩猟に同伴させられ、森の奥で一個隊とはぐれたのだと言った。
「この、近くでか」
「いや。ずいぶんはなれた場所だとは思うよ。確証はないけど、二日ほど歩き詰めたし」
「二日」
 ハブレストの一軍が迫ったかと緊迫した声で問うた男に少年が首をふってこたえる。言葉の中の日数に反応して、脇でおとなしく二人のやり取りを聞いていたコロカントがまあ、と驚きの声をあげた。
「森の中を二日、さまよったのですか」
「そうさな。二日……三日だったかもしれねぇ」
「……飲まず食わずでか」
「さすがにそれは倒れらぁ」
 苦笑して少年はかぶりをふる。
「川沿いを離れないようにずっと歩いてたから水はあったし……そこいらで見つけた木の実とか。……あとスグリとかさ、」
「――どうぞ」
 苦笑した少年の横からおずおずとけれどはっきりとした意思をもって切り分けられたパンが差しだされ、え。少年が目を剝く。意外だったのだろう。
「……いいのか?」
 差しだしたコロカントではなく、ラルヴァンダードにむけて彼はたずねた。
「……俺に聞くな」
 頭を抱えたい気持ちになって男はこたえる。ぜんたいこの迷子をどうしたものか、答えが先ほどからでなくて困るのだ。額をおさえた男を見つつ、少年は少女の差しだしたパンを受けとりひとくちはためらいがちに、次からはがつがつとむさぼりはじめた。腹が減っていたのだろう。その食いぶりはただの子供だ。むさぼる勢いに目を見張り、それでもコロカントがあわてて追加のパンをとりにいった。

「……戻りたいか」
 ハブレストに。

 しばらくして食い気が落ちついたと見て、ラルヴァンダードがあたためたやぎの乳をすする少年に尋ねる。
「帰りたいと言ってあんたは帰してくれるのかな」
 茂みからほうりだされたときの下からすくいあげるように問う鋭い視線になって少年は言った。
「それともおれを殺すかい」
 彼は最初にそうもいったはずだ。殺す。おだやかでない言葉のはずなのにまったく気おくれしていない。口ほどに覚悟があるわけでもないのかとラルヴァンダードが少年をうかがうと、冷めた視線の中に諦観がよぎる。ああ、判っているのだ。
 無理もない。
 そう思った。
 生まれたときからの他国暮らしで自由というもののほとんどない生活。どころか常におのれのいのちは薄氷を踏んでいるのと同じことだ。本国の対応いかんで簡単に首がとぶ。あやではなくて文字通りの斬首だ。
 どうしてそう思うと男はたずねていた。返答次第で待遇を決めるつもりだ。
「具合が、悪いんだろ」
「具合」
「あんたらがここで暮らしているってことを、おれが話すからさ」
「話すか」
「……どうかな」
 はなす、ともはなさぬ、とも明言せずに少年は首をかしげ、こちらを試すような目つきをした。こうしたやりとりになれているのだ。
 それはとても惨めなことだとラルヴァンダードはふと思う。
「物騒な話だな」
 おなじように話を誤魔化して肩をすくめる男の袖がくいとひかれる。脇を見おろした。思案深げな顔をしてコロカントがこちらを見つめている。
 レヴ、と彼女が呼ぶ。
「はい」
「帰してさしあげませんか」
 彼女の言葉を耳にした少年が驚きのいろをさっと浮かべたのを、男は視界のはしで感じとる。それを見てこの子供は口先以上に帰れることを信じていないのだなと気がつく。哀れに思う。ひねくれる性格になることも人をしんじることのできぬ性格になることも、生まれと育ちを思えばしかたがないのだろうけれど、
「……ガキは簡単に口を割るぜ」
 ためす口調で少年が嘯く。信じるだけ無駄だと。
「森で迷って凍え死ぬのも、そのあたりでアタマかち割って死ぬのも、結果だけ見りゃたいした違いはないだろうに」
「帰りたいのでしょう」
「おれは、べつにハブレストなんて」
「――ハブレストではなくて。あなたの生まれた家にです」
 おかわりはいかがですかとやぎの乳のはいったカラフェをかかえてコロカントが続ける。少年が狼狽する様子が見てとれた。
「家に帰りたいのでしょう。むずかしいことはよくわかりませんが」
 でも帰りたい気持ちはわたしにもすこしはわかりますと、彼女は言った。かかえた容器を机に置いて、強張った少年の手を両手でつつむ。ラルヴァンダードとくらべると、ひとまわりはちいさな少年の手よりもなおちいさいそのてのひら。
「わたしもきっと、ここをはなれて知らないひとしかいない、まったく別の場所につれてゆかれたら、帰りたいと思うにちがいないです」
 彼女にとってはここが「家」か。聞いて男はすこし複雑な思いに駆られた。苦い笑いが浮かぶ。
 覚えていないこととはいえ、彼女の戻るべき場所は今は亡きシビラと信じて男も、ほかの人間もその場所をとりもどそうと躍起になっているけれど。
 あなたが戻りたい場所はここか。
「……おれは」
 コロカントの言葉を受けてじっと考えていた少年は、やがてハブレストに忠義だてる理由はたしかにないなとぽつと呟いた。それを聞いてしようのない、とラルヴァンダードは溜息を吐く。少々骨が折れるが、少年に森の半ばまで伴ってやらねばならないようだ。
 戻すことが主の意思ならば従うのが飼い犬の役目である。
 少女にとっての戻るべき場所がどこかという問題は、ひとまず棚上げしておくことにした。

 ハブレストへ戻すと決めたのならば、より早くが良い。可能性としてはほとんど無にひとしいが、万一彼の国から森の中へ捜索隊でもだされると厄介だ。
 陽の高いうちにと数日分の日持ちのする食料と防寒具ををたずさえ、ラルヴァンダードは少年とともに塔を発つ。見送りに出たコロカントが、やくそく、そう言って右小指を少年へ差し出した。出会ってから一等に少年がうろたえたのが見えた。
 彼女と、差しだされた小指をじゅんぐりにながめ、おずおずと少年が自身の指をたてる。
「おれが、約束を守ると」
「守ります」
 瞬間に皮肉った彼の言葉を中途でさえぎって、きっぱりとコロカントが言い切った。守ってくださいますとまったく疑いのない目で見つめられ、ますます少年が面食らうのがわかる。少年が信じることを知らないそだちであったように、少女もまた疑うことを知らないそだちだったからだ。これはまったく異種の交流だなと眺めていたラルヴァンダードは思った。
 それともすこしはひとを疑う心も教えたほうが良いか。
「どこに、おれが守るって確証があるんだよ」
 強引に指切りをさせられながら少年がうつむき言った。ばかじゃないのか。
「愚かでしょうか」
 目を見開き首をかしげて、どこか泣きそうになり彼女はこたえる。
「でもわたしはあなたを信じたいです」
「……」
「あなたが約束してくださると信じます」
「……」
 やってらんねぇな。吐き棄て顔を背けた少年のほほが、わずかに赤くなったことも男は見てみないふりをすることにした。

 そうして住まいをあとにし、半日ほど歩き続けてとっぷりと日が暮れる。
 森の獣をよせないために火を熾し、たき火をはさんで自然向かいあわせたラルヴァンダードと少年は、言葉少なにもそもそとパンとチーズだけの軽い夕食をとった。
 食べてしまうとあとには何もない。これが彼の主であるなら、彼は主を膝にのせいくつか寝ものがたりでもかたって聞かせたろうが、あいにく目の前にいるのは別の人間だ。他にふりまくほどの愛想の良さをラルヴァンダードは持ちあわせていない。
「明日は早くから歩き通す」
 だから十分に休めと不寝番をかってでた男に少年は頷いて、毛布にくるまり地面にからだを横たえた。背を向けていたので少年の表情はこちらからは伺えず、ただときおりばちと爆ぜる焚火に拾い集めた枝をくべながら、しんとしながらもあちこちから聞こえる森の息遣いを男は聞いていた。
 だから、どのくらいあとに少年が口を開いたのか判らない。
「……シビラの遺児がどこかに生きのびているって言う噂があったよな」
「――」
 正直、少年はもう寝ているものとばかり思っていたので、とっさに答えあぐねて男は無言で剣を引きよせる。殺るか、と剣呑な思いがきざした。ただ森のなかで幼い娘と出会ったことと、シビラの生き残りである人間とであったこととでは、話がずいぶん変わる。
 感付くのも無理はないのだがなと男は嘆息した。なにしろハブレストにも旧シビラにも、コロカントと同じ年頃の子供は存在しえなかったからだ。
 隠れて住まうということは何か理由があるはずで、ただの村の子供であるならまだしも権謀のただなかに生まれたときより浸かっている少年が気がつかないはずだと信じることのほうにこそ、無理があるといえばあったのだ。
 握った柄にわずかに力がこもる。
「ずっと、ここにいるのか」
「……おまえには、関係のない話だ」
 低く返す。
「そうか」
 ずっとここにいるのか。
 くりかえした少年の声があまりに暗くて、ラルヴァンダードは眉をしかめた。だから勘の良い人間は苦手なのだと思う。そもそもコロカントから、少年をハブレストへ返してほしいと頼まれてからも迷う気持ちがあったことは事実だ。半日歩きながら考えた。こたえは出なかった。
 主の意思は尊重したい。それは彼の意思でもある。しかし彼女の意思よりも男がなお優先することは、その身の安全である。
 少年を生かしておくことで、のちのち禍根がのこらないか。無事は保障されているか。
 迷った少年が気の毒であるかどうかとはべつの次元の話だ。
 であったから殺るか、と瞬間考えたのである。
「おれの、半分くらいしかないのにな」
 みのたけも、年も。からだに不釣り合いな背負わされる期待の重さというものを少年はたしかに知っていると言った。
「あの子をたててシビラをとりもどすのか」
「おまえには、関係のない話だ」
 また素っ気ない声がでた。そこまで感付いているのなら仕方がない。少々気の毒に思いはするが、やはりここで死んでもらう方がわざわいの種はないようだ。よしと決め、たき火の向こう側、男に背を向ける少年との距離をはかりはじめたその彼の耳に、
「おれはいつか、おれの国へ帰るよ」
 不意打ちの言葉が飛びこんで一瞬男の動きがとまった。え、という戸惑いとどういうことだという問いが口を衝いてでる。
「いまは無理かもしれないけどな。でもいつか、おれは帰るよ。戻されるのでなく、大手をふっておれの国へ」
 背を向けているので顔は見えない。しかしそれまでのうつろげにみちた覇気のない声音ではなくて、ひとくぎりずつきっぱりと言い切る彼の言葉に、ラルヴァンダードは切望を見た。
「帰って、どうする」
 思わずたずねていた。二十三人が少年のかしらにいて、
「おれの国は決してシビラをおびやかさない」
「――」
 どうして頂上に立てると思うのだ。しかし矛盾だと理解しつつもラルヴァンダードは、この少年ならばやりかねないなと納得している自分にも気がついていた。理屈ではない。強いて言うなら戦場の勘というものかもしれない。
 そうか、と静かにこたえた。次いで力のこもっていた剣の柄から指をひきはがす。明日は早いぞともう一度短く告げると、そこではじめて少年はこちらをふり返り目を丸くして男をながめた。
「殺されると思ってた」
 ……そのつもりではあったのだが。
 口に出すほどお人好しでもない。かわりに肩をすくめてさっさと寝ろと言った。気がかわった、ただそれだけのことだ。
 物言いたげにこちらをながめていた少年は、しかし男にいらえる気がないと見てとってまた背を向け今度は穏やかな呼気に肩を上下させはじめる。つい今しがた殺気を放っていた人間の前で寝てしまえるというのも、かんがえてみると豪気な話だ。二十三人の兄姉は難儀だなと見たこともない彼らに若干同情した。
 そうして、また爆ぜる炎へ目を戻す。
 穏やかな河鹿の合唱を聞きながら、馬とやぎとにわとりとともに留守居をしているだろう主の顔を思う。暖炉の火も落とし、今ごろはわら布団のなかで寝息をたてているだろうか。できればこわい夢を見ずに一晩安らかなることをと男はねがう。
 傍らにいない今は夢の中で泣いていても助けにゆけないから。
 そこまで考えてがらにもない、汗のにじんだ額を無造作に腕で拭ってラルヴァンダードは苦笑した。


(20120505)
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最終更新:2012年05月05日 10:15